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(昨日より続く) この店の女主の故郷の出雲産の蕎麦粉を使用、だから例年新そばは11月の中旬、入り口の看板に見落としてしまいそうな小さな張り紙、「新そば始めました、新そばの醍醐味をどうぞ」、遠くからでもこの時期に小さな張り紙、新そばの張り紙だという見当がつく、ところが11月は得意先の春夏物の展示会のサンプルつくりに終われる月で、大阪の得意先へ行く時間が夕方か、朝一番に直行が多くなる、だからこの蕎麦屋さんで昼食をとる機会がなくなってしまう、新そばの張り紙が出てから、1ケ月目くらいに漸くという年もある、この張り紙が出てから数日後くらいに店に良くと、「今年は良いタイミングにこられましたね」、普段よりも一層の笑顔で、抜けたままの歯が良く目立つ、新そばの時期は蕎麦粉の弾力があって、蕎麦粉をこねている時が実に気持ちがよく、蕎麦打ちが楽しくてたまらないそうである、それが自然と顔の表情に表れるそうである、ここの蕎麦は色の濃い、茶色い蕎麦であり、元々香りが強いのだが、新そばともなるとより一層、蕎麦の香りが強く、風味が濃くなる、新そばの時期にはおろし割ごの大盛りを注文、赤い塗りの小さな器の5段重ね、1段目と5段目は蕎麦だけ、そのほかは蕎麦と大根おろしと葱とかつお節と海苔が乗っている、1段目と5段目は蕎麦だけにして、新そばの風味を楽しむためのオレの別注、新そばの張り紙を見て、早く新そばを食べたいと思うようになったのが、この店が切っ掛けであった。 昼食は1年間で360食くらいが麺類で、土・日・祝日出勤の時には、仕事場の近くに、京都でチェーン展開している蕎麦屋さんの蕎麦打ち道場、蕎麦好きが高じて、自分で蕎麦打って、それを食べたい、そのために蕎麦打ち道場へ、そこは同好の士の集まり、気の合うグループも出来て、すぐの蕎麦屋を始めたい人、将来定年退職後に蕎麦屋を始めたい、こういう人が数人集まり、蕎麦道場を主催の蕎麦屋の店主が、「店を始めるなら、全面的にバックアップ」、この力強い応援によって、蕎麦屋を開店、この店のことはフリーペーパーで読んだ事があって、しかも仕事場の近くにその店があった、カウンターに5席、店の奥に4人かけのテーブルが1つ、オレと同年代の男性が2人、少し若い女性が1人、恐らくこういうサービス業は始めての人ばかり、どこかぎこちないところもあって、1人がホール係り、1人が注文を聞いてから蕎麦をゆがく、その釜の前で蕎麦のゆがき係り、もう1人がてんぷらの揚げ係り、蕎麦は1日に10色限定の10割蕎麦と二八蕎麦の2種類、ここの蕎麦はソーメンよりも少し太い目くらいの極細の手打ち蕎麦で、蕎麦粉10割で薄く延ばさなければならない、その日の朝一番に10食分を打つのが限界らしい、極細蕎麦の為にゆがき時間はものすごく短い、約20秒弱である、ゆがきあがるや大量の氷を入れた氷水で、さっとゆすぐ、蕎麦汁は甘味のかった味で、極細の蕎麦に汁をたっぷり目に付ける、極細の蕎麦に甘い汁が合い、甘い汁に極細の蕎麦が合う、ごつごつした手打ち独特のコシは無理だが、喉越しの時に手打ち独特のコシが感じられて、オレ好みの蕎麦であった。 ここは二八蕎麦は福井産の蕎麦粉で、10割蕎麦は北海道産の蕎麦粉を使用、そのためのこの店では新そばが早く10月初めには店に新そばの張り紙である、北海道さんの早稲の蕎麦粉でためし打ちはしてみたが、香りと風味がもう一つで、もう暫く先になる様子、この店の楽しみは新そばと同時に辛味大根が入る、唐辛子系の辛さには弱いが、ワサビや大根の辛味は好きである、大根の辛味が舌をさし、鼻にツーンと抜ける、新そばの香りと風味、そして新そば独特の弾力性が喉越しに感じる、一口食べるごとに、プハァー、フハァ~、大盛りを食べるスピードがいつもよりも2割ほど早くなる、蕎麦湯を飲みながら、死ぬ時はその年の新そばを食ってからにしたい、そんな気持ちで店を出る、この店は午前11時から午後2時までは禁煙タイム、この店のオレの滞在時間は約15分、超ヘビースモーカーのオレでも、この店の禁煙タイムは大いに賛成である、この店の蕎麦の香りと、風味には、タバコの匂いは敵である。 だからいつもは店を出た途端にタバコに火をつける、ところがその年の最初に新そばを食べた日は、残っている新そばの香りと風味をもう少し楽しもうと、仕事場に戻って少ししてからタバコに火をつける事にしている、お彼岸近くなると、この店に行くたびに、新そばの張り紙が気にかかる。■「今日の言葉」■ 「 困難も苦労もない生活からは 人生を学ぶことはできない 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Sep 23, 2010
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家の近くをマウンテンバイクで走ると、10月9日(土)、10日(日)の西院春日神社の秋期祭の祭りの門びらが目立つようになってきて、その中に手打ち蕎麦屋さんに新そばの貼り紙、昨年の新そばの貼り紙がそのまま、はがし忘れかなと思ったのだが、サラの貼り紙の上に透明のナイロンで包んである、ぶり返した残暑で蒸し暑い中で、新そばの貼り紙、北海道の蕎麦粉かな、昔から秋になると蕎麦屋さんの新そばの貼り紙、毎年、目にしていたのだが、取り立てて気に留めることはなかった、オレの舌では新そば云々がわかららなかったというほうが正しいのかもしれない。 出町柳の京福電車の駅前、細い路地奥が手打ち蕎麦屋さん、いつもここを通る人でも見落としそうな店、入り口に焦げ茶色の移動式の店の看板が出ているだけ、オレもその店の存在を知ってから初めてその店に入るまで随分と時間がかかった、この手打ち蕎麦屋さんの入り口の東側の喫茶店は、自家焙煎の店で、苦くて、香りが豊富で、コクがあって、しかも飲んだ後口がさっぱりとしていて、永らく出勤前のモーニングコーヒーの店であった、商売へ行く時には大阪の堺町本町の船場センタービル内に得意先、阪急電車の河原町駅から淡路駅まで、そこで天下茶屋行きに乗り換えて、北浜まで、そこから地下鉄堺筋線に乗り換えて、1駅、堺筋本町駅まで、ところが京阪電車が三条駅から出町柳駅まで延長、会社の最寄り駅は京福電車の茶山駅、京福電車に乗って出町柳駅、そこで京阪電車に乗って北浜まで、これが大阪行きのルートになった、得意先へ行くといっても余程重要な用事のある時以外は、アポイントなどはしないで、「まいどおおきに」、と商談を始める、ところが世間で言うバブル期頃に採用された得意先の社員は、実に生意気にも、「商談がある時にはアポイントとってから来て下さい」、当時のオレから言わせるとそんな事を言うのは10年早い、と思っていたが、仕入れの上司も、「あんたのいわんとしている事はよく分かる、しかし、アポイントをとってから商談に来てやって欲しい」、オレはこういう風に事を分けて話をされると弱い、だからそれ以降は大阪へ商談に行く時にはアポイントをとるようになった、電話をかけて、「午後1時、よろしくお願いします」、とアポイントをとるようになった。 正午前に会社を出ると、丁度1時くらいの得意先へつく、ただ、オレは大して食べないくせに3度の食事はきちんとしないと気がすまないタチで、会社を30分ほど早く出て、この手打ち蕎麦屋さんで昼食をとるのが一番便利という事で、永らくその店の存在は知っていたのだがようやくその店へ行くことに、路地奥に暖簾が下がった店が、店の中は物凄く狭い、L字型のカウンターで席が5席、右の6人ほど座れる座敷、座敷といっても半分は物置、店に入るとぽっちゃりとした叔母さんが、妙に明るい、元気な声で、「おいでや~すゥ」、このおいでやすは京都弁とはイントネーションがどこか違う、店の左側が蕎麦打ち場、オレと同年代の眼鏡をかけた女主が、ニコッと笑って、「いらっしゃいませ」、蕎麦打ち中で、まつげに蕎麦粉がたまっていて、前歯が1本抜けていた、蕎麦茶とおしぼりとメニューが出てきて、メニューといっても大して品数はない、おろし蕎麦を頼もうとメニューを見ると、おろし洗いと、おろし割りごとしか書いていない、暫くためらっていると、洗いはザル蕎麦の事です、割りごは、小さい器3つに分けて入れています、と説明されて、おろし洗いを注文した、ぐらぐらと煮立つ釜に蕎麦を入れて、かき回して、約3分ほど、蕎麦を掬い上げて、氷水の中で、そばを冷やしながら、蕎麦粉を洗い落とす、茶色いやや太めの蕎麦、ザルではなくごつごつした陶器の器に、大根おろし、葱、鰹節、海苔がのせられている、まず蕎麦だけを蕎麦汁につける、昆布のよく効いた出汁で、蕎麦は腰が強く、蕎麦の香りが強い、先ほどのオネーさんに、「ワサビがないのだけど?」、「うちのお蕎麦は、こういうように茶色いお蕎麦で、香りが強いために、ワサビはお蕎麦の香りと喧嘩するので、自家製の一味が薬味です、お蕎麦に振りかけても、蕎麦汁に入れても、お好きなように」、蕎麦汁に入れることにした、コシの強さと、そばの風味、蕎麦だけを3口ほど食べた時に、オネーさんが、「器の中でお蕎麦と、大根おろし、葱、鰹節、海苔を混ぜ合わせてから蕎麦汁につけられたら美味しいですよ」、言われたままの食べ方をした、そばに取り付かれたのはこの店での、この時だったように思う。(明日に続く) ■「今日の言葉」■ 「 夫婦円満は互いのはたらきを 感謝し合うことから生まれる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Sep 22, 2010
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3日前、午後から出かようと、マウンテンバイクに乗ろうとすると、前輪がぺしゃんこ、パンク、家の近くの自転車屋さんへ持ち込むと、45分ほど時間がかかりますが、パンクなら修理なら300円、チューブ交換なら1、800円、「いいですよ」、と答えたのだが嫌な予感、ここ10年くらいの間で道で釘などを踏んでパンクした事はないのだが、チューブのバルブ近辺のひび割れで、チューブ交換はたびたび、これはオレの横着な性格ゆえに、少々空気が少なくなっていても、近距離で、空気が少なくなっているといっても少しだけ、まあ、良いだろうとそのまま乗って出た後、次に乗ろうとすると完全なパンク状態、そしてチューブ交換、待ち時間が45分ともなると、7、80メートル南のところの以前よく行っていた喫茶店、ここで時間つぶしでもしようといくと、ここへ行く時には殆んどマウンテンバイクに乗っている、店の軒下において、鍵をかけているところが店の中からマスターに見える、先に水とおしぼりをテーブルにおいておき、「いらっしゃいませ、どうぞ」、という事になるのだが、2ケ月ほど前にここへ来た時もパンクの修理中の時で、歩いてきて店の中へ、するとマスターが、「また、パンク?」、「そう」、「よくパンクするね」、「パンクというよりも、チューブがいかれるの」、「チューブなんて長い間換えていないよ、チューブが悪いんじゃないの」、「そんなことはないやろう」、といったものの、ここ数年、年に1、2度チューブ交換をしている、「それは多すぎるよ」、とそんなやり取りをしていた。 45分ほどそこで時間つぶしをしてから自転車さんへ戻ると、「チューブのバルブの傍のゴムがひび割れをしていて、チューブ交換をしておきました」、「前のホイールはベアリングが磨り減って、今年の初めに、ここで交換したんやけど」、「多分こまめに空気を入れないと、空気の減った状態で乗ると、チューブのこの部分がいかれます」、こういわれると思い当たるフシもある、「出かける前に空気をチェックして、空気が減っているようなら、店に来て、外においてある機械の空気入れで空気を入れてから出かけてください」、「ありがとう、そうさせてもらうわ」、とその日の出かける目的は、阪急西院駅の傍のセルフサービスのカフェ、アイス珈琲が280円と安く、広く、席がユッタリとしていて、クーラーも良く効いていて、しかも午後の3時頃には空いている、1時間半ほどここで、浅田治郎の、「終わらざる夏(上・下)」、を読んでいて、夏場のちょっとした読書室代わりである、いつも買うのは文庫本ばかりであるが、これは新刊のハードカバーである、文庫本は仕事の時にリュックに入れて、2往復のバスの中と仕事が一段落した時に読んで、約2日に1冊のペースで読んでいるが、ハードカバーの本はリュックには入らないので、ここのカフェで読んでいて、上が読み終わり、下を読んでいるところ、「終わらざる夏」、ではなくて、「夏が終わってしまう」、少々あせってきているところで、その日もそこのカフェに行って、アールグレイのアイステーを注文して、水と灰皿を自分で持ってテーブルについて、アイステーを飲み、タバコを吸いながら本の続きを読む、クーラーの効いた店の中では、読むペースも早くなる、戦争の末期、日本の大都会は空襲で焼き尽くされ、広島と長崎に新型爆弾が投下され、それでも大本営は一億玉砕、そのために本来召集されるはずのない3人が、千島列島の最北端の島、占守島(しむしゅとう)へ向かう事になり、ソ連が不可侵条約を一方的に破棄をして参戦、そして主人公とその家族が様々な場所で8月15日の正午に天皇陛下の玉音放送を聞く寸前、殆んどの人たちは日本が敗れると思いながらも、一億玉砕に向けて天皇陛下自らが国民を鼓舞する、そんな気持ちが錯綜する中で正午を待つ、ここまで読み終えると、この店に入ってから丁度1時間30分が経過、アイステーを飲み終えて、水も飲み終えて、タバコの吸殻も7本、読んだページ数、体内時計が1時間30分を覚えているようである。 クーラーの効いた快適な温度の店の中から、階段を降りて店の外へ出ると、むっとするほど暑く、湿度も高い、斜めに並んで駐輪している自転車、横の自転車にひっからないように、自転車を担いで引っ張り出す、鍵は後輪にかけているから、後を持ち上げて、すると前輪がまわって、ぐしゃぐしゃという音、前のタイアが今日乗ろうとした時と同じ状態、空気が完全に抜けてしまっている、自転車さんからは倍の距離ほどに遠のいてしまった、自転車さんまでマウンテンバイクを押してくことを考えただけでどっと汗が吹き出る、再び自転車さんへ、先ほどのおにいちゃんが直ぐに、前のホイールをはずして、空気を抜いてチューブを取り出すと、チューブのバルブのところが穴が開いている、チューブがずれないようにホイールの溝に滑り止めのテープのテープを巻きなおして、新しいチューブと取替え、申し訳なさそうに、「何度も済みませんでした」、当然無料、僅か数10メートル離れた家へ戻る、その翌日、仕事が終わってから家に戻り、気になっていたので前のタイアを押さえる、空気が一杯入った状態で異常なし、ところが今日の昼、コンビニへコピーをとりに行く時にマウンテンバイクに乗ろうとすると、またもや前輪が空気が抜けてペッシャンコ、家から近いから良いようなものだけど、またもや自転車屋さんへ、3日前にチューブを取り替えた店員さんはいなかったが、店長さんに事情を話してチューブの取替え、取り替えた後で、タイアを取り付けて、暫くマウンテンバイクを店の前で押してから、もう一度、空気を抜いてチューブをはずす、するとチューブの同じようなところが破れそうになっている、別のチューブを持ってきて、チューブを取り替える、そしてまた同じようにマウンテンバイクに取りつけて、店の前を暫く押してみて、それからもう一度空気を抜いて、チューブを調べてみると今度は異常なし、店長曰く、「このメーカーのこのサイズのチューブ、製造工程の中で、何か異常があった様子、バルブ近辺のチューブの補強に時に、その横のゴムが薄くなってしまっている様子、今度のチューブは取り付けてからテストをしたが大丈夫です、「こんな事があると怖くて遠出が出来ないな」、「今度は大丈夫です、ご迷惑をおかけしました」。 実はこういう事は初めてのこと、もし遠出をしていたら、その近くの自転車屋さんへ飛び込んで修理、今回は自転車さんの近くでの出来事、3度とも同じ自転車さんでの事、お金は最初に払ったきり、こういう場合、別の自転車屋さんで修理をしなければならなくなった場合、費用はどうなるのであろうと思うと、よくよくツイていないような気がするが、そうでなかっただけまだマシ、下手をすれば随分と高いチューブ代になっていたかもしれない。■「今日の言葉」■ 「 さっさと実行しないと怠け心 がやる気を削いでいく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Aug 30, 2010
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わが町内は地蔵盆を1年おきに1日、2日の開催になっている、町内の懐具合によるところが多く、去年は2日間開催、1日目の夜に、家の前が広い場所を借りて、各自が料理を持ち寄りで足洗いの宴会、(親睦会、打ち上げパーテイ、慰労会のことで、祇園祭が終わると各山鉾町で祭りの関係者の慰労会が開かれる、祭りはこれでお終い、明日からは普通の生活にもどりまひょう、という気持ちを込めて足洗いといっています)、これだと費用がかからずビールなどの飲み物代だけが町内の負担、今年は1日の開催、夕方の6時くらいから、飲食店での足洗いの宴会。 去年の各家庭から料理の持込の宴会の時に、近所の酒屋さんによく冷えた缶ビールを、ビール2ダース、発泡酒2ダース、第3のビール2ダースを注文、という事はオレはビール好きだが、ビールの味が分らず、ビール、発泡酒、第3のビールの区別がつかない、だから毎晩の晩酌は第3のビールのアサヒのクリアー、これをもっぱら飲んでいる、値段が安いのもさることながら、飲み口がさっぱりしていて好みの味である、飲み出せば同じだろうと思って、ビール、発泡酒、第3のビールと分けて注文、その結果はどうなったかというと、3種類を適当に混ぜてテーブルにおいて、まず乾杯、暑い盛りだから350ミリの缶ビールは直ぐにからに、そしてお代わり、適当に缶を渡すと、「にいさん、ビールを頂戴」、「ねえさん、ビールをおくれ」、(今住んでいる町内は殆んどにいさん、ねえさん、これは名前を知らなくても、忘れても通じるから便利である)、という事になってあっという間にビールがなくなる、だから残っている発泡酒と第3のビールを勧める、「この発泡酒はいつも飲んでいるやつや、それでいいよ」、と発泡酒を飲んでくれる人もいる、「味の違いて分る?」、「そんなんわからへんけど、こんな時ぐらいビールを飲ましてえやァ」、そこでようく聞いてみると普段は第3のビールだという。 家の近くの串かつ&串焼きやさん、そこでギネスを注文すると、ジョッキーに注いだ後で、生ビール用の炭酸ガスを入れる、するとギネスの生ビールのようになる、ギネスはカロリーが多く、サナトリウムでも退院間近の患者さんの希望によって、3時のお茶の時間に出される事もあると聞いている、だからオレにとっては一種の栄養ドリンクか、流動食代わりで、先にギネスばかりを何杯もお代わりして、肝心の串かつや串焼きが殆んど食べられなかったという事もある。 ビールはなんといっても良く冷えたやつを、渇いた喉にキューッと流し込んで、唇がジョッキーからなかなか離れない、こういう時が一番旨い、だからビールは口の中や舌で味わうものではないように思う、例えば地ビールの詰め合わせなどをいただくと、何種類か飲み比べをしたくなる、すると地ビールをワインのように口の中に長く留めて舌で味わってしまう、すると想像していた味とは違う、口に癖のある苦味ばかりが残って旨くない、しかもどれもこれも、おかしいこんなはずでは、ここで初めて気がつく、ビールはこんな飲み方をしてはいけないと、そこで普段と同じように味わう事無く、グイッと飲む、すると喉の刺激と後から漂ってくるほんのりとした香りと風味がそれぞれ明らかに違う事がわかる、考えて見ると日本の大手のビール会社のビール、発泡酒、第3のビール、どれを比べても余り大きな違いがない、克ってビールの4種類のブラインドテスというのをした事があった、その当時飲んでいたサッポロビールとサントリービールの違いぐらいは分る、後はアサヒビールとキリンビールの違い、自信満々で前に出てチャレンジ、結果は見事に全てがはずれ、ラベルでの先入観で味の違いが分かるように思うが、実際にはそうではなかった、家の近くでベルギービールをいているレストランがあって、そこへ行った時に、ベルギービールを飲むのは初めての経験、店の人のアドバイスでいろんな銘柄のベルギービールを飲み比べ、最初に言われていたのだが、ベルギービールはアルコール度数が銘柄によって随分と違う、たしか5%ぐらいから10数%くらいまであるという事だった、銘柄によってグレープフルーツジュースのような味、コカコーラーのような味、その味の幅は随分と広く、ああだ、こうだといって飲み比べ、また銘柄によって様々なジョッキーやビアグラスに注がれてでてくる、一通り飲み比べをした後で、自分が一番気に入ったビールを注文してお開きという事になった、さてそれを飲もうとすると、アルコール度数の違うビールをちゃんぽん、気分が悪くなってくる、平成になって初めての悪酔いか、兎に角、水をがぶ飲みして、胃の中のアルコールを薄めて、オシッコで出して、折角気に入って頼んだビールを他人に譲って、ぎりぎりセーフ、平成初とは、かろうじてならなかった。■「今日の言葉」■ 「 金に対する執着が強くなるほど 金の苦労が多くなっていく 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Aug 25, 2010
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京都にその昔、ジャズ喫茶なるものが数多くあった、ジャズがデキシーランドジャズからスイングジャズ、そしてモダンジャズに変化した頃、JBLの化け物のようなバラゴンというスピーカーが店の奥に、マッキントッシュのプリアンプ、パワーアンプ、デュアルのプレーヤー、シュアーのカートリッジ、店のマスターがおもむろに、レコードラックからLPレコードを宝物のように取り出し、まるで儀式のようにジャケットからレコードを取り出して、クリーナーで盤面を拭いて、プレーヤーのターンテーブルに乗せて、プレーヤーのアームを静かに下ろす、このマスターの一連のしぐさがカッコ良い、音の入っていない溝を、レコードの針が擦る音、そして数秒後に曲が始まる、お客さんは黙って、足や、身体や、首などでリズムを取りながら、目をつぶって曲に聞き入る、後から入ってきた人は足音や、座る時にも音を立てないように気を使う、それでも何か物音を立てると、あちこちの席から、シー、シー、とたしなめるように、常連のお客さんは好きなプレィアーの、聞きたいLPをリクエストしたりもする、まず珈琲の上手い店は無かったが、ただそこに置かれているオーデイオ装置は目玉が飛び出るほど高価であり、LPレコードも2、000円くらいで、当時の大卒の初任給が13、800円くらいであり、その頃の初任給からすると高価な品物でもあった、ジャズ喫茶と名乗るからには、店にLPレコードも数千枚、時折、店でライブが行われるが、もっぱらレレコード鑑賞が主であった。 ジャズ喫茶、ほんの少し不良っぽい響きが好きであった、大学を出て、就職をして、結婚をして、ロッキングチェアーに座りながら、パイプタバコをくゆらしながら、音楽を聴く、ここまでは良かったのだが、昔ジャズ喫茶で聞いた音とは随分とちがう、これはきっと家にあるオーデイオ機器のセイ、オーでオ雑誌の、「ステレオ」、を購入、この雑誌を読んで、アンプ、スピーカー、プレイヤー、カートリッジ、スピーカーコード、ソックリ入れ替えなければという一種の強迫観念にとらわれて、まずプリメインアンプをブラックフェイスのサンスイのアンプを買う、次にヤマハの1000Mのスピーカーを買う、1000円の頭金でローンを組む、アンプが終わればスピーカー、スピーカーが終わればプレイヤー、幾つかのカートリッジ、スピーカーコード、等々と次々と買っていく、数年で全てが新しい機材に入れ替わる、ところがもっと低音を、もっと高音を、もっとクリアーな音を、もっと繊細且つ鮮明な音、追い求めだしたらキリが無く、10数年後に何順目かのラインナップ、各機材はン百万ではないが、ン十万円、一応買い替えが一段落、ここから先はン百万の機材、こういう趣味というものは一息入れると、「ちょっと、待てよ、多額のお金をかけても、オレの耳がついていくだろうか」、こんなことを考えるもので、いくらなんでも1、000円の頭金で、ン百万の機材をローン、ここで完全にオーデイオ機材の買い替えはストップ。 オーデイオ機材の買い替えはストップしたが、ソフト、LPレコードの買いアサリが始まった、大手レコード店でカントリーミュージックを購入していて、売り場にこのジャンルに詳しい店員さん、レコード店へ行くたびに、カントリーミュージックに関するニュースは何も入ってこない、唯一の情報源は彼との会話、そうこうしている内に大手レコード店に勤めている限り、自分の好きなジャンルの音楽、ブルーグラス、カントリーミュージック、アメリカンミュージック、等々を好きに仕入れることができないという理由で、大手レコード店を退社して、独立する事となった、そこから彼との本格的な付き合いが始まった、週に一度、彼の店を覗きに行くのが楽しみで、行けば必ず数枚を購入、買ったLPレコードを聴くよりも、買うペースの方が早く、毎年年末年始の休暇中には、その年に買って、ちゃんと聞いていないLPレコードを聴くことに専念、そこの店でよく鉢合わせをする同年輩のお客さん、買うペースは良い勝負、「ちゃんと聞く時間がありますか?」、この人も自営業らしく、「会社の休み時間とか、1人で残業の時に聴いて、これは家でじっくりと聴きたいという盤だけを家に以って帰って、家には余り置く場所が無いので、会社に置いています」、この人も置く場所に苦労をしていたんだ、200枚くらいたまるまではそのあたりに積んでおいて、レコードラックを購入して、どこに何があるかいつでも分かるように、整理をしなおしてレコードラックに収納、今の家を購入の時に、2階にレコード収納のクローゼット、丈夫な梁を入れてレコードの重みに耐えるような構造に別注、しかし建築中に、やはりその重みに怖くなって、結局、1階のクローゼットをレコードラック仕様に改造、大工の棟梁に設計図を渡したが、初めてする仕事、長らく躊躇、結局レコードラックは一番最後の仕事、棟梁にプレッシャーを与えるために、大量のLPレコードを新居へ運び込み、その物凄いカサを見て、慌ててクローゼットをレコードラックに改良、ただ作る前に50枚ほどのLPレコードを持ち上げてみて、そのあまりの重さに驚いて、仕切り板を頑丈にするために階段のステップ用の材木を使用、確かに頑丈だが、板の厚さのために、予定していた枚数は収納が出来ず、それでも何本も積み重ねていたレコードラックも数本だけを残してすっきりと。 会社を整理する頃に、LPレコード、いや当時はCDだが買うお金が無くなり、彼の店も間もなく店仕舞い、お金に困って、LPレコードとCD、ジャズも千枚ほど持っていて、ジャズだけを買い取り依頼、出張してきた中古レコード店の店員さんが、レーベルとアーチスト名をチェックしながら電卓を叩いていく、10枚ずつの合計金額を紙に書いていく、3時間あまりかけて、1、000枚あまりの計算を終了、枚数が500枚以上なので買い取りボーナスを加算して約50万円ほど、その金のお陰で数ケ月分のライフラインを確保、ただ一息ついたのは数ケ月だけ、その後、カントリミュージックも売ることに、ただどうしても売りたくないアーチストの500枚ほどは残して、半日がかりでクローゼットのレコードラックから移動、枚数は定かではないが、積み上げたカサから行くとジャズの10倍ほど、ジャズの時が50万円ほどだったから、1枚の値段が半分としても、ここで取らぬ狸の皮算用、ところが午後に訪れた中古レコード店の店員さん、「全てカントリーミュージックです」、というと、申し訳なさそうな顔つきで、「カントリーの買い取りは安いのですが、1枚50円なんです」、これを聞いて全身の力の抜ける思い、「ちょっと考えさせてくれる」、売ろうか、辞めようか、手取り金額はジャズの1、000枚分とほぼ同じ、タバコに火をつけて、一服、タバコはこういう時には喫煙効果、頭が冷静になる、たとえ50万の金でも欲しい、それとこれをもう一度クローゼットのレコードラックに戻す事を考えると、もうその気力はなし、「お兄ちゃん、枚数だけを勘定してくれるか」、店員さんは枚数を数えて積み上げていく、約1時間余りで数え終わり、申し訳なさそうに、出張ボーナスは無しでと言って、40数万円を置いて、物凄く車体が沈み込んだハイエースで大阪まで戻っていった。 もうこれは数年前のことであるが、いまだにその後遺症と言うか、家でじっくりと音楽を聴く事はない。■「今日の言葉」■ 「 愛情を持って叱ることは我が子 と最良の交流となる 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Jul 27, 2010
