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「T4-2 東京文化展望」 「電気館(正面部分)」👈️リンク 近づいて。正面から。「模型解説 / Explanations of the models電気館(正面部分)復元年代:1914年(大正3) 縮尺:1/10活動写真は日本に入ってきた当初、劇場や地方を巡回するテントで上映されていたが、1903年(明治36)に浅草六区の電気館が、日本で初めての常設の活動写真館になった。電気館は、それまでX線などの電気仕掛けの器具を動かして見世物をしており、見世物の延長線上として、フィルムの上映をはじめたのである。当時、活動写真には音声がついていなかったので、弁士(解説者)が必要であった。電気館では、それまで見世物の口上を言っていた染井三郎が、そのまま弁士となって人気を支えた。イタリアの史劇『アントニーとクレオパトラ』や、チャールズ・チャップリンの喜劇のフィルムなど、数々の名作に人々は胸をおどらせた。電気館の成功に続き、浅草六区の見世物小屋は、次々に活動写真館になっていった。そして、全国各地に「電気館」の名を冠した活動写真館ができた。浅草の電気館は1976年(昭和51)に閉館した。」 『浅草』社会地図(稿図)(大正十年六月三十日確定) 花屋敷地区~観音堂系地区。江戸以来の盛り場である浅草は多くの人々でにぎわった。浅草寺周辺には参詣者のための飲食店やみやげもの屋が、六区周辺には興行場で遊ぶ人のための手軽な飲食店が集まるなど地区ごとに特色が見られた。ビデオにても「浅草六区」を紹介。凌雲閣(十二階)の精巧な復元模型が正面に。① 赤レンガ造りの堂々たる外観明治23年(1890)に完成した日本初の本格的な高層建築で、高さ220尺(約66.7m)・12階建であった。この模型では、・赤レンガの壁・白い石造風の窓枠・アーチ形の窓が忠実に再現されていた。② 最上階の展望台頂部には・白い欄干・八角形の展望室・銅板葺きの屋根・風見(避雷針)まで細かく作られていた。ここから当時の東京を一望でき、多くの人々が訪れた。③ エレベーター設備展望室の外側には、既に展示されていた銅版画にも描かれていた日本初の電動エレベーターの設備を表す部分も再現されていた。しかし実際には故障が多く、開業から約半年で運転停止となった。その後は階段で展望台へ上がることになったとのこと。④ 窓の多さ各階に多数設けられた窓は・採光・換気・展望を兼ねていた。内部は展示室や売店なども設けられ、多くの見物客で賑わった。⑤正面入口入口に「凌雲閣」の扁額がある。この入口部分は洋風建築らしく、コリント式風の柱、アーチ入口、石造風の装飾など、西洋建築の意匠が取り入れられている。「凌雲閣(浅草十二階)復元年代:1890年(明治23) 縮尺:1/10〈浅草十二階〉の名で親しまれた凌雲閣は、英国人の技師ウィリアム・K・バルトンの設計によるもので、1890年(明治23)に落成した。浅草のシンボルとして土産絵にも登場し、関東大震災で倒壊するまで多くの人でにぎわった。高さは220尺(約67メートル)とも197尺(約60メートル)ともいわれ、10階までは八角形の総煉瓦造、その上は木造だった。内部には世界各国の品物を売る店や休憩所があり、11・12階には眺望のための望遠鏡が備えられていた。また、8階までは日本で初となるエレベーターが設置されたが、のちに危険性が高いとして運転が中止された。開業時の縦覧料は、大人8銭、軍人・子どもは半額であった復元にあたっては、当時の写真や錦絵をもとにした。」 廻り込んで。「凌雲閣(十二階)1890年(明治23) 浅草に建てられた展望施設。10階までは総煉瓦造りで、その上は木造で展望台もあった。1923年(大正12)関東大震災で倒壊した。」 「凌雲閣(浅草十二階)Ryōunkaku (Twelve-Story Tower)1890年(明治23)、煉瓦造の高層展望塔「凌雲閣」が開業した。日本初のエレベーターを備えた十二階建ての塔は「浅草十二階」の名でも親しまれ、浅草の新たなランドマークとなった。In 1890, the brick high-rise observation tower "Ryōunkaku" equipped with Japan's firstelevator, was opened. The twelve-story tower, also known as the "Asakusa Twelve-Story," became a new landmark of Asakusa.■左図凌雲閣が建っていた場所中央の航空写真には1921年(大正10)ごろの浅草園の俯瞰写真とあり、黄色い吹き出しで凌雲閣の位置が示されています。下には当時の六区周辺地図が描かれ、凌雲閣の位置が分かるようになっています。」 ■右図凌雲閣の構造図構造は・10階まで レンガ造・11・12階 木造・最上部 避雷針・12階 螺旋階段 10階から12階まではさらに螺旋階段を上った。11・12階は展望室になっていた。 『大日本東京圖繪之圖 十二階直立二百二十尺』・8~10階 階段 8階から10階までは階段を上った。10階には休みをするための休憩所があった。・1階~8階 エレベーター 開業当初、1階から8階まで日本初となるエレベーターが運転していた。※開業当初、凌雲閣の高さは220尺(約67メートル)と伝えられた。しかし、のちの記録では異なる数値が示されている。建設時の設計図は火事で焼失して詳細は不明のため、残された資料を検証して数値を出した。参考文献『構造物振動実験調査報告 第3号 東京大震災被害検測』(震災予防調査会報告 第97号/1921年)堀口甚吉『浅草十二階凌雲閣の建築について』(『日本建築学会大会学術講演梗概集』1968年)より作成凌雲閣の「断面図」。 凌雲閣の「構造図」。「凌雲閣機絵双六(りょううんかく からくり すごろく)」 「体験展示/Experience exhibition凌雲閣機絵双六(りょううんかく からくり すごろく)歌川国貞(三代)/画1890年(明治23)これは絵双六で、切符売場を「ふり出し」に、最上階の十二階まで登ることができれば「上り(あがり)」となります。「からくり」という名前のとおり、さまざまな仕掛けがあり、塔にあけられた窓を開くと、凌雲閣の中の様子を知ることができます。Ryōunkaku karakuri Picture SugorokuUtagawa Kunisada III, 1890This is a picture sugoroku boardgame. The game starts at the ticket office, and the goalis to climb to the top twelfth floor. As the name "karakuri" (gimmicks, tricks) suggests, there are various gimmicks found in this picture; by opening the windows on the tower,the players can get an inside view of Ryōunkaku.」 凌雲閣(十二階)の精巧な復元模型の横の壁でも案内動画が。「T4-2 東京文化展望」。 「東京文化展望文明開化以来、東京は絶えず海外の新しい文化や風俗を受け入れる舞台となった。明治20年代には、西南戦争後の空前の文明化に対する反動や反省の声が上がり、江戸文化を再評価する機運が高まった。江戸とつながりながらも変化を続ける東京の様子は、尾崎紅葉『金色夜叉』、古川緑波『東京の三十坪』など多くの小説・随筆を舞台に描かれている。また、明治から昭和初期の版画には、かつての水の都・江戸をしのばせる作品が少なくない。小林清親は、写真の構図を参考にした〈光線画〉と呼ばれる独自の版画で、水辺や夜の東京を描いた。第一次世界大戦以降、産業の高度化がすすむと、労働者が都市人口の多数を占めるようになり、工場で大量に生産された消費物資が出回った。欧米の事件やできごとが時間を置かずに伝えられ、洋風の生活スタイルも取り入れられはじめた。大正デモクラシーがもたらした普通選挙法の成立は、男女不平等ながらも、民衆の政治的・社会的関心を高める第一歩となった。関東大震災により街々に残っていた江戸のたたずまいが一掃されると、新たな都市文化が生まれた。その背景には、新聞や雑誌、ラジオなどの発達があり、大衆文化の成立・展開があった。」 「東京の文化サロンと文士村Tokyo's Cultural Salons and Writers' Villages東京には同じ目的やこころざしをもった文学者や芸術家がつどい、交流の輪を広げていった。Literary scholars and artists who shared the same goals and aspirations gathered in Tokyo and expanded their circle of exchange.」 ① 向島文士村 明治初年~1910年(明治43)桜の名所・隅田堤に近いことから、江戸開府以来、多くの文人・学者が住んだ。しかし、しばしば川が氾濫したため去る人が増え、1910年(明治43)の水害以降はさびれた。● 伊藤左千夫(歌学者・国語学者・小説家・創作者)● 成島柳北(漢詩人・随筆家・新聞記者)● 幸田露伴(小説家・随筆家)など② 根岸党と根岸短歌会根岸党 明治20年代根岸短歌会 1899年(明治31)~1901年蛍と竹の名所で知られた柳岸には、明治以降も文士・画家・学者が多く居住し、しばしば風流な会合を開いた。1899年(明治31)からは、正岡子規が自邸「子規庵」で「柳岸短歌会」を催した。● 饗庭篁村(小説家・劇評家)● 岡倉天心(評論家・美術学者・随筆家)● 正岡子規(歌人・俳人)など③ 紅葉館(こうようかん)明治期1861年(明治14)に芝公園に開業した会員制の日本料亭。尾崎紅葉ら(硯友社)の文士をはじめ、芸術家、政治家らの集まりに利用された。● 尾崎紅葉(小説家)● 森鷗外(児童文学者・小説家・詩人)● 坪内逍遙(小説家・劇作家・評論家)など写真説明紅葉館(『東京名所写真帖』)④ 龍圡会(りゅうどかい)1904年(明治37)頃~1913年(大正2)頃自然主義作家らによる親睦会。1904年(明治37)ころから、麻布の仏料理店「龍土軒」を定例の会場とし、作品の朗読や批評をし合った。● 国木田独歩(小説家・詩人)● 柳田国男(詩人、民俗学者)● 田山花袋(小説家)● 蒲原有明(詩人)など図版説明龍土会寄書(岡野利夫氏/所蔵)⑤ 木曜会(もくようかい)1906年(明治39)~1916年(大正5)牛込区早稲田鶴町の漱石山房で行われた夏目漱石とその門下生とのつどい。会の名は、漱石が毎週木曜日と定めたことに由来する。参加者● 夏目漱石(小説家)● 鈴木三重吉(小説家・童話作家)● 小宮豊隆(独文学者・評論家)など● 森田草平(小説家)図版津田青楓「漱石山房と其弟子達」日本近代文学館/所蔵© Rioko Takahashi 2026/JAA2600032⑥ 観潮楼歌会(かんちょうろううたかい)1907年(明治40)~1910年本郷駒込千駄木本町の森鷗外邸(観潮楼)で催された月例の歌会。参加者● 森鷗外(小説家・戯曲家・陸軍軍医)● 与謝野鉄幹(歌人・詩人)● 伊藤左千夫(歌人・小説家)● 佐佐木信綱(歌人・歌学者)など図版観潮楼歌会の光景(『スバル』第3号)⑦ 南声会(なんせいかい)1907年(明治40)~1916年(大正5)詩の雑誌『スバル』・『国民文学』による文士を招いた集会。当初は神田駿河台の西園寺邸で開かれたが、その後、芝の紅葉館、湯河原の皆楽園などの料亭で開かれた。参加者● 巌谷小波(児童文学者・小説家・詩人)● 広津柳浪(小説家)● 大町桂月(歌人・随筆家・評論家)● 島崎藤村(小説家)など写真南声会 1911年(明治44)日本近代文学館 所蔵以下 略「『武蔵野』Musashino国木田独歩/著 民友社/発行「武蔵野」は、それまで日本人の美意識にのぼらなかった落葉林の美しさを、洗練された交互文体であらわした作品。国木田独歩(1871~1908年丿は186年の秋から翌年の春にかけて、東京市外の渋谷村に暮らした。「武載野」は、かつて妻と遊んだ小金井の思い出も盛リ込まれるが、当時は渋谷も小金井も、ともに都市郊外・武蔵野であった。」 「国木田独歩所用の品々(印章・硯・水滴・水適脇付飾)明治期(1868~ 1912年)国木田独歩は、記者、編集者、出版社経営者としても手腕を発揮した。「国民新聞」の記者として日清戦争にも従軍し、弟に宛てた文体のルポルタージュが人気となった。」 「国木田独歩所用の釣り竿明治期(1868~1912年)国木田独歩は釣り好きで、暇を見つけては釣りをしに郊外に出かけていた。常々、釣りの趣味を理解しない者は、自然の懐に入ることができない、と言っていたという。」 「国木田独歩所用の竹行李(たけごうり)明治期(1868~1912年)」 「東京文化の形成東京文化は都市に集まる多彩な人々の交流によって発展していった。江戸の場合と同様に、東京にも各種の文化サロンが形成された。東京の文化サロンは、雑誌を持つ結社や大学のグループとのかかわりが深い。尾崎紅葉ら硯友社の文士たち、坪内逍遥ら早稲田派の文学者・演劇人は、芝の紅葉館や神楽坂の料亭に集まった。明治末期には、自然主義作家が山の手の西洋料理店で龍土会を開き、耽美派の詩人や画家が、パリのセーヌ川に見立てて隅田川近くの料理屋で「パンの会」を催した。森鴎外は団子坂上の自邸で観潮桜歌会を開き、夏目漱石は面会日の木曜会で多くの門下生を育てた。また、東京の文士村は江戸文人ゆかりの向島と根岸にはじまる。向島には、成島柳北や幸田露伴らの学者・作家が居を構え、根岸には、饗庭篁村、岡倉天心岡朝天心らの「根岸党」と、正岡子規、中村不折らの文学者・画家たちが住んで親しく交わった。大正期には、小杉未醒(放庵)、板谷波山らの画家・工芸家に、芥川龍之介、室生犀星らの作家が加わった田端文士村が形成された。関東大震災後には、文化人が近郊の住宅地に移住するケースが増え、馬込文士村が誕生した。その後も、昭和初期までに目白文化村、成城学園村、玉川学園村、落合文土村などが次々に生まれた。」 「龍圡軒(りゅうどけん)使用大皿」。 「龍圡軒(りゅうどけん)使用大皿The pllatter whichi was used at Ryuudo ken1906年(明治39 )頃~麻布のフランス料理店「龍土軒」で使用されていたイギリス製の大皿。創業者の岡里予菊松が1906年頃購入し、その後、長い間店で使用されていた。龍土軒は、自然主義作家らによる集会「龍土会」の会場となった店として知られる。参加者には、国木田独歩、田山花袋、柳田国男、蒲原有明らがいた。」 「東京十二題 大根がし」 ・河岸に建つ黒い海鼠壁(なまこかべ)の土蔵造りの建物 ・河川に面した石積み護岸の上に、土蔵造りの商家や倉庫が並んでいます。 ・大根をはじめとする青物を保管するため、耐火性に優れた蔵造りとなっています。・荷を積んだ小舟 ・舟には大根と思われる青物が積まれています。 ・このような荷舟が隅田川や日本橋川を利用して河岸へ野菜を運び込みました。・荷揚げを待つ人々 ・舟の上の人物と岸に腰掛けた人物が荷揚げの合図を交わしているようにも見えます。 ・水運が東京の物流を支えていたことが伝わります。・岸辺の樽や籠 ・建物の前には樽や竹籠が積まれています。 ・野菜や青果の保管・運搬に使われた道具でしょう。・物干しに掛けられた衣類 青い着物や桃色の子供服らしき衣類が干され、商いの場であると同時に、人々の日常生活の 場でもあったことを感じさせます。・柳の大木 ・手前には大きな柳が描かれています。 ・川風に揺れる柳は、江戸・東京の河岸風景を象徴する樹木であり、画面に涼感と奥行きを 与えています。「東京十二題 大根がしTwelve subjects of Tokyo : Daikon Shore1920年(大正9)川瀬巴水/画大根を船で運んだり肩に乗せて運んだりする様子が描かれている。現在の京橋付近にあったこの河岸は、主に大根が多く集まったことから大根河岸と呼ばれ、江戸時代から関東大震災まで賑わった。その後の区画整理や都市再編成を経て、1935年(昭和10)には築地の中央卸売市場に移転した。」 「髪梳ける女」 まず目を引くのは、画面いっぱいに広がる艶やかな黒髪。女性は左手で長い髪を持ち上げ、右手に持った柘植(つげ)の櫛で静かに梳かしている。一見すると何気ない朝の身支度であるが、その自然な仕草が女性らしい美しさを際立たせている。橋口五葉は一本一本の髪を極めて細密な線で摺り重ね、髪の光沢や柔らかさ、重みまでも感じられるように表現した。新版画ならではの高度な木版技術が存分に発揮されている。また、女性の視線は櫛へと静かに向けられ、穏やかな表情には落ち着きと気品が漂う。派手な装飾や劇的な演出はなく、日常の一瞬を美へと昇華した作品。「髪梳ける女Woman Combing Her Hair1920年(昭和9)橋口五葉/版着物を着た若い女が、左手で持ち上げた髪を柘植(つげ)の櫛で梳いている。女の穏やかな表情や、一本一本丁寧に描かれた髪の毛により柔らかい印象の作品である。川瀬巴水、吉田博らと同じく新版画を志した作者による美人画の代表作として知られる。」 「夜の浅草」 夜の瓢箪池に映画館「東京館」の灯りが美しく映り込み、上映を待つ人々の賑わいが昭和モダンの浅草を彩る。柳の黒い影と色鮮やかなネオンの対比が印象的で、復興後に最も活気に満ちた浅草六区の夜景を今に伝える貴重な新版画である。「夜の浅草Asakusa at Night1932年(昭和7)石渡江逸/画 渡邊庄三郎/版浅草六区の洋画上映の映画館、東京館とそのきらびやかな光が瓢箪池(ひょうたんいけ)にうつる姿を描く。上演を楽しみに行列する人々が描かれており、華やいだ雰囲気が伝わってくる。光と影の表現を摺りによって際立たせ、昭和のモダンな浅草を如実に記録した作品と言える。」「東京拾二題 不忍池」 不忍池に静かに映る弁天堂と、和傘を差した二人の女性が春の情緒を漂わせる。垂れ柳や淡い桜、水面に映る堂宇の姿まで繊細に描かれ、吉田博は新版画ならではの美しい色彩と光の表現で、昭和初期の上野・不忍池の穏やかな風景を見事に描き出している。「東京拾二題 不忍池Twelve subjects of Tokyo / Shinobazu Pond1928年(昭和3)吉田 博/画弁天堂が映る不忍池の前を、傘をさす女性たちが歩いている。不忍池は、交通の要所であり盛り場として栄えた上野山下の西側に位置していた。木版多色刷りによる本作は、池の揺れる水面が細かく表現されている。」「イメージの中の都市東京へ来た地方の人々は、江戸と変わらない名所を残しながら、つねに新しい印象を与える近代化された街並みに驚き、それらの景観などを題材にした版画・写真帖・絵葉書を東京みやげとして持ち帰った。そして多くの人々は、商品化された画像から、それぞれ東京のイメージをふくらませた。版画は大正期に、大衆向けの東京みやげから、芸術性を意識した制作へと高められていく。版元の渡邊庄三郎は川瀬巴水、伊東深水らに東京の名所絵を描かせ、百貨店などで頒布会を催した。また、同じ時期に〈創作版画〉の運動が起こり、それまでの絵師・彫師・摺師の分業制度とは違って、一人ですべての工程を…」 「最新東京名所写真帖Newest Photo Collection of Famous Spot in Tokyo各所の写真を集めた「名所写真帖」は、明治後期から昭和初期に中流以上の層に親しまれた。江戸時代以来の名所と、近代日本の首都としての新名所が集められている。多くはみやげ物として買い求められた。」 「絵葉書 ハリー彗星A post card sold to celebrate the Comet Halley's approach明治四十三年五月二十九日見取図1910年(明治43)頃」「日本橋開通記念絵葉書Post Card Commemorating the Opening Ceremony of the New Nihonbashi Bridge1911年(明治44)通常サイズの絵葉書3枚分の大判絵葉書。現在の石造アーチの日本橋は、1911年(明治44)に完成した。橋の向こうにまだ仮設橋があり、架橋直前の頃の写真と考えられる。」 「最新東京名所写真帖」ネットから。 「絵葉書 ハリー彗星」をネットから。 「日本橋開通記念絵葉書」をネットから。 「『キング』創刊号(複製)The first issue of "King" (reproduction)1925年(大正14)大日本雄辯會講談社/発行講談社の初代社長、野間清治によって創刊された月刊誌。「日本一おもしろい、日本一為になる、日本一安い雑誌」をモットーとした大衆娯楽雑誌で、成功美談や人物評伝などのほか、多彩な作家による大衆小説が掲載された。創刊号は74万部を記録。その後順調に部数を伸ばし、多くの読者を獲得した。」「円本『現代日本文学全集』"The works of modern Japanese literature"1927年(昭和2)改造社/発行 杉浦非水/装幀円本とは、大正末期から昭和初期にかけて販売された予約制の廉価全集類。1冊1円だったことから、「円本」と呼ばれた。『現代日本文学全集』は、23万部の予約をとりつけ、その後に続く円本ブームのきっかけとなった。」 『キング』創刊号(複製)。円本『現代日本文学全集』。「昭和大東京百図絵版画完制判 第二十七景 戸越銀座駅(荏原区)」。関東大震災からの復興を遂げた昭和東京。その象徴として戸越銀座駅へ進入する目黒蒲田電鉄を中心に、送電鉄塔や架線、工場の煙突までを美しい都市風景として描いた一枚である。左奥には富士山も望まれ、近代都市と日本の原風景が見事に調和している。 「昭和大東京百図絵版画完制判第二十七景 戸越銀座駅(荏原区)One Hundred Scenes from Great Tokyo Metropolis in the Showa Era: Final Print No.27,Togoshi Ginza Station (Ebaraku)1940年(昭和15)小泉癸巳男/画関東大震災後の東京を「昭和の広重を気取って」描いた、百景からなるシリーズのひとつ。戸越銀座は、関東大震災で被災した銀座レンガ街のレンガを敷き詰めて整備された。その後、戸越銀座駅(目黒蒲田電鉄)が1927年(昭和2)に開業した。」 「鉱石ラジオ」と「東京放送局記念写真帖」。 「鉱石ラジオCrystal radio set1926年(大正15)1925年(大正14)のラジオ放送開始からまだ間もないころのラジオ。レシーバーを耳にあてて聴いた。簡単なしくみで廉価なことから、当時、多くの人々がこのようなラジオで放送を聴いた。部品を購入して、自分で組み立てることもできた。」 「東京放送局記念写真帖Commemorative album : Tokyo broadcasting1925年(大正14)東京放送局/編ラジオ放送は1925年(大正14)にはじまった。まず3月に東京放送局(JOAK)の仮放送が始まり、続いて大阪、名古屋でも放送が始まった。開局当時は36万人だったラジオの契約者は、1929年(昭和4)には、65万人まで増加した。放送内容は、はじめは学芸的色彩が強かったが、やがて大衆芸能や趣味を題材にした番組もつくられるようになり、人気となった。」 「おもな雑誌の創刊年と種類数の変化Years of Publication of the First Issue of Major Magazines and Changes in the Number of Genres大正期には大部数の雑誌が発刊され、読者ターゲットを絞ったものも各種創刊された。During the Taisho period (1912–1926), magazines were published in large numbers,and various genres targeting specific readers were launched.雑誌種類数の推移 1885年(明治18) 321種類 ↓ 1937年(昭和12) 13,268種類戦時体制による変化 戦時体制の強化と用紙不足によって新聞雑誌の整理統合が進む分類一般向け雑誌 国民之友 風俗画報 太陽 中央公論 改造 現代 サンデー毎日 週刊朝日 アサヒグラフ キング 女性向け雑誌 女学雑誌 婦人世界 婦人之友 青鞜 婦人公論 主婦之友 婦人倶楽部児童向け雑誌 小国民 少年世界 少女之友 少年倶楽部 コドモノクニ 小学五年生・小学六年生 少女倶楽部」「大衆文化の隆盛大正期になると大衆娯楽の雑誌がさかんに発刊され、月刊誌のほかに週刊誌やグラフ雑誌なども登場した。「中央公論」「改造」など論壇中心の雑誌のほかに、「キング」に代表される大衆娯楽雑誌が人気を集めた。また、「婦人倶楽部」「コドモノクニ」など婦人や児童を対象にした雑誌も多数刊行された。単行本の発行もさかんになり、1926年(大正15)、改造社が1冊1円の廉価版全集『現代日本文学全集』の予約募集を行って驚異的な部数を販売した。翌年には新潮社、春陽堂などもこれに続き、円本ブームが起きた。さらに、岩波文庫をはじめとする小型の文庫本も発売された。円本・文庫本の登場は、読書人口を拡大し、読書の大衆化を推しすすめた。また、新聞小説も人気を呼び、その挿絵の持つ魅力も多くの読者を獲得する要因となった。大正から昭和初期にかけて、商品が大量に出回り、企業間の競争が激しくなると、新聞や雑誌に広告が多く掲載されるようになった。新聞広告に登場する商品の内訳でも、化粧品・薬品・出版物が上位を占めたが、生活の洋風化・合理化にともない、調味料・ビール・清涼飲料などの広告も増加した。印刷技術の発達や広告デザインの発展は、商品広告を一層華やかなものにし、アール・デコ調など、当時ヨーロッパやアメリカで流行したデザインも積極的に取り入れられた。また、野外広告にはネオンサインやアドバルーンが登場し、東京の街をにぎわせた。」 「森永ミルクキャラメル箱The Case of Morinaga Caramels大正後期~昭和初期(1917~1945年頃)森永製菓株式会社小売店などに菓子を納めるための化粧箱。今もなじみのポケット用紙箱が60箱入った。「ミルクキャラメル」は、1913年(大正2)より乳製品の栄養価値への注目を受け発売された。」 「赤玉ポートワイン火鉢The advertisement of Akadama Port Wine1927年(昭和2)頃赤玉ポートワインにつけられた特製印の景品。赤玉ポートワインは、1907年(明治40)に発売され斬新な広告で人々の目を引きつけた。」 「『子だから』A record of growth of child1909年(明治42)巌谷小波/著 杉浦非水/画三越呉服店/発行1909年(明治42)4月に三越が開催した第1回児童博覧会を記念して発表された子供の成長記録のための画帳。お祝いの品として人気だった。巌谷小波は、当時三越小児部の顧問だった。」 「新案家庭衣装あはせCard Game: Combination of Casual wear,Advertisement for Mitsukoshi Department Store1910年(明治43)杉浦非水 /画 三越タイムス/考案家庭の中でそれぞれの家族が身に着ける衣装や持ち物を集めるカードゲーム。商品の宣伝広告も兼ねており、「坊ちゃん」の持ち物には「子だから」もある。」近づいて。「『みつこしタイムス』第8巻第12号Advertisement magazines for Mitsukoshi department store1910年(明治43)杉浦非水/表紙デザイン 三越呉服店/発行百貨店「三越」の通販カタログ兼PR誌。新商品や売り出し情報などを紹介した。表紙に描かれているのは、1909年(明治42)に宣伝広告の一環として結成された三越少年音楽隊である。」 これらの展示からは、大正から昭和初期にかけて、商品そのものだけでなく、雑誌や遊び、景品などを通して人々の暮らしの中へ自然に入り込んでいった企業の広告戦略の巧みさを知ることができるのであった。「円本合戦Battle of One-Yen Books1926年(大正15)、1冊1円の予約廉価版全集『現代日本文学全集』(改造社)が23万部の予約を取り付けたのを受け、各出版社から各種の「円本」が刊行された。「円本」は読者人口を拡大し、教養の大衆化を進めた。※当時、単行本の価格は2~3円で、挿絵作品も少なかった。In 1926, the publisher of the "Complete Series of Modern Japanese Literature" (Gendai Nihon Bungaku Zenshū, Kaizōsha), priced at one yen per volume, received 230,000 pre-orders of the collection. With this, a variety of "one-yen books" were published by various publishers. These "one-yen books" expanded the readership and promoted the popularization of refined culture.おもな円本 全集名(出版社) 刊行年月 巻数 価格現代日本文学全集(改造社) 1926年(大正15)12月 全63巻(別巻含)並製1円・特製1円40銭世界文学全集(新潮社) 1927年(昭和2)3月 全56巻(第2期含) 1円現代大衆文学全集(平凡社) 1927年(昭和2)5月 全60巻(総巻含) 定価記載なし(1円)日本児童文庫(アルス) 1927年(昭和2)5月 全76巻 2冊1円小学生全集(興文社) 1927年(昭和2)5月 全88巻 35銭明治大正文学全集(春陽堂) 1927年(昭和2)6月 全60巻 並製1円・特製1円50銭濫発される「円本」は企画の重複を招き、出版社間で激しい広告合戦が繰り広げられた。『日本児童文庫』(アルス) VS 『小学生全集』(興文社)以下 省略」 「宣伝広告の変化Changes in Advertisement大正から昭和初期にかけて、大量生産・大量消費による新しい生活スタイルのもと、人々の目をひく商業広告が増えていった。From the Taisho era (1912–1926) to the early Showa era (1926–1989), attractive advertisements for products increased under the new lifestyle based on mass production and mass consumption.■三越のメッセンジャーボーイ 1909年(明治42)頃 株式会社三越伊勢丹ホールディングス/提供 ©2025 Isetan Mitsukoshi Holdings Ltd. 英国風の制服を身に着けた少年が白い自転車に乗り、購入した商品を客の家へと届ける サービスが話題になった。■三越少年音楽隊 1909年(明治42)頃 株式会社三越伊勢丹ホールディングス/提供 ©2025 Isetan Mitsukoshi Holdings Ltd. スコットランド風の衣装を着た11歳から15歳までの少年による音楽隊。店内行事だけでなく、 外部イベントでも演奏して人気を集めた。■森永の自動車を使った宣伝 1909年(明治42) 森永製菓株式会社/提供 当時まだ珍しい存在であった自動車の車体に商品名を大書きし、宣伝目的で町を走らせた。■銀座四丁目のネオン 昭和初期大正末期にネオン管が国産化されたことから、昭和初期になるとネオン広告が本格化した。夜の東京が一気に華やぎを増した■(左)森永ベルトラインデーのアドバルーン 1931年(昭和6) 森永製菓株式会社/提供■右)森永ベルトラインストアーの店頭大売出し 1935年(昭和10) 森永製菓株式会社/提供全国の応募店から選ばれた4000店余を会員ストアーとし、商品の供給に加え、販売・宣伝の方法を指導した。」 「東京文化展望地図Tokyo Culture Observation Map文明開化以来、東京は絶えず海外の新しい文化や風俗を受け入れる舞台となり、教育機関や新聞・雑誌などの発行所、娯楽施設などが次々に設置・整備された。With the age of "civilization and enlightenment" (bunmei kaika), Tokyo became a stage for adopting new cultures and customs from abroad. Consequently, educationalinstitutions, newspaper and magazine publishing houses, and entertainment facilities were established and developed.」 「東京方眼図明治四十ニ年六月森林太郎立案東京日本橋通壱丁目春陽堂発行」 凡例● 教育上の設備学校(官立・府立・私立専門)図書館博物館◆ 文芸上の設備新聞社雑誌発行所(文学・法律・経済雑誌、趣味娯楽雑誌・専門雑誌等)■ 娯楽上の設備公園劇場寄席この展示は、明治42年(1909)の東京における文化施設・教育施設・娯楽施設を、森鷗外(森林太郎)が考案した「東京方眼図」の上に重ねて表示したもの。見どころは次の点。・銀座には新聞社や劇場が集中しており、近代文化・情報発信の中心地だったこと。・日本橋・京橋には雑誌出版社が多く、出版文化の中心だったこと。・神田・本郷・牛込には大学や専門学校が集まり、出版文化も山の手へ広がっていったこと。・上野公園は、美術学校・音楽学校・博物館・図書館が集まる、日本有数の文化拠点だったこと。・寄席は都内各地に点在し、庶民の日常の娯楽として親しまれていたこと。つまり、この地図は「明治末の東京がどこで学び、どこで本を作り、どこで遊び、どこで文化を育てていたか」を一枚で示した文化地図と言えよう。「教育上の設備」、「娯楽上の設備」、「文芸上の設備」、「雑誌発行所」 一覧表。 「教育上の設備」、「娯楽上の設備」、「文芸上の設備」、「雑誌発行所」の各写真。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.07
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T4 市民文化と娯楽。通路には「地玉 三ツ 十銭」と。 地元産の卵(地玉)3個で10銭と。明治30年代の「浅草花屋敷」の門。近づいて。「浅草花屋敷の門復元年代:明治30年代後半 縮尺1/1浅草花屋敷は、1852年(嘉永5)に浅草寺奥山で四季の草木を見せる庭園として開園した。時代が明治に移ると、浅草寺の寺領は東京都の所管となって、一帯は公園地に指定され、整備を経て1885年(明治18)に浅草公園として竣工した。花屋敷もそれに合わせて新装し、植物のほかに珍しい動物や見世物なども展示する、より娯楽色の強い興行場へ移行した。以後、東京随一の盛り場となった浅草公園の中心的な施設の一つとして、多くの来園者を集めた。本模型は浅草花屋敷が虎や象などの動物や、活動写真、蓄音器などの最新技術を展観して人気を集めていた当時の門を、残されている写真や図面をもとに再現したものである。」「浅草花屋敷」の門から内部へ。明治から大正初期頃の花屋敷、「奥山閣」の様子。凌雲閣(浅草十二階)の前にあった池の名前は、瓢箪池(ひょうたんいけ)(正式名は「大池」)。「円筒式蓄音機Gramophone with Cylinder1901年(明治34)頃レコードの登場以前、録音再生には蝋管(ろうかん)と呼ばれる筒が用いられていた。資料も蝋管を使用する蓄音機の一つ。浅草花屋敷は東京でもいち早く蓄音機を興行に取り入れ、背面の写真に写る「奥山閣」内に設置し観客を楽しませていた。」 花屋敷で飼育されていた虎。「浅草花屋敷の動物たちThe Animals of Asakusa Hanayashiki明治〜昭和初期までの浅草花屋敷は東京有数の私立動物園でもあり、虎やライオンといった猛獣、象やエミューなどの大型動物のほか、ペンギンの飼育などもいち早く行った施設の一つだった。」 左写真花屋敷で飼育されていた虎 『少年世界 第8巻第1号』より転載右写真ちらし「南極珍客ペンギン鳥」「T4ー盛り場浅草」展示。 「盛り場浅草の変遷Transition of Asakusa, the Entertainment District江戸時代からの盛り場であった〈奥山〉の見世物小屋は、公園第六区に移転を命ぜられた。西洋の技術や芸をとり入れた興行も行われ、〈六区〉は日本有数の興行街へと発展した。The misemono show huts in Okuyama, which had been the center of entertainment since the Edo period, were ordered to move to the Park's sixth ward. The Rokku (lit. sixth-ward) developed into one of the most famous entertainment districts in Japan, as Western techniques and arts were introduced to the entertainment scene.」 年(元号)/出来事1873年(明治6) ● 東京府、浅草寺境内一帯を公園地に指定する。 他に寛永寺、増上寺、飛鳥山、高尾八幡。1882年(明治15) ● 浅草田圃(浅草寺西側に広がっていた湿地帯)の埋立工事着工、大池を開削。1884年(明治17) ● 1月、浅草公園内が6区画に分けられる。 ● 9月、さらに浅草馬道一丁目~三丁目および五丁目の一部を併合して7区としたが、 7区はのちに除外された。 ● 浅草観音堂裏(奥山)の見世物小屋や露店は第6区に移転を命ぜられる。 しかし、花屋敷は遊園地となって同じ場所にとどまった。1886年(明治19) ● 浅草公園開園。 ● 六区では、奥山から移った生き人形などの見世物に加え、玉乗り・軽業・剣舞などが人気に。 ● 六区最初の劇場(常盤座)開場、歌舞伎興行。1887年(明治20) ● 富士山縦覧場開業。1890年(明治23) ● 富士山縦覧場をとり壊し、日本パノラマ館開業。 ● 凌雲閣(浅草十二階)開業。1897年(明治30) ● シネマトグラフ館(仮設)が活動写真を上映。1903年(明治36) ● 日本初の活動写真常設館となる電気館開業。1907年(明治40) ● このころ、六区の見世物小屋が次々に活動写真館に転業。 ● 六区の娯楽の中心は活動写真となる。 ● このころ、常盤座横に観覧車が設置される。1917年(大正6) ● 常盤座でオペラ女優・松井須磨子が出演しヒット。 浅草オペラ全盛を迎える。1922年(大正11) ● 安来節が流行する。1923年(大正12) ● 関東大震災により、六区全焼。 凌雲閣は半壊し、二次被害を防ぐため、工兵隊により爆破のうえ解体される。1925年(大正14) ● 映画、剣劇、安来節がさかんとなり、浅草オペラは衰退の一途をたどる。1929年(昭和4) ● レビュー団「カジノ・フォーリー」が浅草水族館で旗揚げ。 不入りのため解散するが、すぐに第二次カジノ・フォーリー発足。エノケンが座長格に。1930年(昭和5) ● 東京松竹楽劇部の「東京踊り」が浅草松竹座でヒット。右側の分類■見世物・雑芸(Miscellaneous shows and entertainments)■高塔遊覧系施設(Observation tower attractions)■活動写真・映画(Motion pictures / Cinema)■オペラ・レビュー(Opera / Revue)「盛り場浅草江戸時代から両国と並ぶ盛り場として栄えた浅草は、明治の世となってからも引き続き、浅草寺境内裏の〈奥山〉を中心に、見世物小屋や大道芸でにぎわった。1873年(明治6)、浅草寺境内一帯が公園地に指定されると、1884年、奥山の見世物小屋は新たに区画された第六区に移転を命ぜられた。〈六区〉では従来の見世物や大道芸に加えてサーカスや曲芸が興行され、日本パノラマ館や凌雲閣(浅草十二階)などの遊覧施設が多くの人を集めた。しかし、浅草六区の特色は、1903年(明治36)に日本初の活動写真の常設館「電気館」が開場し、やがて活動写真館を並べる民衆娯楽の本場となったことである。大正中期ともなると、休日には人の波が六区を埋め尽くし、身動きもままならないほどの活況を呈した。その後、浅草オペラや安来節が人気を呼び、さらに昭和時代に入ると「カジノ・フォーリー」「笑いの王国」といった軽演劇や松竹少女歌劇も加わって、東京のみならず、日本を代表する盛り場となった。」 「東京淺草観音山内寫眞圖繪(とうきょう あさくさ かんのん さんない しゃしん ずえ)」。明治初期の浅草寺境内を鳥瞰した錦絵。発行所(文書は宛先) 上村清左工門年代 明治前期明治14年 1881 19世紀・浅草寺本堂が中央に大きく描かれている。・本堂右側に五重塔が見える。・本堂前から南へ延びる仲見世が一直線に描かれている。・左手には広い庭園をもつ花屋敷が描かれている。・境内西側には奥山(見世物小屋が集まっていた場所)が描かれている。・周囲にはまだ緑地が多く、明治初期の浅草公園周辺の様子がよく分かる。「東京浅草観音山内写真図絵Photographs and Illustrations of the Interior of Asakusa Kannon, Tokyo1881年(明治14)4月13日上村清左エ門/発行浅草寺境内は1873年(明治6)に公園に制定された。1884年に公園は7区に分けられ、境内奥山で展開していた様々な見世物は新たに作られた「六区」に移転することとなった。資料は区割り以前の浅草寺周辺の様子が分かる絵で、境内には幟を立てた見世物小屋が多数存在していることが分かる。」 「浅草六区の誕生Birth of the Asakusa Rokku Theater District1873年(明治6)、東京府は浅草、上野、芝、飛鳥山、深川の5カ所を公園とした。その多くは旧幕府保護下の社寺境地であった。浅草寺境内一帯は浅草公園となり、6区画に整備された。Birth of the Asakusa Rokku Theater DistrictIn 1873, the Tokyo Prefecture designated five areas as public parks: Asakusa, Ueno, Shiba, Asukayama, and Fukagawa. Most of the parks were located within the precincts of shrines and temples under the protection of the former shogunate. The area within the precincts of Sensōji Temple became Asakusa Park, which was divided into six sections.」 年表1873年(明治6)浅草寺境内一帯が公園地に指定される。1884年(明治17)1月、公園内が一区〜六区に分けられた。9月、さらに浅草馬道一丁目〜三丁目および五丁目の一部を併合して七区としたが、七区はのちに除外された。地図中の主な表示・一区 浅草観音堂・二区 仲見世・三区 伝法院・四区 大池・五区 花屋敷・六区 近代の興行街(六区)そのほか・江戸時代からの盛り場(奥山)・浅草神社・仁王門・二天門・五重塔周辺町名・千束町二丁目・芝崎町・田島町・新畑町・北仲町・馬道一丁目・馬道二丁目・馬道三丁目・馬道五丁目・花川戸町「六区誕生1882年(明治15)からはじまった浅草公園の造営工事で、浅草寺の南西に広がっていた低湿地が埋め立てられ、新たに街区が造成された。その場所が興行地の公園第六区(通称「六区」)となり、1884年、浅草寺奥山の見世物小屋が移転を命ぜられた。六区では、玉乗りの江川一座やサーカスなど西洋の技を取り入れた芸がもてはやされる一方、常盤座を中心に芝居や撃剣といった旧来からの興行も人気を集めた。六区へ移転しなかった花やしきも、珍しい動植物の展覧に加え、生人形(いきにんぎょう)、やまがら曲芸、操り人形などの興行を行う遊園地となった。明治20年代になると、高所から周囲を見渡す富士山縦覧場(じゅうらんじょう)や日本パノラマ館が登場し、1890年(明治23)、六区の北側に高層展望・・・・・」 「銅版画大日本凌雲閣之図拾貳階直立貳百貳拾尺(=高さ220尺・十二階建)下部彫刻技師 島田瑞山画中の説明右側には3つの小図が描かれている。上段 展望台から東京市街を眺める様子中段 螺旋階段下段 電氣エレベートル機械及ビ客室昇降模ノ圖(電気エレベータ機械の仕組みと乗客昇降の様子)」 「大日本凌雲閣之図十二階直立二百二十尺Ryounkaku Tower in Great Japan, Twelve-Story Tower Upright Building of 220 Shaku About 66.7 Meters1890(明治23)島田瑞山/彫村山直吉/発行開業当時、凌雲閣の最大の呼び物は日本で初めて設置された電動式のエレベーターであった。この時のエレベーターは不明な点も多いが、この銅版画に描かれているように、2台のエレベーターが釣り天秤のように上下することで人を運んでいたと考えられる。開業後より故障が続いたことで、半年後には撤去を命じられた。設計を担当した東京帝国大学教師、ウィリアム・K・バルトンは、当初からこの設置に反対していた。」 電氣エレベートル機械及ビ客室昇降模ノ圖ズームして。この図は、当時としては最新技術だった日本初の電動式エレベーターの構造を紹介するために描かれたもので、2台の客室が釣り合い(カウンターウエイトのような関係)を利用して上下する仕組みが表現されている。・左側:2台のエレベーターかご(客室)が描かれている。・中央:昇降路(シャフト)と滑車・歯車などの伝動機構。・右側:電気配線、制御器、計器などの電気設備。「浅草公園の新たな興行施設New Entertainment Facilities at Asakusa Park① 富士山縦覧場富士山縦覧場 1887年(明治20)~1890年Mt. Fuji Observatory (Fujisan jūranjō)富士山を模した展望施設。高さ約32m、木骨モルタル造で、人々は螺旋状の登山路を上って高所からの景色を楽しんだ。A viewing facility modeled after Mt. Fuji. About 32 meters high and built with a timber-frame mortar structure. Visitors climbed a spiral pathway to enjoy panoramic views from the top.② 浅草花屋敷浅草花屋敷 1853年(嘉永6)Hanayashiki Amusement Park六区への移転をせず、奥山の伝統を引き継いで、江戸時代からの見世物興行を行いながら、やがて回転木馬、動物園などをそろえた近代型遊園地となった。Instead of relocating to the Rokku district, Hanayashiki continued the Okuyama traditionof Edo-period sideshows. It later developed into a modern amusement park featuringattractions such as a merry-go-round and a zoo.③ 日本パノラマ館日本パノラマ館 1890年(明治23)~1909年Nihon Panorama-kan (Japan Panorama Theater)パノラマとは、戦場などの風景を円形の場内の壁一面に映し、その前に模型などを配して視覚的な臨場感を楽しませる施設。富士山縦覧場の跡地に建設された。A panorama theater displayed large circular paintings of battlefields and other scenes around the interior wall, with models placed in front to create a realistic visual experience. It was built on the former site of the Mt. Fuji Observatory.④ 観覧車観覧車 1907年(明治40)頃~1911年頃Ferris Wheel1907年(明治40)に上野公園で開催した東京勧業博覧会に設置された観覧車を移築したものとされる。This Ferris wheel is believed to have been relocated from the one installed at the TokyoIndustrial Exposition held in Ueno Park in 1907.」 ① 富士山縦覧場をズームして。② 浅草花屋敷をズームして。こちらは凌雲閣(りょううんかく・十二階)の見える浅草六区(公園第六区)のにぎわい。③ 日本パノラマ館をネットから。④ 観覧車をネットから。「新板 浅草奥山芸人尽」 この錦絵は、浅草奥山・六区で人気を集めていた芸人や見世物芸を一枚にまとめた「興行案内図」のような作品・左上:馬上の人物・上中央:龍・虎などを伴う見世物的な構成・上中左:剣術または武芸・上中央:弓を構える人物・左中央:大きな輪状の道具を扱う芸・左下寄り:台の上で逆立ちする軽業・中央右:赤い衣装の踊り・音曲芸人・下中央:傘や道具を使う曲芸・奇術・右下:扇・盃・三味線などを用いる芸「新板 浅草奥山芸人尽Performers at Asakusa Okuyama, New Edition1881(明治14)歌川真景/画浅草公園第六区に集められた寄席や見世物小屋では、軽業や曲独楽、かっぽれなど、江戸時代から続く見世物芸が依然として行われた。その一方で、芸人の東西交流が進み、玉乗りや西洋あやつりなど、諸外国から学んだ新しい芸も取り入れられた。」 「浅草公園花屋敷興業チラシAsakusa Park Hanayashiki Event Flyer1915年(大正4)浅草公園花屋敷/発行ペンギンが展示されていたころの花屋敷のチラシ。こちらでは南米の珍客と記載されている。その他にも様々な動物や活人形の展示、奇術や芝居などの演目が並び、当時の花屋敷が一大興行場であったことが伝わる。」 「南極珍客ペンギン鳥Flyer: "Antarctic Curiosity, Penguin Birds"1915年(大正4)浅草公園花屋敷/発行1915年6月、南米チリから持ち帰られたフンボルトペンギンが花屋敷に買い取られ、展示に加わった。当時は南極探検の映画が各地で公開された時期で、ペンギンも劇中に登場しており、人々の関心も高かった。そのためチラシにも南米産なのに「南極」とうたわれている。」「南極珍客 ペンギン鳥此鳥は今回(六月十日)東洋滊船の紀洋丸に南米よりニ羽到着しました。一羽は上野動物園へ献納になりましたそうですが、悲しい事には斃死しました。残る一羽が本園にあります。暑さをきらい外から舛から毎日氷を二十貫位つつそばにおいてやります。餌は小あじを食します。生存してきましたのは今回が初めてです。淺草公園 花屋敷」 「各種興行場における入場人員数の変化Changes in the Number of Visitors at Various Entertainment Venue安価で楽しめる活動写真の人気は東京市外にも広がっていった。明治40年代には活動写真館(映画館)の入場者数は、寄席や劇場を抜き、娯楽施設のトップとなった。Moving pictures spread outside of Tokyo as a popular, inexpensive entertainment. By the 1910s, the number of visitors to moving picture theaters (movie theaters) surpassed those to yose and theaters to become the top entertainment facility.」 円グラフ東京市及び隣接郡部における興行場数の変化凡例■観物場(活動写真館・映画館)(橙)■劇場(青)■寄席(緑)1905年(明治38) 観物場 24 劇場 19 寄席 1541916年(大正5) 観物場 78 劇場 21 寄席 1361929年(昭和4) 観物場 207 劇場 30 寄席 181・1905年には寄席が154か所と圧倒的多数で、映画館は24か所しかなかった。・1916年には映画館が78か所まで急増。・1929年には映画館が207か所となり、寄席181か所を初めて上回った。棒グラフ中の注記・日露戦争後の経済好況により娯楽興行に資本が投下される。・第一次世界大戦による好況で娯楽産業が躍進・関東大震災によりデータ不詳■観物場(映画館)(橙)■劇場(青)■寄席(緑)映画館(橙)の年間入場者数が1910年代から急激に増加し、昭和初期には3,000万人を超える規模に達した一方、劇場や寄席は比較的緩やかな伸びに留まっている。「民衆と娯楽日本で初めて公開された活動写真(映画)は、1896年(明治29)、神戸でのキネトスコープであったが、最初の常設館は浅草六区の電気館である。その後、三友館、大勝館、世界館、帝国館、富士館などが次々と六区に軒を連ね、活動写真の人気はうなぎのぼりとなっていった。活動写真館は市外にも広がり、明治40年代には寄席や劇場の入場者数を抜いて、娯楽施設のトップに立った。安価で楽しめる活動写真は、近代都市生活者の娯楽として欠かせないものとなったが、しだいに年少観覧者への影響などが問題にされはじめた。まず、1917年(大正6)には活動写真興行取締規則ができ、1925年には活動写真の内容にまでかかわった検閲規則ができたが、浅草六区をはじめ新宿などの盛り場には映画を見に来る人の波が絶えなかった。また、大正中期の六区では、大衆化された歌劇の浅草オペラが安来節とともに話題を呼んだ。