これは、科学寅の偏った考えですから、
あまり目くじら立てずに、面白がって聞いていただければ幸いです。
私は、現状の小中学校の夏休みの宿題は、多すぎるし、
その出し方も、改善の余地がいっぱいあると思っています。
もちろん、宿題を出さなければ、
子どもたちは、学習しないだろう、という予測があります。
たしかに、ほとんどの子は、遊んで机に向かわないでしょう。
かろうじて、宿題をするためだけに、机でペンを持つ子が
圧倒的に多いと思われます。
しかし、ですよ、子どもに学習動機を持たせることが、
教育の第一の本分だと考えれば、
何の意義も動機も、持たせずに、
仕方なく、課題になっているからする宿題の数々。
これは、子どもの学習に対する嫌悪感を増すだけじゃないでしょうか?
それに、一人、一人、学習上の課題は違うのです。
それを、一律に、アップアップするくらい出すことは、
特に、基礎力がついていない子どもにとって、
本当は、前年の復讐を徹底的にすべきところを
宿題のために、良く理解もできないのに、
無理やり、表面的な格好をつける作業に時間の大半を取られるのです。
私は、授業についていけていない子の家庭教師をして、
つくづく宿題が恨めしいのです。
だから、宿題は、ほとんど、科学寅さんが、書いてやってる場合もあります。
君はこの大切な夏休みに、君が本当に必要な力をつけることに
全力を傾けてくれればいいよ、と言っています。
でも、こういう反論もあるでしょう。
宿題は、ドリルやワークだけじゃない。
調査研究や、レポート、弁論文、読書感想文、
絵画やポスター、工作など。
いろんな体験をいっぱいさせるために、宿題をいっぱい出しているんだ、と。
私は、ある意味、常識となっている
「子どもにいっぱい体験をさせることは、良いことだ。」
という命題にも、あえて疑問をもっています。
どうしても、科学の発展の歴史から観た疑問ですが、
いっぱい体験し、いっぱい基礎データを持った人が、
科学的な法則を発見しているでしょうか?
答えは、あきらかに、否です。
よくデータがいっぱい集まると、良い科学ができる
良い報告ができる、と誤解している人がいますが、
実際は、データが多すぎると、法則を発見しずらくなるものです。
法則の発見は、データ数がポイントでは無しに、
いかに鋭い仮説を立てられるか、にかかっています。
人間は、目的意識的に見なければ、認識ができないのです。
データを漫然と集めてしまうと、問題意識をもつことが困難になります。
いろんな種類の事実に出会ってしまうと、
有効な「くくり」がしづらくなり、概念化もできなくなるのです。
欧米では、牛が身近にいっぱいありすぎるために、
「牛」という単語がありません。
ox と cow です。「牛」ではないのです。
それぞれ、違うじゃないか、ってなるのです。
古代ギリシャやそれを引き継いだ、欧米で科学が発達しましたが、
中国はじめ、他の地域でも、観察やデータ収集は、いっぱいなされました。
しかし、科学として発展しませんでした。
これは、やっぱり、仮説力、そして、その検証をすすめる風土によるのです。
実際に検証し、それを確かめる気風です。
最初は、的外れでも、とにかく仮説を立ててから、
物事を見なければならないのです。
それでこそ、間違いに気づけるのです。
夏休みの宿題には、「あれもした」 「これもした」
と羅列させるものばかりです。
もし、目的意識的に、課題に取り組ませることが成功したなら、
そのやり方は、自由にしても、成果はかえって高くなります。
つまり、夏休みの成果は、休みに入る前の
動機づけに、ほとんどかかっていると言えます。
しかし、主体的な目的をもって夏休みに臨んでいる子は
一体、何パーセントでしょうか?
それも、単に成績を良くしたいというものでしょう。
私は、子どもにやる気を湧かせずに、
ただ、これをやってきなさいと言わざるを得ない先生は、
(私も含めてですが)
教師として、敗北に打ちひしがれて当然だと思うのです。
ところが、そういう先生ばかりではないようです。
得意になって、生徒をふるいにかける材料にしている
情けない教師もいるようです。
繰り返しますが、目的意識や動機っていうのこそ、
自然発生的に生徒の中に生まれるものではありません。
もし、そうなら、データ収集量が圧倒的に多い
中国でこそ、近代科学が花開いたはずです。
欧米でも、ルネッサンスの前には、その芽が出ませんでした。
ギリシャ文化に接して、はじめて、一気に盛り上がったのです。
ここに、教育の意義や必要性があると思います。
問題設定、設問の仕方を教えられる必要があるのです。
子どもが「素直に」自然を観察すれば、
ひとりでにファーブル博士になるのではありません。
指導者が必要です。
ここに、知識が必要です。
つまり、面白くてタメになる切り口は
教えられなければならないんです。
ところが、そこを、「自由に」研究しなさい、と
突き放してしまっています。
逆だと思うのです。
以上、科学寅の限られた、窓からの見かたでした。
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