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マウンテンバイクで走っていると、カタッ、カタッ、と音がする、スピードを速めるとこの間隔が短くなる、場所はフロントホイール、何かがすれているのかと思ってようく見てみてもそうではない、どこだかわからないままに暫く走っていて、漸くその場所を突き止める、どうやらフロントホイールの車軸のあたり、家の近くの大きな自転車屋さんへ持ち込むと、やはりフロントホイールの車軸のベアリングが磨り減っているという事で、オーバーホール、しかしこれをしても直るという保証は無い、フロントホイールの取替えがお勧めという事であった、店のカタログを見てみると、高いのはど派手なメーカーのロゴの入った、イーストンなどは約10万円ほど、一番安いのはというと、シマノの5、6、000円、当然、一番安いフロントホイールを注文、約20年ほど前のミヤタのリッジランナーというマウンテンバイクで、街中で同じものと出くわす事は殆ど無いという代物、店員さんが取り付け可能か、店の外のオレのマウンテンバイクを見に出る、「よく走っていますね」、「もうお金をかけたくないんやけど」、「今年になって、1台修理をしましたよ」、苦笑いをしながら、「フロンとホイールが入荷しましたら、携帯にお電話します」。 自転車屋の店員さんが、フロイントホイールのベアリングが磨り減って交換に来たオレに、「よく走っていますね」、と声をかけられたが、去年の春にオフロードやダウンヒルではなく、京都市内の歩道の中で一番状態の良い歩道の御池通を走っていて左太ももの血管が破裂、内出血が止まらなくて、約10日ほどの絶対安静、1年経った今でも完治の一歩手前、だから最近は近くではよく乗っているが、30分から1時間ほど走る場所へは、公共の乗り物で移動をしている、だから少々の弱気、「新しいフロントホイールのベアリングが磨り減るまで走るのはもう無理、このマウンテンバイクがダメになるのが先か、オレが乗れなくなるのが先か、・・・・・」、冗談でこういう事を言っていた間はいいのだが、最近では本音である、数ケ月前は、チェーンの油切れで、ギアーをチェンジする時によくチェーンが外れていた、チェーンが伸びているのが原因であった、趣味がロードレースの新聞配達の兄ちゃんに、「チェーンを少し切ろうかと思っているのだが」、「そんな古いマウンテンバイクだと、今のチェーンの状態と変速ギアーの歯車とのマッチングの問題があるので、下手にチェーンを切ると、かえってチェーンが外れやすくなるという事もある」、といわれて、100均の店で錆び止め&潤滑油のスプレーを買って来て、チェーンと変速ギアー歯車にふりかけ、するとチェーンの音もなくなり、ペダルが随分と軽くなり、変速ギアーを切り替えてもチェーンがはずれる事がなくなった、この時は金100円也で済んだ。 河原町丸太町の角に、チェーン店の新車&中古車の自転車さんが出来ている、中古のマウンテンバイクも多くある、イーストン、ジオス、ビアンキ、などの個性的なカッコの良いマウンテンバイクが店に並んでいる、しかし今乗っているミヤタのリッジランナー、ウオーキングをしていた頃、中古自転車屋の店の前をいつも通る、マウンテンバイクが欲しくて店の外に並べられているマウンテンバイクをちらちらと見ていた、絶えず売れて品物は入れ替わる、ところが1台だけは長く店の前に置いてある、デザインは気に入っていたのだが、色がパープルという事と、そこの中古屋にしては値段が高い、それで売れ残っているのだろうと勝手な思い込み、衝動買い癖のあるオレにしては珍しく慎重、暫くの間どうしようかと迷っていた、「ようし、明日も売れ残っていれば」、とそんな事を思いながら、それでも何日か経過、ついに店の店員さんに、「このマウンテンバイク、長いこと売れ残っているね」、「そうですね、うちの店の商品にしては高いからでしょうかね、最近のマウンテンバイクにしては少し華奢ですが、フレームは軽くて、頑丈で、いいマウンテンバイクですよ、家に置くところがあれば僕も欲しいくらいです」、最後の一言が殺し文句になった、「今日はウオーキングの途中だからお金は持っていないが、明日のこの時間にお金を持ってくるので、売約済みにしておいてくれる」、「ハイ、では、今日の夕方に本社工場へ持って行き、軽くオーバーホールしておきます」、という事で、翌日ウオーキングの途中にこの自転車屋へ寄って、お金を支払い、防犯登録も済ませる、自転車は中学校の頃にはよく乗っていたが、それからは殆ど乗った事がなく、一番近くでとなると息子が幼稚園の時に通園バスに乗り遅れて、ヨメの自転車の後ろに息子を乗せて、通園バスを追いかけた時、その時からでも、もう10数年は自転車に乗っていない、しかし水泳と自転車は不思議なもので、いくら永くブランクがあっても、泳ぐ事が出来、自転車に乗ることが出来る。 丁度この頃会社を整理した後で、借入金返済のために会社の土地・建物を売却した後で、家でネットショップを立ち上げたすぐ後、まず最初の商品が売れるまでは18ケ月は覚悟、午前中は様々な検索サイトに登録をしたり、サイトを手直ししたり、店長日記を書いたり、そんな事は午前中に完了、ヨメはパートに出かけていて、家にはマルとオレだけ、借金がまだ残っていて、蓄えを食い潰す生活、家に一人でいると息が詰まりそうで、当時はかかってくる電話も碌な電話ではない、だから電話の着信音でドキッとする、先に良い結果が待ち受けていない、不安が増していく、精神的にきつい、天気の良い日にはマウンテンバイクで目的もなく出かけて行き、半日はそれで過ごして夕方に家に戻る、こんな日の繰り返し、食いつぶす貯えも底を突き出す、マウンテンバイクで走っている時と寝ている時だけそういうことが忘れられる、精神的にうつ状態にならなくてすんだのは、マウンテンバイクで走っていると軽い運動になり、太陽の光を浴びる事が出来る、このマウンテンバイクはそんなドン底の頃の戦友のような気がしている、新しいのに買い換える気持ちはサラサラ無い、部品を取り替えたり、修理をしたり、乗れるところまで乗り続けようと思っている。■「今日の言葉」■ 「 物を大切にする暮らしの 中に心豊かな生活がある 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)
Apr 26, 2010
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タバコ、紙巻タバコに始まって、一時期パイプタバコに凝った事もあった、使い込んだパイプ、内側がきれいにこげて、タバコの葉を詰めて、火をつけて、何口か煙を吸い込んで、少し灰になったところを丁寧にゆるく押さえつけて、火種を作ってしまい、後はユックリと、甘い香りをかぎながらユックリと煙を吸い込み、約30分間ほどパイプの煙を燻らす、ただパイプの掃除が結構邪魔臭く、形の違ったパイプを数本、7本有れば、掃除は1週間に一度、纏めて済ませる、普段は紙巻タバコで、夜家で食事の後にパイプタバコ、こんな吸い方をしていたのだが、いつの間にかパイプタバコを吸わなくなってしまった、オーデイオラックの隅っこでパイプが埃をかぶっている。 細まきの葉巻、ミニシガーに凝っていた時期もあった、寺町四条を少し下がった東側のタバコ屋、ここは葉巻やミニシガーを多く売っていて、片っ端からいろんな銘柄のミニシガーを買って見て、葉巻独特の香り、それぞれの銘柄の個性的な香り、値段にも随分とばらつきがあり、最終的に、「コヒーバ」、「モンテ・クリスト」、この辺りの銘柄に落ち着いた、ところが旨いヤツはどうしても本数を吸ってしまう、タバコ屋で、「余り旨くないミニシガーは、旨いとどうしても吸いすぎるので」、「私は自分が吸いませんのでそのあたりのことは~」、と巧みに逃げられた、そこで1番短い、値段の安い、「アル・カポネ・ミニ」、を暫くの間吸っていたが、紙巻タバコのように煙を吸い込むのではなく、煙を吸い込まないでふかして、香りを愉しむ、パイプタバコとミニシガーに比べて紙巻タバコは香りの面では遥かに劣る、銘柄による個性の開きも少ない、煙を吸い込んで、煙を吐き出す吸感覚、これを満たしてくれるのいは紙巻タバコ、「嗅ぎタバコ」、タバコの葉の微粉末を手の甲の親指の付け根辺りにほんの少しのせて、「フン」、と鼻の穴から吸い込む、ほんの少し怪しいしぐさで、鼻の粘膜にタバコの葉の微粉末を吸い付ける、良い香りとニコチンが鼻の粘膜につんと来る、煙が出ないのでオランダ航空ではこれは機内ではOKとか、しかし嗅ぐ時のなんともいえない怪しいしぐさと、鼻が良く出る鼻炎気味のオレには、茶色い鼻水が出るのと、これも紙巻のように吸感覚は満たしてくれることはなかった。 高校のときに始めて吸ったタバコが両切りのピース、以来好みのタバコの銘柄は随分と変わってきた、パール、スリーA、いこい、ハイ・ライト、ショートホープ、セブン・スター、ラーク、キャスター、マイルドセブン、キャスター・マイルド、この辺りまではよく変わったのだが、タバコのパッケージがハードケースが主流になりだしてきて、オレはソフトパッケージのほうが好きなために、ソフトパッケージのパーラメントのショート、この銘柄が約10年ほど続いた、この銘柄はハードケースとソフトパッケージの両方が売られていて、主流はハードケース、家の近くのタバコ屋はオレ用にソフトパッケージを仕入れ、今から7年ほど前に、ブログのネタのために禁煙を実行、お陰でそのタバコ屋の店の前を通りにくくなってしまった、大・中・小の3種類のニコチンバッヂ、各2週間づつ、6週間分、大のニコチンバッヂを2週間貼って、次に中のニコチンバッヂを2週間貼って、最後に小のニコチンバッヂを2週間貼って、禁煙時のニコチンの禁断症状の緩和のためにニコチンバッヂを、貼って、皮膚からニコチンを吸収、2週間ごとにニコチンバッヂの大きさを小さくしていき、6週間がかりで喫煙習慣をなくして、6週間目以後はニコチンバッヂ無しで禁煙を継続、ニコチンバッヂでニコチンの皮膚吸収、貼っている間中、常時皮膚からニコチンを吸収、タバコが吸いたい気持ちが全く起きない、大を2週間、中を1週間、小を1週間、4週でニコチンバッヂを貼らなくなる、味が変わる、特に珈琲が旨くなる、大便をするとニコチンの匂いがする、こうして長年体内にたまっているニコチンが排泄されていく、タクシーを止めると、運転手はタバコに火をつけた途端に、オレがタクシーをとめた、オレが車に乗り込んだ時、運転手は火のついたタバコを指に挟んでいた、慌てて灰皿でもみ消そうとする運転手に、「ただいま禁煙中、そうやからユックリと吸うてて」、禁煙を始めてから3ケ月、手を延ばせばいつでも吸う事が出来る場所にタバコ、しかし、吸う事もなく過ごして、禁煙が成功、と思いかけていた頃、夜中に何度も目が覚める、ついに1時間おきに、当時は今ほど睡眠導入剤が一般的ではなく、この薬をい思いつく事無く、禁煙のせいで不眠症と思い込むようになり、タバコを吸えば不眠症は治る、そこで紙巻タバコではなく、1日数本のミニ・シガーを吸い出した、数日で不眠症は解消、ミニ・シガーの味も知る、次第に本数が増えて、紙巻タバコ箱も吸いだす、あっという間に前の本数以上を吸うようになる、ただ頭の隅にニコチンバッヂがあるからいつでも禁煙ができるという思いがあった。 それから2年後、又もやブログネタのために禁煙を開始、禁煙と言う言葉はよくない、タバコを断つから断煙、断煙宣言、又もや大・中・小の3種類のニコチンバッヂ、6週間分を購入、前と同じように大のニコチンバッヂを貼る、皮膚からニコチンを吸収、タバコを吸いたいと思う事無く、10日間が経過、左右の腕、肩、太もも、比較的皮膚の強そうな場所を選んで貼っている、風呂へはいるときに裸になると身体に10個の丸、初日に貼ったところは丸が赤くなって、盛り上がって、水ぶくれになっている、そのほか数個も赤くなって、盛り上がっている、熱を持ったような痛みと、痒い、丁度定期診察の日、医師に見せると、「これはきついかぶれようやな、もうニコチンバッヂは貼ったらアカン」、と言う事で断煙は10日目で中止、エコーを毎日60本を吸うスーパースモーカー。 ■「今日の言葉」■ 「 社会の恩恵を忘れると 社会に対する不満が多くなる 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Dec 20, 2009
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冬場は鍋物のシーズン、湯豆腐、これは全くシンプルに豆腐だけというのが好きで、この時だけは昆布は利尻産の上等の昆布、菊菜や椎茸を入れて豆腐の味を邪魔にされたくない、豆腐にしみこんだ昆布の味を愉しむ、水菜と揚げのハリハリ鍋、(クジラの入った本物のハリハリ鍋よりもこちらのほうが好き)、薄味の出汁で炊いて、卵をつけて食べる、夫婦鍋、うどん出汁に近いくらいの甘めの出汁で、豆腐と油揚げを入れて炊き、これも生卵をつけて食べる、それから、「失楽園」、の映画の中でで出てくる、鴨肉とクレソンの鍋、これを少しアレンジをして、鴨肉(オレは鶏は食べないが、鴨肉は食べる)、と水菜をうどん出汁でたく、薬味は山椒、鴨肉は出しとりようで、鴨肉の油と味のついた出汁で、水菜をさっと炊いて食べる、途中でうどんを入れると、鴨なんば、最後に出汁を追い足して、出汁の多い目の雑炊を炊く、生卵はといて入れる、浅葱と海苔も入れる、入れた途端に火をとめて、約30秒ほど土鍋の蓋を閉じたまま待つ、蓋を取ると卵は半熟、出汁をたっぷり目に茶碗によそい、まず鴨の味がついたスープを飲んでそれから雑炊を食べる、猫舌のオレは、この時にはたっぷり目の水菜か白菜の漬物がいる、漬物を雑炊に入れて温度を冷ませ、塩味の調節にもなる、冬場は千枚漬けもあれば、すぐきもある。 冬場は土鍋が大活躍、おでん、ヨメに炊くのは少なくとリクエストをするが、それでも土鍋一杯のおでん、夫婦2人では全て片付けるのに4日間ほどかかる、コンビニで5品ほど買ってくるだけでいいよ、と言っているのだが、本格的にちゃんと出汁をとってからおでんを炊くとなると、気合が入っている分だけ、分量が多くなる、だからおでんとなると4日間のおでんは覚悟、たまに無性にすき焼きが食べたくなるが、これも夫婦2人だと、一度炊いて終わりという事になる、だから息子の家族と一緒の時になる、オレは鶏が嫌いだから鶏の水炊きはしない、昔、忘年会で鳥の水炊きの老舗、木屋町仏光寺の角の古いくすべたような風格のある建物、坂本竜馬もよくしゃも肉を買っていったといわれている、「鳥弥三」、へ行った事があった、ここの鶏肉は骨付きである、鳥は食わずに、白菜と豆腐だけを食べていた、ここの出汁は餅米の伽汁を使っていて、炊きだすと白濁色になって、とろみがついて来る、出し入れに葱と一味を入れて、鍋の出汁をいれ、お酒で割って飲むと、これが又旨いスープ、このスープを何杯もお代わりをした。(続きは明日)、■「今日の言葉」■ 「 現実を受け入れる勇気から 物事の好転は始まる 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Dec 9, 2009
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仕事先のマンションで今週の初めから、共用部分の塗装工事、仕事中はシンナーのにおいを吸いっぱなし、別段このにおいは苦手ではないが、長時間吸いっぱなし、少し気分が悪くなる、その昔丁稚時代に百貨店のセールス、百貨店の残業の手伝いも仕事のうち、同時に残業中に床のPタイルの張替え工事もしていて、その接着剤、シンナーのおいが充満していて、すると座り込んで一緒に仕事をしていた女子店員が、「きつい匂いね」、と話をしているうちにろれつが回らなくなり、眼がとろんとしてきて、立ち上がろうとしても、足に力が入らず、床にごろんという事故があった、きついシンナーの匂いをかいでいると、フト今から40年ほど前の出来事を思い出した、塗装工事の2日目、ある住人さんから、管理人室へ電話、「昨日くらいから眼が痛く、目や鼻や喉が痛くて、中学生の息子が咳き込んで、吐いた痰に血が混じっていた、どんなペンキを使用しているのですか」、「それはわかりかねますので、管理会社に聞いて見てください」、と逃げた、この住人さん、入居の時に子供がアレルギー体質ということで、アレルギー体質の人にも無害な外国製のペンキ、接着剤、壁紙を取り扱う浜松の内装業者をインターネットで探出して、ない倉庫工事を委託、ところがこういう工事の場合はその工事にあわせた下準備が必要なのだが、それをせずに途中から工事を委託、上手く工事が出来ずに職人さんを悩ませていた、約6ケ月後の再工事をしたところを見ると工事が上手く行かなかったのだと思う、もう50歳前だがなかなかの美人で、その上口がたち、気が強く、自己主張が強い、こういえば聞こえは良いが、自分勝手で、我儘である。 入居が終わって6ケ月の無料補修期間に多くのクレーム、ついには弁護士を立てて、代金の支払いももめていたほどで、典型的なクレーマー、この共用部分のと倉庫工事、前年度の管理組合の理事要時代に決まった事で、自分の子供がアレルギー体質なら、その時にこういう安全な塗料を使うように指定して、業者を探して、見積もりを取ることが出来た立場にありながら、その時点では何も言う事もせずに、する事もせずに、いざ工事が始まって2日目になって、管理人を捕まえて、5スターの塗料を使用しているのか云々のクレーム、工事を中断させようという物の言い方、工事予定日が決まってから、業者の責任者が2度の下見、工事予定を立てて、工事計画書を張り出し、工事期間中の管理人の管理時間の変更の張り紙、工事の最後の2日間、駐車場入り口の幅に広いシャッター、錆び止めの塗料、上塗りのペンキ、塗って乾くまでの2日間の午後の4時間のシャッターの開閉の禁止の張り紙、他の住人さんの協力を経て塗装工事に準備、そんな事はお構い無しに、工事のストップを要請、世の中の仕組みも理解する事無く自己主張、ただこういう事は余りにも度々、こちらも、「又かァ~、いつもの事かァ~」、と聞き流してしまう、途中に雨にもふられずずに工事は順調、明日で終了の予定。 という事で、今週は平日でも午前9時から午後5時まで勤務、昼食はいつもの手打ち蕎麦屋、店に入ると禁煙の表示の下に、新そばになってから待ちかねていた、辛味大根の張り紙、今年は寒くならないのでなかなか辛味大根が入ってこないといわれていたのだが、ここのところの冷え込みで、どうやら今日が入荷日、当然の事ながら、10割天ざる大プラス辛味大根、辛味大根は注文が通ってから摩り下ろす、辛味が飛ばないために、ワサビと葱をそばつゆに入れて、おろした辛味大根を半分だけ入れる、いつもは塩を振りかけてそばを一口食べてから、ししとうのてんぷら、茄子のてんぷらを食べてそれからそばをそばつゆにつけて食べる、ところが待ちかねていた辛味大根、先にそばを食いたい、ズルズルとそばを口に運ぶ、辛味大根の辛さが舌を指し、喉を過ぎていく、後から新そばの弾力と甘味がフワーッと追いかけてくる、年がら年中鼻炎気味の鼻がツーンと通る、辛い、旨い、一口ではとまらない、ズル、ズル、旨いが、辛い、この大根の辛味、ワサビの辛味とよく似ていて、オレは唐辛子の辛味は全くダメで、坦坦麺はダメ、キムチもダメ、辛いエスニックもダメ、祇園の割烹屋で最後の味噌汁、クコチュウをリクエストする友達もいた、当然クコチュウは食べられない、その味噌汁も辛くて飲めない、韓国バーでちじみが出てくる、中に挟むキムチを水で洗ってもらって、それを挟んで食べる、しかもキムチを洗う水を絶えず取り替えてもらって、ところがワサビや辛味大根の辛さは平気、韓国やジャマイカの友達は唐辛子の辛さは平気、ところがワサビや辛味大根は全くダメ、これらは辛いのではなく、舌をさして痛いからダメだ、食べられないという事だった、そばつゆの中の辛味大根が少なくなってから、海老のてんぷら、掻き揚げを食べる、そばつゆを足して、葱の残りと辛味大根を入れて、そばを食べる、そしてこの店に普段からおろしそばがないのが不思議、オレはおろしそばが1番好きなのだが、最近オレは何を食べても余り旨いとは言わないのだが、この店の新そばの時期の辛味大根で食べるそば、これはいつも食べ終わると思わず、「旨い」、と声が出てしまう、2020年の10月末ごろが死ぬには良い時期と思っていたが、もう少し後ろにずらして、この店の新そばを辛味大根で食べてからにしようとさえ思っている。■「今日の言葉」■ 「 言い訳をしたい気持ちを捨て なければ見のある反省はできない 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Nov 26, 2009
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韓国の釜山の射撃場で日本人観光客が死亡という記事、多くが福岡の同級生との事、年齢はオレの息子と同い年だけに他人事ではない、それ以上にドキッとしたのは、その翌日の昨日、小学校・中学校の同級生の有志、男性5人と女性6人で日帰りバスツアーに出かける予定だった、数年前から同級生有志で、不定期に日帰りバス旅行を企画、何度かお誘いを受けていたのだが、多くが冬場の日本海松葉蟹食べ放題ツアーだった、以前に組合の旅行で夏場に、冬場はカニ料理専門の民宿に止まった事があった、その民宿の畳、柱、壁、天井に蟹の匂いが染み付いていて、冬場に蟹を食べている時はそうでもないと思うが、その染み付いた匂いを夏場にかぐと、決して良い匂いとは言えず、随分と閉口したことがあった、以来どうもこのツアーには行く気にならない、それと本来この食べ放題というヤツはあまり好きではない、10年ほど前は年に2回、組合関係の1泊2日のバス旅行に行っていたのだが、商売をやめてからそれがぷっつりと、ところが以来10年も経つと、生理的衰えというか、肉体的衰えで、夜中に確実に1度か、2度トイレに起きる、その何がというか、おしっこが近くなっているのである、仕事の日に帰る時にトイレを済ませて帰る、ところが最近は観光のお客さんが多くバスが混雑する、乗っている時間も普段の倍ほど時間がかかる、すると降りる頃にトイレに行きたくなる、そういう訳でバス旅行というヤツが結構、億劫になる、いつも仕事のシフトが入っているとか、その日は都合が悪いとか口実を作って不参加であった。 ところが今回は最近は同級会も開催されなくなっていて、幹事とも親しいという事もあって、初参加する事になっていた、行く先は富士見台で日本アルプスで紅葉を見て、昼食は気にいらないのないのだが炙り牛肉味噌だれ寿司、松茸しゃぶしゃぶ、3種類フルーツ食べ放題、そんな日帰りバスツアーであった、朝まだ暗い内の5時過ぎに起きて、午前7時45分に四条大宮のバスターミナルに集合、集まる顔ぶれは聞いていない、メンバーは小学校・中学校で同じクラスにもなっていない、大して一緒に遊んだわけでもないメンバーが半分、オレの場合は同級生の殆んどが名前で、○○チャンと呼ばれていた、付き合いの極少ない僅かの同級生だけが苗字、○○君、と呼んでいた、参加の11人の半分が、○○君と呼んでいた、不思議な顔ぶれといえば、顔ぶれといえるメンバー、ただこれも小学校と中学校が全く同一学区、9年間同じ学校であった特色といえるかもしれない、それでもここが同級生の良いところといえるのかもしれないが、顔をあわせてしまうとそういう事はお構いなし、さすがにこの年になると全員が集合時間の前に集合、乗る前にバスの中での飲み物を自動販売機で、「今までやったビールなんだけど、トイレが近くなるし」、すると、「俺も」、「俺も」、ここが同級性の良いところ、「ご同輩、お前もか」、「だからオレはこれを」、バーボンを入れたフラスコを見せると、「それが正解やなあ」。 バスが動き出すと男性陣はフラスコのウイスキーを一口づつ分け合って飲んで、直ぐに朝が早かったのとバスの暖房でこっくり、こっくり、居眠りが始まる、ところが女性人ときたら、バスが動き出してから、何度かのこの日帰りバス旅行の思い出話から始まって、食べ物の話、レストランや料理屋の話、12月のデイナーショーの予定の話、年末年始の温泉旅行に海外旅行の話、次の同級会の話、習い事の話、スポーツクラブの話、年相応だと思ったグランドゴルフの話、等々、暗い話や愚痴話は一切なし、前向きというか、元気というか、毎日が盆と正月の繰り返しかと、突っ込みを入れたくなるような話ばかり、午前7時45分から、帰り着く午後9時過ぎまで、途切れる事無く話が続く、このパワーに呆れるやら、羨むやら、男性陣が元気がよくなるのはトイレ休憩にバスが到着する時だけ、まずタバコ、トイレ、そしてタバコ、その間も女性陣はお土産探しと、お土産の試食、口は話をするか、話が途切れる時は何かを食べている時だけ、昼食の食べ放題も女性陣の方が先にお代わりを取りに行く、この食欲がパワーの源。 富士見台山麓駅までバスで行き、ここが約800メートル、ここからロープウエイで2、500メートルの長さで、所要時間は約10分、山頂駅は1、400メートルの高さ、場所によってはほぼ垂直近い登りかた、眼下には南アルプスと中央アルプスの山々、黄色から濃い黄色、薄いオレンジ色から濃いオレンジ色、薄い茶色から濃い茶色、紅葉また紅葉の世界、ただ残念な事にこのあたりの紅葉は10月初めから山頂から始まり、山麓まで紅葉が降りてくる、11月15日では山頂部分の紅葉はもう終わっている、ロープウエイの山頂駅に昼に着いていて、天気は快晴、温度は7度、売店の中で熱いココアが身体を温めてくれる、昼食の後、JRで6駅ほど移動、この列車の中から進行方向に向かって右に紅葉の南アルプスが見え、左側に中央アルプスが見える、紅葉のアルプス展望列車を楽しむ、こういうツアーでいつも感心する事だが、料金は日曜日なので約9、000円、まずロープウエイの往復料金が2、000円、JRの料金が2,400円、昼食代が1、000円として、夕食用の軽食200円、これだけで合計5、600円、残りは3、400円弱、ここにバス代、ガソリン代、運転手さんの日当、ガイドさんの日当、どういう計算になっているのだろうかと不思議に思う、観光シーズンで途中高速道路が渋滞、出発から14時間弱、無事に京都に到着、京都ではなかなか見られないダイナミックな紅葉と久し振りの同級会をたっぷりと楽しんだ一日でした。■「今日の言葉」■ 「 不満にとらわれていると今恵 まれているものまで失ってしまう 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Nov 16, 2009
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毎年この時期になる鳥取のヨメのお袋さんからコッペ蟹(メス蟹・親蟹)が送られてくる、実はヨメと結婚するまでメスの蟹がこんなに小さいとは知らなかった、ゆがいて、ゆで汁で大根を入れて味噌汁、ところがゆがいたこの小さな蟹を食べるのが苦手、ヨメが器用に食べるのを観ているだけであった、ある祇園の小さな割烹屋さんでも出される事があった、いつも食べないか返品であった、店の大将が、仕込みの時に小さな足の身をきれいに出して、甲羅に詰めておいてくれた、これならオレも食える、その時の食べた印象、小さな足の身に蟹の味が凝縮されて、濃厚、蟹の中でこいつが一番旨い、そう思った。 この話にヨメにすると、今時分にコッペ蟹が送られてくると、ゆがいて、細い、小さな足の身を出して、甲羅につめておいてくれる、オレが名付けてコッペ蟹の大名食い、甲羅の中に入れられた身にポン酢をかけて、3杯か、4杯ほど食べる、今年はオスの蟹も1杯送られて来たので、甲羅に蟹ミソと味噌を入れて、オーブントースターで焼いて、焦げ目をつけて、コッペ蟹の身をそれにつけて食べた、ますます蟹の味が濃厚、旨い。 ■「今日の言葉」■ 「 未来を共有するからこそ平和と 信頼関係が重要なのである 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Nov 15, 2009
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もうかなり以前の事になるが、祇園のある小さな割烹屋さんの客さんにオレと同年代の絵描きさんも多かった、その中の1人のもっぱら風景画の絵描きさんがいて、その人の絵も好きだったが、「所詮、絵描きなんてものは世の中にあってもなくても、大して差し支えのない職業で、・・・・・・」、とよく言っていて、この人のこういうところが好きであった、ある時に、「先生は風景画ばかりですか?」、と聞いた事があった、「作品として仕上げるのは風景画ばかりです」、「女性の絵は?」、「そらァ、画きたいと思うことはあるが、性格が好色でないのと、経験不足で私には画けないです」、そんな話を聞いた事がある、2、3年前だと思うが、吉本隆明の、「老いの流儀」、という本の中の、老人と性のところで、川端康成の、「眠れる美女」、の話が出てきて、老人がある館へ行き、そこの座敷には夜具がしかれて、睡眠薬で前後不覚なまでに深く眠らされた、全裸の美女が横たわり、老人はそのそばで一夜を明かすという内容の小説、この小説はきっと彼の実体験の小説、彼ならば実際に、懇意な旅館や料亭の女将さんにお金を渡して、頼み込めばそういう体験ができたであろうと思われる、と書いているのを読んだ事がある、それを読んだ時に初めに書いた絵描きさんとの会話をまず思いf出した。 この小説のあらすじを読んだ時に、オレも様々なフーゾクを経験しているが、このようなシチュエーションのフーゾクは未体験、克ってあった覗きの部屋などがこの感覚に近いかとも思ったが、鍵のかかった部屋の中で前後不覚の眠りに落ちた全裸の美女と夜を過ごす、まずフーゾクの世界では、ハコヘルと呼ばれるフーゾクでは15分から10分刻みの世界であり、ホテヘルというフーゾクでも60分から10分刻みの、比較的時間の長いホテトルというフーゾクでもでも90分から30分刻みの世界である、しかしこれは午後の11時頃から、翌朝の午前8時か、9時までの、約10時間ほどの世界である、この時間の長さは過ぎてしまえば、実に短く感じる時間であろうとは思うが、現在の遊びのスタートの時にタイマーをセット、この時間のせわしなさに比べると、気が遠くなるほど長い時間の遊びに感じ、空想と妄想は大きく広がる小説であった、読みたいと思いながら、数年が経過。 小説はあまり読んだ事がなかった、マンションの管理人の仕事するようになって、管理人室に座っている時間が長く、読むものといえば新聞だけであったのだが、最近は小説も読むようになった、まず、永井荷風、次の谷崎潤一郎、何から読み始めたかというと、いかにもオレらしいと思うが、鍵とふうてん老人日記、カタカナの文章に慣れるまでは戸惑いがあったのだがそれを読み終えて、次にデビュー作の刺青などの短編の初期の作品の本、次に痴人の愛、これは非常に読みやすく、あっという間に読んでしまった、次の読み始めたのが卍、作者が関東大震災の後に関西に居を移して、大阪弁で書かれている小説、読み始めたが、この大阪弁の文章、直ぐに慣れるだろうと思っていたが読み進んでいってもなかな慣れない、数ページ読み進むと字が小さくて目が疲れて、すぐに眠気が襲ってくる、昨日の夕方の仕事に行く前に、バス停のところのビルの2階の大きな書店、そこで川端康成の、「眠れる美女」、を購入、バスの中から読み始める、夕方の仕事は午後5時から午後8時までの3時間、読み終わるまでには充分な時間であった。 67歳の坂口老人が友人に教えられて、近くに海がある旅館でもない、料理屋でも、お屋敷でもない、営業の内容が内容だから別段看板があがっているわけでもないとある家に赴く、友人から身元のしっかりした人たちだけの会員の秘密の場所、この家は行くと薬で深く眠らされた全裸の若い美女と一つ布団の中で添い寝をして夜を過ごすことが出来るという予備知識で、ここを訪れる、電話で誰々の紹介と到着時間を入れてあるので、ここの女がお出迎え、こういう商いのところにいるのは普通はやり手○○と呼ばれる女性だが、老人のこういう秘密の場所にふさわしい中年のそれなりの、少々の品も兼ね備えた女性、ただ坂口老人はこの女性を煎茶の入れ方だけは褒めるが、それ以上はあまり好意的ではない、2階へ通されて、隣の部屋には夜具の中に目覚める事ない深い眠りの若い全裸の女性が寝かされている、その隣の部屋でここの女が煎茶を入れる、坂口老人は友達からここでのルールは一通は聞かされて入るが、ここへやってくる他の老人は、もう行為の出来ない老人でここでのルール通りに、若い全裸の女性と同じ布団に入って薬で深い眠りにつき、翌朝ここの女に起こされて、朝食を食べた後で家に戻っていく、ところが坂口老人は男と女の何に関して、他の老人と違っていまだに現役であり、添い寝だけをして朝を迎えるという事が出来ないかもしれないという思いもあり、この店で決してしてはいけない事の再確認をする、そうするうちにここへ来たこと自体に憤慨し、侮辱されたような、辱められたような、それでいて性的な興味も膨らみ、好奇心もたかまる複雑な思い、この店の女に最後に普段は寝酒を飲む、ウイスキーを持ってきてくれないかと頼むのだが、こういうお客さんのわがままにはピシャリと拒絶、枕もとの睡眠薬を飲んで寝るように勧められ、隣の部屋の鍵を渡されて、全裸で眠る美女の部屋へ入っていく。 その部屋で本当に眼の前の女性は目を覚ます事はないだろうか、声をかけても、揺すってみても、深い眠りの中、ここから眼の前の全裸の深い眠りの女性の描写に入る、坂口老人は最初の日の帰りに、この家には2度とこないであろうという嫌悪感似た感情、ここへ来た自分に対する嫌悪感、ところが2週間目に2度目、その8日後に3度目、訪れる事になり、そのたびに違う女性が全裸で横たわっている、顔、首筋、胸、乳房、肩、腕、手、髪の毛の匂い、体の匂い、息の匂い、不思議なほど下半身の描写は少ないのだが、その描写の部分と、匂いには引き込まれる、深い眠りについているが死んではいない、寝返りをうったり、鼾をかいたり、寝言を言ったり、呼吸が変わったりする、手が反射的に動いたりする、読んでいる方もビクッとする、全裸の深い眠りの女性を前にして、その女性の放つ匂いに、昔、関わった女性を思い出したり、末娘の結婚の事を思い出したり、眼の前の無反応な女性、余りにも深い眠りのために死んでいるのではとの錯覚、そのたびに唇に触れたり、指に触れたりして生きている温かさを感じる、無理やり起こしたい、行為をしたい、時には首を絞めてしまいたい、様々な衝動が起こるが、全てそれを打ち消して、時として死体のように見える女性、性と死、死と生、生と性、この女性が生涯最後の女性、様々な思いが頭を駆け巡り、ただ心の奥底には自分はいまだに性の現役であるにも拘らず、ここへ来たことの後悔と自らの嫌悪感にさいなまれながら、枕元の薬を飲んで眠りにつく、2度と訪れる事はないと思いながら、2週間後に2度目に訪れ、3度目にはもっと短い間隔で訪れる、ここがなくなればもう訪れる事はないだろう、そういう事がない限り坂口老人はこの店とは縁が切れないだろう、普段は精気のない老人が、ある間隔をおいてここに訪れて、その夜に薬で死んだように深い眠りにつき、その数時間だけ生を実感する、坂口老人も間もなく他の老人に仲間入り、ここへ来るたびにそれを実感、それでも来ずにはいられない、ここの家での秘密の時間。 そして後にもっと死を実感させられる出来事が、ここの家で知り合いが眠っている途中に心臓発作、夜中にこの近くの旅館に運び込まれて、1人寂しくそこの旅館で死んだ事にされたと聞いた、その話を聞いた後に、ここへ行くと、ここの女は今日は2人ですという事で、その日は2人と全裸の女性に挟まれて寝る事に、深夜、布団から飛び出している1人の女性を布団に入れようとすると死んでいる、慌てふためいて非常ベルでここの女を呼ぶ、女は前と同じ旅館へ死んだ女を運ぶ手配をして、何事もなかったように、「もう1人女性がいます、朝までぐっすりとお眠りください」、と坂口老人に声をかけた、昨日この、「眠れる美女」、を読んで今日これを書いている、これから何度か繰り返して読むつもり、そうすればもっと分ってくる事が多くあるだろう、将来において今日のブログは加筆、訂正する事があるだろう、この小説のあらすじを読んだ時にオレは経験のないことなので、随分と性的興奮を覚えたことがあった、初めてここへ訪れた日の同じ年の坂口老人とは全く別の行動をとった事と思う、もう少し文章が巧みになればいつの日にかは、その時の行動、行為を書いてみたいと思う。■「今日の言葉」■ 「 世の中に役に立つろいう心意気が 仕事に活気と輝きを与える 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Nov 5, 2009