とくに浅草オペラは「ペラゴロ」と呼ばれた熱狂的ファンを生み、「ボッカチオ」や「カフェーの夜」などの歌が大流行した。こうして六区は、庶民の娯楽街としてさらなるにぎわいをみせた。」 上電気館チラシ「アントニーとクレオパトラ」An advertisement of the Denkikan movie theater"Anthony and Cleopatra"1914年(大正3)浅草公園電気館/発行左電気館改築記念絵葉書Reconstruction memory picture postcard of the Denkikan1915年(大正4)電気館/発行活動写真館は、流行意識に、当時の取り締まり法規の変化の激しさも手伝い、修築や改築が頻繁に行われた。電気館もおよそ10年間に3度の増改築を行っており、1915年(大正4)の改築で三階建の洋風建築となった。右浅草公園電気館パンフレット御意のまま 新しきプログラムA pamphlet of the Denkikan movie theater when it opened. It is the first movie theaterin Japan.明治後期~大正期(1898~1926年)浅草公園電気館/発行上映スケジュールや作品の概要を紹介したパンフレット。電気館はチャップリンやロイド、キートンといった早くから人気俳優を上映したプログラムを組むなど、六区映画街の中心的存在として街を盛り上げた。「「アントニーとクレオパトラ」写真帖1914年(大正3)1914年3月11日から電気館で封切られたイタリア映画「アントニーとクレオパトラ」は、弁士・染井三郎の名調子で大ヒットし、連日満員の盛況ぶりをみせた。音声のない活動写真では、弁士の人気が作品の人気を左右した」 「デンキカンニュース第55号Leaflets of the Denkikan movie theater Vol.551919年(大正8)」 「六区興行街の変遷活動写真は当初、見世物の一種として興行されたが、明治初期から常設の施設が増えた。大正時代には奇抜な外観の活動写真館が軒を連ね、六区は映画の街へと変わっていった。At first, motion pictures were run as a kind of misemono show, but from the early Meiji era, permanent theaters increased. By the Taisho era (1912–1926), the Rokku district was transformed into a movie town, with its rows of eccentric-lookingmoving picture theaters.」 「1908年(明治41年)■活動写真館・大勝館・三友館・富士館・第二電気館・電気館明治期の六区低層の見世物小屋や演芸場が立ち並ぶ。六区では玉乗りや剣舞が人気であった。1903年(明治36)、日本初の活動写真常設館として「電気館」*が開業。明治40年以降、六区の興行場は次々と活動写真館に転業した。」ネットから。1921年 大正10年浅草六区(活動写真館・劇場)・キネマ倶楽部・遊楽館・浪花大座・大盛館・江戸館・万世館・観音劇場・三友館・富士館・松竹キネマ帝国館・初音館・バテー館・日本館・世界館・大勝館・オペラ館・千代田館・電気館・金車亭・東京倶楽部・常盤座・公園劇場・金竜館大正期の六区目抜き通りに奇抜な外観の活動写真館が軒を連ねる。1907年(明治40)に上野公園で開催された「東京勧業博覧会」の影響により、パビリオンを思わせる擬洋風建築の活動写真館が建てられた。六区の娯楽の中心は活動写真となり、一層のにぎわいを見せた。ネットからカラー版を。1931年 昭和6年(凡例)昭和元年~6年にたてられた建築物・江川劇場・大都劇場・遊楽館・三友館・富士館・帝国館・帝京座・松竹館・大東京・日本館・大勝館・オペラ館・千代田館・電気館・東京倶楽部・常盤座・公園劇場・金竜館昭和初期の六区1923年(大正12)の関東大震災で六区は全焼。しかし復興は早く、バラック造から、やがてコンクリート造の強固な建物へと建て替えられた。娯楽の中心は依然として映画であり、六区=映画街のイメージは昭和期を通して続いた。ズームして。『台東区文化財調査報告書 第5集』(台東区教育委員会 1987年)より作成。「六区活動写真館の開業年The Opening Year of the Rokku Moving Picture Theater活動写真の人気の高まりを受け、明治40年代を境に、六区の見世物小屋は次々に活動写真館に転業した。With the growing popularity of motion pictures, the misemono show huts in Rokku began to convert to moving picture theaters one after another in the 1910s.」 ・電気館 1903 開業 1903年(明治36)開業。電気器具を使った見世物の興行場を改装し、日本最初の活動写真 常設館となった。六区映画街の中心的存在として街を盛り上げ、1976年(昭和51)に閉館した。・三友館 1907 開業 1907年(明治40)開業。「開進館」という勧工場を改築した。開業当初は、パノラマに 色光線を当てた「キネオラマ」を売りにしたが、大正期に日活直営となり、尾上松之助映画を 上映した。・大勝館 1908 開業 1908年(明治41)開業。青木の玉乗り一座が興行していた「第一大盛館」を改称した。 大正期に沢村四郎五郎らの忍術映画を多数上映し、大変な人気を得た。・富士館 1908 開業 1908年(明治41)開業。「珍世界」という見世物小屋を改築した。尾上松之助映画を上映し、 1926年(大正15)の松之助の死後も時代劇映画の人気を保った。戦後は「浅草日活劇場」 として活動映画を上映した。・オペラ館 1909 開業 1909年(明治42)開業。都踊りの興行をしていた「日本館」を改築した。 大正元年から当時創立間もない日活の直営となり、日活映画の封切館となった。・帝国館 1910 開業 1910年(明治43)開業。「日本パノラマ館」を改築した。1921年(大正10)から 活動写真館の直営となり、洋画を上映した。戦後も松竹系の封切館として営業し、 1983年(昭和58)に閉館した。・世界館 1910 開業 1910年(明治43)開業。寄席の一つとして活動写真を見せていた興行場「万世館」を改称した。 1930年(昭和5)、隣接の大勝館との交流興行で閉館し、大勝館に併合された。・千代田館 1911 開業 1911年(明治44)、上田写真館跡地に開業。1920年(大正9)から活動写真館「日活」の 封切館となり、1925年頃にトップクラスの収益を挙げるに至った。1926年頃からは 日本映画とマキノ映画を上映した。 左側説明板「浅草オペラ絵葉書Postcard Featuring Sheet Music from a Song in the Asakusa Opera大正期大正時代の中頃、六区では活動写真とともに浅草オペラが流行した。各劇場から人気スターが輩出され、「ペラゴロ」とよばれる熱狂的なオペラファンが生まれた。資料は劇中歌の楽譜が入った浅草オペラ演目の絵葉書。」 右側説明板「東京歌劇座第1回上演番組Flyer: "Tokyo Opera Company, First Performance Program"1917年(大正6)6月旭興行部(日本館)発行浅草オペラの常設館の一つ、日本館で「カフェーの夜」が上演された時のチラシ。同演目で劇中歌として歌われた「コロッケの唄」は大ヒットして流行歌となり、高級料理だったコロッケが庶民へ普及するきっかけになったとされる。」 「大合同根岸歌劇団第3回 特別大興行プログラム1920年(大正9)根岸歌劇団は、浅草オペラの人気を支えた歌劇団の一つ。1920年(大正9)から1924年まで六区の金龍館を根城に活動した。田谷力三、清水金太郎、静子夫妻をはじめ実力者が参加し、グランドオペラ中心のプログラムを組んだ。」 「浅草六区の様々な興行Various Performances at Asakusa Rokku① 浅草の寄席浅草の寄席明治後期~大正期落語、講談、浪花節・音曲・奇術・演芸などが行われた。② 浅草オペラ浅草オペラ 歌劇女優 松山浪子大正期浅草オペラは大正時代の中ごろ、活動写真とともに六区で大流行した。松山浪子は、浅草オペラの人気を支えた根岸歌劇団の所属女優。浅草オペラは震災後衰退した。③ 安来節安来節大正中期安来節は1922年(大正11)、出雲地方の「大和家三姉妹一座」が常盤座で公演したところ大人気となり、その後浅草でさかんに興行された。帝国座や十二階劇場、日本館などでも上演された。④ 「カジノ・フォーリー」「カジノ・フォーリー」昭和初期浅草松竹座の演芸場で1929年(昭和4)に旗揚げしたレビュー団。わずか2か月での解散後、本拠を一座長に据えた「カジノ・フォーリー」として六区の観客の人気を呼んだ。1930年には「新カジノ・フォーリー」として六区の観客動員に進出した。(写真キャプション)「カジノ・フォーリー脚本集(内外社 1931年)」より」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.06
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「T2 開化の背景」。「T2-1 庶民の日常文明開化期の東京における、人々の暮らしや社会の変化に焦点を当てています。西洋化が進む中で、一般の庶民がどのような生活を送り、新しい文化や道具を取り入れていったのかを資料や模型で紹介していた。」 正面に「人力車」。 「庶民の日常文明開化の華やかさの一方で、下町の路地裏には、江戸時代とさほど変わらない生活を営む庶民の暮らしがあった。明治維新を経て、時代は大きく変革していたにもかかわらず、人々の暮らしぶりはつつましく、互いに助け合いながら生計を立てていた。しかし、1892年(明治25)に松原岩五郎が著した『最暗黒の東京』にみられるように、過密で貧困、そして不衛生な環境のなかで生活する人々と地域が形成されていた。こうしたスラムでは貧困が深刻な問題となり、東京に資本や人口が集中するにつれ、より重大な都市問題となっていった。明治から大正にかけて、日本人の平均寿命は男女ともに42歳から44歳程度であった。東京でも幕末開港以来のコレラが猛威をふるい、痘瘡(天然痘)とともに大流行を繰り返し、多数の患者や死亡者を出した。それらは「貧民病」とも呼ばれ、とりわけ不衛生なスラムに住む下層民ほど感染の度合いが高かった。」 「人力車The pulled rickshaw was invented in Tokyo in the early Meiji era, and it was exported and spread to the Asian countries and the Middle East.明治後期(1898~1912)人力車は、1870年(明治3)、和泉要助(いずみ ようすけ)ら3名が東京府の許可を得て製造・営業を始めたのが始まりと言われる。翌年末には東京府内の人力車総数が1万を超えるなど、驚くべき急速な広まりを見せた。さらに東京で製造された人力車は、近隣各国やインド、中東まで輸出されるようになった。」 「明治の子供たち(Children of Meiji)明治時代の子どもたちの素顔をよく伝える、とても貴重な歴史写真。明治の町に響く子どもたちの笑い声。文明開化の華やかな時代の陰で、着物姿の子どもたちは今日と変わらぬ無邪気な笑顔を見せていた。手彩色が添えられた一枚の写真は、時代を超えて庶民の温かな暮らしを今に伝えている。自然な笑顔・前列右側の男の子たちは満面の笑みを浮かべ、笑い声が聞こえてきそう。・当時の写真は長時間露光のため真面目な表情が多いのですが、この写真は自然な瞬間を 捉えた珍しい一枚。さまざまな年齢の子どもたち・よちよち歩きの幼児から10歳前後の子どもまで集まっている。・兄弟姉妹や近所の子どもたちが一緒に遊んでいた様子がうかがえる。普段着の着物・男の子は縞模様や絣(かすり)の着物。・女の子は小花模様などの着物を着ている。・晴れ着ではなく日常着であり、庶民の暮らしをそのまま写した写真。手彩色写真・着物の青や赤などに淡い色が付けられている。・当時は白黒写真に職人が一枚ずつ彩色を施す「手彩色」が盛んであった。後方の様子左奥には小さな屋台があり、駄菓子屋や物売りの店のように見える。その前にいる女性が子どもたちを優しく見守り、町の穏やかな日常風景を演出している。「裂見本帖 呉服御通(きれみほんちょう ごふく おかよい)Fabric Sample Book, Gofuku Okayoi明治時代(1868~1912)明治時代に入り洋装化が広まりつつある中でも、庶民の日常着は和装が主流であった。なかでも江戸時代から庶民の間にも広まった「縞織」は、この時代に技術の全盛期を迎えた。本資料は「縞織」を中心とした布地のスクラップ帳である。」 「往来子供尽(おうらい こどもづくし)Collection of Children Socializing1870年(明治3)4月歌川芳藤/画 文正堂/発行喜多川周之コレクション明治初頭の東京の通りで見られた子供たちの姿が描かれている。からくり見世物、おでん屋、風車売りといった商いに加え、馬車や人力車など新たに登場した乗り物と子供の関わりもうかがえます。」「往来子供尽」は、明治3年(1870)に浮世絵師 歌川芳藤(うたがわ よしふじ) が描いた錦絵。画面は四段に分かれ、明治初期の東京の町を行き交う子どもたちが生き生きと描かれています。・からくり見世物に夢中になる子どもたち・馬車に乗る人々を見送る子どもたち・新しく登場した人力車に興味津々な様子・おでん屋や風車売りなど、町の商人とのふれあいなど、文明開化が始まったばかりの東京の町の活気が伝わって来る。江戸時代から続く暮らしと、馬車・人力車など西洋文明を取り入れた新しい文化が同時に描かれており、「江戸から明治への移り変わり」を子どもたちの視点から伝える貴重な風俗資料となっているのだ。「職業にみる幕末から明治初期の庶民の暮らしThe Lives of the Common People from the End of the Edo Period to the Beginning of the Meiji Era as Seen in Occupations幕末から明治初期、政治や社会は大きく変動していき、庶民のなりわい(職業)にも変化があった。商人や職人系世帯の緩やかな変化の一方で、それ以外の世帯が町内より半減したことがうかがえる。From the end of the Edo period to the beginning of Meiji, politics and society underwenta major transition, and the nature of occupations of the common people also changed.While the number of merchant and artisan households showed gradual changes, the number of households related to other types of jobs decreased by half within the townships.」 四谷塩町一丁目の場合(緑色の表示)グラフの分類・商人系世帯数・職人系世帯数・その他の世帯数各グラフは・1861年(文久元)・1871年(明治4)を比較している。合計世帯数・商人系 54世帯 → 51世帯・職人系 52世帯 → 55世帯・その他 92世帯 → 42世帯「公立・私立小学校の成立と展開Formation and Development of Public and Private Elementary Schools1872年(明治5)の国民皆学を目指す「学制」頒布にともない、東京府は、江戸時代以来の寺子屋(家塾)を市立小学校として活用し、初等教育を整備した。With the promulgation of the "Educational Order" in 1872, which aimed for universaleducation, the Tokyo Prefectural Government established primary education by utilizing terakoya (private home schools) that had existed since the Edo period as municipal elementary schools.」 左図学制頒布直前の公立小学校と家塾(凡例)公立小学校(東京府仮小学・1870年(明治3))①第一大区②第二大区③第三大区④第四大区⑤第五大区⑥第六大区●家塾寺子屋塾主の内訳(東京15区)士族 132人平民 138人神官・僧侶 15人その他 4人(1883年〈明治16〉調査)右図公立・私立小学校数と生徒数の変遷公立小学校学校数の推移・1880年(明治13) 71校・1888年頃 73校・1900年(明治33) 79校・1905年(明治38) 129校(棒グラフ)赤:女子生徒数青:男子生徒数折れ線:学校数公立小学校では、学校数・生徒数ともに増加。私立小学校学校数の推移1880年(明治13) 445校1888年頃 356校1900年(明治33) 230校1905年(明治38) 143校私立小学校は、学制施行当初は寺子屋を母体として数が非常に多かったものの、公立小学校の整備が進むにつれて減少していったことが分かる。「明治の教育〈殖産興業〉と〈富国強兵〉の目標を達成するため、明治政府は教育の改革と普及を急ぐ必要があった。文部省は、藩校や寺子屋など、旧来の教育機関や維新時に創設された郷学校などを統合し、国の管理のもとで全国民に教育を授けることを目指すべく近代教育制度の確立に努めた。1872年(明治5)、欧米の教育制度を規範にしてつくられた「学制」が府県に頒布され、日本の近代教育の基礎が固められた。内容も国学・儒学の影響を排し、西洋の近代科学にもとづく実証的なものに変えられ、産業の近代化を推進するために、工業・農水産業・商業などの実業教育にも力が入れられた。」この展示は、明治政府が近代国家を築くために教育制度を大きく改革したことを説明している。1872年(明治5)の「学制」によって、日本で初めて全国民を対象とした近代的な学校制度が整えられた。江戸時代の寺子屋や藩校に代わり、国が教育を管理する仕組みがつくられた。教育内容も、漢学や儒学中心から、西洋の科学や実学を重視するものへと転換。また、近代産業を支える人材を育成するため、工業・農業・水産業・商業などの実業教育にも力が注がれた。このような教育改革は、「殖産興業(産業を発展させること)」と「富国強兵(国を豊かにし軍事力を強くすること)」という明治政府の国家目標を実現するための重要な政策であった。新しい学校制度の確立は、日本が近代国家へ歩み始める大きな転換点となった と。「『横文字早学問(全、二編)』English language books1872年(明治5)吉田/著一般向けに出版された英語の「いろは」を解説した入門書。明治5年前後は同様の英語書が氾濫し、英語流行の到来を感じさせる。外国語は、一部の特権階級が学ぶものから、立身出世を目指す庶民の手段として学ばれるようになる。」明治初期の英語ブームを象徴する資料。1872年(明治5)は「学制」が公布された年で、西洋文化や外国語への関心が急速に高まった。『横文字早学問』は、現代で言えば「はじめての英会話」「英語入門」のような一般向けの教本。展示されているページには、・Good day.・Good night.・Good morning.・Good evening.・Tall man.・Big dog.・Sweet apple.・Ripe grape.といった、日常的な英単語・英会話が日本語訳とともに掲載されている。当時、英語は外交官や通訳だけの学問ではなく、商売・就職・昇進・海外との取引に役立つ知識として、庶民にも広く学ばれるようになった。「憲法発布大典寿語録Constitution Promulgation Ceremony Sugoroku1889年(明治22)佐々木豊吉/版1889年(明治22)2月11日、明治天皇により「大日本帝国憲法」が公布され、翌年11月29日に施行された。本作はその公布を記念して発行されたすごろく。各マスには、各地で執り行われた祝祭行事の様子が描かれている。なお、「憲法は第ニ次世界大戦後の1947年(昭和22)に廃止し、その後現在の『日本国憲法』へと引き継がれた。」大日本帝国憲法の公布(1889年2月11日)を祝って制作された「すごろく」。当時は憲法公布が国家的な慶事であり、日本各地で提灯行列、祝賀式典、旗行列などが盛大に催された。すごろくの各マスには、そのような祝賀の様子や、明治国家の近代化を象徴する出来事が色鮮やかな錦絵風に描かれている。娯楽として遊びながら、新しい憲法や国家制度を庶民へ広める役割も果たした と。「木製亜鈴(もくせい あれい)A wooden dumbbell used for the physical education in the Meiji era明治時代(1867–1912)1872年(明治5)に頒布された「学制」により、初めて体育(「体術」)が教科に位置づけられた。体育の指導者を育成する体操伝習所ではアメリカ・アマースト大学で学んだ医学博士ジョージ・アダムス・リーランドを教授として招き、彼の指導により「軽体操」が授業に取り入れられた。木製亜鈴は軽体操で用いる器具のひとつで、明治時代に学校用具として普及した。」この木製亜鈴(あれい)は、現在のダンベルの祖先ともいえる体育器具。1872年(明治5)の「学制」によって、日本で初めて学校教育に体育が正式に取り入れられました。政府は近代的な体育教育を導入するため、アメリカの教育者・医学博士 ジョージ・アダムス・リーランド(George Adams Leland) を招聘し、体操伝習所で教員養成を行った。その際に普及したのが「軽体操」で、木製亜鈴はその代表的な運動器具。木製なので鉄製ダンベルより軽く、安全性が高いため、小学校などでも広く使用された。今日の学校体育やラジオ体操につながる日本の近代体育は、このような木製亜鈴を用いた「軽体操」から始まったといえる と。 「学制と公立・私立小学校身分や性別にかかわらず国民すべてに教育の機会を与える「学制」は、近代国家の出発にふさわしい画期的な教育制度であった。東京都府は当初、1,260校の公立小学校の設置を決定したが、1873年(明治6)ころにまだ60校足らずにすぎなかった。その不足を補ったのが、寺子屋・集塾の系譜に連なる私立小学校である。東京の塾は旧朱引内に多く設置され、府は塾の師匠を「小学教則」に沿って再教育することで急場をしのいだ。また近郊の農村部には、村民が設立資金を出し合う郷学校などもあった。児童の就学率は日清戦争(1894~1895年)以後、急激に上昇し、公立小学校は規模を拡大していった。一方、私立小学校は、初等教育における役割を公立小学校に譲ることとなった。」 「中・高等教育機関の分布Distribution of Secondary and Tertiary Educational Institutions明治の東京には、官・公立学校、私立学校、女学校などさまざまな学校が設けられ、神田や本郷などには学生の街も生まれた。Various schools were established in Tokyo during the Meiji era, including government and public schools, private schools, and girls' schools, and student towns emerged in Kanda, Hongo, and other areas.」官立学校・第一高等学校・東京美術学校・高等師範学校・陸軍戸山学校・陸軍工学校・陸軍士官学校・陸軍中央幼年学校・陸軍軍医学校・陸軍経理学校・陸軍砲工科学校・帝国大学・高等商業学校・女子高等師範学校附属高等女学校・高等師範学校附属尋常中学校・女子高等師範学校・高等師範学校・東京工業学校・学習院・逓信大学校・慈恵女学校・東京商船学校・海軍大学校・東京郵便電信学校 公立(府立)学校・東京府城北尋常中学校・東京府高等女学校・東京府開成尋常中学校・東京府尋常中学校私立学校・東京農学校・哲学館・練女館・明治女学校・東京専門学校・早稲田尋常中学校・成城学校・明治女学校・明治義塾尋常中学校・和仏法律学校・錦華学校・国学院・日本法律学校・獨逸学協会学校・専修学校・共立女子職業学校・錦城学校尋常中学・東京商業学校・鉄道学校・正則英語学校・東京法学院・明治法律学校・日本中学校・商工中学校・東京女学館・工手学校・立教学校・青山学院・正則尋常中学校・普連土女学校・慶応義塾・慶応義塾附属商業学校・錦華学校・明治学院写真キャプション・第一高等学校・東京高等師範学校・慶応義塾(写真はすべて『風俗画報』東京写真帖 1907年)このパネルは、明治時代の東京が日本最大の「学都」へ発展していく様子を示している。本郷には帝国大学(現在の東京大学)を中心に官立学校が集まった。神田には法律学校や専門学校が数多く設立され、学生街として発展した。早稲田には東京専門学校(現在の早稲田大学)、三田には慶応義塾、駿河台には明治法律学校(現在の明治大学)など、現在も続く名門校の多くがこの時代に誕生。女子教育も進み、女子高等師範学校や東京女学館、共立女子職業学校など、女性のための教育機関も増加した。この地図を見ると、現在も大学が集中する本郷・神田・早稲田・三田・お茶の水一帯の教育都市としての姿が、すでに明治時代に形成されていたことがよく分かるのであった。「五日市憲法草案(複製)Draft of a constitution by the people of Itsukaichi (replica)1881年(明治14)千葉卓三郎/起草あきる野市中央図書館 原資料保管 深沢家文書憲法論議が全国で高まる中、1880年(明治13)11月、国会期成同盟は翌年の大会に憲法草案を持ち寄って研究することを決議した。五日市の民権家たちと活動を共にしていた千葉卓三郎が、学習運動の成果を憲法草案という形にまとめ上げた。全文204か条のうち、特に国民の権利には36か条を費やしており、きめ細かい人権保障に特徴がある。」この「五日市憲法草案」は、日本国憲法でも大日本帝国憲法でもない、民間の人々が自ら考えて作成した憲法案。1881年(明治14)、自由民権運動が盛んになる中で、東京都西部の五日市(現在のあきる野市)で活動していた千葉卓三郎が起草した。当時は「どのような憲法が日本にふさわしいか」を全国各地で議論しており、その成果として数多くの私擬憲法(しぎけんぽう)が作られた。五日市憲法草案は全204条から成り、そのうち36条を国民の権利の保障に充てていることが大きな特徴。言論・信教・財産など、人権を手厚く守ろうとする考え方が盛り込まれており、当時としては非常に先進的な内容であった。この草案は採用されることはなかったが、自由民権運動が日本の立憲政治や憲法思想の形成に大きな影響を与えたことを示す代表的な史料として高く評価されているのだ。「学生の街1887年(明治20)の「文官試験試補及見習規則」公布以後、試験による官吏の任用制度が整い、家柄などによらず実力で立身出世する道が開かれた。地方の青年たちは、故郷を離れて学問する「遊学」を立身出世の道と考え、学校が集中していた東京をその目的地に選んだ。東京には帝国大学をはじめとする官・公立学校、独自の教育理念を持つ私立専門学校、女子のための教育機関である女学校など、さまざまな学校があり、青雲の志を抱き上京する青年を受け入れていた。明治30年代になると、高等教育機関への入学資格を持つ中学校卒業者が急増した。また、神田、本郷、早稲田、三田などに学生の街が出現し、一種独特な学生風俗が生み出された。」 「多摩と自由民権運動Tama and the Freedom and People's Rights Movement1893年(明治26)まで神奈川県に属していた三多摩(北・南・西多摩の3郡)では、明治10年代、豪農を中心に自由民権運動がさかんとなった。In the three Tama counties (North, South, and West), which belonged toKanagawa Prefecture until 1893, the Freedom and People's Rights Movement was popular in the 1870s and 80s, especially among wealthy farmers.」 「五日市憲法草案」の起草西多摩郡の五日市(現・あきる野市)は自由民権運動が活発であった地域で、その展開の中で1881年(明治14)、「五日市憲法草案」が作成された。1880年(明治13) 五日市で自由民権運動が活発となる。 (4月)五日市学芸講談会が発足し、憲法や法律に関する学習会・討論会が開かれる。 (11月)第2回国会期成同盟大会で憲法の起草が議論され、翌年に各結社が草案を 持ち寄ることが決議される。1881年(明治14) 五日市で千葉卓三郎によって『日本帝国憲法』(五日市憲法草案)が作成される。 (10月)国会開設の勅諭が出され、各結社の憲法草案は意義を失ったため終わる。1968年(昭和43) (8月)深沢家屋敷跡土蔵(現・あきる野市深沢)より、「五日市憲法草案」が発見される。写真説明深沢家屋敷跡土蔵1968年(昭和43)、「五日市憲法草案」とともに、200冊を超える明治時代の書籍が発見された。政治や法律関係の本が3割を超え、憲法草案の起草にあたり参考にされたと考えられている。このパネルは、自由民権運動の中心地の一つが現在の東京都西部(旧・神奈川県三多摩)であったことを紹介している。特に五日市では、民権家千葉卓三郎が1881年に「五日市憲法草案」を起草した。この草案は204条からなる詳細な憲法案で、国民の権利を厚く保障していることが特徴。後に実際の大日本帝国憲法(1889年公布)とは異なる内容となったが、日本における民間の憲法構想として極めて貴重な歴史資料と評価されている。1968年に深沢家の土蔵から発見されたことで、その存在が広く知られるようになった。「National Industrial ExhibitionThe first National Industrial Exhibition was held at the Ueno Park in 1877 for the purpose of encouragement of new industry. 84,000 objects were on display, and approximately 450,000 people visited the exhibition. The second National Industrial Exhibition was held four years later, also at the Ueno Park. These exhibitions were modeled after the World Exposition of Paris in 1876. At the third National Industrial Exhibition held in 1890, a Panorama Hall, which had become popular in cities ofEurope and the U.S. at the time, was built for the first time in the corner of the Ueno Park. The fourth and the fifth National Industrial Exhibitions were heldin Kyoto (1895) and Osaka (1903), respectively.内国勧業博覧会1877年(明治10)、国内の殖産興業推進を目的とし、上野公園において第1回内国勧業博覧会が開催された。出品点数は8万4千点、観覧者数は45万人にも上った。その4年後、同じく上野公園で、第2回内国勧業博覧会が開催された。博覧会では、1876年(明治9)のパリ万国博覧会と同様の展示構成が用いられた。1890年(明治23)の第3回内国勧業博覧会では、当時、欧米の都市で隆盛を見せていたパノラマ館が初めて、上野公園の一角に設置された。内国勧業博覧会はその後、第4回が京都(1895年)で、そして第5回が大阪(1903年)で開かれた。」内国勧業博覧会は、明治政府が「殖産興業(産業を育成し国力を高める政策)」を推進するために開催した、日本最大級の産業博覧会であった。・第1回(1877年):東京・上野公園・第2回(1881年):東京・上野公園・第3回(1890年):東京・上野公園・第4回(1895年):京都・第5回(1903年):大阪 「T3-1 商工業の都市」 「商工業の都市東京の産業発展は、政府の政策である〈富国強兵〉や〈殖産興業〉と連動して実現した。新産業や軍事部門を担う巨大な官営工場が設立され、「上からの近代化」が行われた。しかし、明治初期の民間産業は、職人層の手仕事による日常品や洋服・帽子など新たな雑貨品生産が主軸であった。一方、東京では催し物を通じた産業振興も行われ、1877年(明治10)以降、3回にわたる〈内国勧業博覧会〉が上野で開かれた。銀座などの繁華街には、常設の商品陳列所の〈勧工場〉も設けられた。産業発展の様相は、戦争をきっかけに一変する。日清・日露戦争の二つの戦争を境に、東京の産業も飛躍的に成長した。しかし同時に、工場の騒音や排煙など、さまざまな都市問題を引き起こすことにもなった。」 「明治10年代の東京〈殖産興業〉〈富国強兵〉の様相Tokyo in the 1870s and 80s: Aspects of <Encouragement of New Industry> and <Rich Nation, Strong Army>東京には官庁や軍事施設が集中し、その整備のため官営工場がつくられ、工業化が進展した。一方、輸出向けの綿紡績や製糸などの在来産業の振興や奨励も行われた。Tokyo had a high concentration of government offices and military facilities, andgovernment-owned factories were built to maintain them, leading to further industrialization. Meanwhile, traditional industries such as cotton spinning andsilk reeling for export were also promoted and encouraged.」地図中の主な施設・千住製絨所(ラシャ工場)・第一回・第二回・第三回 内国勧業博覧会・東京砲兵工廠(兵器・艦船用品)・陸軍砲兵司令部・皇居・銀座・浅草文庫・深川工作分局(セメント・煉瓦)・石川島造船所・築地海軍兵器工場・品川工作分局(ガラス)・三田火薬製造所左側の図版① 千住ラシャ製絨所(千住ラシャ製絨所)② 上野駅(上野ステーション)③ 浅草文庫(浅草書籍館)④ 開拓使仮学校(開拓使)⑤ 榛名山から(陸軍参謀本部「写真帖」)右側の図版① 京都勧工場(『絵画東京名所』)② 浅野セメント工場(右)(『深川沿革誌』)③ 海軍港(右)と川崎造船(左)(『東京海岸』)④ 工部省製鉄所(『市街鉄道線』)⑤ 鉄道(『高輪築堤』) 『日本製品図説』1~3。『日本製品図説』は、日本の産物や工芸品を海外へ紹介するために内務省が編集した製品図録。1873年のウィーン万国博覧会を契機に、日本は積極的に万国博覧会へ参加するようなったが、展示品だけでは外国人に内容が伝わりにくいという課題があった。そこで、この図説が製品カタログ兼解説書として制作された。展示されている3冊は、・浅草海苔・雑種海草・食塩を扱っており、日本の特産品を図と文章で詳しく紹介している。明治初期、日本が海外へ自国の産業や文化を発信しようとした様子を伝える貴重な資料。「『日本製品図説』1~3Illustration of Japanese Products1877年(明治10)6月内務省/企画高鋭一/編狩野雅信/絵写1877年(明治10)、内務省が日本全国から集めた製品カタログ。明治政府は、1873年(明治6)のウィーン万国博覧会参加を手始めに、海外の博覧会に物産品を出品してきた。しかし、出品物を説明するものがなかったため、解説書として本資料を作成した。右から「一、浅草海苔」「二、雑種海草」「三、食塩」。編者の高鋭一は洋学者で内務省勧商局官吏の高雲外の通称名。」 「上野公園地 第二内国勧業博覧会一覧図」 この「上野公園地 第二内国勧業博覧会一覧図」は、1881年(明治14)に開催された第2回内国勧業博覧会の会場全景を描いた錦絵。第1回(1877年)が大成功を収めたことを受け、第2回はさらに規模を拡大して開催され、来場者は第1回の約45万人を大きく上回り、約82万人に達した。博覧会は日本の近代産業や工芸品を全国に紹介するとともに、海外の万国博覧会に匹敵する国家的イベントとして位置付けられていた。また、会場中央奥に描かれたレンガ造りの美術館は、「日本近代建築の父」とも呼ばれるイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計による建物で、関東大震災で被災する1923年まで上野公園の代表的な建築物として利用された。「上野公園地 第二内国勧業博覧会一覧図Ueno Park: 2nd National Industrial Exhibition1881年(明治14)歌川周重/画 堤吉兵工/版第二回内国勧業博覧会は1881年(明治14)、内務省・大蔵省の共催により3月1日から6月30日まで上野公園で開催された。入場者数は第一回の倍近くに達し、明治天皇の行幸も行われている。中央奥に描かれた2階建てレンガ造りの美術館は、イギリス人建築家ジョサイア・コンドル(Conder, Josiah 1852–1920)の設計。この建物は1923年(大正12)の関東大震災まで利用された。」 「諸工職業競(しょこうしょくぎょうくらべ) テエフル椅子製造」 「諸工職業競(しょこうしょくぎょうくらべ) テエフル椅子製造Competition of Various Professions: Table and Chair Manufacturing1879年(明治12)静斎年一/画 木曽直次良/版「諸工職業競」は、明治以降の新しい職業を紹介したシリーズ絵。作者の静斎年一は月岡芳年の門下で、歌川派の絵師。本作は、机と椅子などの西洋家具の製造風景を描くが、職人は皆、手斧(ちょうな)や鋸(のこぎり)、鉋(かんな)などの在来の道具を使う。服装は和装のようだが、職人の中には散切り頭の者も混在し、新旧の風俗が入り混じる。」 「殖産興業と官営事業首都東京は、政府の〈殖産興業〉政策の重要拠点であった。欧米から生産技術を導入し、資本主義の発展をはかることが政策として展開し、東京には巨大な官営工場がつくられた。工部省による工作分局が赤羽、品川、深川に設けられ、機械・セメント・煉瓦・ガラスなどを製造した。これに加えて小銃やりょう莢などの軍需製品をつくるために、陸軍省所管の関口製作所(のちの東京砲兵工廠)が小石川に設けられた。また、海軍省所管の石川島造船所では軍艦を建造した。これとは対照に、内務省の勧農政策の展開のもとで駒場農学校、内藤新宿試験場、三田育種場が開設された。そこでは欧米の農業技術を日本の農業へ移植し、農業・養蚕・牧畜の発展と輸出を増大するねらいがあった。」 「ガワーベル電話機」 。展示品の向きが反対では?ネットから。「ガワーベル電話機Gower-Bell telephone明治中~後期グラハム・ベルによる電話の発明から14年後の明治23年(1890)、日本初の電話サービスが東京―横浜間で開始した。ガワーベル電話機は開始当初に使用されたもので、送話機を開発したイギリス人のガワーと、ベルの名から名付けられた。中央のボタンで電話局を呼び出して通話を行う仕組みだった。」 「東京の民間工場にみる産業構造の変化Changes in Industrial Structure in Tokyo's Private Factories東京の産業は明治半ばから後期に重化学工業を中心に発展した。工場が飛躍的に増え、就業者数も増加した。Tokyo's industry developed from the mid- to late-Meiji period, centering on the heavy and chemical industries. The number of factories increased dramatically and the number of workers also increased.凡例(業種)・金属・機械・器具工業・化学工業・窯業・印刷・出版業・繊維業・皮革・製靴業・食料品製造業・製紙業・電気・ガス・その他工場数と業種別比率・1889年(明治22) 工場総数:139・1899年(明治32) 工場総数:371・1909年(明治42) 工場総数:3,321・1919年(大正8) 工場総数:7,233就業者数と就業者の業種別比率・1889年(明治22) 就業者総数:11,409人 ・男性:6,740人 ・女性:4,669人・1899年(明治32) 就業者総数:30,318人 ・男性:17,081人 ・女性:13,237人・1909年(明治42) 就業者総数:85,219人 ・男性:49,986人 ・女性:35,233人1919年(大正8) 就業者総数:188,786人 ・男性:125,163人 ・女性:63,623人年表(中央)・1889年(明治22)・1894~95年(明治27~28) 日清戦争・1899年(明治32)・1904~05年(明治37~38) 日露戦争・1909年(明治42)・1914~18年(大正3~7) 第一次世界大戦・1919年(大正8)」 「産業の発展と労働者の生活東京の産業は日清・日露戦争の二つの戦争を契機に発展した。いわゆる「産業革命」である。1894~1895年(明治27~28)の日清戦争後には、綿紡績や織布生産などの繊維業をが伸びをみせ中心とした軽工業が伸びをみせ、東京・・・・の主要な位置を占めるようになった。1889年(明治22)の東京における民間産業の労働者数は・・を中心に約1万人であったが、20年後の1909年には繊維業・金属業を中心に約8万5千人を超え、さらに急増していた。男性の労働者数は〈職工〉、女性の労働者数は〈女工〉と呼ばれ、・・は金属業や陸・海軍の工廠などの重工業に、女工は繊維業などに多く雇用されていた。当時の労働者の生活調査では、長時間労働や低賃金などの問題が取り上げられている。さらに女工の場合は、寄宿舎で生活することが多かった。工場での衛生問題や待遇の改善、賃金の値上げを要求する声のもとで、1897年(明治30)に労働組合期成会がつくられた。」 「交通・通信の発達Development of Transportation and Communication明治後期には鉄道などの交通、電話などの通信手段が急速に発達し、人や物資の移動、情報の伝達が速くなり、その量も急増していった。In the late Meiji period, railroads and other forms of transportation and telephones andother means of communication developed rapidly. The movement of people and goods, as well as the transmission of information, became faster, and their volume increased as well.」 写真・図版の説明① 新橋停車場構内(『風俗画報』241号 1901年)② 両国橋と隅田川(東京風景 1911年)③ 八重洲川電話交換局(東京百景 1902年)④ 新橋停車場(しんばしていしゃじょう)⑤ 銀座通りの市電(東京風景 1911年)⑥ 東京中央郵便局(東京風景 1911年)⑦ 日本橋(東京風景 1911年)「石版印刷機」。この展示は、石版印刷(リトグラフ)👈️リンクの印刷機について説明しています。石版印刷は、水と油が混ざらない性質を利用した印刷技術。従来の木版や銅版のように版へ深く彫刻する必要がなく、平らな版面に描いた絵や文字を印刷できます。日本には幕末に欧米から導入され、明治前期には国産の印刷機も製造されるようになりました。この技術により、教科書・地図・ポスター・錦絵・雑誌などが大量に印刷され、明治時代の情報伝達や出版文化の発展に大きく貢献しました。現在広く使われているオフセット印刷は、この石版印刷の原理を発展させたもので、現代印刷技術の礎となっています。 「石版印刷機Lithographic Printing Press昭和初期東京小西六本店/製造石版印刷とは、水と油が反発する性質を応用した印刷方法で、日本には幕末に機器類が輸入され、明治前期には国産化が始まるなど普及が進んだ。版に凹凸を刻むことなく印刷できるこの技術は、現在のオフセット印刷などの基礎となった。」 「明治時代の東京の工場Various Factories in Tokyo during the Meiji Era東京の産業は、明治時代後期に飛躍的に発展した。隅田川沿いなどに大きな工場が建てられ、人々の暮らしとともに景観も大きく変化した。Tokyo's industry developed dramatically in the late Meiji era. Large factories were built along the Sumidagawa River and other areas, and the landscape changed drasticallyalong with people's lives.工場の所在地・札幌麦酒・浅野セメント・鐘淵紡績・東京電燈 浅草発電所・芝浦製作所・石川島造船所」 「『風俗画報 第116号』より芝浦製作所の図Illustration of Shibaura Works from Fūzoku gahō, No.1161896年(明治29)6月10日東陽堂/発行芝浦製作所は田中久重が創業した田中製造所を源流とする企業で、合併などを経て後に東芝となった。描かれているのは金属加工・機械製造を行っていた同社の工場群である。」 この展示は、明治29年(1896)の雑誌『風俗画報』に掲載された芝浦製作所の挿絵。田中久重(1799~1881)は「東洋のエジソン」とも呼ばれる発明家で、からくり人形や万年時計などを製作した。1875年に創業した田中製造所が芝浦製作所の起源となり、その後、東京電気との合併を経て東京芝浦電気(東芝)となります。挿絵には、高い煙突から煙を上げる工場群や機械を組み立てる工場内部が描かれており、当時の日本の機械工業が急速に近代化していた様子が伝わる。工場の正門付近には人力車や荷車、人々が行き交う様子も描かれ、芝浦製作所が当時の東京を代表する近代工場であったことがうかがえる。この一枚は、明治日本が手工業から機械工業へと発展していく時代の息吹を、工場の全景と作業風景の両方から伝える貴重な資料である。上段資料「全国水平社 創立大会則・決議(複製)Regulations and resolution of the society (replica)1922年(大正11)3月京都市立崇仁小学校原資料所蔵」下段資料「全国水平社 創立大会綱領・宣言(複製)Manifesto and statement of principles promulgated at the inaugural meeting ofthe Suiheisha, the organization dedicated to the liberation of outcastes (replica)1922年(大正11)3月京都市立崇仁小学校原資料所蔵1922年3月3日、京都の岡崎公会堂で全国水平社創立大会が開かれ、「綱領・宣言」とともに採択された。宣言は主として西光万吉が起草した。水平運動の姿勢と目標を明らかにするとともに、部落民が自らに誇りをもち、部落解放運動に立ち上がることをうたった。日本の人権史上、高く評価されている。その裏面に「則」と「決議」がある。」この展示は、日本の人権運動史における重要な資料。全国水平社は1922年(大正11)3月3日に京都で結成された、日本初の全国的な被差別部落解放運動の団体。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる水平社宣言は、日本の人権宣言の先駆けとも評価されている。起草の中心となった西光万吉は、自らの力で差別をなくし、人間の尊厳を回復しようと呼びかけた。展示されている資料は、創立大会で採択された綱領・宣言と、その裏面に記された規則・決議の複製である。近代産業や都市化を紹介する展示の中で、この資料は、経済発展の一方で残されていた差別の問題に立ち向かった人々の歩みを伝える、非常に重要な展示となっている。「全国水平社十四囬大会全国の被圧迫部落大衆団結せよ!改善費年額一千万円獲得!ファッショ反対!大衆課税反対!封建的身分制度廃止!時 ・一九三七年 三月三日所 ・東京芝協調会館」 1937年(昭和12年)に開催された全国水平社第14回大会の宣伝ポスター。内容から読み取れる当時の主張は、・部落差別・暴力・圧迫に反対すること・「改善費一千万円」の獲得要求・封建的身分制度の廃止・差別行政に対する抗議などで、中央の人物が大きな梁(あるいは障害物)を頭上に掲げる力強い姿は、差別や圧迫を打ち破ろうとする決意を象徴的に表現している。「部落解放運動のあゆみ部落解放運動とは、被差別部落の住民に対する差別をなくし、基本的人権の確立を通して、人間としての解放を求める運動である。差別のない社会を実現するためには、部落民自らが立ち上がらなければならないとして、1922年(大正11)、京都の岡崎公会堂で全国水平社の創立大会が開催された。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という熱烈な呼びかけによる創立宣言は、日本国で最初の人権宣言というべきものであった。以後、全国に広がった運動は、東京でも活発に繰り広げられ、東京水平社が結成された。部落解放を求める人々の熱い思いは、戦後、部落解放委員会、さらに部落解放同盟へと受け継がれていった。1965年(昭和40)、内閣総理大臣の諮問機関である「同和対策審議会」の答申は、同和問題の解決を国の責務であるとともに国民的課題として位置づけ、その基本方針を示した。政府、自治体、部落解放同盟をはじめ全国部落解放運動連合会、全日本同和会などの運動団体により、差別解消への努力は現在もなお続けられている。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.05
