JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.30
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カテゴリ: JINさんの農園
さらに県道208号線「浦賀通り」を南に進むと、左手・旧住友重機械工業・浦賀工場の西門の
横に「 屯営()跡の碑 」案内板が置かれていた。
幕末、築地新町(現在の住友重機械工業敷地内)にあった干鰯市場の一部が、幕府軍艦のための
石炭囲置場となりました。
明治8年この場所に水兵の基礎教育機関として「浦賀水兵屯集所」が設置され、その後
「東海水兵分営」、15年には「水兵練習所」となり、18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの
水兵を送り出しました。
ここで、水兵の基礎訓練を担当した士官たちは、病気やその他の事情で海上勤務ができなくなった

現在、住友重機械工業の船台の下に「屯営跡」の碑が建っています と
横須賀市浦賀3丁目2−26。



屯営跡の碑
築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、明治五年(一八七二)、
「海軍浦賀屯集所」が設置されました。
その後、「東海水兵分営」、同十五年には「水平練習所」、同十八年に「浦賀屯営」と改称し、
数多くの水兵を送り出しました。
その事績を残すため、昭和九年に「屯営跡の碑」が建てられました。
この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが
使われています。」



浦賀屯営跡」碑の写真
 この碑は、昭和十年三月に建立されたもので、表は「浦賀屯営跡」と、当時の永野修身(おさみ)
海軍大将が書いた。 裏には浦賀船渠(ドック)社長、のちの逓信大臣、寺島健海軍中将によって
書かれた碑文がある。 碑の礎石は花岡(こう)岩で、日露戦争の時、旅順港内の敵艦を封じ込める
ため、海中に沈めた石の残り。 同社川間工場で解体した弥彦丸から取り出したもの、という。
碑文には、屯営は「明治八年に設けられた」とあるが、同六年(1873)の誤りだ、と

東海水兵本営が新設されると浦賀は、分営となった。 その後はー時、「浦賀水兵練習所」と改称、
十八年に、再び浦賀屯営となった。 「海軍七十年談」によると「病気などで海上勤務に適さない
期間は、定員外となり”屯営入り”した。 『屯営や生きた士官の捨て所』とうたわれた」とある。
二十二年四月に逸見村の本営が横須賀海兵団となると、浦賀屯営は廃止。 この海兵団については、
「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)に、「汽車、田浦駅を出で将(まさ)に横須賀駅に着せんとする
時に、 旅客は車窓より広闊(かつ)なー郭に事業服を着たる兵士の奔走し、又は練兵するのを
見るであろう。これ即ち海兵団である」と書かれている とネットから。
記念碑は造船所敷地内 だという。



道路の反対側にあったのが 「大衆帰本塚の碑」
横須賀市浦賀3丁目3−13。



大衆帰本塚 」と。







「大衆帰本塚の碑」。



大衆帰本塚の碑は、元治元年(一八六四)九月に建てられました。
篆額は江戸時代後期の国学者の大畑春国が書き、碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と
筆跡がそのまま刻まれています。
碑材には、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石が使われています。なお、
石碑は浦賀警察署裏手にあった山の中腹あたりに建てられていましたが、平成9年の造成工事に
より現在の場所に移りました。

「この辺りの昔の様を想うに、沢の辺の田処にして葦蟹なども住みけむからに、蟹田
(蟹田川はガンダガワと言う)としも呼び初めにしやあるらん。
近くは薪樵る老翁、牛飼う童も行き交う道の便り悪しき片山陰の荒野にしあれば、朝の露、
夕べの煙の空しき跡を訪う人ならでは、分け入るべくもあらぬ草むらになむありける。
さるを大御代の栄行くに随い、湊の賑わい弥増さりつつ、野にも山にも家居立ち込み、往くも
復るも所狭くなれば、かの立ち上る煙の末の里中かけて棚引き来るを、人皆いぶせく思いわびて
ありしに、このひた浦の事取り給いし大久保土佐守忠董朝臣の、えも言い知らぬ思したちにて、
其墓所をも煙の場をも、いと遥かなる山辺に退け、なお朽ち残れる古き骸をば皆一処に集へ
埋みて、大衆帰本(またはダイシュキホン)の塚と呼ぶべし。その記をも残すべしとこと
定め給いてしかば、浦人拳りて尊び会える中にも、川島平吉という者殊更にこの掟を畏み、
その故由を、碑を選り据え、千年の後も忘れざらしめ、また、そこばくの桜を植え添え、
昔人の魂をも慰めむとなり。あわれいみじの心知らいや頼もしのまめ心や。かく言うは、
この浦賀の湊に司たちて仕えまつる。
中島三郎助永胤
大畑春国篆
元治元年甲子秋九月」
と刻まれているのだと。