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最近はお酒を飲む機会もぐっと減少、たまに飲みに出ても11時半か12時で切り上げて家に戻る、ところが昨日は夕方から西院フェススタッフの結婚式。その後2次会、家の近くまで戻って3次会、若い人たちと議論が弾んで、気がついたら午前3時、久し振りに長く遅くまで飲んでいた、多分こういう事になるだろうと、今日も休みのシフト、午前10時半頃に起きて、やはりまだアルコールが残っていた、昨日で西院フェススタッフの結婚式は4度目、例年、2月から毎月2回の会議、会議が終われば呑み会、7月にはいれば月に4回の会議、そして2日間のイベントを迎える、半年間イベントに備えて、密度の濃い時間を過ごす、若い男女が、当然の事ながら好意を持ち、交際が始まり、恋をして、結婚というケースがある、誰が言うともなく西院フェスラブ、ただ不幸にして結婚にいたる事無く別れたりする場合もある、そういうケースの時には2人ともスタッフを去っていき、イベントサイドとして貴重なスタッフが2人減少と言う痛手となる。 約40年前に30歳で結婚、まだ丁稚に毛がはえた程度の身分、結婚披露宴といっても実に質素、それも内容の全てがホテル任せ、親戚の人以外に招待のお客さんも極僅か、経済的にも、精神的にも余裕がなかった事を覚えている、最近はその当時に比べると豪華、親戚と仕事関係で1部、友人関係で2部、そして3次会、昭和46年(1971年)当時に比べて格段豊かになっている、それだけ将来に対する不安が少なくなっていると思わずにはいられない、考えてみると2人の男女が結婚をしない条件は恐ろしいほど多くある、結婚に至る条件はそれに比べると極々少くない、にも拘らずその少ない条件で結婚に至る、不思議といえば不思議なもので、これが縁というものだろう、結婚というとおめでとう、しかし何がめでたいのかというと、無縁の男女が、結婚に至る少ない条件にも拘らず結婚という縁を結ぶ、こういう事かなと思っていたが、息子と娘の結婚の時に、結婚によって手をかけることもなく、すねをかじられる事もなく育った立派な娘と息子が新しく出来る、この事がめでたいと強く思った。 「新郎、新婦でいられる時間は極僅か、長い人生ではほんの一瞬、これからは夫して、妻として、父として、母として、恐ろしく平凡で、時として退屈な時間が待っています、しかし幸せというものは、こういう平凡で退屈で長い時間の中にあるもので、どうか2人でそんな長い時間の中で幸せ見付けてください、本日はおめでとうございます」、ステージになった一段高い階段の踊り場で、西院フェスのPAさんの調整した良いマイクの前で挨拶、ここまでは良かったのだが、それから午前3時まで、やはり今のオレにしては飲んでいる時間が長すぎた。 ■「今日の言葉」■ 「 目的をはっきりさせれば 今なすべきことが見えてくる 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Nov 2, 2009
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家に前の自転車置き場にヨメの無印の赤いままチャリとオレのパープルのマウンテンバイクが置いてある、一応家の敷地内で、カーポート用の屋根付で、オレのは奥でヨメのが手前においてある、ある日の朝新聞をとりに出て、チラッとその自転車を見て家の中に入る、「なんか、おかしい」、もう一度出てよく見るとオレのマウンテンバイクのサドルがない、正確にはサドルをつけるポールごとない、20年程前のミヤタのマウンテンバイクだが、今のマウンテンバイクのつくりにしては少し華奢だが、フレームのラインが精悍で気に入っている、それがポールとサドルがなくなっていると妙に間が抜けた感じで、間が抜けた印象を受ける、オレはあまり太っていないので、お尻周りの肉が少ない、だから長距離を乗ったり、長距離の日が続くと、そのあたりに痛みが残るようになった、そこでサドルを取り替えることにした、カメラなどもそんな感じがするのだが、新品を買うときはそうでもないのだが、パーツを買う時は高いもので、これなら中古のマウンテンバイクが買えるかなという値段ほどの値段をだして新品のサドルを購入、サドルの後にメーカー名が入っていて、乗った時の座り心地もよく、それ以上にデザインも気に入っていた、この自転車置き場、誰が見ても家の敷地内とは分るのだが、誰でもたち入ろうとすれば立ち入る事ができる、恐らく前から目をつけられていて、サドルをはずそうとすれば、工具が要るが、ポールをはずそうとすれば工具無しでOK、サドルに目をつける事自体が少しはマニア、持って行き方も手馴れている、一日中不愉快な思いをして、夕方の近くの交番へ被害届けを出して、近くの中古自転車さんへポールとサドルを買いに行く、サドルのないマウンテンバイクを押していく時に、もう一つ腹の立つ事に、途中ですれ違った巡査に呼び止められて、「どこへ行きますか」、「近くの中古の自転車屋さんへポールとサドルを買いに行くところです、あそこの交番へ1時間ほど前に盗難の被害届けを出しています」、「それは、失礼しました」、と恐縮して、敬礼、失礼しましたとは、ひょっとしてオレがこのマウンテンバイクを盗んだと、そう思うと余計に腹が立った。 ただ、10年ほど前、商売を閉めてネットショップを始めた頃、毎日のように午後からこれに乗ってアテもなく、ただひたすらに、2年間ほど走り回っていたことがあった、そういう苦しい時にいつもそばにいてくれた友達のようなマウンテンバイク、ポールとサドルがなくなった、少し間の抜けた姿を長く人目に晒したくないという思いで、中古の自転車屋さんへ急いだ、「もう盗られたら嫌だから、安いので良いよ」、「サドルも、盗難除けに、ワイヤーの鍵をつける人もいますよ」、「そしたらマウンテンバイクごと持っていかれるかも」、そんなやり取りの後、クッションの柔らかめのあまり高くないサドルを購入。 最近チェーンが外れたり、信号待ちの後漕ぎ出すと、勝手にギアーがチェンジされたり、チェーンも随分と伸びている、ペットボトルホルダーを交換に行った時に自転車屋さんでその事を言うと、「下手に伸びたチェーンを切ると、変則ギアーとの相性が悪くなってかえってよくないという事があります」、「という事は」、「変速ギアーごと替える方が」、「マウンテンバイクごと替える方がという事」、店員さんはニヤッと笑っただけでそれには答えず、「このマウンテンバイクは約20年間乗っている、愛着もあるし、この年でサラのマウンテンバイクを買うても、後、何年乗れるか」、店員さんは相槌を打つ代わりにまたもやニヤッと。■「今日の言葉」■ 「 今日一日を喜んで働こう 充実した人生はそこに始まる 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Nov 1, 2009
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今日は仕事、朝食を食べた後いつもならテーブルでタバコを一服、ところが先週の末から娘が3歳と4ケ月の双子の男の孫を連れて里帰り、埼玉のご両親は旅行好き、年に一度は海外旅行、年に数度は温泉旅行、先週末からその温泉旅行、たまたま、娘の旦那が大阪へ一週間の出張、そのタイミングに合わせて里帰り、孫がいる日は孫と同じフロアーでは禁煙、朝食後、1階に降りる、ヨメに、「タバコ、トイレ、歯磨き」、といって下へ降りる、トイレの水を流す音がすると、珈琲を入れたポットと水を入れたペットボトルを持って下へ降りてきて、オレのリュックにそれらを詰める、歯磨きを終わって玄関にいき、靴をはき終ると、「ハイ」、とリュックを渡される、階段の踊り場に出てきた2人の孫は、「ジイジイ、バイバイ」、それぞれが口々に、年に数度里帰りをしてくる、この前は7月に、この時まで2人はいつも玩具の取り合い、ただ、兄が強い時、弟が強い時、交互にになっている、ところが今回来た時には殆ど玩具の取り合いの喧嘩はしなくなっている、兄弟を庇うという気持ちが芽生えてきている。 例えば兄を捕まえると、弟は兄を庇おうとして、足や腕に噛み付いてくる、里帰りをしている時は毎日ほど息子のところの孫も遊びにやってくる、2歳と10ケ月の一番年下の孫、いつも玩具を取り上げられたり、「それは、さわってはダメ」、といわれている、ところが最近では自分の気に入った玩具をつかんだら離さない、普段から鍛えられているからこういう時には強情、「嫌だ」、と離さない、すると兄は大きな声で、「その玩具は弟のだから離せ」、と怒る、何度も何度も、それでも離さないと、興奮して涙を流しながら、「離せ、弟に返せ」、と怒鳴っている、ところが兄は怒っているのに弟は知らん顔、そこで兄は弟のところへ行って、今度は弟に、「前のためにこんなに怒っているのに」、弟に怒りをぶつける、2人を風呂に入れていて、「さあ、シャンプー」、というと、弟は、「お兄ちゃんから」、といい、お兄ちゃんは、「いや~」、とも言わないで先にシャンプーを済ます、もう2人にはこういう意識が自然と出来てしまっている、次はもう来年になるだろう、どんな風に2人は変わっているのだろうか、それが楽しみ。 2人は朝の眼が覚めるのもほぼ同時、3階の床に小さな足音が響く、ヨメとオレが寝ている部屋をまずのぞく、「もう、起きて照るよ」、「降りよう」、今度は階段を降りる小さな足音、声を揃えて、英会話の幼児用CDをいつも見ているので、「グモーニン」、それから駆け足で玩具箱へ、一日の始まり、「デザート、食べて良い?」、自分に小さな椅子をコタツのテーブルに持ってくる、お兄ちゃんは赤い椅子、弟は黄色い椅子、兎に角よく食べる、好き嫌いはなし、食べ終わると早速玩具、今は2人とも恐竜と動物のフィギュアーに夢中、遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ、パワー全開で遊び始める、疲れれば昼寝、お腹がすけば何かを食べる、夕方の風呂でさえ、風呂用の玩具を湯船に持ち込んで、騒がしいほど声を張り上げて、夕食を済ませると少し眠くなる、こうなるとくずって来る、叱られると泣く、泣いていてもいつか泣き声が止むと眠っている、また玩具を手に持ったまま寝てしまう、これで騒がしかった一日が終わる、嘘のように家の中が静かになる、今日の昼の新幹線で埼玉へ戻っていく、仕事が終わって家に戻るといつものようにヨメと2人きりで静か、「チョッと疲れたね」、「1週間くらいが丁度良いね」、「気兼ねなく、何処でもタバコが吸えるね」、ヨメと2人で寂しさを紛らすために、いつもこんな会話、そんなことを考えながら通勤のバスの中、河原町丸太町で降りるために、市役所前を過ぎると席から立って、窓の外を見ていると、降りる駅の少し手前にいつも行く蕎麦屋さん、店の表に新蕎麦の張り紙が2枚。 先週の土、日が出勤で、2日とも昼食はその店で蕎麦、土曜日は10割蕎麦の天ざる、日曜日は温かい花巻そば、この時は新蕎麦ではなかった、昨日は金曜日で、5時間の中抜け、家に戻って昼食の日、だからかも知れないが、その蕎麦屋さんの新そばの張り紙は気がつかなかった、今日からか、気持ちはもう昼食の時の新そば、長い間、11月くらいになると蕎麦屋さんに新そばの張り紙を目にしているが、別になんという事はなかったのだが、今、昼食の時に行く蕎麦屋さん、手打ちそば100%、一日10食分だけ10割そばの店、この店では新そばというのがわかる、去年まで10割蕎麦は北海道の幌加内産の蕎麦を使用、だから10月の始めに新そば、ところが今年から福井産の蕎麦を使用との事、だから新そばは例年より遅く昨日からになったという、朝の出勤の時に見た新そばの張り紙、10割蕎麦を打つのは一日10食分だけ、昼に行く頃には、売り切れではないかという不安、いまだ一度も昼にいって10割蕎麦が売り切れという事はない、ただ食べている時に後から来たお客さんが10割蕎麦を注文をして、それで売り切れという事は何度かある、お客さんも普段は28蕎麦を食べるが、新そばの頃には10割蕎麦というお客さんもいると思う、店に入って10割の天ざる大盛りと注文すると、売り切れではなかった、「昨日から新そばに切り替わりました」、「チラシが貼ってあるのを見て、楽しみにしていました」、ここの手打ち蕎麦は極細めん、ソーメンよりもやや太い目くらい、ゆでる時間は極短い、10数秒で引き上げて冷たい水で洗い、てんぷらが出てきて、大盛りの蕎麦、やはり普段よりも色が心持白っぽい、濡れた蕎麦が普段よりもつやつやしている、10割蕎麦の時には、小皿に塩が一つまみ付いてくる、その塩を蕎麦に振りかけて、そばつゆにつけないで塩だけで食べる、「ズ、ズルズル」、一気に口に入れて、喉を越す、「ぷは~」、と声が出そうになるほど弾力性がある、確かに、1年ぶりの新そば、この弾力性に覚えがある、新そば独特の蕎麦の弾力性、食べるのは大盛り、1人前を過ぎた頃から、蕎麦が細い分だけすこしみずっぽく感じる時がある、新そばだとそれが全然ない、最初の一口目と、最後の一口まで味が少しも変わらない、「あ~、旨かった」、食べ終わって思わず声が出てしまった、「それは、よかったです」、「新蕎麦の時は、明日も、明後日も食べたいと思うよ、ただ残念ながら、今度来るのは来週の末」、「辛味大根は、まだまだ先?」、「この温かさなので、辛味が増してくるのは12月頃でしょうね」、「そうやけど、この新そばの風味を年内は楽しめる」、店を出ていつもはタバコに火をつけて、吸いながら歩き始めるのに、今日は口に残る新そばの余韻を愉しむように、タバコを咥えないで歩き出した、マンションに戻る途中に飲み物を買いにコンビニによる、歩きながら口に残る蕎麦の弾力性の余韻、口の中に残る新そばの香りと風味、タバコを吸うとそれが消えてしまいそうで、それが勿体なくてなかなかタバコに火をつけられなかった。 新そばの時にもう1軒立ち寄る店がある、出町柳の駅前の女主の手打ち100%の蕎麦屋さん、ここは島根さんの蕎麦を使用、新そばは11月中旬ごろ、ここは茶色味がかった田舎蕎麦、もっと蕎麦の風味が強く、腰のある、しっかりとした男性的な蕎麦で、女主のこだわりでワサビは蕎麦の風味と喧嘩をするので、ここの薬味は自家製の一味唐辛子のみ、おろしわりご蕎麦、3段に重ねた椀に蕎麦を小分けにして、それぞれに大根おろしと鰹節、海苔、葱を載せて3段重ね、大盛りにすると5段重ねになる、1段目と5段目は蕎麦だけにしてもらう、オレ流にこうして食べるほうが新そばの風味が楽しめる、髪の毛や、睫や、眼鏡に蕎麦粉が降りかかった女主が、ニコニコ顔で、新そばは打っている時には弾むようで、打つのが普段よりも楽しいです、紅葉の盛りの頃にこの出町の蕎麦屋さんも訪ねようと思っている。 ■「今日の言葉」■ 「 時間とは自分の命である今日 という一日を真剣に生きよう 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Oct 31, 2009
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「ともに生きる」、をテーマに、一人ひとりの命を大切に、みんなが助け合って生きる社会をめざして、本年も開催、全国の美術家・宗教家・文化人ら約1、250人から寄贈された作品約1.550点を展覧、来場のお客さんの入札システムで、その収益を福祉活動の基金とする作品展、京都新聞社会福祉事業団、京都新聞社の主催で、京都高島屋の7階グランドホールで10月30日から、11月3日まで、第27回 京都新聞チャリティー美術作品展が開催、実はこの催し物で、絵画の入札、この催し物が開催中に、入場料無料の会場へ行き、入札カードを受け取り、気に入った作品番号、入札価格、住所、氏名、電話番号を書き込んで、入札受付ボックスに投函し、催し物期間終了後に集計をして、人気作家の作品や人気作品には多数の入札者があり、当然の事ながらこれだけの多くの作品のために無入札作品も出てくるが、作品番号、作家名、作品名、所属グループを書いた札が作品に下につけられていて、作家さんの希望により最低入札価格が書かれている作品もあり、その作品の最高入札価格の人がその作品を買う権利が出来る、催し物終了後1週間から10日ほど後に、落札者にその旨の通知が来る、後日、指定の日に京都新聞社の7階ホールへ、落札通知書と作品購入のお金を持参して作品を引き換えという事になる、またその時に無入札作品に価格をつけて、即売もされる、この即売も結構人気があって、入札しようかどうか迷って、結局入札しなかった作品が即売されていて、その即売価格が入札しようと思っていた価格よりも安かったり、ほんの少し高い目くらいでも買い求めるという即売のフアンもいる。 絵画を買うという事に無縁でもあったが、祇園のある小さな割烹屋さんのお客さんに絵描きさんも多くいて、顔馴染になり、その店の女将さんに、「先生方の作品も出ていますよ」、とこの催し物に誘われて、絵画に入札を初経験、入札となると、物凄い数の作品ながら、熱心に全てを見て、高名な作家さんの作品はやはり素晴らしい、しかし入札価格も凄い高額だろう、名前を知っている作家さん以外で、兎に角好きな絵を数点、作品ナンバーを控える、大方の予算を決めて、数点入札をする、残念ながら最初の年はどれも入札が出来なかった、後に聞いた事だが催し物の期間の中頃から、5人以上の入札者のある作品には印がつけられるという事だった、初経験で絵画作品の入札という行為にはまってしまった、来年こそはきっと落札、そんな思いで来年のこの催し物を心待ちにするようになり、その翌年のこの催し、期間中に2度訪れて、2度目に入札をする、あまり有名でない作家さんの作品でも、不思議と前年に入札をした作家さんを覚えているもので、最初の年に入札した作家さん全てに前年よりも少し高めに金額を入札、そして他の作家さんの作品も入札、広い会場に多くの作品を展示、地味な作品が、死角のような場所に掲示、きっとこういう作品には入札が入りにくいであろうと予測、チャリテイで作品を寄贈された作家さんにはいささか失礼だが、こうなると少しギャンブル性も帯びてくる、この年にようやく1点落札の通知が来た、引き換え日を待ち遠しく感じながら、勇んで京都新聞社の7階ホールへ、記念すべきこの作品は今でもリビングに飾っている。 何度目かのこの催しの時、世はバブルの末期、オレの懐具合も豊か、気が大きくなって高い目の値段で入札、そして落札通知、5点も落札という通知、5点の落札金額を合計すると、ン十万円、落札取り消しの場合は何日にまでに連絡すれば次点落札者が落札と書いてあった、どれか1点か2点ドロップ、そう考えて見たものの、どの作品を取りやめにするか、これが結構、難しい選択、結局落札分の全て引き換えに行くことになった、こういう絵画作品の落札という、少しスリリングな楽しみ、それ以上に、自分の気に入った絵画を家に飾る、こういう楽しみも経験、ところが会社を整理した後、無収入の時期に支払いと借金の返済、その時に少しでも換金と思ったのだが、この程度の作品ではせいぜい売る時には額代程度の金額、そのあまりにもの安さのために、数点だけ処分をしただけで殆んどが手元に残る事となった、今となっては最近では入札するだけの余裕が無い、見れば欲しくなるのが人情、じっと我慢をして会場へ足を運ばないことにしている。■「今日の言葉」■ 「 人を尊ぶ心に目覚めてこそ 自分の働きが周りに役立っていく 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Oct 28, 2009
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鶏の肝の時雨煮に針生姜、鶏の刺身、鶏のスープ、玉葱のスライスの上に蒸し鶏、ピリ辛のたれかけ、鶏のつくねの焼き鳥、その次に鶏の手羽先とチューリップのから揚げ、鶏のきらいなオレが鶏のフルコース料理、ここまでは食べたが、ついにこのから揚げでギブアップ、その後の数品の鶏料理を省略して、最後に美味しい卵の卵かけご飯を食べて、「ご馳走さん」、若い頃に人のおごりで連れて行かれた、鶏料理の専門店、この店へ同じ人がもう一度、店についてから、「君は鳥が嫌いやったなァ」、「いいえ、ここの鶏は別です」、相手の人に気を使っての返事であったが、ここの店の大将、お客さんも少なくて、カウンターの中で色々な話、元繊維商社のサラリーマン、独立して商売、数度の失敗を繰返して、今の鶏料理の専門店、店名は七転び、八起きからつける、これがもう約40年ほど前の話。 以来この店には一度も足を運んでいない、バブルの最盛期には多くのホテルに出店、雑誌にも度々掲載、名の知れた店、仕事中、或いは会社の帰り道、この店の前をタクシーで通ることがよくあった、大将はいつも本店で仕事らしく、タクシーで店の前を通りかかるとお客さんを見送りに出てくる姿を度々目撃、「有難うございました、またのお越しをお待ちしています」、と深々と見送りのお辞儀、お客さんは店の前からタクシーに乗り込む、タクシーが走り出すとすぐに信号、赤だとタクシーが停車、やがて信号が青に変わってタクシーが走り出すまで店の大将はお辞儀をしたままである、普通ならお客さんがタクシーの乗り込むまでのところを、オレがこれを度々見かけている、お馴染みのお客さんがこれを見かけると、この店をますます、贔屓にしたくなるであろうし、もしオレが鶏好きならば、もっと足繁く通った事であろうと思う、これは残心というヤツで、お客さんには最後の最後まで礼をつくす、むしろ最後の最後が1番肝心である、という事だと思う。 オレがたまに遊びに行く店で、その店では同じ女性を指名、遊んだ帰りに店の前まで送っていく、「楽しかったよ、また来るね」、「いつもありがとうございます、また近いうちに」、可憐という言葉の年齢はもうとっくに過ぎているが彼女の笑顔には可憐とい言葉がふさわしい、その笑顔に答えて、帽子にひさしの前をつまんで、「じゃあ」、と挨拶をして帰る、細い急な登り坂を20メートルほど登って広い通を左へ曲がる、「近いうちに」、といわれても、今のオレの小遣いでは次に来るのは、30日後か、60日後、もっと頻繁に、2週間に一度くらいはきたいのだが、なんということを考えながら急な坂を登りきる、一度も後ろを振り返ることはしない、きっとオレが、「じゃあ」、といって後すぐに店の中へ消えたと思い込んでいる、だから今まで一度も後ろを振り返ったことはなかった、先日、広い道に出る手前で後から声がした、彼女と遊ぶようになって1年以上経つ、10数度目、後ろを振り返るのは始めてである、後ろを振り返ると、店の入り口で、見送ってくれている姿が見えた、オレが振り返ると、頭を下げてお辞儀をした、そうか初めての日から、決して後ろを振り返らないオレを、広い道に出て左に曲がり、姿が見えなくなるまで見送っていてくれたのか、初めての日はもうイッパイ、イッパイでした、ただ私にも出来るんやという気持ちと、元々接客の仕事は好きでしたので、どんな仕事でも一生懸命にする、ますます、彼女が気に入った、今度あったときに、究極の接客態度、残心の講釈でもしよう。■「今日の言葉」■ 「 言い訳をしたい気持ちを捨てなけ れば実のある反省はできない 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Oct 26, 2009
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テレビや映画などにマンションの管理人が画面に登場する時、大概、こっくり、こっくりと居眠りをしているか、新聞や本などを読んでいるところが出てくる、オレはというとノートパソコンでこのブログを書いている、或いは新聞か本を読んでいることが多い、居眠りをするという事はないのだが、1年程前に遠近両用メガネを新調、以前に使っていた遠近両用メガネは、室内でははめていられるが、屋外では1時間くらいなら辛抱が出来るがそれ以上となると我慢ができなくなる、その新しい遠近両用メガネを作る時に、度数を調整するのに随分と機械化されていて、以前は結構、原始的な調節の仕方をしていたような気がする、その証拠に今回の新しい遠近両用メガネははめた瞬間から遠近両用の違和感は全くなかった、随分と字が読みやすくなった、ところがそれも僅かな期間、半年を過ぎる頃から老眼の度が進みだしてきて、今では随分と読みにくくなってきた、それでも新聞を読むのが好きだから、よく新聞を読んでいる。 今まであまり本を読まなかったのだが、このブログで、「戦後の京の街のフーゾク史」、を書くに当たって、その参考となる本を読み出している、ところが本を読み出すとどうも本を読むのが癖になるらしく、またたまたま家の近くに大きな書店が出来たために、本を買うことが増えて来ている、谷崎潤一郎が70歳半ばにして、「鍵」、「瘋癲老人日記」、を書き上げ、しかも病のために執筆する事が出来ずに、口述筆記にて完成させたと聞く、読んではいないがその中身たるや、老人のセックスを扱ったエロイ小説という事は想像が出来る、「細雪」、あたりから読み出せば良いものを、この本から読み始めている、60歳を前にした夫が、これは男性の誰もが経験する事だが、性に対する欲求は老いる事無く若いが、肉体はそういうわけには行かない、10歳年の離れた妻が、幸というか、不幸なことに、所謂名器の持ち主で、外にはそういうところを一切見せないのだっが、性的欲求は強い、その妻を喜ばす事が出来なくなり、自分の性的機能の回復のために、普段からつけていた日記に妻との性の営みの事を書き始める、夫は以前から妻が日記を盗み読んでいる事をうすうす知っていて、妻との性の営みを日記に書きだす様になってからは、意識的に妻に盗み読みを進めるようになる、例えば日記を入れている引き出しの鍵をわざと部屋の床に落として置いたりして、そして妻も日記をつけて、夫も妻の日記を盗み読むようになる。 小説では夫の日記がカタカナで書かれていて、妻の日記はひらかなで書かれている、夫婦の間で性の営みの事を話題にする事ははしたない事として躾けられて育った妻、夫も妻の影響を受けて夫婦の間ではそのことを話題にする事無く過ごした結婚生活、性に関するコミュニケーションを日記の盗み読みという形で図ろうとする、夫は嫉妬心により性機能の回復を図ろうとする、そこに娘と、娘の男友達が絡み、妻とその男友達が浮気、実際には一線を越えない浮気を願望していたのだが、そこは夫婦の互いの日記の盗み読み、嫉妬だけではなく、嫉妬に駆られた妄想までが沸きあがり、夫の性的欲求に体力がついていかずに、身体を蝕む薬に頼ってまで、妻の性的欲求に応えようとする夫、そのように仕向ける妻、妻に娘が絡み、その男友達も絡み、ついに夫は腹上死をするというストーリー、途中で夫は妻の裸を明るい場所で見た事がなく、お酒によって深く眠り込んでいる妻を全裸にして、煌々とした灯の元で妻の全裸身体の隅々まで見る、またポラロイドカメラで撮影をしたり、カメラで撮影をしたり、妙にドキドキする描写のあたりで、住人さんがマンションに戻ってきて、「こんばんは、何を読んだはりますねん」、「谷崎潤一郎です」、「そうですか」、この奥さんは谷崎潤一郎の事をどれほどご存知かは定かではないが、「そうですか」、の声にどこか、「凄いですね」、と敬意を込めたニュアンスが含まれていた、得な作家というか、文豪というイメージが付きまとっている、次に読む予定が、「卍」、その次が、「痴人の愛」、と、「春琴抄」、の予定である、ひょっとすると谷崎潤一郎を読むのはこのあたりで終わるかもしれない、こういうのを偏食ではなく、「偏読」、というのかなァ。■「今日の言葉」■ 「 物や金だけをあてにしていると やがて虚しさを感じる時が来る 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Oct 22, 2009
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さあ昼、管理人事務所の中に電話&ファックス機、エアコンのコントロールシステム、警備危機盤、時計、ビデオ録画機、幾つもに時計が付いている、そのどれもが少しずつ時間がずれている、オレの腕時計、デザインが好きで気に入っていて、扇形をしていて、慣れるまで時刻が見難い、これが1番正確なのだが、館内から退出の時にはこれらの中で1番時間が遅れているビデオ録画期の時計が12時を過ぎると、退出する事にしている、住人さんの中で、管理人の出入りの時間を小まめにチェックしている人がいる、管理人という仕事の信用のなさに愕然とする事があるのだが、時折、来るのが遅く、帰るのが早いという事を管理会社へ文句、管理会社も館内の退出、入室時には必ず警備会社と警備の受け渡しをしているのでその時間が記録されている、それだけではない勤怠管理システムが今年の3月から導入、フリーダイアルで出勤時と退出時に社員番号を入れて出勤、退勤を登録する事になっている、こういうクレームの時に管理人の出勤時間と退勤時間は2重にチェックできるようになっています、「半年分、或いは1年分チェックしましょうか」、という事ぐらいいえば良いものを、曖昧な返事をして事を丸く治めようとする、それに対する一種の抵抗でもある。 そうして正午が過ぎるのを見計らって、管理人事務所の窓を閉めて、施錠、ビデオ、エアコンの電源をオフ、警備会社へ警備依頼のボタンを押して、ピッピッピッ、と信号、そこへ認識札をかざすと、音声で、「間も無く警備を開始します、退出してください」、これを何度も繰りかえす、この間約20秒、換気扇と照明をオフのして、退出して、ドアーを閉める、暫くして、「警備を開始しました」、これで管理人事務所の警備は警備会社に渡る、管理人事務所の前と後ろのドアー、2つの窓が開けられると、警備会社へ異常信号が流れて、警備員が駆けつけるというシステムになっている、もう3年半余り、これらの手順は身体に染み付いている、外に出ると、からっとしていて、実に爽やか、風邪気味で鼻が詰まっているオレにも分かるほど金木犀が匂って来る、歩くとすぐにまだ痛みが出てくるオレでも足取りが軽くなる、竹屋町通から河原町通へ、信号を西に渡って、元来、蕎麦好き、昼食を仕事場の近くで食べるのは週に一度か二度、いつもの蕎麦屋へ、店の前にいつもより自転車が多い、混んでいるな、大体想像が出来る、店に入るとやはり満員、マンションの住人さんの母と子連れも、カウンター5席と奥に4人掛けのテーブル席が1つ、そのテーブル席のお客さんが帰るところ、テーブルの後片付けが終わって、オレ一人がその席に座る、「いつものヤツ(10割蕎麦の天ざる大)」、「いや昨日と続くから花巻の大」、なれた店だとこういうやり取りが楽である、どうしても慣れた同じ店になる、ここは北海道の幌加内産の蕎麦粉を使用、そのために普通の蕎麦屋さんよりも新蕎麦が早い、新蕎麦の時期だとザル蕎麦が2日続きでも、3日続きでも、あの新蕎麦の弾力性、何日でも続けて食べられるのだが、今年は新蕎麦はまだ、というとで昨日の昼には10割蕎麦の天ざる大を食べている、今日は店の中に新蕎麦の張り紙が出ていない限り花巻ときめていた、温かいかけそばに、焼き海苔を1枚のせて、真ん中に少しくぼみを作ってそこへ鰹節をたっぷりと乗せた、いたってシンプルな蕎麦、運ばれてくると海苔と鰹節の香りがして、箸で海苔を4等分に破って、真ん中にたっぷり目のワサビを溶かし込む、海苔と鰹節の香りと一緒に蕎麦を味わう、そばだけではないこれは出汁が海苔と鰹節の香りと味が増し、ワサビの風味と刺激も加わり、一層美味しくなる、出汁を一滴も残さずに最後まで飲んでしまう、出汁でお腹がふくれてしまう、来週の週末ぐらいには、新蕎麦に切り替わり、もう少し寒くなれば、鷹が峯の農家と契約の辛味だいこん、新蕎麦のおろし蕎麦、蕎麦の弾力性と、舌が痛くなるほどの辛味の大根、待ち遠しい。 ■「今日の言葉」■ 「 よく話し合うことは安らぎの ある家庭を築く始まりとなる 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Oct 18, 2009