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「和洋折衷の風俗」 「和洋折衷の風俗欧米の最先端の文化を直接導入し、全面的に享受したのは、ごく限られた上流階級の人々だったが、東京の庶民も開化の文物を見聞し、しだいに生活のなかに採り入れていくこととなった。文明開化の風俗でもっとも早く庶民に浸透したのは、「ザンギリ」と呼ばれた男子の断髪である。1871年(明治4)の断髪令で政府が髷(まげ)を切ることを奨励して以来、ザンギリ頭は文明開化のシンボルとなった。また、洋傘などの比較的安価な輸入品を扱う雑貨店が各所にでき、西洋好きの人々でにぎわった。一方、「牛鍋食わねば開化けぬ奴」(仮名垣魯文『安愚楽鍋』)といわれた牛鍋をはじめとして、あんパン、あるいは女性の髪型の束髪(そくはつ)など外来文化の和風化もすすんだ。新しがり屋の東京人の庶民意識も手伝って、生活に溶け込んでいったものも少なくない。」 「ねじり棒(理髪店看板)」。 「ねじり棒(理髪店看板)A sign of a barber shop1882年(明治15)頃理髪店(床屋)の看板で、木製で宝珠(ほうじゅ)の頭が付き、赤と白の捩(ねじ)り模様に、青の横縞が入る。この配色とねじり模様は、現代の理髪店の看板にも通じる。1871年(明治4)に「断髪令」が出て以降、手入れのわずらわしさがない「ザンギリ頭」は、文明開化で導入されたものの中でもいち早く庶民の間に普及した。」 正面に「座敷ランプ」と2基の「卓上ランプ」。 「座敷ランプA lamp used on the floor (Tatami)1882–1892年(明治15~25)頃輸入されたテーブルに置く卓上の石油ランプを改良したもの。わが国の暮らしに合わせ、畳の上で使用できるようにした。高さは約80cm。」 ズームして。「卓上ランプTable lamp1897年(明治30)石油は江戸以前から日本でもわずかに使われていたが、本格的な採掘・利用が始まるのは明治以降だった。石油を使うランプも明治に入り輸入されるようになり、従来のろうそくや菜種油の灯りよりはるかに明るいその光は、日本人の夜の暮らしを大きく変えていった。」ズームして。この背景の絵は、文明開化のさまざまな風俗を一枚一枚に描いた錦絵を、掛軸風に並べて展示したもの左側:洋楽を奏でる婦人たち・ドレス姿の二人の女性がバイオリンを演奏。・フリルの付いた洋装や西洋の椅子から、上流階級の家庭や鹿鳴館のような社交界の雰囲気 が感じらる。・音楽も文明開化とともに急速に普及し、西洋音楽の教育が始まったことを象徴。中央:洋装の婦人と学生・帽子をかぶり、洋装をまとった女性が立ち、その前には学生服姿の少年が描かれていた。・明治になると、女性の洋装や学生服も徐々に広まり、新しい時代の象徴となった。・背景には洋風建築や大きな花瓶が描かれ、近代都市・東京の雰囲気を演出。右側:海軍少年と模型船・セーラー服姿の少年たちが帆船の模型を手にしていた。・明治政府が海軍の近代化を進めた時代を反映し、西洋式の海軍教育や科学技術への憧れを 表している。右上:洋風庭園・桜や松、提灯のある庭園を洋装の人物が散策。・日本の庭園文化と西洋風の服装が共存する様子が描かれ、まさに「和洋折衷」の 時代を象徴。「開化好男子(かいかこうだんし)」。この作品は、明治23年(1890)頃の「文明開化を象徴する男性たち」を描いた錦絵。描かれている人物は、それぞれ当時の最先端の洋装を身に着けている。・大礼服の文官 明治政府の高級官僚。宮中儀式などで着用した最も格式の高い礼服です。・外套姿の法学博士 西洋式のオーバーコートをまとった知識人。当時の大学教授や法律家を象徴しています。・フロックコートの代議士 帝国議会議員が着用した正式な洋装で、政治家の代表的な服装でした。・詰め襟の学校生徒 現在の学生服(学ラン)の原型となる制服で、文明開化とともに普及しました。 説明板にもあるように、1890年頃はまだ洋服を着る人は少数派であった。 洋装は官僚・政治家・知識人・学生など、新しい時代を担う人々の象徴であり、一般庶民の 多くはまだ和服を着て生活していた。「開化好男子(かいかこうだんし)Handsome Men of the Age of Enlightenment1890年(明治23)水野年方/画 大倉孫兵衛/版明治中期の男性の代表的服装が描かれている。大礼服の文官、外套姿の法学博士、フロックコートの代議士、詰め襟の学校生徒は、当時は少ない洋装である。」 『東京百事流行案内 完』okyo Hyakuji Ryūkō Annai (Complete Guide to All Trends in Tokyo)1894年(明治27)5月大川新吉/編詳細な図を用いて、欧米文化の影響を受けながら変化をしていった服装・日用品・髪型の流行が紹介されている。展示されているページには、・貴人用(きじんよう)・婦人用(ふじんよう)・女人用(じょにんよう)などの洋傘が図入りで紹介され、さらに折りたたみ傘や洋傘の各種形状も描かれている。「パラソルParasol明治後期19 ~ 20世紀赤木清士コレクション」明治の文明開化をテーマにした錦絵を並べた展示。左から順に見ていくと、文明開化によって人々の暮らしがどのように変わったかを表現していた。1.ミシンを使う女性・洋服を縫うための足踏みミシンを使っている。・椅子に座って作業する様子も、従来の和式生活との違いを表している。・洋裁・洋装の普及を象徴する場面。2.街を走る馬車・人力車と並んで馬車が行き交い、洋館が立ち並ぶ街並みが描かれている。・文明開化による都市交通の発達を表現。3.ガス灯(または洋式街灯)のある街・洋装の人々と和装の人々が混在している。・明治初期特有の「和洋折衷」の風景。・夜にはガス灯が街を照らし、近代都市の象徴となった。「ダルマ自転車」と「黒ポスト(複製)」。 「ダルマ自転車」をズームして。 「ダルマ自転車This bicycle was created imitating the Western Ordinary bicycle (penny-farthing) and made by swordsmiths1891年(明治24)国友/製造1877年(明治5)頃に日本に伝わったオーディナリー型自転車を模写して作られた日本製自転車。銘から、鉄砲鍛冶職人により製造されたと判明している。オーディナリー型は、車輪の1回転で進む距離が長く、スピードが出たが、操縦に高度な技術を必要とした。日本では、その形から「ダルマ自転車」と呼ばれた。」「黒ポスト(複製)」をズームして。「黒ポスト(複製)Mailbox, or Postbox, from 1872 to 1904 (replica)1872年(明治5)1871年(明治4)、日本で郵便制度がはじまった。最初に使用されたポストの書状集箱に替わって登場したのが角柱型の郵便ポストであった。正面に書かれる「郵便箱」を「たれべんばこ」と誤読し、公衆便所と勘違いした人の話が、当時の新聞に掲載された。」 「ドレス(複製)」。明治時代の上流階級の女性が舞踏会などで着用した「バッスルドレス」の復製。このようなドレスは、鹿鳴館で開かれた舞踏会など、明治政府が欧米諸国との外交を進めるための社交の場で着用された。文明開化の象徴ともいえる洋装であり、日本の上流階級の女性たちは、このような西洋式の礼装を身にまとって外国の賓客を迎えた と。 「ドレス(複製)A bustle dress worn for dance parties and other occasions (replica)明治時代(1867~1912)資料は、1866年(慶応2)多摩地域の裕福な家に生まれた女性が、早稲田に住んでいた頃手に入れたもの。内側には鯨の骨がコルセットのように縫い付けてあり、スカートの腰の後部にはボリュームを出すための詰め物が入っている。このようなドレスをバッスルドレスと呼び、上流階級の女性が舞踏会などで着用する衣裳として普及した。」 「アイスクリームグラスGlass for Ice Cream1907年(明治40)1869年(明治2)、横浜で日本最初のアイスクリーム店が開業した。同時期に北海道の函館で氷の生産および流通がはじまったのも追い風となり、各地の洋食店などでもデザートとして供されるなど普及が進んでいった。」 「あんパン(複製)Anpan: bread with bean paste in the center (replica)明治時代(1867~1912)明治時代に入り、パンも文明開化の象徴として知られるようになった。あんパンは、洋食文化のパンに日本的な要素を工夫して取り入れたもので、人々にも広く親しまれ、今日にいたっている。」 ズームして。「金魚鉢Goldfish Bowl1877年(明治10)頃日本製 赤木清士コレクション江戸時代の庶民は、金魚を金魚玉(きんぎょだま)というガラス製の器に入れて軒先に吊るし、目で涼を楽しんでいた。やがて、庶民の間にも金魚鉢が浸透していくが、金魚とガラス製の器という涼しげな組み合わせは、明治期においても庶民の夏の風物詩として好まれた。」 「紙調琴(しちょうきん)」 紙調琴(しちょうきん)は、明治時代に西洋の自動演奏オルガンを手本として日本で考案された、自動演奏楽器。正面のハンドルを手で回すと、左右の大きな巻き取り軸の間を穴の開いた紙の楽譜(紙曲譜)が送られる。穴の位置に合わせて空気が流れ込み、内部のリード(簧)が振動して音を出す。仕組みは現在のオルガンや手回しオルガンにも似ているが、音色は説明板にもあるようにアコーディオンに近い柔らかな音。展示品は黒漆塗りに金蒔絵が施された美しい外観で、前面には孔雀、天板や側面には松や草花の蒔絵が描かれており、実用品であると同時に工芸品としても高い価値を感じさせる。「紙調琴(しちょうきん)Shichô-kin (Japanese old musical box)1884年(明治17)以降琴声館/製西洋の自動演奏装置を真似てつくられた楽器。ハンドルを回すと紙製の曲譜が進み、孔のあいた部分に空気が通って演奏されるしくみで、音色はアコーディオンに近い。戸田欽堂が考案し、1884年(明治17)に銀座の十字屋が販売して大人気となった「紙腔琴」の類品である。」 「掛け時計」。 「掛け時計Wall clock1870年(明治3)政府は明治のはじまりとともに江戸以来の様々な制度を改廃した。その一つに、時・分・秒で時間を刻む定時法の採用があった。定時法の浸透により時計は各地に普及し、駅や郵便局などの公的機関には掛け時計が設置された。」 「時計の街、東京Tokyo : The City of Clocks1872年(明治5)11月、明治政府はこれまで採用していた太陰太陽暦から太陽暦への改暦を公布、翌年から太陽暦へと移行した。この時、時刻制度も季節によって時の長さが変わる不定時法から現行の定時法へと変更された。それにともない、海外から機械式の掛け時計や懐中時計が輸入されるようになった。まだ高価だった時計はおもに官公庁や駅などに設置されたが、のちに商店建築にも取り入れられた。東京には時計塔を備えた建物が多数建てられるようになった。」 「鹿鳴館(ろくめいかん)」の模型。 「鹿鳴館(ろくめいかん)」の写真をネットから。建設: 1883年(明治16年)に東京・内幸町に完成。目的: 不平等条約の改正を目指し、外国の要人を接待するための国家的社交場。特徴: 華やかな舞踏会が開かれ、文明開化・欧化政策の象徴とされたが、1940年に解体。明治期の銀座煉瓦街(ぎんざれんががい)の街並み復元模型。昼景と夜景を照明で切り替えて展示しており、文明開化の銀座がどのような姿だったかを体感できる人気の展示で。・中央には路面電車(東京市電)が走っています。・道路の両側には、二階建ての煉瓦造り洋風建築が整然と並んでいます。・通りには人力車、馬車、自転車、歩行者が行き交い、明治の活気ある街の様子が 再現されています。・街路樹やガス灯も整備され、近代都市へ生まれ変わった銀座の姿が表現されています。昼景。昼間の銀座は人通りが多く、買い物客や紳士・淑女、人力車夫などで賑わっています。煉瓦造りの商店が軒を連ね、文明開化の象徴ともいえる洋風都市の景観が広がります。夜景。照明が青みを帯びた夜景に切り替わると、ガス灯が街を照らし、昼とは異なる幻想的な雰囲気になります。当時はガス灯そのものが文明開化の象徴であり、人々は夜でも安心して街を歩き、買い物や社交を楽しめるようになりました。「ニコライ堂」の模型。 「ニコライ堂(重要文化財・明治29年〈1896〉)神田駿河台の丘の上に建つニコライ堂では、今はビルの谷間に建っているが、かつては広範囲の町並みを見渡すことができた。「東京ハリストス復活大聖堂」という正式な名称があるが、東京の人々には、明治初期の日本・ロシアの交流に尽くした宣教師ニコライにちなむ「ニコライ堂」という名で親しまれている。ミハイル=シチュールポフが原案を担当し、ジョサイア・コンドルが設計、長郷泰輔が施工、1891年(明治24)に竣工した。建物はビザンチン様式のなごりをとどめ、異国情緒あふれる偉容は、独特な鐘の音とともに、よく文学や絵画の題材となった。関東大震災によってドームと鐘楼が崩れたが、ドームなどは岡田信一郎の設計によって再興され、現在にいたる。ニコライ堂から撮影したパノラマ写真写真中の主な施設・懲兵工営・通信省用地・女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)・理科大学(のちの東京大学)・医科大学時計台(のちの東京大学)・霊雲寺・湯島小学校・湯島天神・湯島聖堂・不忍池・神田神社・富士山写真下部・東京高等師範学校(のちの東京教育大学)・太田姫神社」 ロシア正教会の神学校(神学教育施設)や教会関係者の施設を再現したもの。この付属建物は現存していない と。映像で紹介。ニコライ堂の大型模型に、時間の経過を映像で重ねて見せる演出の場面。背景スクリーンには「三崎町練兵場」と表示され、ニコライ堂から見えた当時の東京の景観を解説していた。「三崎町練兵場」とは三崎町練兵場(みさきちょうれんぺいじょう)は、現在の東京都千代田区神田三崎町(水道橋駅周辺)にあった陸軍の練兵場(兵士の訓練場)。明治初期、この一帯はまだ市街地ではなく広大な空き地で、・歩兵の訓練・観兵式・軍事演習などが行われていた。背景は、ニコライ堂の鐘楼から眺めた明治東京の実際のパノラマ風景が。ニコライ堂は駿河台の高台に建てられていたため、・神田・皇居方面・丸の内・三崎町方面まで見渡すことができ、東京有数の展望地点でもあった。ニコライ堂内部を見せるために、正面入口側の外壁部分が自動的に下降する仕掛けになっていた。写真では、入口部分が下がったことで、通常は見ることのできない礼拝堂(聖堂)内部が一望できるのであった。下降した外壁越しに見たニコライ堂内部の精密模型を拡大したもの。細部まで非常によく作り込まれているのであった。写真左側の壮麗な金色の壁は、イコノスタシス(Iconostasis・聖障)。イコノスタシスは正教会を象徴する設備で、・キリスト・聖母マリア・聖ニコライ・使徒や諸聖人などのイコン(聖画像)が何段にも並んでいるのが確認できた。この奥が至聖所(祭壇)であり、通常は司祭だけが立ち入ることのできる神聖な場所。「銀座煉瓦街復元年代:明治10年代後半(1882~86) 縮尺:1/25銀座煉瓦街は、1872年(明治5)2月の銀座から築地一帯を焼き尽くす大火の後、近代国家にふさわしい街づくりとして、明治新政府によって計画、建設されたものである。計画の中心は、新橋ステーションから築地居留地や諸官庁を結ぶ銀座地域に、不燃家屋(煉瓦造り)を建設し、道路を拡張・改良しようとするものであった。大火の後、英国人トーマス=J=ウォートルスが設計を担当、建設には大蔵省建築局があたり、翌年には、西洋を模した街区が姿をあらわした。煉瓦街の各家屋は、はじめ買い取りであったが、その後、賃貸契約になった後も、高額な家賃のために空き家が目立った。やがてウィンドウディスプレイなどの近代商法が根づいたり、思潮をリードする新聞社・雑誌社が次々に集まったことも手伝って、文明開化を象徴する街としてにぎわった。」 「銀座煉瓦街」大型模型(縮尺1/25)を少し高い位置から撮影。左側の大きな洋風建築写真左手前の二階建ての堂々とした建物は、銀行や商社、新聞社などの大型店舗をイメージした建物。・列柱(コロネード)・バルコニー・西洋風の切妻破風・左右対称の外観など、英国風建築の特徴が表れていた。右側の建物をズームして。・2階建て煉瓦造商店の列柱(アーケード)・店舗の暖簾や看板・店先の商品や荷物・路面電車の軌道・人力車・馬車・行き交う人々の様子 を。一番右側の建物をズームして。・白い漆喰風の外壁・2階のベランダ・緑色の鎧戸(よろいど)・1階のアーケード(列柱)・入口脇の丸い時計のような看板 などが確認できた。銀座煉瓦街模型に登場する建物や、人々・乗り物・商店を解説した鳥瞰イラスト。こちらも。江戸東京博物館の銀座煉瓦街模型を鑑賞するための索引図で、「この建物は何か」「この人は何をしているのか」が一目で分かるように作られていた。移動して。「銀座煉瓦街ガス灯 明治期(1874~1912)」明治7年(1874)12月、銀座の大通りに85基のガス灯が登場。夕暮れになると「点灯夫」が一基ずつ火を入れて歩き、その姿も銀座の名物になったという。「銀座煉瓦街ガス灯明治期(1874~1912)1874年(明治7)12月、銀座の大通りにガス灯85基が設置され、夜の煉瓦街を照らしはじめた。夕暮れになると火を入れて歩く点灯夫(てんとうふ)の姿は、当時、銀座の名物になった。」 明治20年代から電気が普及するにつれ、ガス灯から電灯へ移り変わっていき、大正半ばにはガス灯はほとんど見られなくなった。「煉瓦壁 銀座煉瓦街遺構 明治初期(1872~77)」 「煉瓦壁 銀座煉瓦街遺構明治初期(1872~77)明治新政府は開化政策の一つとしてロンドン、パリにならう「不燃都市」を企図し、1872年(明治5)2月、銀座から築地一帯を焼き払った大火を契機に、煉瓦造家屋の建設に着手した。イギリス人建築家ウォートルスの設計によるもので、日本の近代都市計画の先駆をつけたといわれる。この煉瓦壁はその遺構で、1988年(昭和63)、中央区銀座8丁目のビル工事現場から偶然に発見された。」 銀座煉瓦街遺構」が1988年(昭和63)に発見された際の記録写真「ビル工事中に発見された煉瓦壁。Brick Walls Discovered during Building Construction写真は2枚あり、左:上方から見た発掘・工事現場。地中から現れた煉瓦壁が細長く残っている。右:煉瓦壁を正面から見た状態。かなり大きな面積で壁体が残存していたことが分かる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.04
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この日は7月10日(金)、神田での仕事の帰りに再び、「江戸東京博物館」を訪ねた。 前回は4月21日(火)に訪ねブログアップしたが、見学できたのは「E・江戸ゾーン」のみで「T・東京ゾーン」まで廻れなかったので、この日に「T・東京ゾーン」の見学に訪ねたのであった。併せて、前回に訪ね逃した「E・江戸ゾーン」とこの日の特別展「洋館 明治の夢と挑戦」も訪ねたのであった。まずは「T-1 文明開化東京」👈️リンク へ江戸東京博物館の東京ゾーン(Tゾーン)は明治時代から現代までの東京の歴史や暮らしを紹介する展示エリア。服部時計店の模型や、近代の街並み、生活の移り変わりを学ぶことができるのであった。 まずは「服部時計店1881年(明治14)に服部金太郎(1860-1934)が創業した服部時計店(服部商店)は、輸入時計の卸売・販売によって発展を遂げ、1894年(明治27)には、銀座四丁目の角地にあった旧朝野新聞社社屋を購入しました。二階建ての煉瓦造りの建物に、巨大な時計塔を重ねる増改築を行い、翌年に同地での営業を開始しました。時計塔は、スイスから輸入された時計を東西南北4面に備え、毎時と30分ごとに鐘の音が鳴る仕組みでした。銀座に集う人々に時を伝えた時計塔は、「服部の時計塔」と呼ばれ、ランドマークとして人々に親しまれました。」 正面から。正面上部の文字は。「K. HATTORI」「服部商店」さらに1階正面には、右から左へ読む当時の表記で、「時計眼鏡寶石品類」と掲げられている。文字を語として区切って読むと、「時計・眼鏡・宝石品類」という意味。見上げて。高さ約26メートルの時計塔は、現在の2代目時計塔SEIKO HOUSEと同様に、東京の「時」をつなぐ象徴であった。現存する資料が少ない中、セイコータイムクリエーションが長年培ってきた経験と技術力で4面の時計塔を再現。約100年の時を超えて現代によみがえったのだと。正面部分のK. HATTORI服部商店も鮮明。「K」はもちろん、創業者服部金太郎(Kintaro Hattori)の頭文字。「東京ゾーン」展示案内。「T1 文明開化東京明治時代に入った東京では、新政府の主導で近代国家にふさわしい首都の建設が進められました。1872年(明治5)の大火の後には、火災に強い洋風都市を目指した「銀座煉瓦街」が建設されました。また、1883年(明治16)には、欧化政策のシンボルとして鹿鳴館が落成し、在留の外国人を招いた舞踏会が盛んに開催されました。人々の暮らしにも「ザンギリ頭」や洋食文化などが、徐々に浸透しました。このコーナーでは、江戸をもとにして東京がどのように変化していったのか、現代へと連なる首都東京の誕生と経過について展示していた。」 「T1-1武都から首都へ」 「武都から首都へ天下の総城下町・江戸は、百数十万の人口を抱える大都市として栄えてきたが、徳川政権の崩壊とともに、その繁栄も失われた。とくに都市の約70パーセントを占めた旧武家地の荒廃が甚だしく、1868年(慶応4・明治元)の東京は、雑草が生い茂り、「夜中は別けて往来少し。また強盗多し」といわれたほどの寂れようであった。一方、都市開発とは逆行するように桑・茶畑の奨励が行われたが、そうした政府の試行錯誤も一時期で終わった。江戸城改め皇城に連なる官庁街が整備され、日本橋を中心とする市街地に再び活況が戻るのには、明治維新よりさらに10年以上の歳月を要した。その後、首都東京が急速に発展したのは、西洋技術の速やかな導入や、大貿易港横浜と海陸で結ばれたこと、旧武家地を利用した都市整備が広まったことなどによるものであった。」 特に印象的なのは、・江戸は明治維新と同時にすぐ東京として発展したわけではない。・むしろ維新直後は、旧武家地が広大な空き地となり、荒廃した都市になっていた。・「夜中は別けて往来少し。また強盗多し」という当時の記録が、その状況を物語っている。・その後、官庁街の整備や横浜港との連携、西洋技術の導入によって、現在の首都東京へと 成長していった。という点。「東京府の誕生Birth of the Tokyo Prefecture1868年(慶応4)7月17日、江戸が東京へと改称された。9月2日には現在の千代田区内幸町にあった旧郡山藩邸を東京府庁舎とし、正式に「東京府」が誕生。同年9月8日、「明治」に改元された。Edo was renamed Tokyo on the 17th day of the seventh month of 1868 (Keiō 4), and on the second day of the ninth month, the former Kōriyama domain residence inpresent-day Uchisaiwaichō, Chiyoda ward, was designated as the Tokyo Prefectural Office building. This marked the official birth of the "Tokyo Prefecture." On the eighth day of the ninth month of the same year, the era name was changed to "Meiji."」 東京府の行政区画と人口統計 1871年(明治4)の廃藩置県から1893年(明治26)まで・1871年(明治4)11月 大区小区制 総人口 882,222人(1872年〈明治5〉)・1878年(明治11)7月 15区6郡制(郡区町村編制法の制定) 総人口 957,121人(1880年〈明治13〉)・1889年(明治22)5月 15区に「東京市」の誕生(市制・町村制) 総人口 1,719,508人・1893年(明治26) 三多摩地区の移管 総人口 1,884,885人この展示で興味深いのは、「東京」と「東京市」は異なるという点です。・1868年 江戸が「東京」と改称され、東京府が誕生。・1889年 15区をもって東京市が誕生。・1893年 神奈川県から三多摩地域(現在の八王子市・立川市・青梅市・町田市などを含む地域) が東京府へ編入され、現在の東京都の骨格がほぼ整いました。この流れを見ると、「東京」という都市は一度に完成したのではなく、行政制度の整備や区域の拡大を経て、現在の姿へと発展していったことがよく分かるのであった。東京府庁舎(旧郡山藩上屋敷)をネットから。1894年(明治27)に麹町通りの新庁舎が現在の千代田区丸の内に建てられるまで使用された。「官庁の建設Construction of Government Offices明治政府の方針により、各官庁が皇居周辺に建設され、丸の内には官庁や陸軍の練兵場などが配置された。In accordance with the policy of the Meiji government, various government offices werebuilt around the Imperial Palace, and government offices and army training camps wereplaced in Marunouchi.」 丸の内における各施設の所在場所(1876年〈明治9〉の官庁・軍事施設)地図中には、次のような施設が示されている。地図上から・大蔵省・紙幣寮・文部省・教部省・内務省・製作寮出張所・文庫司添局・工兵営・紙幣寮活版局・陸軍武庫司・鎮台兵営・第十三大隊営・内務省(勧業土木省・警保局・衛生局・勧商局)・大審院・上等裁判所・輜重兵営・司法省・警視庁・東京鎮台騎兵隊・東京裁判所・陸軍裁判所・陸軍省・練兵場・教導団工兵第一大隊・中山忠能邸・神宮教院・松平忠和明治後期の丸の内・明治後期の丸の内 三菱一号館、三号館(左)1890年(明治23)に払い下げを受けた三菱がオフィスビル(三菱一号館など)を建設し、一帯は丸の内のオフィス街へと変貌していった。「「書役徳兵衛日記」より天盃頂戴の記事Diary with an Entry on the Occasion where the Emperor Distributed Sake to the Townspeople of Tokyo1868年(慶応4~明治1)四谷塩町一丁目 書役 徳兵衛/作成四谷塩町一丁目の書役(町名主などを補助し文書作成などを行う町役人)、原徳兵衛が書き残した日記には天盃頂戴の記述がある。同町は11月4日に東京府から酒36樽を拝領し、翌日派手に御神酒開きを行った。6日には将棋駒型の山車3基を製作し、内藤新宿辺りまで曳き回した。」この展示は、明治維新という「国家の大きな出来事」を、一人の町役人の日記を通して紹介している点が興味深い。ここでいう「天盃頂戴(てんぱいいただき)」とは、天皇から下賜された酒をいただくことで、明治政府の誕生を町人たちが祝ったことを意味。展示によれば、・11月4日 東京府から酒36樽を拝領・11月5日 町を挙げて御神酒開き・11月6日 将棋の駒の形をした山車を3基作り、内藤新宿方面まで曳いて祝賀。 「東京府中橋通街之図」。 「東京府中橋通街之図Illustrations of Nakabashi-dori Street in Tokyo1868年(明治1)[月岡]芳年/筆[金木]年景/画明治天皇が品川を出発し、江戸城(現皇居)へと向かった1868年(明治1)10月13日の様子を描いた錦絵。行列の先頭を長州藩の兵士たちが進み、沿道には新たな時代の幕開けを一目見ようと、大勢の民衆があふれている。天皇が京都から東京へと移動する「東幸(とうこう)」の様子は当時多くの錦絵に描かれ流布した。視覚メディアを通じた発信は、身近でなかった天皇の存在を広くアピールする契機となった。」 「横浜枡屋茶箱紙 駿河美保之松原」 「横浜枡屋茶箱紙駿河美保之松原Tea Box Wrapping Paper of Masuya Store in Yokohama: Pine Grove in Miho, Suruga明治時代前期明治時代、「絹糸」と同様に日本の重要な輸出品目であった「お茶」の木箱に貼られた、色鮮やかなデザインが特徴的な「茶箱絵(ちゃばこえ)。絵は木版多色刷りの技術を持つ浮世絵師が手掛けていた。本資料の左下には、横浜の業者名とともに、「BOX」を「ROX」と誤記されている。」 「桑茶政策The Mulberry and Tea Policy明治維新直後の東京では、旧武家地の荒廃が進んだ。これを活用するため、東京府知事大木喬任(おおき たかとう)は桑畑・茶畑への転用を奨励した。当時の主要輸出品目の生糸と茶の増産を目指したが、わずか2年後の1871年(明治4)にこの政策は廃止となった。In Tokyo immediately after the Meiji Restoration, former samurai lands continued to deteriorate.To utilize such lands, the Tokyo Governor Ōki Takatō encouraged the conversion of theselands into mulberry and tea fields.The aim of this policy was to increase the production of raw silk and tea, the main export commodities at the time; however, it was abolished only two years later in 1871 (Meiji 4).」 写真・図版の説明・市ヶ谷園辺の桑茶畑(緑色の部分) 『永福東京総絵図』1871年(明治4)・旧大名屋敷(長岡藩牧野家中屋敷)の耕地化 屋敷が撤去され、耕地が整備された様子がわかる。・愛宕山からみた幕末の江戸 1865(慶応元)~1868頃(東京都写真美術館/所蔵)・愛宕山からみた明治初年の東京・明治10年代の青山周辺の桑畑・茶畑 (緑=茶畑 橙=桑畑) ※主要な現代の施設や場所を重ねて表示している。地図中には、JR信濃町駅国立競技場神宮外苑秩父宮ラグビー場地下鉄外苑前駅地下鉄青山一丁目駅青山霊園国立新美術館 などが示されている。「旧武家地と桑茶政策旧武家地を返上させたものの、その処理に困った新政府は、1869年(明治2)、殖産興業と窮民授産の見地から旧武家地での桑と茶の植え付けを奨励した。当時の輸出の主要品目が生糸と緑茶だったことによる政策である。青山の15万9千余坪を筆頭に、小石川、千駄ヶ谷、麻布、市ヶ谷、下谷、浅草などの約100万坪が、たちまち桑畑や茶園に変わっていった。しかし、東京の首都機能の整備とは逆行する対策であったことと、払い下げ条項や税制上の優遇措置が悪用されて混乱を招いたことなどから、この桑茶政策は失敗に終わり、1871年(明治4)に廃止となった。」 特に重要なのは次の3点か。1.政策の目的・旧武家地の有効利用・殖産興業(産業振興)・窮民授産(仕事を失った人々への就業対策)2.規模・青山だけで約15万9千坪・東京全体では約100万坪もの土地が桑畑・茶園へ転換された3.失敗した理由・首都建設の方向性と矛盾していたこと・土地の払い下げ制度や税制優遇が悪用され、混乱を招いたことこの展示を読むと、「桑茶政策」が単なる農業政策ではなく、維新直後の東京再建を模索した試行錯誤の一つであったことがよく分かるのであった。「東京新橋蒸気車往復図 1872年に開業した初代新橋駅は、1914年に東京駅が開業するまで首都・東京の玄関口として活躍した。西洋風の駅舎とイギリス製蒸気機関車は、人々に文明開化の到来を強く印象づけ、日本の近代化を象徴する風景として錦絵にも数多く描かれた。」 「東京新橋蒸気車往復図Illustration of the Steam Locomotive Making a Round Trip Between Tokyo and Shimbashi1873年(明治6)歌川国貞(3代)/画ゑびや林之助/版1872年、築地居留地近くの汐留に新橋駅が建設された。新橋駅は1914年(大正3)に東京駅が開業するまで、首都の玄関口として機能した。当時は珍しいモダンな西洋建築の駅舎は、アメリカ人建築家ブリジェンス(Bridgens, Richard P. 1819–1891)の設計により建設された。イギリスから輸入された蒸気機関車が、煙を上げて滑り込む様子は、日本の近代化と文明開化を象徴する光景だった。」 「双頭レール(汐留遺跡出土)」 「双頭レール(汐留遺跡出土)A rail used at the Shimbashi station, an excavated article明治時代前期(1868~1888)新橋ステーションがあった汐留遺跡より出土した双頭レール。双頭レールとは、底部に平らな部分がなく、上下とも走行用に使用可能なI字形の形状をしていたレール。摩耗した場合は、上下逆さまに敷設し直し、使用していた。新橋・横浜間の開業当時は、国産はまだなく、イギリスの双頭レールを輸入していた。」 「双頭レール」をネットから。 「四民平等と「解放令」1869年(明治2)6月の版籍奉還に際して、公卿・諸侯(旧藩主)を華族、旧幕臣・藩士などを士族とし、封建的な主従関係が廃止された。また、農工商は平民となり、さらに、1871年には、いわゆる「解放令」が布告され、旧来の穢多・非人などの称を廃して、身分・職業とも平民と同じとした。平民も名字を許され、華族・士族との通婚ができるようになり、職業の選択、居住地の移動などの自由も認められた。いわゆる〈四民平等〉の世である。しかし、〈基本的人権〉など市民としての諸権利がすべて確立されたわけではない。そのためには、その後の自由民権運動をはじめとする、民衆の長く粘り強い運動の展開が必要であった。とりわけ、被差別部落の住民への差別を生み出す社会的・経済的土壌は容易には無くならず、結婚や就職などへの差別は根強く残った。そのため真の自由と平等を求めて、部落解放を目指した運動が本格的に展開することになった。」 この展示は、明治政府が進めた身分制度の廃止と、その後の社会の現実を、バランスよく説明していた。ポイントは二つ。1.法制度上の平等・華族・士族・平民という新しい身分制度へ移行し、封建的な主従関係は廃止された。・「解放令」により、穢多・非人という身分呼称も廃止された。・名字を名乗ることや、職業・居住地の自由なども認められた。2.現実の差別は残った 法律で身分制度は廃止されても、社会の差別意識はすぐにはなくならなかった。 特に被差別部落の人々への差別は、結婚や就職などに長く残り、その解消にはその後の長い 社会運動が必要であった。この展示は、「制度は変わっても、社会の意識が変わるには時間がかかる」という明治維新の一面を伝える内容に。「T1-2 欧米文化の受容」。 「欧米文化の受容1871年(明治4)11月より岩倉使節団は米欧各国へ出発し、アメリカとヨーロッパの各都市を歴訪して文物や制度を視察した。帰国後、大久保利通らを中心とする開明派政府首脳は、欧米先進国と同等の国力を持つ近代国家建設を旗印に、西洋の制度や技術の輸入に努めた。西洋の知識や技術はすでに幕末の開港期から入っていたが、明治期には政府主導で積極的に摂取された。鉄道・郵便・電信・電話など西洋の交通・通信手段が新たに移植され、人や物資・情報の流れは格段に速くなり、その量も増加した。諸制度や科学技術にとどまらず、衣服や住宅、文学や演劇など生活や文化の面にも欧米文化の導入が推しすすめられた。同時に、〈文明開化〉という言葉が、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という文句もあったように、さかんに人々の口にのぼっていた。」 この展示は、明治政府が単に西洋の「物」を取り入れたのではなく、国家そのものの仕組みや生活文化まで広く導入したことを説明していた。特に岩倉使節団(1871~1873)は、日本の近代化を考える上で極めて重要な出来事。彼らは欧米で・政治制度・教育制度・産業・軍事・都市計画・文化などを視察し、その成果が帰国後の政策に大きく反映された。展示にもあるように、・鉄道・郵便・電信・電話は人や情報の流れを劇的に変えたのだ。さらに、・洋服・洋館・文学・演劇など生活文化にも西洋化が広がり、「文明開化」という言葉が時代を象徴する流行語となったのだ。「第一国立銀行」を再現した模型。第一国立銀行は、1873年(明治6)に創設された日本最初の国立銀行。渋沢栄一が設立の中心人物となり、日本の近代金融制度の礎を築いた。建物は和風の瓦屋根を取り入れながら洋風建築の要素を融合した擬洋風建築で、文明開化を象徴する建築物。この銀行は後に第一銀行 → 第一勧業銀行 → みずほ銀行へとつながる、日本近代銀行史の原点でもあるのだ。「模型解説 / Explanations of the models第一国立銀行(部分)復元年代:明治初期(1872~77)縮尺(部分):1/25第一国立銀行は、近代銀行制度の導入に伴い、殖産興業への資金調達を主な目的として、兜町に設立された。日本橋界隈の、地の利が良い兜町には、株式取引所・保険会社などが集まり、やがて日本を代表する金融街を形成するにいたった。この建物は、もともと三井組の本拠地として1872年(明治5)に建てられたが、翌年、渋沢栄一らが出資して設立した第一国立銀行の社屋となった。建物の構造は江戸時代からの伝統技法によっているが、外観は西洋建築の意匠を取り入れた〈擬洋風建築〉である。設計・施工を担当した清水喜助(二代)は、横浜居留地で洋館の建造に従事して西洋建築を学び、日本人として築地ホテル館や駿河町の三井ハウスなどの洋風建築を手がける先駆者となった。」 「開花新名所New Famous Places in the Era of Enlightenment写真・名称・鹿鳴館 Rokumeikan 1893年(明治26)撮影・為換バンク三井組 Mitsui Bank 1874年(明治7)頃 撮影・第一国立銀行 First National Bank 1873年(明治6)頃 撮影・ニコライ堂 Holy Resurrection Cathedral in Tokyo (Nicholai-dō) 1893年(明治26)撮影・新富座 Shintomi-za Theater 1875年(明治8)頃 撮影・銀座煉瓦街 Ginza "Bricktown" 1873年(明治6)頃 撮影」 「開化新名所官庁や官営工場・軍用施設を擁する首都東京では、明治政府による開化政策が積極的に推しすすめられた。そのシンボルの一つが鹿鳴館で、国際親善と外国の賓客に日本をアピールする場として建設された。第一国立銀行のような〈擬洋風建築〉をはじめ、西洋風の街並みが出現した銀座煉瓦街、開港場横浜との間を結ぶ汽車が発着する新橋ステーションなどは、東京の新名所として脚光を浴びた。加えて石造二連アーチ橋の万世橋(のちの万世橋)、近代的設備を備えた新劇場の新富座なども、錦絵の格好の画題となり、〈東京みやげ〉として人気となった。なかには、駿河台にそびえるニコライ堂のように、東京のランドマークとして今日もなお親しまれているものもある。」 「東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」。この錦絵の題名にある「鉄道馬車」は、蒸気機関車ではなく馬が客車を引く軌道馬車。明治15年頃の銀座では、煉瓦街の大通りを鉄道馬車が行き交い、文明開化を象徴する風景として多くの人々の注目を集めたのだ と。 「東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図The view of brick construction of Ginza Street1882年(明治15)7月歌川広重(3代)/画安藤徳兵衛/画工大倉孫兵衛/版1872年(明治5)2月、銀座や築地一帯が大火の被害を受けた。鉄道の起点であることから、政府は火災に強い都市の建設を目指し、同年3月にレンガでの一帯の再建を決定した。設計はお雇い外国人のイギリス人建築家ウォートルス(Walters, Thomas James 1842–1898)が担当した。翌年には拡張された銀座大通り沿いに洋風2階建の街並みが完成し、この新風景を伝える錦絵も売り出された。」 「東京で刊行された主な新聞Major Newspapers Published in Tokyo竣工したばかりの銀座煉瓦街には数多くの新聞社が集まり、銀座はジャーナリズムの中心地となった。The newly completed Ginza Bricktown attracted numerous newspaper companies, and Ginza became the center of journalism.地図当時の銀座煉瓦街(銀座煉瓦街に所在した新聞社の位置を示した地図)中央には東京銀座街日報社 1876年(明治9)頃 小林清親 画 が掲載されている。銀座で活躍したジャーナリスト成島 柳北(1837–1884)『朝野新聞』社長・主筆末広 鉄腸(1849–1896)『東京曙新聞』編集長・『絵新聞』編集長岸田 吟香(1833–1905)『東京日日新聞』記者福地 桜痴(1841–1906)『東京日日新聞』主筆沼間 守一(1844–1890)『東京横浜毎日新聞』社長黒岩 涙香(1862–1920)『絵入自由新聞』主筆下部の一覧表銀座煉瓦街に所在した主な新聞社(明治10年代)No.・新聞名・・・・・・社名・・・・・・・創刊年月・・・・・・・廃刊年月(継続紙)1・・東京日日新聞・・・日報社・・・・1872年(明治5)2月・・・・現・毎日新聞2・・朝野新聞・・・・・朝野新聞社・・1874年9月(公文通誌)・・・1894年12月3・・読売新聞・・・・・日就社・・・・1874年11月・・・・・・・・現・読売新聞4・・東京曙新聞・・曙新聞社→朝陽社・1875年6月(あけぼの新聞)・1882年3月(東洋新報)5・・仮名読新聞・・・仮名読新聞社・・1875年11月・・・・・・・1877年3月(かなよみ新聞)6・・東京絵入新聞・・絵入新聞社・・・1876年3月(平仮名絵入新聞)・1889年2月(東京新報)7・・問答新聞・・・・・四通社・・・・1876年6月・・・・・・・・・1882年11月8・・絵入日曜新聞・・絵入日曜新聞社・1877年6月・・・・・・・・・1877年10月9・・新聞集誌・・・新聞集誌社→皐莢社1877年10月・・・・・ ・・・1878年12月10・ 東京毎夕新聞・・・日昌社・・・・ 1877年11月・・・・・・・・ 1878年11月(真砂新聞)11///憂国護憲新聞///////真権社/////////1878年4月////////////////////1878年10月以降12///真砂新聞/////////東京真砂新聞/////1878年7月(東京毎夕新聞)/1878年9月(東京真砂新聞)13///東京新聞//////////東京新聞社//////1878年11月(東京さがけ)////1880年5月14///東京横浜毎日新聞/毎日新聞社//////1879年11月(横浜毎日新聞)//1886年5月(毎日新聞)15///いろは新聞/////////京文社//////////1879年12月(あづま新聞)////1884年11月(勉強新聞)16///鈴木田新聞/////////美喜屋//////////1880年12月///////////////////1881年12月17///東洋自由新聞/////東洋自由新聞社///1881年3月 ////////////////////1881年4月18///明治日報///////////忠愛社//////////1881年4月////////////////////1885年11月19//東京ふりがな新聞///明新社//////////1881年11月///////////////////1882年2月20//東洋新報//////////東洋新報社////////1882年3月////////////////////1882年12月21//時事新報///慶応義塾出版社→時事新報社1882年3月/////////////1936年12月(東京日日新聞)22//日の出新聞//////////旭光社//////////1882年4月////////////////////1883年2月23//自由新聞////////////自由社//////////1882年6月/////////////////////1885年3月24//絵入自由新聞/////絵入自由新聞社////1882年9月////////////////////1890年11月(富新聞)25//内外政党事情//////四通社→政党事情社/1882年10月//////////////////1883年2月26//官令日報///////////官令日報社////////1882年10月////////////////////不明27//同盟改進新聞/////同盟改進新聞社/////1882年11月//////////////////1882年12月以降28//絵入朝野新聞/////絵入朝野新聞社/////1882年11月//////////////////1889年5月(江戸新聞)29//自由燈////////////見光新聞社/////////1884年5月////////////////////1886年1月(絵新聞)30//今日新聞////////////毎夕社////////////1884年9月////////////////1888年11月(みやこ新聞)31//日本たいむす//日本たいむす本局 京文社/1885年9月/////////////////1885年12月以降32//毎日新聞//////////毎日新聞社//////////1886年5月///////////////1906年7月(東京毎日新聞)33//やまと新聞///////やまと新聞社/////////1886年10月////////////////1900年10月(日出新聞) 「郵便報知新聞 第576号」。錦絵新聞は単なるニュースではなく、実際の新聞記事を読みやすく、絵入りで一般庶民に伝えるための「ビジュアル・ニュース」として人気を集めていた。 「郵便報知新聞 第576号1875年(明治8)月岡芳年/画 朝野新聞社/発行「郵便報知新聞」への掲載記事をもとに、新たな文章を記した錦絵新聞。同じ錦絵新聞である「東京日日新聞」が赤枠であるのに対して、紫色の枠を採用しているのが特徴となっている。本図は、往来で馬に乗った二人の芸妓が、老人と出会い頭にぶつかって転倒させてしまった事件を描く。芸妓たちは、居合わせた巡査に見とがめられ、駐在所へ連行された。」 「旧第一国立銀行所在地」と「海運橋為換坐之図 絵図」。 「旧第一国立銀行所在地この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図(国土基本情報)電子国土基本図(地図情報)及び数値地図(国土基本情報)電子国土基本図(地名情報)を使用した。(承認番号 平27情使、第23号)」 「海運橋為換坐之図 絵図」。「海運橋為換坐之図」=「海運橋にある為替会社(第一国立銀行)を描いた図」描かれている建物は、第一国立銀行(旧第一国立銀行)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.03
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「常立寺」を後にして、「江ノ電 江ノ島駅」方向に引き返す。「湘南モノレール」の「湘南江の島駅」手前のY字路にあったのが「江の島弁財天道標」。 近づいて。正面:「従是右江嶋道」左 :「左龍口道」 右 :「願主 江戸糀町」 と。この願主名から、当時の江戸の講中によって建立されたものであることがうかがえる と。「江の島弁財天道標この道標は、三面に「従是右江嶋道」「左龍口道」「願主 江戸糀町」と彫られていて、江の島道から龍口寺方面へ分かれる道の入口に建てられた道標です。願主名から、江戸の講中によって建てられたものであることがわかります。江の島道沿いに建てられている他の道標は、三面に「ゑのしま道」「一切衆生」「二世安楽」と彫られており、江の島弁財天への道をたどるすべての人が現世・来世での安穏・極楽を得られるようにとの願いが込められています。道標の形態は、管鍼術を江の島で考案した杉山検校が寄進したと伝える道標と同じですので、市指定文化財(建造物)「江の島弁財天道標」(昭和四十一年一月十七日指定)のひとつに数えられています。 片瀬・江の島まちづくり協議会 藤沢市教育委員会」 「江の島道」ルート図。 そして13:30を過ぎ、江ノ電・江ノ島駅手前で待機していた「八坂神社」の神輿集団が踏切を渡り、龍口寺へと向かう。 江島神社八坂神社の神輿を迎える小動神社側・腰越五ヶ町・「神戸町(ごうどまち)」の山車。小動神社天王祭の「腰越五ヶ町」は、・中原町(なかはらまち):須佐男命 ・土橋町(どばしまち) :源頼朝と御所五郎丸・濱上町(はまがみまち):源義経と辨慶・神戸町(ごうどまち) :八幡太郎義家と鎌倉権五郎影政・下町(しもちょう) :神功皇后と武内宿禰、応神天皇 と。それぞれの町ごとに上記の人形を戴いた山車で祭りを盛り上げてくれるのだと。古くは、人形を載せた万灯山車や2段の高欄を持つ山車が上記の如く5台あったが、その後焼失したり、江ノ電の架線を避けるために低くしたりなどし、当時の山車は姿を消し、現在は、3ヵ町が持つのみとなっていると。人形は、明治期に作られたものもあるとする説もあると。「神戸町(ごうどまち)」の太鼓連。小動神社・天王祭の氏子「土橋町(どばしまち)」の一行。大提灯には町名をひらがなで「どばし」と記している。「土橋町(どばしまち)」のお囃子の一行が続く。「八坂神社」の囃子連。ズームして。「新通り囃子」。江の島(江島神社の末社・八坂神社)の天王祭では、古くから伝わる「江の島囃子」の7つのグループが参加。その7つとは、通り囃子、新通り囃子、松囃子、能神囃子、神囃子、龍神囃子、唐人囃子。「新通り囃子」は、念仏が変化したものといわれる「通り囃子」に関連するお囃子の組として、祭礼の道中や奉納行事で演奏されるのだ と。 神輿や行列を先導する白装束の多くは、神職や「白丁(はくちょう)」と呼ばれるお祭り用の伝統的な奉仕衣装。赤い顔・長い鼻の人物は、姿から見て 猿田彦(猿田彦大神)。祭列を先導する猿田彦。赤い顔に長い鼻、華麗な金襴の装束という異彩を放つ姿。そして足元を見ると、なんと履いているのは「一本歯下駄」! 天狗を思わせる姿で、絶妙にバランスを取りながら祭列を導いていくのであった。猿田彦に続いて進む、神事を担当する一団。手前の二人は、黒い烏帽子をかぶり、淡い青緑色の装束を着ている。これは神職の装束で、手前の方が持っている枝は榊(さかき)。白い紙垂(しで)も付けられていた。榊の後ろに立てられた紫・白・赤・黄・緑の五色の幡(はた)が続く。それぞれの幡には同じ紋が白または赤で染め抜かれていた。中央を見ると三角形を三つ組み合わせたような意匠があり、その周囲を植物状の文様が囲んでいた。江島神社の神紋「向い波三つ鱗」。中央の三つ鱗は北条氏の三つ鱗にまつわる江の島の伝説に由来し、それを取り囲む波が海の神・江島大神にふさわしい意匠となっているのだ。ちなみに中央の「三つ鱗」には、北条時政が江の島の岩屋に参籠した際、弁財天が大蛇となって海へ消え、そのあとに三枚の鱗を残したという『太平記』の伝説が関係していると。江島神社の神幸祭の行列はさらに続く。白衣に緋袴姿の巫女たちは、榊などを載せた折敷を胸の高さに捧げ持ち、白装束の供奉員とともに厳かに進んでいく。華やかな祭りの中にも、神事としての凛とした雰囲気が漂っていた。中央の男性は、黒い烏帽子(えぼし)をかぶり、緑色の狩衣(かりぎぬ)系の装束をまとった神職。手にしている細長い木製のものは、神職が神事の際に持つ笏(しゃく)。金色の紙垂を付けた祓具を手に、静かに進む巫女。その後には、立烏帽子に緑の狩衣をまとい、笏を手にした神職が続く。祭列はいよいよ神事らしい厳かな雰囲気を増していく。そして踏切の手前に「神輿」の姿が。「江ノ電」が通過すると、神輿の姿がハッキリと。 そして、いよいよ江島神社・八坂神社の宮神輿が姿を現した。金色の鳳凰を頂き、朱色の飾り綱に彩られた豪華な神輿。「八坂神社」と記された提灯を掲げ、大勢の担ぎ手とともに江ノ島駅前を通過し踏切を進んでいく。祭りはいよいよ佳境へ――。 踏切を通過。ズームして。そして、八坂神社の神輿が目の前へ。金色に輝く豪華な神輿を、太く鮮やかな朱橙色の飾り綱が包み、「八坂神社」の提灯が揺れる。担ぎ手たちの肩に支えられ、熱気とともに江ノ島駅前をゆっくりと進んでいった。そして神輿は「江ノ島駅入口」交差点を右折し、国道467号に入り龍口寺に向かって進む。 神輿の担ぎ手とその一行の安全確保に懸命な女性の姿も。私も反対側の歩道を進み、神輿を追いかける。インバウンドの旅行客もスマホを構えて神輿の撮影を。車線側にはロープを張り安全確保。住まいの2階のベランダから覗き込むオバチャンの姿も。これぞ「高みの見物」!! そして、八坂神社の神輿は大勢の供奉者と担ぎ手に囲まれながら、無事に「龍口寺」前へ到着!!沿道には神輿をひと目見ようと多くの人々が集まり、警察官も交通整理に大忙し。金色の鳳凰を輝かせた神輿を中心に、龍口寺前は祭りの熱気に包まれていた。そして神輿は、江ノ電ファンにも人気の「龍口寺前交差点」へ。道路上を大きくカーブする江ノ電の線路を横切り、腰越方面へと進んでいく。いつもなら江ノ電の電車にカメラが向けられるこの場所も、この日ばかりは八坂神社の神輿が主役なのであった。神輿の渡御を安全に進めるため、パトカーも出動。警察官による交通整理のもと、一行はいよいよ小動神社へと向かう。この時に、江ノ電が来ればと我儘な後期高齢者がいたのであった。その先でも、八坂神社の神輿と江ノ電のコラボをカメラで追う。その先でもカメラを構え、八坂神社の神輿と江ノ電が間近ですれ違う、祭りの日ならではの一瞬を追う。「令和八年小動神社 天王祭執行のお知らせ小動神社 天王祭皆様の応援ご協力を頂き、賑々しく執行出来ますことを、深く感謝申しあげます。◆ 出御祭=7月5日(日)午後4時半 拝殿前式典後 町内巡幸→午後8時 御仮屋へ還幸◆ 宵宮祭=7月11日(土)午後6時 五ヶ町文化部連合による流し踊り下町→浜上午後8時半頃散開◆ 神幸祭=7月12日(日)午前9時半 御仮屋前式典後 町内巡幸→午後7時半頃神社へ還幸腰越 各町内会 御一同様令和八年六月吉日 宗教法人 小動神社」 中央、上に小動神社の社紋「丸に隅立て四つ目結」創建者と伝わる近江源氏・佐々木盛綱の佐々木氏の「四つ目結」に由来する紋。江ノ電500形(501編成)を挟むように、左右に二基の神輿が左右に。右側の紫色の太い飾り綱を掛けた神輿が待っていた小動神社側の神輿。ここから2つの神輿による合同渡御になるのであった。祭りの熱気に包まれた腰越の街中を、神輿のすぐ脇をすり抜けるように江ノ電がゆっくりと進んでいく。まさに腰越ならではの光景であった。この日の天王祭・神幸祭の追っかけはここまでとし、江ノ電・江ノ島駅まで引き返したのであった。江島神社を出発した八坂神社の神輿は、多くの人々に見守られながら龍口寺前を経て腰越へ。白装束の神職や巫女、腰越五ヶ町の人々が連なる行列、そして狭い道路を神輿のすぐ傍らで行き交う江ノ電――。そこには、長い歴史の中で受け継がれてきた祭りと、日々の暮らしを支える江ノ電とが自然に溶け合う、この土地ならではの風景があった。とりわけ、八坂神社と小動神社、二つの神社の神輿が行き交い、そのすぐ横を江ノ電が走る光景は実に圧巻であった。祭りを守り伝える人々の熱気、沿道を埋める見物客の笑顔、そしてその間を縫うように走る江ノ電――。神と人、そして街が一つになる一日。久しぶりに追いかけた天王祭・神幸祭は、湘南・江の島、腰越の歴史と文化を再び肌で感じる、忘れ難い一日となったのであった。これより以降の祭りの様子は、以前のブログ👈️リンク を参照願います。江ノ電・江ノ島駅。藤沢駅に向かって境川を渡る。上流側の片瀬山方向を見る。さらにシャッターを押す。そして藤沢駅から小田急線に乗り帰途についたのであった ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.09.02