碑文の概要
この周辺の昔の様子を想えば、葦蟹が遊ぶところから蟹田といい、のどかな湿地帯であった。
しかし、ここにも湊の賑わいから家並みが押し寄せてきた。この開発によって傍らに眠っていた
無縁仏をひとまとめにして供養しようと、時の浦賀奉行の大久保土佐守が大衆帰塚を設ける
ことを決めた。
この話を聞いた奉行所付大工棟梁の川島平吉は、奉行の決定を神妙に承り、千年後までもこの
事実を伝えるためにも石碑も良い物を選び、碑の周辺には何本かの桜の木を植えて、無縁に
なった人々の魂を慰めようと考え、実行した。
立派でたいそう嬉しい心配りであり、なんと心強くまじめな心であろうか。
このように言うのは、浦賀奉行所与力の中島三郎助永胤である。



その隣にあったのが「 横須賀南警察署 浦賀地区交番 」。
令和5年4月1日から浦賀警察署は横須賀南警察署に名称が変更 となったのだと。
横須賀市浦賀5丁目1−1。



「旧浦賀警察所」の建物は閉鎖され、正面の窓には木製板が貼られていた。



浦賀通り 」案内板。



「浦賀丘入口」交差点 の奥に「 浦賀造船所跡・浦賀ドック 」が見えた。



「浦賀丘入口」交差点手前のT字路の交差点を右に入ると。前方の丘の斜面に神社の姿が。



ズームして。



この先の石段を上り神社の鳥居へと。



石鳥居が2基。



ニの鳥居の扁額「 荒巻稲荷 」。
横須賀市浦賀6丁目1。



「荒牧稲荷神社」の社殿



 本坪鈴(ほんつぼすず) とその奥に彫刻。



内陣には狐様そして立派な「社(やしろ)」が。



「江戸時代後期に作られたとみられる小型の社(やしろ)がこのほど、五十年ぶりに持ち主である
横須賀市浦賀町の荒巻町内会(長谷川文次会長)の手に戻った。これまで詳しい調査が行われて
いなかった社には豪華な彫刻が残っていたほか、製作直後に書かれたとみられる「嘉永五年」
(一八五ニ年)と記された文書も見つかった。専門家らも「当時の浦賀を知る貴重な資料」と
太鼓判を押しており、同町内会は「歴史ある浦賀の街の宝物が見つかった」と喜んでいる。
ケヤキで作られた社は高さ約一・ニメートル。約百五十年前の江戸時代後期に作られたとみられ、
当時の社殿の建築様式を忠実に再現している。側面には鶴に乗った仙人などを表現したと思われる
豪華な彫刻も。屋根などの一部に補修された跡があるが、ほとんどが当時のままで現存している。
「嘉永五年」と記された文書は京都伏見区の稲荷神社から贈られたもので、社が江戸時代末期に
作られたことを裏付けている。
戦後の混乱期に町内会から保管の依頼を受けた近くの太子寺の境内で五十年間にわたって奉られて
いたが、町内会側が存在を忘れ、”日の目”を見ることはなかった。長谷川会長らがニ月に太子寺
から社の返還を受け、現在は同町内会が大切に保管している。
市生涯学習課は、市民文化資産に指定されている東耀(よう)稲荷(同市東浦賀町)などの彫刻に
匹敵すると評価。彫刻に詳しい市文化財専門審議会委員の上杉孝善さんも「豪華な作りは、商人
の町として繁栄した当時の浦賀をしのぶ貴重な資料だ」と話す。町内会では「夢の広がる宝物。
できれは一般公開をして、街の活性化につなげたい」と話している と
2004年(平成16年)3月25日(木)の神奈川新聞の記事 も展示されていた。


「社」の写真



そして次に訪ねたのが 「浦賀丘入口」交差点を右に入った 場所にあった 「太子寺 」。
「太子寺 」には先程の 荒巻稲荷神社の社が50年以上置かれていた のであった。



日蓮宗 太子寺 」。
横須賀市浦賀6丁目3−6。



正面の建物は一般住宅の様な外装であった。
正面には掲示板と案内板が。



今月の聖語
人身は持(たも)ちがたし草の上の露
日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』
心が肝心