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最近良く眠れる、とういよりもいくら寝ても眠たい、休みの日などは、機嫌よく寝ていると、起きると昼過ぎとい日もある、こういう日は、何も出来ずに一日がすぎてしまうという事もある、だから休みの日でも午前9時に目覚ましをけて起きることにしている、朝食をすませて、タバコを吸って、また暫くの間、転寝をすることもある、仕事の日の中抜けの時、昼食後にも昼寝、夕食後、ビールを飲んでいるためにまた転寝、今日の休みもそのパターンのところ、午後の2時くらいからマウンテンバイクで外出、寒くもなく、マウンテンバイクで出かけても汗もかかない、こういう気候の日は年間でそうそうあるわけではない、だからといっていく当てもない、そうだ仕事場の近くの家の2階に仁丹のホーローの町名表示板がある、ここの2軒東の路地奥長屋の入り口にあるのは知っていて、そこは以前に写真を撮っている、よく通っているのに全く気がつかなかったのだが、そこの写真を撮った数日後にそこの2階にもあるのに気がついた、またいつかと思い続けていた、まさか虫の知らせでもあるまいが、そこへ行こうと走り出し、仕事の日には丸太町通りを西大路通の円町から河原町通りまで、1日に3度バスに乗って通っている、堀川通りから烏丸通までの間にお地蔵さんが3つある、それを撮りながら目的地に向かう。 そのお地蔵さんの3つ目、烏丸通の直ぐ西の、十二段屋という店の横、細長い5、6階建てのビルになっていて、恐らくこのビルの建設の時にビルにお地蔵さんの祠をはめ込むように新築、祇園の花見小路の一力の直ぐ南に店があり、ここはそこの支店、或いはのれんわけの店、もう約10年余り前の秋に、お袋が府庁前の近くの第2日赤に入院、腸の腫瘍の手術が必要となった、その手術の説明と同意書に署名捺印のために主治医はオレに病院へ来て欲しいという事であった、オレとオヤジの2人で主治医と会う事に、その頃オヤジは85歳を過ぎていた、別段、認知症でもなく頭ははっきりとしていた、ただ7つ歳下のお袋が大病という事で、夫婦2人きりの生活が長く、もしお袋が先に死ぬような事になれば、そう考えるとショックも大きく、激しく動揺をしていた、主治医の先生がオレに手術の同意書に署名捺印を求めたのも、そのセイであった、まず腸の腫瘍のレントゲン写真とバリウム検査の写真のフイルムで、病状の説明、造影剤でもう少し詳しく検査、この造影剤の投入時に非常事態が起きる可能性がある、その時の応急処置のうちで手術という可能性もある、その手術の際の同意書にまず署名捺印、主治医の現在の判断として、手術によって腫瘍を除去、これがベスト、腸の手術の同意書に署名捺印、主治医との子のやり取りの間オヤジはじっとうつむいて、時折大きな溜息をつくだけであった、急にオヤジの元気が無くなり、一期に老け込んだような気がした、また当時オヤジの身の回りの世話をしていたヨメから、オレだ旺盛だったオヤジの食欲がめっきり落ちてきていると聞いていた。 主治医の説明が終わり、手術の同意書の署名捺印が終わり、沈んだ気持ちで病院の外に出ると、まだ午後の5時過ぎとは言うものの周りは薄暗くなりかけていて、より一層気分がめいった、オヤジに、「晩飯でも食おうか」、声には出さずに頷くだけであった、「十二段屋でもいこうか」、ここでやっとオヤジがニッコリと笑った、オヤジの歩くスピードに合わせてユックリと店に向かう、この店ではいつもお茶漬けを食べる、「刺身を頼むか、それとも出汁巻きか」、「出汁巻やなァ」、という事になった、ここの出汁巻きは巻く事が出来るぎりぎりの出汁が入っていて、出されると、熱々を直ぐに食べてしまわないと、直ぐに水分が出てくる、オレは早食いで、オヤジはユックリと食べる、そのオヤジもオレと同じペースで出汁巻を食べる、小さいお櫃に炊き立てのご飯、茶碗に軽く3杯分ほど、お皿に7、8種類のお漬物、大好物というわけではないが、ここのお漬物は野菜サラダ感覚で食べられる、お漬物もご飯も旨い、最後にご飯にお茶をかけて、漬物を食べる、オヤジも完食、笑顔を見せながら、「ここんところ食欲がなかったけど、久し振りに沢山食べた、おいしかった」、オヤジの嬉しそうなこんな笑顔、オヤジが亡くなるその後の数年間で最後だったような気がする、そんな事を思い出しながら、その店の西はしにあるお地蔵さんの写真を2枚撮ってから河原町へと向かう。 そこからは仕事場の近くの仁丹のホーローの町名表示板のある家へ、仕事場の住人さんに会わないようにと思いながら、竹屋町通を東に向かう、目指す家の前に小型のダンプが止まっている、荷台には古い柱などが積まれていて、とび職のような若いアンチャンが家の中から柱を担ぎ出しては荷台へ、マウンテンバイクを止めて、リュックからカメラを取り出して、その時に作業をしているアンチャンの1人と視線が合う、帽子のひさしに手をかけて軽く会釈をして、「兄ちゃん、取り壊し?」、「今日から3日間で取り壊し」、「へ~、そうかァ、ぎりぎりセーフやった」、といって町名表示板を2枚写真撮影、そのアンチャン仕事をしながも、「このオッサン、なんやァ」、とばかりにオレのほうを見ている、「この仁丹の町名表示板の写真を撮るのが好きなんや」、物好きやなあという視線、「家主さんこの看板のこと、何かいうてはった?」、「別に何も、何やったら今はがそうか、持ってかえる?」、「いや、この看板を集めるのが趣味とは違う」、と丁重にそれは断って、そこを立ち去る事に、ここは土・日・祝日の仕事の日、昼食を食べに行く時の通る道、シフトから行くと次にここを通るのは17日の予定、今日ここに来なければその日の前の日にこの家はなくなっている、「しまった~」、という事になっていただろう。■「今日の言葉」■ 「 子供の我が侭に妥協をしていると 親も子も物事にけじめを失う 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Oct 14, 2009
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小学校・中学校の同級生からの手紙、男らしい、カチッとした丁寧な、宛名書きで、一目で誰からの手紙か分かる、同窓会の幹事をよくしている、地元、西院に留まって小さな鉄工所を、未だに埃だらけになりながら営んでいるやつで、大柄で、柔道が強く、勉強もよく出来、ところが同窓会には顔を出さない、彼に合いたいという人も多く、ある時の同窓会の時、行きたがらない彼を無理やり同窓会へ引っ張り出す、彼は一時期自閉症気味で、未だに独身、初めて出席をした同窓会を切っ掛けに、元来の面倒見の良さ、それ加えて几帳面で、律儀、万年同窓会の幹事、彼は同窓会の案内状をコピーや印刷ではなく、二百数十枚の同窓会の案内状を全て手書きで郵送、約8年ほど前の3月に還暦記念の同窓会を開催、以後この同窓会の幹事団は半ば固定、出席率が極端に悪くなり、それだけではない、郵送した同窓会の案内状の約3分の1くらいが、出欠の返事も来ないという状況、一昨年の春の同窓会の折に、同窓会の幹事団を引き継がないで、解散する事に決定、何度も集まりをもって、計画を立てて、案内状を送っても参加者も少なく、返事も来ない人が回数を重ねるごとに増加、こんなに関心がなくなったのなら、以後同窓会をやめようではないかということがその趣旨であった、比較的同窓会好きの、いつも出席率の良い有志だけで、11月の中旬に日帰りのバス旅行の企画、相変わらず彼の手書きの手紙とバス旅行のプランのコピーが同封されていた。 今から約30年ほど前の秋、西院春日神社の祭りの日、子供をつれて神輿の行列を見ている時、また夜店をぶらついている時、中学校を卒業して、10数年が経過、未だに同窓会を一度も開催していなかった頃、その祭りの時に出会った同級生が、口々に一度同窓会をしよう、そうやねえ、という会話、その後に電話がかかってきて、同窓会の開催のために一度集まろうではないか、という事になり、夜に喫茶店で集まる事に、10数人が集まって、中学校の3年生の時のクラスの代表をきめて、卒業名簿を頼りに現在の住所調べ、中学校の卒業時の住所に住んでいる人、親が現在もその住所に住んでいる人、そこから現在の住所を教えてもらった人、最初の1ケ月くらいで住所がわかった人は、全体の約半数、住所のわかった人の元へ、来年の春くらいに同窓会の開催予定、現在住所のわかっている人達の名簿、現在住所がわからない人と年賀状のやり取りなどで住所をわかっている人は同窓会事務局まで連絡のお願いを出す、そうした結果、卒業時、250名の同窓生のうちで約3分の2ほどの現在住んでいる住所が判明、兎に角、春ごろに同窓会を開催しようという事を決定、5月の末に、鴨川四条大橋西南角の中華料理店、東華菜館で午後2時からの開催を決定、同窓生約200名弱に同窓会の案内状を郵送。 まず、返事が帰ってくる早さと、出席の返事の多さに驚き、中学校を卒業して約15年余り、年齢も40台に突入、同窓会の開催を待ちかねていた様子で、出席が約100人という予想を大幅に狂わされて、約150名余りが出席の返事、当日、開催は午後2時から、受付は午後1時からの予定、きっと待ちきれなくて早く来る人が多いから受付は12時からに変更する、この受付開始時間を1時間始めて正解であった、12時少し前に受付の机を準備を始めると、そこへもう早くも数人がやってきた、エレベータに乗って上がってくるもの、階段を登ってくるもの、開始時間の2時間前、にもかかわずどんどんやってくる、受付のところで、「久し振り」、「誰か分かる?」、「○○さんやァ」、もう立ち話で盛り上がり、受付のところが団子状態、出欠のチェックも、会費集めも出来ない、来た人から順に、中学校3年生のときのクラスのテーブルについていってもらう事に、始まる1時間前に出席者のほぼ全員が集合、店の人に開始を早めて良いかと聞くが、料理は間に合わない、飲み物くらいならすぐに準備が出来るという事になって、先生が揃い次第始める事にして、飲み物が各丸テーブルに運ばれてくる。 部屋中が異様な興奮した熱気に包まれていて、今思うと約30年前、40歳代の入り口、男はいまだ人生の終着地点が見えていず、これから、まだまだ、ぎらついていた時代、女性もまだ若さも残っている、この日の前に美容院へ行き、念入りに化粧、思いっきり着飾って、これからまだ一花も、二花も、実に艶やか、中学校時代に殆ど目立たなかった女性が、大いに変身、小学校も中学校も完全に同一学区、6年間ではなく、9年間同じ顔ぶれで学校生活、それでも、「私は、○○です」、と挨拶をされても思い出せない、中には小学校や中学校の時のまんまという人もいる、出席の先生が揃ったところで、兎に角、乾杯の挨拶で同窓会がスタートする、それから2時間余り、ビールを飲みながら話ばかり、予定の2時間、宴会場のリミットの時間、各テーブルの中華料理は殆ど手付かずのママ残っていた、名簿の住所欄の空白の人は住所の分かっていない人、知っている人は幹事まで連絡のお願いをして、この同窓会は4年ごとに開催を約して散会。 この後、幹事だけで足洗いの2次会、ホッとした途端に空腹が感じられて、うどんを食べる事に、その時に誰かが、「この同窓会、4年に一度やったら、10回で80歳かァ」、この言葉で、馬鹿みたいにテンションが上がっていた、3時間余り、急にテンションが下がっていった、そこで会の名前を春日会と決めて、次回から小学校と中学校の先生を招待、小学校から私立の中学校へ行った人も同窓会の対象とする事に決定、4年後の開催を約して、第1回の同窓会は盛大の中無事に終了、以来数回の同窓会を経て、全員が還暦を迎える前の3月の還暦記念同窓会を開催、小学校、中学校の先生の大方は物故、同窓生の中にも数名の物故者、乾杯と共に物故の先生と物故の同級生に献杯、4年に一度の同窓会の開催を2年に一度の開催に決定、ところが第1回の同窓会の時以来回数を重ねるごとに出席率も悪くなり、出席人数も減少、還暦同窓会の時には一瞬歯止めが利いたのかなと思ったのだが、以後は出席人数も減少し、挙句の果てに返事も来なくなる、わからないこともない、時間には余裕は出来たが、同窓会へいくとなると女性は着る物、美容院、会費、等もいる、生活の余裕度と、同窓会のマンネリ化、幹事にしても第1回の開催の時ほどの熱意もなくなってきている、仕方ない事、もう間も無く70歳を迎えることになる、同窓会に出席できる時間的余裕、経済的余裕、それと健康、これに感謝しなければいけない年齢に、ましてや幹事ができる事に喜びを感じる年齢になってきているといえる。■「今日の言葉」■ 「 人のために苦労することは そのまま自分のためにもなっている 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Oct 6, 2009
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10月の声を聞くと地元の西院では、恒例の10月の第2週末に行われる、西院春日神社の秋期祭、観光のお客さんが訪れるような神社でもない、境内も大して広くない、所謂、地域の氏神さんである、近隣の氏神さんを見てみると、春や秋にお祭が催されるが、神輿があっても担ぎ手の不足で、みこしは境内に置いたままの居祭、また神輿が氏子区内へ巡行に出ても、巡行コースの殆んどが台車の上、夜店も寂しい夜店、こういう神社が殆んどだが、西院春日神社も古い重量級の神輿が2基あって、西の神輿、東の神輿と呼ばれていて、オレが子供の頃には、この近辺に田圃も畑も多く、必然的に農家も多く、当時の農業はいまだ機械化されていずに、人の力が頼り、農家のおやじさんも息子連中も屈強、まだまだ娯楽も少なく、年に一度のお祭、神輿を担ぐことは大きな娯楽でもあった、農家の親父さんや息子連中は西の神輿、当時、西大路三条に組事務所があって、そこの若い衆が東の神輿を担ぐのが恒例になっていた、神輿巡行の灯は朝から風呂に入って身を清めて、身を清めるのは身体の外だけではなく、中も清めるという事でお酒が入り、丁度出来上がった頃が神社の集合時間、西の神輿の担ぎ手も、東の神輿の担ぎ手も、共にライバル心、神輿を担ぐ前から担ぎ手同士のいさかい、この時はさすがプロである、東の神輿の担ぎ手の方が元気である、正午に境内を出発して、氏子区内を巡行して神社へ戻ってくるのが午後の5時過ぎである、東の神輿の担ぎ手の方は体力不足で、もうその頃には疲れてヘロヘロ状態、片や西の神輿はというと、当時の農業は日が昇ってから日が沈むまでの間は肉体労働、日頃の身体の鍛え方が違う、毎日の農作業よりも神輿を担ぐ方が時間も短くて、神社へ戻ってきても体力に余裕、2基の神輿が神社の境内へ戻ってきて、最後に神輿が拝殿の周りを3周する拝殿回しという、勇壮な荒業が残っている、西の神輿は元気に、長柄をきしませて、神輿の金具をシャンシャンと元気よく鳴らして、狭い境内を、力強い、「ホイット、ほいっと~、ホイット」、の掛け声をかけながら拝殿を3周するが、東の神輿は、担ぎ手が助っ人に入って、よれよれの状態でようやく拝殿を3周、西の神輿の担ぎ手からは嘲笑に似た笑い声と野次が飛ぶ、これがちょっとした遺恨のようになる、やがて農家の機械化も進み、農業はオヤジの仕事、息子連中は勤めにでる、西大路三条にあった組が無くなり、組の若い衆もいなくなる、たちまち神輿の担ぎ手不足になり、しかも当時の世相、「祭りの神輿を担ぐなんて~」、という時代でもあり、神輿は台車の上での巡行が殆んどになり、居祭も検討されるようになる。 神輿を担ぐ肝心の部分は神輿愛好会の外人舞台が頼りとなる、「お祭を寂しい祭りにしてはいけない」、神社や関係者の人たちの熱い思いと、尽力で神輿の担ぎ手が年々増えだしてきて、年々神輿を担いでの巡行区間が増加し、西大路四条の交差点では2基の見越しが対角線上に高指し上げで相対して、交差点の真ん中で巴になってぐるぐると回る、これが最後の拝殿周りと並んで神輿のクライマックス、年々、西大路四条の交差点での見物の人が増えてきており、祭りが盛大になり、夜店も昔よりも一層賑やかになり、祭りの2日間は、兎に角、長い間この夜店をウロウロ、オレも子供達もそして孫達も、今の頃になると、祭りの巡行の先頭を行く少年勤皇鼓笛隊、初めて参加の小さい子供は鉄砲をかついで歩くだけ、その後笛になり、その後太鼓になる、息子も昔、熱心にこの稽古に通っていた、その頃は稽古の出席表があり、出席の回数に応じて、巡行が済んだ後にお小遣いがもらえて、それを持って夜店の見物が楽しみであったようだ、2基の神輿、1基の子供神輿、1基の女神輿、少年勤皇鼓笛隊、お稚児さん、早乙女、幼児武者、町内より裃を着たお供、総勢約1、000名あまり参加の行列、宮司さんに叱られるのだが、「神社の規模にしては、盛大なお祭」。 その昔、1軒おいて西隣のご主人、例年、神輿担ぎ、ある年の秋口に痔の手術、医師からは、「今年は神輿はダメ」、と釘を刺されていたのだが、祭りの前日に奥さんに奥さんに頼み込んで、「絶対に神輿は担がないから、ついて歩くだけはエエやろう」、と神輿を担ぐ装束を一式を持ってこさせて、当日、病院をこっそり抜け出して、神輿について歩いて回ったという事があった、オレもここ10年ほど裃を着てお祭りの行列に参加、お祭という物はこういう形でも参加するとどこかが違う、近所の人は、「毎年ご苦労さんですね」、と労いの言葉をかけてもらうが、「ヘ、ヘ、ヘ、好きなもので」、と答えている、ところが今年の4月に左の太ももの内出血の怪我、いまだに歩くのが不自由、巡行は5時間半、殆んどが神輿待ちで止まっている時間とはいうものの今年は無理だと出ないつもりで居たが、少年勤皇鼓笛隊の練習の笛と太鼓の音が聞こえてくると、血が騒ぐというか、不参加は寂しい、それとなくヨメに言うと、「アホ、と違う」、と呆れた顔をされた、・・・・・。■「今日の言葉」■ 「 今日の一日を喜んで働こう充実 した人生はそこに始まる 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Oct 1, 2009
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(今日のブログ、書き終えてから公開するのボタンを押すが、わいせつまたは公序良俗に反する表現が含まれています、入力をしなおしてくださいとでて、それに該当する部分が表示されず、いくらやりなおしてもその箇所が判明せず、前の部分と後ろの部分を削除した不完全なブログです) 室町時代に売春の起源を設定したのは有名なお寺や神社の参拝人が多い門前の茶店、この茶店にて密かに茶汲み女、茶立て女、酌婦と呼ばれていた女性が存在し、この女性達とお客さんとの間で売春行為が行われたのが始まりと考えている、しかし当初はこれは知る人ぞ知るという営みが行われていたのだが、お上は各茶店に於いて1人の茶汲み女・茶立て女・酌婦は認めるが、それ以上置くことはご法度と規制を強化した、このお触れを出す事によって、「茶店では、何か良い事があるらしい」、という事を遍く天下に知らしめる結果となって、茶店が参拝後のお茶やお菓子で休憩する場所だけでなく、お茶やお酒や料理を運んでくる女性と世間話のみならず、もう少し、密度の濃いスキンシップが出来る場へと変化していく事になる、茶店がお茶やお菓子やお酒の接待を専ら行っている間は、簡単な造作の建物で済んだのだが、本格的な建物の茶店が出現し、お客さんの希望をかなえるべく、そういうスペースも提供するようになる、茶店本来の機能よりも、女性の紹介所、女性の斡旋所、空間の提供所としての機能に人気が出て、茶店が席貸し業に転向、或いは新しく席貸し業に進出する業者も出現し、やがてこれらが廓となっていくようになった。 この廓があちこちに点在する事に国や政府(幕府)は、これらを一ケ所の集結させて、営業許可を与えて、囲い込みをはかった、その結果、遊郭(集団売春街)が形成されるようになった、明治の中頃までは都市の交通網が未発達に付き、これらの場所へ出かける庶民のお客さんは徒歩である、男独特の生理現象であるが、こういう場所へ行く時には例え千里の道も近し、であるが、事を終えての帰り道となると行く時とは大違いで、半里の道も遠しとなるわけである、囲い込みをはかりたい思惑に反して、庶民のお客さんは足場の良いところにそれを求めるようになる、その結果京都に於いては幕府は新規に遊郭を許可する事無く、嶋原の出張所(出稼ぎ場)という扱いをすることとなる、それらが後に一つの遊郭としての地位を築いていくこととなる。 室町時代に出現した売春が江戸時代に廓が出来、遊郭地が出来ていく、こうなるとおのずから売春を生業とする女性が現れてくる、所謂プロの女性である、しかし男性がこういう場所でも求める女性は、誤解を招かないために前置きしておくが、これはオレが言ったものではなく、昔の人が言ったものだが、一盗、二卑、三娼、四妻、の順である、「ハイ、どうぞ」、ではダメなのである、ことをいたす時に、一と二のリアクションを期待する、所謂、素人らしさ、素人っぽさ、を究極に求め、従事業者そのような女性の提供に努力をし続けるのである、江戸時代に於いては経済情勢が悪化すると規制が強化され、経済情勢が安定すると規制が緩和される、この繰り返しであった、経済情勢の悪化時に於いて規制強化、特にこういう時代に於いて、この業界は細分化され、多様化し、経済情勢の悪化により家計を助けるために、この業界とは無縁であった女性がこの業界に流れ込み、規制強化の時代に於いては誠に皮肉な結果になるのだがこの業種の従事業者にとっては大きなビジネスチャンスの時代ともいえるのである、フーゾク業界は古より、何度もの規制の強化、規制の緩和の繰り返しを経て、長きに亘って細分化され、多様化され、進化を続けてきたといえる。■「今日の言葉」■ 「 人のために役立つ喜びは 次の仕事への大きな活力となる 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 30, 2009
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オレは結婚した後、30歳ぐらいから晩酌といえば日本酒、関西の酒どころの灘は男酒、我が京都の伏見は女酒といわれていて、月桂冠を初めとする比較的甘口のお酒で、その伏見のお酒の中で比較的さっぱりとした辛口のお酒、神聖の金線という2級酒のスペシャルバージョンのお酒が好きだった、日本酒を飲みだすと、ちょっと凝ったぐい飲みが欲しくなり、百貨店や陶器の店でぐい飲みをよく見るようになる、良いものを見るとツイツイ欲しくなり、買ってしまう、だからぐい飲みがあっという間に多くたまってしまう、夕食の時に日替わりで気に入ったぐい飲みで晩酌をするようになる、ただ、ビールでアサヒスーパードライが売り出された後ぐらいからビールが急に旨くなりだす、毎年、夏になると晩酌はビールに切り替え、秋になると日本酒に切り替え、こういうパターンが続いていたが、涼しくなっても日本酒に切り替える気にならない、その年を境目にして晩酌は年がら年中ビールになる、正月にお屠蘇のために日本酒を開ける、やがて節分が過ぎて、桜が咲く頃になっても、その時の日本酒がそのまま残っている、5月くらいになるとヨメが煮物などにそのお酒を使って、いつの間にかそのお酒がなくなる、毎日、晩酌にビール、寝酒にバーボンウイスキーを飲みながら、最近、蕎麦屋さんなどで同年輩の男性が、蕎麦を食べる前に日本酒の熱燗を旨そうに、しかも格好よく飲んでいる、それを見ていると、オレもボチボチと日本酒の似合う年齢になってきたのか、と思うことがある。 その昔、ヨメの弟の結婚式に出席のために、ヨメは子供を連れて一足早く鳥取へ、オレは前日まで仕事、仕事を終えてから夜行列車で鳥取へ、午前5時前の鳥取駅に着く夜行列車である、好いた夜行列車で4人かけのイスでオレとその向かい側に50歳くらいの男性が座り、オレは京都駅で買ったビールを飲み、向かい側の男性はシルバーのフラスコのウイスキーをラッパのみ、ウイスキーのアテは笹かまぼこ、「一つどうですか」、「有難うございます、いただきます」、と幾つかある笹かまぼこを一ついただく事に、その人はトンネル工事の技師で、一つのトンネルが完成すると次の工事現場へ、という生活で、次は山口県の工事現場で、少し日に余裕があるので、山陰を旅行しながら、数日後に山口県へつくという事だった、話をしながらフラスコのウイスキーをチビリ、チビリ、話をしながらもオレに眠気が襲ってきて、ウトウトトしだす、その男の人はさりげなく話を中断して、1人で黙ってウイスキーを、あっという間にまだ明けやらぬ時間に鳥取駅に到着、まだ眠い目を擦りながら列車を降りて、鳥取駅の改札口を出たところで、短い挨拶で分かれる、それから数日後、河原町の丸善の売り場でシルバーのフラスコを目にする、直ぐに、先日の鳥取行きの夜行列車で向かい合わせの男性がフラスコでウイスキーをラッパのみする姿が目に浮かび、急にそれが欲しくなって、買ってしまっていた、以来数十年が経つがそれを使ったのはほんの僅かで、数えるほどであった、何故使わなかったのか、フラスコに入れたウイスキーをラッパのみ、どうもその姿があまりに合わなかったからだろうと思う。 最近、寒くなってから写真を撮りに行く時、いつもは携帯電話と3つのエコーと目薬を入れている小さいシーザーズバックにこのフラスコを入れていく、最近は手足の先の血行障害で寒いのは苦手、ヒートテック加工の靴下、肌着、携帯カイロ、これでも手や足の指先の感覚がなくなるほど冷たく痺れてくる、こういう時にウイスキーをストレートでちびちびやり始めると、直ぐに手や足の指先がほかほかしてくる、喫茶店で店員さんに気付かれないように珈琲にたっぷり目にウイスキーを入れる、寒い時の写真撮影にはこれに限る、冷えていた身体が一気に温まる、先日のバスでの鳥取行き、バスに乗ると缶ビールを飲み、するとぐっすりと眠れる、ところがこのバスである、時折、トイレのついていないバスの時がある、毎日、夜中に一度か、二度、トイレに起きる、年齢のせいでトイレが近くなっている、とくビールを飲むとてきめんで、飲み終わった途端にトイレに行きたくなる、だからビールは怖くて飲めない、そこでそのフラスコである、アーリータイムスをフラスコに入れて、バスが動き出すと、チビリチビリとラッパのみでウイスキー、ウイスキーはロックでは飲むがストレートでは飲まない、少し強すぎる、水を飲む、高校時代に陸上の練習の時に、喉が渇くと水を飲む、少しの水の量でたっぷりと喉を潤す方法のトレーニングが出来ている、水を少ない目に口に含む、その水を少しずつ、少しずつ、喉を通していく、こうすると水をごくごくとたっぷりと飲んだ時と同じほど喉が潤される、これと同じ方法でウイスキーを飲んだ後、少しの水を口に含んでユックリと飲み干す、これで充分に眠気をもよすほどのアルコールを飲む事が出来る、こうしてシルバーのフラスコでウイスキーをちびちびやるのが似合う年齢と雰囲気になってきた。■「今日の言葉」■ 「 人は自然と共に生きている 自然を粗末にしては幸福はない 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 27, 2009
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9月始めに写真集のような本、「赤線跡を歩く」、という本を買った、殆どが東京の赤線跡の写真、「売春防止法」、全面が施行されて約60年、当初は京都の嶋原のように芸妓専用の花街への転向をはかった所、料理屋へ転業、大阪の飛田新地、松島、京都の五条楽園、席貸業 等のように組合全体で転業をし、営業内容は従来どおりに現在も営業を続けている地域、軒数は減少しているが、往時の面影を比較的多く街にとどめている、これらの場所は例外として、料理業、席貸し業、カフェ、に転業するが往時の賑わいを取り戻す事が出来ずに、赤線時代の建物が下宿屋、アパート、貸し工場等に姿を替えたが、何分、以来約60年の歳月、和風の建物、洋風の建物、そのいずれもが歴史的に貴重な建築物という訳でもなく、赤線として存在した頃は人が集まったが、赤線が存在しなくなると、克ってのその地は急速に住宅地へと姿を替えていき、住宅地となっていくにつれて、そこに住む多くの人々は、克ってその地に遊郭があり、赤線地帯であったという過去の事は、負の遺産であり、早く消し去りたい事でもある、ましてや往時の面影を残す建物となると、京阪沿線の橋本、この地に於いては当時の建物をそのまま一般住宅として人が住み、部分的に改築されているが街全体として往時の名残を例外的に多くとどめている、しかし、この地に於いても加速度的に建物の取り壊しが行われている、オレは悲しいかな、「売春防止法」、の全面施行時の昭和33年は中学校に入学した時、嶋原も五番町も中書島も、赤線があった当時には足を踏み入れた事がない、だからどの通に○○楼、どの角に○○楼があったということは一切知らない、往時の建物の特徴も知らない、そんな時にこの本である、この本の多くの写真のお陰で往時の建物の特徴などを知る事が出来た。 京都の嶋原は往時の名残は東の大門、揚屋の角屋、置屋の輪違屋、往時を偲ぶ事ができる建造物はこの3つだけである、車の衝突で倒壊した西の大門でさえも再建の噂を聞くこともない、五条楽園は組合ごと料理組合に業態変更届、料理店とは名ばかりで、営業内容は以前と全く同じで、「ちょんの間」、の営業を目立たないように、密かに継続、殆どが和風の建物で中には唐破風屋根の立派な店、一部に洋風の建物の店、合わせて10数軒が営業中、三味線、踊等の稽古がなされていない五条楽園歌舞練場もあり、ただカラータイル張り、カラー豆タイル張り、丸い窓、ステンドグラス、などが使われていた店は営業をしていない、今年の9月に入って、五番町へ2度、中書島へ1度、訪れている、この2ケ所には、10年後には果たしてどうなっているか定かではないが、現在はほんのわずかばかり往時をしのばせる建物が残っていて、部分的にせよその当時の建物の名残と気がついたのは、この本のお陰でもある。 先日、甥の結婚式に出席のために鳥取へ、午前中の結婚式、正午からの結婚披露宴、その夕方に2次会、ヨメの弟の運転でJR鳥取駅の傍のスナック、駐車場を探して瓦町辺りを徐行中、チラッと見えたある道に、昔の遊郭、赤線地帯の雰囲気の残った街並み、その時は2次会が目的、翌日、京都へ帰る日、家を午後4時に出れば午後4時30分初のバスに間に合う、しかし、昨日の夕方にチラッと見えた街並みが気になる、午後3時頃にお爺さんに、「鳥取駅の近くに遊郭、赤線の名残が残っている場所ってある?」、「もう何も残ってないだろ、瓦町の衆楽園、三角公園の辺りだ」、「そこで少し写真を撮ってから帰ります、お世話になり有難うございました、お元気で」、という事で少し早い目に家を出る、妹の旦那の車でお爺さんに教えられた方向に向かう、やはり昨日チラッと見えた街角であった、公園の手前に向かい合わせで遊郭の名残を残した和風の建物、そしてそのあたりにようく見てみると随分改造されているが、ところどころに往時の建物の特徴を残した建物があり、ここらあたりが、克っては約50軒弱の店が構えられていたといわれる地域の中という雰囲気を街角にかすかに残していた、京都でもそうだがこの鳥取でもこのような景色はやがて消えて亡くなるであろう、夢の賑わいの跡、人の夢が儚いのか、夢の人が儚いのか、こういう場所はオレにとってはいくら訪ね歩いても辿り着く事の出来ない儚い夢の場所であり、儚い夢の跡地、それ故に訪ね歩くのか、往時の名残が残っている限り訪ねて歩こうと思っている。■「今日の言葉」■ 「 言い訳をしたい気持ちを捨てなけ れば実のある反省は出来ない 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 26, 2009