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「本堂」の北側にあった「鎌倉市政之礎」碑。 「故鎌倉市議会 議長 榎本義信君鎌倉市政之礎歴代議長会鎌倉市長 正木千冬書」と。 「榎本家之墓」。 「墓誌元祖~九代にわたる榎本家家長夫妻の戒名が刻まれていた」。「常立寺」の歴代住職の墓地。 「南無妙法蓮華経 歴代上人」。側面には「南無多寶如来」と。南無多寶如来は、「法華経の真実を証明された多宝如来を、心から敬い帰依いたします」という意味。 「當山廿ニ世◯本◯院日進上人」と。 歴代当主の墓石が並ぶ。枝垂れ梅の近くにあった「五重塔」。春になれば(ネットから)。境内に鎮座する地蔵菩薩坐像。右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、大きな円光を背にして蓮華座に坐す。「寺務所」前の鉢植えの「蓮」の花を追う。 「蓮」の花が「今や盛り」と開花中。建物の落ち着いた佇まいと、強い夏の日差しを受けた蓮の淡い桃色がよく調和していた。 静かな常立寺の境内で、夏の日差しを受けて白く輝く蓮の花。その頭上には淡紅色の蕾がすっと伸び、次に咲く時を静かに待っている。古刹の落ち着いた佇まいの中、今咲く花と明日咲く花が美しく寄り添っていた。白い花弁の縁を淡紅色に染め、夏の日差しをいっぱいに受けて咲く一輪の蓮。中央の若草色の花托を包み込むように花弁を広げる姿は、清らかでありながら華やか。ここ常立寺の静かな境内に、凛とした美しさを添えていた。まだ開かぬ花弁を大切に抱きしめるように、静かにその時を待つ蓮の花。白から淡紅色へと移ろう繊細な色合いが美しく、やがて大輪の花を咲かせる力を内に秘めたその姿には、開花前だけに見せる清らかな美しさがあった。そして「寺務所」。 「寺務所」入口。 寺務所の入口から内部を眺めて。境内の蓮を楽しんだ後、常立寺の寺務所内を覗いてみる。木の温もりを感じる落ち着いた造りで、正面には奥へと続く畳敷きの廊下。入口には「合掌で光を」「あなたを拝みます」と書かれた二つの言葉が掲げられ、寺院らしい穏やかな空気に包まれていた。寺務所入口の右側に置かれていた行灯(あんどん)型の寺名表示。木製の細い桟で組まれた行灯型の造りで、周囲の古い木の壁ともよく調和。内部に灯りを入れる構造で、夜には「日蓮宗 龍口山 常立寺」の文字と絵が柔らかく浮かび上がるのであろう。「日蓮宗 龍口山 常立寺」と記された木製の行灯。こちらの面には、長い杖を手にした人物が切り絵風に描かれ、舞い散る葉とともに印象的な図柄となっていた。「寺務所」の奥にあった「庫裡」。 「寺務所」を振り返って。 そして「鐘楼」。 「梵鐘」。「龍口山 常立寺」。現在の梵鐘は、檀信徒・縁者600有余名の浄財寄進により、平成5年(1993)12月に京都の高橋鋳工場で鋳造されたもの と。移動して。 「天下泰平 国土安穏」と。 別の場所をズームして。寄進者・奉納者の芳名が刻まれていた。 そして「山門」方向に引き返す。両脚を組んで蓮華座に坐る「地蔵菩薩坐像」。 「地蔵菩薩坐像」を振り返って。周囲には休憩用のベンチが置かれていた。ズームして。「常立寺」境内から懸垂式の「湘南モノレール」が見えた。 「常立寺」についてのInsatagram案内👈️リンク。その先にも、木製ベンチ、石製の椅子、テーブルも。「元使塚」を振り返って。 「本堂」を振り返って。 境内のイチョウの巨木。「六地蔵」を振り返って。 前方に「山門」。 「六地蔵」に見送られながら「山門」に近づいて。 「山門」の扉や柱には鉄製金具が取り付けられていた。これらは・扉の補強・開閉時の耐久性向上・建築意匠を兼ねていた。鉄金具は年月を経ることで独特の風合いを生み、山門の歴史を感じさせるのであった。 柱の飾り金具に近づいて。そして最後に「常立寺」参道入口前にあった「石碑」を訪ねた。 「寛文庚申供養塔」。「市指定有形民俗文化財 昭和五十二年(一九七七)四月十三日指定寛文庚申供養塔 火成岩製 総高一六五センチメートル庚申とは、十干・十二支を組み合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる日のことです。この庚申の夜に眠ると三尸(さんし)という虫が身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるので寿命が縮む、という道教の説があります。かつてこの信仰に基づいて信者が講というグループをつくり、その夜は眠らずに過ごして無病息災を願う風習がありました。この石塔はその時の記念に建てられたものです。塔の全面中央に「南無妙法蓮華経 帝釈天王」と標示されているのは、日蓮宗で帝釈天を庚申信仰の主尊としていることによります。片瀬や隣接する鎌倉市腰越・津村には日蓮宗寺院が多く、日蓮宗系の庚申講だったようです。塔身に見ザル・聞かザル・言わザルの三匹が両手で目・耳・口をおおっています。三猿像が彫られているのは、三尸に告げられないように、あるいは庚申の申(さる)と通じるからなどの説があります。この三猿像の下に銘文があります。「寛文願主鈴木伊左衛門ら四名」と「天保十三(寅)歳六月造立として飯森七左衛門ら九名」、さらに基壇にも飯森権十郎ら五名の連名が刻まれています。各々世代が違いますが、この塔の造立・維持に関わった片瀬の人たちで、庚申講のメンバーとして考えられます。年記のある部分は塔身と同じ石からつくられているので、天保十三年(一八四二)に造立されたように思われますが、この塔のように、頭部が三角形で、塔身の表面が凹状に区画され、背面が荒彫りで船底形をした形状の庚申塔は十七世紀に多いタイプです。この塔は、天保十三年に修理されたものと考えられています。世代を超えた信仰の篤さが感じられます。 平成二十一年(二〇〇九)九月 藤沢市教育委員会」 そして道路から「常立寺」の壁越しに「鐘楼」を見る。 そして「常立寺」を後にして、龍口寺に向かい、「神幸祭」の場に戻ったのであった。常立寺には元の国使五人を供養する五基の五輪塔が並ぶ。しかし、現在のところ、それぞれの五輪塔が杜世忠・何文著・徐賛ら個々の使者の誰に対応するのかは明らかになっていない。中央の五輪塔に青いハダクが掛けられているが、これも特定の人物を示すものではなく、モンゴル出身力士らによる追悼の象徴として受け継がれているものと考えられているのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.09.01
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大題目碑の背後にある石造物群の姿がかなりはっきり確認できた。この塔は?「三界萬靈供養塔」と。 近づいて。一枚一枚の石碑の年代が同じではない。「寛政」「文化」などと思われる年号や、月日を刻んだ墓碑が混在しているのであった。つまり、最初からこの巨大な塔を一度に造るために製作された石材ではなく、それ以前から境内・墓地に存在していた墓碑や供養碑を後に集めて、塔状に組み直したものではなかろうか?もう一つの塔。「無縁諸靈供養塔」と。近づいて上部を。近づいて下部を。「無縁諸靈供養塔」に近づいてみると、大小さまざまな地蔵菩薩像がびっしりと組み込まれていた。その姿や大きさ、風化の程度もそれぞれ異なり、もとは境内や墓地の各所に個別に祀られていた石仏を、後に一か所へ集めて供養したものと思われるのであった。参道を戻り境内の外に移動し、路地を進んで。左:「三界萬靈供養塔」。右:「無縁諸靈供養塔」。「三界萬靈供養塔」。「無縁諸靈供養塔」。左:「三界萬靈供養塔」。右:「無縁諸靈供養塔」。「無縁諸靈供養塔」。そして「本堂」を正面から。 本堂屋根の右側。本堂屋根の左右の端・隅棟鬼飾りには、一対の「鯱(しゃち)」が据えられていた。獅子のような猛々しい顔に魚の胴体をもち、尾を大きく天に反らせた想像上の霊獣で、火災除け・防火の願いを込めて屋根に飾られるという。本堂屋根の左側。地上から屋根を見上げた際に最も近くに見える鬼飾り。中央に吊り下げられている円盤状の青銅製のものは、参拝の際に綱を振って鳴らす「鰐口(わにぐち)」。鰐口のさらに上、向拝の欄間には、非常に立体的な龍の彫刻が。雲間を泳ぐように胴をくねらせた龍が左右へ大きく広がっていた。「鰐口(わにぐち)」にも「龍口山 常立寺」と。 そして向拝柱上部の「木鼻(右)」。正面側には大きな口を開けた獅子、その横(奥側)には貘鼻(ばくなび)と思われる彫刻。木鼻(きばな):頭貫(かしらぬき)の先端が柱より出ている部分のことをさしている。 簡単にいうと、木の端という意味である。 神社や寺院では、本殿や堂の入り口の柱に木鼻をとりつける。 鎌倉時代初期のものは直線的で単純な装飾である。室町時代を迎え禅宗が入って きたことも関係して、複雑な装飾を施すようになった。木鼻には、獅子鼻貘鼻、 龍鼻、雲形花や葉をかたどった植物鼻などがある。獅子:ライオンのこと。インドでは王や仏の守護神とされている。各種の装飾に用いられた。貘鼻:中国の想像上の動物。鼻は象、目は犀(さい)、毛は牛、足は虎で銅や鉄を食べ、人の悪夢を 食べてくれると。向拝柱上部の「木鼻(左)」。本堂の扁額「常立寺」。 本堂の内陣。ズームして。「日蓮聖人像(祖師像)」。その手前の位牌には、「開山以来歴代諸上人」と。さらに左右手前には、什宝世 行照什四世 本祥など、歴代住職と思われる位牌も確認できたのであった。「日蓮聖人像(祖師像)」をズームして。「本堂」の左側。三十番神像本堂の左に三十の日本の神々の像が並んでいた。諏訪大明神、伊勢大明神、天照皇太神、春日神・・・お寺にこんなに沢山日本の神様が勢ぞろいしているのは驚き。三十番神信仰というのは天台宗/日蓮宗での信仰で、特に日蓮宗では重視されている と。平安時代初期、天台宗の円仁(慈覚大師 最澄の弟子)が比叡山に籠り、一字三礼の儀礼をして三年がかりで法華経の写経を行った。この法華経を安置した比叡山の堂を守護するために、日本中の主要な神々三十を勧請して祀ったのがはじまりと。日本独特の神仏習合の考え方で、日本での布教のために取り入れられた考え方と。鎌倉時代にさかんに信仰されたのだと。日豪上人が常立寺を日蓮宗の寺に改宗した際に誰姿森(たがすのもり)に番神堂を建立したと新編相模国風土記稿にあり、当時から常立寺にはこうしたお堂があったことが分かる。今常立寺に残っている像は江戸時代前期承応三年(1654年)に奉納されたもの と。 最前列に並んでいるのはモンゴル関係の写真のようであった。三十番神像(左側)をズームして。「元使 杜世忠、何文著、徐賛、撒都魯丁國人果 各霊衣」と書かれた位牌にも 「ハタク」と呼ばれる青い布が巻かれていた。三十番神像(右側)をズームして。「清正公」と。 「文永弘安之役 彼我両國殉難者 靈」と。 「本堂」の右側。「タイ王国バンコク市バクナム市奉納釈迦牟尼仏」と。この仏像がここにある経緯は?お参りに来られた親子グループの後ろで住職が読経を。3年前からここの住職を勤める服部功志さん👈️リンク。住職であると同時に、藤沢駅北口に法律事務所を構える弁護士でもあると。全国でも珍しい、住職と弁護士の「二足のわらじ」を履きながら、その両方の面から地元・藤沢に尽くそうと日夜奮闘する服部さんとのこと。ズームして。「本堂」の廻り縁から「元使塚の大きな題目碑」方向を見る。後ろに、「無縁諸靈供養塔」と「三界萬靈供養塔」の二基。 「本堂」正面の「廻り縁」を見る。 「廻り縁」から「元使塚(げんしづか)」方向を見る。「本堂」の北側の墓地を見る。 「本堂」前の天水桶、石灯籠、手水場を見る。 「参道」、「山門」方向を見る。 「天水桶」を振り返って。近づいて。 「平成二十六年三月四日為 慈観院常光日清信士 潮光院眞観妙安信女 追善供養 者也施主 宇田川 宏」と小さい文字で。「本堂」前の「石灯籠」(正面右)。 「昭和五十六年十月十三日日蓮聖人第七百遠忌報恩謝徳」 「奉納城南 落合太七 良三 ・・・・」 「本堂」前の「石灯籠」(正面左)。「昭和五十六年十月十三日日蓮聖人第七百遠忌報恩謝徳」 「奉納城南 落合太七 良三 ・・・・」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.31
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常立寺本堂前の「大香炉(だいこうろ)・常香炉(じょうこうろ)」。 参拝者が本堂にお参りする前に線香を供えるための香炉。「献香」とは文字どおり、仏さまに香を献じること。香には仏前を清浄にするとともに、香りが広く行き渡るように仏の教え・功徳が広く行き渡るという意味も重ねられている。主な意味や目的は以下の通り。・場を清める:香の煙と香りによって、参拝する場所や自身の心身を清浄にする。・功徳(教え)を広げる:香りが部屋や境内に広く行き渡る様子を、仏さまの教えや徳が 世界に広がることに重ね合わせている。・故人や仏さまとの交流:立ち上る香煙を通じて心を通わせ、供養や感謝の気持ちを伝える 意味合いもある。この後、参拝に来た母親と一緒の子供たちがお線香を。徳川家継の霊前に奉納された石灯籠である と。「有章院殿 尊前」と刻まれていた。「有章院殿(ゆうしょういんでん)」は、第7代将軍・徳川家継の院号。「尊前」は「御霊の御前に」という意味であり、これは徳川家継の霊前に奉納された石灯籠で あることを示す銘である と。かつて芝・増上寺にあった徳川家継(有章院)の霊廟に諸大名から奉献された石灯籠の一つで、縁あってここ常立寺に移されているのだ と。さらに石燈籠壹基 享保元年丙申四月卅日筑後守従五位下源朝臣君美 と。「君美(きんみ)」は新井白石の諱 と。つまりこの灯籠は徳川家継の側近として仕えた新井白石が、家継の霊前に奉献した石灯籠 であるようだ。「手水場」。「龍口山常立寺 水鉢 日周 延宝三乙卯(きのとう)九月」と。 上部中央の黒いBOXが参拝者の動きを検知し、水が出て来る省エネ型の「手水場」となっていた。鬼灯(ほうずき)が手水場に。ナス科の多年草で、夏から秋にかけて赤く熟した可愛らしい実と萼(がく)をつけます。お盆の時期には、ご先祖様の霊を導く提灯に見立てて飾られる日本の夏の風物詩。名前の由来は赤く膨らんだ実が提灯(ちょうちん)に似ていることから、「鬼(死者)」の「灯(明かり・提灯)」という漢字が当てられたのだと。鬼灯は、古くから薬用として活用されて来たとも。実を鎮静剤とする風習は平安時代から見られ、利尿剤や解熱剤としての効用も挙げられている と。この「透かしほおずき」・「網ほおずき」の姿も美しいのである。そして、「誰姿森(たがすのもり)・元使塚(げんしづか)」👈️リンク の説明板「一度目の蒙古襲来(文永の役)の翌年である建治元年(一二七五年)、蒙古(現在のモンゴル国)から大元帝国皇帝フビライの国書を携えて長門国室津(現在の山口県)に辿り着いた使節団(元使五名)は、同年八月に鎌倉に到着するも、鎌倉幕府の執権北条時宗に会うことすら許されず、同年九月七日、龍ノ口刑場(現在の龍口寺周辺)にて斬首され、当寺の裏山「誰姿森」に葬られた。その四年後の文永八年(一二七一年)九月十二日に、同じく龍ノ口刑場にて斬首されそうになるものの難を免れた日蓮聖人は、「蒙古使御書」👈️リンク(建治元年九月記)の中で「科なき蒙古の使の頸を刎られ候ける事こそ不便に候へ」と哀れみの言葉を遺している。墓地中心部の横に並ぶ大小五基の五輪塔(建立年月日不詳)は、五人の使者の御霊を供養するために建立されたものであり、創建以来当寺で供養し続け今日に至っている。五輪塔の後ろに存在する法華題目碑は、斬首から六百五十年後の大正十四年(一九二五年)、当山第二十三世住職磯野本精上人が、祖国を離れた地で空しく散った五人の使者に対して慈悲の涙を注いだ日蓮聖人の想いを継承するとともに、国を超えた真の人道主義を訴えるべく建立したものである。また、五輪塔右手前にある石碑(同じく磯野師が建立)には、元使三名(杜世忠・何文著・徐賛)の辞世の句が刻まれている。」 本堂前、「法華題目碑」入口に立つ大型の銅燈籠。六角形の火袋には格子状の透かしを設け、笠の六隅には蕨手を大きく反り上げた優美な姿を見せる。長い年月を経た緑青の色合いが、境内の深い緑によく溶け込んでいた。左側の銅燈籠近づいて。「為元使七百年供養昭和四十九年九月七日當山建之二十五世 日侃代」と。 寺院の碑・仏具・建造物などの銘文で、住職名の後に付けられる「代」は、その住職の在任中・住職を務めていた時代という意味である と。右側の銅燈籠に近づき廻り込んで。右のものと同じく「為元使七百年供養昭和四十九年九月七日當山建之二十五世 日侃代」と。中央奥の巨大な碑には、日蓮宗特有の髭題目で、「南無妙法蓮華経」と大書されていた。大正十四年九月 元使六百五十年記念會建之 と。元使5名が斬首された建治元年(1275)から650年に当たる大正14年(1925)に建立された「法華題目碑」。中央に髭題目(ひげだいもく)・南無妙法蓮華経 と。題目碑の手前に並んでいる古い石塔が説明板にあった、「墓地中心部の横に並ぶ大小五基の五輪塔」。処刑された元使5名を供養するための五輪塔。髭題目(ひげだいもく)とは、日蓮宗で「南無妙法蓮華経」の題目を書く際、「法」以外の6文字の筆端を髭(ひげ)のように長く伸ばして書く特殊な書体のこと。誰姿森(たがすのもり)・元使塚(げんしづか)の前に置かれた青銅製の香炉。誰姿森(たがすのもり)とは、鎌倉時代の龍口(たつのくち)刑場で処刑された人々や、元の使者たちの遺骸が葬られたと伝わる、現在の常立寺(神奈川県藤沢市片瀬)の境内周辺にあった古い地名・埋葬地のこと。上部には獅子が載り、前脚で透かし彫りの球(いわゆる獅子の「毬」)を押さえていた。左右には大きく反り上がった耳(取手)が付き、胴の下部正面には獅子頭が配されていた。青銅製香炉の蓋の上に据えられた、「獅子(しし)」の装飾。獅子が前脚で押さえている透かし彫りの球は、牡丹と思われる花文様で一般に「玉取り獅子」「獅子の玉取り」 と呼ばれる意匠である と。巻き上がった尾と力強い姿が印象的で、仏法守護・邪気払いを象徴する意匠である と。青銅製の香炉には「昭和四十九年六月十八日 為 理心院法徳晴信士位追善供養施主川崎市 堤ギン」と。 五基の五輪塔を。中央の五輪塔には、モンゴルで敬意や供養のしるしとして用いられる「ハタク」と呼ばれる青い布が巻かれていた。青はモンゴルの人々にとって「英雄」を意味する神聖な色、さらに天空を象徴する大切な色でもあるようだ。元横綱の四股名「朝青龍」もこの「青」と関連があるのだろうか? 元使節団の役職『元史』などから知られる役職は概ね次のとおり。人物・・・・・・・・・・・・役職・・・・・・・・・序列の目安杜世忠・・・・・・・・・・礼部侍郎・・・・・・・・最上位何文著・・・・・・・・・・兵部侍郎・・・・・・・・第二位級徐賛・・・・・・・・・・・訳語郎将・・・・・・・・第三位級撒都児丁(サドルディン)・従者・護衛系とされる・・下位烏馬児(ウマル)・・・・・従者・護衛系とされる・・下位杜世忠・何文著は「侍郎」であり、これは元朝ではかなり高位の官職。徐賛は通訳官ですが、正式な官職を持っていた。残る二人は使節団の随員・護衛と考えられている と。五基の五輪塔は現在、それぞれがどの元使者に対応するのかを示す史料は確認されていない と。しかし、五人の元使者を慰霊するために五基が建立され、しかも大きさにも微妙な違いが見られることから、建立当初は一基ごとに供養する人物を意識して建立された可能性も十分考えられるであろう。中央の最も大きな五輪塔は、使節団の最高責任者であった杜世忠を象徴しているのではないか――そんな想像も膨らむのであるが真相は??。五基の五輪塔を右から。1番目の五輪塔。三角の「火輪」の部分には文字が一文字刻まれているようであったが。この文字が誰の供養塔であるかを示しているのであろうか?2番目の五輪塔。中央・3番目の五輪塔。「ハタク」と呼ばれる青い布が巻かれていた五輪塔。4番目の五輪塔。5番目の五輪塔。2024年4月12日夕、大相撲横綱・照ノ富士、大関の霧島と豊昇龍を含めた総勢13人のモンゴル出身力士👈️リンクと駐日モンゴル大使が、ここに埋葬されている元の使者の弔いのためにこの常立寺を訪れたのだ。第29回大相撲藤沢場所(春巡業)が2024年4月13日(土)に開催されたのであったがその前日に訪ねたことになるのであった。(写真はネットから)。この年2024年は蒙古襲来から750年。力士らと檀家を交えて本堂で法要が営まれた。照ノ富士は、春場所で休場せざるを得なかった古傷の腰痛を押して、寺を訪れ、大きな体を折り曲げて供養塔に祈りを捧げたのであった と。(写真はネットから)。移動して右側の2基の五輪塔をズームして。移動して本堂を背景に「ハタク」と呼ばれる青い布が巻かれていた中央の五輪塔を。廻り込んで反対側から。巨大な「法華題目碑」前に奉納された卒塔婆が並ぶ。ズームして。中央の新しい卒塔婆には、「於善國中 當得作佛」と。これは『法華経』方便品にある言葉で、読みは、善国(ぜんこく)の中(うち)に於(お)いて、当に作仏(さぶつ)することを得(う)べし大意は、「よき国土において、必ず仏となることができるであろう」という、成仏を願う意味をもった言葉であると。元使塚(げんしづか)・誰姿森(たがすのもり)の前に置かれた青銅製の香炉を再び。そしてその手前には使者の辞世の句が刻まれた石碑があった。⚫️正面『禮部侍郎杜世忠辭世出門妻子贈寒衣問我西行幾日歸來時儻佩黃金印莫見蘇秦不下機』■読み【礼部侍郎(れいぶじろう)杜世忠(と・せいちゅう)の辞世門を出(い)づるに、妻子(さいし)寒衣(かんい)を贈る。我に問う、「西行して幾日にして帰る」と。来たる時、儻(もし)黄金の印を佩(お)びなば、蘇秦(そしん)を見て、機(はた)より下りざること莫(な)かれ。】■意味出門妻子贈寒衣問我西行幾日歸「家を出発するとき、妻子が寒さをしのぐ衣を持たせてくれた そして私に、『西へ行って、いつ帰ってくるのですか』と尋ねた」來時儻佩黃金印莫見蘇秦不下機「もし使命を果たし、黄金の印を帯びるほどの栄誉を得て帰ることができたなら、蘇秦が不遇だったころのように、妻から冷たく扱われることもないだろうに」 正面から。⚫️左側面兵部侍郎何文著辭世四大元無主五蘊悉皆空両國生靈苦今日斬秋風■読み兵部侍郎(へいぶじろう)何文著(か・ぶんちょ)の辞世四大(しだい)、元(もと)より主(しゅ)無く、五蘊(ごうん)、悉(ことごと)く皆(みな)空(くう)なり。両国(りょうこく)の生霊(せいれい)苦しむ、今日(こんにち)、秋風(しゅうふう)を斬る。■五蘊悉皆空: この世の全ての存在や現象は、実体などなく全てのものは空であるという仏教の言葉。 「五蘊」は人の体と精神を構成する五つの要素のこと。 全ての物質をいう「色」、感覚をいう「受」、心の中に浮かぶ像をいう「想」、 欲求をいう「行」、意識をいう「識」の五つ。■意味四大元無主五蘊悉皆空人間の身体は地・水・火・風の四つの要素から成り立っているにすぎず、そこに永遠不変の「自分」という主人がいるわけではない。人間の心身を形づくる五蘊も、すべて実体のない「空」である。両國生靈苦今日斬秋風しかし、元と日本、両国の人々が争いによって苦しんでいる。今日、私は処刑されるが、それはあたかも「刀で秋風を斬るようなもの」なのだ。「刀で秋風を斬るようなもの」とは、いくら努力や抵抗をしても全く手応えがなく、何の効果もないことの例え と。[「今日斬秋風」――今日わが身が斬られようとも、それは形なき秋風を斬るようなもの。自らの死を目前にしながら、何文著は「両国の人々の苦しみ」へと思いを寄せ、死を超越しようとする覚悟をこの一句に込めたのであろう。]裏側の面を。⚫️右側面 徐賛譯語郎将徐賛 亦作詩朝廷宰相五更寒 寒甲將軍夜過關十六高僧申未起 算來名利不如閒■読み訳語郎将(やくごろうしょう)徐賛(じょさん)、亦(また)詩を作る朝廷(ちょうてい)の宰相(さいしょう)、五更(ごこう)に寒く、寒甲(かんこう)の将軍、夜(よる)関(かん)を過(す)ぐ。十六(じゅうろく)の高僧、申(さる)に未(いま)だ起きず、算来(さんらい)、名利(みょうり)は閒(かん)に如(し)かず。■意味この詩は、名誉や地位を求めて忙しく働く人と、それを求めず悠々と暮らす人を対比した詩と考えると、とても分かりやすくなる と。朝廷宰相五更寒朝廷の宰相は、まだ寒い夜明け前から起きて仕事をしなければならない。寒甲將軍夜過關鎧を身につけた将軍は、夜中にも関所を越えて任務に奔走する。十六高僧申未起それに対して高僧は、世俗の名誉や利益に追われることなく、申の刻になってもまだ起きないほど悠々としている。算來名利不如閒こうして考えてみれば、名誉や利益など、心静かにのんびり暮らすことには及ばない。「宰相も将軍も、地位や名誉を得れば、そのために昼夜を問わず働かなければならない。私も国使の通訳として、はるばる日本までやって来た。しかし今、死を目前にして思えば、名誉や利益を追い求めることより、何ものにも縛られず静かに生きることの方が、どれほど幸せだったことか。」と。何文著の「今日斬秋風」が死を超越しようとする覚悟を感じさせるのに対して、徐賛の「算來名利不如閒」は、人生の最後になって名利のむなしさを振り返る言葉として読むと、二人の辞世の違いがよく見えて来るのであった。第4面には昭和十四年六月大橋精憲建之 と。よって・第1面 杜世忠の辞世 「出門妻子贈寒衣……」・第2面 何文著の辞世 「四大元無主……今日斬秋風」・第3面 徐賛の詩 「朝廷宰相五更寒……算來名利不如閒」・第4面 建立銘 「昭和十四年九月 本精建之」5人の元使のうち、辞世・詩が伝わる3人だけを三面に配し、 最後の一面を建立銘にしているのであった。「本精」とは当時の住職・磯野本精のことであろう。つまり磯野本精住職は、まず元使650年に当たる1925年に元使塚を整備・建立し、その14年後の1939年に三人の辞世・詩を後世に伝えるため、この石碑を別に建立したのではないか、と考えて良いのでは と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.30
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そして、神輿が練り歩く国道467号に辿り着いたが、神輿の到着まで時間があったので近くにある「常立寺(じょうりゅうじ)」を久しぶりに訪ねたのであった。(今回のブログはこの日・7月12日とその後に再度訪ねた7月29日に撮った写真を基に 書き込んだものです。)常立寺(じょうりゅうじ)は、神奈川県藤沢市片瀬にある日蓮宗の寺。山号は龍口山。北条時宗の命により処刑された杜世忠ら元国使の塚がある事で知られる。また枝垂れ梅の名所としても知られ、梅がほころぶ初春には多くの観光客が訪れる。旧本山は身延山久遠寺。潮師法縁(うししほうえん)・日蓮宗のなかで身延山久遠寺第36世・六牙院日潮(りくがいんにっちょう)上人を縁祖(開祖)とする僧侶や寺院の血脈・学閥的つながり(法縁)のこと。 「今こそお題目信じて唱えて未来へつなごう」。「先のことが見えず、不安な気持ちになることは、誰にでもあります。特に今の世の中は、明るい話題よりも不安や心配になる出来事が多く、「この先はどうなるのだろう」と感じることも少なくありません。そんなときこそ、お題目を声に出して唱えてみませんか?お題目は、慌ただしく揺れ動く心を静かに整え、自分自身と向き合う大切な時間を与えてくれます。ほんの少し心を落ち着かせ、願いを込めて声に出す時間を持つだけで、心の向きは少しずつ変わっていきます。大切なのは、すぐに何かが変わることではありません。毎日の小さな積み重ねが、自分の心を育て、人との繋がりを深め、やがて未来を作っていきます。今この瞬間にできる一歩を大切にしながら、前に向かって歩んでいきましょう。その一歩が、きっと明日へ、そして未来へと繋がっていくのはずです! 」 と。入り口付近や山門前には、寺名や山号が刻まれたいわゆる一般的な「寺号標石(社号標)」は特に建てられていなかった。参道入口右側にあった「祭禮道陸神(さいれいどうろくじん)」碑。 正面から。「祭礼道陸神」とは、村の入り口や道路の辻に祀られる「道祖神(どうそじん)」を「道陸神」と呼び、その神様をまつる伝統的なお祭りや火祭り行事のことです。主に無病息災や悪霊・疫病を防ぐ願いを込めて行われます と。右側面には「文政四巳年正月十四日」と。文政4年は、西暦1821年。干支(えと)は辛巳(かのとみ)。 左側面「町内安全 子供〔以下、基礎に埋没〕」。 参道入り口にあった『伝元使塚』の説明板があった。「五輪塔は、密教がいう万物の構成要素の地水火風空をそれぞれ方、円、三角、半月、宝珠の形で重ねて表したもので、平安後期に出現し鎌倉時代以降に供養塔や墓標として全国的に流行しました。この五輪塔は、文明の役(一二七四)の翌年の建治元年に元より降伏勧告に使わされ、鎌倉幕府の執権北条時宗の命によって龍の口(片瀬川から腰越あたり)で斬首された杜世忠ら五人の元使の供養塔と伝えられています。その後、元は再度日本を襲撃(弘安の役、一二八一)しましたが、前回同様に台風で多くの船・兵を失い退散しました。 平成五年二月 藤沢市教育委員会」「山門を入って左側です」と。 石畳の「常立寺」参道。 参道入口には「南無妙法蓮華経」碑。下部台座に「常立寺」。 「南無妙法蓮華経」碑は題目石・題目塔ともいわれ、日蓮宗や法華宗の教えである「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ石の碑。全国の道ばたや辻、寺院などに置かれ、お墓ではなく供養や村の平穏を願って建てられているのだ。裏側「天下泰平・・・・」 「南無妙法蓮華経」碑の手前には石製椅子が3基。「休み石」と。 山門手前の右側には三体の地蔵様が。 「地蔵菩薩立像」。正徳四甲午年十月十ニ日と。正徳4年は1714年。したがって、約312年前、江戸時代中期に造立された石仏ということになります。妙法本具妙鏡 霊石の文字も。「本具妙鏡」とは、仏教や禅、あるいは東洋の心学において、人間の本来の心に備わっている、曇りのない清らかな智慧や真理を鏡に例えて表現した言葉です。特定の固有名詞や製品名ではなく、自己の本来の仏性や真如の働きを指す思想的な用語として用いられます と。霊石(れいせき)とは、信仰の対象となる神聖な石や、通常のパワーストーンとは異なり祈祷や霊力によって特別な力が宿されたとされる石 と。前方に「山門」が現れた。 参道右側の石碑群。「陸軍歩兵一等卒勲八等功七級和田源太郎墓」と。その左にも多くの石仏が。 子供たちを従えた「子安地蔵(子育地蔵)」であろうか。日蓮宗では法華経の守護神として尊崇され、安産・子育て・子供の守護神として信仰されている と。「常夜灯」。裏側には「昭和五十八年十月吉日建之 二十五世 日侃 代」 昭和58年(1983)10月の吉日に、常立寺第25世「日侃」が建立 と。寺院の碑・仏具・建造物などの銘文で、住職名の後に付けられる「代」は、その住職の在任中・住職を務めていた時代という意味である と。緑に包まれた常立寺の山門。重厚な木造の門をくぐると、石畳の参道の先に香炉、そして本堂が静かに姿を見せる。山門そのものが一枚の額縁となって、境内の風景を美しく切り取っていたのであった。近づいて。大型の石灯籠(いしどうろう)。写真中央の側面には、枠の中に三つ葉葵(葵紋)が刻まれていた。日蓮聖人五百遠忌に際して建立された記念碑題目塔(南無日蓮大菩薩)。正面は大きく、一天四海(いってんしかい)皆歸妙法(みな みょうほうに きす) と刻まれていた。「天下・世界のすべての人々が妙法(法華経)に帰依するように」との願いを表し、側面には「南無日蓮大菩薩」の題目が刻まれていた。「五百遠忌 報恩謝徳」 五百年の遠忌にあたり、受けた恩に報い、その徳に感謝する と。天明元辛丑稔十月十三日當山十七世日教もともと「年」という漢字も、穀物(稲)が実ることを表す言葉から生まれた。そのため、同じように穀物が豊かに実る様子から「稔」の漢字にも「とし・一年」の意味が備わっているのだと。天明元年(1781)10月13日という日付は、「五百遠忌」とぴったり対応。日蓮聖人の命日が弘安5年(1282)10月13日だから。山門に掛けられた「常立寺」の寺名入り提灯(右)。日蓮宗の宗紋「井桁に橘」が。「常立寺」の寺名入り提灯(左)。山門をくぐると、赤い頭巾と前掛けを身につけた六地蔵が静かに並んでいた。六地蔵は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の「六道」に現れ、そこに生きる人々を救うとされる六体の地蔵菩薩である。正面から。第1像:日光地蔵(地獄道)右手=錫杖左手=如意宝珠第2像:除蓋障地蔵(餓鬼道)右手=与願印系の印相左手=宝珠第3像:持地地蔵(畜生道)両手=幡第4像:宝印地蔵(阿修羅道)両手=合掌第5像:宝珠地蔵(人間道)両手=数珠第6像:檀陀地蔵(天道)右手=柄香炉の柄左手=香炉部分「奉納為徳大院慈明日遠居士位 徳弘院妙源日慈大姉位 追善供養昭和六十年春彼岸建之施主 秋元石材店当山第二十五世本迹院日侃代」 意味としては、「徳大院慈明日遠居士」と「徳弘院妙源日慈大姉」の追善供養のために奉納されたもの。昭和60年(1985)春彼岸に建立。施主は秋元石材店。当時の常立寺住職は第25世・本迹院日侃代。」下図に同じか。(ネットから)六地蔵とは六体の地蔵が六道のそれぞれの入り口を守るという信仰。「冷き風の ここに和みて 梅の寺 東人」。句碑の石は、高さ約80センチ、幅120センチほどの木曾石の自然石で、重量800キログラム。その石に長方形の小松石を貼り付けて、小松石に句の作者・戸恒東人(とつねはるひと)氏 が揮毫した句を彫られていた。句碑は常立寺山門に入って左側の梅の木の下に置かれていた。令和2年2月23日(天皇誕生日)に句碑除幕式を催行されたのだ と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.29
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そして「青銅の鳥居」に戻りながら「江島神社(えのしまじんじゃ) 車お祓い所」前を通過。「江島神社」。 江島神社の社紋は「向い波三つ鱗(むかいなみみつうろこ)」『太平記』によれば、建久三年(1190年)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れました。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには三枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にしたと伝えられています。写真はネットから。「社殿」。藤沢市江の島1丁目6-5(なぎさ駐車場前)。そして「青銅の鳥居・三の鳥居」前に。江の島の入り口にある青銅の鳥居は、江戸時代半ばの延亨4年(1747年)に創建された。当時は東海道から分かれて江の島に向かう「江の島道」に三つの鳥居があり、青銅の鳥居は「三の鳥居」だった と。ちなみに「一の鳥居」は遊行寺前、「二の鳥居」は洲鼻通りにあったそうですが、現存するのはこの「三の鳥居」だけ。現在の鳥居は文政4(1821)年に再建されたもので、2026年は再建205周年に当たります。柱には再建に協力するため寄進した人々の名前が刻まれているのであった。歌川広重「冨士三十六景 相模江之島入口」。江島神社の青銅の鳥居の奥に富士山が描かれていて、実際にはありえない構図ですが広重は「江の島と富士山」のセットの画面構成を優先して見る側を楽しませてくれているのだ。現在の鳥居は文政4年(1821)に再建され、柱には願主名が刻まれ、世話人・浅草新鳥越の八百屋善四郎、願主・新吉原の扇屋宇右衛門・大黒屋勘四郎・松葉屋半蔵などの名が。また寄進者名の中には、花魁(おいらん)「松葉屋代々山(よよやま)」の名前も刻まれているのだ と。「吉原」は、浅草にあった江戸唯一の幕府公認の遊廓。1617年(元和3年)に日本橋に創立され、1655年(明暦3年)に浅草へ移転。日本橋にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原は「新吉原」と呼ばれた。青銅鳥居建立の世話人の八百屋善四郎(栗山善四郎)は、料亭「八百善」の四代目 と。そして「青銅の鳥居・三の鳥居」手前右側にあった「江の島天然温泉」入口。「中華飯店 吉祥楼」の入口でもあった。 ライトアップされた中国提灯が出迎えてくれた。江島神社参道の賑わいに新たな彩りをプラスした場所。天井いっぱいに吊るされた色鮮やかな中国提灯。赤、黄、青、桃色と、それぞれ異なる花模様をまとった灯りが重なり合い、まるで色彩の花園が頭上に広がっているかのようであった。江の島の一角とは思えないほど、そこには異国情緒あふれる光景が広がっていた。天井を埋め尽くす中国提灯の柔らかな灯りと華麗な花模様が、中国の街角へ迷い込んだような気分にさせてくれるのであった。壁面には、牡丹をはじめとする大輪の花々が咲き誇る華麗な花鳥画。黄金色を基調とした画面に赤や白の花々が浮かび、頭上の色鮮やかな中国提灯とともに、豪華で異国情緒あふれる空間を演出していた。そしてその先の「ドラゴン広場」から「江の島大橋・江の島弁天橋」を振り返る。 海を背景に設けられた「「ENOSPA」のフォトスポット」。大きなハートを赤・ピンク・白のバラで埋め尽くした、とても華やかな演出。天気が良ければ富士山の姿が(ネットから)。夜になると(ネットから)。「クリハラリス(タイワンリス)」を発見。長くふさふさとした尾をなびかせ、石垣の上を素早く駆け抜けていった。全体に灰褐色、尾まで含めて約40cm?今度はこちらを振り返ってご挨拶!? つぶらな瞳でこちらを見つめるクリハラリス。江の島ではすっかりお馴染みの姿となっているが、実は「特定外来生物」なのであった。そして、帰り道に再び天上を見上げて。柔らかな光を内側に宿した中国提灯が、幾重にも連なって頭上を彩る。透ける布地に描かれた花々がほのかに浮かび上がり、温かな光と鮮やかな色彩が幻想的な空間をつくり出していた。大小さまざまな中国提灯が天井から降り注ぐように連なり、壁面の金色の装飾や中国風の格子戸と美しく調和していた。江の島散策の途中、思いがけず目にした華やかな異国空間であった。「江の島弁天橋」の江の島側の橋の付け根の小広場にあったのが「江の島まちづくり憲章」と「江の島名勝図」。「江の島まちづくり憲章1、前文江の島はの海と緑の美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ藤沢市の代表的なは地区であり、藤沢市民にとって印象深い場所の1つです。私達は、さらに豊かな江の島の魅力をつくりだしてゆくことを願い、すぐれた自然環境と歴史的遺産を生かして、江の島らしい、価値をもった活力と魅力あるまちづくり"島ぐるみ野外博物館"を目指します。また、旧島部も埋立地も1つの江の島としてまちづくりを進めるために、ここに「まちづくり憲章」を定めます。2、本文私達は、江の島に調和した魅力あるまちづくりを進めるために次のことに努めます。( 1 )緑の江の島を形成する自然環境を守り育てます。( 2 )江の島の海をきれいにし守り育てるよう努めます。( 3 )江の島の歴史的文化遺産を守り後世に伝えます。( 4 )海への眺望や、海辺・緑・歴史的文化遺産を生かした行楽地として活力あるまちづくりに 努めます。( 5 )江の島にふさわしいすぐれた街並と、健康でゆたかな生活の場を作り出すよう努めます。( 6 )お互いの友愛と連帯意識を高め、住民自治の精神でまちづくを進めます。3.附文これらの目標を達成するには、地域住民・市・事業者等が、お互いに協調を図ってそれぞれの役割を果たす必要があります。( 1 )地域住民の役割市民が良い環境をつくり、良い環境が市民を育てます。すぐれた環境をつくるには、市民1人1人の環境に対する自覚と関心が必要です。地域住民相互の協力と合意のもとに豊かな江の島のまちづくりを目指します。( 2 )市等の役割市は、市民・事業者に対する指導・助勢・啓発の他、環境整備事業を推進し、江の島の骨格・顔となるすぐれた景観づくり、及び土地利用誘導・緑地保全維持などに先導的な役割を果たせねばなりません。また、公共建築物等の建設・計画に当たっては、江の島にふさわしい施設づくりに努めるものとします。また、国・県も、その事業や計画の展開に当たっては、広域的かつ基幹的な必要性だけでなく、江の島の自然・歴史の特性を十分配慮して行うよう努めるものとします。( 3 )事業者等の役割事業者は地域社会の一員として、その事業活動を通じて、地域住民との信頼関係を深め、魅力ある江の島のまちづくりを目指して、江の島の環境形成に努めるものとします。 [制定: S. 63.4.7江の島一丁目ニ丁目住民一同]」 葛飾北斎「冨嶽三十六景相州江の嶌」。現在地はここ。「江の島名勝図」。 「八坂神社の幟(のぼり)」。参道には「奉納 八坂神社」と大書された白い幟が高々とはためいていた。夏の江の島を彩る八坂神社例祭――神輿の海上渡御を思わせる、祭りの季節ならではの光景である。上部の青い図柄は、八坂神社の祭礼で使われる神輿を意匠化した図柄のように見えます。江の島の八坂神社といえば、この日の神輿の海上渡御が大きな特色ですので、祭礼らしさを表したデザインなのであろう。そして「江の島弁天橋」を渡り、「龍口寺」を目指す。「中華飯店 吉祥楼」、「江の島アイランドスパ」その上に見えた「江の島シーキャンドル」を振り返って。 「江の島弁天橋」から「湘南海岸」を見る。・右側の目立つビル群→ 辻堂方面・中央から左奥にかけての低く密集した市街地・ビル群は、茅ヶ崎方面へ続く海岸市街地で あろう。そのさらに左奥が平塚方面になる。片瀬漁港赤・白灯台の先に辻堂駅前の29階の高層ビルが確認できた。「片瀬漁港」、「片瀬漁港西プロムナード」方向を見る。 「湘南平テレビ塔」方向の山々の姿。神奈川県平塚市万田790−6。ズームすると微かに富士山の姿が。そして「片瀬東浜海水浴場」の海の家を散策。 この日は、曇天、やや高波、学生の夏休み前でもあり、海の家も比較的空いていた。「片瀬東浜海水浴場」より江の島を振り返って。移動してズーム。東方向の「腰越港4号防波堤灯台」方向を見る。 高波が定期的に。海岸にも押し寄せて。そして「片瀬東浜海水浴場」を後にして「すばな通り」を歩き「江ノ島電鉄 江ノ島駅」を目指す。 「すばな通り」碑。この地は、境川の鼻先という意味で「すばな(洲鼻)」と呼ばれたという。洲とは川などの水辺にどろや砂が溜まって水面に現れ出た土地のこと。 「江の島弁財天道標」がここにも。正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」。「市指定重要文化財(建造物)昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定江の島弁財天道標この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。江の島弁財天道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を、江の島で考案したという杉山検校が寄進したと伝えられ、現在市内外に十数基が確認され、そのうち市内の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。すべて頂部のとがった角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と彫られています。この文言は、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。この道標は、平成十一年(一九九九)一月、ここより一〇〇メートル南の洲鼻通りの地中から、道路工事中に発見され、追加の指定を受けたものです。 平成二十六年(二〇一四)三月 藤沢市教育委員会」 そして右手に「江ノ電 江ノ島駅」。 車止めに付けられた「ピコリーノ」で、江ノ島駅のものは親しみを込めて「江のピコ」と呼ばれています。ピコリーノ(picolino)という名前は、「小さいもの」という意味のイタリア語「ピコラ(piccola)」にちなんで付けた造語。「おチビちゃん」といったニュアンスでしょうか。面白いのは、同じ4羽が二組、それぞれ全く違う衣装をまとっているところ。一組は、水色の毛糸と青白のチェック柄。こちらは湘南の海や夏の涼風を連想させる、爽やかな衣装。もう一組は、黄色い毛糸に小さな緑の葉をあしらった衣装。まるで江の島名物の柑橘、あるいは夏の果実を思わせる、明るく愛らしい装い。この「お着替え」にはすばらしい由来があります。1999年冬、江ノ島駅の売店で働いていた石川カツコさんが、寒そうな小鳥を見て手編みの服を着せたのが始まりとされています。その後、活動が受け継がれ、現在もボランティアによって季節に合わせた衣装への着せ替えが続けられているとのこと。そして「江ノ電江ノ島駅」を再び。三角屋根のどこか懐かしい駅舎の前では、季節ごとに衣装を替える小鳥たち「江のピコ」が、今日も訪れる人々を愛らしく出迎えていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.28
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「海上渡御」を終えて、海岸から仮設昇降台を昇って来た神輿と担ぎ手衆。 神輿の屋根の上にある金色の鳥は、「鳳凰(ほうおう)」、咥えている緑の葉は「榊」であっただろうか。 神輿の屋根を四方から飾る赤褐色の「蕨手綱(わらびてづな、飾り綱)」もどっぷりと潮をふくんで。 若者も混じっていたようだ。この方が神輿の「音頭取り(おんどとり)」の女性の方であったのだろうか!?海上渡御を前に、神輿の胴には白い晒が幾重にも巻かれていたのであった。海水や波しぶきから神輿の内部を守るための、海に入る神輿ならではの装いであろう。「弁財天と世界女性群像噴水池」を再び見る。1964年東京オリンピックのヨット競技開催と湘南港完成を記念して設置されたもの。作者は、藤沢にゆかりのある彫刻家 加藤顕清氏(かとう・けんせい、1894~1966)。 ズームして。手前は。中央の弁財天を囲む4体の女性像によって、東洋と西洋、古典と現代、そして世界の平和と親善が表現されているのだ と。西洋:ギリシアの古代女性像。 池の中央に「弁財天」 。「西洋現代像(優雅な女性裸像)」。太鼓屋台に吊るされた提灯には、赤く大きな「土」の文字。その由来は何なのであろうか?「土用」とも読めないことはないが??実は 土橋町(どばしまち)の山車なのであった。「橋」の文字の代わりに、朱の橋の欄干が描かれているようであった。 子供たちも、巴紋の「柄太鼓(えだいこ)」を叩いて参加。神輿は「江の島ヨットハーバー」への路を横断して南に進む。 担ぎ手衆の中には、外国人風の方の姿も。「唐人囃子」の山車の上の人形は、御祭神「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」をかたどったものである と。そして海鮮丼専門店「島童子」。店頭に並ぶメニュー。 TRYしたかったが・・・・。そして追いかけた神輿は「聖天島公園」の先の路地を右折して。 さらに島の細い路地に向かって進む。「聖天島公園」の北側にあった神社。もともとこの地は江の島の海に浮ぶ聖天島という島であった。かつては磯で、二つの岩があり、その形が歓喜天に似ていたところから、その別称である聖天にちなんで聖天島と呼ばれた。関東大震災により海底が隆起して地続きとなり、東京オリンピックで湘南港が造られた際に海が埋め立てられて現在の形となった。現在も岩肌の上部が残っており、当時の島の様子がうかがえる。その昔、八坂神社の江の島天王祭の際に禊が行われる神聖な場所でもあったため、公園内には社があり、鎌倉時代の僧・良真上人の像が安置されているのであった。八坂神社の神輿の担ぎ手は、この島で禊ぎをして、新しい下帯をして祭礼に向かったと伝えられていると。 そして午后からはこの御神輿は江の島弁天橋を渡り腰越に向かうのです。片瀬龍口寺前で、お迎えの小動神社のお神輿と合流し、二基並んで小動神社まで渡御。時折通過する江ノ電の車両とスレスレになるが、これもまたこのお祭りの見所。御祭神の古里ともいえる小動神社にお着きになって御祭儀を奉仕した後、お神輿は再び担がれて江の島に戻るのです。2016年の「小動神社までの渡御」👈️リンクにて照会いたします。江の島における八坂神社のお祭りは、夏の疫病や災いを祓いのける意義と、大海士の伝承が加わった江の島独自の夏祭り「天王祭」なのです聖天神社(聖天上人像社)良真上人(聖天上人)の像を安置する社。良真上人は源実朝の時代に江の島で活動した僧として伝えられている と。聖天上人像。「聖天島と聖天上人僧良真は元久元年二月宋に渡り慶仁禅師に参じて 受法聞かずして日本に霊地江の島ありと知る禅師よりそこに社壇を開くべしと教えられ帰朝する。後に江の島東岸の巌窟に籠り一千余白の間修業を重ねた良真が建仁二年(1202)七月窟内に紫雲香気満ちて天女が壇上に現れ給うを見る。以来此処を聖天島と謂う更に時の将軍源実朝の帰依僧となる。良真は実朝の懇志を受け「下の宮」現在の江島神社辺津宮を創建す。 建永元年(1206)江の島縁起に依る 聖天島 島の東岸にあり天女影向の古跡と言う。窟内に良真の像を安す(天保一二(1804)? 新編相模風土記)。爾来慈悲上人良真に依りここ江の島東岸一帯の地霊は守護されるとして島人は聖天上人と仰ぎ崇教を集めて現在に至ります。」その先にも二社。左:龍宮神(龍宮大神)の祠 海との結びつきの強い江の島らしい龍神を祀る小祠右:道祖神の祠 道や地域を守り、災厄の侵入を防ぐ神として信仰されてきた道祖神。担ぎ手たちは、神輿を台に載せて午后に向けての暫しの休憩に入っていた。そして、神輿の屋根を四方から飾る赤褐色の「蕨手綱(わらびてづな、飾り綱)」を一時的に外す作業が開始されていた。休憩する担ぎ手の老若男々。匠の技の如くに「蕨手綱(わらびてづな、飾り綱)」を外す。「鳳凰」に触れないように慎重に。神輿は歴史ある「台」に載せられていた。最下部には太い丸太を輪切りにしたような台座が四方の角に。 「台座は「四つの臼+戸板」の伝統的な設え」であるとネットから。 江の島天王祭について詳しく記録した資料に、海上渡御を終えた神輿について、次のような記述があるとのこと。「故事にならって神輿を四つの臼の上に敷いた戸板の上に置き」とある と。自分の撮った写真を改めて見ると、神輿の下にある太い円筒形の木材は、単なる丸太ではなく、「臼(うす)」なのです。その四つの臼の上に戸板を渡し、その上に神輿を安置するという形。つまり、臼 × 4 → その上に戸板 → その上に神輿という構成 なのであった。しかし・「なぜ四つの臼なのか」・「いつからこの方法なのか」・「最初に使われた臼は誰の家のものだったのか」は???つまり「海上渡御を終えた神輿は、四つの木臼の上に戸板を渡した、何とも素朴な台の上へ。「故事にならって」行われる昔ながらの安置方法とのこと。豪華な神輿と使い込まれた臼との対照が、江の島天王祭の長い歴史を感じさせるのであった。」 そしてこれからの小動神社へ向けて、「蕨手綱(わらびてづな、飾り綱)」を締め直す作業が開始されていた。そしてこちらは「子供神輿」か? こちらにも。「回覧八坂神社祭典(江の島天王祭)の御案内氏子の皆様方におかれましては、益々御健勝の事と拝察申し上げます。常日頃は氏神様の事に関しましては、御神徳の発揚に種々御尽力を賜わり、厚く感謝申し上げます。さて、江の島天王祭を左記の通り行います。氏子の皆様には、神輿奉昇の御助勢を始め、多くの方にご参加下さいまして伝統ある祭礼が、益々盛大に行われますよう御協力方宜しくお願い申し上げます。記一、祭典期間 七月七日(火)より七月十二日(日)まで 八坂神社の御神輿は、九日夜より十四日朝まで大坂下仮宮に奉安致します。御近所 お誘い合わせの上、是非お参り下さい。一、仮宮出御祭 七月七日(火)午後五時より 御神輿の清掃・装飾等諸準備がありますので、御助勢下さる方は、午後二時に社務所に 御参集下さい。 祭典終了後、大坂下仮宮への出御奉昇に御参加下さい。一、八坂神社への神幸祭 七月十二日(日)午前九時三十分より 午前七時半に神輿を仮宮より辺津宮前庭までお上げしますので、大坂下へ御参集の上 御助勢下さい。 午前十一時より正午まで海中渡御、午後一時前に東浦より小動神社まで神幸します。 午後六時に江の島到着。続いて八坂神社前庭まで昇ぎ上げますので御協力下さいますよう 宜しくお願い申し上げます。令和八年 六月 吉日 江 島 神 社 宮 司 相原圀彦 八坂神社祭典委員会 委員長 堀江茂雄氏子の皆様へ左側回覧三町内各位令和8年6月吉日江の島八坂神社祭典委員会祭典委員長 堀江茂雄令和8年度 江の島八坂神社例大祭実施について初夏の候、島民の皆様におかれましては益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。皆様には、江の島八坂神社祭典委員会の運営ならびに江の島八坂神社例大祭の実施に際し、御例年多大なるご理解とご支援・ご協力を頂き、厚く御礼申し上げます。さて、本年度の八坂神社例大祭につきましては、7月11日(土)、12日(日)の両日に行うことに決まり、本年の祭典委員会は西町町内会が務めさせていただきます。(日程につきましては、別紙をご参照ください)実施にあたりましては、このような時節柄ではございますが、例年同様多くの皆様方のご支援ご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。※別紙「令和8年江の島八坂神社例大祭 実施要項」右側令和8年江の島八坂神社例大祭実施要項 江の島八坂神社例大祭祭典委員会お旅 7月7日(火)午後 2:00 八坂神社 集合(神輿飾り付け)・子供神輿に御霊午後 4:30 八坂神社 集合午後 5:00 仮宮出御祭 神輿を仮宮に降ろす午後 6:00 子供神輿 仮宮前より出発宵宮 7月11日(土)午後 2:00 山行き 東町漁民会館前 出発(通り囃子・囃子方連合会)午後 3:00 稚児が淵 到着午後 3:30 稚児が淵 出発(休憩・遊覧亭)午後 4:30 東町漁業会館前 到着午後 5:10 子供神輿 仮宮前より出発午後 6:30 東町漁民会館前 出発(通り囃子から順次出発) ※全囃子方が集合しないと出発しない。各責任者は確認午後 7:15 貝作前 出発(通り囃子から順次出発)午後 7:45 仮宮 到着午後 8:30 仮宮 出発(通り囃子から順次出発)午後11:00 東町漁民会館前 全囃子 到着・終了本祭 7月12日(日)午前 7:30 神輿を仮宮より辺津宮までお上げする。 ※祭典委員・囃子方のご参集をお願いします。午前 8:30 腰越海迎者到着(祭典委員・囃子方・消防団にてお迎え)午前 8:40 東町漁民会館前 出発(ジャンギリ囃子)午前 9:30 祭典 辺津宮前にて神事終了後(ジャンギリ奉納)午前10:00 発輿 腰越・(調査中)・宮人囃子午前11:00 海上渡御(通り囃子・腰越囃子海上にて囃子奉納) (唐人囃子北緑地にて囃子奉納)午後12:30 東浦祭典①腰越行き(通り囃子・新通り囃子)午後12:45 集合(時間厳守)午後 1:00 発輿午後 2:00 龍口寺前 到着(15分位休憩)午後 3:00 小動神社 到着 式典(休憩・踊囃子)午後 4:10 発輿午後 5:00 龍口寺前 通過午後 6:00 江の島 到着②島内〔松囃子・神輿子・龍神囃子 龍神囃子・唐人囃子〕午後 3:00 東町漁業会館前 出発午後 4:00 仮宮 到着午後 5:00 仮宮 出発午後 5:45 仙水前 到着※江の島に神輿到着後島民の氏子のみで神輿を辺津宮までお上げする。 併せて子供神輿も辺津宮までお上げする。(通り囃子:仮宮まで→祭典委員・神社まで)※御霊奉納後、全囃子出発午後 8:30 東町漁民会館前に到着終了注 各囃子方は、各時間の10分前迄に指定場所に必ず集合願います。 令和8年度( 2026 )江の島八坂神社祭典委員会【西町町内会】 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.27