ハダカデバネズミは老化現象が見られない、不思議な生き物です。これこそ多くの人が望む
「不老長寿」!?…かと思いますが、老化しないだけで、やがて寿命やケガで死んでしまいます。
彼らの身も、私たちと同じで「草の上の朝露のように持ちがたし」なのです。
私たちは健康管理に努め、検査や人間ドックなどに通「いのち」を長らえようとします。
でも肝心なのは、「人身(身体)」とその使い方を左右する「心のあり方」がセットであると
いうことです。憎しみ奪い合うか、それとも敬い譲り合うかで、世の中はまったく違ってきて
しまいます。でもわかっていても自分だけの利益を考えてしまう。やられたら仕返しをする。
心のあり方次第で、ささいなことが大きな争いになったりもします。まず自分自身が敬う心を
持った人身を目指しましょう。

日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』
法華経・日蓮聖人の教えを熱心に信仰する四条金吾に宛てたお手紙。人間社会の中で、組織の中で、
どのような心構えで行動したらよいかを崇峻天皇の故事をあげ、細やかに指南します。
建治2年(1277)聖寿56歳」




太子寺
太子堂の名で親しまれている日蓮宗のお寺です。
昔、佐原の聖徳院で火災があり、お堂が浦賀に疎開しました。地元の人に太子信仰として敬われ
荒巻の太子堂として定着しました。
本堂には背中に元徳三年(一三三一)と刻まれた聖徳太子の僧形の幼年像が祀られています。
この木造は浦賀水道の海から出現したといわれています。
太子は仏・法・僧の三宝を説き広く仏教の布教につとめました。
ものづくりの神様としても知られ職人達の信仰をあつめています。
浦賀行政センター協働事業・浦賀探訪くらぶ」



本堂。



扁額「聖徳皇太子」

横須賀市浦賀 「太子寺」: 黒船写真館

墓地を見る。



本堂の裏にあった 稲荷神社



「妙法三田壽九稲荷大明神」と。



安楽喜墓 」と。



石仏。



そして「浦賀通り」まで引き返す。
正面に「 mamaの広場 浦賀店 」。



先日訪ねた「​ 浦賀ドック ​」👈️リンク 内の 浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T
と書かれた
クレーンを見る。



「横須賀市下水道  浦賀ポンプ場 」。
汚水を汚水処理場まで送る施設。基本的に汚水は自然流下って言って、高低差で流れるように
なっています。ですがそうなると、汚水処理場は一番低い場所に造らなくてはならず!!。
従ってポンプの圧力によって汚水を送水しているのだ。



右手に「 浦賀コミュニティーセンター分館(郷土資料館) 」案内板。



白色のツツジ。



近づいて。



ピンクのツツジの垣根。



「浦賀ドック」越しに「 西浦賀 」方向を見る。



そして 「浦賀コミュニティーセンター分館」案内板



「浦賀コミュニティーセンター分館」。



この日は訪ねなかった展示室をネットから。



再び「 浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T 」と書かれた クレーンを見る。



バス停留所「 ドック前 」。



「浦賀通り」から1本山側の道・「 浦賀道 」に入る。
右側にあったのが「 横須賀浦賀郵便局 」。
横須賀市浦賀7丁目13−16。



そして再び海岸線を走る 県道208号線・「浦賀通り」に戻る。
先日歩いた「​ 浦賀ドック ​」 👈️リンク  の「ドックゲート」の上部の連絡歩廊 を見る。



移動後にズームして。



浦賀湾の対岸の「 ライオンズヒルズ横須賀浦賀 」。



「浦賀湾」の先に房総半島の山々の姿が。



再び元の山側の道・「 浦賀道 」に戻る。



右手前方に案内板が見えた。



浦賀道
浦賀道は、江戸時代に幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な連絡道でした。江戸幕府寛政十二年
(一八〇〇)に五街道の測量図を作成し、その中に「浦賀道見取絵図」が含まれています。
絵図では東海道戸塚宿から鎌倉・葉山・池上を通り、大津矢の津坂越えて浦賀に至ります。
東岸のルートは、保土ケ谷宿から金沢町屋を経て武蔵と相模の国境(追浜)を過ぎると峠越えや
尾根道が続き一三峠など相当な難路でした。金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく
利用されたといいます。
幕末期、ペリーの黒船来航の際は大勢の武士や見物人がこの浦賀道を通ったといわれています。
浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ」。



浦賀道見取絵図 」。
江戸時代後期(天保年間の頃)の浦賀は東浦賀でおよそ2,000人の人口があった。
西浦賀ははっきりした人口データがないが同じ頃の家数で比較すると東浦賀のおよそ450軒に
対し西浦賀はおよそ550軒なので、東西浦賀ではおよそ4~5,000人の人口があったのだろう。



浦賀奉行所 開設300周年
浦賀奉行所は2020年に開設300周年を迎えた」と。




                                 ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・








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Last updated  2024.05.15 18:53:04
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