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住んでいるところが阪急沿線のために、阪急電車に乗る回数に比べて京阪電車に乗る回数は極めて少ない、デジカメで京都の写真を撮りだして、そういえば京阪沿線に極端に足を伸ばしていないという事で、宇治方面に出かけたり、久し振りに伏見稲荷に出かけたり、あじさいの頃に藤の森神社に出かけたり、京阪電車の各駅停車しか停まらない、非常に不便な橋本へ旧遊郭跡地を訪ねたり、ここは克っては大阪と京都の中間地点ということで淀川の渡しがあり、宿場町として賑わいを見せていた、こういう地に付きものといえる遊郭が出来、それなりに栄えていた、明治に入り、交通網の近代化、やがて私鉄の京阪電車も走り、この橋本駅の一つ京都より八幡駅、一つ大阪よりの枚方駅、この両駅は駅近辺の大掛かりな住宅開発が行われて、一気に開けて、両駅は急行電車停車駅となり、両駅にはさまれた橋本駅は取り残されたように、各駅停車電車のみの停車駅、橋本遊郭が終戦後、赤線に変わり、昭和33年4月1日の売春防止法の全面施行を待つこともなく、寂れ行く地理的条件を持ち合わせていた、この地の赤線地帯は売春防止法の全面施工後、営業内容は従来と同じながらも料理店、席貸業、特殊飲食店、カフェなどと業態名の変更で生き残ることをせず、廃業をする事になり、幸か、不幸か、赤線時代の建物そのままに、少し改築を催して一般の住宅として使われて、今日に至っている、どっしりとした格子戸の古い家、特徴のある2階の窓、玄関や窓に木の透かし彫りのある家も多く残っていて、往時をしのばせる建物の特徴を残した家が多く残っていた、しかし、こういう建物はオレのようなマニアにとっては貴重な建造物であっても、歴史的に重要な建造物でも何もない、歴史的建造物保存地域に指定される事は絶対にない、この10年ほどの間に、こういう名残のある建物は随分と取り壊され、取り壊し予備軍と思しき建物も幾つか、去年この地を訪れた時に、もう少し早く来れば往時をしのばせる建物が道の両側に並んでいる風景を写す事が出来たのにといささかの後悔。 去年の残暑が残る頃、この橋本、次に伏見稲荷と京阪沿線に出かけたが、約1年ぶりに京阪電車で伏見の中書島へ、駅を下りると名水マップ、関西の灘と並んで伏見は酒どころ、伏見の地名は、この地に良質の伏流水が豊富で伏し水から伏見になったといわれていて、美味しい地下水が飲めるスポットが幾つもあり、それぞれに名前が付けられていて、この辺りのマップに名水の飲めるポイントが付けられていた、昔は汚かった伏見城の濠もきれいに整備されて、十石舟の遊覧船が走り、緑の土手に柳が植えられて、濠に沿って建ち並ぶ、焼いた杉板が張り巡らされ、白い壁の酒蔵が建ち並び、濠と酒蔵の町、酒蔵見学や搾りたての生酒が飲める店もあり、少し前には、公然の秘密となっていた、実は明治の初めに建てられた寺田屋、伏見鳥羽の戦いで焼けて、焼け残った一部を使って建替えられた建物、オレも一度だけこの寺田屋で宴会をした事がある、宴会が始まる前に、もう使われていない古い風呂場へ案内されて、小柄な当主が、ここで入浴中のおりょうが、外のただならぬ異様な気配を感じて、咄嗟に裸のまま風呂から飛び出し、坂本竜馬に危険が迫っている事を知らせ、刺客を向かえ打ち、斬り合いになり、その時の刀キズ、黒光する柱に残った、刀傷跡の後、毎日お客さんに同じ話、当主の語り口は滑らか、それでいて、その当時と家具の配置はまるで同じ、そして柱の刀傷、100年以上前にタイムスリップ、臨場感もたっぷり、明治時代の登記簿という動かぬ証拠があるが、そんなものはどうでも良い、ここは寺田屋だ、命がけで刺客と斬り合う竜馬がいて、裸で長火鉢の影で身を隠すおりょうがいて、これがロマンというもの、そんな気にさせてくれる。 この中書島へ来たのは、酒蔵でも寺田屋でもなく、克って伏見には古くから栄えた遊郭がありその一つは撞木町、太閤の時代からあり、赤穂浪士が密議を重ね、大石内蔵助も遊んだといわれている、ただここは残念な事に克っての遊郭を偲ばせるものは入り口に建っている、「撞木町遊郭入り口」、の石柱と石碑が残っているのみでという、もう一つの遊郭がこの中書島にあり、明治5年には59軒の店があり、明治末年に京福電車が開通、兵営も近くに置かれ、昭和初年には84件と隆盛を極め、昭和31年にはここを舞台にした長編小説、「廓」、が出版されて話題を呼んだが、昭和33年4月1日の売春防止法の全面施行により、一部が料理屋と業態変更をしながら、従来の営業を続けたりもしたが、江戸時代からの遊郭、終戦後の赤線地帯の色里としての長い歴史を閉じ、そのままの建物で下宿屋などに転業されたりもしたが、以来約50年余り、京阪電車の特急の停車駅、京都と大阪の通勤圏、その便利さゆえに住宅地として変貌が著しく、往時を忍ばせる建造物が加速度的に取り壊され、もう10年、或いはもう5年早く訪れていれば、といささかの後悔の念を抱きながら、旧赤線の名残を求めるのが目的であった。 中書島の南改札口を出る、土地勘がないので大きい案内板で旧赤線があった町名の方向を確認して、比較的広い通で、蓬莱橋を越すと、左手に寺田屋、真っ直ぐ行くと竜馬通商店街、歩き出すと直ぐににレトロな、ノスタルジックな建物の銭湯、「新地温泉」、小さなバーや飲み屋さんが続く、場末感が漂っていて、好きな雰囲気、橋の手前まで行くがそれらしき雰囲気の名残のある建物は見当たらない、もう一度来た道を戻って今度は横に伸びる狭い道を一本ずつ歩いていく、壁に蔦が絡まった古い大きな木造の家、2階の窓の多さ、1階の格子、ほぼ昔のままの建物で住宅になっている、そしてまた別の通にも、ここには大きなその名残のある家が2軒並んでいる、立て看板の地図を一々見ながら、克ってあった町名の道を全て歩いていく、写真で見覚えのある建物に行き当たらない、もう遅かったのか、取り壊されてしまったのか、残っている道はもう僅か、ある道に差し掛かると、大きい家が並んでいる、廓格子に2階に幾つもの窓、1階のひさしの上に、ショウキ様、いやこの家のは違う、下駄の上に女性が乗っている、その向うは洋館で入り口の両側の壁に丸い窓、軒下タイルを張られた屋号を書いた防火用水、その上の窓は小さな四角に仕切られていて、色違いのガラスがはめられていて、2階の窓の上部にはアールがつけられている、そしてその隣、壁面に長方形の赤と紺のタイルで市松模様、窓の上部にはアールデコ調のステンドグラス、今はガレージになっているが、ここは克っての入り口であったのだろう、床には豆タイルで柄、壁面にも細長い淡いタイル張り、洋館風の店が2軒並んで残っていて、その向かいには、まだ営業が続けられているのかと思うほど原形をとどめている、和風の黒い壁の建物、これらの建物も将来において恐らく取り壊されるであろう、誰かこういう建物ばかりを集めて、昭和村でも作って保存をしてくれ、と思いながら夢中でシャッターを切り続けて、中書島旧赤線跡の探訪を終えることに。 ■「今日の言葉」■ 「 生活にけじめをつけることは 明るい心と健康の元である 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 19, 2009
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松尾大社までマウンテンバイクで走って行き、行きは松尾橋の手前のマンションの1階の新しい喫茶店で一服、そして松尾大社へ、5月始めの山吹が咲く頃、境内一面に小さな黄色い花をつけているが、それ以外の季節に来ると、余り写真に撮るようなものは何もない、本殿の所に石段を数段下りて、渡り廊下を潜り抜けて、その向うに山の中へ入っていく道がある、山と谷を幾つか越すと、克ってこの辺り一体に住み、支配をし、様々な灌漑工事、河川工事など大陸からその技術を伝えた帰化人の秦氏の原始的な信仰の場、松尾退社ができる遥か以前からの原始的な信仰の場で、巨岩遺跡、磐座があると案内板に書いてあった、入山希望の人は社務所までの案内、社務所へ行くと初回入山料、1、500円也、2回目からは100円となっていた、(2回目からは信仰のためという理由で、極端に料金が安くなっている)、そして入山に当たっての諸規則が書いてあった、入山は2人以上、カメラや携帯電話の携帯不可、途中の道は獣道のような道でそういう道を歩くのに適した靴と服装、ゴミの持ち帰り、その他色々あった、数年前までは松尾大社の神職の人だけの、参拝のためのみの入山の場所であり、最近に一般の人にも解放された、観光の為の場所ではなく、あくまで信仰の為の場所、という事であった、少し興味はあったが、足に辿り着く自信がなく、しかも一人ということで、入山を諦める。 帰り道、松尾橋を渡ると、家まで走る前にもう一度珈琲が飲みたくなった、来る時に飲んだ店、いや別の店にしようと通り過ぎて行った、喫茶店なんてすぐにあるだろう、そう思っていたが、喫茶店好きのオレには店の表の様子で、何となく店の中の雰囲気や、珈琲の味に勘のようなモンが働く、走っていると途中に1、2軒、喫茶店よりも食事が主体の店の中が臭くて、オレの勘からすると、珈琲のいかにもまずそうな店があったが、入る気がせずパス、そるとダンダン家が近くなる、街中でもそうだが、こういう街中から少し外れた場所にも喫茶店というものが姿を消してしまっていた、もう西小路通の手前まできてしまっていた、ついこの間まで、若い、愛想の良い、話好きのマスターの店があったのだが、この店に行きだした当初からお客さんが少なく、半年ほど前に道の角のコンビニが閉店してから、余計にお客さんが少なく、暇だとぼやいていた、「最近の日本には喫茶店で珈琲を飲むという文化がなくなってしまったのだろうか」、お客さんのいない時にマスターとそんな話もしていて、ある時、マスターが、「長い間お世話になりましたが、今月一杯で店を閉めて、元のインテリア関係の仕事に戻ります」、という事で閉店。 家の近くでも喫茶店が少なくなっている、真ん中辺りでも昔よく行った店がいつの間にかなくなってしまっている、ミューズなども一度寄ろうと思いながら、気がつけばいつの間にか焼肉屋、四条河原町近辺には、築地、ソワレ、フランソワとオレが喫茶店へ行きだした頃からあった店が残っている、ただこういう店はいつも誰かと一緒、何となく一人では行きにくい、最近は出かける時はいつも一人、そなると四条烏丸では大丸の横のイノダコーヒーショップの喫煙フロアー、四条河原町では阪急百貨店の東隣のビルの地下のサントリーバー、河原町三条では六曜社、西洋骨董店のライト商会、寺町三条のスマート、この真ん中辺りは路上喫煙禁止区域、珈琲を飲むというよりも喫煙が目的の時もある、最近のこと、自家焙煎の苦味の強い珈琲が飲みたくて、スマートに飛び込む、ところがこの店いつの間にか全席禁煙になっていた、こういう古くからある店、珈琲を飲みながら、タバコを吸って、話に熱中して、水のお代わりと、吸殻で山盛りになった灰皿のお代わり、寺町や新京極の商店の大将や店員が毎日決まった時間にやってきて、珈琲を飲んで、タバコを吸って短い休憩にやってきた、そういう店のはずなのに、もうよほどの事がない限りこの店で珈琲を飲むことはないだろう。 大型チェーン店の、スターバックス、ドトール、タリーズ、なども好きになれない、すまして、背伸びしたようなカフェも気にいらない、路上喫煙禁止区域内の喫茶店こそ喫煙オーケーにしろといいたい、ガラス張りの別室の喫煙室などではなく、学生時代に学校の前に、紫煙荘という名前の喫茶店さえあった、タバコのよき時代ならばこそ、今でもあるのだろうかその店が。■「今日の言葉」■ 「 不満にとらわれていると今恵ま れているものまで失ってしまう 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 16, 2009
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オレは京都の繊維メーカーの2代目、周りにも同じように2代目が多くいて、組合の総会や臨時総会の後会食、その後の2次会で、いくつかのグループに分かれる、先代が適当に遊んでいると、2代目はまるで遺産相続のように先代の遊びの場所も相続、そういう連中は、祇園町や宮川町になじみのお茶屋さんがあり、そこへ流れていく、オレも連れられていくが、別段踊りもわからず、三味線や小唄を習っているわけでもない、余り面白いとも思わず、しかもお座敷に座るために、ズボンのしわが気になることも、ただ東京や大阪のお客さんの接待の時に料理屋さんで食事して、その後もう一軒という時、京都のクラブというと東京や大阪とはどうしても見劣りがする、そう言う時に祇園辺りのお茶屋さんの入り口にあるスナックやバーを利用する、すると東京や大阪のお客さんの喜ばれる、その程度でしか遊んでいない、専ら最近ではカメラをぶら下げての昼間、正月、八朔、事始の日には舞妓・芸妓が普段からお世話になっている習い事の師匠宅、お茶屋さん、その他のお店に挨拶周り、この日には多くの舞妓・芸妓を写真に撮ることが出来る、後は梅の頃には天神さんから上七軒、桜の頃には祇園白川近辺、先斗町は石畳と狭い路地風景、撮り飽きしない先斗町の歌舞練場、考えてみると宮川町へは余り行っていないが、京都では行事に各花街の舞妓・芸妓が輪番制で奉仕する事が多く、十日恵比寿の福笹授与、節分の豆まき、時代祭の巴御前を初めとする平安婦人列、各花街の四季折々の2階にかかった簾、よく磨かれて黒光りをする格子戸、花街の記録というよりも花街をスナップ写真のように撮っている。 ところが、今京都に残っている5花街、江戸時代からの出は同じくしていても、京都の都市としての発達と、それによる交通網の整備、人の流れ、幕府や政府の性風俗産業への諸規制、等々の諸条件により、芸妓として歌舞音曲をお座敷で披露する花街を目指した地域と、娼妓による肉体のサービスを提供する、戦後赤線地帯、青線地帯と呼ばれていた集団売春街、しかも、昭和33年4月1日に全面施行後、芸妓を主体の花街に転向を目指した場所(嶋原)、料理組合と業態の名称を変更して、従来と同じ営業内容を細々と継続している場所(五条楽園)、売春防止法が廃止される日が近く、いずれ近い将来に商売の再開ができると考えて、そういう時に店がすぐにオープンできるように、店の構造をそのまま残して、時期を待とうとした場所(中書島、五番町、橋本)、残念な事にオレは昭和17年生まれ、売春防止法が全面施行された時には15歳、一歩も足を踏み入れた事がなく、その後の五条楽園、初島新地、松島辺りでの経験から想像を膨らますことしか出来ない、その想像だけに飽き足らずに、旧赤線・青線地帯にかすかに残るその足跡をカメラに収めている。、 まず最初は嶋原、この時にはこの地に足を踏み入れるのが始めて、しかも、旧赤線時代の建物の特徴など何も知らずに出かけていた、ただ幸いな事にこの嶋原には往時を忍ばせる建造物は東の大門(江戸時代にこの地の大火の折に、遊女の逃亡防止のために、この門が閉ざされて、多くの遊女が焼け死に、その後この大門に防火用水と、消化用桶が置かれるようになり、なんとも風情のある柳が1本、お客さんが遊んだ帰りに、この東の大門を出て、暫く歩いて振り返ると先ほどの遊女が見送りに出てお辞儀をしている姿に似て、見送り柳、見返り柳とも呼ばれていて、お客さんを見送る遊女も門の外はここまでという境目に頑丈な竹垣、さらば垣、以前には西門もあったのだが、出入りする車が衝突して倒壊、再建の動きもあったのだが、再建されないまま今日に至る)、今現在も営業中の置屋、江戸時代の置屋建築の姿を今にとどめているといわれ、実際に数人の太夫さんがいて、かむろも在籍する輪違屋、以前は京都の夜の観光コースで甥濫觴の見学などが行われていたが、現在ではもてなし館、として嶋原の古い資料などを展示している、江戸時代の揚屋建築の様式をとどめている角屋、この3つの建造物だけであった、しかもこの3つが旧赤線・青線地帯の名残の中で歴史的建造物といえるのはこれだけである、中書島、五番町を続けて訪ねたが、当時のオレの知識ではこの建物が名残の建物、名残の建物の一部だとはわからなかった。 続いて今もひっそりと、料理屋という名称で営業を細々と続けている店が十数軒残っている、五条楽園、入り口に唐破風の屋根のあるお茶屋さんっぽい建物、娼妓は五条楽園歌舞練場があり、そこで待機をしていてお客さんの要望により送り込みの形式、この一体は料理組合として営業の届出をしており、各部屋に入浴の設備も布団もなく、いざ開氏という時には部屋の隅につんである座布団を敷いてという運びとなる、その昔の赤線の頃の雰囲気が残されていて、約50数年前にタイムスリップした風情があり、コアーな愛好者もいるが、風呂がないということで何となく不潔感もありここを敬遠する向きもある、和風の建物店では営業が続けられているが、カフェ風の洋風建築、丸い窓、その窓にはステンドグラス、外壁にカラータイルを張り巡らせたり、色とりどりの豆タイルを張り巡らされた当時の名残の特徴をとどめている建物には管理地の札が下がっていた、板張りの壁の建物で角間殿はステンドグラス、この家にも管理地の札が、ただこの一体の高瀬川の雰囲気、二条から五条にかけての賑やかな場所よりも、高瀬川の風情としては、優れている、この五条楽園で旧赤線地域の建物特徴、旧赤線地域の建物の名残のようなものをじっくりと勉強する事が出来た。 次に橋本、元々京阪沿線は苦手な地域で、しかも八幡駅と枚方駅との間の各駅停車しか止まらない不便な場所で、以前に比べて旧赤線の建物が随分と取り壊されたとは言うものの、当時の面影を残しながら、玄関や窓に透かし彫りの欄間、2階にずらりと並ぶ特徴のある窓枠、そこから篭の鳥同然の遊女が外の世界を眺めたであろう三日月形の窓、歴史的町並み保存地域として残したい気もするが、旅館の1軒を除いて他の店は一般の住宅として居住、赤線地域というよりも遊郭としての名残をとどめている建物数軒は今にも朽ち落ちてしまいそうになって、取り壊されるのも時間の問題、最近五番町にも数回足を運んでいる、夕霧楼はすでになく、建物全体がそれと思しき建物が2軒ほど残っており、1軒は普通の住宅で、1軒は焼き肉屋になっていて、その外は2階のつくりの面影が、とか部分的のその当時の名残をとどめている家が数軒、赤線跡を歩くの写真集を見たり、オレ自身も何箇所か赤線跡を実際に見ている、その経験でこの建物のここはその当時の名残と、漸くわかるようになってきた、元の五番町の検番跡地で長く営業を続けてきた千本日活、3本立てのポルノ映画にポスターが貼ってあるが、営業をしていない様子、千本日活の東の家に一部2階の窓などに名残が残っていて、和風の建物で一部にカフェ風の改装がなされた家があった、その家の2階の柱に樋で部分的に隠れていたが、仁丹の道路標示版を発見、「仁和寺街道六軒町西五番町」、とあった、俳優の小沢昭一の、「珍奇絶倫」、なる本を見て、この本は本人の性風俗体験記でもあり、部分的に写真集でもある、東京の赤線地域のモノクロの写真、吉原、州崎、玉の井、鳩の町、等々の写真が掲載されていた、全て自分が足を踏み入れた事のある場所の写真であった、自分が撮った五番町の写真と見比べてみる、別段美しい建物が映っているわけではない、ただこの地へ遊びに出かける時の意気揚々とした昂ぶる気持ち、遊女の優しさ、遊女の悲しさ、この地で生業を営むものの喜びと悲しみ、そういう息使いや臭いが写真の中にある、玉の井の細い路地を挟んだ向かいの2階の大屋根の上から2階の部屋の窓の写真、泊まりで遊びに行き、女がまわしの客をとって、朝まで来なかって、待ちぼうけを食わされた部屋、とあった。■「今日の言葉」■ 「 未来を共有するからこそ平和と 信頼関係が重要なのである 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 15, 2009
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オレには4つ年下の妹がいる、その妹とお袋のおっぱいの取り合いをしていて、そのオレもボチボチ幼稚園、いくらなんでも乳離れの年、こまってお婆さんとおふくろが相談をして、乳首に墨を塗ったり、乳房に鬼の顔をかいたり、乳首に唐辛子を塗ったりして、苦労の末に漸く乳離れ、そのセイかどうかはしらないが、未だに女性のおっぱいが好きである、ある時期、一度は通る道だとは思うが、巨大願望、デカパイ好き、CよりもD、DよりもE、EとりもF、今思えば細身の形の良いD辺りが最高だったように思うのだが、風俗などで、アルバムを見て、身長とスリーサイズ、何カップ、と書いてあると、ついついその何カップだけで選んでしまう、GがHになり、普通ならこの辺りで引き返せば良いものだが、アルバムでIと書いてあるとその子を指名、ついにJカップ、確かにでかいのだが、でかいのはおっぱいだけでなく、身体もデカイ、抱き心地はというと、これだけデカパイを求めてさまよってきて、行き着いたところが、小錦と4っつに組めばこの感覚なのだろうか、ここであった。 その後に、テレホンクラブでもよく遊んでいて、電話をかけて、ドコドコのホテルへこれから入ると事務所へ連絡、ホテルへ入ったときに部屋番号をもう一度電話、ここで事務所はイタズラ電話でないかの確認のために電話を一旦切ってから、事務所からホテルへ電話、フロントから電話がかかっていますと取次ぎ、そこで適当にお気に入りの女性のタイプを聞かれて、(お気に入りの女性がいるときにはホテルへ入る前に、出席と待ち時間を確認してからホテルに入る)、「ピッタリの子を、すぐに行かせます」、事務所のこの電話ほどあてにならないものはない、部屋のチャイムが鳴ってドアーを開けてみると、「ドコがピッタリなんや」、と突っ込みを入れたくなるほど、大違いのタイプの女性、ピッタリなのは女性というところだけ、このピッタリもあてにならないが、すぐに行かせますも同じようなもの、うどん屋の出前と同じ、すぐに行かせますが、アダルトチャンネルでビデオを数本見た後でチャイム、少々待たせすぎ、いささかむっとしてドアーを開けると、そこにはすらりとしたきれいな女性、「こんばんは、お待たせしてスミマセンでした、私で良いでしょうか」、声が少々裏返りながら、「良いですよ、こんばんは、どうぞ」、ここの事務所との付き合いは長いのだが、なかなか次に指名をしようという子には出会わなかったが、久し振りに、顔を見ただけで次の指名をしようかなという子、待たされたイライラは何処かへ行き、タバコを吸いながら世間話、気の会う相手の時には話が途切れない、ついつい話が長引いてしまう、気を使って、相手のほうからシャワーをしましょうか、オレが先にはいってシャワーを浴びていたところへ、後から彼女が入ってきて裸の胸を見た途端、「アッツ」、と思わず声を上げるほど小さい、まるでない様な、かすかなふくらみだけの小さいおっぱい、「小さいね」、「ハイ、申し訳ないですが、初めてでしょうね、こんなに小さいの」、「確かに初めて」、恐らくいつも言われて、もうなれているのだろう、楽しそうにケラケラと笑いながら、一緒にシヤワーを浴びた、この後、彼女と数年遊ぶ事が続いた、Jカップの次は、純正のAカップ、7センチのタバコとAカップのおっぱいは日本人の手のひらのサイズにはピッタリなんだ。 チョッと話の振りは長くなったが、おっぱい好きの、しかもデカパイ好きが、今度は貧乳というか、微乳好きに変化、おっぱいだけではない顔の好みも随分と変化、昔は仕事関係の人から食事を誘われる、誘われたら食事代は相手持ち、では次にとクラブなどへ誘う、そのこの店はオレ持ち、こうなると相手の人は自分のホームグランドのクラブへ連れて行きたくなる、やはり自分のなじみの店のほうがくつろげるからそうなってしまう、その当時はどこの店へ行っても、そこの店の一番の美人を指名、好みははっきりとしていた超面食いである、東京からの出張帰りの時に、京都の八条口の駅のすぐ手前の大きな桜酒造の看板、着物を着た高島礼子が三つ指ついて、「お帰りなさい」、というアノ看板に、「ただいま」、といっていた頃、誰が見ても美人という顔立ちが好きであったのだが、ところが最近では、自分の好みのブス、許せるブスというタイプがあって、そういうタイプに心が引かれる、いまは俳優の蒼井優が大好きである、彼女フアンも多くいるのだが、彼女はどちらかといえばブスの部類に属すると考えている、はれぼったい眼、デカイ鼻、顔のパーツはどれをとっても美人からは程遠い、しかし、彼女が画面に出てくると独特のチャーミングな雰囲気があり、抜群の存在感があり、コマーシャルにでてきてニッコリと笑っていると、こちらもニッコリと、「人には人のビオフェルミン」、といってこちらを向くと、思わず、「ウン」、と返事をしている、おっぱいの大きさの好みだけではない、顔の好みも歳と共に大きく変化している。 ■「今日の言葉」■ 「 自分の利益ばかりは買っていると 信用だけでなく繁栄も失う 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 12, 2009
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4月の始めに平安神宮へ、紅枝垂れ桜の写真を撮りに行こうと、マウンテンバイクで出かけて、返ろうとした時に左ふくらはぎの前の中心あたりにかすかな傷み、別段、格別に筒遠出をしたわけでも、急な坂を登ったわけでもない、普段のマウンテンバイクでの行動範囲内、ただ、紅葉のシーズンが済むと冬場には、マウンテンバイクは家の近所くらいしか乗っていなかった、思い当たる事といえば、運動不足と、年々増してくる老化現象、ただその時には、ちょっとした筋肉の痛み程度にしか考えていず、兎に角、家へ戻るためにマウンテンバイクを漕ぎ出す、すると痛みも何も感じない、普段どおりのペースで漕いで、約30分あまりで家の近く、いつも行く喫茶店に立ち寄り、店がヒマな時間帯、マスターもオレの席に座ってタバコ休憩、30分ほどとりとめのない話をして、店を出る前にトイレ、立ち上がってトイレの方に向かおうとすると、左の太ももに激痛、左足を引きずりながら、どうにかトイレへ行って、用を済ませて、席に戻るのがやっと、マスターが、「どうしやはりました」、「いや、何や分らんけど左足が痛い」、「気をつけて」、勘定を済ませて、マウンテンバイクのペダルを漕ぐ時には傷みも何もない、自転車置き場にマウンテンバイクを置いて、鍵をかけてから、ライトとペットボトルをホルダーからはずして家の中へ、僅か数歩の玄関へ行くまでにも左足に激痛、少し汗もかいていたのでシャワーを浴びてから、太ももに湿布薬を数枚貼って、一晩も寝れば直るだろうと、完全に高をくくっていたのだが、寝る時にどのように角度を変えても、左足が痛く、熟睡できない夜を過ごし、朝、3階の部屋から1階の洗面所へ行くまで、階段の手すりを強く持って、左足に衝撃を与えないように、痛い左足を先に下ろし、手すりで身体を支えながら右足を下ろし、ユックリ、ユックリと階段を降りていき、その日は仕事のために、午前7時に家を出る、家からバス停まで100メートルあまり、普段の数倍の遅いスピードで、遅いだけではなく、左足が痛くて歩けない状態、やっとのことでバス停に辿り着いて、這うようにして仕事場に辿り着く、朝の仕事を済ませて、管理人事務所の椅子に座る、椅子に座っていても左足がズキン、ズキン、と太ももが張り裂けそうな痛み、ズボンの左足がパンパンになってくる、仕事場から一番近い整形外科のある病院、思いつくのが、2つ先のバス停の直ぐ傍の京都府立医大付属病院、恐ろしく長い時間を待たされて、長い廊下を歩かされて、ようやく診察、骨には異常がなく、左足の静脈が切れたのだろう、普段から脳梗塞の予防に血液が固まるのを防ぐワーファリンという薬を飲んでいる、この薬は血液が止まり難くもなる、暫くこの薬の服用を止めると、血が止まるであろう、松葉杖をついて左足に負担をかけないようにして生活、当分の間仕事も休んで絶対安静との診断。 当初、自分で考えていたよりも重症、血が止まって、左太ももにたまった血は自然に足の方へ下りて行き、足でその血が吸収される、ただひたすらにそれを待つだけ、1週間の間、仕事を休んで、仕事に復帰して、それがリハビリ、5月の始めには完治するだろうと思っていたのだが、5ケ月経った今でも、まだ左太ももにたまった血が下へ下りていっている途中で、膝から下が、右足に比べてどす黒い色をしている、バス停まで、ユックリと、少し歩くとアキレス腱のところと、脹脛のところが張ってきて、痛くなり、途中で一度か、二度、休憩をする、怪我をする前の50%くらいの状態、最近、お地蔵さんと森下仁丹のホーローの道路標示版の写真を撮り始めている、お地蔵さんは西院の街でも一つの町内に一つや二つはある、ところが道路標示版となると殆んどお目にかかったことがない、これは昭和の始め頃につけられたと聞く、その当時の西院の街は人家もまばら、というよりも千本通から西を見ると、嵐山まで殆んど人家がなく、夜などは嵐山の旅館や料理屋の灯が見えたといわれほど何もなく、道路標識などつける必要のない街であったという事で、まず、京都の真ん中、烏丸から河原町へ行かなければこの道路標識にお目にかからない。 例えば真ん中の御池通から四条通まで歩いても、これが残っているのは一つか二つくらいである、今のオレの足ではこの距離を歩くのがきつい、怪我をしてからは、マウンテンバイクで走るのは西院界隈のみ、出かけていく自信がなかったのだが、仕事場の直ぐ近くでこんなところにという場所に、5枚くらいが残っているのを見つけている、お地蔵さんの写真も撮りながらなら、そう長く走り続ける前に、マウンテンバイクを止めて写真、休み休み、走ることが出来る、というわけで、西大路通を北へ、三条通まで、そこから北へ千本通まで、御池通を走るよりも、二条通の方に残っていそうだ、二条通を走ると、お地蔵さんやホーロー製の道路標識がパラパラとある、走ってはとまり、とまっては写真、また走り、こうして写真を撮りだすと、何となくこちらの道は残っていそうだという勘のようなものがひらめく、いや勘というよりもこの道は通ったことがない道、こういう道が正解のようである、こうして走っていて、確か姉小路通から柳馬場北へ、視界に入ってきたのが、京都ハリストス正教会生神女福音聖堂は、ギリシャ正教会の京都聖堂として、当時の京都府技師松室重光の設計・監督のもとに建てられ、建物は明治34年(1901)12月に完成していたが、ロシア正教会から寄附された聖障(イコノスタス)、教鐘、大燈明などの到着が明治36年(1903)3月であったため、聖堂成聖式は同年5月10日に行われたという教会のところに出てきた。 今では、この教会の近くに高いマンションが建っているが、この教会が建った当時は平屋か、せいぜい2階建ての今いう京町家、その中にぽつんとこの木造のビザンチン建築の教会の聖堂、当時の人は京都にこういう建築物は似合わない、ふさわしくないなんという事は言わなかった、そのお陰で現在、京都のど真ん中でこういう建築物を目にすることが出来る、しかもこの後明治38年には日露戦争、そして昭和戦争、良くぞ取り壊しという事がなかった、とあらためてこの教会の写真を数枚、それと今日、マウンテンバイクで走っていて森下仁丹のホーロー製の道路標識板の残っていそうな場所、何となくその道に入ると、ここにはあるぞ~、という事が分かりかけてきた、オレのように物好きなヤツが訪れるのを、長い間、ひっそりと待ち続けていたのではないかと思うほど、目立たない場所の路地の入り口あたりに、文字も綺麗なままの道路標示板を見つけたときの喜び、これには暫くはまりそうな予感。■「今日の言葉」■ 「 世の中に役に立つという心意気が 仕事に活気と輝きを与える 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 5, 2009