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この日の「八坂神社例大祭 江の島天王祭」ポスター。 この日7月12日・神幸祭のタイムスケジュールをネットから。「メインイベント」の「海上渡御」は11:00~と。この時の時間は10:24。 こちらが、以前に撮った江の島島内の江島神社の境内にある「八坂神社」の写真。江島神社は田寸津比賣命を祀る「辺津宮」、 市寸島比賣命を祀る「中津宮」、多紀理比賣命を祀る「奥津宮」の3社からなる神社ですが、境内には「境内社」(末社)と呼ばれる小さな神社が、いくつか存在しています。江島神社に付属する神社と言えます。八坂神社もその一つ。八臂弁財天(はっぴべんざいてん)と裸弁財天・妙音弁財天(市指定重要文化財)が祀られている「奉安殿」の左隣にあります。御祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。八岐大蛇(やまたのおろち)退治の神話で有名。 八坂神社に祀られている建速須佐之男命のご神像は、対岸にある(鎌倉市)腰越の小動(こゆるぎ)岬に鎮座するにある小動神社に祀られていました。ところが江戸時代にこのご神像が江の島の岩屋あたりに流れ着き、それを江の島の漁師さんが引き上げました。そしてこのご神像は江の島の八坂神社でお祀りすることになったのだ と。(以前の写真)。7月7日は夕方5時から、八坂神社のお御霊をお神輿にお移しする神事(仮宮出御祭)が行われたのだ。階段の下に仮宮を作ってお神輿を納め、この日・12日の神幸祭を待ちます。神幸祭前日の11日には「宵宮祭」と呼ばれる前夜祭が、深夜11時ごろまで行われたのだ。(以前の写真)。江の島天王祭当日のこの日・12日は、お神輿を再び辺津宮に上げて、午前9時半から出発の神事(発輿祭)を執り行う。その後、お神輿はお囃子に先導され、仲見世通りを練り歩くのだ。そして、青銅の鳥居の手前に到着すると既に神輿を先導するお囃子方の皆さんは仲見世通りを練り歩き既に島の入り口にある食事処と売店「貝作」の前に集まっていた。太鼓連も到着。江の島・天王祭で奏でられる「江の島囃子」には、かつて明治時代まで実際に「黒い獅子」の頭(かしら)や異国風の衣装を用いて練り歩く「唐人囃子」が存在していた。この伝統的な祭礼行列は、現在でも神奈川県の無形民俗文化財に指定されているのだ。山車の上の黒い人形は、御祭神「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」をかたどったものであるようだ。(ネットから)。対岸の「小動神社」の提灯も。 次々に、仲見世通りを練り歩き、この場所に到着。太鼓連の山車。赤鬼を先導する白い衣装の方々は、祭礼行列の道案内や露払いを務める「天狗」や「花番(はなばん)」「下番(したばん)」と呼ばれる役柄の方々。「花番」や「下番」は、祭りの行列において神輿や赤鬼などの進行方向を清め、進行をスムーズにする重要な先導役。彼らは古式ゆかしい白装束(白衣・白袴や小忌衣など)を身にまとい、金棒や高張り提灯などを手に持って行列の先頭を進む。神幸祭(しんこうさい)に登場するこの「赤鬼」は、神輿(みこし)の行列を先導し、厄払いや五穀豊穣を担う重要な役割を果たすのだ。ズームして。廻り込んで。そして仲見世通りを練り歩く神輿の姿が確認できた。徐々に「青銅の鳥居」に近づいて来た。江の島の入口に建つ「青銅の鳥居」は、かつて藤沢宿から江の島へと続く「江の島道」にあった三つの鳥居のうち、三の鳥居にあたる。一の鳥居は現在の遊行寺橋(大鋸橋)付近、二の鳥居は洲鼻通りにあったが、現在残っているのはこの三の鳥居のみ。江戸時代の1821年(文政4年)に再建されたもので、藤沢市の指定文化財にもなっている。青銅の鳥居の扁額には「江嶋大明神」と。これは、文永の役(蒙古襲来)での勝利を記念して後宇多天皇から贈られた勅額の写しで、弁財天のお使いである「蛇」をかたどった特徴的な文字で刻まれているのだ。本物の扁額は境内の奉安殿に保管されているとのこと。さらに神輿がじわじわと近づいて。巫女さんの姿も。そして八坂神社の神輿が「青銅の鳥居」下を練り歩く。 そして私に近づいて。「海上渡御」の写真撮影のために、慌てて「弁財天と世界女性群像噴水池」の先に向かって急ぎ足で向かう。 既に「囃子方」の皆さんは到着していて、ここから「海上渡御」を見守るようであった。「海上渡御」の行われる片瀬東浜海岸には多くのサーファーの姿が。時間は10:40前。トンボロ現象👈️リンク の発生するこの場所には、この日は波が押し寄せていた。大きな波を待つサーファー (Surfer)の姿を。イワガニ(岩蟹)も「海上渡御」を高みの見物を準備中か?そして11時を過ぎ、「海上渡御」が始まったのあった。神輿の先導役の女性をズームして。「海上渡御」の神輿の前に立ち、拡声器を抱えてやハンドマイクを用いて「オイサ!」「ドッコイ!」といった威勢の良い掛け声でテンポを作り、全体の進行や方向転換の合図を出していたのであった。江の島周辺は「どっこい」という独特の掛け声が特徴で、マイクを持つ進行役のリズムに合わせて担ぎ手が一斉に呼吸を合わせるのが見どころなのであった。総勢6~70人以上?の老若男子が神輿の担ぎ手として褌姿で。勢いよく沖合に向かって。膝の深さまで進む。「ヨイショ!ヨイショ!」の威勢よい掛け声とともに、男衆が波をかき分け海へ。黄金の神輿を肩に、力を合わせて進む姿は、まさに江の島の夏を彩る勇壮な光景。白波寄せる湘南の海へ、神輿を奉じた男衆が一歩、また一歩。海に抱かれ、潮に清められながら進む神輿。古くから受け継がれてきた祈りの姿がここにある。潮の香り、響く掛け声、寄せては返す白い波。その真ん中を黄金の神輿がゆく。海とともに生きてきた江の島の人々の祈りと誇りが、夏の海に躍動するのであった。押し寄せる波をものともせず、肩を寄せ、声を合わせて海へ挑む男衆。波しぶきの中、黄金の神輿が大きく揺れる。その迫力に、浜辺の観衆の視線が集まる。黄金の鳳凰をいただく神輿の向こうでは、いつものように波を待つサーファーたち。伝統の祭りと湘南の日常が同じ海の中で交わる、江の島ならではの光景。荒波を背に、黄金の鳳凰をいただく神輿が堂々と海をゆく。波しぶきの中でひときわ輝くその姿は、まさに海上渡御の華である。老いも若きも肩を並べ、一本の担ぎ棒に力を合わせる。波に足を取られながらも神輿を守り、声を掛け合って進む姿に、祭りを受け継ぐ人々の強い絆を見る。何回も波打ち際まで引き返し、再び沖に向かう「海上渡御」。荒波を越え、神輿は再び海へ。幾人もの肩に支えられた黄金の神輿が波間に輝く。海への畏敬と神への祈りを今に伝える、江の島天王祭・神幸祭・海上渡御の勇壮なる一幕。 大勢の担ぎ手と神輿が波の中で一体となる迫力が伝わって来るのであった。押し寄せる波に身を委ね、肩を寄せ、力を合わせる男衆。その中心には黄金の神輿――海と人と神が一体となる、勇壮な海上渡御が眼前に。しかし、以前に比べて「海上渡御」の沖への進み方が少ないと感じたのであったが。この写真は私の撮った以前の写真。この時は胸の位置まで進んでいたのだが。・この日の波の高さからの安全上・担ぎ手不足・老齢化 いろいろ理由があるのであろう。そして以前は神官が舟に乗り沖で祈りを捧げていたが、この日は舟の姿もなく。 そして無事に「海上渡御」👈️リンクが完了し、陸へと引き返したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.26
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この日は7月12日(日)、江の島・江島神社の末社八坂神社の祭礼・「江の島天王祭・神幸祭」が行われているので見に行く。対岸の腰越の小動神社と同時開催される祭礼。小動神社の御神体だった須佐之男命の木像が津波で江の島に流され、八坂神社の祭神として祀られたという故事にもとづいて行われる行合祭(ゆきあいまつり)。例祭のクライマックスは、毎年7月の第2日曜日・この日に行われる「神幸祭」。八坂神社の神輿が海上渡御を行い、一方、対岸の腰越海岸では、小動神社の神輿も海へ入り、海上渡御を実施。その後、龍口寺門前で二基の神輿が出会い、連れ立って小動神社へ向かう姿は、この祭礼ならではの幻想的な光景なのです江の島天王祭は、「かながわの祭50選」の一つ。2020年(令和2年)4月、藤沢市の重要無形民俗文化財に指定された小田急線で片瀬江ノ島駅に到着。片瀬江ノ島駅には大型のクラゲの水槽が設置されている。半透明のミズクラゲでゆったり浮遊する様子は実に幻想的。 傘を上下から見ると4つの生殖腺が透けていて、ヨツメクラゲの異名を持っています。昭和4年(1929)4月、小田急江ノ島線(相模大野~片瀬江ノ島駅間)開通と同時に開設された駅。平成11年(1999)、「関東の駅百選」に認定された片瀬江ノ島駅は、竜宮城を思わせる奇抜な駅舎で、当初は仮設のつもりで建設されたが現在も江の島観光のシンボルとして親しまれている。片瀬海岸が目の前にあり、駅に降り立てば潮風の香りが心地よく、特に夏季には多くの海水浴客で賑わうのだ。「江の島」に向かって「弁天橋」を渡る。「境川」に架かる国道134号の「片瀬橋」越しに「江の島」を見る。 「境川」の上流方向。「弁天橋」の中央にあったパブリックアート「雲の形」。「小田急線片瀬江ノ島駅前の弁天橋の中央で「雲の形」の彫像が出迎えてくれる。のんびりと砂浜に寝そべり上空の雲を見つめている女性のユーモラスなフォルムに引き付けられます。江の島を訪れる人は、この弁天橋で潮の香りと共に海辺の解放感を感ずることができます。身も心もぽっかり浮かぶ雲になって!」 と。作者は山本 正道氏。 近づいて。国道134号の下を通過する「江の島横断地下道」に進む。江の島周辺の名所案内。「江の島弁天橋」に向かって進む。左右にあったのが「江島神社御鎮座記念龍燈籠」。 江の島が湧出した552年から数えて1450年を記念し、平成13年(2001年)に建立された石燈籠。力強い龍が巻き付いた特徴的な姿をしており、島内観光のシンボルの一つとなっている。左側の龍灯籠。右側の龍灯籠。そして「江の島弁天橋」入口にあったのが「名勝及史蹟江ノ島」碑。 近づいて。「説明江の島は七里ヶ濱腰越及び鵠沼一帯の海岸に近く聳立し相模海岸における景勝の中樞として著名である。第三紀の凝灰岩及び凝灰質砂岩から成り洞窟嘴の竒を以て知られ島上からの冨士の眺望は特に絶景である島の中央に祀られている辨財天は本邦三辨天の一として古来ひろく信仰され今、江島神社となっている。昭和九年十二月史跡名勝天然記念物保存法によって江の島全島及び其の周圍百メートル以内の海面が名勝及び史蹟として指定された。注意一、岩石を破壞及び採取しない事一、濫(みだり)に樹木を伐採しないこと一、濫に眺望を妨げる施設を営まないこと一、其の他現狀を破壊し又は變更しないこと昭和ニ十三年五月一日 文部省」 左手には日時計が。 「円弧型日時計」といい、日時計作家 小原輝子の作。長洲一二元神奈川県知事の揮毫になる「潮音」という文字が黒御影石に彫られていた。平成元年4月、藤沢のライオンズクラブが結成15年を記念して建てたものであるとのこと。「円弧型・日時計”時”は形がなく見えません。しかし、私達には確かに時が過ぎていくのが感じられます。人々は大昔、太陽の動きをつかまえて、とりとめもなく流れる”時”に区切りをつけました。それが日時計と時刻です。三角形の石の指針(ノモン)の影を円弧形の石の時刻目盛りで読んでください。影は止まることなく刻々と動いています。それが宇宙における地球の雄大な回転なのです。午前は西側の影、午後には東側の影で真太陽時(ここの太陽による時刻)がわかります。日本標準時と真太陽時はちがいます。標準時が兵庫県明石市・東経135度で決めてあるからです。いつも真太陽時が進んでいてその差は毎日ちがっています。左の時差表グラフを見て計算すると標準時がわかります。湘南海岸にたつ日時計に明るい風が吹き抜けていきます。太陽と地球と私達、すべてを大切にしたいと思います。」その左に時差表 この日時計が影で示す時刻は日本標準時より進んでいます。時刻表の本日の分秒数を引いてください。この日は7月12日で約12分ほど引く必要があるのであった。廻り込んで。そして「江の島弁天橋」入口。 「江の島弁天橋」。「沿革この橋は明治24年 満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として、作られ、江の島棧橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭へば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚を鉄筋コンクリートパイル、上部は木橋として作り直され、その後、江の島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担ひ、この近代的な橋梁に生れ変わったものであります。 昭和33年7月 神奈川県」 「江の島」に向かって「江の島弁天橋」を進む。 左側奥に三浦半島が見えた。片瀬漁港の赤灯台、白灯台の先に富士山の姿は見えなかった。天気が良ければ(写真はネットから)。「江の島」の「江の島シーキャンドル」を見る。 この日は風もあり、波もあった。そして江の島弁財天信仰の象徴である「青銅の鳥居」が見えて来た。その先に「瑞心門」の姿も。 ・・・つづく・・・・
2026.08.25
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そしてこの日の「日本大学生物資源科学部・骨の博物館」見学の最後に訪ねたのが「常設展示コーナー」の「昆虫・稲・岩石/鉱石」展示室。 様々な蝶が訪花する写真が並んでいた。「チョウーその多様性と変異の世界ー」と。移動して。ズームして移動して。「トリバネアゲハの仲間」。「島ごとに変化するオオルリアゲハ」。オオルリアゲハ(学名: Papilio ulysses)は、インドネシア東部、ニューギニア、ソロモン諸島、オーストラリア北部に広く分布する大型の蝶です。生息する島や地域ごとに独自の進化を遂げており、翅の大きさや青い模様の広がりが異なる15種類以上の「亜種」に分けられるのが大きな特徴です。 「パプアニューギニア」 中段右側にピンクが美しい「ミイロタイマイ」。ズームして。ネットから。「藤沢市の昆虫」カブトムシをはじめ藤沢市の身近な昆虫を見ることができるのであった。 左:ワモンチョウ科(Amathusiidae)東洋区、オセアニア区にのみ産する中型から大型のチョウで、夜明けと夕ぐれに活動し、森林内の暗がりを好む。中南米のモルフォチョウ類と近縁とされているが、ジャノメチョウ類との共通点も多い。全世界に約100種 日本には分布せず中央:モルフォチョウ科(Morphidae)世界で最も美しいチョウの一群で、強い金属光沢を持った青いはねは、息をのむほどにきれいである。中南米の熱帯地方に産し、ワモンチョウ類に近いとされているが、タテハチョウ類とも共通する形質をもっており、系統的には古い型のチョウである。中南米に約80種 日本には分布せず右:タテハチョウ科(Nymphalidae)タテハチョウ科は、多くの異なった形質のチョウから成り立っているため、研究者によっては科に含めるものにいくらかの違いがある。しかし、いずれも前足が萎縮、変形し、感覚器官となっていることは共通している。全世界に分布している。全世界に約3200種 日本に54種」 中央の「モルフォチョウ科」。 「モルフォチョウ科」の中央の蝶。 以下、ネットから。南米の宝石と言われるこのモルフォチョウは、その青く輝く美しい翅で知られています。この美しい青い発色はどのように作られるのでしょうか?その前に、私達が特定の色を認識する仕組みについで簡単に触れておきましょう。物体には、ある特定の波長の光を反射し、また吸収する性質があります。例えば、リンゴを見て「赤い」と感じるのは、リンゴが赤色の波長だけを反射して、他の波長を吸収してしまうからです。私達は、リンゴから反射された赤い波長の光を見ていているだけであり、決してリンゴの表面が赤く塗られている訳ではないのです。モルフォチョウの青色発色の仕組みは、実はリンゴの発色の例とは全く異なっています。その鍵は、鱗粉(りんぷん:チョウの翅に触ると付着する粉)の構造にありました。鱗粉表面には、規則正しく微細なひだのような凹凸を形成しており、ちょうどタンパク質と空気が幾層にも重なった「積層構造」ができます。光が鱗粉に当たると、一つ一つの層で反射した光は互いに光を強め合ったり、打ち消し合ったりします。ところがモルフォチョウの場合は、凹凸の間隔が青色光の波長のちょうど半分であるために、反射光が強め合って、上手く青色のみが反射されるようになっているのです。このように、光の干渉によって発色する仕組みを「構造色」と呼びます。すなわち、光を受ける表面が複雑な構造になっていて、受けた光を干渉や散乱させ “青”の波長の光のみを積極的に反射させ、青に着色されているように見せているというもの。見る角度や光の強度によって発色が変化する構造色のメカニズムは、車や建造物の塗料や繊維、化粧品などのアパレル分野や、光学ディスプレイに役立てることができます。構造色による発色は、色素や顔料による発色と異なり、紫外線などにより脱色することがないので、製品を長持ちさせることができます。また、染料のように染色時に大量の水を使うこともなく、化学塗料のように化学物質を使わずに済むので、環境に優しい発色方法なのです。モルフォチョウの羽の構造。(ネットから)三原色のなかで「青」だけを強く反射する形状のため、人間には青く見えるのだ と。青の波長と襞ふたつ分の幅が合い、干渉を起こすことで青色を強く反射するのだ と。・青の波長:青色の光の波長はおよそ 430〜490ナノメートル(nm) で、 紫色の次に波長が短い光。 1mm=1,000,000nm・干渉:複数の波が重なり合い、山と山が合わさると強め合い(明るくなる)、山と谷が 合わさると打ち消し合う(暗くなる)現象。モルフォチョウの鱗粉の断面。(ネットから)2018年4月5日発売のレクサス。(ネットから)この「ストラクチュラルブルー」は、南米に生息するこのモルフォチュウの羽から着想を得た「構造発色」という原理を応用したレクサス独自のボディカラー。モルフォチョウの羽は無色だが、光を受けると特定の波長だけが反射・強調される構造になっているため、人間の目には青く輝いて見えるのは上述通り。積層構造による構造色のメカニズムを応用すれば、色素や染料を使わずに様々な色を作ることができるようになる可能性があります とネットから。青く輝く翅を持つモルフォチョウですが、翅の表に比べて、裏側は目立たない地味な色をしています。では、なぜ、わざわざ表は青く輝くのでしょうか。一つの説として、万が一、鳥などに襲われたとき、急に輝く翅の表を見せることで、鳥などの目を眩ませているのではないかというものがあります。皆さんも、急に眩しい光を見ると、一瞬、目が眩んだ経験があるかと思います。このモルフォチョウの「目眩し」は、翅裏が地味だからこそ効果を発揮する技といえるでしょう とネットから。左:アゲハチョウ科(Papilionidae)美しい大型のチョウが多く、ニューギニア島のアレクサンドラトリバネアゲハは世界最大のチョウといわれている。熱帯地方に最も多くの種が集中しているが、中央アジアを中心とするユーラシア、北アメリカなどにも寒冷地に適応したウスバシロチョウ属などが見られる。幼虫は前胸部に臭角をもち、本科の一般的な特徴となっている。全世界に約600種 日本に19種中央:シロチョウ科(Pieridae)白、黄色、オレンジ色を主調とするあざやかな色彩の中型のチョウ。熱帯に産するものはしばしば赤、むらさき、青灰色など、色とりどりな化粧をしたものがいて、中には真っ黒のシロチョウまでいる。全世界に約1000種 日本に22種右:マダラチョウ科(Danaidae)この科のチョウは幼虫時代に食べた有毒植物の毒成分によって、鳥などの捕食動物から敬遠されるため、ほかの科のチョウの擬態のモデルになっている。そのためかゆっくりとんでいるものが多い。2~3の例外を除いて、ほとんどが熱帯地方に産する。全世界に約300種 日本に5種ほど。中央のシロチョウ科をズーム。左:シジミタテハ科(Nemeobiidae)形態、生態とも非常に変化に富む小型のチョウ。シジミチョウ類とタテハチョウ類の中間的なものが多いが、よりシジミチョウ的で幼虫がアリと共生するものも少なくない。熱帯を中心に分布しているが、その9割以上が中南米に産する。全世界に約1100種 日本には分布せず中央:シジミチョウ科(Lycaenidae)最も種類数の多いグループで、世界中に分布している。いずれも小型のものばかりであるが、熱帯には開長50~60mmにおよぶ大型のものもいる。幼虫の食性が変化に富むのも本科の特徴で、ワラビを食べたり、肉食性のものもある。アリと共生するものもかなり多い。全世界に約5500種 日本に70種右:セセリチョウ科(Hesperiidae)触角の先端が細く体も太いため、一見ガににているものも多い。ゴーストラテリアのラッフルズセセリは、後ろばねの基部にガに特有の連結器官をもつ。また、はねを屋根形に伏せてとまるものも多いが、系統的にはけっしてガに近いものではない。全世界に約3000種 日本に35種中央:シジミチョウ科をズームして。フクロウの目を持つフクロウチョウの仲間左:Caligo idomeneusイドメネウスフクロウチョウペルー中央:Caligo teucerテウカーフクロウチョウペルー写真:右上:キンメフクロウ●フクロウチョウの仲間はねのうらをさかさにして見ると、フクロウの顔のように見えます。フクロウチョウの名前は、このことから付けられました。これはチョウの天敵である小鳥などに対して、おどしの効果があるといわれています。中南米だけにすむこのチョウの仲間は、約80種が知られています。大きさはさまざまで、もっとも大きなものは開張15cmにもなります。「チョウ ーその多様性と変異の世界ー」 「空とぶ宝石 モルフォチョウの仲間」。 「最速最美のチョウ ミイロタテハの仲間」。「空とぶ宝石 モルフォチョウの仲間2」。 「ヘレナモルフォ」ペルーをズームして。 これも。「レテノールモルフォ」ブラジル。 ●モルフォチョウの仲間モルフォチョウの仲間は、世界で最も美しいチョウの一群で、特に、レテノールモルフォやオーロラモルフォなどの強い金属光沢を持った青い翅は、息を飲むほどにきれいです。この仲間は、メキシコから南米中部まで広い範囲に分布していて、熱帯のジャングルにすむものや、さわやかな高原にすむものもいます。同じ種類でも地理的な変異に富み、…………。「木材食害虫の第一人者 森八郎コレクション森八郎 氏森八郎氏(1911~1988)は長らく慶応義塾大学経済学部教授を務められ、文化財、木造家屋の虫害の専門家として主導的地位にあり、1979年「家屋害虫研究会」(1981年、「日本家屋害虫学会」と改称)を創設、シロアリやヒラタキクイムシといった造家屋・木質文化財の虫害とその防除に関して様々な研究・啓蒙活動に従事されました。生前、研究などで関わった様々な木材食害虫の被害実態を示す被害材標本を、御自宅・研究室に蓄積・保存され、研究・啓蒙活動に役立てておられましたが、2007年に当時日本家屋害虫学会会長であった当学部岩田隆太郎教授を通して、御遺族から当博物館に寄贈されました。コレクションは、国内の木造家屋、木質家具などを食害するシロアリ類、ヒラタキクイムシ類などの加害実態を示す各種木材標本およびシロアリの巣が中心で、害虫駆除業に関わる人々の研修に際する教材として極めて貴重な教材・資料です。地球温暖化や物流の活発化に伴い、国外から様々な木材食害虫が侵入し、家屋害虫駆除業の需要が高まる中、被害現場の臨場感をそのまま伝え、木材食害虫の基本知識習得に役立つ学術・教育資料である本コレクションは非常に貴重なものです。」 最後に「稲作の起源・歴史」についてのパネル展示を追う。 「No.1稲作は、いつ、どのようにして、できたのでしょうか?一年生の野生イネが湿地に種子で播かれて栽培化されるのでしょうか?亜熱帯や温暖な地域の湿地では、雑草は恐るべき勢いで繁茂します。原始時代の農民が大変な手間をかけて除草することができたでしょうか? 現在でも、イネの直播栽培は非常に難しいのです。また、現在の栽培イネでは、収穫後に刈り株から「ひこばえ」が出て、気候がよければそれは次の年も生育する多年生的な特性があります。これは、どのように説明すればよいのでしょうか。〔写真〕野生イネの群落畑に水がたまって棚田ができるのでしょうか?畑に「籾」棒でイネの種子を播いた後、雨が降って水がたまると、発芽できません。原始時代の農民は懸命に排水しようとするでしょう。畦を造って水を湛える水田は、畑にいくら水が流れていても、自然にはできてこないのです。傾斜地の畑で不用意に水をためれば、土砂崩れが起きてしまいます。イネは、野生イネ→陸稲→水稲の順番で変化したのでしょうか?ほとんどのイネは水陸両用です。陸稲を水田で栽培すると実は収量が多くなります。水稲に比べると陸稲は、いろいろな点で特殊化していて、野生的性質から遠くなっています。したがってイネの変化の筋道は、野生イネ→水稲→陸稲であり、陸稲から水稲の性質に戻るのはほとんど不可能なのです。これまでの稲作起源論1990年代に入って、中国の長江の中下流域に世界最古と考えられる稲作遺跡があるということが一般に認められました。一方、中国の野生イネの分布の精細な調査も行われ、長江中流域にある江西省の冬は水が張るようなところでも、多年生の野生イネが分布していることが明らかになりました。こうしてイネの栽培の起源地をめぐる論議は一変しました。しかし、イネの栽培化の過程についてみると、一年生の野生イネの直播から始まったという考え方や初期のイネは陸稲的な栽培であったという見方が有力です。種子を播いて栽培が始まるという点では大方の意見は一致しています。表提唱者・・・・栽培化の地域・・・・・・初期の栽培法・・・・・・・イネの多様化中尾佐助・・・インドと雲南の境・・・一年生野生型の直播・・・・雑穀の一部として・・・・・・・・・・(はじめはインド起源説)・・ 照葉樹林山地の焼畑・・(分化には触れない) 渡部忠世・・・原農耕圏・・・・・・・丘陵地帯の畑・・・・・・・陸稲から、水稲は後・・・・・(華南―雲南―アッサム) 張慈徳 ・・・ヒマラヤ南麓から東へ・・・一年生野生型の直播・・・インド型イネから(T.T.Chang) 乾―雨期を大の熱帯・・・・川辺の湿地・・・・・・ 他のタイプに ▼新提案・・・長江中下流域・・・・・・・多年生の株分け栽培・・・・日本型イネから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(根栽農耕の背景で)・・(インドで2次的分化)No.2なぜ “水田” なのか?イネの栽培では、苗代あるいは苗箱に種を播いて、苗を育て、水を湛えた水田に田植えをします。私たち日本人にとって、水田稲作は見慣れた風景です。ところが、水の中へ作物を植えつけて穀物を生産するというような「農耕」は、実はきわめて特殊なものなのです。“なぜイネだけは水を張った水田で栽培されるのか“稲作の起源”を考える際、このことが非常に重要な意味を持ってくるのです。その前に、水田について少し見ておきましょう。水田は・・・水を湛えるために構築された“奇跡”の人工施設作物の栄養としては土壌中からの窒素(N)の供給が第一に重要です。水田に水を湛えると、土壌は酸素から遮断されるので窒素の酸化は抑えられ、長期間作物に利用されます。また空中窒素を固定する藍藻類やそれと共生しているアゾラ(シダ類)の活動によって、空気中の窒素が利用されます。このため無肥料でも、1ヘクタール当たり2トン程度の籾が収穫できるのです。また、リン酸(P)も、水を湛えた水田では植物に供給されやすい形態となり、利用されやすくなります。さらに、湛水により土中の好気的な病原微生物は死滅するので、連作によって病原菌が次第に増えるということがありません。そのため毎年同じ土地に栽培できるのです。完全肥料区を100とした場合の無施肥、N(窒素)、P(リン酸)、K(カリ)欠落区における水稲、陸稲および小麦の収量(棒グラフは左からその順)(岡島秀夫 1976)。まだある水田の効果水田では畦を築いて水を湛えるため、降雨によって土が流れるということはありません。これに対して畑では土壌浸食によって荒廃する恐れがあります。また湛水状態では、土壌の極端な酸性あるいはアルカリ性に対して緩和作用があります。さらに、水田環境に付随する利点として① 畦の草を利用して水牛が飼養されること。② タンパク質の栄養として水路などの魚が利用されること……No.3それは根栽から始まった― イネ栽培のルーツを探る ―照葉樹林農耕論から落ちた地域― 根栽農耕の発祥の地 タイから華南へかけて ―タイから華南へかけての地域は根栽農耕の発祥の地と考えられ、多様な栄養繁殖性の植物が、栽培と非栽培の境目もなく利用されており、採取される野菜の種類も際立って多いです。中尾(1976)は、「栽培植物の世界」という著書で、「後進国の民族で日本人以上の野菜食いはいない」と述べました。しかし、ドイツの農業研究の大家であるE.ヴェルト(1968)が「農業文化の起源」でも指摘したように、この地域では、野草と栽培植物の境界がなく多様な植物が利用されています。日本人の多様な野菜利用は孤立したものではなく、直接、間接にこの農業圏の中にあるからです。華南からタイやベトナムへ行ってみれば、日本人以上の野菜食いがいることがわかるでしょう。● バナナの栽培=根栽農耕の代表 株もとから新しい子株が出て、次々と繁殖します。中央は枯れた親株です。● ココナッツの育苗圃 あらかじめ芽だしをして苗を育ててから移植します。● ベンガル地方の田植え 向こう側の水につけてあるのは、ジュートです。 ここに根栽農耕の名残が見えるでしょうか。農耕の始まりとしての根栽農耕の再評価― 世界の農業の始まりは根栽農耕? ―アメリカの地理学者、O.C.サウアー(1952)の『農業の起源』には、稲作の起源についての謎を解決する糸口があります。彼の示唆に従ってイネは林内竹で栽培化されたと考えると、始めからイネは林間で栽培され、そこでイネの卓越性が発揮されるようになったことが説明できます。農業の発生地として、彼は「漁業農業文化の興隆に適したのが東南アジアであり、ここで家畜的動物(ニワトリとブタ)と栄養繁殖による栽培技術がはじまった」と述べ、中近東のメソポタミアが農業の発祥地であるとする標準的な学説に対して、あえて異論を提出しました。ここで栄養繁殖というのは、植物がその生長のために必要とする器官、すなわち茎、株、根などを使って繁殖することです。わかりやすくいえば株分けで増やすことです。サウアーは、食べられる部分が直接タネモノとして栽培に使われる「根栽農耕」が、世界の農業の始まりであると主張しました。● 竹細工店、竹舟による魚とり 水田と漁撈は、共通の生態学的条件で営まれており、生業としては補完的な関係にあります。 多様な竹製の漁具は稲作地帯で共通のものが多いのです。● ラオス山村のブタ 家畜を飼い馴らすのも根栽農耕の農業の特徴として注目されました。No.4 根栽農耕への旅― 雲南から東南アジアに痕跡をたどる ―根栽農耕の調査の対象となった地域―北タイ、雲南省、華南―湿地の根栽農耕が水田栽培の起源?イネはサトイモの弟分だった?ここでは、水田稲作に非常に近い農法である湿地で栽培される根栽農耕について注目していきます。この根栽農耕の指標としては、サトイモ(学名:Colocasia esculenta L.)が重要です。サトイモはもっとも古い栽培作物と考えられており、昔からでたイネ栽培に圧倒されたものとみられています。サトイモはイネ栽培より古い時代の作物の様な農耕の姿を提示しているのです。華南からメコンデルタにかけて、サトイモの自生状況はさすがに野生状態といえず、集落や水路などの人手で開かれたようなところに見られます。日本でも、夏秋時に生えるミゾソバ、ヨシ、アキノウナギツカミなどと共に栽培されていませんが、野生ではありません。多くの有用植物についても野生と栽培の境は必ずしもはっきりしていません。タロの親芋(左)と子芋(右)チェンマイマーケットに並ぶタロです。あちこちの露店で、サトイモの姿がみられ、木曜の朝にも並ぶ所にサトイモが見られました。〈今も残る根栽農耕―北タイの根栽農耕―〉クワイの仲間メーホンソンの町では、水田や休耕の水田地帯の境界に湿地があり、クワイが見られました。クロクワイと水牛水田を開いた小集落の横で、水牛のいる水路に沿ってクロクワイが生えていました。クロクワイの地下部の写真は田中良高博士の厚意による。〈今も残る根栽農耕―雲南省のタイ族の根栽農耕―〉勐海の市場の根菜類雲南省勐海のシーサンパンナ(西双版納)の中心の集落からミャンマーのシャン族の地域の境界の集落である勐海の市場で売られていたものです。勐海はかなり平坦な水田地帯ん地帯の中にある街です。北タイのメーホンソンと同様に、タイ族の農業が今も根栽農耕の性質を強く示していることが分かります。写真下の名称:クズの根/ドクダミの根/ネギ類の根/大根その他/コンニャク/クログワイ/ショウガ/サトイモバナナの株分けとサトイモ栽培の小水田雲南省の景洪のタイ人集落で、根栽農耕の強い残影が見られます。雲南省勐腊(もんら)の町外れの村の屋敷内にある小水田のサトイモ。水田地帯の入り口にあるタイ人の集落では、屋敷裏に小さい水田を造ってサトイモを栽培していました。彼らが根菜農耕の中心的な担い手なのです。〈今も残る根栽農耕―華南の根栽農耕―〉広西棚田のサトイモ広西の資源県(洞良湖に注ぐ資江の水源地帯)では、農家の裏庭、川岸、あるいは道路ぎわの溝にタロイモが10〜20株の群れをなして生えていて、見事な棚田の畔にもタロイモが生えていました。稲作とサトイモの生育環境は非常に近いのです。ハスとヨウサイの栽培広西壮族自治区では、たくさんの水田が見られました。ここではハスの手前に野菜の地下茎のヨウサイ(Ipomoea aquatica)の移植栽培が見られます。ヨウサイも株分けでふやし、つるの先を切ってそれを「田植え」していました。傍らには固まって生えているヨウサイがあり、そこから茎の先端を切って広いところに田植えで拡げるのです。どのようにしてイネの栽培化が行なわれたかという核心に迫ってみましょう。照葉樹林農耕論では、根栽農耕は原始的な農耕の姿であり、それは穀物の根栽農耕へと移っていったという主張がされていましたが、根栽農耕は依然として根強く残っています。このような根栽農耕の観察を基礎として、どのような環境で、どのようにしてイネが栽培化されたかが次のテーマです。No.5どのようにイネは栽培化されたか―野生種から栽培種へ―イネとハトムギの境遇は似ている?まず、イネと同じような地域で同じような環境で栽培化された穀物であるハトムギについて考えてみましょう。ハトムギは、水田の転作田の作物として知られ、ハトムギ茶や漢方薬として利用されています。ハトムギの祖先野生種はジュズダマといいます。その名は、光沢があり硬い殻を持つ実を糸で連ねて、数珠(ジュズ)を作ることからきています。両者ともかなりの土壌湿度を要求する作物であり、湿地での株分け栽培に適しています。装身具から栽培化された穀物―装身具のジュズダマから穀物のハトムギへ―野生のジュズダマを採っていた原始時代の婦人たちは、やがて、それを裏庭の湿地などに移して、株分けで栽培するようになったと考えられます。こうして「装身具材料の植物」が数百世代も重ねられている間に、タネを余計に落とすものが株の中で次第に多くなり、自然に種子の生産量の多いほうへ変わっていったのでしょう。そのうちに、極めてまれな突然変異の結果として、殻の薄いものが見つけられ、穀物のハトムギとしての利用が始まったと考えられます。ハトムギとジュズダマ硬い殻をつけるジュズダマとハトムギを交雑すると、雑種第二代では、「硬い殻」:「柔らかい殻」の分離は、3:1というメンデルの法則にしたがうことが報告されています。これは、一つの遺伝子の突然変異で、野生種型の「柔らかい殻」になることを意味しています。硬い殻を持つジュズダマから柔らかい殻を持つハトムギがでてくることは、確率は小さいですが、遺伝学的にはそれほど不思議ではありません。イネは薬として使われていた?薬から栽培化された穀物?栽培イネの先祖とは異なる野生イネの一種に「薬用稲」(O. officinalis)と呼ばれるものがあります。中国にも自生しており、そのタデを炒め、命名由来はこの野生イネが薬用であったことを示唆しています。イネについては、野生イネを薬用にしているそうです。野生のイネの特徴が種を未来につなげれば、薬用的な効果もあったのではないでしょうか。ジュズダマからハトムギが栽培化されたように、始めは、主食ではなく、薬草栽培だったのが、原始的な栽培の集団の小さな水田でイネの株分け栽培が始められたと考えられます。そこで、イネは無意識的に選抜され、多くの穀粒をつける作物になり、「穀物」の対象にまで変化したと考えられます。根栽株分け農耕からでた苗代・田植え・本田イネの株分けの栽培法は根栽農耕での株分けと同じです。繁殖のもとになる母株の集団「原始苗代」が中心になります。そこでは毎年春に株を分けることができます。さらに、ヒコバエから再生した稲株の株が残ってできた冬の苗も、原始苗代に補充されるでしょう。そして、周辺の野生イネからも花粉が飛んできて自然交雑して変わりものを生み出し、再生株は互いに接近しているので交雑が行われます。原始苗代では、種を多く落とすようなタイプが年を重ねるうちに優勢となり、意識的に選抜しなくても、イネはよく実のなる植物に変わったと考えられます。その中で自然に早生種や、脱粒性(穂から粒がこぼれやすいこと)や休眠性の弱いものが優占したのでしょう。穂播きからタネ播きによる栽培地域の拡大―株分け苗代からの解放―イフガオ族の棚田と苗代フィリピンのイフガオ族は、株からとった「穂を置いて」発芽してくる苗を移植しています。ここに株分け根栽農耕からの飛躍のヒントがあります。イネ株が倒れて穂が地面に着けば、そこから芽が出て、苗が育つことは、日常的に見られます。穂を苗代において発芽させることが行われると、次には穂の中までいかなくても、穂を運んで播くことができるようになります。これまで野生のイネ株がなかった北の地方へも、穂あるいは種子を運んでいって、冬を越してから、苗代を造り、植を育てることができるのです。イネがなぜサトイモという兄貴分を隅に追いやるほどになったのかが理解できることでしょう。焼畑の陸稲の始まり種で播くことによるもうひとつの飛躍は、乾燥した台地の、本来はイネの生育していなかったところにまで、稲が栽培できるようになったことです。すなわち焼畑のイネ栽培が可能になります。焼畑で栽培されているうちに、陸稲らしいイネができてきます。別の可能性として、種子繁殖で穀物を栽培する習慣が広く確立している場合には、大きな種をつける野生イネから種をとって栽培化する可能性も否定できません(例えばアフリカ)。水田稲作の卓越性による稲作の波及と稲作民の広い地域への発展古代人にとって奇跡的に幸運であったことは、湿地の株分けから始まった稲作では、水を湛える栽培により、土壌の侵食防止、肥料分の保持や有効化、雑草の抑制などのため単位面積あたりで極めて多収な農耕が発達したことです。それは、農地に水を湛えるための灌漑棚の建設技術を発展させました。一方、水田は稚魚の繁殖の場として、漁撈の発展にも寄与したでしょう。このために水田稲作という世界の常識からみると特異な農耕がアジアの高温・多湿の広い範囲に伝播することになりました。No.6水田稲作と「越」人―タイ語系人のアジア展開―中国の政治・文化の先進地帯は、殷や周という古代国家が建設された黄河流域の乾燥した畑作地帯です。一方、中国の長江流域から華南にかけては、風俗・習慣の違う人々が住んでいたのです。その人たちはタイ語に近い言葉を話していました。稲作が長江中・下流域に住んでいた「越(えつ)」=タイ語系の人により東アジアへ大きく展開する姿を見ていきましょう。草鞋山遺跡の水田跡(東側)草鞋山の古代水田は黄土層に掘り込まれた小区画のもので、その底は平坦でなかったと報告されています(藤原、1998)。それはほとんど「原始稲作」の段階であったのでしょう。湘江と陶江を結んだ木材工事(BC221頃)霊渠左:湘漓二水と霊渠の位置図、湘江は右上、漓江は左下中央は乾隆帝による碑文。右:溢流堤最古の稲作遺跡は長江の中流域と下流域の「呉越」の地方に「呉越の戦い」といわれるように、呉と越は、春秋から戦国時代を通じて戦争を繰り返しました。最近の稲作遺跡である河姆渡遺跡と草鞋山遺跡は、それぞれ「越」と「呉」の部と重なります。その地方の古い言語は現在のタイ語と類似しており、そのタイ語系の人々によって灌水水田稲作が発展し、灌漑技術が発展したと考えられます。これらの人たちは水田と漁撈を中心とした優れた生業を作り、高い文化を築きました。しかし、BC334の「越」の滅亡をきっかけに、華南からインドシナ半島の北部へと展開しました。一方、一部の人たちは、東に展開して日本の弥生時代を開いたと考えられます。淮河―長江流域の著名な新石器時代の稲作遺跡の分布図中国の稲作遺跡と古代稲作文化を参考に作図。現在までの考古学的発掘から、稲作が大きく発展したのは、長江の中・下流域であったと考えられます。(黄、1996)。雲南からはこれらに匹敵する古い遺跡は出ていません。河姆渡(かぼと)遺跡(およそBC5000頃)の住居跡住居はホゾを使って組み立てられた高床式で、敷物もありました。家畜には犬やイノシシがいました。石器の斧や手斧、それに水牛の肩甲骨を利用した骨製の耜の先、および多くの木製品が発見されました。水牛は耕作には使役されてはいなかったらしいです。会稽(かいけい)山の一角と中国古代の帝王「禹(う)」の陵および禹の像春秋(BC770-403)から戦国(BC403-221)にかけてここに越が軍事上の拠点があったといわれています。中国の伝説上の国ー「夏」(BC2100頃から)の初代の皇帝で治水の英雄である「禹」の墓、大禹陵がここにあり、秦の始皇帝も中国統一後、会稽に登って禹を祭ったといいます。古代の稲作を基礎に発展した越の文化が高く評価されていた証拠といえるでしょう。灌漑技術の発展と普及水田稲作地帯では、田ごとに水を張るための精妙な工事が行われています。灌漑技術は、長い年月を経て発展したのでしょう。紀元前の秦から前漢の時代、当時としては辺境であったはずの四川省の成都の郊外(都江堰、BC227)や湖南省と広西省の境(霊渠、BC221頃)などで、大規模な水利工事が行われました。それらは今も利用され、観光地となっています。大規模な灌漑堤による分流であり、水量を定率で分配する最も合理的な設計になっています。イネはインドで独立に栽培化されたか?―インドでの稲作の展開―コメというとすぐ「インド型(インディカ)」という名前が出てきます。インド型イネは東アジアのイネとは独立に起源してきたのではないかという二元論もあり、インドでどのように稲作が始まったかということは長い間大きな問題でした。次は、インドの稲作について考えていきましょう。インドへ侵入したドラヴィダ人やアーリア人はイネを知らなかったインドの稲作農業を考えるには、二重の民族移動の流れから考えなければなりません。始めは北西部からドラヴィダ人がインド亜大陸に侵入しました。インダス川の流域に文明を築いたのは彼らだったといわれています。ドラヴィダ人は、アフリカと共通性のある、トウジンビエ、ゴマ、ソルガムなどの夏作物を栽培しながら、東アジア系の先住民の領域を狭めたと思われますが、やがてアーリア人に追われる形で、その主力は南インドの方へ展開しました。アーリア人の故地は南ロシアの平原ではないかといわれています。彼らは牛や馬などの大家畜の群れを扱い、家畜に引かせた車によって移動し、オオムギなどを栽培していたと考えられます。アーリア人はインダス文明を破壊し、平原に入り、森林を切り開いて畑作を展開しました。その移動の経路から見て、ドラヴィダ人もアーリア人も稲作の育ての親とは考えられません。彼らが長らく定着した北西インドには稲作はなかったからです。牛と車がなければ、インドの農耕はできません。(インド、ビハール州)写真説明:二頭曳き犂による人念な播種準備と牛をはずした二頭引きの牛車ドラヴィダ人やアーリア人の前のインド農耕は、東アジア系の先住民の根栽農耕だっアーリア人とドラヴィダ人の侵入より前にいたのは、現在では分断されている東アジア系の先住民であり、彼らの根栽農耕が現在も東インドを中心に、深い影を残しています。インド・カレーに不可欠のウコンや、特にアッサムのインド人たちのアルカヤシの実をかむ嗜好もその名残を示唆しています。インド=アーリア人は、牛二頭曳きの犂(すき)や車がないと農耕ができず、山地には進出できませんでした。そのため東アジア的な農耕はアッサムの山地に東アジア系、とくにタイ語系の人々とともに残ったと考えられます。中でもアホム語を話す人々は、定住して水田稲作を営むという生業方式の優越性を基礎として、アッサムまで拡散していきました。アッサムまで、棚田、もち米、および米の酒と稲作にかかわるものが色濃く残っています。写真説明には、野生のショウガやウコンの仲間:ミャンマーと雲南の間のシャン高原でインド・カレーに不可欠のウコンがも、元はシャン高原からアッサムで栽培化されたと考えられます。アッサムの出作小屋:入母屋はタイ語系民族の特徴です。アッサムでもタイ型の出作小屋が見られます。東アジア系農耕の回廊の名残でしょう。(出作小屋(でづくりごや)とは、農民が本拠地(母村)から離れた山間部や離れた農地で農作業を行う際、一定期間寝泊まりするために建てた仮小屋(出小屋)のこと)そして「稲」のサンプル。 そして全て?の見学を終えてその場で現地解散。■開館日 月~金曜日 10 : 00 ~ 16 : 00 (最終入館15 : 30 ) 土曜日(第1 , 3) 10 : 00 ~ 12 : 30 (最終入館12 : 00 ) ☆休館日:日・祝・土(第2 , 4 , 5 )・その他大学の休日 ■2・3階展示室開館日 木・土(第1,3)■見学方法 〇個人の方(学内・学外共通) 予約,手続きは不要です。ご自由に見学できます。 〇団体見学・授業利用(事前予約制)そして、「日本大学生物資源科学部」の正門を出て、「六会日大前駅」に向かって進む。「大学案内板 日本大学 生物資源科学部学科・生命農学科・生命化学科・獣医学科・動物資源科学科・食品ビジネス学科・森林資源科学科・海洋生物資源科学科・生物環境工学科・食品生命学科・国際地域開発学科・応用生物科学科・くらしの生物学科大学院 生物資源科学研究科・生物資源生産科学専攻・生物資源利用科学専攻・応用生命科学専攻・生物環境科学専攻・生物資源経済学専攻大学院 獣医学研究科・獣医学専攻付属機関等・図書館・総合研究所・生物環境科学研究センター・生物資源利用科学研究センター・食品加工実習所・博物館・農場・食品加工実習所・生物環境科学研究センター・動物医科学研究センター・先端食機能研究センター・演習林 藤沢 八雲(北海道) 長万部(北海道) 水上(群馬県) 君津(千葉県)・下田臨海実験所(静岡県)・富士自然教育センター(静岡県)付属動物病院付属高等学校・中学校・小学校・日本大学鶴ヶ丘高等学校(東京都) ※日本大学鶴ヶ丘高等学校は、東京都杉並区和泉にある男女共学の私立の高等学校です。 昭和26年に日本大学農獣医学部(現在の生物資源科学部)の併設校として創設されました。・日本大学藤沢高等学校・日本大学藤沢中学校・日本大学藤沢小学校日本大学 生物資源科学部・バイオサイエンス学科・生命農学科・動物学科・生命化学科・獣医学科・動物資源科学科・食品ビジネス学科・森林資源科学科・海洋生物資源科学科・生物環境工学科・食品生命学科・獣医保健看護学科・国際地域開発学科・応用生物科学科・くらしの生物学科多くの学科が存在していることに驚いたのであった。「灯台下暗し(とうだいもとくらし)」!!付属高等学校・中学校・小学校・日本大学鶴ヶ丘高等学校(東京都) ※日本大学鶴ヶ丘高等学校は、東京都杉並区和泉にある男女共学の私立の高等学校です。 昭和26年に日本大学農獣医学部(現在の生物資源科学部)の併設校として創設されました。・日本大学藤沢高等学校・日本大学藤沢中学校・日本大学藤沢小学校そして「小田急 六会日大前駅 西口」。 そし「小田急 六会日大前駅 改札口」。東口駐輪場から自転車で帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2026.08.24
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そして3Fに移動し、「常設展示コーナー」 の「農機具・漁具。森林・植物」展会場へ。 「農機具コーナー」。 「踏車」。 移動して。「分類 揚水・散水機具農機具 踏車👈️リンク特徴 地方名は、水車という。昭和10年代まで使用されていた。 浅水用で中型である。羽根の部分を小川に入れ、口を水田にかけて水を引き揚げた。 羽根を踏んで水車を回す動力とした。」 こちらは、漁業・水産関係の道具や模型をまとめた展示。・左手前の赤い機械大きな石臼状の容器とモーターを組み合わせた機械。魚肉などをすり潰すための擂潰機(らいかいき)・魚肉練り機の類と考えられる。かまぼこなどの練り製品を作る工程では、 魚肉を細かくし、塩などを加えて練り上げる。・中央奥の青い板 これは魚を捕らえるための定置網(ていちあみ)の模型。海中に大きな網を固定しておき、 魚群の進路を網で誘導し、奥の「袋網」などへ入れて漁獲する仕組み。 写真にも「定置網」と書かれた説明札が確認できた。・右奥の大きな模型 網やロープを扱う漁業機械、あるいは網漁の仕組みを説明する模型。多数のひも状のものが 並んでおり、実物の機械を縮小して内部構造を見せる教材的な展示。・中央手前の透明ケース内の模型 回転軸に何層もの円盤状部品が取り付けられている。漁網・ロープなどを巻き取ったり 送り出したりする機械の構造模型と思われるが、写真の銘板が小さいため、機械名までは? この展示で特に面白いのは、「魚を捕る」だけでなく、「網を扱う」「魚を加工する」と いう一連の水産作業を機械化してきた歴史が一か所で見られること。「擂潰機(らいかいき)👈️リンクかまぼこなどを練り製品を作る機械です。」 「カルチベータ分類 カルチベータ農機具 畜力用(カルチベータ)特徴カルチベータは、明治初年、米国とドイツから輸入され、北海道で初めて使用された。本土では、大正時代前期から使用されたが、戦後にはにわかに脚光を浴びた。用途も、中耕除草、培土のほか、いも類の掘り起こしなど万能耕作機として一時代を画した。しかし、昭和35〜40年以降は動力機械や除草剤の普及により使用頻度は減少していった。ネットから。「バーチカルポンプ揚水機の一種で、1912(大正10)年頃から1965(昭和40)年頃まで潅水用具として用いられた。竪型円筒の中に長軸の羽根車があり、上端にプーリーをつけて動力で回す。比較的揚程が高くても揚水できるので、各地で使われた。本機は、全長 263cm、直径21cm、重さ50kgである。通常自然流入式水田が水不足で水位が降下し、自然流入が不可能なとき等の利用には極めて有効であった。」昔の農作業に使われた農機具・農具を集めた展示コーナー。木製の長い柄を持つ道具が多数並んでいます。中心となっているのは、牛や馬などの家畜に引かせて使う「畜力農具」と、人が操作する農具。正面奥に「唐箕(とうみ)」。 近づいて。上部の大きな漏斗状のところに収穫した穀物を投入し、内部の機構を通して、穀粒と籾殻・わら屑などを選別するために風を利用する唐箕系の選別機装置。仕組みは、上の漏斗から穀物を入れる → ハンドルで羽根車を回して風を起こす → 重い穀粒と軽い籾殻・ゴミを風力の違いで分ける というもの。子供の頃、モーター式脱穀機で分離した籾(もみ)と混入している籾殻を、これで分離するために、父から言われて、この「唐箕」👈️リンク を手回しした懐かしい記憶があるのだ。「方形ハロー」。 「方形ハロー分類 ハロー類農機具 方形ハロー特徴方形ハローまたは爪ハローと呼び、畑作地帯のハローの代表となっている。大体の構造は、方形に枠組された桁木に、角形の鉄製の歯を垂直に固定したもので、各歯の通った跡が重ならないように馬や牛などで斜めに引く。鉄製歯の押し砕きが砕土作用となり、さらに地表面の夾雑物を集める効果がある。鉄製歯の本数と枠組の大小により畜力一頭曳きと二頭曳きに分けられる。明治、大正時代を通じ昭和30年代前半まで使用された。」 「脱穀・調製用機具(籾摺機)分類 脱穀・調製用機具(籾摺機)農機具 籾摺機特徴籾の脱殻と調製に使用された。籾摺り初めに近代式籾摺機が開発されて、昭和10年前後から全国に普及しはじめ、現在も広く利用されている。籾殻部の構造には、ゴムロール式と衝撃式がある。前者は、1対のゴムロールを異なる速度で回転させる。回転数のことなる高速ロールと低速ロールの間を速度の差および摩擦圧力により、籾殻を剥脱して脱穀する。後者は、回転円盤により加速された高速の籾をゴム壁に衝突させ、籾殻を破砕して脱穀する。両者とも脱穀率が高く、作業能率が良く、籾米も少ないことが特徴である。」収穫した稲は、脱穀 → 籾(もみ) → 籾摺り → 玄米という工程をたどります。つまり籾摺機は、籾の外側を覆っている硬い「籾殻」を取り除き、中の玄米を取り出す機械。「精米麦機分類 穀物精製機具農機具 精米麦機特徴玄米からぬかを取り除き精米する機具である。タンクには約30kgの玄米が入る。ベルトでモーターと繋ぎ、下部の筒を回転させると、玄米はタンクと精白部の間を自動循環しながら精白されていく。糠は循環中に網目から自然落下する。送風機による糠抜きを行うなどの改良が施されて、現在も循環型の小形精米機として利用されている。」 つまり、先ほどの「籾摺機」で籾殻を取り除いて玄米にした後、その玄米から糠(ぬか)を取り除いて白米にする機械。流れとしては、稲 → 脱穀 → 籾 → 籾摺り → 玄米 → 精米 → 白米となり、展示されている農機具を順に見ていくと、昔の米作りの工程がよく分かるようになっていた。写真はネットから。「製縄機分類 わら加工機具農機具 製縄機特徴昭和8年から47年まで、農協に販売する肥料かます用の縄作りに利用した。左右のわら差込口に絶えずわらを入れながら、足でペダルを踏み、歯車を回転させる。すると歯車によってわらがより合わされて縄ができる。歯車を取換えることで縄の太さを調節することもできる。人力用足踏式の機械式である。」 「製縄機」👈️リンク 「分類 養蚕関係機具農機具 製糸・機織用機具(糸くりばた)特徴糸車で、地方ではジンジンバタとも呼ばれる。生糸の撚りかけと、機織りのよこ糸管巻きに用いたものであろう。繊細な竹製で美しい。回転にあたって、矢を手がかりにせず、車を2本の柱で支え、ハンドルでまわす。一般に南国の糸車は二つの車の間隔が短い。作業者の膝で押えて安定させるため、舌状の板がハンドル側に伸びている。大正時代から昭和20年頃まで使用された。」 そして「森林認証と認証材」コーナーへ。「森林認証と認証材環境を大切にしながら正しく管理されている森を国際機関は「認証森林」として登録します。その森から生産された木材は「認証材」と呼ばれ、ロゴマークがつきます。このロゴのついた木材で家を建てましょう。地球の環境はよくなります。」 「日本で最初の認証材2000年に三重県の林業家速水亨氏は日本ではじめて国際森林認証(FSC)を取得しました。その森から生産された最初の1本目のヒノキの柱(001-001番)です。最初の記念すべき大切な認証材です。自然環境と健康をまもる木材です。」 山口県岩国市の「錦帯橋」では、伝統的な架け替えや維持修繕にあたり、持続可能な森林管理を証明するFSCなどの国際森林認証制度の考え方を取り入れた木材調達(FSC認証材の活用など)が行われたとのこと。最初の1本目のヒノキの柱(001-001番)は錦帯橋に使われたと。「灼熱の錦帯橋」と題された建設工事ポスター。 「無垢の材(むくのざい)製材したままの木材を無垢(むく)と呼びます。樹木の性質がそのまま出てきます。種類ごとに材は強い・弱い、重い・軽い、かたい・やわらかい、色と肌ざわりなどに特徴があります。その特徴に合わせてヒノキは柱、ケヤキは家具、ホウは木彫、アオダモは野球のバット、トウヒはヴァイオリン、ブナは椅子、クリは家の土台になります。無垢材は貴重ですが大きさや量が限られ、割れ、ゆがみなどの欠点を持ち合わせています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.23
