はっちさんから、韓国の体罰についてのコメントをいただきまして、
(私もあの映像を見ました。氷山の一角だと思います。)
ついつい、体罰について、考えを言いたくなりました。
日本にも根強く、体罰は、必要だ。
ムチを使わない親は、子どもを見捨てるも同然なんだ、
という考えがあります。
私は、シツケも大嫌いです。
日本のシツケは、調教と同じです。
体で覚えさせるのです。
どんなに小さな子でも、やる気がなければ
シツケを身につけられません。
そのマナーの必要を心から納得させ、
自ら努力するようにし向けるのが、教育で、
日本の「シツケ」は、教育放棄です。
聖書にも、体罰を認める記述がありますね。
だから、教会学校でも、ビシバシされるところも結構あります。
実は、私は学生時代、クリスチャンでした。
いろいろあって、教会を離れているのですが、
その決定的な瞬間は、
子どもへの指導の仕方が、私には到底受け入れられないものだったからです。
後から調べれば、いろんな教会があり、
ヤンキーも気軽に入れる教会も、ずいぶんあるようで、
牧師さんの考えひとつってところもあるようですが。
先のコメントの返信にも、書きましたが、
私は、体罰そのものをウンヌン、手を出すこと自体を
とやかく言いたいんじゃありません。
これを、サッカーの、ハンドみたいに、ルールにしちゃっては意味がありません。
ボクシングで、キックを使わないように、
教師は、手を出さない、なんてルールはナンセンスです。
そうじゃなくて、教育という仕事をどう思っているか、ということです。
大きく言って、教育には、二つの側面があるように思われます。
一つは、
「私たちひとりひとりの、生きる喜びを拡大する」
「人間が人間として、人間らしく生きる喜びを拡大する」
仕事という側面です。
もう一つは、
「体制に順応する人間を作る」
という側面です。
多くの先生は、心では、一番目の「生きる喜び」のために
教えているのだと思っていることでしょう。
「私は、学力を高めるために教えているのであって、
体制に順応させようと、努力しているのではない」
とおっしゃるでしょう。
しかし、冷静に見て、国が提供する学校というシステムは、
体制維持の方が前提になっていることは、言い逃れしようがないことです。
個人個人の先生にしても、
学校やクラスの秩序と、一人の生徒の生きる喜びを
天秤にかけたら、どっちを取りますか?
その一人の生徒のために、仕事が、煩雑になり、
例外をいっぱい作らなくてはならなくなり、
ひいては、上からの覚えもめでたくなくなり、
自分の立場さえ危ういとき。
先生個人の倫理とは関係なく、
組織としては、体制維持を優先してしまいます。
さらに、これは、こうも比較できると思います。
「子どもの学ぶ喜び」と
「教えるべき内容」の
どっちを優先しますか?
という問いです。
子どもの学ぶ喜びを優先させていれば、
子どもの半数がわからない、と言っている授業を
続けていけるはずがありません。
体制が教えることにしていることに、
子どもたちを順応させることを優先しているわけです。
ここで、一般の先生の弱みにつけ込んで、
悪口を言うつもりはありません。
先生も生活をかけた労働者です。
体制から与えられた仕事をこなすから、
給料をいただいているのです。
銃をもつ兵士を非難してもはじまりません。
で、韓国にしても、日本にしても、中国にしても、
公教育というものが、体制への順応という優先があるかぎり
体罰や、それに匹敵する「シツケ」は、なくならないでしょう。
先輩から後輩へのイジメ、体罰も。
暴力を使わない、体罰もいっぱいあります。
これを無くすには、教育は、公的なものだという常識を覆して、
教育は私的なものに、戻さなければならない、と思います。
来客です。ここで、一応切ります。
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