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「戦後の京の街の性風俗史」、を書き始めたばかり、終戦の日の数日後に、国が占領軍の兵士から日本の女性の貞操を守るという名目で、占領軍に対する娯楽設備、正しくは性的娯楽設備、まだ連合軍の占領軍が日本のどの地域をどのように占領するのか、皆目見当がつかない時点で、戦時中の日本軍が占領地域で行った事、その事をそのまま占領軍が同じ行為を行うであろうという想定の元で、もしそうならば、日本の国中に占領軍の兵士に対する性的娯楽設備を建設して、それなりの備えをして対応するように、誕生したばかりの東久邇宮内閣の近衛文麿内務大臣から、極秘に警視総監、各地の警察署長宛に極秘指令が出され、風俗営業を生業とする様々な組合、連合会にこの極秘計画が丸投げされた、様々な風俗営業の組合の理事長、連合会の会長といっても主に、廓、遊郭に於いて集団売春街を形成していた業者達が主力で、「日本女性の貞操を守る」、という錦の御旗があり、その建設資金の融資に関しては国と政府が保証するというお墨付きがあり、思わぬビジネスチャンスが目の前に、驚くべきスピードでもって、占領軍を対象とした性的娯楽施設の建設のためにRAAなる組織が設立されて、全国各地の業者は勇んでその施設を建設した、ここに国の始動による集団売春が行われたのである、ただ業者の期待に反して占領軍の性的モラルの問題とGHQは日本人の性病に関する意識に問題ありとして、政府に勧告を出し、占領軍を対象とした性的慰安設備に従事する女性に対する性病監査の徹底を指導するが、効果が上がらずに、性病を感染させた施設に兵士の立ち入りを禁止する実力行使に打って出た、占領軍の兵士が出入りできないこのような施設は経営が成り立つわけがなく、またお金を借りてこのような施設を作った業者もそのまま引き下がるようなタマではない、当初はこの施設に日本人の出入りを禁止していたが、この禁止事項を勝手に経営のために解除、GHQはこれを取り締まる、そこでやむなくカフェ、特殊飲食店という業態名称を変更して、日本人に対して中身の同じサービスを提供する商売を始めた、廓、遊郭、公娼、私娼、の集団売春街がさまざまな業態に細分化されて、終戦時点に約700軒ぐらいの業者が売春防止法の全面施行の時点には約3倍の数の増えていた、これは国策売春のもたらした皮肉な結果とも言える、廓や遊郭は江戸時代より、その営業地域を規制されていた、警察では戦前から存在するその地域を地図上で赤線で囲み、戦後に出来たその地域を青線で囲むようになり、ここに赤線と青線が形成された、とここまで書き始めに当たって、2日間に亘って書いてきた。、 タイトルに、「史」、をつけなければ、堅苦しい事は抜きで、書く事が出来たのだが、「史」、をつけた以上、突然、京の街の性風俗史を戦後から書き始める事は余りにも唐突過ぎる、ただ京都に平安時代に都が移って、多くの社寺仏閣が建てられ、貴族階級、地方の豪族、後の武士階級、だけではなく平民までが多く京都を訪れるようになる、都としての街の発展と性風俗産業が切り離す事が出来ず、それと人の多く出入りするところに、需要が生まれ、供給が生まれて市が立つ、それと同じように、性に対する需要が生まれ、性の供給が始まる、市の場合も性の場合も、需要があって、供給という順序ではなく、供給が先にあって、そこにセールスプロモーションが行われて需要が喚起されるというケースもなくはない、ただ京都は長い歴史のある街で、性風俗産業の発展にもそれなりの歴史がある、この事を時代を追って書き出すと、根気のないオレは、オレ自体が退屈をしてしまう恐れがある、ただ戦後には京都の芸妓を売り物にする5花街、祇園甲、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒、が存在し、娼妓を売り物にする赤線及び青戦地帯が存在してた、この事に少しまず触れておきたい。 江戸時代の享和2年、(1802年)、江戸から上方へ始めて旅行した滝沢馬琴の紀行文の中の、「京都の妓院」、について、京都の公許の遊女町は嶋原の他に五条坂、北野、内野なり、五条坂はあこや株と称す、また近年新たに免許ありしは、祇園、祇園新地、二条新地、七条河原等なり。そのほか西石垣、上宮川町、東石垣、下宮川町、古宮川町、六波羅野、御影道うら、都市町、平居町、一ノ宮町、三ノ宮町、膳所うら、富永町、末よし町、新ばし、なはて、川ばた、先斗町、壬生、五ばん町、七番町、三ツ石町、六軒町、寺の前、下ノ森、上七軒、しら女の辻、御霊うら、杉本町、野川町、大文字町、先斗町川ばた、難波町、若竹町、新車屋町、丸田町、壇王うら、等皆私宿(私娼街ないし、公認されてはいないが黙認されている遊所)也。凡洛中皆妓院なり、京の倹約なる人気にて、かく多き遊のそれぞれに世渡りする事、第一の不思議なり。と書き記している、これらはまだ花街が出来る以前で、公娼、及び私娼の娼妓のいた地域である。 これを見ると確かに、当時の京の街は現在の千本通よりに西は、沼地であり、竹薮ばかりであった事を考えると、洛中皆妓院なり、の言葉に頷く事が出来る、幕府の規制強化、規制緩和の繰り返しにより廃業に追い込まれる場所、併合される場所、新地の開発により移転をする場所、単に客足が遠のいたためによる廃業、等によりより新しく増えた場所もあり、多くは消滅した場所もある、京へは諸国の大名が入洛も多く、これらの地域の幾つかは、娼妓によるサービスばかりではなく、芸妓によるサービスの重要も発生し、現在残っている5花街には芸妓と娼妓の両方が存在し、そんな時代を経て徐々に娼妓の数を減らして、芸妓オンリーの地域になり、祇園甲、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒が京の5花街として、現在に至っている、明治時代に都が東京へ遷都、これにより京の街が急速に寂れていく、京の街では遊郭が過剰の時代に入り、近代交通網の発達、明治時代の初期の京都市長の革新思想による諸政策、遊郭で働く女性が技術を見つけることが出来る女紅場の建設等による自立支援策、一気に京の遊郭も減少し、そこで働く女性が自立していった、また地盤沈下の激しい京の街の振興策として万国博覧会の開催、そこで外国のお客さんに5花街の舞妓・芸妓が優雅な舞などを披露して、絶賛をはくし、都おどりや鴨川踊りなどもスタートし、芸妓としての実力を身につけ、徐々に花街としての格式、伝統が備わっていったのである。■「今日の言葉」■ 「 目標の達成は結果がでるまで やり抜く決意が出発点となる 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Sep 3, 2009
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(昨日の続き)、終戦の日の3日後に内務省から警視総監及び各警察本部長宛に極秘密裡に出された、「外国駐屯軍慰安施設等整備要綱」、鈴木貫太郎内閣の総辞職の後を受けて成立した東久邇宮内閣の成立の翌日、この命令を下したのは近衛文麿・国務大臣であった、この時まで日本は敗戦及び外国の軍隊に占領されるという経験がなく、「果たして、どういう事が起こるのか、外国の占領軍がどういう行動を起こすのか」、想像もつかないことであり、唯一想像できるる事は、戦争中に日本軍が占領した中国を初めとした東アジアの国々で行ってきた事と、全く同じ事をするのではないか、加害者の立場ではなく、被害者の立場として想像する事しか出来なかった、日本軍が占領地で行った暴行・陵辱が日本でも行われるという予想に基づいて、「日本の娘を守ってくれ」、と当時の警視総監が自ら指揮を取る様に命令、命令を受けた警視総監は日本の婦女子を守る防波堤の構築と考えた、そしてその実行役をになったのは、この命令が出されて直ぐに召集されていた特定の業者達であった、この内密の指令が昭和20年8月18日、彼らは8月の21日には、「特殊慰安婦施設協会(Recreationand Amusemement Assosiationー略称RAA)」、なる団体を結成するに至った。 同協会の大義名文を掲げたその設立趣意書は、「畏くも聖断を拝し、ここに連合軍の進駐を見るに至りました。一億の純潔の護りを以て国体護持の大精神に則り先に当局の命令を受け、東京料理飲食業組合、東京待合業組合連合会、東京接待業組合連合会、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京都貸座敷組合、東京慰安所連合会、東京練投所組合連盟所属組合員を以て、特殊慰安施設協会を構成致し、関東地区駐屯部隊将士の慰安設備を完備するための計画を進めてまいりました。・・・・・直ちに運営を開始致します所存で御座居ます故、何卒御賛同の上大いに御出資を賜り、如上使命達成に万全の御支援をお願いします。」、一億の純潔、国体護持、と大層な大義名分を掲げて、サービス業を生業とする業者に対して、警視総監が自らが、「お国のために」、と断りながら、事情説明をして、慰安婦の募集を頼んだのであった、そして政府は間接的に当時のお金で1億円を貸し付ける事を約束をして、(これを認めたのは当時の主税局長の池田勇人)、慰安所の設置を協力に後押しをした、時は終戦の混乱期である、極秘裏の命令が出されてから僅かな日数で、見事なほどの手際の良さで事が進められている、サービス業の様々な業種の人たちであるが、その主体となる実態は廓の楼主等々の管理売春の経営者の人たちである、国・政府・警察との阿吽の呼吸のような物事の進め方、これは一朝一夕に築きあげられた関係ではなさそうなところが見られる、戦前からの両者のこういう関係、従軍慰安婦問題、国と政府は終戦のどさくさにまぎれて、秘密文書は大量に焼却、業者はお上の指令があれば口を閉ざし、交わした秘密文書の焼却は完全に行ったとしても不思議ではない、ただ従軍慰安婦問題をここで論じるつもりではない、ただ論じる場合にはここに見られる両者の親密以上の関係、この事を理解した上で論じられる事を願う。 連合軍の占領期において、兵士による日本人女性に対する暴行・陵辱事件はあるにはあったのだが、この時の日本の政府関係者は日本軍が占領国で行った行為と同様の事が行われるという予想は大きく外れ、想像をはるかに超えるほど紳士的であったとさえいえる、速やかに、「外国駐屯軍慰安施設」、は日本全国に設けられたのだが、大義名分を掲げて張り切ってこの施設を設けた業者、8月22日に小町園がオープンをし、次々に慰安施設がオープンするが、次々と性急に慰安施設がオープンするのを目のあたりにして、GHQは性病の蔓延を恐れて、「日本人は花柳病撲滅に特に努力すべし」、という覚書を日本政府に対して発し、「花柳病対策」、を指令、日本政府も、「花柳病予防法特令」、を交付、国策として進めていた売春命令に水をさすことにもなった、交付はされた実効性が伴わず、GHQは性病患者が確認された慰安施設へ立ち入りを禁止する、「オフ・リミット」、の札を掲げ、その後その地域一帯への占領軍兵士の立ち入りも禁じる措置に出た、業者の人達は、その思惑ほど儲けにはならず、封鎖する慰安施設もあり、また日本人のその施設の利用を禁止するとされていた諸施設は、「特殊喫茶店」、と名前を変えて、日本人にも開放されるに至った、名前を変えても、そこでは同じ事が行われたという事は当然である、終戦後、直ちに日本女性の貞操を護るためとの大義名分で設けられた占領軍のための国策売春施設、売春地域、売春街が、業態や名前、サービスの中身をかえる事によって生き残り、現在の風俗業界の複雑なサービス形態に変化する大きなきっかけを作り、終戦直後には全国で800ケ所あまりの売春地域が、売春防止法の前面施行時には3倍の、1、700ケ所あまりに増えていた、これは皮肉な事に、占領軍の性的慰安施設、地域の構築を国策として行った結果ともいえる。 「戦後の京の街の性風俗史」、のまず書き始め、どれくらいの周期で書き続けられるか定かではないが、当時を知っている人から話しを聞いたり、本を読んだり、資料を調べたり、気長に書いて行きます。■「今日の言葉」■ 「 言い訳をしたい気持ちを捨て なければ実のある反省は出来ない 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Aug 26, 2009
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昭和33年(1958年)、4月1日、「売春防止法」、が罰則規定を含めて前面施行された、数回にわたる審議未了・廃案を経て、その2年前の昭和31年(1956年)、5月24日に漸く可決されて、その1年前に部分施行されて、その日を迎えた、明治時代に公娼制度が定められて、この公娼制度が昭和の時代に廃止された、これも公娼はいなくなるが、私娼が誕生するという日本の国家、政府の存娼主義とも言うべき政策であった、ただ単に売春行為を公娼から私娼に委ねられただけである、そして戦後の日本経済の成長期に前面施行された売春防止法、この法律の文字面を見れば、売春防止とあるが、この法律が施行されて50年余り、売春行為が禁止されている国であるかという問に、現実的にはノーである、現在克っての遊郭のような場所は確かに存在しない、しかし、ヘルスという業界に於いて、確実に売春行為が行われているのは事実である、建前から行くとどの形態のヘルスに於いても、挿入行為の本番は禁止されているが、裸の男女が約1時間密室の中である、恋愛の自由というのはありえないかもしれないが、女性が生理的に合わない男性、嫌いな男性のタイプ以外の男性であれば、ここに市場の法則のようなものが働く、次回のお客さんの指名の期待でサービスという名目で挿入行為を許す、行うといのが現実、だから決して売春を防止する法律ではないのである、管理売春が行われていた赤線廃止、管理売春防止法なのである。 克ってこのブログでこの売春防止法が、現在の様々な性風俗産業を生み出したと書いた事があるが、むしろ日本の国と政府の存娼主義が生み出したという方が正しいのかもしれない、国や政府と管理売春を生業とする業者との結びつき、これは非常に秘密裏の指令の元に於いて、半ば阿吽の呼吸に近い、やり取りで行われていたようなふしがある、3年前の安倍首相の時代に従軍慰安所なるものは、国の指令を証明するものは何も残っていない、よって、従軍慰安所なるものは戦時中に存在しなかったという意見があった、(安倍元首相も同意見であった)、ここで従軍慰安諸問題に関する意見を言うつもりはない、今、1番興味があるのが京都の戦後の風俗史なるもの、明治40年生まれのオヤジが生きてさえいれば、そのあたりの詳しい事情を聞くことが出来たのだが、オヤジの生存中は、オヤジと息子である、どうもこういう下半身の話はしにくい、最もその頃には、こういうことを詳しく知りたいという願望もなかった、だから、本を読んだり、実際にこのあたりの事を知っている人に話を聞いて、少し勉強をしようと思っている。 昭和20年(1945年)、8月15日、終戦の日の京都の赤線業界は果たして営業していたのか、どういうお客さんが遊びに行ったのか、嶋原、五番町、七条新地、中書島、橋本、それ以外に何処があったのだろうか、実のところ戦後の京都の風俗史といっても、この日から昭和33年、4月1日の売春防止法の前面施行、このあたりまでの事を全く知らない、加藤政洋著、「敗戦と赤線」(国策売春の時代)、を読んで知ったのだが、戦前の遊郭が日本全国で800ケ所余りが存在、売春防止法施行時にはそれが、日本全国で1、700ケ所余りの3倍に増加、この3倍に増加の大きな原因には、昭和20年8月18日、終戦の3日後、東久邇宮内閣の誕生の翌日、内務省の警保局長から無線電信の秘密通達で、次のような命令が警視総監並びに各警察本部部長に通達された、「外国軍」、が駐屯する地区及び時期は今のところ全く予想もつかないので、必ずどの府県にも駐屯するものと仮定し、一般市民が動揺することがないよう対処せよと、そのためには、「あらかじめ手はずを定めおくこと」、がかんようであり、これは外部に漏らしてはならない。 その手筈は、「外国駐屯軍慰安施設等整備要綱」、として次の4点に集約されて示された、(1)、外国駐屯軍に対する営業行為は、一定の区域に限定して従来の取り締まり規定に関わらずこれを許可するものとす。(2)、前項の区域は警察署長に於いて之を設定するものとし日本人の施設利用は之を禁ずるものとす。(3)、警察署長は左の営業に付いて積極的に始動を行い設備の急速充実を図るものとす。(性的慰安施設、飲食施設、娯楽場)(4)、営業に必要なる婦女子は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に之を充足するものとす。この通達は占領軍のために、「性的慰安施設」、その他を一定の区域の限定して設置する事を求めるもので、従業するのは、より直接的に売春に関わるとみなされた女性達であった、特定の地区を指定、公娼、私娼を動員するという店で、この布達が戦前の遊郭や私娼街を前提としていた事を疑い得ない、この事を誰が思いついた事かというと。(明日に続く)■「今日の言葉」■ 「 他人を詐る術はあっても 自分を詐る術は絶対にない 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Aug 25, 2009
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仕事場のマンションへ行くと、管理人事務所の窓口のところに、所謂、ピンクチラシというヤツ、デリバリ-ヘルスのビラ、表は魅力的な女性の裸の写真と、時間別の価格の料金表と店の名前と連絡先の電話番号、スタンダードプレイの内容とチェンジ&キャンセルOK、等々の他ライバル店に比べてのサービスの特徴が書いてある、こちらは男性のお客さん用、裏はそこの店の求人、日給、週給、月給、が書かれていて、自由出勤制、完全日払い制、ノルマなし、アリバイ制度あり、等々が書かれており、女性のアルバイト&リクルート用、このビラが数枚おかれていた、マンションがオープンした頃に数度メールボックスにこの手のビラが入れられていて、その時には、「オイ、管理人、こんなビラが入ってたぞ、気をつけろ」、「それは無理ですよ、こんなビラは管理時間外のポステイング、気のつけようがないですよ」、こういうビラに対して管理人に文句を言うのは筋違いな話、独身男性なら文句を言わずに部屋へ持って帰り、デリバリーヘルスというものの世間相場を知り、後日なんかの折に必要な時のために、そのビラを残しておけば良い、オレからすればこの手のビラがメールボックスに入っていたからといって管理人に文句を言うよりは、そのほうがはるかに健全のように思える。 その手のビラが以来久しく入っていなかったのだが、昨夜、ポステイングがされていたようである、何人かがメールボックスにあるピンクチラシを、家の中へ持って入るのが嫌で窓口に置いていったのならまだ良いのだが、「管理人よ、こんなビラが入いっとるぞ」、という意味ならお門違い、ただこの業界の宣伝媒体は克っては公衆電話ボックスにベタベタと張ってあった、名刺大のビラが主流であったが、NTTも公衆電話ボックスの素材をビラが貼りにくい、はがれ易い素材に変更、そうこうしている内に携帯電話の普及により、公衆電話の需要が極端に減少して、街角から公衆電話が姿を消した、そこで葉書大の大きさのビラをマンションのメールボックスや郵便受けにビラをポステイング、しかしお客さんは、この手のビラの電話番号に、実際に電話をしてみると、「この電話は、お客様の都合により・・・・・」、という事が多い、店をオープンして短期間で荒稼ぎをして、サッと店じまい、という事も多く、お客さんはこういう店の宣伝媒体をこういうビラからインターネットに頼るようになる、KFJといった風俗情報案内サイト、ここを通じてさまざまな店のサイトへ、システムや料金など事細かく書かれていて、勿論リクルートコーナーもあって、何よりもありがたいのは在籍嬢の一覧があって、当日と翌日或いはその週の出勤予定日が出ており、顔の一部がぼかし、或いは唇より上の部分をカットした顔写真、と数枚の色っぽいポーズの写真、年齢、身長、スリーサイズ、カップの大きさ、店長の一言コメント、本人の一言コメント、動画つきというのもある。 お客さんがインターネットで行く店を選ぶ、そこでプロ、及びセミプロが写真撮影、キチンと照明も使う、こうなると写真マジックの世界でもある、全員が肌のキメが細かく、きれいな肌に見える、ポーズをつけるときに、レントゲン撮影と同じで、ハイ、息止めて、お腹のラインはきれいななだらかなライン、しかし実際には写真とは大違いで、ウエストのくびれ無しで、ぽっこり、あるいは、ぽちゃぽちゃお腹、年齢は例えば20歳とある、入店時には23歳、10代の後半ではきついから20歳にしておこう、入店時に3歳サバを読み、在店4年目、しかし、年齢は最初の20歳のまま、この業界では当たり前のことだが、こうなるとサバを読むではなく、クジラを読むである、サバを読むのは年齢だけではない、身長、168センチ以上は苦手、身長168センチとなっていても、会うと、デカ~、と思うこともある、170センチ以上だと指名が減るので、低い目に身長もサバを読む、スリーサイズである、これはどうでも良い数字で、スリーサイズが体型に反映しない、スリーサイズのスペックが良くてもスタイルが良いとは限らない、カップに大きさ、貧乳、微乳好みには大いに参考になるが、巨乳好みにとっては、でかいには違いないが、ただ単にでかいだけとか、偽乳だとか、形の悪いHカップはもてあます事もある、顔の一部が隠れていると、体つきから顔を想像してしまう、そうすると本人に罪はないのだが、美人に想像してしまう、だから実際に顔を見るとその落差が余計にが大きくなる、余りえらが張っていない顔立ちで、口元の両端が自然に上がる口元、過去の経験からいくと、こういう口元の人は愛嬌があって、愛想が良い、こういうところで理想の女性というのは無理な話でもある、ルックス的なものを幾つか犠牲にしても最後は、愛想がよくて、愛嬌があって、気立てが良い、これが一番のポイントといえる、こういう女性を最初に店から勧められると、月に何度も遊びに行くわけではない、そうなると同じ女性を指名して、少し長い馴染みとなる、マンションのメールボックスに入っていたピンクチラシから、こういう話になるとついつい話が長くなってしまった。■「今日の言葉」■ 「 先祖や親を敬う気持ちは心の 安定を作る大事な柱である 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Jul 10, 2009
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第8回西院MUSIC FESTIVAL 2009の開催まで、後40日をきった、出演ミュージシャンの出演場所、タイムスケジュールは完了、フリーマーケットの出展者の枠がまだ余っている、引き続き募集、ボランテイアスタッフもまだ不足、これもイベント当日まで募集の継続、間も無くパンフレット、ポスターの印刷上がり、今年のイベントTシャツのオーダー、ヒマワリ募金箱の回収、イベント会場及びスポンサー先へパンフレットの配布、スポンサー広告代金の集金、ポスターの貼り出し、これが案外大変な作業、各会場、スポンサー先、その他地域では世界一周船の旅のポスターがはってある店や家へ頼み込む、毎年貼って貰っている場所も今年は衆議院選挙も近く、もうすでに立候補予定者のポスターが貼られている、西大路四条交差点近辺に大量にポスターを貼る場所が少なくなってきている、この辺りに多少美観は損なうのだが、大量にポスターを貼ることが出来ると、広報とイベントの雰囲気の盛り上がりに大いに効果が上がる。 前の年、或いは古い西院フェすのイベントTシャツを着たスタッフが、暑い中、スタッフが楽しくパンフレットを配ったり、ポスターを貼ったり、汗を流しながらの作業をする姿を地域の人達に見せる、この事が結構大事な事で、古くから店を構えている人が、「このクソ暑いのに、自分らには一銭の得にもならんのに、本当に楽しそうに、汗を流している、手伝えへんけど、文句を言うやつがおったら、オレが味方になったろう、そんな気になるわぁ」、なんていう心強い味方も出来る、このイベントのように地域に密着したイベントは、スタッフの姿や顔が見えるということは極めて大事な事でもある、ヒマワリ募金箱を回収、それと同時に来年用のヒマワリ募金箱の設置、ヒマワリ募金箱に集まったお金を集計、その集まったお金でイベント当日に飾り付けるヒマワリの手配、イベントの開催日が暑い盛りである、7月31日の夜に飾りつけて、8月2日の夕方まで、その間の水遣りも大変な作業である、夕方からはお客さんにヒマワリのお持ち帰りを勧める、残ればゴミとして廃棄処分である、勿体ない、ポッドに植わったヒマワリは植木鉢に植え替えて、水遣りをすると、花は1週間から、10日ほど咲いている、イベントの2日目の夕方よりポスターはがしの作業、後片付け、翌日、イベントの名残が何処にも残っていない、2日間のイベントの開催が嘘のようである、「本当に2日間イベントをしたのだろうか」、まるで真夏に見た蜃気楼か夢のような気に襲われるものである、そんな時に店の前にヒマワリが多く置かれているのを観ると、「ああ、やはり、イベントを開催したのだ」、そんな気分にもなれ、お客さんにもイベントの余韻をしばしの間愉しんでもらう、時々、「去年のヒマワリの種を残して、今年蒔いたら、ほれ、こんなに花が咲いた」、と嬉しい事を言われる事もある。 8年間このイベントに関わってきた、2月からイベントの開催まで、この時期に何をすれば良いのか、身体と頭にしみこんでいる、確実に誰かが引き継いでくれるだろう、このイベントに疲れたわけでもない、飽きたわけでもない、楽しくなくなったわけでもない、いい年をして幾つものことができるほど器用でもない、67歳、人生で今自分がどの辺りにいるかはようく分かっている、確実に陽は傾いている、日暮れにはまだ時間がある、自分のやることが少しばかり残っている、それをするために、今年はイベントが終われば、来年はつけることのないスタッフ証を置いて帰る事にする。■「今日の言葉」■ 「 良いわけをしたい気持ちを捨てなけ れば実のある反省は出来ない 」 (自然社・平成21年・新生活標語より)
Jun 26, 2009
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「始めまして、よろしく」、「こちらこそ、よろしくお願いします」、「いつまでも暑いですね」、「黒い雲が出てきていますね」、「降るんでしょうかね」、「傘持ってますか」、「パラソルと兼用の」、「オレはいつでもリュックの中に折り畳みが」、ここで少し会話が途切れて、たすきがけにしたシ-ザーズバッグからエコーを取り出して、唇で咥えて、ジッポーで火をつけて、大きく煙を吸い込んで、彼女は右側を歩いているから煙がそちらに行かないように、左側の方に顔を向けて、吸い込んだ煙を吐き出した、店の事務所から出て、言葉を交わして初めてようく顔を見た、オレの目には殆ど化粧気がないように見えた、スッピンでこれだけ可愛くて、綺麗で、清純そうで、美人である、背は160センチくらいで、ヒールを履いているから、もう少し背が高く見えた、肥えてはいずに、すらりとした良いスタイル、服装は黒と白のモノトーンで上着は長袖のデザインTシャツで、そのデザインが顔や雰囲気とはミスマッチのような気がしたが、話しかける他愛のない話に、ニッコリと笑顔で頷きながら、言葉を交わす、秋の始めの厳しい夕日に、眩しいくらいで、服装なんてどうでもいいくらいであった、普通のタバコは1本吸うのに約3分、しかしエコーはあまり葉がぎっしりと詰まっていない、だから1本吸うのに時間は約半分、1分余り、タバコを吸っている間、黙って歩いていた、初めて会った人と、特に相手が女性の時は、会話が途切れるのは実にイヤである、恐怖の沈黙の時間、そう思うと次の言葉出てこない、何を話そうか、頭の中の二十日鼠が忙しげに走り出す、回し車が高速回転、それに追いつくようにますます速く走り出す、次の会話が出てこない、二十日鼠がますます大暴れ、しかし彼女とは不思議とこういう事が無い。 会話が途切れても一緒に歩いているだけでも心地が良い、最初は事務所から目的地まで外を2人で並んで歩くのがイヤだった、オレはこういう時には決まったように知っている人、特にこういう時に会いたくない人に偶然に出会う事が良くある、昔はこういう時には知らない振りをして通り過ぎ、相手も気がついていないように見え、やれやれ、ところが実際には相手は気がついていて、状況も察知、声をかけるのは野暮というもの、気がつかない振りをしてやり過ごした、と後で面と向かって言われた事もあった、今日の彼女なら、こういう場合こちらの方から声をかける、相手もカップルの場合には、適当に名前を言って彼女を紹介するかもしれない、そんな雰囲気も持ち合わせている女性、そんなことを考えながら並んで歩くのも結構楽しい事、「まだ、遠いんですか」、「もうすぐです、あの角を曲がったところ」、歩いて7、8分の距離、遠くも無く、近くも無く、丁度良い距離、角を曲がる時、内側の彼女が前に行く、後姿を見ていると、これからの1時間余りの事が頭を駆け巡る、又もや頭の中の二十日鼠が猛スピードで走り出す、木の車がビュンビュンとまわりだす、「つきました、ここです」、優しい笑顔で、にっこり。 帰り道、「雨が降ったみたいですね」、「雨かな、打ち水かな」、「でも、車の屋根がぬれています」、「雨が降ったんだ」、「歩いている時でなくて良かったですね」、「一つの傘に入るのも」、「そうですね、それも良いですね」、オレは5親等以内、全てがB型、彼女もそうらしい、不思議であるがB型同士は例え初対面でも会話に苦労しない、今日が初対面なのに、何となく長い間の知り合いのような気持ちになっている、ここへ来るとき彼女にとってオレは初めて、少しの不安感と、緊張感、帰り道にはもうそれが無い、ますます表情が柔らかくなって魅力的、話す事にいちいち頷きながら、ニッコリと優しい笑顔で会話が弾む、「ユックリ歩いて良いですか」、「足が?」、「いや違うんです、こうし歩いているのも楽しいんです、少しでも、ユックリとそれを楽しみたいんです」、「じゃあ、遠回りでもしましょうか」、「でも、もう事務所の前の道ですよ」、「有難う、今日は楽しかったよ」、「いいえ、こちらこそ、また来てくださいね」、「1ケ月後くらいにね」、「そんなに先ですか?」、「多分ね、といって明日来るかもしれないけど、これは冗談」、「では」、ペコリと頭を下げて、少しはにかんだような、照れたような、最高に優しい笑顔でニッコリと笑って、事務所の中に消えていった、少し歩くと四条通、歩いている人も多く、走っている車も多く、夢の世界から現実の世界に急に引き戻される、先ほどのことは秋の始めの幻か、蜃気楼か、咥えたエコーを吸い終わり、ポケット灰ザラに吸殻を入れて、鼻をつまんで、髭を撫でると、かすかに、ほんのかすかに、彼女の残り香が漂う、それが唯一彼女と過ごした1時間余りの事を。 ■「今日の言葉」■ 「 互いの欠点を認め合うように ならねば夫婦の愛情は育たない 」 (自然社・平成20年・新生活標語より)