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「セキショクヤケイ」。中国南部からフィリピン、マレーシア、タイなど東南アジア熱帯地域のジャングルに生息する野鶏である。羽は赤笹色で体重は成鳥で1kg弱程度である。なお、ニワトリはこれを家禽化したものと現在では考えられている。近年では人間に飼われているニワトリとの交雑(遺伝子汚染)が進み、純粋な野生種は絶滅の危機があるともいわれている。なお、日本の地鶏などはこのセキショクヤケイの特徴を残しているものが多い。 「セキショクヤケイ」。「ニワトリキジ目キジ科Gallus gallus domesticus鳥類で最も古く家禽化された。多くの品種が存在し、世界中で最も多く飼育される。タイ原産の野生種が起源。中国へは約8,000年前、イランへは約5,800年前、ローマへは約3,000年前、日本へは弥生時代に入った。原種(写真)※写真下:世界家禽品種事典より セキショクヤケイ原種(和名):セキショクヤケイ品種※印は当館所蔵ナンキンシャモ*オーストラロープ*ウコッケイ*シバジドリ*コエヨシ*ヒナイドリ* など」 「ヒナイドリ」。 「ヒナイドリ」。「ウズラキジ目キジ科Coturnix japonica日本で家禽化された唯一の種で、室町時代から鳴き声を楽しむために飼育された。大正時代に採卵用に改良された。原種(写真)※写真下:世界家禽品種事典より ウズラ原種(和名):ウズラ*品種※印は当館所蔵品種はない。」 「ウズラ」展示室を振り返って。「教育資料(胎児)」。ホルマリンなどの保存液に浸した解剖標本(湿式標本が展示されているコーナー)。・動物の内臓や筋肉、血管の構造・種による体の違い・進化や機能の違い・獣医学・生物学・解剖学の教育資料として大変貴重な標本。 「閲覧注意解剖標本ありこの棚には解剖標本が展示されています。苦手な方はご注意ください。」 「オナガザル」、「ウサギ」。 「モルモット」。 「イヌ」の展示コーナー。 「イヌ食肉目イヌ科Canis lupus familiarisタイリクオオカミ(Canis lupus)がヒトに飼育され、ヒトとの生活の中でイヌになった。イヌは最も古くから家畜化されたが、時期と場所については諸説ある。原種原種(和名):タイリクオオカミ*品種※印は当館所蔵ダルメシアン*グレートピレニーズ*北海道犬*セントバーナード*シベリアンハスキー*ビーグル*川上犬* など」 左:イヌ(川上犬) 剥製 右:イヌ(北海道犬) 骨格標本 左:イヌ(ドーベルマン・ピンシャー)右:イヌ(ダルメシアン)「教育資料」。 「教育資料」。「教育資料(模型)模型には、複雑な実物の特徴を簡略化して理解しやすく伝える。保存が困難な実物の代替として表現する、複製物の使用による実物の保護などの役割がある。また、近年のアニマルウェルフェア(動物福祉)に配慮した考えのもと、代替法としての実習における動物にかかる負担の軽減を目的とした精緻な模型も開発されつつある。ここでは、本学部で過去に畜産学・獣医学の教育に使用されてきた様々な模型資料を紹介する。」 「ウシ模型(?????)」。「ウシ模型(ホルスタイン)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.22
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「〇〇ワシ」 その先に、右から「ヒムネオオハシ」、「ギンケイ」、「オオフウチョウ」、「カンムリズル」、「シロフクロウ」。 「オオフウチョウ」。 「シロフクロウ」。「タンチョウ」。 タンチョウ(丹頂)の名前の由来は、漢字の通り「頭のてっぺん(頂)が赤い(丹)」ことによるもの。この赤い部分は羽毛ではなく、皮膚が裸出している部分で、興奮したりすると赤みが増します。日本の特別天然記念物に指定されているタンチョウは、アイヌ語では「湿原の神」を意味する「サルルンカムイ」とも呼ばれています。古くから長寿や夫婦円満の象徴として、日本の美術や文化に深く関わってきた鳥。「ヒクイドリ」。 「ダチョウとヒクイドリの仲間分布アフリカ、オーストラリア、ニューギニア生息環境草地、森林特徴翼が体に対して小さく、胸筋も発達しないため飛べないが、地上を非常に速く走る。ダチョウは現生の鳥類で最大・最重。ヒクイドリは頭には突起、足指には長く鋭い爪を持ち森林に生息する。」 「ダチョウ」。ダチョウは陸上の二足歩行動物の中で最も速く走ることができ、最高時速は70kmから80kmに達します。また、時速50km程度の猛スピードを維持したまま数十分間も走り続ける高い持久力も兼ね備えていますダチョウの卵は鶏卵の約20〜25個分(1.2〜1.8kg)ある世界最大の卵です。味わいは淡白で水分が多くマイルドとされています。空になった殻は非常に頑丈でインテリアにも使われます。 「ヒクイドリ」。ヒクイドリ(火食鳥)の名前は、喉から首にかけて垂れ下がっている鮮やかな赤い肉垂が、まるで「火を食べているように見える」ことに由来。この名前は、中国の古い呼び名である「食火鶏」を和訳したもの。かつて中国では、この鳥が本当に火を食べて生きていると信じられていたことからこの漢字が当てられた と。 ネットから。そして「ウマ(木曽馬)」の剥製と骨格標本。近づいて。「ウマ(木曽馬)」の頭に近づいて。骨格標本の頭部に近づいて。骨格標本の脚部。ウマでは、もともと複数あった指が進化の過程で減少し、現在は第3指(中指)1本を中心にして立ち、走っています。蹄(ひづめ)はその指先を覆う構造。「木曽馬」と「腸結石」。 「ウマ奇蹄目ウマ科Equus caballusウマは原種のノウマから紀元前3,500年前に家畜化された。この時代の馬銜(はみ)(口にくわえさせる部分)とその使用痕のある頭蓋骨が発見され、騎馬による使役家畜として利用されたと推定される。原種(写真)原種(和名):ノウマノウマの亜種のモウコノウマが現存。品種※印は当館所蔵軽種・サラブレッド*重種・ペルシュロン*・木曽馬* など」 「馬の腸結石」。 「ウマ(木曽馬)の心臓」。 ウマの骨格各部の名称図。「馬蹄(ばてい)標本蹄(ひづめ)は弾力のある硬い角質部、血管と神経に富んだ肉質部それと中軸にある骨部からなっている。角質部は蹄壁、蹄底および蹄底中央の蹄叉に分けて、その形を観察する。蹄の形は肢勢によって特有の形となり、ふつう前肢は円形、後肢は卵円形でそれぞれの機能を果たしている。不正蹄は不正肢勢から随伴してできるものだが、逆に不正蹄から不正肢勢も生じる。したがって蹄の整形は、肢機能の向上と疾病の予防、治療などの点で重要となる。蹄は常に成長しているため、日常の手入れと定期的削蹄、改装蹄を行う必要がある。ここにはさまざまな異常蹄を展示してある。」 「熊脚蹄(ゆうきゃくてい)」は、馬の蹄の異常形の一つ。中央が外から見た蹄、その左右には蹄を縦方向に切断した模型(または標本)が置かれていて、内部の骨との関係が分かるようになっているのであった。「熊脚蹄」とは熊脚蹄は、馬の蹄が正常な形を失い、蹄の前面(蹄壁)が立ち気味になり、蹄先が短く、蹄踵側が低く広がったような形を示す異常蹄です。その外観が熊の足を連想させることから、この名称があります。中央の蹄を見ると、普通の馬の蹄に比べて、蹄の前面が丸みを帯びて膨らみ、蹄全体がずんぐりした形になっているのが分かるのだ と。何より興味深いのは、馬が「中指一本の先端だけで、あの大きな体を支えて走っている」ということ。私たち人間の手でいえば、中指の先端だけで立っているような構造。そのため馬にとって蹄の状態は、歩行や走行能力だけでなく健康そのものに直結する非常に重要な部分であること、間違いなしなのである。馬の様様な蹄の異常形が展示されていた。「人と家畜のかかわり-ウマを例に-紀元前3,500年前の南ウクライナの遺跡から発掘されたウマの頭蓋骨には、このころ既に乗馬がなされていたことを示す痕跡が見られる。日本でも明治時代に化石燃料を使用する乗り物が普及するまで、ウマは人の移動やものの運搬における重要な手段であった。また、その強い力を利用して、農耕馬としても利用された。競技としての乗馬は、ウマを操る技術を競うもので、日本大学馬術部が編集した動画で競技のポイントを紹介する。」 「奇蹄類と偶蹄類の違い奇蹄類と偶蹄類は共に有蹄類という蹄を持った草食動物。ウマ・バク・サイなどは蹄の数が奇数であることから奇蹄類と呼ばれ、ウシ・カバ・イノシシ・ラクダなどは蹄の数が偶数であることから偶蹄類と呼ばれていた。近年は、分子系統学によって、偶蹄類のカバとクジラ類が近縁であることが分かり、偶蹄類は1つのまとまった分類群ではなく、クジラ類を含めて鯨偶蹄目に分類されている。ウマは進化の過程で、大腿骨から腔骨にかけての頑丈な構造と強力な大腿筋がもたらす強い推進力を分散させないために、足の指が単純化して第3指だけが発達し、ほかの指は退化した。一方、ウシは第3指と第4指だけが発達し、単蹄を二分した形で2本の蹄を持っている。これらのことから、ウマとウシでは蹄鉄の形状が異なっている。」 様々な「蹄鉄」が並んいた。 丸みの異なる蹄鉄。・なぜ蹄鉄はU字型なのか?現代において人に管理され、人を乗せて運動する馬にとって蹄鉄は蹄を摩滅から守るためになくてはならないもの。蹄鉄はご存知の通りU字型をしています。この蹄鉄の形状は蹄の構造や負重機能に基づいています。馬が歩いたり走ったりする場合、蹄はその裏側全部で負重するわけではありません。荷重は主に蹄の外周部分が支えており、かかとの裏側にある蹄叉(ていさ)という部分でも補助的に荷重を支えています。蹄のその他の部分(蹄底)はくぼんでいるために、硬い路面の場合には地面に着かないですし、柔らかい路面の場合では蹄が沈むので蹄底にもいくらかの荷重はかかりますが、基本的には蹄底の部分ではあまり荷重しないのだ と。蹄鉄の基本的な目的は摩滅から蹄を守ることです。なので、荷重が集中する蹄の外周部分に蹄鉄を付ければいいというわけです。蹄鉄がU字型になっているのはこういう理由があるのです と。馬具。 馬具の名称。馬銜(はみ)。はみとは、馬の口に噛ませる棒状の金具である。馬の口には前に12本の切歯があり、切歯のうしろはかなり広い歯のない部分があり、その奥に臼歯(奥歯)が並んでいて、ちょうどこの歯のない部分にはみをかける。騎手の手綱さばきはこぶしから手綱を通じてはみにつたえられて、馬を意のままに動かすことができる。そして「サラブレットの骨格標本」2体 。次は「ウシ」。 そして「ウシ・牛」の骨格標本。右:ウシ(黒毛和牛)左2頭:ウシ(ホルスタイン)。「ウシ偶蹄目ウシ科Bos taurusウシは紀元前7,000~6,000年頃に飼育され始めたといわれている。現在は世界中で飼育され、乳や皮などあらゆる部位が利用される。原種(写真)原種(和名):オーロックス1627年に絶滅。※写真下「アニマルサイエンス2『ウシの動物学』より」品種※印は当館所蔵乳用品種 ホルスタイン* ジャージー など肉用品種 黒毛和種* ヘレフォード など役用品種 見島牛」 オーロックスの写生画をネットから。ウシの骨格図。そして「イノシシ」。「ヒツジ」。 「イノシシ」、「ブタ」。 「ブタ偶蹄目イノシシ科Sus scrofa domesticus原種はユーラシア大陸に広く分布するが、アジア・インド・ヨーロッパなどで食肉のために家畜化された。その後、交雑繰り返すことで、多くの品種が作出された。原種(写真)原種(和名):イノシシ*品種※印は当館所蔵ランドレース*大ヨークシャーデュロック*バークシャー*ミニブタ*」 「イノシシ」、「ミニブタ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.21
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そして「空」のゾーンへ。空を飛ぶ鳥類やコウモリなどの骨格・剥製標本が生息地別に展示されていた。進化の過程で獲得した、軽くてしなやかな翼の骨格構造を間近で観察できたのであった。 「アオバト」、「キジバト」の剥製。左:「ツグミ」、右:「トビ」。 「身近な鳥類市街地でも公園など緑地があれば、鳥類はみられる。展示標本下段の4種は特に人目につきやすい種である。これらは「ものさし鳥」とも呼ばれ、見知らぬ鳥を観察した時、人に大きさを伝える際の基準となる。「ムクドリと同大」や「ハトより大、カラスより小」のように使う。4種の全長(嘴の先端から尾の先までの長さ)スズメ:約14.5cmムクドリ:約24cmハト類:約33cmハシブトガラス:約56.5cm」 「ムクドリ」、「スズメ」。 「ハシブトガラス」、「カワラバト」。左から「ヒヨドリ」、「ツバメ」、「カワラヒワ」、「シジュウカラ」、「メジロ」。「ユリカモメ」。 「森や草原の鳥森や草原には、カラ類などの小型種からキジ類などの大型種まで様々な大きさの烏が生息する。大部分は昼行性だがフクロウ類は夜行性。生態や行動も変化に富む。植物の果実や種子を食べるホオジロ類などから、昆虫類やその他の小動物を捕食するヒタキ類などまで、食性も多様である。」 圧巻は、「海」ゾーンに紹介されていた「クロミンククジラ」の骨格標本。移動して。 さらに「クロミンククジラAntarctic Minke Whale学 名 Balaenoptera bonaerensis分 類 鯨目 ナガスクジラ科生息域 冬季は南半球の赤道近くの海域 夏季は南極海周辺海域体 長(捕獲時) 8.2 m体 重(捕獲時) 6.4 t本種は、1982年に国際捕鯨委員会(IWC)によって商業捕鯨が禁止されたが、資源を適切に管理し、持続的に利用を図るための生物学的資料を得るため、南極海において鯨類捕獲調査(調査捕鯨 JARPA) が実施されてきた。この骨格標本は、財団法人日本鯨類研究所から1997/1998調査において南極海で捕獲されたクロミンククジラ骨格(雄)の寄贈を受け、2年半(平成10年4月~平成12年10月)本学敷地内に埋設して除脂した後に組み立てたものである。 財団法人 日本鯨類研究所 寄贈」 「クロミンククジラ」の写真をネットから。 「胸ビレ」をズームして。 「胸ビレはカバの前肢(まえあし)?クジラ類は進化の過程で水中生活に適応し、前肢は泳ぐための胸ビレへと変化しました。カバは指を細かく動かせますが、クジラ類はヒレとして機能するため動かせません。(図)※図下カバの右前足(模式図)」遺伝子の研究から、カバとクジラは非常に近い親戚(共通の祖先を持つ仲間)であることが分かっていると。見た目は全く違いますが、どちらも「鯨偶蹄目(くじらぐうていもく)」というグループに分類されているのは有名な話であると。「カバの右前足(模式図)」 全長約8.2〜8.5メートルのクロミンククジラの巨大な全身骨格標本が常設展示されていた。写真中央右付近に見える5本の小さな骨は、クジラの「後肢(こうし)の痕跡(退化した骨)」と。そしてその下2本の骨は【中央の「対になった骨」が骨盤の痕跡です】とネットから。「クジラは後ろ足を失いましたが、骨盤そのものは完全にはなくなっていません。理由は、骨盤には・生殖器を支える筋肉・尾を動かす筋肉・排泄器官を支える筋肉 などが付着しているためです。つまり、歩くためではなく、筋肉の土台として重要な役割を果たしています。」 と。「頚椎」部をズームして。 ① クジラも頚椎は7個緑色の「頚椎」の札のある部分が首の骨です。写真では一つ一つの骨が連続して並んでおり、哺乳類共通の7個の頚椎から成っています。これは人間ネコイヌウマカバキリンと同じです。キリンの首は長いですが、頚椎は7個しかありません。一つ一つが非常に長いだけなのです。 ② 首は非常に短いクジラは体長8 m以上もありますが、頚椎全体を見ると長さは意外なほど短く、頭がほぼ胴体に直接つながっているように見えます。これは水の抵抗を減らすためです。陸上動物のように・首を左右に振る・上下に曲げる必要がほとんどありません。③ 頚椎同士が非常に密接各頚椎の間隔が非常に狭く、関節もがっしりしています。つまり首はほとんど曲がりません。クロミンククジラでは首を自由に回転させる能力よりも巨大な頭をしっかり支えることが優先された構造になっているのだ と。④ 背骨との違いがよく分かる写真右側へ行くと突然、棘突起(背中へ伸びる突起)が高くなっています。これは胸椎に変わったことを示しています。胸椎では肋骨を支える強い背筋が付着するため、このような高い突起になります。逆に頚椎では棘突起は低く、可動性を優先した形になっています。⑤ 肋骨がまだ付いていない頚椎には肋骨がありません。写真右側から初めて太い肋骨が現れています。ここが首と胸の境界になります。⑥ クジラでも「人の首」と同じ構造この骨格模型で一番感動するのは骨を一つずつ見ると実は人間の首の骨と驚くほど似ていることなのだ と。「さわってみようハナゴンドウの骨格」 「舌骨」、「癒合した頚椎」。「ハナゴウドウ」をネットから。 「クジラ類の骨クジラ類は約90種おり、ハクジラ類とヒゲクジラ類に大別される。展示標本はすべてハクジラ類。頭蓋骨の形態を陸生の動物と比較すると、クジラ類は吻部(鼻と口の間)が前後に長く伸長し嘴状、骨鼻口(鼻の穴)が頭頂付近にある。種により吻の長さと歯数が異なるが、同種個体では全ての歯が同形。クジラ類の骨密度は陸生哺乳類と比較し低いため、骨は軽い。後肢は一部を残して退化し、頚椎は多くの種で癒合する。胸椎から腰椎には、上に伸びる棘突起と左右に伸びる横突起が発達する。」 「クジラ・イルカの仲間分布世界中の海と一部の河川生息環境河川、沿岸、浅海、深海特徴偶蹄類(ぐうているい)の仲間から進化し、前肢は鰭(ひれ)となり、後肢は骨盤骨を残して退化。ヒゲクジラの仲間は歯が無く、体毛が変化したヒゲ板で水中のプランクトンを濾(こ)しとる。」 各種イルカの頭部の骨格標本であっただろうか?こちらも。こちらは「オオサマペンギン」の剥製と骨格標本。 「キタオットセイ」と「アオウミガメ」。 「相模湾の魚」。 「魚類の骨格???」 様様な魚の頭部の骨格標本。「オットセイとアザラシの仲間分布世界中の海(高緯度海域など)特徴頭部は丸みを帯び、体は流れるような曲線の紡錘型。四股の骨は短く、胴体に大部分は埋もれ、先端は鰭(ひれ)状。体は厚い脂肪層で覆われる。」 「ミナミゾウアザラシ」。 移動して。振り返って。「ミツクリザメ」の剥製と骨格標本。 「ミツクリザメ」をネットから。 手前:「ナヌカザメ」。「マオナガ」。マオナガ(真尾長)は、ネズミザメ目オナガザメ科に属するサメ。世界中の熱帯から亜寒帯海域の沿岸から外洋まで広く分布する。オナガザメ類では最大で、全長6m以上になるとされる。外見はニタリ (Alopias pelagicus) と非常に類似し、しばしば見間違えられる。小魚などを尾鰭で攻撃し、捕食する。卵食型の胎生。2〜6尾の子どもを産む。繁殖速度を上回る過剰漁獲により世界中で数が減少している。 「シロチョウザメ」。 「サメはどうやってうまれるの?魚の多くは卵から生まれます。しかし、サメの生まれる方法は魚の中でも特に複雑です。卵から生まれる種もいれば、おなかの中で成長してから生まれる種もいます。さらに成長の仕方も多様です。ここでは大きく3つの方法を紹介します。① 胎生:胎内で卵からふ化し、母親から栄養を得て成長する。② 卵胎生:胎内で卵からふ化し、卵黄から栄養を得て成長する。③ 卵生:体外に産み付けられた卵の中で成長し、ふ化する。」 「胎生(たいせい)胎内で卵からふ化し、母親から栄養を得て成長する。【シロシュモクザメ】シュモクザメ科シュモクザメ属大きさ:4m分布: 本州から九州、琉球列島、世界の温帯から亜熱帯域環境: 沿岸から沖合、内湾、汽水域表層で多く見られる大型のサメで、沿岸にはあまり近づかない。母親の胎内でふ化した仔魚は、まずは自分のお腹についている栄養(卵黄)から栄養を得て成長します。卵の栄養を使い切ると、卵黄をつつんでいた袋(卵黄嚢)が胎盤となり、そこにつながるへその緒から栄養を得てさらに成長します。」 「卵胎生(らんたいせい)胎内で卵からふ化し、卵黄から栄養を得て成長する。【ラブカ】ラブカ科ラブカ属大きさ:2m分布: 千葉県から九州南岸、沖縄トラフ、太平洋、大西洋環境: 沖合から外洋の低層原始的な特徴を残すサメで、鰓(えら)穴が6対ある。母親の体内にある卵の中で成長し、ある程度大きくなると殻を破って出てきます。お腹に栄養(卵黄)をつけた状態でさらに成長します。母親のお腹の中にいる時間は3年以上にもなります。卵胎生は無胎盤性ともいわれています。」 「卵生(らんせい)体外に産み付けられた卵の中で成長し、水中でふ化する。【ネコザメ】ネコザメ科ネコザメ属大きさ:1.2m分布: 北海道、岩手県から九州、八重山諸島、東シナ海環境: 浅い岩礁や海藻海底近くを泳ぎ回り、巻貝やウニを食べる。一回に2つの卵を産みます。仔魚は、母体外に産みつけられた卵の中で成長します。卵は岩のすきまなどに入ってから固くなり、そこで固定されます。仔魚は産卵後、約7ヶ月でふ化します。」 「ネコザメ」。 「アカウミガメ」の骨格標本と「アオウミガメ」の剥製。 「タイマイ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・c
2026.08.20
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次に今話題の「クマの仲間」の展示コーナーへ。「ツキノワグマ」。 ネットから。ツキノワグマ(月輪熊)と呼ぶのは、胸に「三日月(月)」のような形の白い模様があることが由来です。漢字で書くと「月輪熊」となり、この胸の白い輪っか(月輪)が特徴的な姿をしているため名付けられました。胸の模様は三日月のようにはっきりとV字やU字に出る個体が多いですが、なかには全く模様がない個体も存在します。また、この模様の形や大きさは個体によって異なるため、研究者が個体を識別する際の手がかりにもされています と。「ヒグマ」。国内でヒグマが生息しているのは北海道のみです。本州以南には「ツキノワグマ」が生息していますが、北海道にはツキノワグマはおらず、ヒグマだけが生息しています と。 「ヒグマ」、「ツキノワグマ」の生息範囲👈️リンク はこれを。顔をズームして。「ヒグマ」。 移動して「ヒグマ」の骨格標本を。 「クマの仲間分布ユーラシア、北・南アメリカなど生息環境森林、草地特徴主に植物を食べる雑食性(ホッキョクグマを除く)。体形はずんぐりしていて頑丈な太い四肢を持つ。踵(かかと)をつけて歩き(蹠行性〈しょこうせい〉)、後肢で立ち上がることができる。爪は頑丈で、穴掘りや木登りに向く。」 立ち上がるクマの姿をネットから。■二本足で立ち上がる理由クマが立ち上がるのは、人を威嚇するためだけではありません。実際には、・遠くを見渡す・においを嗅ぐ・音を聞き取るために後肢だけで立ち上がることが多く、好奇心から周囲を確認している場合もあります と。「ニホンジカ」、「ツシマジカ」。「ニホンジカ」は日本に生息する野生シカの総称です。 日本固有種ではなく、ベトナムから極東アジアにかけて広く分布します。 日本産亜種は、エゾシカ(北海道)、ホンシュウジカ(本州)、キュウシュウジカ(四国・九州)、マゲジカ(馬毛島)、ヤクシカ(屋久島)、ツシマジカ(対馬)、ケラマジカ(慶良間列島)の7亜種です とネットから。 「イノシシ」。 「イノシシ」の骨格標本。 「イヌの仲間分布世界中(マダガスカルやニュージーランドなどを除く)生息環境森林、草地など特徴長い鼻面がよく発達した嗅覚、しなやかな体とぶっとした長い尾を持ち、鋭い歯で獲物をとらえる。指の4本の爪は引っ込められない。」 「タヌキ」、「キタキツネ」。 「アカギツネ」。毛皮は赤みを帯びた褐色を基調とするため「アカギツネ」。日本には、他のキツネ属の動物は自然分布しないため、日本語で単に「キツネ」というときは、通常アカギツネを指す。英語でもイギリスとアイルランドでは、他の野生のイヌ科動物が棲息しないため、アカギツネが単にFox と呼ばれる と。「レッサーパンダ」、「ハクビシン」。 「アライグマ・イタチ・マングースの仲間」 「アライグマ・イタチ・マングースの仲間分布世界中生息環境森林、草地、水辺、沿岸特徴肉を切り裂く鋭い臼歯(裂肉歯)を持つ。植物を食べる事もあり、食性は多様。草食動物にくらべて、目が正面につく。尾は長く、イタチ類・マングース類は胴が長く、四肢が短い。」 「サルの仲間①」。 「サルの仲間①分布アジア、アフリカ、中央・南アメリカ(熱帯・温帯中心)生息環境森林、草地特徴指に平爪(ひらづめ)がある。マントヒヒは草原や岩場など地上で生活する。オスの成体は頭から背にかけて長い毛が生える。バーバリーマカク・ニホンザルは、樹上と地上を利用し、尾は短い。」 近づいて。「サルの仲間②」。 「サルの仲間②分布アジア、アフリカ、中央・南アメリカ(熱帯・温帯中心)生息環境森林特徴親指が他の指と向き合い、器用にものをつかむことができる(対向指)。多くは指に平爪があるが、マーモセット類とタマリン類は後ろの足の親指のみ平爪で、他の指は鉤爪(かぎづめ)。」 「オラウータン」。長い両腕で頭上の太い枝をつかんでいる姿が展示されており、オランウータンの樹上生活への適応が非常によく分かります。特に目を引くのが「大きな頬」。この個体は成熟したオスと考えられると。顔の左右に大きく張り出している黒っぽい部分は、頬胼胝(ほおだこ)/フランジ(cheek flanges)と呼ばれるもの。成熟した雄のオランウータンでは、男性ホルモンの影響によって顔の両側にこの大きなフランジが発達することがあります。フランジにはどんな意味があるのか主に、・成熟した強いオスであることを示す・他のオスに対する威圧・社会的な信号になる・メスに対する性的なアピールに関係すると考えられています。さらに成熟したオスでは、喉の部分に大きな喉袋(のどぶくろ)も発達し、「ロングコール」と呼ばれる非常に大きな声を遠くまで響かせます。 そして腕が驚くほど長い。オランウータンはほとんどの時間を樹上で過ごすため、長く強力な腕+枝をしっかり握れる手足を発達させました。腕を広げた長さは大型のオスでは2mを超えることもあります。この剥製のように腕を上方へ伸ばすと、その長さが非常によく実感できます。「オランウータン」の名前の意味も面白い。マレー語・インドネシア語のorang=人hutan=森に由来し、「森の人」という意味であると。まさに、この剥製のように長い腕で枝をつかみながら森林の樹上で暮らす姿をよく表した名前。この標本は、先ほどの「サルの仲間②」で説明されていた「ものをつかむ手」から、さらに高度に樹上生活へ適応した大型類人猿の姿を見ることのできる、大変興味深い展示であった。人間と同じ「扁爪・平爪(ひらづめ)」。(ネットから)扁爪(ひらづめ)は平爪とも呼ばれる、扁平な板状で左右にあまり湾曲しない爪のこと。哺乳類の爪の構造の一つで霊長類にみられ、ヒトの爪も平爪である。英語でネイル「nail」というのは普通はこの扁爪のことで、肉食の哺乳類、爬虫類、鳥類などに見られる鉤爪は「claw」、有蹄類に見られる蹄は「hoof」と言う。指先の保護が主な役割であるが、えぐったり掻いたり、さしたり削ったりする役割も担っている。またサルや人間に特徴的な、指先で他物を操作する(つまむ、握る)動作の際に、接触の圧によって指先の肉が指先方向にずれるのを防ぎ、操作の精度を高めるのに役立っている と。「ボルネオオランウータン」。 「シロテテナガザル」の骨格標本(左)と剥製標本(右)。テナガザルは森林の樹上で、枝から枝へ腕だけを使って振り子のように移動します。この移動方法を「ブラキエーション(腕渡り)」といいます。一方の手で枝をつかみ、体を大きく振って、次の枝をもう一方の手でつかみます。そのため、長い腕そのものが「振り子」の役割を果たします。勢いがつけば、枝と枝の間を大きく飛び移ることもできます と。「キンカジュー」 近づいて。「キンカジューはアライグマの仲間外観がサルに似るが、食肉目のアライグマの仲間。四肢は比較的短く、前肢よりも後肢の方が長い。それぞれ5本の指があり爪は鋭く、アライグマと同様に手先が器用。中南米の熱帯雨林に生息。夜行性で昼は樹洞などの巣で眠り、夜に採餌活動する。樹上性で長い尾を木に巻き付けて移動する。植食性の傾向が強く、主にアボカド・グアバ・マンゴーなどの果実を好んで食べる。また、非常に長い舌で花の蜜や蜂蜜を舐めとる。」 「アメリカバイソン」の骨格標本。 アメリカバイソンは、オスの体重が最大1,000 kg以上、体高が約1.5 m〜1.7 m に達する北米最大の草食動物です。重い頭部を支え、強力な角で突進するために、頸椎から胸椎にかけての棘突起(きょくとっき)が非常に長く発達しているのが骨格上の大きな特徴です。これにより、肩のあたりが大きく盛り上がった独特の体型が骨格からも読み取れます。ネットから。アメリカバイソンは、北アメリカ最大級のほ乳類。 オス、メスともに角の生えた大きな頭が特徴的で、その重たい頭を支えるために、かた回りの筋肉が高く盛り上がっていて、おしりに向かって「きゅっ」と小さくなっていきます。冬はふかふかの毛でおおわれ、とても寒さに強く、おびひろ動物園では厳寒期でも屋外にいます。「オオカンガルー」であったか? 剥製の縫い目がハッキリと!??。「セスジワラビー」の骨格標品。 セスジワラビーとミナミオポッサムのホネには有袋類特有の袋骨があるのも良く見えるのであった。近づいて。「パルマワラビー」。カンガルー科の動物の中で小型の種のひとつです。尾は、体と同じぐらいの長さがあります。低木の多い湿った林に生息しています。基本的に単独で行動しますが、小さな群れをつくることもあります。日中は茂みの中で休み、夕方から活動を始めます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.19
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「ユーラシアカワウソ」、「シベリアイタチ」。 「水辺の獣水辺に住むイタチの仲間は、胴体が細長く、しなやかで、敏しょうに泳ぐ。四肢は短く、足に水かきも持つこともある。皮膚には下毛が密生し、それを覆う長い剛毛は水をはじく。水中の甲殻類・両生類・魚類などを捕らえて水辺で食べることが多く、小臼歯が発達する。」 ズームして。「コハクチョウ」、「マナズル」、「コガモ」。 「ショウジョウトキ」、「トキ」 、「カルガモ」。 「ショウジョウトキ」、「トキ」に近づいて。「トキ」。「水辺(陸水)の鳥」。 この展示では、水辺の鳥を大きく二つのタイプに分けて説明しています。・コウノトリの仲間(サギ・コウノトリなど) ・長い脚で浅瀬を歩く。 ・長いくちばしを素早く突き出し、魚やカエル、昆虫などを捕らえる。・カモの仲間 ・体は横に広く、水に浮かびやすい形。 ・幅広く平らなくちばしには「ろ板」と呼ばれる細かな構造があり、水と一緒に吸い込んだ 餌だけをこし取って食べる種類も多い。 ・水草や水生昆虫、小魚などを採食する。このように、水辺の鳥でも「獲物を突いて捕る鳥」と「すくい取って食べる鳥」では、くちばしや体形が大きく異なっていることが分かります。移動して。「水辺(陸水)の鳥コウノトリの仲間は、水中の生きた動物を捕食することに適応した体形や行動を発達させている。長い嘴(くちばし)を素早く突き出して昆虫類・両生類・魚類などを捕食する。カモの仲間は体の幅が広く、あしは短いことが多い。幅広く平らな嘴で水中の動物や水辺の植物を食べる。」 「トカゲとヘビの仲間」。 「トカゲとヘビの仲間分布世界中(南極を除く)生息環境森林、草地、沿岸特徴体表は、角質層が折れ重なった鱗(うろこ)に覆われる。トカゲ類の四肢は体側から横に突き出る。ヘビ類の骨はほとんどが椎骨(ついこつ)と肋骨(ろっこつ)。」 「アオダイショウ」。ヘビの骨格ヘビは四肢を失った進化を遂げたため、骨格の大部分は椎骨と肋骨で構成されています。種類によっては200~400個以上の椎骨を持ち、この多くの骨がしなやかな蛇行運動を可能にしています。 アオダイショウ(青大将)が実際には緑や褐色の体色をしているのは、「青」という言葉が、緑色やオリーブ色を含む幅広い意味で使われていた日本語の古いニュアンスに由来するためまた、日本最大のヘビであることから「大蛇(オロチ)」や「大将」に例えられ、「青い(緑がかった)大将」として親しまれてきたとも言われています。手前に「サバンナオオトカゲ」。 「ミズオオトカゲ」ミズオオトカゲ(サルバトールモニター)は、コモドオオトカゲに次いで世界で2番目に大きなトカゲです。最大で2.5mに達する体躯、水辺を好む半水生の生態、そして背中に入る黄色やクリーム色の輪状斑紋(リングマーク)が特徴。「アメリカアリゲーター」。幅広いU字形の口先を持っており、口を閉じると下あごの大きな歯が目立ちにくいのが特徴。アメリカ南東部の湿地や川で生息するアメリカアリゲーターは、顎を持ち上げて陸上を歩くことができます。 性格は比較的おとなしく、臆病で神経質です。「ヌマガエルの背中線」ヌマガエルの背中の中央には、細い1本の白い線(背中線)が入る個体と入らない個体が存在します。これは単なる模様の違いであり、同じ種類です。九州地方では出現率が高いですが、地域によっては背中線を持たない個体が多く見られます。 「モグラの仲間分布 ユーラシア、 アフリカ、 北アメリカなど生息環境 地中、地表、水中など特徴 鼻は細長く、複数の咬頭(こうとう)がある小さい歯を多数持つ。 移動する時、地面に足裏と踵(かかと)がつく(蹠行性〈しょこうせい〉)。 穴を掘るモグラ類の前の足は大きく、鎌状の骨で補強される。 ハリネズミ類の棘は体毛が硬化したもの。」 「オオアシトガリネズミ」、「ヒミズ」、「アズマモグラ」。 「アムールハリネズミ」。 ・中央部の茶色い部分は、びっしりと並んだ棘(針)です。・周囲の白っぽい部分は、お腹や顔、足などを覆っていた普通の柔らかい体毛です。つまり、一匹の動物の中に・背中だけは硬い棘・腹側は柔らかい毛という二種類の毛があることがよく分かります。棘は「針」ではなく「毛」ハリネズミの棘は、植物のトゲのようなものではなく、一本一本が硬く変化した毛(体毛)です。毛と同じように・毛根から生え、・ケラチン(爪や髪と同じ成分)でできており、・生え替わることもあります。ハリネズミの防御法敵に襲われると、・体を丸く縮める。・背中の筋肉を収縮させる。・棘を全方向に立てる。こうして、まるで「針山」のような姿になり、キツネやイタチなどの捕食者から身を守ります。この標本で特に注目したい点この毛皮標本では、・背中の棘が体の中央だけに集中していること・顔・腹・脚には柔らかい毛しかないことが一目で分かります。展示説明板の「ハリネズミ類の棘は体毛が硬化したもの」という文章を、実物で理解できる大変分かりやすい教材になっているのであった。「アムールハリネズミ👈️リンク・分類:哺乳綱 真無盲腸目(旧・食虫目)ハリネズミ科・学名:Erinaceus amurensis・分布:中国東北部(旧満州地方)、ロシア極東(アムール川流域)、朝鮮半島など・体長:約20~30cm・体重:約600g~1.2kg(季節によって変動)特徴・背中には約5,000~7,000本もの棘があります。・棘はケラチンでできた体毛が変化したもので、危険を感じると体を丸めて棘を立てます。・鼻先が細長く、優れた嗅覚で餌を探します。・夜行性で、昼間は草むらや落ち葉の中で休みます。食べ物名前から「ネズミ」の仲間と思われがちですが、ネズミではありません。主な餌は・昆虫・ミミズ・カタツムリ・クモ・小型のカエルやトカゲ・木の実や果実 などを食べる雑食性です。冬眠する寒い地域に生息するため、秋になると脂肪を蓄え、冬眠します。冬眠中は体温や心拍数を大きく下げてエネルギーを節約します。」 危険を感じると体を丸めて棘を立てます。「ムササビムササビは日本の固有種であり、本州、四国、九州に生息している。 生息地によってニッコウムササビ、ワカヤマムササビ、キュウシュウムササビの3亜種に分けられている。 「ムササビ」の骨格標本。 ムササビ👈️リンク は長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空でき、樹から樹へと飛び移ることができる。「ニホンモモンガリス科モモンガ属に分類される齧歯類。別名ホンドモモンガ。単にモモンガと呼ばれることもある。夜行性で、樹上で活動し、足の間にある飛膜を広げて木から木へ滑空して移動する。天敵はフクロウ類で、フクロウ類に見つからないよう、夕方に巣穴から出ると素早く樹間に姿を消す」「クリハラリス台湾や中国南部からマレー半島など、アジア全域に広く分布する小型の哺乳類です。日本では、神奈川県、静岡県、和歌山県、長崎県などに定着しており、大阪府でも一部地域で確認されています。 在来のニホンリスとの競合など、生態系への影響などの大きさから、外来生物法で「特定外来生物」に指定されています。」。 「アナウサギ」。 「アナウサギ」の骨格標本。 「ドブネズミ」の骨格標本。 「オオアリクイ」、「アルマジロ」。 「アリクイとアルマジロの仲間分布 中央アメリカ、 南アメリカ生息環境 森林、草地など特徴歯は全くないか、小さく退化。腰椎(ようつい)に特殊で強固な関節がある。オオアリクイは前肢の2本の爪が頑丈。」 「鎧(よろい)のような皮膚を持つ動物アルマジロ類とセンザンコウ類は異なる分類群に属するが、どちらも体表を覆う固い「鎧」を持つ。危険を感じると背側を盾とし、鎧のない腹側を守る。アルマジロの鎧は皮膚が角質化した板で、肩と腰は固定した板に覆われるが、背の中央部分は帯状の板に覆われ、内側の皮膚に付いて伸縮する。センザンコウの鎧は毛が鱗(うろこ)状に変化したもので、厚い皮膚から伸長し、定期的に生え替わる。」 「カモシカ類はウシの仲間カモシカ類は、シカの仲間ではなく、ウシやヤギと同じウシの仲間。体型はずんぐりしていて体毛が長い。シカとは違い、頭蓋骨から伸びた短い角がオスにもメスにもある。角は生え変わらずに伸び続け、枝分かれもしない。山地や丘陵地帯に生息し、木の葉・芽・花・実などを食べる。「ニホンカモシカ」は日本の固有種で特別天然記念物。」 「ニホンカモシカ」。 正面から。近づいて。「ウシーシカーイノシシの仲間」。手前にシカの骨格標本。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.18
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この日は7月9日(木)、藤沢地名の会主催の「日本大学生物資源科学部・骨の博物館」見学ツアーに参加した。この「日本大学生物資源科学部・骨の博物館」は「骨の多様性と進化」をテーマとした博物館で・「骨」に関連する資料・情報・学部の研究・教育に関する資料・情報を、展示 を行っている博物館とのこと。集合場所・時間:六会日大前駅(小田急江ノ島線)改札前13 : 45解散場所・時間:骨の博物館、15 : 50但し自由観覧時の退室可能 と。 定時に参加者約20名が集合し、「日本大学生物資源科学部」に向かって徒歩で進む。そして徒歩で10分弱で「日本大学生物資源科学部」の正門に到着。 そして正面奥に「日本大学生物資源科学部」の「本館」・地下2階・地上14階建て(高さ約74m)。我が地域で一番高い建物であろう。 春の桜の名所になっている「日本大学生物資源科学部」。今年の4月に訪ねた時の写真。中央に「日本大学生物資源科学部」の「本館」・地下2階・地上14階建て(高さ約74m)。「生物資源科学部」、「藤沢高等学校 藤沢中学校」、「鶴ヶ丘高等学校」と刻まれた石碑。 「本館」を正門側から見る。 正門、骨の博物館、キャンパス案内図。正門を入ると、左手前方にあったのが「骨の博物館」。 近づいて。「骨の博物館 Museum of Bones and Skeletons」。2019年のリニューアルで「骨の博物館」というキャッチーな愛称がつきました。約300点の骨格標本に加え、実は生物資源科学部の11学科に関わる約2500点の資料が全て集結しています。ここは、命の多様性をギュッと凝縮した超・知的な空間です。当館の学芸員である田中雅宏さんは、運営から標本の収集・管理まで、何でも担当されています。田中さんは「大学が持つ専門的な知識を、皆さんや高校生など次世代の学びたい人たちに分かりやすく伝える、架け橋的な役割が私たちの役目です」と語ります。ここでは、一般の方が触れる機会の少ない大学での学びを垣間見ることができます とネットから。 現在地はここ。展示室案内図。・1F 野生生物・2F 家畜動物・水槽・3F コレクション展示 と。1階は展示コーナーを一新し、陸・空・海と環境別に標本を展示しています。まずは1Fの「陸エリア」 主に陸で暮らす生物の骨格標本,剥製を展示しています。案内してくれたのは、博物館・学芸員のTさんと、現在「藤沢地名の会」の会員であり、長年の間この大学の動物学の教授であったKさんの2名。2班に別れて、見学のスタート。1階は「骨を見る」がテーマ。陸・海・空の生き物約300点の骨格標本が並び、命の多様性と進化の軌跡を感じられる空間が広がっているのであった。まずは「大型草食獣主に広い草原に生息し、地上を速く走ることができる。草・葉・果実などを食べ、食物をすり潰すのに適した臼歯を持つ。おしなべて長い鼻面を持ち、頭部は水平に保たれ、樽型の胴体はほぼ同じ長さの四肢に支えられる。 「シロサイ」の骨格標本。これらの動物標本・骨格標本は、大学の多くの卒業生が、動物園や獣医として活躍されておりその方々のご努力により入手出来た動物の遺体から動物標本・骨格標本を作り上げて来ているとの説明があった。シロサイの二本の角は、どちらも骨ではなく、人間の爪や髪と同じケラチンでできている と。長い前角は外敵から身を守り、雄同士の争いにも使われる最大の武器である。一方、短い後角は前角を補助し、頭部の安定や威嚇にも役立つと考えられている と。 この骨格標本で注目すべきは、「角そのもの」だけでなく、それを支える頸椎・肩甲骨・前肢の骨格。巨大な角を支えるために、首から肩にかけての骨が驚くほど頑丈にできており、進化の巧みさを実感できる展示となっているのだ。近づいて。前角は木の枝のごとし。「シロサイ」の姿をネットから。 「シロサイ上顎にも下顎にも前歯(切歯、門歯)がなく、成獣で20本の奥歯(臼歯)が生えています。サバンナの丈の短い植物を唇で挟み取り、奥歯ですりつぶすように食べています。広い唇で挟み取ることで、前歯で噛み切るよりも多くの草を一度に口に運ぶことができます。」私たち人間や馬・牛などは前歯で草や葉を噛み切りますが、シロサイは大きな唇で草を包み込むように集め、そのまま奥歯へ送り込み、臼歯ですり潰すのだ と。 そして次に「ヒトコブラクダ」。ヒトコブラクダの骨格は、細長くスラリとした四肢と、胸郭から背中にかけて高く隆起した棘突起(きょくとっき)が最大の特徴。移動して。「ヒトコブラクダ」の姿をネットから。「ヒトコブラクダ」。 ネットから。背中のコブ自体には骨はなく、脂肪の塊を支えるため、胸椎の上部が長く発達している と。こちらは「アフリカゾウ」。 ネットから。「アフリカゾウ上下左右の大きな奥歯(後臼歯)と2本の大きな牙(切歯)の計6本しかありません。奥歯の表面に洗濯板のような凹凸があり、植物をすりつぶして食べています。長い鼻で植物を摘み取り口へ運ぶため、噛み切るための前歯(切歯、犬歯)は必要ありません。」 「アフリカゾウ」。 頭部にズームして。アフリカゾウの骨格説明図をネットから。「キリン」の首~頭部。キリンの首の骨(頚椎)の数は、人間と同じ7個。哺乳類は7個に決まっている と。しかし、キリンの骨の1つ1つが約40cmと非常に大きく、さらに胴体側の「第1胸椎」が高い可動性を持っているため、機能的に8番目の首の骨のような役割を果たし、驚異的な柔軟性と長さを実現しているのだ と。胴体部。ネットから。ネットから。「キリン上の前歯(切歯、犬歯)がないため、下の歯と上の歯茎(歯床板)を器用に使って枝から葉をこそぐようにして食べます。一度食べた草は胃の中で発酵され、再度口の中に戻してすりつぶします。これを「反芻(はんすう)」といいます。反芻をするために奥歯(臼歯)は湿った草をすりつぶすのに適した形状をしています。」 キリンの脚先は、二本の蹄だけで巨体を支える偶蹄類ならではの構造である。蹄の上には二本の骨が一本に癒合した「砲骨」があり、強度と軽さを両立している。細く見える脚には、巨大な体を支え、サバンナを駆けるための進化の工夫が凝縮されていた。① 指は2本だけ(偶蹄類)最も大きな特徴は、二本の指(第3・第4指)だけで体を支えていることです。牛やシカ、ヒツジと同じ偶蹄類(ぐうているい)の仲間で、写真でも左右二つの大きな蹄(ひづめ)が確認できます。② 巨大な体を「つま先」で支えているキリンは体重が約800~1,200kgにもなりますが、かかとを地面につけず、つま先立ちの姿勢で立っています。実際に地面に接しているのは蹄だけで、長い中手骨・中足骨が脚をさらに長く見せています。③ 「砲骨(ほうこつ)」という一本の骨写真では、蹄のすぐ上に太い一本の骨が見えます。これは実際には二本の中手骨(または中足骨)が完全に癒合した「砲骨(ほうこつ)」です。この構造により、・強度が高まる・体重を支えやすい・効率よく走れるという利点があります。④ 蹄は衝撃を吸収する二つに分かれた蹄の内部には弾力のある組織があり、・着地時の衝撃を和らげる・滑りにくくする働きをしています。サバンナを時速50~60kmほどで走れるのも、この構造のおかげです。⑤ 副蹄(ふくてい)牛などでは地面につかない小さな「副蹄(狼爪)」があります。キリンにも副蹄はありますが、通常は高い位置にあり、歩行中に地面へ接することはほとんどありません。そのため、この写真では目立ちません。人間との違いをネットから。キリンのかかとは歩行中に地面に着くことはないのだ と。テレビでやっていたが、人間の足の小指の骨の数は2本、3本と人によって異なると。親子、兄弟でも異なることが多々あると。日本人は2本、外国人は3本が比較的には多いのだと。そして「ヒョウ」の剥製。 「カラカル」、「ベンガルヤマネコ」の剥製。 「ライオン」の骨標本。 ネットから。「ライオン」。 「ベンガルトラ」の白変種の「ホワイトタイガー」の頭蓋骨。 「ベンガルトラ」の白変種の「ホワイトタイガー」。 正面から。トラの骨格と剥製です。ネコの仲間は指だけが地面につく指行性という立ち方をします。前後の足の写真の赤丸が手首とかかとです。骨で見ると地面に着いていないことがよくわかります。足の指。「ベンガルトラ(白化型のホワイトタイガー)」。 「ホワイトタイガー」の骨格標本の前で、学芸員のTさんが頭の骨を指さしながら「これは骨粗しょう症の跡なんですよ」と教えてくれました。よく見ると、骨がスカスカになっているではないですか!東武動物公園から寄贈を受けたホワイトタイガーで、老衰で亡くなったときは国内最高齢の20歳、人間の年齢で100歳超(!)だったとか。人間と同様、動物も加齢に伴い骨密度が低下していくのだと。この頭部の骨には骨粗鬆症の兆候が見えると。「カバ」 ネットから。「カバとクジラ類の祖先は同じ?カバは、現生哺乳類の中で最もクジラ類に遺伝学的に近縁であると考えられています。カバのかかとの骨(踵骨)は滑車状の構造をもち、クジラ類の祖先とされるパキケトゥスの骨とよく似ています。」 「カバ」。 「肩甲骨」。カバの肩甲骨は、体重を支えて前進するために非常に頑丈で発達したつくりをしています。走ったり泳いだりする際の強力な推進力を生み出すため、首や背中の筋肉ががっちりと付着しているのが特徴です。興味深いことに、カバには鎖骨が存在しません。腕や前脚が複雑に動く動物(人間など)には鎖骨がありますが、カバのように体重を支えることを主目的とする動物には鎖骨がないことが多いのです。このように鎖骨がない代わりに、カバの肩甲骨は発達した筋肉によって胴体と強力に結合されています。この「鎖骨を持たない」という骨格の特徴は、イヌやゾウ、ウマなどの大型獣や肉食獣にも共通しています と。そして「コウノトリ」の剥製、骨格標本と「シュバシコウ」の剥製。 「コウノトリ」の剥製。「コウノトリ」は大型の水鳥で、まっすぐに長くのびた太く黒いくちばしが特徴。かつては日本各地に生息していたと言われていますが、明治以後の乱獲や大戦後のほ場整備・河川改修による湿地の消滅、そして農薬の使用等による餌生物の減少などのため、昭和46年(1971年)の兵庫県豊岡市を最後に、野生のコウノトリは絶滅してしまいました。1971年に一度野生絶滅した日本のコウノトリですが、長年の人工繁殖と野生復帰の取り組みにより、現在は国内の野外生息数が500羽を超えるまでに回復しています。兵庫県豊岡市を中心に、全国各地へ飛来・定着し、自然界での繁殖も順調に行われている と。「コウノトリ」の骨格標本👈️リンク。 ネットから。 ・・・つづく・・・
2026.08.17
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そして正面に現れたのが「村岡城址公園」。 「村岡城址」案内柱。厳密なニュアンスの違い:城跡(しろあと・じょうせき)と城趾(じょうし)城跡(しろあと・じょうせき):現在も天守閣などが残っている場所や、建物がすでになく 土地だけになっている場所のどちらにも使えます。 国土地理院の地図記号でも「城跡」が正式名称として 採用されている と。城趾(じょうし): 「趾」が「足の指」や「土台・足元」を意味することから、 かつてそこに城があり、現在は土台や石垣だけが残っている場所を 指すのに適した漢字です。 テレビ番組や歴史小説などでは風情を出すために好んで使われます。 「村岡の歴史」を当日頂いた【参考資料】から。① 村岡の歴史地区内は、柏尾川流域の低地と丘陵から成り、「重なり合う岡の群れ」が地名の由来とされています。西端の境川は旧郡境で、かつては相模国鎌倉郡に属していました。村岡に人が住み始めたのは、6,000年前頃からと川名の貝塚や御幣山竪穴式住居跡などから推定されています。7、8世紀には狐塚や川名、天嶽院などの横穴古墳の状況からかなり大きな集落と、有力者の存在が推定されています。中世の頃、村岡は武士の活躍の舞台として歴史に残る土地で、今も多くの伝承や史跡が残っています。★桓武天皇四代高望王の第五子平良文は、延長年間(923~31)勅命により鎮守府将軍として下向、ここに荘園を開き、「村岡五郎」と称しました。当時東国では、良文の甥にあたる平将門が勢力を広げ朝廷に反抗、天慶3年(940)良文は勅命により他の兄弟とともに将門を討ち、その後東国に勢力を広げ、子忠光・忠頼らとその子孫は繁栄を極め、いわゆる関東八平氏(三浦・梶原・長尾・大庭・畠山・千葉・上総・土肥)台頭の地となりました。村岡城址は良文以来五代(良文・忠光・忠通・景成・景正)の居城跡ともいわれており、宮前の古館(固館)、渡内の上景殿という地名は孫の忠通が住んでいたことに因むものといわれています。良文は、戦勝を祈願するため、京都の御霊神社から勧請を受け、宮前に御霊神社を建て、さらに屋敷神として渡内に日枝神社を建立しました。忠通の係、鎌倉権五郎景正(政)は、源義家にしたがって、後三年の役(1086年)に出陣し、敵に射られた矢を目に立てたままその敵を倒したという武勇伝を残しています。以後、大庭御厨その他以西の開発を進め、開発地域の数社の御霊神社では祭神に祀られています。★12世紀末に源頼朝が鎌倉幕府を開くと、ここ村岡は各地から鎌倉への道筋にあたり(上の道、浜手道、鎌倉街道)、多くの人々が往還しました。同時に、鎌倉の衛星化が進み、政治、経済などで統制が強められました。また、この地は鎌倉の北西「天門」方向にあたり、鎮めのために鎌倉系の神社、仏閣が開山されました。(弥勒寺:北条泰時、法善寺:時宗、三島大社:頼朝、感応院:実朝)★元弘3年(1333)、上の道を上ってきた新田軍は村岡城址を中心に陣取り、対岸の富士塚に陣取る幕府中央軍赤橋(北条)守時と激突、幕府軍は敗退しました。現地にはこの戦いの伝承や史跡が残ります。この地は、室町から戦国時代にかけて度々戦場になりました。室町時代の村岡郷は鶴岡八幡宮の料所でした。★明応4年(1495)北条早雲が小田原に入り、ここ村岡もその支配下に入りました。永正9年(1512)築城された玉縄城の軍事、経済上の重要な地域となり、また三浦への備えとして、二伝寺砦、高谷砦、大塚山狼煙台、御幣砦や取りまき寺院(二伝寺、慈眼寺、天嶽院)がつくられ、専用軍道も敷設されました。川名には公設の市場が開設され、柏尾川は重要な物流路になっていました。大砲製造の工房では、秀吉との戦いに備え大砲を一週間で製造したと伝えられています。戦いは徳川家康によって無血開城され、当地は戦火を免れました。また、後北条時代に築かれた村落が、以後の村落の母体といわれています。★江戸時代には、徳川氏の直轄領および旗本領となり、農業中心の村岡は厳しい時代でした。村岡郷は、寛永年間(1624~44)に高谷・小塚・宮前・弥勒寺・渡内の5ヵ村に分村しました。天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』によれば、各々の家数は16・14・30・17・16戸、また、柄沢村が30戸、川名村が36戸と記録されています。厳しさを増す検地や五人組による厳しい納税、伝馬制度による定助郷の負担、参勤交代にともなう負担や、幕末には海岸監視の固人足などもあり、住民の負担の大きい時代でした。★明治20年(1887)、東海道線横浜―国府津間が開通して藤沢駅ができました。明治22年(1889)市町村制施行により、村岡郷五ヶ村に北の柄沢村と南の川名村が合併して鎌倉郡村岡村が誕生し、現在の村岡の区域ができました。★昭和16年(1941)藤沢市と合併、太平洋戦争では直接爆撃を受けなかったものの、かなりの戦死者(83名)を出し、艦載機の攻撃で死者も出て、食料の供出など大きな影響を受けました。昭和32年(1957)、藤沢市総合計画が決定され、柏尾川流域は工場地区に、丘陵・田畑地域は市街化地区に指定されました。ここから村岡地区の昭和・平成の大変貌が始まりました。柏尾川、東海道線沿いの耕地に大型の工場が進出し、続いて昭和40年(1965)以降から土地区画整理事業が始まり(平成30年/2018完了)、丘陵地帯は切り崩され谷戸は埋めたてられて、かつての原風景であった丘陵・谷戸・耕地などは急速に姿を変えて市街地化し、村岡の景観は一変しました。これも当日頂いた【参考資料】から。② 村岡の地名の起こり村岡 :岡が重なり合っているところ宮前 :御霊神社のお宮の前にある集落弥勒寺:お寺の名前が地名となった小塚 :戦国時代の死者を葬った古い塚がたくさんあった高谷 :丘に入り込んだ平地が谷間を通って高台に続いていたところ渡内 :大昔海だったあたりを渡っていくところなので、「わたりうち」が訛ってつけられた。柄沢 :昔、唐から渡(帰化)した人が住んでいたところ(唐沢)、桑や樹の柄をつくる 職人がいたところ、藤原鎌足が鎌の柄を埋めたところ、などの説がある。川名 :柏尾川が村の中を流れていたところ③ 文献上の地名「村岡」建久2年(1192)『源頼朝寄進状写(鶴岡香象院所蔵文書)』:「相模国村岡郷内」初見?永仁4年(1296)『宴曲抄』:善光寺修行に「村岡、柄沢」の地名 ※宴曲は当時の武士、貴族、僧侶などの間で流行した宴席の歌謡。 その代表選集の一つが『宴曲抄』『由井の浜(鎌倉市由比ヶ浜)鳳音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山(鎌倉市常盤)、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢(くさむら)、小萱(おかや)(藤沢市村岡)刈萱(かるかや)露ながら、沢(藤沢市柄沢)辺の道を朝立て、袖打 払声衣、きつつなれにしといひし人の、干飯た(横浜戸塚区飯田)うべし古も、』元弘3年(1333)『太平記』:(新田軍が「村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂五十余ヶ所に 火を放つ」)元弘3年(1333)『徳蔵寺板碑』:「於相州宗長村岡十八日討死」 ※徳蔵寺:東京都東村山市 攻め手の上野国(群馬県)飽間宗長を供養天正18年(1590) 『太閤御札』:「相模国玉縄内村岡郷」 ④ 村岡の地形村岡地域は藤沢市の東南に位置し、南部を柏尾川が東から西に流れ、西南端で北から流れてくる境川と合流しています。川の南北には丘と谷が入り組んだ起伏の多い丘陵が広がっています。これは東京西部から延びてきている多摩丘陵の一部で、相模川東岸に広く分布する相模野台地と、この地域西寄りの弥勒寺付近で接しています。西辺の台地を削って流れる滝川は柄沢を通り、遊行寺の南で境川と合流します。当地域は、柏尾川の南の川名、北の宮前・小塚・弥勒寺・高谷・渡内・柄沢の七つの旧村地区からなっています。村岡の丘陵は、多摩丘陵の西端にあり、基盤となっている地層は南ほど古く、川名には池子層(約300~500万年前の凝灰質砂岩層)、宮前・弥勒寺には深沢層(約100~200万年前の凝灰質砂岩層)、高谷・渡内には長沼層(約50万年前の砂質シルト層)が主に分布し、この基盤の上を関東ローム層が覆っています。丘陵は起伏に富んでいて、渡内の二伝寺の葵山は標高73mあり、このあたりを峯と呼び、二伝寺は峯の寺とも呼ばれています。柄沢は台地で、厚い関東ローム層の下には古相模川が運んだ礫層があり、台地上部の平坦面の高さは50~55mです。柄沢北部の大台と一段下がったところにある小台という小字名は、広い台地と小さい台地からきたものと思われます。江戸時代からの集落は、水の便が良く水害に遭いにくい丘陵や台地の縁、谷戸の縁に沿って主に見られました。⑤ 村岡を流れる川(1)境川境川は、県北部の城山湖付近を源として都県境を南下し、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ、流域面積約211㎢、延長約52kmの二級河川です。流域は、町田市、相模原市、大和市、横浜市、藤沢市、鎌倉市の6市が含まれます。かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれ、また現在も最下流部から河口にかけては片瀬川と呼ばれています。東海道の藤沢宿は、この川に架かる大鋸橋(現在の遊行寺橋)をはさんで左岸・鎌倉郡の大鋸町・西富町と、右岸・高座郡の大久保町・坂戸町にまたがっていました。河原耕地の南端(現弥勒寺一丁目3)には、境川に面して明治20年から関東大震災で壊れるまで「南原の水車」がありました。※流域とは、地上に降った雨がある一つの川に流れ集まる範囲のことです(2)柏尾川(かしおがわ)柏尾川は、神奈川県南部を流れる二級河川。境川の支流で、戸部川とも呼ばれます。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km、流域面積は約84㎢あります。柏尾川沿いの低地は、約6000年前の縄文海進期に藤沢駅の東側あたりを湾口として、戸塚駅付近まで奥行き約13kmに達する入江でした。その後、海水準が下がるとともに柏尾川によって運ばれた土砂が堆積して現在の低地ができあがりました。柏尾川は自由蛇行しており、堤がないため、大雨ごとに川沿いの田畑に大きな被害を及ぼす荒れ川でした。川沿いに広がる水田をコーチ(耕地または河内)といい、柏尾川沿いには、前河内・後河内・裏河内という小字があり、村岡東部から玉縄にかけては主穀耕地といっていました。現在、武田薬品研究所になっているあたりは、かつてドブ、クボ田といった水はけの悪い水田でした。堤がないため堰を設け用水路を引くことができず、大正年代まで柏尾川の水を灌漑に使うことはできず、明治3年(1870)『弥勒寺村明細帳』では、「藤沢川(境川)と柏尾川が合流して田畑に水損を与えるが、『其癖用水ニは一切相成申さず候』という怨みと諦めの交ざった文が記されています。明治期の地図で柏尾川沿いに畑が多く、田が少なくなっているのこのためであり、村岡地域の水田の多くは谷戸田でした。(3)滝川滝川は、横浜市戸塚区原宿に源を発し、一部鎌倉市域を流れ、村岡北部を東から西に、大鋸と柄沢の境を流れ、柄沢橋、御幣公園の脇を通って、藤沢橋下流で境川に合流しています。近年、柄沢橋及び下流域で浸水被害が度々発生したため、藤沢市では、国庫補助事業として平成17年度より滝川分水路の築造工事を行い、平成21年度に予定区間が完成しました。この滝川分水路の完成により、準用河川滝川の流域のうち、柄沢橋付近から下流域については、1時間当たり50mmの降雨量に対する整備ができました。(4)岩瀬川(出口川)文政7年(1860)『村岡郷五ヶ村地誌調書上帳写』に「右五ヶ村用水御座なく、天水場ニ御座候、但し渡内村ニ少し溜池これあり」とあるように、雨水に頼る天水場でした。このため旱魃(かんばつ)で被害を受けることが多く、その対策として造られたのが溜池で、村岡には3つありました。渡内の溜池は江戸時代よりあり、昭和6年(1931)拡張されましたが、昭和41年(1966)の区画整理により消滅しました。川名の2つは明治27年(1894)の旱魃を契機として造られ、現存しています。岩瀬川はこの溜池(渡内大池)に発し、井戸前、山王前、伊佐牟良口を経て出口に流れ、出口で本住寺の谷間から湧き出る支流と合流しています。その後、下河内、天嶽院谷戸を回流して弥勒寺谷戸に至り、村岡小学校の東側で柏尾川に流れ込んでいます。周辺の田畑の灌漑用水として貴重な役目を果たしていましたが、現在は暗渠となっています。右手に折れ坂道を上るとあったのが「村岡城址公園」入口。村岡城址峯渡内の南端にあり、城址の規模は東西350m、南北400m。東南西を急斜面に囲まれた台地にあり、坂東平氏の祖平高望(高望王)の五男良文が、延長元年(923年)この地に入って、村岡五郎を称し築城したとされる。良文・忠光・忠通と3代が居住したと伝わる。忠通は三浦党や鎌倉党の祖とされるが、村岡氏のその後については詳らかでない。『鎌倉市史』および『藤沢市史』では、村岡城を高谷砦とし、玉縄城の支城としている。玉縄城が築かれた永正九年(1512年)から、天正十八年(1590年)の小田原の役までの、70余年間に使われたと考えられる。「文化財ハイキングコース案内板藤沢市教育委員会村岡の歴史と文化財村岡が歴史上注目されるようになるのは、坂東八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生まれた平良文(村岡五郎)がこの辺りに荘園を開いたとされる平安時代の中頃(10世紀前半)からです。鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めの際に激戦地になったのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は度々戦場となりました。やがて戦乱の世が鎮まり、徳川将軍による治世が確立すると、村岡地区の7か村(柄沢、渡内、高谷、弥勒寺、小塚、宮前、川名)は藤沢宿の助郷と定められ、街道を往来する武士などの荷物を運ぶための人や馬を提供することを義務づけられました。明治時代になって助郷制度が廃止されるまで、それは村岡の農民にとって大変重い負担となっていたようです。現在の村岡地区は、武士が権勢を誇っていた頃の村岡地区とは地形もかなり変わっているのですが、それでもこの地を歩くと、平良文の居城跡といわれる村岡城址をはじめとして、二伝寺境内に伝わる良文の墓、良文が将門の乱鎮圧に立ち寄ったと伝えられる御霊神社、渡内村の名主であった福原家の長屋門など、村岡の地に生きた人びとが残した多くの歴史的遺産に接することができるはずです。」 村岡北部コースの文化財① 長福寺② 村岡城址公園③ 白旗神社④ ⑤ 二伝寺⑥ 慈眼寺⑦ 隆昌院⑧ 柄沢神社⑨ 天嶽院⑩ 市指定寛文4年庚申供養塔「忠魂碑」。 陸軍大将一戸兵衛書と。陸軍大将一戸兵衛(1855〜1931年)は、明治・大正期の日本の軍人。青森県弘前市出身。西南戦争での初陣から、日露戦争における旅順攻略など数々の実戦で武功を立てた。のちに教育総監などの要職を歴任し、退役後は第2代明治神宮宮司などを務めた。裏面:「昭和三年十一月十日建之合祀者氏名明治二十七八年戰役 陸軍歩兵二等卒 砂川□之助明治三十七八年戰役 陸軍歩兵軍曹 西□□□ 陸軍一等機関兵曹勲八等功七級 志村健吉 陸軍歩兵一等卒勲八等 澤内定吉 陸軍砲兵一等卒勲八等 福原佐太郎帝國在郷軍人會村岡村分會 片瀬 石工秋元大太郎」台座側面碑板:「この碑はもと村岡在郷軍人分会が小学校庭に建てたものですが 終戦後進駐軍の命にて止むなく一時埋没してありましたが 今回村岡小学校の校舎増改築に伴ひ有志一同相諮り村岡の歴史に 深い城趾公園に移すに当たり新たに大東亜戦争の戦病死者 並に戦災者を併せ祀りました 昭和四十六年三月建立 慰霊碑再建委員会 村岡有志一同 施工者 林石材産業株式会社」台座裏面碑板:「第二次世界大戦戦病死者御芳名 ・・・」日清、日露、太平洋戦争の戦没者の氏名が刻まれていた。終戦前は、村岡小学校の校庭にあり、一時埋められていたが、昭和45年(1970)ここに移設されたと。以後、村岡慰霊碑保存会により管理され、毎年有志により慰霊祭が催されているとのこと。「村岡城址」碑。昭和6年県史蹟に指定され、同7年(1932)に建立された。「額 元帥伯爵東郷平八郎書村岡城の地位は古来武相交通の要衝にあり往昔従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔五代の居城なり蓋し其の築城は今を距ること約一千年前に属す良文公は関東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任せられ多くの荘園を有し威を関東に振ひたり天慶の乱起るに及び藤原秀郷平貞盛と共に将門を征討し大いに軍功を立てたり其の後裔に秩父平氏の一族渋谷庄司重國ありその孫實重は薩州東郷氏の祖なり昭和六年村岡城址を史蹟として縣廳より指定せらる同七年村岡村の有志相謀り鎌倉同人会の賛助を得城址に碑を建て以て後に昆に傳ふと云爾 海軍中将東郷吉太郎 撰書 昭和七年十月三日 鎌倉同人會建之」 1.題字(「村岡城址」)は東郷平八郎元帥の揮毫であること。2.碑文本文は海軍中将・東郷吉太郎が撰書したこと。また、「其の孫實重は薩州東郷氏の祖なり」という一文があることから、東郷平八郎元帥が題字を揮毫した理由が分かります。東郷氏は渋谷氏を祖とする薩摩東郷氏の流れをくみ、その渋谷氏は平良文の後裔と伝えられているためなのであろう。この資料は、前ページの「平良文」の解説とも内容がつながっており、村岡城址碑建立(昭和7年)の由来を知るうえで貴重な史料となっているのであった。「この碑はもと村岡在郷軍人分会が小学校庭に建てたもので、第二次戦後進駐軍の命によりあわてて埋没してありましたが、谷村岡小学校の校舎増改築に伴い有志と同相談の村岡の古き深い城址公園に移すに当り、新たに大東亜戦争の戦没者並戦災父兄を併せ祀りました。 昭和四十六年三月建立 慰霊碑再建委員会 村岡有志一同 施工者 林石材産業株式会社」 この 平良文(村岡良文。生没年不詳)は、平高望の子ということで皇族出身者であった。そもそも 平高望(生没年不詳)は、 桓武天皇の皇子の 一人・葛原親王(786~853年)の 三男、高見王(生没年不詳)の子で、皇族の一門として 平安京 で生活していたが、889年、宇多天皇により”平”姓を下賜されて臣籍降下し、地方役人として上総介に封じられ、関東へ移住してきた人物であった。高望は上総介の任期終了後も、関東に土着する人生を選び、元皇族の血筋を武器に在地の有力層と婚姻関係を結び回り、以降、子々孫々にわたって関東一円の現地支配層に食い込んでいくこととなる。彼らの中から武力をもって自らの領地を開拓&自衛する勢力も現れ、武士が台頭してくるわけである。以降、この平高望の子孫らから秩父平氏、房総平氏、相模平氏(中村党、三浦党、鎌倉党)などが輩出され、坂東武者、坂東平氏と呼ばれるようになる。その子の 一人(五男)であった平良文は、側室の子であったことから、正当な血統上の子息とは扱われず、当初の関東赴任時には家族として帯同されることなく、そのまま京都に残されていたという。後に、関東で兵乱が勃発すると、その鎮圧軍の一将として関東へ派遣され、その功績と血統により、武蔵国の 熊谷郷村岡(今の 埼玉県熊谷市村岡)や相模国の 鎌倉郡村岡(今の 藤沢市村岡地区)に領地を分与され、定住していくこととなった。以降、村岡五郎(村岡良文)と称したようである。各所領内に居館を建設した際、この村岡の地にも居館を設けたようで、現在の長福寺周辺だったと考えられている。そして、後方の山に簡易な城塞を建造したものが、「村岡城」の起こりというわけだった。なお、父・平高望の子の一人が 平良将(873?~?年)で、平将門(903?~940年)の父にあたる。つまり、村岡城を築城した 平良文(村岡五郎)は、この将門の叔父に相当する人物であり、共に関東兵乱で共闘した記録が残されている。最終的に、両者の関係断絶を図った朝廷により、平良文は陸奥守として鎮守府将軍に任じられ東北へ遠征中に、関東で平将門の乱が鎮圧されることとなる。その後、平良文は再び関東居住を許され、下総国に定住したとされる。この平良文には 5人の子がおり、長男の平忠輔は早世していたが、平将門の娘・春姫を正室とした三男・平忠頼から千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、五男・平忠光からは 三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが子孫として枝分かれし、さらに世代を経て多くの氏族が分岐して、「良文流平氏一門」を形成することとなる(下家系図)。ただし、この村岡姓を継承した人物もあったようだが、以降の村岡氏一族の消息は判然としていない。その後、「良文流平氏一門」は関東に根を張る源氏一門に接近し、鎌倉景政(鎌倉景正。1069~?年。下家系図)は後三年の役で活躍した記録が残されている。彼は 平(村岡)忠通(下家系図)の曾孫とされ、村岡城の北隣にあった三日月山の麓に、景政の産湯の井と伝わる三日月井が伝えられている。なお、景政の死後、鎌倉党の主導権は一族の大庭氏や梶原氏が握ることとなり、村岡家や村岡荘がどうなったのかは定かではない。特に 源頼朝が挙兵し鎌倉幕府を開府するにあたり、一門の多くが協力したことから、鎌倉幕府内の有力御家人として「良文流平氏一門」が数多く名を連ねることとなる。家系図。「1)村岡五郎 平 良 文 【前半】二伝寺「村岡五郎平良文公墓前碑」より『良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして、仁和二年(八百八十六年)三月十八日生まれ、延長元年(九百二十三年)正月母と共に東国に下り、相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)、比叡山麓の日吉大社の祭神大山咋命を城砦の守護神に勧請し(現在の日枝神社)、天慶二年(九百三十九年)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶三年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城国の御霊宮の祭神早良親王(追諡号崇道天皇)を同郷宮前村に勧請した。(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖とし多くの荘園有し武威を関東に振るいたり。その子孫は前九年の役、後三年の役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶六年(九百五十二年)十二月十八日六十七歳を以て病没し此の地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。 平成十七年乙酉年十一月吉日 村岡郷土史研究会 建立』」 平良文は、平安時代中期の武将。桓武天皇四世・高望王の五男。官位は従五位上、陸奥守、鎮守府将軍。仁和二年(886)3月18日に京で生まれたとされています。昌泰元年(898)に父の平高望が東国に下向した際には、正室の子である平国香、平良兼、平良持は従いましたが、側室(藤原師世)の子である良文は京に残りました。延長元年(923)、三十六歳の良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅命を受けて東国に下向し、盗賊を滅ぼしたと伝わります。その後、武蔵国熊谷郷村岡(現・埼玉県熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(現・神奈川県藤沢市村岡地区)に移り、そこを本拠に村岡五郎を称したとされ、加えて下総国結城郡村岡(現・茨城県下妻市)にも所領を有し、現在の千葉県東庄町の大友城、同香取市にも居館があったとされています。香取市の阿玉には「伝平良文館」があり、城郭の遺構として空堀、土塁、物見台などが確認されています。良文には五人の子がおり、長男の平忠頼は早世しましたが、春姫(平将門の娘)を正室とした三男・平忠頼からは千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、五男・平忠光からは三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成しました。後に、源頼朝による源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し、鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏です。村岡城跡には良文の後裔の一族のひとつである薩摩東郷氏出身の海軍元帥・東郷平八郎が額を書いた(揮毫は海軍中将・東郷吉太郎)城址碑が建っています。額を書いた東郷平八郎は、碑文にあるように平良文から出た渋谷実重が「薩州東郷氏の祖なり」とされていることから、碑の額を書くことを依頼されました。碑文撰書の東郷吉太郎海軍中将は、東郷平八郎元帥の甥なので、これも平良文の末裔ということになります。碑文は下記のとおりです。「村岡五郎 平 良 文」。 以前に訪ねた、近くにある「戒法山宝国院二傅寺」にあった「村岡五郎平良文公墓前碑良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和二年(八百八十六年)三月十八日生まれ、延長元年(九百二十三年)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護神に勧請し(現在の日枝神社)天慶二年(九百三十九年)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶三年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城國の御霊宮の祭神早良親王(追謚号祟道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖とし多くの荘園有し武威を関東に振るたり。 その子孫は前九年の役、後三年の役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶六年(九百五十二年)十二月十八日六十七歳を以て病没し此の地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。」。墓前碑に記された系図によれば、村岡五郎平良文の子孫から、千葉、上総、秩父、畠山、渋谷、中村、土肥、土屋、三浦、梶原、長江、香川、大庭、長尾が輩出したとのこと、まさにこの地は、坂東平氏の揺籃の地と言ったところでしょうか。鎌倉歴史歩きには欠かせない地なのであったが、この日は「二傅寺」は訪ねなかったのであった。村岡城址公園は、玉縄城から南西へ約1.6km、城跡碑がある緑豊かな公園。村岡城は坂東八平市の祖、平良 文が村岡に居住した10世紀後半に築いたとされ、城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなものだったと伝えられています。『鎌倉市史』および『藤沢市史』では、村岡城を高谷砦とし、玉縄城の支城としています。玉縄城が築かれた永正九年(1512年)から70余年間使われたと考えられており村岡城を始め、長尾城、二伝寺砦など玉縄城の出城跡が多く残っています。近くには二伝寺と壺井三社大権現跡(本在寺公園)や渡内日枝神社などもある。「三日月井跡」碑。 裏面には「ここより東百五十㍍の処(公園北東隅)にあった三日月井あり 村岡城内で用水として使われ又村岡城五代城主鎌倉権五郎平影正産湯井としても知られています。後世になって近在の人々が眼病を治しにこの井で眼を洗いに多くの人が訪れたようです。」傍らに「三日月大明神」(文久2年(1862))の石碑があった。この碑はここ村岡城址へ移設の予定であったが 、区画整理事業中に紛失、現在のものは平成23年(2011)に建立された と。石井政次郎の「顕彰碑」初代村岡村村長であり、柏尾川の治水や玉縄耕地の灌漑事業に献身的に尽力、その功績を讃えた碑である と。「顕彰碑石井政次郎村長は清廉潔白、意思強固でしかも人格は円満で村民の信望も厚かった。大正三年三月から昭和十六年二月五日、六十歳でなくなられるまでの間多年にわたり村長として村の政を任されておりました。当時、柏尾川が毎年氾濫して村岡耕地の大部分が浸水し、農作物の被害は甚大であった。この点に意を注がれ、県関係者等の協力を得て自ら工事を請負い、村民の協力によって改修され、今日の柏尾川の姿となりました。特に柏尾川の川底は岩盤が多く、それを掘削する工事を宮前の石工、林 藤吉氏(現林石材産業(株)林一郎の祖父)に依頼し、その大部分は奉仕で行われた。又、小学校の増築、校庭の拡張をはじめ村役場の新築、村道の新設改修を行い、今日の村岡地区の基礎をつくられたその功績多大なものがあります。その後、昭和十六年藤沢市と合併し、戦後は企業誘致等により村岡の様相は大変革を遂げていますが、石井政治郎村長の当時の功績をしのび、後世にその偉業を語り伝えるべく碑を建てた次第です。」 「「蒼穹(そうきゅう)の碑」「蒼穹(そうきゅう)」とは、青く高く広がる大空(あおぞら)を意味する言葉。深みのある青を意味する「蒼」と、高く大きく広がる空や丸いお椀のような形を表す「穹」という漢字が組み合わさっており、単なる青空よりも広大さや奥行きを感じさせる表現として詩や小説などでよく使われる と。裏面には村岡の略歴と土地区画整理組合のことが記されていた。側面には、広田三郎氏の詩文が。「石は語らず 蒼窮の丘山なみ続く鎌倉の景悠久の天地 幾星霜江戸城に数百年今 村岡城に座す」 「蒼穹」とは青空、大空のこと。この「蒼穹」の文字を刻んだ石は江戸城から持ってきたのか?」 「村岡城址公園」の色彩豊かな遊具。現在のところ、「村岡城址」で本格的な発掘調査が行われたという公的な記録は見当たらないようだ。一方で、同じ藤沢市内の大庭城跡では、昭和40年代の発掘調査で掘立柱建物跡が確認され、2025年にも試掘・確認調査が実施されているようだ。村岡城址が発掘されていない理由として考えられること私なりに資料を整理すると、次の理由が考えられるのだが。① 遺構が大きく改変された可能性案内板にも「現在の村岡地区は、武士が権勢を誇っていた頃とは地形もかなり変わっている」とある。さらに昭和40~50年代の区画整理や宅地造成によって、城址周辺の地形は大きく変わったようだ。そのため、地下遺構がどの程度残っているかが大きな課題になるであろう。② 「伝承地」であること現在の藤沢市の説明でも「平安時代の豪族村岡氏や鎌倉氏の屋敷跡とも伝えられ、玉縄城の砦跡でした」という表現になっている。つまり、「ここに城があったことは伝えられている」という段階であり、発掘によって・堀・土塁・建物跡などが確認された、というところまでは至っていない。③ 公園化が先に進んだ現在は村岡城址公園として整備されていまる。公園整備後は、よほど保存や研究上の必要性がない限り、大規模な発掘は行われにくい傾向があるのだろう。「村岡城址」から先ほど訪ねた「高谷大神宮」の社殿が見えた。 そして「村岡城址公園」をあとにしてこの日の最後の目的地の「天嶽院」に向かって進む。 左手前方に、旧家の大きな白い蔵の姿が現れた。巨大な蔵に近づいて。手前にあったのが賃貸マンション「クレストール湘南」。家紋は「丸に方喰(カタバミ)」であろうか? カタバミの三葉を図案化し、紋章としたもの。片喰紋の葉はハート形で、近年は特に女性に好まれるといわれる。藤原氏秀郷流や清和源氏などにみられる。また、田のつく姓には片喰紋が多いとされる。特に関西や北陸地方に多く見られるが、南九州や三陸には少ない と。カタバミは、全国的に目にすることのできる雑草の類であり、路端や原野など、どこにでも群生していることで知られます。また、通常の草むしりでは根絶が難しいため、農業的な視点に立てば「厄介な雑草」という側面があります。夜になると葉が閉じる習性があり、それが半分を喰いちぎられた葉に見えることから「片葉喰み→片喰」になったといい、また茎や葉を噛めば酸味があるため「酢漿草」とも表記されます とネットから。。夜になると葉が閉じて とネットから。重厚な瓦屋根を載せた立派な旧家。かつて農村として栄えた村岡・高谷の歴史を今に伝える貴重な民家なのであろう。二階部分は、入母屋造(いりもやづくり)の屋根の中に「つし二階」を設けた形式。江戸時代から明治・大正期にかけての町家や農家・豪農によく見られ、・養蚕・穀物の保存・家財道具の収納・使用人の部屋 などに利用されたのだと。その先、、右側にあったのが「高谷公園」。 「記念碑ここ渡内・高谷・小塚を含む一帯は藤沢市の東方に位し、古来より村岡郷を形成し、歴史上もゆかりのある地域としてその名を知られてきました。その地勢は高谷の名の由来のとおり、入り組んだ深い谷戸や起伏にとんだ丘陵地が多くそれらを縫うように鎌倉の街道がとおっていました。このように重要な街道のあった山村も、ときの変遷と共に開発が進み、当地区においても関係者による種々の協議を重ねた末 昭和五十一年十月区画整理組合を設立し、直ちその工事に着手しました。爾来七年有余の歳月と二十四億円余の巨費を投じ、総面積十五ヘクタールの地区を小学校用地、高谷・渡内集会所等の諸施設の完備した近代的な街としての完成を見ましたのでこれを記念し、ここに碑を建立しました。 昭和五拾七年五月吉日 渡内土地区画整理組合」(写真はネットから)。 こちらは裏面であった。渡内土地区画整理組合の役員の名前が刻まれていた。左手に「藤沢市立高谷小学校」👈️リンク。「藤沢市立高谷小学校」の先にあった墓地。 「故陸軍対兵長勲八等彦長坂太一氏 慰霊碑」。 そして「県道312号線・横浜藤沢線」沿いにある「天嶽院」👈️リンクに到着。まいとし毎年、秋の参道の紅葉を愛でに来ている「天嶽院」。藤沢市渡内にある曹洞宗・功徳山 天嶽院(てんがくいん)の総門(山門)。茅葺き屋根と両脇の仁王像、そしてよく手入れされた松が調和し、禅寺らしい落ち着きと風格が感じられるのであった。特にこの山門は、江戸中期に徳川光圀(水戸黄門)の寄進によるもので、幕末の火災でも焼失を免れた天嶽院最古の建造物として大変貴重。現在の境内では、当時から残る数少ない歴史的建造物となっているのだ。掲示板「人は必ず陰徳を修すべし」(出典)正法眼蔵随聞記「徳」とは、人に知られてしまうと「徳」にはなりません。自分は善い行いをしたと思い込んでいるうちは、ただの自己満足です。他者の幸せを心から願う行いこそ「徳」であり、必ず自分自身に返ってくるはずです。天嶽院の境内でこの言葉に出会い、改めて「人に知られない善意」の大切さを教えられた。年齢を重ねた今だからこそ、見返りを求めず、静かに誰かの幸せを願いながら歩む人生でありたい──そんな思いを胸に、山門をこの後に潜ったのであった。天嶽院の山門をくぐる。茅葺き屋根の堂々たる山門。その両脇には、阿形(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の仁王尊が力強く立ち、訪れる人々を静かに見守ってくれたのであった。仁王門は、仏の教えを守る結界であり、この門をくぐることは、俗世から清浄な仏の世界へと一歩足を踏み入れることを意味しているのだ。この日も、藤沢地名の会への参加の皆さんが一人また一人と山門をくぐり、境内へと進んでいく。私もその後に続きながら、先ほど目にした掲示板の言葉――「人は必ず陰徳を修すべし」を思い返していた。人知れず善を積み、他者の幸せを願う心こそが本当の「徳」。その教えを胸に、この歴史ある山門をくぐると、不思議と心が穏やかになり、日々の慌ただしさが少しずつ遠ざかっていくような気がしたのであった。新緑に包まれた参道。山門をくぐると、目の前には緑あふれる参道がまっすぐに伸びていた。両脇には鮮やかな苔が広がり、その上を覆うようにカエデや木々の枝葉が優しく枝を広げ、まるで緑のトンネルをつくっている。境内には鳥のさえずりと木々を渡る風の音だけが響き、街中にいることを忘れてしまうほどの静寂に包まれていた。石畳を一歩一歩進むたびに心は自然と落ち着き、先ほど目にした「人は必ず陰徳を修すべし」という言葉が、静かに胸へと染み込んでくる。禅寺の参道は、単なる通路ではない。心を整え、日常の雑念を少しずつ手放しながら、仏の世界へと歩みを進めるための「心の道」なのであった。そしてこちらは同じアングルからの秋の紅葉の写真を。新緑から紅葉へ ― 四季を彩る天嶽院の参道山門をくぐると、真っ直ぐに延びる石畳の参道。私が訪れたこの日は、新緑が境内をやさしく包み込み、木漏れ日を浴びた苔庭が、まるで緑のじゅうたんのように広がっていた。しかし、この参道は季節が巡ると、まったく違った姿を見せてくれる。昨秋、同じ場所から撮影された参道は、赤、橙、黄金色に染まったモミジが頭上を覆い、まるで紅葉のトンネルであった。同じ石畳、同じ木々でありながら、新緑は爽やかな生命力を、紅葉は円熟した美しさを感じさせてくれるのであった。季節ごとに異なる表情を見せるこの参道は、訪れるたびに新たな感動を与えてくれる、天嶽院ならではの魅力なのである。同じ道を歩いていても、季節が変われば景色は変わる。そして、人もまた季節を重ねるごとに、その心の風景を変えていく。新緑には未来への希望があり、紅葉には人生を重ねた円熟の美しさがあるのではと。後期高齢者である私にとっては、どちらが美しいということではなく、それぞれの季節に、それぞれの味わいがあることを改めて教えられたのであった。新緑のトンネルを歩く旅友。秋になれば。山門を振り返って。秋には。「中雀門」 「中雀門」からの「法堂」。「法堂」の屋根の大きさにいつも圧倒されるのであった。天嶽院功徳山 早雲禅寺 曹洞宗 法堂号(本堂)「天嶽」開山 虚堂玄白禅師中興開山 天嶺呑補禅師開基 北条早雲(戒名 早雲寺殿天嶽宗瑞大居士)中興開基 玉縄城城主 北条綱成・氏繁再中興開基 紀伊大納言徳川光貞本尊 千手千眼観世音菩薩 天正2年(1574)古くは真言密教の古寺「不動院」といい、源頼朝が治承4年(1180)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、不動明王に大願成就の祈願をしたと伝えられています。明応4年(1495)北条早雲によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山としました。天正4年(1576)四世住職の代に伽藍は焼失しましたが、玉縄城主・北条綱成・氏繁父子によって伽藍が復興されました。更に紀伊大納言徳川光貞により、六世住職の代に七堂伽藍が完成しました。この姿が『相中留恩記略』巻之十八に記載されています。総門(山門)は江戸中期に水戸光圀が建立したと伝えられます。昭和51年(1976)伽藍復興に着手、平成10年(1998)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興しました。本尊 千手千眼観世音菩薩 天正2年(1574)(ネットから)そして南側にある墓地「湘南霊園」へと石段を上る。境内を見下ろして。大きな地蔵様。正面から。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。「地蔵嘆偈(じぞうたんげ)南無地蔵願王尊 釈迦牟尼如来の依託を受けて救世悲世入禅定 この世に出でて地蔵尊地獄無間代受苦 地獄の苦苦を替わりに受けて餓鬼飢渇皆飽満 飢えにも苦しむ餓鬼を救う畜生度生速解脱 哀れみ畜生導き給い修羅調伏我慢幢 わめき争う阿修羅を治む人間病苦生死海 生死に苦しむ人間を助け天上逍遥五衰難 清浄世界の天人を度す一称一礼勝功徳 南無地蔵願王尊と合掌礼拝み名唱え今世後世大安楽 この世、次の世にも幸福に満つ南無地蔵願王尊 南無地蔵願王尊さま南無地蔵願王尊 南無地蔵願王尊さま南無地蔵願王尊 南無地蔵願王尊さま地蔵真言おんかーかーかー びさんまえい そわか」 「◯地蔵」。 以前の写真。「藤沢市役所」を見る。 そして「山門」まで戻って。山門という額縁山門の前にまで戻り、ふと足を止めて。門柱と梁がまるで額縁となり、その先に続く参道が一枚の絵画のように映し出されていた。新緑の季節には、若葉が織りなす緑のトンネル。爽やかな風が木々を揺らし、苔の緑とともに静かな癒やしの空間を演出してくれる。そして秋になると、その同じ景色は一変する。燃えるような赤、鮮やかな橙、黄金色に染まったモミジが参道を覆い尽くし、まるで自然が描いた錦絵のような世界が広がる。この山門は、人を迎え入れるためだけにあるのではない。四季折々の自然を一幅の絵画のように映し出す『額縁』でもある。天嶽院の山門は、訪れるたびに違った名画を私たちに見せてくれるのであった。そして最後に「山門」とその前の「寺号標」と「仁王像」を振り返って。この後、ここ村岡にお住まい高校時代の学友に電話し、ファミレスで久しぶりの歓談を。そして藤沢駅南口まで車で送ってもらい帰宅の途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.08.16
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「宮前御霊神社」を後にして、「旗立山」の下に広がる住宅街の坂道を下る。 御霊神社の裏参道を下りると「鎌倉古道(上の道)」と刻まれた標石が道の角に。そして右に進むと直ぐに古道が途切れ、辻の角に立つ標石柱の前には神戸製鋼のフェンスで囲まれた敷地内に兜松があったが、昭和22年(1947年)に枯死してしまったという。フェンス内には「兜松と八ッ嶋」の看板があるだけであった。フェンス越しに。「兜松と八ツ嶋この道は鎌倉の化粧坂から柏尾川を渡り、村岡城内に通ずる鎌倉街道の名残である。八幡太郎義家が鎮守府将軍のとき奥州に後三年の役があり鎌倉権五郎景政も十六歳で従軍した。苦戦が続き新羅三郎義光も援軍にかけつけた。特に仙北郡金沢棚の合戦には鳥海弥三郎に右の眼を射られその矢を射返して敵を討ちとったことは有名である。凱旋のあとかねて祈願した御霊神社に戦勝のお礼詣りした記念に岩上の末の根もとに兜を埋めたのが兜松の由来である。またこの付近は新田義貞の鎌倉攻めの中心地で鎌倉方は相模守赤橋守時で六万余騎の大軍で元弘三年(一三三三)五月一八日は一日一夜のうちに六五度の合戦が行われた激戦地で世に州崎の戦いといわれている。その時の戦死者を葬ったのが八ツ嶋である。」以下、3枚の写真は以前に訪ねた時のものです。兜山(塚)の木立をフェンス越しに。そしてこの史蹟はどうなるのであろうか?ズームで。「かぶと松の碑永保3年(1083)陸奥守兼鎮守府将軍源義家赴任、後三年の役となる。鎌倉権五郎景政若干16歳で出陣。仙北郡金沢柵の合戦の時、鳥海弥三郎に右目を射られ、その矢を射返して敵を討ちとった。凱旋し御霊神社に戦勝を報告、記念にこの岩上の松の根もとに兜を埋めたといわれている。源頼朝は鎌倉に幕府を開き、北条氏これを継ぐ。元弘3年(1333)5月、新田義貞上野国で挙兵 利根川を渡り疾風のごとく鎌倉に迫る。三浦義勝、村岡に陣を敷き鎌倉総攻撃を敢行 18日村岡の激戦となる。鎌倉方赤橋守時以下九十余人自害す。村岡方の戦死者を八ツ嶋に葬る今回この兜松に合祀す。」と刻まれているとネットから。この先は道路工事中。「通行止め」と。 この場所は、JR東日本が、東海道線(JR東日本管内)では100年ぶりの新駅となる村岡新駅(仮称)👈️リンク の設置工事を進めているのだ。大船駅と藤沢駅の駅間に位置している旧湘南貨物駅の跡地が活用され、神奈川県、藤沢市、鎌倉市、そしてJR東日本の4者が連携して2032年ごろの開業を予定している。新駅設置により、交通利便性の向上に加え、周辺地域と連携した新しいまちづくりの拠点となることを目指していると。村岡新駅(仮称)👈️リンク工事範囲をネットから。前方に見えるのが現東海道線とその先に「湘南iPark(アイパーク)」。 「湘南iPark(アイパーク)」をネットから。そして歩いていた道路の左奥には大きな断崖絶壁が見えた。東海道線の大船~藤沢間は、1887(明治20)年7月11日の官設鉄道(現在の東海道本線)横浜~国府津間の開通と同時に開通したことを考えると、この場所は、山・丘陵の北側を削って、東海道線を開通させたのであろう。そして北側の丘陵の先端・湘南iPark(アイパーク)の南西側には、現在でもその丘陵の端が残されているのであろう。「軌道内入場口」と。この場所は、東京駅起点から49.300km地点であると。 村岡跨線橋を渡る。ここの場所からは・東海道線・上野東京ライン・湘南新宿ライン・貨物線が一望できるのであった。そして右上には御霊神社の断崖も見えた。この後、この場所に乗用車が来てビックリ!!この村岡跨線橋は道幅が狭く、現在でも「片側交互通行信号」によって車が交互に通行しているのであった。橋の上からは東海道線や村岡新駅の建設現場、そして宮前御霊神社の断崖を一望することができ、村岡の「歴史」と「未来」が同時に見渡せる貴重な観察スポットとなっていたのであった。残念ながら、富士山の姿は雲に隠れていたが、橋の上でしばらく足を止めていると、明治20年(1887)にこの丘陵を切り開いて東海道線を通した先人たちの苦労と、その約145年後に新駅建設という新たな歴史が刻まれようとしている現在とが重なって見えて来たのであった。この後、この場所に乗用車がやって来てビックリ!村岡跨線橋は道幅が狭く、現在でも「片側交互通行信号」によって車が交互に通行しているのである。橋の上からは東海道線や村岡新駅の建設現場、そして宮前御霊神社の断崖を一望することができ村岡の「歴史」と「未来」が同時に見渡せる貴重な観察スポットとなっている。残念ながら、この日は富士山は雲に隠れていた。しかし、橋の上でしばらく足を止めていると、明治20年(1887)にこの丘陵を切り開いて東海道線を通した先人たちの苦労と、その約145年後、新駅建設という新たな歴史が刻まれようとしている現在とが、不思議なほど自然に重なって見えて来たのであった。村岡跨線橋は、東海道線をまたぐ橋であると同時に、明治から令和へと続く村岡の歴史を静かに見守り続ける「時の橋」でもあるように思えた後期高齢者の姿がここに。そして「村岡跨線橋」を下る。右手前方にあったのが新装なった「藤沢市村岡市民センター」。 コンビニで購入し持参した弁当を「十二天公園」で食べる。 写真を撮り忘れたのでネットから。十二天公園の名前は、かつてこの地域が「十二天(じゅうにてん)」と呼ばれていたことに由来していると。この一帯に古くから祀られていた仏教の守護神「十二天」にちなんでおり、現在も公園の近くには「十二天王碑」が残されているとのこと。昼食後、さらに散策を続ける。「藤沢村岡線」の「高谷交差点」を右折。 「ガスト 藤沢弥勒寺店」の駐車場入口左に「寛文四年庚申供養塔」があった。 周囲は雑草に覆われていたが。寛文四年(一六六四)庚申供養塔。左から・帝釋講中現安処・・・正徳5年(1715)・帝釋天王(三猿像)・・寛文4年(1664)市有形民族文化財・帝釋天王・・・・・・嘉永7年(1854)・庚申供養(三猿像)・・宝永2年(1705)「市指定重要文化財(有形民族文化財) 昭和五十二年(一九七七)四月十三日指定寛文四年(一六六四)庚申供養塔人の体内には三尸(さんし)という虫がいて、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」の夜になると、天上に昇って寝ているその人の罪過を天帝に伝え、天帝はその内容によって人の息災・寿命を定めます。三尸の昇天をふせぐために、「庚申講」を組織して、当番の家に集り徹夜で飲食歓談したり、供養塔を建てたりする庚申信仰が、江戸時代の万治・寛文頃(一六五八〜一六七二)に庶民に広まりました。本基(正面四基のうち左から二番目の大型のもの)は、「奉立願帝釈天王」と刻まれる日蓮宗系の庚申供養塔であることが貴重です。日蓮は、帝釈天を法華経の守護神として、祀りました。本基は、ここよりやや北にあった山王◯内にありましたが、開発工事のために現地に移されたものです。 令和三年(二〇二一)三月 藤沢市教育委員会」 後ろに回ったが、文字等は確認できなかった。村岡城址公園に向けて村岡東二丁目の住宅街を北上する。 村岡は起伏が激しく、坂の多い土地だったので「重なり合う岡のむれ」からその地名がついたと 伝えられる。約一千年前の940年(天慶3)、村岡城主・村岡五郎良文(平良文)は、平氏の守護神である御霊(ごりょう)神社を京都から勧請したが、ここにこの地の歴史がはじまる。鎮守府将軍相模守村岡五郎平良文の居城の地であった村岡は村岡郷と呼ばれ、当時関東、東北の 政治の中心地であった。その後、鎌倉幕府の成立、玉縄開城で武家屋敷が増え、江戸時代には 藤沢宿の定助郷(じょうすけごう)を務めるようになる。村岡郷五ヶ村とは、宮前(みやまえ)、 小塚(こつか)、弥勒寺(みろくじ)、高谷(たかや)、渡内(わたうち)を指す。 宮前の地名は御霊神社によるもの、小塚の地名は古墳があったためといわれ、弥勒寺は寺の名前に よるものといわれている。 明治21年の町村制施行により、川名(かわな)と柄沢(からさわ)を加えて村岡村となり、昭和16年 藤沢市に合併した。一部に水田を主とする農耕地と深い谷戸をもち、山苺、山百合、野草が 見られる山林地帯であったが、時の変遷とともに市街化への要望が高まり、昭和41年3月、 およそ10年の歳月をかけて区画整理事業がおこなわれたのだと。村岡東二丁目と三丁目の境の角にあった「石塔群」。高谷大神宮の左側に位置し、数基の庚申供養塔があった。「村岡御堂」と呼ばれていると。正面から。この付近・村岡地区に散在していたものをこの場所に集めたのであろうか。コンクリート製の仏堂で囲われた『石塔群』であることがわかります。中には石仏や庚申塔のようなものが10体ほど集結。頂いた資料によると石筺左側:前列右~後列右~・地蔵菩薩立像 元禄7年(1694) 10月・地蔵菩薩立像 延宝7年(1679) 6月・法窓妙器禅定尼(如意輪観音像) 貞享4年(1687) 11月・空真禅定門 延宝3年(1675) 7月・地蔵菩薩立像 元禄4年(1691) 2月・十一面観音立像 寛政5年(1793)・聖観音立像 貞享3年2月石筺右側・中央:弘法大師像 文政3年(1820) 相模国準四国八十八ヶ所第五十三番・右:浄心法師位塔 文政8年(1825) 5月 浄心は鵠沼観音堂庵主、四国を廻りお砂と御朱印を持ち帰りました。・左:掃真妙菊禅定尼 延宝5年(1677) 6月この竹林の中にも石像があるのだ。以前に撮った写真。「石塔群」の左横の狭い階段を上っていくと、ここにも「石塔群」が。青面金剛・三猿・庚申塔などいろいろと。頂いた資料によると、階段上正面右から・庚申塔 文久2年(1862) 円覚寺東海書・六臂青面金剛庚申塔 元禄8年(1695)・庚申塔 天保12年(1841)・庚申塔 明治25年(1892)・青面金剛庚申塔 文政2年(1819)・六臂青面金剛像 享保5年(1720年)階段上右奥・道祖神 弘化5年(1848) 建長扡堂前書・道祖神 天保15年(1844)六臂青面金剛像 享保5年(1720年)をズームして。享保5年(西暦1720年)の干支の「庚子(かのえ ね)」の文字が。頂いた資料です。「高谷石塔群道路際の石造窟に、区画整理以前ここより西方250mにあった弥陀堂から運ばれた石仏があります。弥陀堂は二伝寺持ちでしたが、明治6年(1873)廃寺になりました。後の山に庚申塔と道祖神が祀られています。ここは村境といわれますが、小塚と高谷の境界は複雑なようです。鎌倉古道上の道はこれより北へ、村岡城址の西側に向かっています。(1)石筺右側・弘法大師像 文政3年(1820) 相模国準四国八十八ヶ所第五十三番・浄心法師位塔 文政8年(1825) 5月 浄心は鵠沼観音堂庵主、四国を廻りお砂と御朱印を持ち帰りました。・掃真妙菊禅定尼 延宝5年(1677) 6月(2)石筺左側:前列右~後列右~・地蔵菩薩立像 元禄7年(1694) 10月・地蔵菩薩立像 延宝7年(1679) 6月・法窓妙器禅定尼(如意輪観音像) 貞享4年(1687) 11月・空真禅定門 延宝3年(1675) 7月・地蔵菩薩立像 元禄4年(1691) 2月・十一面観音立像 寛政5年(1793)・聖観音立像 貞享3年2月(3)階段上正面右~・庚申塔 文久2年(1862) 円覚寺東海書・六臂青面金剛庚申塔 元禄8年(1695)・庚申塔 天保12年(1841)・庚申塔 明治25年(1892)・青面金剛庚申塔 文政2年(1819)・六臂青面金剛 享保5年(1720)(4)階段上右奥・道祖神 弘化5年(1848) 建長扡堂前書・道祖神 天保15年(1844)」 次に訪ねたのが「高谷大神宮」。 石段下の石鳥居の扁額「大神宮」。 「高谷大神宮」案内柱。 急な石段を上る。正面に「社殿天慶三年(940)平良文(村岡五郎)が甥にあたる平将門を討つために京都の御霊神社(祭神は早良親王)から勧請し、後に祭神として鎌倉権五郎景政・葛原親王・高見王・高望王を加え五座とした。祭神は天照皇大神、慶安3年(1650年)の創立で、高谷地区の鎮守。」「高谷大神宮祭神 天照大御神 創立 慶安三年(一六五〇年)当時高谷部落約十軒の農民が五穀豊穣と郷土の安穏を祈念し建立その後嘉永四年(一八五一年)改築 再度平成二年(一九九〇)年再建を計画平成五年(一九九三年)完成し現在に至る 例祭日は十一月十五日と定められているが農繁期のため九月十五日にかわり その後時代の推移により九月の第二日曜日となっている。 平成五年九月吉日」移動して。右隣には境内社「矢竹稲荷」。鎌倉権五郎景政が戦いの時に目を射抜かれた矢を個々に埋めたところ枝葉が生えてきたという逸話に因んだ稲荷社。と正面に朱の鳥居が2基、その先に社殿。社殿に近づいて。内陣。さらに右に由緒ある村岡の地に「和と幸せをもたらす」七福神・相州村岡七福神「大黒天」像。大黒天像は、五穀豊穣、商売繁盛、財運向上をもたらす福の神として日本で親しまれる仏像。一般的な姿は、頭巾をかぶり、打ち出の小槌と大きな福袋を持ち、米俵に乗ったふくよかな表情の立像・坐像。 「大黒天」の横には石の祠が二つ。詳細は不明。「社殿」裏からの眺め。左前方に見えたのが「藤沢市立高谷小学校」その右の緑の丘が、この日の最後に訪ねた「湘南霊園」。 参拝を終え、石段の左側にあった石碑・「貝帰坂(かいかえりさか・かいがらさか)寄附連名碑」。明治28年(1895年)に当時の村人が坂道の改修工事を記念して寄進者の名を刻んだ歴史的な石碑である と。坂については、次の様に紹介されたことがあるようだ。貝帰坂 (かいがらさか)高谷にあり「かいがえりさか」とも云われていました。高谷は丘陵に挟まれ、畑が東の山越えの裏河内にあり、この坂を越えて行ました。そしてここは古くは鎌倉上ノ道(かみのみち)とされ、また近くは、大船方面から藤沢に通じる重要な道でした。名前の由来は、大船方面から来た人が、山が高く急なため帰ってしまう、とか、まだ海だった頃貝殻も越せずに戻ってしまったなど、明治28年の切り下げ工事の時の記念碑がありますが、深沢、玉縄、茅ヶ崎の人々、また藤沢では人力車組合や縁日商人組合の寄進者名があります。(貝殻の化石が出る崖があって付いた名とみられますが、今全く崩されました。)と。そして「高谷大神宮」を後にして、「村岡城址」に向けて北上する。正面に「湘南iPark(アイパーク)」の北側の社員専用?の入口。(以前の写真)。ここを左折。その先、左手にあったのが「長福寺」👈️リンク。この日は、この寺はパス。高谷山 曹洞宗 鎌倉群植木村龍寶寺末開山:玖黎 創立:元和年間(1615~24) 本尊:釈迦如来もと村岡東二丁目にあり長く廃寺となっていたが、最近現地に移転再建されました。以前の写真を。掲示板。「布教教化に関する告諭今、世界は多くの問題や課題を抱え、私たちは苦しみや悩みの多い社会を生きています。その中で人びとが宗教に求めるものは、心の安らぎと平和な世界です。曹洞宗は、お釈迦さまが、その教えを日本に伝え弘められた道元禅師・瑩山禅師を二仏両祖と仰ぎ、歴代のお祖師さまが脈々と伝えられてきた坐禅を中心とした正しい信仰にもとづく生き方を、日々の生活に実現していくことを目指しています。その生き方とは、あらゆる存在が「縁」によって成り立っていることに心の底から気づき、そこで自ずと生まれる感謝の心を、行いと言葉と思いにして、すべての存在に回らし向けていくことに他なりません。一杯のお茶が出されたならば、それを丁寧にいただく。両べきことは、心を込めてつとめる。毎日が、かけがえのない「縁」と「いのち」の営みであることを自覚し、世界中の人びとが誰一人取り残されることのないよう、ともに願い、祈り、まずは自分自身から正しい信仰の生活を営んでまいりましょう。 合掌南無釈迦牟尼仏南無高祖承陽大師 道元禅師南無太祖常済大師 瑩山禅師 令和八(2026)年四月一日 曹洞宗管長 石附周行」 この先左奥が「長福寺」境内へと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.15