Sep 22, 2008
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「Taspo(タスポ)」、タバコを吸わない人には全く関係の無いものだが、一日3箱を吸うタバコの、「エコー」、タバコの自動販売機に200円を入れると、買えますよという赤く点灯する、数少ない安いタバコの銘柄、他には、「わかば」、位である、市内の中心部へ行くとタバコの自動販売機にこの安い銘柄は入れられていない、効率化というものだろう、その点、我が住んでいる西院の街は優しい、大概、何処のタバコ自動販売機にもこの銘柄が入っている、買うのには不自由はしない、町の中心部ではこの銘柄のタバコを買うのに不自由をする、だからオレはいつも肩からたすき掛けで提げている、革のシーザーズバッグに、携帯電話、サンテ40の目薬、ミニの懐中電灯、スペアの100円のガスライター、(普段はジッポーのオイルライターだが、特に夏場はオイルの減りが早く、オイル切れや、ライターの発火石がなくなった時用に備えている)、それと、「エコー」、を3箱入れている、最近はコンビにもタバコを売っているが、この。「エコー」、は置いていない、克ってはタバコ屋さんには看板娘がいて、タバコを買うのにも一つの楽しみがあったものだが、最近ではタバコ屋さんには殆どがお年寄りが店番、小銭があれば自動販売機で買う、というのが気分が悪くなるほど愛想というものがない、愛想が悪いだけではない、近くのタバコ屋さんの店番のお婆さん、1万円札を出してタバコを買うと、お釣りを出すのに時間がかかる、それだけではない、いつも決まったように、「お預かりしたのは、5千円札でしたかいなァ」、と恍けた顔をして聞き返す、きっといつかは損をしそうな予感、そんな事で、タバコはよほどの事がない限り殆どが自動販売機で買っている、このタバコの自動販売機出タバコを買うのに、2008年度から未成年識別装置というやつがつけられる、新しいタバコの自動販売機にはその識別装置がつけられている、その新しい自動販売機を目にするようになった、その識別装置の付いたタバコの自動販売機でタバコを買うためには、ICチップについた顔写真入のカードが必要になってくる、このカードの愛称が、タバコとパスポートを縮めて、「Taspo(タスポ)」、となった。 オレがタバコを吸い出した頃、高校生の頃、勿論タバコの自動販売機などはなく、タバコ屋さんの店頭で買う、ところが地元では顔がさす、店番の人が、「あんたは、あそこの家の子やろう、年幾つ?」、とか、「まだ高校生やろう?」、という具合にタバコも買いにくかった、しかし今や、タバコの自動販売機は日本全国で62万台が設置とも言われている、中学生でも高校生でも未成年でも大きな顔をしてタバコを買うことが出来る、また店頭ででも、高校生ではないか、未成年ではないか、とがめだてという事は極稀となった、タバコの害が明らかになり、喫煙者だけではなく、間接喫煙の害も叫ばれている、未成年に喫煙の習慣をつけさせない、このことにはオレも賛成、このために2008年度から順次タバコを買うためには自動販売機に取り付けられた未成年識別装置に、「タスポ」、をかざさなければタバコを購入できなくなる、これは 社団法人日本たばこ協会、全国タバコ販売協同組合連合会、日本自動販売機工業組合が主体となった取組がなされる、全国一斉ではなく、まず鹿児島県と宮崎県がパイロットエリアとして、2007年の12月からカードの申し込みの受付開始、2008年3月より、未成年識別稼動開始、その他は2008年2月よりカードの申し込み受付開始、第1次エリア、第2時エリア、第3次エリアにブロック分けされ、2008年5月、6月、7月、と順次未成年識別稼動が開始され、京都府は第2次エリアで2008年6月より未成年識別稼動が開始される事になる。 所定の用紙に必要事項を記入し、顔写真と生年月日を証明するものの写しを添えて、社団法人日本たばこ協会へ申し込み、書類審査後に、「タスポ」、を発行、発行手数料は無料、このカードにお金をチャージすれば、電子マネーとして使えることになる、度重なるタバコの値上げ、喫煙場所の規制、過激な禁煙論者の糾弾、そして今回の自動販売機で購入のための邪魔くさい手続き、何故、こうなってもタバコをやめないのか、タバコがそこにあるからではない、タバコを辞める気になるかならないかの問題であると思う、カードの取得の手続きが邪魔くさいなんて思わない、「タスポ」、カードの名前は可愛い、どこかでどんなカードだろうと、密かに楽しみにしている。 ■「今日の言葉」■ 「 自分の欠点を教えてくれる友達 は最も大切な財産である 」 (自然社・平成19年・新生活標語より)
Jun 22, 2007
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若い女性ではなく少女の写真集が最近よく売れているとニュース番組で知った、実際に10年前の女性の写真集のベスト10の中の最低年齢が16歳であったのに、昨年あたりのその最低年齢は11歳、ベスト10の中に4人くらいの15歳未満の少女がいる、密かとはいいがたいが人気である、少女といえども発育のいい子は、少女の年齢でありながらも女性の体型をしている人も希にいる、化粧をすれば実年齢よりも年上に見える顔立ちの子もいる、しかし売れている写真集のモデルは、年齢相応の体型と顔立ちをしており、少女そのものである、そのような少女が水着は着ているが股を広げたり、お尻を突き出したり、Tバックのショーツ姿のポーズをとった写真集が確実な売り上げを上げている、数の多少は別として、昔から、性的な対象として、こういう少女を好む男性はいたであろうが、そういう人は自分のその嗜好をを隠し、周りの人に知られないようにし、自分のこのような好みは何処か正常ではないという事を気づき、後ろめたさというものがあった、しかし最近の、そういう少女の写真集のコアなフアンは、自分の性癖が他人よりは変わっているとか、異常とか、不自然とかといった感覚は無く、好みの違い、嗜好の問題としていて、悪びれた様子は少しもなく、アッケラカンとして、良い方に解釈すればオープンである。 このような写真集のモデルの少女の父親は、一応、撮影の時にこういうポーズまでなら、こういう水着なら、こういう肌着なら、という風に、ルールのようなものを決めて、性的な欲望の対象になる写真集のモデルではないと認識しているという事であった、買った人がその写真集を見て、どういうことを感じるか、そこまではあずかり知らない事である、という風にコメント、このような日本の風潮に、外国人は、驚きと、嫌悪感を示しており、その番組に出ていた数人のコメンテーターは、本来なら性的な欲望となることから守らなければならない低年齢の少女を逆にそういう対象にすると、そういう物を需要する者と、そいう需要があるからといって供給する者の両方を非難、しかし性的欲望の対象となる少女モデルを、一番そういう事から守るべき立場の父親が先のようなコメント、しかも児童ポルノを取り締まる法律もある、いくら需要があるからといってもこれ以上過激な写真集を出版するのはリスクが大きい、大体、今出されている写真集ぐらいが限度である、そうなると今の写真集で性的に興奮し、性的欲望の対象になると考える人は極めて少数派の人といえる、現状では少女ポルノではない、猥褻物陳列罪も多くの一般大衆が性的欲望を掻き立てられるという事が前提である、多くの一般大衆の性的欲望が掻き立てられる写真集というわけでもない。 恐らく問題は、こういう写真集のコアな、熱狂的な、病的なフアンで、一過性のはしかのようなものであれば問題は無いが、この迷路から抜け出されないような人、少女にしか性的な興味を抱かない人、性的欲望を満たすために行動を実際に実行する人、頭の中や、イメージの世界の中だけなら問題の無い事だと思う。 かくいうオレも4月になると嵐山あたりで見かける十三参りの少女、最近は少なくはなっているが初めて大人用の着物を着て、生まれて始めて唇に紅を差し、化粧をし、初々しい、あどけない、幼い可愛さの中に、ほんの少し覗く大人の女の入り口のようなお色気と色香、カメラを向けてなぜかハッとして、ドギマギして、手のひらが汗ばむ事もある、女性の外見の美しさはこの年齢かと思う事もある、その反面風俗などで、人妻○○、熟女○○、というのにもめっぽう弱い。 ■「今日の言葉」■ 「 感謝の心がある所には温かい 人間のつながりが生まれている 」 (自然社・平成19年・新生活標語より)
Mar 21, 2007
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最近、家の近くへでも飲みに出ていない、小遣いが無いから、溜まり場になっている地下がショットバー、1階が夜カフェ、地下は随分とご無沙汰だが、1階の夜カフェは午後の4時半が開店、休みの日や、土・日・祝日の仕事の日、仕事の帰りに珈琲を飲みによる、一昔前はお彼岸を境にして、春のお彼岸から秋のお彼岸までの間は水割り、秋のお彼岸から春のお彼岸まではお湯割りと決めて飲んでいた、だからここでは春のお彼岸まではカプチーノを飲んで、それが済むと、秋のお彼岸までアイス珈琲を飲むことになりそうだ、何故そんなことをしているのかというと、店に入っていちいち注文するのが面倒、それと黙っていてもさっと出てくるのが好きで、しかもそういう風に決めておくと店の人も迷わなくても済む、ただ、「暑さ寒さも彼岸まで」、というが最近の気候異常、そうきっちりと季節が入れ替わらない、だから春のお彼岸が済んでも寒い日が時折ある、温かいカプチーノが飲みたいと思ってもそこは我慢してアイス珈琲、逆の事もある秋のお彼岸がすんでも残暑の厳しい年もある、アイス珈琲が飲みたいと思いながらもカプチーノを少し汗をかきながら飲むこともある。 珈琲は昼食の後は砂糖を入れるが、それ以外の時は砂糖は入れない、大体がブラック、ただこの店はエスプレッソマシン、ホット珈琲はオレの好きなタイプで無く何処かベトナム珈琲のような味、だからカプチーノを飲んでいる、熱い珈琲の上に熱いホイップミルクをたっぷりと、猫舌のオレには熱過ぎる、飲めるようになるまで少し時間がかかる、だからヌル目のホイップミルクにしてもらう、ホイップミルクがまだ少し冷たいくらい、他の人にはぬるく感じる、それくらいがオレには丁度いい、砂糖は入れない、一口飲むごとに鼻の下の髭にホイップミルクが着く、そのたびに髭をハンカチで拭きながら飲む、アイス珈琲はブラックで飲む、大きな氷の入ったグラスにホット珈琲を絞りだす、ストローは使わない、1口目に珈琲の豆をミルで引いているときの、香ばしい香りが口の中と鼻腔にパッと広がる、今一番お気に入りのアイス珈琲。 早い時間はお客さんが少なく、誰かお客さんが来ても殆ど顔馴染みのお客さん、「最近は下で見かけませんねェ」、お小遣いが無いというわけにもいかず、「いあやー、最近は戒厳令で、夜間の外出禁止、出かける時には、前日の午後6時までに外出許可願いがいるんでね」、「・・・・・・」、「行き先と帰宅時間、目的を書いて、許可が下りてからの外出、夜飲みに出るのに少々面倒な事があってね」、「今まで悪い事をしたバチが当たってんのやァ」、「そやから聞きたいライブの日には事前ライブ情報をキャッチして、前日に夜間外出許可願いを届けて、許可が下りて始めて夜間に外出できるんやァ」、「そうか、それで最近見かけへんのか」、「そやね~」、顔見知りと出会うとこういう与太話、そしてすぐにエロネタ話になる。 エロネタ話は嫌いではない、こういう話は振られると、ついつい話を受けてしまう、助平オヤジ、エロジイ、こういう事は一人歩きをする、何故かオレの顔を見るとエロ話になる、ますますそれがエスカレートする、「宮司さんが死んだら境内の隅っこに祀ったるて、言うたはった」、「そうか、話はそこまでいったか、それならしゃあないな、男運が上るとか、下の病気にかからないとか、安産とか、縁結びとか、縁切りとか、痴漢除けとか、なるべく女性のお参りが多い方がいいかァ」、とこんな具合になってくる、「最近エロ話をしませんね」、とこれは誘い水、いつもいつも、振られたエロ話に乗っているわけには行かない、「今月の1日から28日まで、4週間の断食、ならぬ、断色中やネン、そやからエロい事をするのも、言うのも禁止やネン、まあ、アラブの人達のラマダンみたいなモンや、オレのは年に一度やけど」、「そうなんやァ」、「年に一度これをやらないとエロ中毒になりそうで」、「たいへんやな」、「そうやね、ヨメにも言うてる、オレが入院して、若い綺麗な看護婦に無反応になったら、もう終わり、その時は生命維持装置をはずしてくれと」、「死ぬまでエロジイを通すというのも大変ですね」、「そやねえ、この断色も、せめて後15回はやりたい」、とこういう与太話は尽きない。 ■「今日の言葉」■ 「 聞くときは聞く立場に徹しなければ 相手の真意は分からない 」 (自然社・平成19年・新生活標語より)
Mar 12, 2007
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新年が明けたと思ったらもう1月も末、月が変われば節分、子供の頃は家から歩いて壬生寺まで、節分のお参りに行くと言うよりも、その途中の露店を覗くのが楽しみ、極めつけは見世物小屋、入り口には首が長く伸びたろくろく首の女性、三つ目小僧、傘お化け、背中が蛇のうろこのような少女、おどろおどろしい、どこかインチキくさい大きな絵がかかっており、入り口には、がらがら声の、それでいて耳あたりのいい、七・五調の呼び込み、足を止めて聞き入っていると、人の気持ちを見透かしたように、「間もなく開演、開演、開演まで後5分」、はいろうか、どうしようかと迷いながら仲間と、「どうする、どうする」、入ってしまうともうお金がなくなる、先ほどから良い匂いがしているベタ焼きが買えない、皆でポケットから有り金を出して見せ合う、全員が入る事が出来る、しかし帰りに腹が減る、迷いに迷っているところに開演を知らせるけたたましいベルの音、「オッちゃん切符を買うからちょっと待ってえ~なァ」、慌てて切符を買って中に入ると、中には子供の先客がパラパラ、少しグロテスクな感じの小人のオッサンが、数匹のハリネズミに餌のサツマイモの輪切りを食わせている、一向にそれ以外のことは始まらない、暫くするとまた、けたたましいベルの音が鳴る、それが鳴る度に数人が入ってくる、しかし一向に何も始まらない、「もっとお客さんが入ってから始まるンやァ」、「そうかァ」、と極めて楽観的にもう暫く待つことに、「なんやァ、いんちきや」、と後から入って先に出て行く人もいる、小1時間もテント中にいると、寒い、オシッコもしたくなってくる、するとグロテスクな顔の小人のオッサンが怒ったような顔をして、「僕ら、もう長い時間中にいるから帰って」、「まだ、何にも見てへん」、と文句を言うと、「こらー、早う出て行かんかい」、と棒切れを持って殴りかかるようなそぶり、その形相が恐ろしく怖く、辛抱していたオシッコをちびりながら、慌てて外へ飛び出して逃げる。 今でも節分のお参りに出かけると、この時の見世物小屋の事を思い出す、節分の日になるといわしの塩焼き、そう昔からではないが、その年の恵方をむいて巻き寿司のマルかじり、申し訳程度の豆撒きをして、その後に豆でお呪い、各自半紙を2枚強いて、数え年の数だけ豆を半紙に乗せて、オレは今年、数え年で66歳、2枚の半紙に66個の豆をそれぞれ乗せて、一つの方の半紙に乗せた豆をくるんで、口をネジって、そのネジった所を持って、底の豆を自分の身体に押し当て、頭が良くなりますように、頭の病気になりませんように、目が悪くなりませんように、身体のいたるところにそれを押し当てて、良くなりますように、悪くなりませんように、とユックリとお呪いをしてから、最後によろしくお願いしますとお祈りしてから、ポイッと頭越しに後に放り投げる、これを持って翌日の立春の日に西院春日神社に持っていく、これは子供の頃からしていた習慣、ところが妹2人に聞いてみたが、「そんな事は知らん、そんな事はしてへん」、との答え、オヤジもお袋もいない、誰にも聞けずに、数年の間、ヨメには、「思い違いとちがうの、他の人に聞いても知らん言うてはる、本当なん」、不審がられていたが、確かに神社の記帳台に半紙にくるんだ豆が幾つか置いてある、持ってきた人に聞いてみようと思うが、なかなそういう人には出くわさない、ところが昨年、年豆奉納台が置かれるようになり、神社の人に聞いてみると、この近くの人でする人は少ないが、以前に住んでいた場所によってこういう習慣があるようですという事であった、もう1枚の半紙に乗せた66個の豆は食べる分である。 この節分の習慣、息子に聞いてみた、しているという事であった、別段、悪い習慣ではない、むしろもう少し広がれば良いとさえ思っている、もう一つは、いまや完全に廃れてしまった、「節分お化け」、という習慣、元々、祇園町辺りから流行り出した様であるが、節分の日だけはいつもの着物ではなく、思い思いの着物を着てお座敷に出るのが許される日、「コスプレの日」、である、年配の芸妓さんが町娘の髪を結い扮装でお座敷に出る、それを見たお客さんが思わず、「お化け」、と叫んだ事からであろうと思う、これが広がりお客さんまでが扮装して座敷に上がるようになり、祇園町だけでなく、バーやクラブなどでも行われるようになり、70歳以上の人のなかには、数は少なくなってしまったが、節分というとお化けの日やなァ、という人もいるが、バレンタインデイが盛大に行われるようになり出すと、廃れていったようで、バーやクラブでは殆ど見かけなくなってしまってかなり久しい、そのためにそれが通じる人も少なくなってしまっている、この、「節分のお化け」、等は、2月は昔から水商売の暇な月、お客さんを呼ぶために復活すればいいと思う。 祇園の飲み屋さんにいかなくなって数年経つが、3年前に店仕舞した店、ここは最後まで、「節分の日のお化け」、をしていた、オレなどは毎年良いオモチャ、マリリン・モンロー風の金髪の鬘をかぶせられ、髭面に化粧までされて、嫌だ、嫌だと言いながら、満更でもなく楽しんでいた、この店にいたオレの一番色黒のガールフレンドのジャマイカの女性、彼女と最初の同伴の日が節分で、彼女の扮装はピーターパンだった、食事の間中、コートを脱がなかったが、店の入り口の地下の階段の降り口でコートを脱ぐとピーターパンの扮装だった。 ■「節分のお化け」http://plaza.rakuten.co.jp/higenoreon/diary/200402020000/■「節分のお呪い(まじない)」http://plaza.rakuten.co.jp/higenoreon/diary/200402050000/ ■「今日の言葉」■ 「 真に反省できたら心は明るくなる 暗くなるのは後悔に過ぎない 」 (自然社・平成19年・新生活標語より)
Jan 28, 2007
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男が歳をとってセックスが出来んようになって、つらつらと考えてみると、最後のセックスを思い出すことが出来ない、あるいは何年か前のあの時が最後だった、これが本当なら30歳から60歳まで週に1回のペースでいたいしたとして、約1、650回、これだけの回数の割りに最後は寂しすぎる、なんて事を遊び仲間と飲んでいる途中に話をした事がある、だったらどんな最後が良いか、最後は濁った乳白色の液体ではなく、白い粉がパッパッと出ればよく分かるんだけどとか、だったらいっそうの事、ラスト10回くらいの時に、「あなたは終了まで後10回です」、なんて通知をもらえれば、それなりに名残を惜しんで丁寧に、カウントダウンをしながら、心を込めて最後の10回はやりたいものだ、ラスト3回くらいになると、なかなかしないだろう、そして後3回を残しながら死んでしまうとか。 最後の1回を終了した途端に、頭の上でクス球が割れて、紙ふぶきが舞い、幕がするすると下りてきて、「祝・ご終了」、そして三味線に鉦や太鼓が加わり賑やかなお囃子がはいって、チャン、チャン、チャンチキ、チャンチキと祝・ご終了のお祝いの盛大なバカ騒ぎ、長い間様々な愛憎と歓喜、悦楽、時には恐怖さえも一緒に経験してきた自分の分身が、今からはたんにオシッコをするだけのパーツになってしまう、せめて最後くらいは賑やかにとは思うが、歳をとると極端な、「躁」、の状態が苦手で、怖いのである、大きな、「躁」、の後には、それ以上に大きな、深い、「鬱」、が待っているのを知っている、だから、「躁」、になるのを避けている、この祝ご終了の、「躁」の後の、「鬱」、これに耐えるのはキツイ話、もし最後というのがあれば、何年か後に久しくいたしていないない、もういたす気もない、つらつら考えてみるとどうやらアレが最後だったらしい、こういうのが良いのかもしれない。 オレは死ぬまで最後なんて、そんな事はない、と強がっていても、ナニをいたしていていても突然、唐突に襲ってくる、「ナカオレ」、というヤツ、冬場は咳をしたり、クシャミをしたり、するとタチマチするりと、「ナカヌケ」、始めのうちは妙に焦る事もあったが、最近でもう慣れっこ、タバコを吸ったり、話をしたり、しかもチョッとエッチな話、所謂、「タチマチ」、というヤツ、こういう時に、「な~んだァ」、とばかりに相手に小バカにされるのも良くない、だからといって妙にマジで、「頑張ってェ」、と励まされるのも苦手、元々ここ一番の勝負や、プレッシャーにめっぽう弱い、出来る事なら温かい気持ちでさりげなく、「タチマチ」、にお付合い、これが一番あり難い、たちまちのというわけにはいかないが、タバコを2、3本吸っているうちに、ロッキーのテーマが鳴り響くと共に、「タチマチ」、が終了という事になって、メデタシ、メデタシという運びになる、「お前はそんなに不自由たらしくても、まだする気なんかァ」、「そやけど昔に比べて今は、前も後も随分と丁寧にいたすようになってるでェ」、昔から一緒に悪さをしたり、遊んだ連中とお酒が入ってからこういう話になると話が尽きない。 しかし最近になって、そういう連中とこういう話になると、本当の事を言わなくなってきている、「オレはもうそいう事は卒業した」、と言いながらも、ポケットの何処かに、いざという時用に、青い薬を忍ばせていたり、「お前らは何や、軟弱になったなァ~、俺なんかは、今でも、・・・・・」、と体力自慢をするヤツが、実は10年ほど前から糖尿病で、全くダメになってしまったと言うヤツもいる、誰かに迷惑をかけるわけでもない、昔からの遊び仲間の与太話、こういう夜のお酒は、良い酔い心地。 ■「今日の言葉」■ 「 金や物に執着を持つほど 心の自由は失われていく 」 (自然社・平成19年・新生活標語より)
Jan 24, 2007
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アンコール曲は、全員が手拍子、掛け声、足を踏み鳴らし、テーブルを叩いて、ノリの良い、耳障りの良いリズム、楽しい今日のライブを締めくくるのにふさわしく、住んでいるところは鎌倉で、いつも、いつも、聴くことが出来ない、巨漢で、丸坊主、外人のような声量を誇る、「Gats」、さん、年に何度か車でツアー、今年は6月と昨夜で2度目、曲と曲の合い間のMCで、ツアーの途中で京都のこのの店に来るのが楽しみと言っていて、来年の予定はまだ未定、また来てみたいという気持ちで歌い、お客さんはまたぜひ来て欲しい、また聴きにこの店に来たい、そんな気持ちで手拍子と拍手、「THE TWINS」、お兄ちゃんの方は7年ほど前に東京へ行っていた頃に一緒にライブをしていて、昨夜はそのよしみで応援、ギターとサブボーカル、弟はパーカッションで応援、ハーモニカ、ドラムを置けない店だから、コロナビールの空きパッキングケースをドラム代わりにして、ブラシで叩いて応援、演る3人は物凄く楽しそうで、当然のことながら聴くほうも楽しい、女性のお客さんの少ない、もうこの店のライブは大晦日の年越しライブを残すのみの、多分オレがここのライブに足を運ぶのは今年の最後になる予定のライブ、楽しく、エンターテイメントした夜。 この店、昨年の10月に、阪急西院駅から歩いて1分のところの店で雇われ店長&バーテンダーをしていて、バスの1駅分西へ行った、昔喫茶店で、店が閉まって10年以上、空き店舗だった店を借りて、約2ケ月かけて、元の内装を壊し、そこから電気工事だけは業者さんへ頼み、殆どそれ以外は自分で内装その他を手作り、天井は配管をむき出しで、白いペンキを塗って、壁は白い漆喰の壁、バーの命のようなカウンター、を始めドアーなど木の部分も自分で寸法を測って、切って、塗料を塗って手作りで加工、テーブルも幾つか手作りで仕上げて、1階をカフェ、地下をショットバーとして開店。 この店のオーナー兼バーテンダー、大学を出てからバーテンダーの見習い、やがてひとり立ちのバーテンダー、雇われ店長、20代の後半だが、ショットバーの経営に関してはプロであり、お客さんもついている、しかし、カフェに関しては未経験、数ヶ月は完全に試行錯誤、日曜日の午後、学生時代のクラブ、サッカー部、お客さんなどを誘って、サッカーの練習や試合を楽しんでいたが、膝の靭帯を損傷、応急処置的に手術、暫くは松葉杖、その後は特殊ギブス、店を始めたばかり、短期間で職場復帰、地下のショットバーは採算が取れるようになるが、1階のカフェはいつまでたっても扶養家族、サブのスタッフは学生アルバイトでもいけるが、カフェを任せる店長が見つからず、メニューを変えたり、営業時間を変えたり、悪戦苦闘、春ごろに見つかった店長、6ケ月が経過しても、利益が上らず、責任を感じた店長が店を辞める事になる。 昨年の靭帯の損傷後の手術、普通の生活や仕事をする上では支障がないが、全力疾走をするのは無理である、1年後に靭帯の移植手術をし、リハビリをすればまた元のように全力疾走することが出来る、入院の期間は約1ケ月、もしオレが彼の立場ならば、オープンした店が1年、まだ軌道に乗っていない、入院の1ケ月の間、店を店を安心して任せる人がいない、こんな状況では生涯全力疾走ができなくても良い、1ケ月の職場から離脱して入院するほどの度胸は持ち合わせていない、だから靭帯の移植のために再手術はしないだろう、しかし彼は、まだ未婚であるが、将来結婚して子供が出来、全力疾走をする姿を見せ、一緒に走りたいという夢、その夢のために思い切って再手術、移植のためにはもっと早い時期のほうが良かったのだが、そのリミットというべき10月の中旬に再手術をした、仕事の胸突き八丁の大事な時期に、子供との全力疾走という夢とロマンのために、1ケ月のリスキーな職場離脱をしてまで靭帯の移植手術を行った、彼は、「西院フェス」、の実行委員長でもある、これを通じて、彼のワオッチングをしている、オレが長年かけて、勉強したり、努力したり、様々な経験をして、やっと身につけたものを、もうすでに身につけている、絶えずアイデイアを考え、実行力もあり、他人を束ねる統率力もあり、人の意見に耳を傾け、変えることを恐れない、それと決断力である、経営者としてのある種のセンスをすでに身につけている。 イベントも店も楽しい場を提供することに徹している男である、克って、「バーテンダーはお客さんとはカウンターを挟んで五分と五分の関係」、お客さんもライブで出入りのミュージシャンの人達の信頼も篤い、それはこの辺りにある様子、2ケ月ぶりくらいに楽しい夜だった。 ■「今日の言葉」■ 「 過ぎ去った事は返らないが その体験は生かすことができる 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Dec 14, 2006
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大阪の丁稚奉公の時代、毎月給料日の後、数日間の間、会社のトヨペット・クラウンのライトバンで、午後の7時半から8時くらいにかけて、「初島」便が発車、会社の3階の寮に住み込み、いい若い者が20数人が寝起き、毎月15日過ぎくらいから、給料日までの間にチョッとした事で揉め事が良く起こる、所謂、欲求不満のセイである、だからこれによって性欲の発散、ガス抜きである、尼崎のそばにある「初島」。 大阪へ丁稚奉公にでてきて初めての給料日の後、大阪の土地勘は全くない、大阪から神戸の方に向かって車は走ってきたのは確か、国道から少し外れ、数分走ったところの一角、普通ではない別の世界のような雰囲気、始めてここを訪れた者でも、ずらりと並んでいる似たような雰囲気の店の中で、怪しげな艶かしい秘め事が繰り広げられているのが、何となくそれと分かる、店の中は、表から見えるようになっていて、赤や青の照明は薄暗く、その向こうに、薄物のネグリジェを着たオネーさんが座ったり、立ったりして表を通る人の様子を見ている、或いは階段から降りてきたり、階段を登っていったり、ローカをうろうろしている、表からは顔や年齢は分からない、立ち止まって中を覗き込むと、何となく作り笑顔の化粧をしているからおばさんぽく見えるが、多分おばあさんだろう、客引きの所謂、やりてババァ、今の風俗店のお客さんの呼び込みは男性の黒服が専らだが、当時はそのように呼ばれていた女性だった、ここへやってきたスケベ心を見透かすかのような表情で、「オニィーさん、顔だけでも見ていかヘン、若い、可愛い、ええ子がおるよ」、先輩達は殆ど毎月給料日の後には必ずここにやってきて、遊んでいるから行く店や馴染みの女の子がいて、行くところはもう決まっている、新入社員はそういうわけには行かない、一通り店の中を覗いてみたい、多いときには車に定員オーバーで乗り込んで、ここにやってくる、8人ほどがぞろぞろと店の中を覗き込んだり、やりてバァさんに、「もう、チョッと他の店を覗いてくるわ」、と軽口を叩いたりして、先輩達もこうしてうろうろと冷やかすのが楽しそうで、オレ達に付き合ってくれる、普段はそうでもないらしいが給料日の後ともなると、暫くの間は結構人が多い、「オイ、もう、ぼちぼち、決めヘンと、女の子がおらんようになって、長いこと待たされるデ」。 部屋は8畳くらいの広さ、人形やぬいぐるみなど置いてあるものや家具、カーテンの感じからこの部屋で普段から生活をしている様子が伺える、若い女性が生活をしている可愛い雰囲気の部屋、真ん中に布団が敷いてあり、枕が二つ、化粧品と香水の匂いがプンプンしている、大卒で初任給が23、000円、余り定かに覚えていないがこの「初島」の料金はショート(30分、1、800円)とロング(45分、2、300円)の二つがあったように思う、ここには泊まりというのが有ったかどうか覚えていない、10倍すると、初任給と今のファッションマッサージ、ハコヘルの料金と大体値段の釣り合いが取れるようだ、 昭和17年(1942年)生まれ、売春禁止法の施行が昭和31年(1956年)、当時はまだ14歳、当然、遊郭も赤線といわれた場所も実際には知らないわけである、周りにいたアンちゃん連中の話の中と、映画やテレビや小説の中に出てくる、それで凡そ知っているだけである、売春防止法が施行されて久しいが、最盛期に比べて軒数は減っていたであろうが、ここの一角に残っていて、営業を続けていたわけである、遊郭、というよりも赤線地帯といった方が正しいと思うが、売春防止法の施行以前かと錯覚を起こすほど、これほど大っぴらに営業をしている場所に足を踏み入れるのは初めてであった。■「初島新地」 戦後の混乱期に出現した売春業者達が昭和29年(1954)に尼崎市南初島町の土地を買い取り、移転。翌30年に開業。昭和33年の売防法の施行により表向きは廃業、しかし、暫くは隠れて営業していた模様だが、現在は完全に廃業。 毎月給料日の後、何日かは気のあった者同士が連れ立って、ここ、「初島」、へ、月に一度の時もあれば、二度の時も、夏に始めてもらうボーナス、新入社員だからせいぜい寸志程度、それでもその月は毎週ここに通うことが出来た、何度か行くうちに、馴染みの店が出来、気立ての良い馴染みの女の子も出来た頃、国道から外れてそこへ行く一本道の途中で、パトカーが2台止まっていて、そこへ向かう車を検問、「初島」、へ遊びに行こうとする者は通行止め、この一角は出ベソのようになっていて、大坂方面からも、神戸方面からもそこに行くには、それぞれ一本道、その両方の道をパトカーで封鎖、ここへ遊びに来るお客さんをシャットアウト、まるで桶狭間である、お客さんが来ない闇営業の赤線地帯、ここの灯が消えるのには時間はかからなかった、数年後に大阪の千里で開催される大阪万国博覧会に備えての、「初島壊滅作戦」、は準備の1つであった。 この、「初島」、が遊びにいけなくなり、やがてこの商売がなくなってしまい、しかしはけ口とガス抜きは必要、ということで次は、「九条新地」、神戸の福原の、「浮世風呂」、と難波のマージャン屋さんで知り合った、小柄な前歯の抜けた貧相なオヤジ、実は本業はポン引き、ここでお世話になることに、ここでのことはまた後日という事で。 ■「今日の言葉」■ 「 今日を迎えられたことに感謝 して活力ある一日を過ごそう 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Sep 1, 2006
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今日から、タバコの値上げ、タバコの値上がりする前に、買いだめをする人も多いが、きのうはいつもの通り、エコーを3個だけ、このエコーというタバコ、タバコの自動販売機に200円入れて、買えますよと知らせる赤い電気がつくのはたしか、「わかば」、「ゴールデンバット」、とこれだけ、兎に角、安いタバコである、家の近所のタバコ屋さんの自動販売機にこれが入っているところが多いが、四条烏丸や四条河原町辺りへ行くと、これらが自動販売機に入っていない、このあたりでタバコを切らしてしまうと、買うのに不自由する、店の隅っこに追いやられた百貨店のタバコ売り場、それ以外となると数軒の大きいタバコ屋さんか店番の人のいるタバコ屋さん、(タバコ屋さんの看板が出ていて、実際に店があっても、自動販売機だけで商売をしている店が随分と増えた)、ちなみ阪急電車の各駅の売店では売っていない、安いだけではない、吸う人がそれだけ少ない銘柄なのであろう。 初めてタバコを吸いだしてから、吸う銘柄は随分と変わった、ピース、ハイライト、パール、スリーA、ショートホープ、ラーク、ウインストン、マイルドセブン、キャスター、そして短い方のパーラメント、このパーラメントのフイルターは端から2ミリほど奥まったところにフイルターがついている独特のフイルター、これを咥えた時の唇と舌の感触が好きでこの銘柄を吸っていた期間は随分と長かった、10センチのロングサイズではなく8、5センチのサイズのヤツ、この長さの違い、習慣とは恐ろしいもので、長いヤツは火をつけるときに何となく違和感、それとフイルターの長さが5ミリほど長さが違う、これが吸い込む時の感触、味にも微妙に影響、短い方が好み、しかもポケットに入れた時の感触と吸う時に一々蓋を開けなくても、サラの時以外はサッと箱を振って、少しハミ出したヤツを唇で咥えるだけでいいソフトパッケージ、ところがこれは何年か前にタバコのパッケージの主流がハードパッケージに移ってしまい、パッケージの製造ラインの都合だと思うがハードパッケージしか製造されなくなってしまった、これはソフトでもハードでも味にはまったく関係が無い、仕方なくハードパッケージ。 つい最近オレの1ケ月の限られた小遣いの中でタバコ代が馬鹿にならない、パーラメントからエコーにかえると、1箱300円が1箱170円に、1箱当たり130円も変わる、泣く泣くタバコの銘柄をエコーに変更、味に慣れるまで2週間、2、3日はまずく感じていたが背に腹はかえられない、まあ、煙が出るだけでもいいやと吸っていると、上手いと感じるよりも慣れ、上等の香りのいい葉っぱが入っていない、香りつけの香料も入っていない、葉っぱが余り詰まっていないから、火をつけてから、直ぐにタバコをはさんでいる人差し指と中指が熱く感じるほど減ってしまうのが早い、ところがこういう嗜好品というヤツ慣れてしまうのも早いもので、初めの頃には違和感があり、いやだなと思っていたところが、全く逆になってしまう、香りの少ない味、これがかえってシンプルでタバコ本来の味、葉っぱがぎっしり詰まっていずに減るのが早いのも、ちょっと吸いたい時に1分くらいで吸い終われる、ヨメのタバコをもらう時があるが、煙が余り吸い込めず、吸っていて辛気臭い、それと香りつけの香料で舌にいやなざらつくような違和感を覚える、長さも7センチ、箱を持った時にオレの手のひらの大きさには、丁度収まりがいい、セロハンのパッケージがしていない、これも余分なゴミが出なくて都合がいい、ショルダーの小さなシーザーズバックにタバコを入れている、セロハンがついていないためにタバコのカスがバックの中に残る、ところがシーザーズバックの底は底のたまったゴミを掃除しやすく両端にゴミをバックの外に落とせるように隙間が作ってある、これはタバコのカスが残らないためではないが、なかなか便利、根が楽天的なセイか、タバコの銘柄をパーラメントから安い銘柄のエコーに格下げしたが、このエコーというタバコ、今では結構気に入ったタバコである、今日から10円上がって1箱180円か、もう暫くは止められそうにない。 今日から禁煙を始めた人はどうか頑張ってください。 ■「今日の言葉」■ 「 今日を迎えられたことに感謝して 活力ある一日を過ごそう 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Jul 1, 2006
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エスプレッソマシンでいれたアイス珈琲、ホットの時はカップに入れる、アイスの時は氷を入れたグラスに熱い珈琲を入れる、ホットの時もアイスの時も全く同じ豆で、同じ挽き方で、カップに入れるか氷の入ったグラスに入れるかだけの違いである、ホットで飲むとオレの嫌いなタイプの珈琲、何処かベトナム珈琲のような味がする、だからホットで飲む時はカプチーノで注文する、砂糖は入れない、しかもヌルめのヤツ、運ばれてきて、直ぐに最初の一口をがブッと飲みたい、オレの舌では、「ヌルイ!」、と他のお客さんならクレームがでそうなぐらいが丁度良い、この1口目が旨い、だからこの一口目をゴクンとたっぷり目に飲みたい、だからホイップミルクを少し泡立ちが少ないが余り熱くしないようにしてくれる、珈琲は熱くないとダメという人が多い中、オレは例外的にヌルめでないとダメである、昔は1年中を通じてコーヒーといえばホットであった、しかし50歳を過ぎた頃から、夏はアイス珈琲、苦めの、少しとろみのでた、コクのあるのあるのが好きであり、ガムシロップを入れる、しかしエスプレッソマシンでいれたアイス珈琲はミルクも砂糖も入れず、ストローも使わず、ガブッと飲む、このアイス珈琲もこの1口目、引き立てのコーヒー豆の香ばしい、良い香りが口の中と喉と鼻腔にパーッとひろがる、ストローで飲むとこうはいかない、休みの日にはアイスラテ、勿論砂糖は入れない、しかし小腹の空いている時間帯だと、ここのカフェではアイス珈琲を注文する。 土、日、祝日勤務の日には仕事は午後の5時上がり、飲みたい珈琲を辛抱してバスに30分ほど揺られて、いつもの降りる停留所のひとつ向こうの駅で降りて、そのアイス珈琲を飲むためにそのカフェに行く、昨日、カウンターの席に先客3人、大柄な暑苦しそうな男、最近結婚した少し太ったストリートミュージシャン、30ン歳、3日ほど前に目出度く再就職をして仕事を始めたばかりで、昨日は休み、昼間からもうビールを何本か飲んでいて顔が赤い、36歳、そしてもう1人、100キロちかくありそうな、リーゼントスタイルでいかにもハーレー・ダビットソンが似合いそうな元電気工事屋さん、元とつくのは今遊んでいる、50歳の少し手前、どう考えても日曜日の夕暮れ時のカフェのお客さんと言った雰囲気ではない、オレのアイス珈琲が運ばれてきて、その旨い1口を飲んだところへ、長身でヘッドフォンをつけて派手な、「和」、のテーストのロゴプリントのTシャツをきた、そのスタイルからは想像できないが、近くの氏神さんの宮司さん、約40歳、ますます暑苦しい、にも拘らず、「ここのカフェは、年齢層が高いな、カフェちゅうのはもっと若いこのたむろする所とちゃうのんか、若い女の子が来てるのかと思って覗きに来たのに」、「今度こそ若い女の子のお客さんやと思っていたのに、危ない、怪しげな神主さんかァ」。 マスターは超スリムな体型で帽子が良く似合う、ハンチングがトレーマーク、昨日は中折れタイプのソフト帽、ニール・ヤングが大好きな、自称ニール・ヤング野郎のミュージシャン、本業はカメラマンでありこの店でも時折ライブをし、元々お客さんで来ていて、このカフェのギャラリーで写真の展示をしたり、ライブをしたりしていたが、前のマスターが2年ほど音楽活動に専念するためにこの店をやめることになり、オーナーが彼に白羽の矢を立て、本人もカメラマンだけでは食っていけないので、この4月より、カフェのマスターに転職、38歳、そして掃き溜めに鶴というか、野獣の中の可憐な美少女、紅一点が最近入ったばかりの女子大生のアルバイト、小柄、カウンターの中に入ると首だけがカウンターからヤット出るだけ、背が低い、150センチは無いだろう、真ん丸い小さな顔、その顔の中で口も鼻も小さく、目だけが大きい、ようく見るとほくろも幾つか、なかなか可愛い、可憐少女という感じ、京都へ出てきて2年目、話をすると、かなり訛りがきつい、それが純で素朴にも感じる、出身を聞いてみると奄美大島という事、そうかァ、訛りがあるのは当然。 時間は丁度、午後の6時、アルバイトさんの上がりの時間、仕事は私服のまま、黒いエプロンをはずして、小さめのバックをタスキ掛け、黒いキャップを深めにかぶり、きらきら光る大きな瞳を輝かせてニッコリと、そしてぴょこんと頭を下げて、「お先~いですゥ」、出口のガラスの扉を押し開けて、外に出てから、店の中を振り返り、もう一度ぴょこんとお辞儀、溜息をつくようにボソッと、「可愛いィ~」、マスターも、お客さんもうんうんと頷いていた、こわもてのお客さんばかりだが、皆妙に穏やかな、優しい表情になっていた。 ■「今日の言葉」■ 「 小さな事にも努力を惜しむな 何事も皆目標への一歩である 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Jun 26, 2006
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ワールドカップの本戦に3大会連続出場といっても、前回は開催国特権で予選免除、予選を勝ちあがっての出場は実質的には、たったの2度目、前回は予選リーグを突破したとはいうものの、これの開催国の恩恵に恵まれた組み合わせの有利さ、勝ち点を上げたのも、勝利したのも前回が始めて、ワールドカップにおける日本チームの実績というと、ほんのささやかなもの、しかし順調に地区予選を勝ち上がり、早々にドイツ行きを決定、以来、ドイツワールドカップでの日本チームの活躍をきわめて非現実的な夢と期待が膨らんでいった、前回と同様に予選リーグは突破できるであろうと。 この日本チームに対する非現実的な夢と期待が、ドイツワールドカップが始まり、勝てると思っていた初戦のオーストラリア戦でまさかの逆転負け、しかも2点の点差、この試合で予選敗退の可能性がかなりの確率で濃厚になったが、日本の予選リーグ突破という夢と期待が次のクロアチア戦に勝ちさえすれば何とかなる、とますます非現実的な夢と期待が膨らんでいき、この試合も期待に反してスコアレスドローの勝ち点1、この試合でかろうじて予選リーグの敗退は決定しなかった、という事はきわめて可能性の低い決勝リーグ進出の可能性が残された、予選リーグの最終戦のブラジルに有る程度以上の点差をつけた勝つという、究極の非現実的な夢と期待がかすかに残され、今朝の日本時間の午前4時の対ブラジル戦の試合開始のホイッスルが鳴るまで、正確には前半の45分が終了まで膨らみ続けた、かなり長い期間にわたって、ドイツワールドカップにおいて日本チームの予選リーグ突破という、決して皮肉を言っているつもりは無い、何かに熱中するという事はこういう事だと思うが、非現実的な夢と期待を存分に楽しむ事が出来た。 実際の試合においても、初戦のオーストラリア戦の試合開始からの約85分間、2戦目のクロアチア戦、背が高く屈強で頑丈で、タフネスで、少々乱暴なチーム相手に点こそ奪えなかったが、90分間相手にも点を取られることが無かった、猛暑と厳しい状況下で戦い抜いたハードな試合、最後の今大会優勝候補筆頭のブラジル戦の前半の45分間の戦いと、攻撃ばかりが目立つが殆ど失点しない堅い守りのブラジル相手に、先取点を奪う、ブラジルのゴールネットを揺らした、玉田選手の力強い、スピード感に溢れた、シャープな、限りなく美しいシュート、たったの2週間だけだったが、日本チームのいいところを楽しむ事が出来た、日本チームの選手達、ジーコ監督、そして決勝リーグ進出をすでに決めていながら、手を抜く事無く、本気で戦って、大きなショックを与えるほどの勝ち方をしてくれたブラジルチーム、有難う。 ■「今日の言葉」■ 「 親や先祖を尊ぶ家庭に 思いやりのある子供が育っていく 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Jun 23, 2006
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熱い手のひらに冷たいグラスが気持ちが良い、グラスの中のクラッシュの氷が少し解けるのをタバコを吸いながら待ってから太目のストローで吸うと、冷たい氷、ライムの香りとライムの酸味と砂糖の甘さ、最後にほんのりとラム酒、口の中から喉を通って、胃の中に、飲んだり食べたりした時に滅多に、おいしいとか、旨いとか、言わないタチだが、思わず、多い目にストリーで一口飲みこんだ後、「ウーゥ」、「フーン」、「フウーゥ」、声を上げてしまった、家の近くで最近、溜まり場にしている時にはアート・ギャラリー、時にはライブ会場にもなるカフェ&バー、数ケ月ほど前からメニューにフローズンカクテルを3種類、昼間は極力お酒を飲まない事にしている、その日に飲んだ最初のアルコールが良くまわるのと、顔が赤くなるため、そのフローズン・カクテルの中で気になっていたのが1つあって、なかなかそれを注文する機会が無くて、今日始めてそれを注文、それを一口飲んだ時の事でした。 それは、「フローズン・ダイキリ」、今日は温度も高く、湿度も高く、蒸し暑い夏日、午後の一番に、男の双子を妊娠中で予定日よりも2ケ月前に用心のために市立病院に入院している娘のお見舞い、京都で出産のためにゴールデンウイーク明けに里帰り、骨盤の大きい安産タイプの体型でなく、華奢な体つき、横に出っ張らずに、前にポーンと出っ張って、もう産み月に近いほど大きなお腹、その頃はそれで予定日よりもまだ3ケ月前、家で生活するとどうしても家事の手伝いをしたり、買い物に出かけたり、数時間PCの前に座ったり、日が経つにつれてお腹の2人の男の子は順調に成長、お腹の皮がパンパンに張ってくる、身体の機能も出産の準備を始めるために変化しだしてくる、2人とも体重は2キロほど、今生まれるにしては少し早すぎる、未熟児出産、最低7月の第1週か、第2週までお腹の中にという事で入院、まずそのお見舞いに行って、その後町内の神社係りの用事、氏神さんの西院春日神社の6月30日の、「夏越の大祓」、毎日の生活の中で知らず知らずのうちに穢れや罪を犯している、それらをこの日(「夏越の大祓」)と大晦日(「年越しの大祓」)にお祓いをする、茅で作った大きな輪、「大茅輪」、を3度くぐって、穢れや罪を茅に乗り移らせてお払いをする、それと人の形を書いた紙に氏名・性別・年齢を書いて、その日にお祓いを受ける、これを町内の神社係が取り纏めをする、家が留守がちのために、町内の約50件分ほどの、「人形祓」、を取りまとめて神社の社務所に持参。 マウンテンバイクで走っているとこれだけでも随分と汗、その後2時間ほど、出来上がってきた、「第5回西院MUSIC FESTIVAL」、の正式ポスター、毎年こういうイベントのポスターでどこのイベントにも引けを取らない良いデザインの自慢のポスター、今年のテーマカラーはオレンジ、シンボルフラワーは向日葵、このポスター貼りのボランテイア作業、阪急の西院駅を中心にして、飲食店、様々な商店、普通の家、などの良く目立つところに貼らしてもらうお願い、「何枚か置いといて、貼っておくから!」、というところや、「こことここやったら貼ってもいいよ」、(こういうところでは持参のセロテープでポスターを貼り付ける)、というところもある、また当然の事ながらけんもほろろに断られるところもある、さすがに5回目ともなると、「もう、この時期になったんか、毎年、エエ、デザインのポスターやなァ」、と嬉しい事を言って貰える所も多くなってきた、50軒ほどもまわるともう汗がぐっしょり、午後の5時、「もう終わろうか」、異議なし、最後に立ち飲み屋さんへ立ち寄って、「4枚ほど置いといて、貼っとくわァ」、「有難うございます、えーと、生ビール2杯」、汗をかいて喉がからから、当然の成り行き、30秒も経たずにジョッキーは空っぽ。 マウンテンバイクをカフェ&バーの前に止めていたのでそれを取りに戻る、一気に飲んだビールくらいでは喉の渇きはおさまらない、キューバのサンチャゴの近くの鉱山、ダイキリで働いていたアメリカ人の労働者が暑さの中、一日の過酷な辛い労働終えて、まずはイッパイ、ラムではチョッとハードでヘビーすぎる、そこではどこにでもあるライムなどを使って、汗をかいて疲れきった渇きを癒す、口当たりと飲み口が良くスッとする、そんなカクテルを考え出したのが、「ダイキリ」、ここのメニューの、「フローズン・ダイキリ」、を注文するにはうってつけのコンデイション、「甘みは、どうしましょう?」、かの文豪・へミングウェーは甘みを入れないヤツをこよなく愛したと聞くが、「甘い目で、よろしく!」。 ■「今日の言葉」■ 「 小さな幸せに感謝していくことが 幸福な人生を築いていく 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Jun 21, 2006
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ペナルテイキックのキッカーが盛んに、左の方ばかりを見ている、誰かのアドバイスの方の方に顔を向けているのだろうが、コーナーポストの右の方をチラリとも見もしない、助走を始める、強烈なキック、「川口、左に飛ベー」、ドーン、バシッ、川口選手は左腕1本でボールを弾き飛ばす、思わず、バチンと痛いほど手を叩いて、「ヤッター」、昨日のクロアチア戦、日本が敗れると、その時点でドイツワールドカップの本大会の予選リーグ敗退が決定、一瞬のデイフェンスの遅れたキャプテン・宮本選手がイエローカードをもらうと、次の試合に出られなくなる、それを承知で無理な体勢からディフェンス、レフリーの長い笛、前半の始め、1点取られてもまだ取り返すチャンスが、もうペナルテイキックでの1点は覚悟、というところだが相手チームはここで先制すれば、1-0で逃げ切る方法を良く知っている、リードしたという余裕を持って、大柄な体力のあるディフェンス陣で、がっちりとゴール前を固めて、時折カウンター戦法、という作戦に切り替えてくるだろう、その相手に日本が点を取り返すのは至難の業。 それを考えた時、ペナルテイキックで1点献上という訳にはいかない、前の試合のオーストラリア戦で、早い飛び出しのミスで同点に追いつかれたキーパーの川口選手、あのミスもそれまでスーパーセーブの連続、絶好調が故に犯したミス、今大会調子は良いはず、ここは何とか止めてくれ、ゴールポストの中央でどっしりと微動だにせずに構えるゴールキーパー川口選手、身体から絶対に止めてやるという静かながら、気迫が溢れている、画面からはペナルテイキックを蹴る方が嫌だろうな、という雰囲気がひしひしと伝わってくる、もうこの時点で川口選手はボールを止めていたのかもしれない、キッカーが助走を始めて迷うことなく、コーナーポストの右の方に振りぬいた、強烈なキックが川口選手の左の方に、ドンピシャのタイミングで、ボールの来る方向の左に飛びだし、片手でボールにパンチ、ゴールポストの向こうをボールが転がっていく、「止めたァ~!」、力と気合のこもったガッツポーズ、中田選手、ここで先取点を取られる事の痛みを充分に分かりすぎるほど分かっている、喜んで駆け寄って川口選手に抱きつきに行く。 猛暑の中の息つまる死闘の様相を呈してきた、クローズアップされた時、運動量の多い中田選手の異常なほど大量の発汗、先のオーストラリア戦で3失点を許したディフェンス陣、1点たりとも失点しないという気迫のこもったディフェンス、早い体の寄せ、果敢なタックル、長身選手に引けをとらないヘディング、中途半端なクリアーは一切しない、大きく蹴り出して、プレーを一旦止めている、いつの間にか体力の消耗の激しいMF陣のみならず、FW陣までが戻ってディフェンス、クロアチアの方がシュート数も多く、チャンスも多かったが、ディフェンスのプレッシャーのセイで決定的なチャンスに焦りを誘い、ミスキックやゴール枠をはずしたり、ゴール枠を捉えていた時はゴールキーパーの川口選手のファインセーブ、前半を終わり、後半も時間が経過、オーストラリア戦ではいつか追いつかれるのではというヒヤヒヤのしどうしだったが、残り時間が少なくなるにつれて、神様といわれたジーコ監督のいつもの口癖、「サッカーの試合では何が起こるかわからない」、日本チームが再三放つ思いっきりの良い強いミドルシュート、今大会の軽いニューボール、ボールの変化が大きく、ゴールキーパー泣かせ、これまでの試合でもミドルシュートが多く決まっている、疲労のたまった足で気力で振りぬかれた魂のこもったミドルシュートがゴールネットを揺らす、それの期待感が残り時間が少なくなるにつれて期待感は膨らんでいったが、ノーサイドのホイッスル、スコアレスドロー、勝ち点1を獲得、針の穴を通すほど困難で、可能性も極めて少ないが、22日のブラジル戦に予選リーグ突破の望みが繋がった。 日本はワールドカップの本戦に3回連続出場、初の勝ち点をあげたのも、初勝利も前回の日韓合同開催が始めて、まだワールドカップの本戦での戦いは始まったばかりである、本戦の予選リーグ突破を当然のノルマのような期待をかけられている、代表選手への重圧はきつい、強豪のクロアチアに対して、90分間、精神手にも肉体的にも互角に戦えるようになった、もう充分な気がする、予選リーグを勝ち上がるという事は大変な事である、毎回、優勝候補の名前を連ねている国も予選リーグでの敗退、こういうことも良くある、早々と予選リーグの突破を決めているポルトガル、実に40年ぶりという事である、これにはいささか驚いているが、予選リーグを突破という事はこれほど大変な事である、22日のブラジル戦はナイター、オレが起きていてリアルタイムでテレビ観戦は時間的に到底無理、こういう大事な試合はオレが観ないほうが縁起がいいというジンクスがある、予選突破をすでに決めているブラジルと最後のこの試合にかける日本チームとのモチベーションの大きさの違い、それとオレの奇妙なジンクスに期待、それにしても昨日クロアチア戦、実に良い試合だった、日本チームの気力と頑張りに胸が熱くなるのを覚えた。 ■「今日の言葉」■ 「 好き嫌いの感情で物事の 善悪を決めていることが多い 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Jun 19, 2006
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あ、あ、くやし~い、あ、あ、つかれた、ア、ア、シンドォ、あの時間に試合終了、どうも寝つきの悪い夜だった。 前評判では日本の方が実力は上、FIFAのランキングでもオーストラリアは日本に比べて随分と下のほう、試合が始まると直ぐにこういうランキングなんて当てにならないというのがいやというほど思い知らされた、ゴールキーパーの川口選手の好セーブが無ければ試合開始早々にオーストラリアに強烈な先制点を奪われているところを命拾い、逆に押されっぱなしで一息ついたところで、中村選手のフワ~と上げたたセンタリング、相手キーパーが飛び出し、そこへ高原選手と柳沢選手が頭で合わせに行ってキーパーとクロス、ボールは誰にも触れることなくそのままゴールネットへ、ファールの笛が鳴るかなと思っていたが、ノーホイッスルで日本が幸運な先制点。 さあ、ここからが実に長かった、早くもう1点の追加点、そう思いながらそのまま前半が終了、後半の30分が過ぎるまでは早く2-0にと思いながら見ていたが、チャンスらしいチャンスもごく僅か、もう1-0でも良いや、勝ち点3だから、と思いかけていたところで191センチののっぽの選手が交代で出てきた、嫌な時間帯で嫌な選手を出してきた、オーストラリアのヒデイング監督は前回のワールドカップの時は韓国の監督、韓国のチームも日本のチームも同質のサッカー、メンタル面でもほぼ同質、日本チームの長所も短所も知り尽くした采配、それとジーコ監督はリードしている局面で先に動く事は無いという読み、これでヒデイング監督は日本チームの一番嫌がる選手を、一番嫌な時間帯、フィジカル面では暑い中の激しい試合、自軍の選手がへばりだし、脚の動きが鈍りだす、それは相手チームも同じ事、メンタル面でももう1点入れて突き放そうという気持ちから、この1点を守りきろうという気持ちに微妙に変化し始める時間帯、のっぽの選手のせいで日本のでフェンダーは彼に神経が行き、危ない場所のスペースが出来始める、そこへボールが行くと、遅れて慌ててデイフェンス、危険な場所でファールが続く、1点リードした勝ちゲームでありながら日本のほうに余裕がなくなる。 残り時間が、後6、7分、ミスした方が負け、直接ゴールを狙ったオーストラリアの強烈な、きっちりと枠を捉えたフリーキック、キーパーの川口選手が何れも神懸り的なファインセーブ、その絶好調の川口選手のミスが出た、絶好調故にといえるかもしれない、フワ~と投げ込まれたロングスロー、見ている多くの人たちが川口選手の早い、無暴な飛び出しに、「アッツ!」、と声を上げたと思う、ボールは無常にも密集の中に、綺麗に振りぬいた強烈なシュートではなかったが、グラインダーのシュート、必死の日本のディフェンス陣の足元の隙間を縫うように転がって、伸ばすサントスの足の下を無常にもボールが潜り抜けて同点のゴール、同点ゴールにも拘らず、精神的には日本チームにとっては逆転されたのと同じほど大きなダメージを受けてしまった。 後半の30分ぐらいのところで、もう1点を取りに行くにせよ、1点を守りに行くにせよ、動きの激しい、マークのキツイ、少し痛んでいる、脚の動きの止まりかけた選手、中村選手、高原選手、柳沢選手、を一気に交代して欲しかったように思う、これは大方の思いであると思う、この1敗で予選リーグの突破がかなり厳しくなったと思うが、オーストラリアがクロアチアとブラジルに今日のような良い試合が出来るとは思わない、日本チームの早い気持ちと気分の切り替え次第で、目指すはクロアチアに2-1で勝ち、ブラジルに1-1で引き分け、これに期待することにしよう。 それにしても悔しい!。 ■「今日の言葉」■ 「 相手の気持ちになってみることが 夫婦の絆を深めていく 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Jun 13, 2006
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今、オレが管理人をしているマンションの住人さん、値段の高いマンションだけあって、1億円以上の部屋が3分の1ほどある、最高値は2億円、しかもその高いマンションをセカンドハウスとして購入している人もかなりいる、全34室のうち殆どがお金持ちである、余り好きな言葉ではないが、今、盛んに使われている、「勝ち組」と、「負け組」、という言葉、事業の成功者か、失敗者、お金持ちか、お金が無いか、おおむねこのような意味で使われている事が多い、この意味からいって分類すると、「勝ち組」、に属する人達が住人さんである、しかしこの人達の内で、生まれた時から、「勝ち組」、の家で生まれた人がいるのであろうか、と考える時に、はたして何人ぐらいがいるのだろうか、そんな興味を抱いて2年と余りの間、じっくりと観察した結果、恐らく2人か3人、いたとしても後僅かに過ぎないであろう、そのことから考えると、その人の人生において、「勝ち組」、とは言えないような気がする、ただ単に現在その位置にいるに過ぎないだけのことである。 近所にマンションが多い、外で掃除をしていると、皆大体同じ時間に外回りの掃除や水撒きをする、顔を合わすと挨拶をする、時には掃除の手を止めてお互いにタバコを一服、世間話や、ちょっとした仕事の愚痴話、ところが管理人の仕事はここが初めて、しかし不思議と昔の仕事の話はお互いにしない、どんな前歴の人かは皆目わからない、一度、箒とダストボックスを持って、表を掃除している時に、大きな声で、「社長~!」、余りにも不意だったので思わずその声の方へ振り向いてしまった、当然の事ながらオレが呼ばれているわけではなかった、「そうだよなァ~、そんなわけないよなァ~」、少し照れくさくあたりを見渡してしまった、すると向かいの管理人も同じ様な仕草をしていた、視線があった、お互いに、「あんたも、同輩かァ」、とニヤッと笑いあった、以来何度も仕事の手を止めて世間話はするが、昔の話はした事が無い。 オレが管理人をしている高級マンションの住人さんの中での喫煙する人、たったの3人である、年齢はオレよりも年上、その家族の中で扶養家族に属する人達である、それに対してここの住人ではないが、仕事で普段からここに関わっている人間、管理人のオレと相方、派遣会社の担当エリアマネージャー、管理会社の担当者、施行建築会社のアフター担当者、不思議な事に全員がタバコを吸う、「勝ち組」、ともいうべきここの住人さんはタバコは吸わない、決して、「勝ち組」、には属さない仕事がらみでここと関わりを持つ人間はタバコを吸う、奇妙な図式、相関関係のようなものが出来上がっている。 「西院MUSIC FESTIVAL」のスタッフの中で、最近になってタバコをやめた人が数人いる、彼らにこの話をして、「勝ち組」、の仲間入りの条件が一つ出来たと冷やかしている、やめた理由を聞いてみると、彼女や、子供がらみが多いが、「間接喫煙の害」、これのようである、嫁いだ娘がお産のためにゴールデンウイーク明けに家に里帰りしているが、オレもヨメもタバコは換気扇の下か、別の部屋で吸っている、たまに娘が先に寝た時には、2人はホッとしたような顔をしてテレビの前でタバコを吸っている。 ■「今日の言葉」■ 「 眼前の事に一喜一憂していては 大事は成し遂げられない 」 (自然社・平成18年・新生活標語より)
Jun 4, 2006
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