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そして「村岡御霊神社」の石鳥居に到着。 鳥居の扁額「御霊神社」。その先、参道右側にに「タブノキ」が聳える。「タブノキ」。「タブノキ(幹空洞)幹回り 五・二一米クスノキ科の常緑で大高木、イヌグス(犬樟)ともいう、樹の葉の粉末は、水で練ると粘性が強いので線香の統合剤にも用いる。藤沢市南部地区随一の大木である。宮前御霊神社保存樹林」 タブノキの根元に松尾芭蕉の句碑。「梅が香に のつと旭の出る 山路かな」立春を過ぎて残る寒い朝。梅の香が匂う山路には、何の前触れもなく朝日がひょっこりと昇ってくる と。明治初期に建立されたもの と。句に「のっと」という日常語を持ってきて、死後に一大流行を作り出した「軽み(=平明な言葉で、日常のさりげない事象を描写すること)」の実践句であると。何故ここに芭蕉句が?梅の名所なのか?右の建物には入口が二箇所、左:御霊神社社務所・御霊庵、宮前防災倉庫右:宮前町内会館 の看板が下がる。左側は例大祭の備品置き場であろうか?倉庫には山車?、神輿?等が保管されているのだろうか?「御霊神社」碑。 以前に訪ねたときの写真。「徳寿院跡(とくじゅいんあと)」への方向を示す道標。「跡」とあることから、現在は寺院そのものは存在せず、かつて徳寿院という寺院があった場所を案内している。徳寿院は、「宮前御霊神社の別当寺(べっとうじ)」であった と。別当寺とは明治維新までは、日本では「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」といって、神社そして寺院が一体となって信仰されていた。そのため、多くの神社には神事や祭礼を管理する寺院があり、それを別当寺と呼んだ。徳寿院は、宮前御霊神社を管理し、祭礼や祈祷などを担っていた寺院だったのだ。なぜ「跡」になったのか明治元年(1868)に政府は神仏分離令を出した。これにより、神社は神社寺は寺と完全に分けられ、宮前御霊神社の別当寺であった徳寿院も廃寺となった と。そのため現在は建物はなく、「徳寿院跡」として史跡のみが残っているのであった。 頂いた資料から「(2)徳寿院跡村岡山 曹洞宗 渡内村天嶽院末本尊 聖観音 御霊宮末社の疱瘡神の別当開創年不詳、明治6年(1873)に廃寺になりました。やぐら内には歴代住持の墓碑(無縫塔)があり、最古のものは享保12年(1727)。また感応院の庫裡はこの建物を移設したものといわれています。*弘法大師像 相模国準四国八十八ヶ所👈️リンク 第十六番 文政4年(1821)年、鵠沼村の浅場太郎右衛門親子が発起して、四国八十八ヶ所を倣い、 鎌倉・藤沢・茅ヶ崎・寒川・横浜へ弘法大師石像を設置し、巡礼地としたもの。祭神・・早良(さわら)親王、鎌倉権五郎景政、葛原(かずらはら)親王、高見王、高望王天慶3年(940年)、村岡城の平良文(村岡五郎)は甥の平将門の討伐と国家安穏を祈願して、山城国洛中(京都市上京区上御霊前通)の御霊社(祭神・早良親王)を勧請したといわれています。のちに鎌倉権五郎景政を合祀しました。その後、正嘉年間(1257~59)、北条時頼の命により葛原親王・高見王・高望王を合祀し五座となりました。県下に16社の分社があり、村岡地区の総鎮守です。祭神の早良親王(750年?~785年・崇道天皇)は、平良文の祖である桓武天皇の同母弟にあたります。鎌倉権五郎景政は、義家に従い後三年の役に出陣し、そのときに鎌倉の大倉ヶ谷の自邸を義家に寄進し、自分は由比ヶ浜に新邸を建て、そこを「甘縄」としたといわれています。鳥居脇のタブノキは藤沢地区南部一の大木です。脇の芭蕉の句碑は明治初期に建立されたものです。」 草むらの脇の斜面下のやぐらの中に石仏そしてその横に石碑群が並んでいた。慰霊碑。近づいて。歴代住職の慰霊碑であろうか?「徳壽院跡」碑。 以前に訪ねた時の写真。「徳寿院跡この地は村岡山と号す渡内天嶽院の末寺があった所です。また、曹洞宗の寺で天嶽院の隠居寺とも云われていました。本尊は聖観音を祀ってぃたようで創建の年歴等は不明ですが、古い〇〇に享保十二年(一七一六)の銘があり、この時代からのようであります。開山以後十二代の無縫塔墓碑があり、明治中期に廃寺となりました。その後宮前部落で管理しており、お日待や村の集会所に使われていました。昭和二十年代に解体された境内には弘法大師の像があり、江戸時代に始まったとされた相模の国・準四国八十八箇所霊場の中の十六番札所であります。 平成二十年八月吉日 宮前念仏講中 宮前題目講中」 徳寿院跡の無縫塔の石塔群がやぐら内に(以前の写真)。この日の写真。歴代住持の墓碑(無縫塔)であると。最古のものは享保12年(1727)であると。「大師像」は、徳寿院跡地の後の崖をくりぬいたやぐらの一番右端にあった。文政4(1821)年、鵠沼村の浅場太郎右衛門親子が発起して、四国八十八ヶ所を倣い、鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、寒川、横浜へ弘法大師石像を設置し、巡礼地としたものである と。「相模国準四国八十八箇所霊場の中の16番札所準四国八十八ケ所石碑には「準四国八十八ヶ所 第廿六番阿波國観音寺 旧鎌倉郡宮前村村岡山徳寿院跡「ただたのめ ふたたびとては あひがたき みのりをここに 宮前の寺」昭和57年3月宮前念佛講中」と刻まれていた。」 「村岡御霊神社」の参道に戻って、再び「タブノキ」を見る。 「本殿」への長い石段をが前方に。 左手に「手水舎」。 狛犬(右)・阿形像。狛犬(左)・吽形像。この蔵の中には?山車?神輿?「御霊神社御祭神 本殿五座 ・早良親王(崇道天皇 、光仁天皇第二皇子)👈️リンク ・鎌倉権五郎景政👈️リンク ・葛原親王👈️リンク ・高見王👈️リンク ・高望王👈️リンク 境内副社 十二天王 疱瘡神 笹折矢竹稲荷 七面宮 祭日 毎年九月十八日 由緒沿革 御祭神崇道天皇は桓武天皇が御宇延暦12年(793年)5月現在の京都市に御霊宮として祀り給い其の後村岡に五郎良文公が住し天慶3年(940年)に勧請し戦勝祈願をなしたるを初めとす のち鎌倉権五郎景政を合せ祀り二柱たりしが北條時頼の命により葛原親王 高見王 高望王の三柱を加え県下に十三の分社ありその後村岡五ヶ村総鎮守として現在に至っている」と刻まれていた。 「疱瘡神」👈️リンク。疱瘡とは天然痘のことを指し、古くより日本にも存在し、かつては一生に一度はかかる致死率の高い伝染病でした。 疱瘡神は天然痘の脅威を神格化したもので、 心安く鎮まってすみやかに去ってもらいたいと願いを込 めて祀ったものと考えられます。多くの様様な祈願の絵馬がかけられていた。「疱瘡神疱瘡「天然痘」は、古くから多くの病死者がでるもっとも恐ろしい疫病とされていた。そのため石塔を建てて祀られ、疱瘡の苦しみを少しでも軽くしてもらおうとこれらに祈りを捧げていた。この疱瘡神は鎌倉古道の道沿いで八幡山のふもとにあったものを、鎌倉権五郎平景正が末社とし、御霊神社の境内に移したものと伝えられている。古老の話では、三月三日の祭りの日には紫の旗が立ち露店も出て、多くの参詣者で大変なにぎわいだったと。なお弥勒寺堂脇にも疱瘡神が祀られている。 平成二十一年三月吉日 寄贈 村岡郷土史研究会 廣田 隆義」この辺りでも猛威を振るっていた天然痘を記録する貴重な石碑なのであった。 そして長い石段を上り、「社殿」へ(前回の写真)。近づいて。前方に社殿左側に「寿老人」。相州村岡七福神の寿老人。相州村岡七福神巡りでは、残りの弥勒寺(毘沙門天) 、小塚荒神社(布袋和尚)、柄沢神社(恵比寿) 、渡内日枝神社(弁財天)、高谷大神宮(大黒天)、川名御霊神社(福禄寿)に会えるのであった。「寿老人」に近づいて。寿老人(じゅろうじん)は、中国の道教に由来する長寿の神であり、日本の七福神の一柱。南極老人星(カノープス)の化身とされ、不老長寿、健康、家庭円満のご利益をもたらす神様として親しまれています姿・形:長い白ひげをたくわえ、頭巾をかぶった温和な老人の姿で描かれます。 頭が極端に長いのが特徴です。持ち物:手に不老長寿の象徴である「桃」や「うちわ」を持ち、長寿の記録が記された巻物を 結びつけた杖をついています。動物:数千年を生きるとされる「玄鹿(げんろく)」という鹿を従えています。性格:大のお酒好きとして知られています。「神社正面旧階段の鎌倉石前の鎌倉石の階段は慶応四年に御霊神社の造営完成後神社正面の階段九二段を元鎌倉郡今泉村より切り出し村人たちが運んで神社の正面階段に石工が工事しました慶応四年(一八六九)一三九年の歳月の経過で鎌倉石は軟質なので消耗が激しく危険なので昭和五二年神社萱葺き屋根を銅板に改修工事した後階段も新しく白川石にて改修し現在に至っております。」歴史を感じさせる赤い石の灯籠。「末社十二天王社」の朱の鳥居。「末社十二天王社十二天明神天神七代地神五代を奉祭すると云う、十二天王といって小名小山(現在の東海道線の陸橋南側階段上り口際)と云う所に元社があって旧鎌倉道添にほこらがあったと云うところが、十二天王の御御輿があらたかなのであり、それを担ぐと荒れてしようがないので、村人達が当時の金森家の裏山に埋めてしまったそうだ、現在も金森家(家号十二天又この周辺も小字十二天と呼ぶ)のかたすみに、元社ほこらが祀ってあり又開発前の塚は埋めたあとが壇のようになって、そこだけの土の色が変っていたと云う。十二天王のお祭りは七月十四日、この日子供達は樽御輿を手づくりで作り、担いで村中をねりあるきました。今でもその行事が続けられています」村岡御霊神社の境内社十二天下の小池で鎌倉景政(19)は射られた左目を洗ったことで平癒したという。十二天王社は十二天明神天神七代地神五代を奉祭し(『御霊宮来山(仁安2年(1167年))』『大永元年(1521年)文書』)、小名小山(村岡城址からのびる山の最南端)に祀られていたが、後に十二天王社は御霊神社に移され祀られる(『十二天王碑』『末社十二天王社看板』)。昭和初頭(1925年ころ)には道路拡幅で山は削られ、3m半ぐらいの「シシオトシ」もなくなり、湘南貨物駅ができたことで鎌倉権五郎景政の服を洗ったと伝えられている十二天の小池(『御霊神社略記』)もなくなり、片眼の魚の住家もなくなったため、金森氏(通称十二天)の宅端に祠を造り記念碑を建てたという。かつては天王様という立派な御輿を担ぎ、毎年7月14日に盛大に祭りが行われたが、(御輿は山頂に埋められ)御霊神社の御霊庵での日侍講に変わり、12歳を頭とする子供十二天祭りへと発展したと伝わる。」十二天王を祀る「石祠」。「十二天王社」碑。そして境内社の「兜山七面宮」。 扁額「七面宮」。 内陣を撮ったが・・・。「兜山七面宮鎌倉権五郎景政の兜を埋めし処の塚 八幡太郎 鎌倉景政と誓いの松榎の大樹有り 兜松と云う兜山に大松ありこれを兜松とよんでいた 鎌倉権五郎景政が後三年の役(1083年)の時祈願した 宮前御霊神社に戦勝の報告に参詣された記念に 兜山に兜を埋めたと伝えられている 兜山に七面宮があり安政年間(1854年)大嵐で破損し 当御霊神社の境内に移したという」 「折笹矢竹稲荷大明神」。 「折笹矢竹稲荷大明神と兜松永保三年(1083)、奥州で後三年の役がおこり、その戦に陸奥守兼鎮守府将軍であった八幡太郎義家がここ御霊神社東側の旗立山にて兵を集めました。当時、十六歳であった鎌倉権五郎景正も初陣として参戦しましたが、奥州仙北郡金沢の柵の合戦において、敵である鳥海弥三郎の放った矢により右目を射たれました。しかし景正はその矢を引き抜いて射ち返し、みごとに討ち取ったという武勇伝が伝えられています。戦いに勝利した景正は、ここ御霊神社に戦勝のお礼参りに訪れたとき、持ち帰ったその矢を境内に刺しておいたところ、青葉が生えてきました。そこを折笹矢竹稲荷大明神として奉られています。今でも神社の裏山には矢竹が生い茂っています。また、その時の兜も松の木の根元に勝利の記念として埋めました。その木は後に兜松と呼ばれています。 平成二十二年六月吉日 寄贈 村岡郷土史研究会 廣田隆義」 以前散策時の写真「旗立山の由来この碑の左上山頂に平坦地(平台山)が一二〇〇坪程あります。前九年の役(一〇五六)の出陣にあたり、源頼義がこの山にて白幡を立て軍勢を集めたことからこの地は旗立山と呼ばれています。また、その子源義家も後三年の役(一〇八六)の時に同じように白幡を立てたとされています。(其のとき村岡城主鎌倉権五郎景正が初陣としてこの戦いに参戦しました。)この旗立山には葛原親王(桓武天皇第五王子)が祀られていた塚があったとも伝えられています。平成二十一年三月吉日 寄贈 藤沢市宮前四五八番地 元近衛歩兵第二聯隊 林 善梓 百二歳」本殿を横から。この石碑は??そして「鎌倉古道(上の道)」への山道を下る。 御霊神社裏参道と鎌倉古道の合流地点に壊れかけた案内板があった。下って来た山道が裏参道で御霊神社の社殿の裏に出ます。「鎌倉古道(上の道)化粧坂 柏尾川渡り 宮前 小塚 高谷 柄沢(並木・大台・鞍骨) 島の神」 「鎌倉古道(上の道)」碑。 「御霊神社(裏参道)」への案内もあった。 「藤沢市~横浜市」境川沿いの鎌倉古街道上道。 頂いた資料より転記⑦ 村岡を通る道(1)鎌倉古道「上の道」👈️リンク鎌倉化粧坂方面より柏尾川を渡り、兜松、御霊神社の裏を抜け、貝殻坂、渡内、柄沢を通り、影取に通じたと言われています。日枝神社前を西に向かい、渡内バス停より北に並木に登り、並木下、鞍骨を経て、浜手道を合わせ、柄沢・関谷境の横道を北上したといわれます。他に柄沢神社から北上し鞍骨へ、慈眼寺の東側を通り並木へ、などの諸説があります。(2)浜手道新林公園の西側を南北に走っているのが浜手道です。北上し、川名橋を渡り右からの鎌倉街道を合わせ、河原境で右に折れ、北上して狐塚、御幣ヶ谷の東側を通り、柄沢神社を経て鞍骨の先で鎌倉古道と一本になり北上します。新田側の浜手軍がこの道を通り鎌倉に攻め入ったので名がつけられたと言われています。(3)鎌倉街道鎌倉街道は頼朝が三嶋明神を建久4年(1193)に勧請し、実朝が感応院を建保6年(1218)に創建し通ったのが鎌倉街道の起源と言われます。道沿いには、この他に弥勒寺、法善寺、船玉神社があります。(4)鎌倉街道裏道大船方面より藤沢に通じる道路で、高谷向谷戸集落の東約100mのかいがら坂(貝柄坂)を通ります。丘陵を越える急勾配のため、通行に難渋をきわめたそうです。この辺は往古は海でしたが、貝の化石が採取され坂の名前となりました。明治28年(1895)寄進者を募って切り下げ工事を行い、その記念碑が高谷大神宮にあります(「貝柄坂寄付連名碑」)。(5)北条早雲の道渡内地区内には鎌倉古道が通り、日枝神社前が分岐点となり、北へ向かうと境川沿いを通り、武蔵府中、上野、信濃へ。南下すると宮前の東で柏尾川を渡り、梶原から化粧坂を越えて鎌倉へ入ります。この南北方向の道が鎌倉古道「上の道」です。東に進むと、円光寺を通り、戸部(大船)で柏尾川を渡り、山之内から巨福呂坂を越えて鶴岡八幡宮前へ通じています。東に下りた道は、早雲が玉縄城築城の際通った道で「早雲の道」と呼ばれています。この道の二伝寺に近い台地に二伝寺砦があったといわれます。(6)北条軍道小田原から大磯宿を経由して府久保坂を下り、御幣台地を東に、大塚山の裾を通り、玉縄城下に直行する「玉縄軍用道路」があり、北条軍道と呼ばれていました。対外への北条軍の出陣はほとんどが玉縄城からだったといわれます。(7)水道道大正8年(1919)、日本海軍が横須賀港で軍艦に給水するために作ったもの。中津川の半原で取水し、横須賀まで50kmの水道管が埋設されています。取水場からほぼ直線上に敷設され、現在は横須賀水道局の管理下にあり境界石が残っています。地元には道路として歓迎されました。戦時中は米軍機の帰りの目標道とされ周辺地区は掃還機に脅かされたそうです。*渡内ポンプ所(横須賀市水道局)横須賀市の給水増水対策として、半原系統に加え、相模川からの採水開始に伴い、渡内ポンプ所にて加圧送水しています。(有馬系統:海老名市社家 → 有馬浄水場 → 柄沢橋 → 渡内ポンプ場 → 田浦配水池)(8)県道312号線高架道路この道路は昭和39年(1964)の東京オリンピック江ノ島会場でのヨット競技開催用に計画されたもので、延伸を前提としたつくりになっていますが、川名までで建設が止まっています。工事中に、渡内観音坂付近にて、旧相模川の砂礫床跡が発見されていますが、かつては相模川が流れていた跡と思われます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.14
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そして次に「高野山真言宗稲荷山 神光寺」を訪ねた。寺号標石「高野山真言宗稲荷山 神光寺」。「掲示板もとを知つる心 それが恩心の中に秘められた無限の可能性を信じよう」総本山金剛峯寺をはじめ全国の寺院で掲示されている「心の伝道」ポスター(高野山真言宗)に記された法語。■「もと」とは何か?ここでいう「もと」は、・自分の命のもと・生かされているもと・支えてくれる人々・自然・仏さま・ご先祖さまなど、自分という存在の根源を意味しているのだ。つまり、「私は一人で生きているのではない」ということ。■「恩」とは仏教でいう「恩」は、「誰かから親切にしてもらった」という狭い意味ではない。むしろ、自分が数え切れないほど多くのものに支えられて生きていることに気づく心そのものを「恩」といっているのだ。たとえば、・父母の恩・ご先祖の恩・食べ物を育てる人の恩・教えてくれた先生の恩・社会の恩・仏さまの恩など、あらゆる「支え」によって今の自分があると。高野山真言宗でも、こうした「恩」に気づくことの大切さが説かれているのだ。つまり「もとを知る心 それが恩」とは、「今の自分があるのは、多くの人や自然、仏さま、ご先祖さまなどのおかげであると、その『もと』に思いを巡らせる心こそが『恩』である」という意味。「恩を返す」以前に、まず恩に気づくことが大切という教えでもあるのだろう。「 藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造虚空菩薩立像木造一木造り、彫眼。表面刳落、右腕・左肘先・両手足欠如(本来は右手に宝剣、左手に宝珠を持っていたと推定される) 像高108.7㎝。本像は、嘉永4年(1851)に神光寺に合併吸収された大勝寺・「新編相模国風土記稿」に「大勝寺、川名山金剛院と号す。本寺前(鎌倉手広青蓮寺)に同じ。本尊は虚空蔵なり」とある虚空像菩薩と推定される。風化が甚だしいが、古様の作風から製作年代は平安時代は中期頃と推定され、市内屈指の古仏である。また、立像の虚空菩薩像は全国的にも非常に希少な存在である。 平成10年2月12日指定 藤沢市教育委員会」「弘法大師報恩謝徳供養塔」。真言宗の宗祖・弘法大師(空海)の恩恵に感謝し、その徳をたたえるために建立される石塔や記念碑。寺院の墓域や大師堂の周辺に建てられ、先祖供養や永代供養の祈りが込められているのだ。「高野山真言宗稲荷山 神光寺」の「本堂」。 弘法大師石像。「稲荷山影向院 大師石像 創建文政頃相模國第四十八箇所 七十四番 川名村御詠歌いと深く かけし誓いを たのみにて 川名のはしを わたるもろ人」 仏や弘法大師の深くて厚い誓願(救いの誓い)を心から頼りにして、多くの人々(諸人)が川名の橋を渡り、仏の道や霊場巡りへと足を進めていく様子を表現している と。石灯籠の最頂部にあるのは壺の如き形状のものは「宝珠」であろうか? 「寺務所」を見る。 「本堂」に向かって右前の「弘法大師像」。「本堂」の扁額 「影向院(ようごういん) 」 。動物の像と合体したユーモラスでほのぼのとするベンチと石造の仏塔。再び「寺務所」を。 「本堂」を斜めから。 「本堂」の左奥は小高い丘になっていた。 この丘の下にあった「横穴墓群」を次に訪ねた。 「市指定・史跡 神光寺(じんこうじ)横穴古墳(横花墓)群。「市指定・史跡 神光寺(じんこうじ)横穴古墳(横花墓)群横穴墓は、丘陵斜面や断崖に横穴を堀り、死者を埋葬する墓で、古墳時代に造られた横穴系の埋葬施設の影響を受けて、5世紀代に九州北部で造られ始めました。横穴墓は有力者の墓であったと考えられており、藤沢市内では6世紀後半頃から7世紀代を中心に造営され、神光寺横穴古墳群の位置する片瀬丘陵では数多くの横穴墓が造られました。神光寺横穴古墳群は、昭和43年に横穴墓7基の調査が実施され、土師器片、須恵器片などが確認されています。玄室内では、遺体を安置する棺座が玄室の床面から高い位置に造られており、地域的な特徴とされ、市内の古墳時代を考える上で貴重な史跡といえます。」横穴古墳(横花墓)の1基に近づいて。ズームして。ここ神光寺裏山や周辺には8世紀頃を中心に作られた横穴墓群があり、市の史蹟に指定されている。アーチ形の墓の跡で、奈良時代前期から後期のものといわれています。新林地区では金色の太刀の飾り柄頭が出土しており、県立埋蔵文化センターに展示されています と。左側にも。これらの「横穴墓群」の場所も「神光寺」の境内であるとのこと。以前に訪ねた時のアーチ状の横穴墓。さらに左側にも横穴墓が並ぶ。児玉幸多編「わがまちのあゆみ藤沢」によると、「古墳は一つの遺骸を埋葬する施設であったのに対し、横穴墓は一つの施設に何人もの遺骸を埋葬した例が多く、家族の墓であったことである。また横穴墓は単独で存在する例が少なく、そのほとんどが十数基を単位として群れで構成されているとのことである。藤沢ではとりわけ片瀬川左岸の片瀬丘陵の川名から片瀬の龍口寺にかけての丘陵斜面には 200 に近い数の横穴墓が存在するようである」と述べている。この本が出版されたのは昭和58年(1983)である。以前、FWA の会員で片瀬にお住まいのIさんのお話では、宅地開発、奥田公園(どぶ田であった)の埋め立てのため、片瀬丘陵から土砂が削りとられてしまったというお話を聞いたことがある。残念な話であるが、片瀬山を切り崩し造成したマンションの上に住んでいる自分である。 横穴墳墓2穴に沿って奥に進む道がある。左側は農地であるが横穴墳墓側は住宅地となっており、他に横穴古墳があるのか確認できなかったが、家と家の間を通る細い道があった。もろい砂岩のため崩壊防止のため一面コンクリートで覆われていた。そんな中、養生されず、岩をくり抜いた中にお墓が収まっていた。年代が比較的新しいお墓のように見受けられた。再び本道に戻り進むと林石材産業の倉庫があり行き止まりになって、右側は広大な神光寺の墓であった。一番立派なお墓は砂川さんのご本家と見られるお墓で寛永年代の戒名が見られた。 お墓を掃除していたご婦人がおられたのでお伺いすると、もとは川名の地蔵尊辺りにお墓があったが、県道 32号線の工事によって、ここに移転して来たものですとのことであった と。 引き返して、再び「神光寺」前に。再び「神光寺」の前から。 「川名御霊神社」方向に引き返す。 そして先ほど訪ねた「川奈御霊神社」の先にあったのが「馬頭観世音」碑。 そしてその先、左側にあったのが、私が小学校3~4年の時に担任の先生であった恩師のご実家。私も何度かこの家を小学校時代に訪ねたことを懐かしく想いだしたのであった。そしてバス通りの県道32号線に出て右折して進む。「川名東橋」近くの交差点を左折する。 川名交差点角は八城造園、左手には小さな道標があった。鎌倉道の分岐点を示す道標、「右・かまくら 左むさしの」と刻まれた石碑。近づいて。鎌倉道・鎌倉街道は各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については、鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在するのだ。「鎌倉街道(古道)上道」として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、鎌倉 - 化粧坂 - 瀬谷 - 本町田 - 小野路 - 府中 - 所沢 - 入間 - 笛吹峠 - 奈良梨 - 山名 - 高崎のルートである。武蔵国府付近は、東芝府中工場 - 分倍 - 中河原へ抜けるルートとなっている。「川名」交差点。 左折して「柏尾川」に架かる「川名東橋」を渡る。「柏尾川」は神奈川県南部を流れる二級河川で、横浜市戸塚区から藤沢市へと全長約11kmにわたり南下し、「新川名橋」手前で境川に合流する。川沿いには約6kmにわたる桜並木(ソメイヨシノなど)が整備されており、戸塚駅周辺は散歩やジョギングコースとして親しまれる地元屈指のお花見スポット。 戸塚駅近くから流れて来る「柏尾川」の上流側を見る。左側に見えたのが「佐賀鉄工所」のビル。 次に訪ねた「宮前御霊神社」案内標識。 行き止まりになっている県道312号線の高架下を歩き右折して進む。そし左折して村岡339号線を進む。前方奥に石鳥居の姿が見えて来た。「大門この一帯を通称大門町と呼んでいる。この辻に道祖神あり文化十一年(一八一四)宮前村中とあり昭和二十年代までこの前で正月十四日に村中集まってだんご焼きが行われた場所、今では宮前公園で毎年行われている。この力石は大九十三キロ(二十五貫目)小七十八キロ(二十一貫目)あり。明治・大正時代頃この大門に夜な夜な若い衆が集まり、この力石を担いで力を争っていたと古老の話あり。昔この場所で夏場鎌倉囃子の養成練習をした。参道には榎が両側に三本ずつあったと古老は云っていた。鎌倉権五郎のお手植えとの伝説あり。 村岡郷土史研究会」案内板にある「だんご焼き」は、小正月(1月15日前後)に行われる火祭りの一種。地域によっては「どんど焼き」や「左義長(さぎちょう)」とも呼ばれます。藤沢市内では『白旗神社』などで大規模に行われている。この宮前地区でも、かつては村人総出でこの行事が行われ、長きにわたって受け継がれてきたと伝えられているとのこと。「大門」案内板前にあった道祖神・石仏。双体道祖神(男女神)(和合神)であろうか。文化十一(1814)年そして「祭神」の銘があった。こちらは「力石」。こちらが、以前に訪ねた時の写真。力石:大93kg(二十五貫目) 小78kg(二十一貫目)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.13
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この日は6月26日(金)、藤沢地名の会主催の「令和8年度 第1回 地名探訪 藤沢地名の会第284例会村岡史蹟探訪 ~藤沢と鎌倉の境界地域を訪ねて~」に参加した。 集合時間:9時30分集合場所:川名御霊神社 とのことでJR藤沢駅南口から鎌倉駅行きのバスに乗り、「御霊神社前」駅で下車。このバス停は、以前は「goreijinnjymae」であったが、現在は「goryojinjyamae」に修正されていた。 バス停から5分ほどで「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」前に到着。社号標石「御霊神社」。創建:天慶4年(941) 祭神:早良親王👈️リンク、建久年間(1190~99)に鎌倉権五郎景政👈️リンクを合祀宮前御霊神社の分社で川名地区の鎮守の杜毎年例祭日(9月の第2日曜日)に権五郎の人形を載せた山車が出て、市指定重要無形民族文化財の川名屋台ばやしが祭りに華を添えます。今回の「村岡史蹟探訪」で配布された資料の表紙。今回のブログ・キャプションは上記資料「村岡史蹟探訪」からの転記を中心にさせていただきます。この日に頂いた散策資料より転記。「あゆみ村岡は、平安時代に村岡郷といわれ、鎮守府将軍となった村岡五郎(平良文)もこの地に居住しておりました。また、高谷と渡内の境のあたりには村岡城址があり、戦国時代には高谷砦、ニ伝寺砦などの物見台があったと伝えられています。江戸時代後期には、高谷、小塚他14ヶ村を村岡郷としていましたが、明治22年(1889)に弥勒寺、宮前、小塚、高谷、渡内、柄沢、川名の7ヶ村が合併し村岡村となり、役場をこの場所に設け、昭和16年(1941)に藤沢市に合併しました。長い間農村地帯として、続いてきた村岡ですが、昭和30年代半ばから、東海道沿線に工場群が進出し、様相は一変しました。また、御弊山地区の市の区画整理を契機に、各所に住民による区画整理が進み、都市基盤の整った住宅地として人口の定着が進んできました。昭和41年(1966)に、市は、農協の建物の2・3階に村岡公民館を設置し、以来20年余り、地域の社会教育活動の拠点としてさまざまな事業や住民の学習が行われ、盛んに利用されてまいりました。昭和62年(1987)には、人口は19,531人となり、都市化の進展と人々の文化活動はますます活発になるとともに、人間として生涯学習施設の重要性が尊ばれる時代になり、これに応じた施設の整備が必要になりました。これをうけて市は農協、地元関係者と協議し、公民館を増改築し、このたび完成しましたのでこれを記念して碑を建てました。 昭和63年3月 藤沢市教育委員会」 石鳥居越しに「御霊神社」の境内を見る。多くの方が既に集合しているのかと思ったが、この方々は地元の方々で朝のラジオ体操に参加している方々であった。 「令和十五年 第六十三回神宮式年遷宮神宮大麻と氏神さまをおまつりしましょう天照皇大神宮 氏神神社龍ロ明神社〒ニ四八ー〇〇三三神奈川県鎌倉市腰越一五四八ー四電話 〇四六七ー三ニー〇八三三携帯 〇九〇ー三四九八ー六九八ニ」これは伊勢神宮最大の祭事についてです。式年遷宮とは、20年ごとに社殿を新しく建て替え神様に新しい御殿へお遷りいただくという1300年以上続く神事です。看板には令和15年(2033年)とありますので、2033年に行われる第63回式年遷宮に向けて、「神宮大麻(じんぐうたいま)」の頒布を呼びかけているものです。・「神宮大麻」とは「大麻」と書きますが、麻薬とは全く関係ありません。 正式には伊勢神宮(天照大御神)のお札のことです。 毎年、全国の神社を通じて各家庭へ頒布されます と。・「氏神神社」とはその地域を守る神様を祀る神社です。 つまり、 天照皇大神宮(伊勢神宮) 氏神神社(龍口明神社) の両方を家庭でお祀りしましょう、という意味になるのだ。「御霊神社の御朱印・御守りは龍ロ明神社で受けることかできます。 龍ロ明神社以下 略」 「②川名御霊神社」と。 「文化財ハイキングコース案内板」 村岡南部コースの文化財① 川名御霊神社② 神光寺③ 神光寺横穴墓群④ 弥勒寺⑤徳寿院跡⑥ 宮前御霊神社⑦ 六地蔵「村岡の歴史と文化財村岡が歴史上注目されるようになるのは、坂東八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生れた平良文(村岡五郎)がこの辺りに荘園を開いたとされる平安時代の中頃(10世紀前半)からです。鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めの際に激戦地となったのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になりました。やがて戦乱の世が鎮まり、徳川将軍による治世が確立すると、村岡地区の7ヶ村(柄沢、渡内、高谷、弥勒寺、小塚、宮前、川名)は藤沢宿の助郷と定められ、街道を往来する大名や武士などの荷物を運ぶための人や馬を提供することを義務づけられました。明治時代になって助郷制度が廃止されるまで、それは村岡の農民にとって大変重い負担となっていたようです。 藤沢市教育委員会」 「ムクゲ」の花であろうか? 「御霊神社由来」碑。「御霊神社由来」碑。 創 立 天慶四年八月(千有余年前) 祭 神 早良親王 合祀 平景政 例 祭 九月吉日早良親王は相模平氏村岡良文の祖神なり良文は村岡郷に住し四辺を開拓して恩恵を垂れ景政は良文の裔にして鎌倉時代武者を以て知らる因縁浅からず当所鎮護の神となす我々民族心の古里である。 昭和四十四年五月吉日建之 川名御霊神社氏子中」 手水場。「洗心」の文字が。神社やお寺の入り口にある手水場(手水舎)は、参拝前に手や口をすすぎ、心身を清める場所。水盤に彫られていることが多い「洗心(せんしん)」という言葉には、「手と口を洗い清めることで、心(魂)も清める」という意味が込められているのだ。 手入れされた「槇」。「明治百年紀念 まきの樹」石碑(昭和43年(1968年)銘)。「社殿」への急な石段が正面に。 石鳥居の周囲ではラジオ体操が始まった。村岡史蹟探訪への参加者の中にはラジオ体操にも参加する人も。石段を上って行くと狛犬が迎えてくれた。狛犬(右・阿形)。狛犬(左・吽形)。そして正面に「社殿・拝殿」。藤沢市川名の御霊神社は、村岡御霊神社の分社と伝えられている。祭神の早良親王は、桓武天皇の弟。川名の地は、鎌倉郡津村郷に属し、村上五郎(平良文)の領した村岡に近いことから、村岡氏の支配下にあったものと考えられるが定かではない。平安時代後期には、鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の一部として、大庭氏の支配下にあったと考えられている。祭神 早良親王 鎌倉権五郎景政扁額「御霊神社」。 正面からズームして。移動して。頂いた資料から。(2)鎌倉権五郎景正(政)(祭神の)鎌倉景正(景政)は桓武平氏の一族、相模南部の鎌倉郡一帯を治めていました。源頼朝から遡ること3代、武神と崇められる源義家に仕え、鎌倉武士の鑑とされる程勇敢な武士でした。鎌倉権五郎景政は鎌倉氏を最も興隆させた勇士として知られ、現在も鎌倉市坂ノ下の御霊神社に祀られています。景政の屋敷は鎌倉市由比ヶ浜にあったといわれています。他に藤沢市村岡や千葉県野田市の目吹城にも館があったといわれる場所があります。鎌倉景政の曽祖父である村岡忠通の子、鎌倉章名から鎌倉氏を名乗りますが、その兄弟には三浦氏の祖となった三浦為通がいます。景政は16歳の時、源義家による後三年の役(1083~1087年)に従軍し武名を轟かせました。その様子は『奥州後三年記』に以下のように記されています。金沢の柵における激戦です。「傷を受けたものは数えきれなかった。相模国の住人、鎌倉権五郎景政という者あり。先祖より聞こえたるつわものなり。年齢わずか16歳にして大軍を前にして命を捨てて戦い、右目に矢を受けた。矢は首を貫いて兜の鉢付けの板にいたるも、返す矢で敵を討ち取った。同じく相模国のつわものに三浦平太郎為次というものあり。これも聞こえ高きものなり。為次が景政の顔に足をかけて矢を抜こうとした。景政は伏しながら刀を抜いて、為次のくさずり(鎧の衝胴から垂らし、下腹部・大腿部を保護するもの)をとらえて突かんとした。為次は驚いて、これはいかに、なにをする といった。景政はこういった。弓矢にあたって死するはつわものの望むところである。しかし、生きながら足にて面を踏まれる事はない。汝をかたきとしてここで死なん と。為次は舌を巻いていうことがなかった。膝をかがめて顔を押さえて矢を抜いた。多くの人々はこれを聞いて、景政の高名はいよいよ並びないものとなった。」武勇と武士としての高い志を示したこの下りから、景政は鎌倉武士の鑑として永く仰がれ、『歌舞伎十八番之内 暫』にも描かれています。景政は知行地であった下総国においてこの時の目の傷を癒やしたといわれ、現在の千葉県野田市目吹には景政が目を洗ったという伝説の「権五郎目洗いの池」があります。また、近くには景政の館があったとされている目吹城跡といわれる場所もあります。源義家とともに後三年の役に従軍した後、長治元年(1104)頃に相模国高座郡南部の一帯(現茅ヶ崎市、藤沢市)を開墾し、相模国最大の御厨、大庭御厨(伊勢神宮領)を成立させ勢力を拡大しました。東西の境は、俣野川(現境川)、神郷(現寒川)、南北は相模湾と大牧崎(不明)という広大なものでした。景政が御厨を開墾している頃、源義家への土地寄進禁止令が発せられており、そのために主君ではなく伊勢神宮に寄進したともいわれています。川名屋台囃子の山車。乗せられている武者人形は鎌倉権五郎景政。右側に鎮座していたのが「稲荷社」。 朱の鳥居には「正一位稲荷大神」。 社殿をズームして。こちらも境内社でしょうか?札があったのですが読めませんでしたが「疱瘡神」!?。 相州村岡七福神めぐりのひとつとして「福禄寿」像があった。相州村岡七福神はこれらと頂いた資料から。移動して斜めから本殿を見る。ズームして。神社の屋根に特徴的な飾りは、主に「千木(ちぎ)」と「鰹木(かつおぎ)」。・千木(ちぎ) 屋根の上の両端で、2本の木材を交差させてV字型に突き出させた飾り。 本来は屋根を固定するための部材でしたが、現在は装飾として用いられているのだ。・鰹木(かつおぎ) 屋根の棟(頂上部)の上に、水平に並べて置かれた丸太状または角材状の飾り。 本来は屋根の補強や重石の役割をしていたのだ。本殿の鰹木(かつおぎ)の下部にあったこの丸い飾りは、神紋というよりも「唐花・唐草文様を施した飾金具(建築装飾)」と考えるのが妥当であろうか?本殿前からこの後訪ねた「神光寺」の屋根が見えた。 ズームして。そして石段を下る。この案内板には「川名御霊神社(かわなごれいじんじゃ)」のままであったが・・・?。 そして次の目的地の「神光寺」に向かって川名の住宅街を進む。 そして右前方に、立派な石垣の上に見事に手入れされた植栽のある敷地が現れた。 ・・・つづく・・・
2026.08.12
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「沼津御用邸」の見学を終えて前庭の老松を見る。「名勝 旧沼津御用邸苑地」碑。 巨大な黒松が前方に。「根上り黒松推定四百年沼津御用邸記念公園」と。 「根上り黒松」とは?「根上り」とは、本来は土の中にあるはずの根が、地表に大きく現れた状態をいいます。このクロマツは、長い年月の間に・海から吹き付ける強い風・砂の移動・雨による土の流出などを繰り返し受けた結果、根元の土が少しずつ失われ、太く力強い根が地上に姿を現した。まるで大地をしっかりとつかむ巨大な足のような根が四方へ張り出している様子がよく分かるのであった。廻り込んで。本来は土の中にあるはずの根が、地表に大きく現れた状態⇒これぞ「根上り黒松」!!。この木は推定樹齢約400年と。つまり、江戸時代初期頃からこの地で生き続けてきたことになる「。年代でいえば、・徳川家康の時代に近い頃に芽生え、・江戸時代を通して成長し、・明治26年(1893)の沼津御用邸開設以前から、この松林の一員でした。つまり、この木は御用邸が造られる前からこの地の歴史を見守ってきた「生きた証人」なのです。 「黒松」の林。 黒松の幹には、まるでコーヒーカップの取っ手を思わせる不思議な輪が残っていた。これは枝が長い年月の中で折れ、付け根だけが生きたまま木質化して残った自然の造形である。風雪に耐え、傷を受けながらも生き続ける黒松の姿は、そのたくましい生命力を静かに物語っていた。「西附属邸」の門を振り返る。 植栽の中に案内板が。この案内板は「沼津散策ルート」を示した地図で、沼津御用邸記念公園から沼津港、さらに沼津駅方面へ続く代表的な散策コースが描かれていた。小雨を浴びたアジサイ(紫陽花)も満開。集合時間が近くなり、旅友が三々五々に。そして「沼津御用邸」を後にして、この日の最後の観光目的地の「伊豆・村の駅」に向かって進む。靜岡県道139号線を東に向かって進む。 「狩野川」に架かる県道140号線の「新城橋」を渡る。 県道138号線で「大場川」に架かる「塚本新橋」を渡る。 左手に見えて来たのが「伊豆・村の駅」。 「伊豆・村の駅」は、静岡県三島市国道136号線沿いにあった、駐車場 200台完備の「食のテーマパーク」 。 「伊豆・村の駅」では旬の果物、野菜が並ぶ農家さん持ち込みの農産物直売所をはじめ、伊豆の特産品を使用したおみやげ品などを販売。毎日新鮮な魚介類を仕入れている"おさかな市場"や、海鮮丼が味わえる"丼屋 九兵衛"、懐かしの鶏ガラ醤油ラーメンが味わえる"うめぇら食堂"、三島特産の日の出たまごを使用した親子丼を味わえる"たまごや"など伊豆の特産物を楽しめる場所であった。「伊豆・村の駅」FLOOR MAP。 農産物直売所。その左側に「まぐろ道場」。 「伊豆・村の駅」内に入る。「村の駅食堂」案内板。 メニュー。野菜売り場。大きなスイカ・西瓜。マスクメロン。生シイタケ。「伊豆村の駅」人気の野菜詰め放題!に参加できた。与えられたビニール袋に詰めるだけ詰めて袋から落ちなければOK!バスツアーならではのお得な特典!地元の方も買い物に来るほど新鮮な農産物や漁港から仕入れた食材が多数揃っていたので買物も楽しめるのであった。野菜はジャガイモ、人参、ネギ、小松菜、タマネギ、ピーマン、ナス・・・・・・。残念ながら、全て我が菜園で栽培中の 野菜なのであったが。そしてバスに戻り帰路に。国道1号・松並木を進む。箱根旧街道のうち箱根から三嶋宿までは3里28町である。現在でも石畳の道が随所に残って、初音ヶ原には松並木が1㎞にわたり残されている。この上り車線の場所に江戸時代の旧東海道があった。この松並木は、三島市内に唯一残っている旧東海道の松並木である。そして、「三島塚原IC」から「伊豆縦貫自動車道」へと。 沼津市街、駿河湾が見えた。ズームして。左手に見えたのが「みしま聖苑」。 三島市沢地の町並み。三島駅方向を見る。「長泉沼津IC」から新東名高速道路へ。そして帰路も「足柄SA」でトイレ休憩。 EXPASA足柄(上り)。左手の山の上に「松田山ハーブガーデン」が見えた。 春先には「河津桜」、「菜の花」で人気の場所。 「相模川」を渡る。 「東名高速道路」を「綾瀬スマートIC」で下り、一般道を走り、無事17時前に帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.08.11
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ああああああああああああああああああああああ
2026.08.11
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「旧沼津御用邸」の「西附属邸 御殿」の見学を終え、「エントランスエリア」内の前庭に出る。 雨に濡れたアジサイ(紫陽花)の花も美しかった。「沼津市歴史民俗資料館」の方向に歩く。右側にあったのが「湯沸所」。ここで沸かしたお湯を調理室や御料浴室に運んで用いた。 「花手水(はなちょうず)」に似ていたが。「沼津垣」。 「沼津垣(ぬまづがき)沼津垣は、沼津周辺の浜の潮風を防ぐために江戸時代以前から用いられてきた垣根で、景観的にも実用的にも優れており、沼津の風景を描いた浮世絵などにも描かれています。旧沼津御用邸でも多く用いられたことから一般に知られるようになりました。箱根竹と呼ばれる細い篠竹を材料に十数本ずつ束ねて、網代(あじろ)編みにしています。この束を「手」といい、どの束も二つの束を越えて編んでいるため、この編み方は「二手(ふたて)越し」と呼ばれています。」 近づいて。アジサイ「隅田の花火」。 ネットから。「西附属邸」の南側の建物を外から見る。 「沼津垣」👈️が南方向に延びる。「歌川広重作 東海道五十三次之内 沼津(人物東海道)」にも沼津垣の姿描かれているのだ。「歌川広重作 東海道五十三次之内 沼津 名物鰹節を製す(行書版)」にも。 「西附属邸」の「内玄関」を外から見る。 「お休み処 主馬主馬(しゅめ)の由来お休み処の建物は、きゅう舎を改修したものです。旧宮内省時代の乗馬や馬具をつかさどる役所「主馬署」にちなんで名付けられました。」 「旧本邸エリア」への石段を見る。集合時間の関係でここで引き返した。 再び「西附属邸」の「御車寄」を東側から見る。 「おみやげ処」の建物を見る。 そして「おみやげ処」の内部へ。 「おみやげ処」の壁にもあった「沼津御用邸のあゆみ」。 「沼津御用邸のあゆみ沼津御用邸は、当時皇太子であった大正天皇のご静養のため、明治26年(1893)に開設されました。御用邸とは皇室が避暑、避寒に用いる別邸を指しますが、温暖な気候と景勝に恵まれた沼津の地は、明治22年の東海道線開通により一躍保養地として注目され、各地に先がけて最も早い時期に造営された御用邸でした。松林に囲まれた旧御用邸は、本邸を中心に東と西に附属邸を配置していました。本邸は開設当初に建てられた和風建築に、明治33年洋館を加え、100室以上の部屋を備える立派な御殿でしたが、昭和20年7月16日の沼津大空襲で惜しくも焼失し、その面影をしのぶことはできません。明治36年に本邸の東隣りに赤坂離宮から木造建築を移築して設けられた東附属邸は、主に皇孫殿下(明治天皇のお孫さん)の御学問所として活用されました。現在公開されているのは旧西附属邸にあたる建物で、ご幼少の皇孫殿下、のちの昭和天皇、秩父宮、高松宮の三人の皇子のために造られた御用邸です。本邸の西隣りにあった元海軍卿・川村純義伯爵の別荘を明治38年に買い上げ、翌39年には宮城内の賢所付属建物を移築するなど、数回の増築を経て大正11年に完成しました。本邸焼失後は、この西附属邸が本来の御用邸の役割を果たしてきましたが、小規模ながら謁見所などの公式な部分と住居部分とが一体となった明治期の大規模木造宮廷建築の遺構として全国的にも珍しく、当時をしのばせる家具調度品も良く保存されており、歴史的に重要な意味をもつ建築物として高く評価されています。その後の環境の変化などから沼津御用邸は昭和44年に廃止となり、沼津市に移管されて、翌45年には現在の沼津御用邸記念公園が誕生しました。沼津市では造営100周年にあたる平成5年度を期して建物の改修と庭園の整備を行ない、平成6年4月から西附属邸内部の公開に踏み切りました。改修にあたっては、建物本体はもちろん、瓦やガラス、建具や家具など、できるかぎりかつての姿に忠実に復元しました。今後はこうした国民的な文化資産を大切に保護しながら、当時の暮らしぶりや各部屋の用途を知ることができる展示を心掛けていきます。」また庭園は、静かな松林の思索的な雰囲気を生かしながら、特色ある庭づくりが行われ、皇太子殿下御成婚記念梅園も設けられています。これからは、新しい時代の"やすらぎと憩いの場"として、多くの人たちに親しまれていくことでしよう。 「天皇家の系図(明治時代以降)」。 「昭和天皇」以降👈️リンク をズームして。 ネットから。「過ぎし日の面影と御殿のたたずまい」。(上段写真 左から)■沼津御用邸ご滞在中、近くの松林の中で地元の子供たちに話しかけられる両陛下。 (昭和25年)■西附属邸の庭で三輪車にお乗りになる裕仁親王(昭和天皇)。 (大正3年)■本邸洋館前で。右から大正天皇(当時は皇太子)、迪宮裕仁親王(昭和天皇)、 淳宮雍仁親王(秩父宮)。このころ両親王は、本邸隣りの川村伯爵邸(後の西附属邸)に 滞在されていた。 (明治37年)■沼津御用邸でご一緒に夏をお過ごしになる皇太子殿下、美智子妃殿下とご幼少の浩宮徳仁親王。 (昭和37年8月)■お懐かしげに西附属邸の庭をご散策される昭和天皇と皇太后陛下。沼津御用邸への最後の行幸啓。 (昭和45年3月)(下段 建物写真 左から)■東附属御用邸 庭から御学問所、実験室を望む。常住のための御殿ではなかったが、本邸が焼失した 戦後の時期には居殿方が常在されたこともある。(現存)■本邸旧御殿 本邸は100室を超える大御殿であったが、戦災で惜しくも焼失した。 明治26年に竣工した 旧御殿は最初に建築された建物である。(昭和20年焼失)■本邸洋館 明治33年に建てられた本邸の洋館は明治初の御用邸としては初めての洋風建築である。 木造平屋建てで、外観はルネッサンス様式を基調にまとめられている。内部には表御応接所と 御洋食食堂があった。(昭和20年焼失)■西附属御用邸 庭から御座所を望む。渡り廊下でつながれた御座所棟を望む。建設以来、本邸に代わる 御用邸として多くの皇族の方々が利用された。(現存)「ゆかりの人物 」 「ゆかりの人物川村純義(かわむら すみよし)天保7年(1836)~明治37年(1904)川村純義伯爵は、沼津御用邸の造営に最も深い関わりがあった人物です。旧薩摩藩出身の軍人で、二度にわたり海軍卿(後の海軍大臣)を務めるなど、勝海舟らとともに日本海軍の基礎づくりに貢献しました。伯爵は、かねてから風光明媚な沼津の地に別荘を持つことを希望していましたが、第一線を退いた明治20年過ぎに、同郷の友人、大山巌や西郷従道らとともに、この地に別荘を設けることになりました。明治22年には東海道線が開通して、沼津は保養地としても注目を浴びるようになりました。川村伯爵は、当時皇太子だった大正天皇のご静養のために、この地に御用邸を設けることを提唱し、気候や景観などの立地条件を挙げて、政府に働きかけたといわれ、その尽力もあって、同26年には本邸が造営されることとなりました。宮中顧問官を務めた伯爵は明治天皇の信任が厚く、明治34年に皇孫殿下迪宮裕仁親王(昭和天皇)、明治36年には淳宮雍仁親王(秩父宮)の御養育を命ぜられました。皇室では民間の事情を知るため皇子を華族の家でお育てする習慣があったので、東京麻布の自宅にお二人をお迎えし、また、ここ沼津の別荘でも寝食を共にしました。伯爵は明治37年に亡くなったのでご養育期間はわずか3年ほどでしたが、御用邸の西隣りにあった川村家の別荘はその後、西附属邸として皇孫殿下の御用邸に充てられることになりました。」 エルヴィン・ベルツ(Erwin Bälz)1849~1913(大正2)年ドイツ人医師エルヴィン・ベルツ博士は、明治9年(1876)日本政府の招きで来日し、東京医学校(現東京大学医学部)教授としてわが国の近代医学の基礎づくりに貢献しました。博士は大学で教鞭をとるかたわら、皇室の御用勤務の医師を務め、日本を去る38年(1905)まで、皇太子時代の大正天皇をはじめ皇族方のご健康の管理に力を注ぎました。そして、あまりお丈夫でなかった皇太子のご静養のために御用邸の設置を進言したひとりでもありました。博士は、わが国に保養地(リゾート)の考え方を導入した人物としても知られ、温泉療法や海水浴の有効性を主張していました。草津や箱根には温泉地開発の提案をしたり、沼津や葉山など、御用邸の立地選定にも関わりをもっていたことがうかがえます。沼津御用邸について、『ベルツの日記』(岩波文庫)には、駿河湾を望む入江の景観や、温暖な気候、沼津の街や人々の様子とともに、皇孫殿下のご養育に当たる川村家の家族たちの献身的な姿、また白砂に映える松林の中で静かな時を過ごされる皇太子ご一家の幸福そうな様子が記されています。」ここで紹介されている二人は、沼津御用邸誕生の立役者と言える人物です。川村純義 … 沼津への御用邸建設を政府に働きかけ、自らの別荘も後に西附属邸として 提供することになった人物。エルヴィン・ベルツ … 皇太子(後の大正天皇)の健康のため、温暖な沼津を静養地として推奨し、 御用邸設置を進言したドイツ人医学者。この二人がいなければ、現在の沼津御用邸は 誕生していなかったかもしれません。歴史を理解する上で、ぜひ覚えておきたい 重要人物であるのだ。東京麻布の川村邸で遊ばれる迪宮裕仁親王(みちのみやひろひと・昭和天皇、左)と淳宮雍仁親王(あつのみややすひと・秩父宮、右)。ベルツ博士と花夫人親日家のベルツは日本人はな(花)と結婚した。「西附属邸西附属邸の造営西附属邸は、本邸隣りの川村純義伯爵の別荘を買い取り、明治38年(1905)に設けられた皇孫殿下の御用邸です。明治20年頃に建てられた平屋建ての木造建築で、現在の西附属邸全体の南半分がこれに相当します。翌明治39年、宮城から賢所付属建物を移転して御座所がつくられ、同時に女官室なども増築されました。明治41年には御車寄や御湯殿なども新築され、大正11年には御玉突所を設けて渡り廊下でつなぎ、総面積1,270平方メートルの附属邸が完成しました。「西附属邸平面図」。 凡例・明治38年新設(旧川村伯爵別邸)・明治39年増築・明治41年増築・大正11年増築主な部屋謁見所(えっけんじょ) 天皇陛下が来客に面会される部屋。 玉座用肘掛け椅子や来客用小椅子など当時使われていた宮廷家具を展示してあります。御座所(ござしょ) 皇族の方々が起居に使われた部屋。 居間にあたる御座所と御寝室、御着換所の三部屋からなっています。御食堂(おしょくどう) 皇族の方々が食事をされた部屋。 御紋章入りの皮張り椅子や大きな丸テーブルが保存されています。御日拝室(ごにっぱいしつ) 東側皇居に向かって大正天皇をしのび、毎日読経などのお勤めをされた部屋です。 今後は平成6年の天皇皇后両陛下の行幸啓記念室となります。御玉突所(おたまつきじょ) 西附属邸では最も新しく、大正11年に増築されたビリヤード室です。 玉突台や付属品は当時の写真をもとに、今回復元されたものです。「hal」店主後藤由紀子静岡県沼津市生まれ。東京の雑貨店で勤務後、地元の沼津市で型染めバッグ類、帽子を扱う雑貨店「hal(ハル)」を開店。「日常と旅」を含め、これまでに20冊の著書を上梓。沼津御用邸も日常のひとつとして何度も訪れている。後藤由紀子Instagramはこちら(QRコード)御用邸鉛筆 ¥150。五代目 お茶きん沼津・(有)福山堂製茶年表明治10年(1877年) 沼津に創業昭和2年(1927年) 沼津御用邸 学習院遊泳場にお茶を納める昭和41年(1966年) 沼津御用邸により皇室御用達記念公園に名称を改める平成12年(2000年) 皇太子ご夫妻が沼津御用邸記念公園に来訪時、深蒸し茶「初摘」を召し上がる沼津御用邸記念公園の売店で販売されている福山堂製茶のお茶を紹介するもの。特に注目したいのは、・昭和2年(1927年)から御用邸へ納入していた歴史・平成12年(2000年)に皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻ではなく、当時の皇太子ご夫妻)が 沼津御用邸記念公園を訪問された際、この深蒸し茶の新茶(初摘み)が振る舞われたこと・天皇杯受賞茶園の栽培茶であること などで、皇室とのゆかりを大切にしている老舗茶舗であることが分かります。沼津御用邸記念公園は2021年(第92期)ヒューリック杯棋聖戦第3局の対局会場となっており、その際に藤井聡太棋聖(当時)と渡辺明名人の直筆揮毫(きごう)の色紙や扇子が展示されるようになりました。さらに、沼津御用邸を訪れた方の記録では、この展示ケースについて次のように紹介されています。・「飛翔」の2枚の色紙は藤井聡太棋聖の直筆揮毫・藤井聡太棋聖の直筆揮毫扇子も展示されている・ただし、記念販売用の扇子は直筆ではなく印刷であると説明されていた。「園生の菊」見本です。 「園生の菊(そのうのきく)」は、静岡県沼津市の名勝「沼津御用邸記念公園」限定で販売されている銘菓です。大正天皇が詠んだ御製歌「うれしくも 吾が代を祝う ここちして 園生の菊ぞ かをり そめたる」に由来しています。カステラ生地で餡を挟んだ上品な和菓子で、地元・沼津の老舗和菓子店「光来堂(きせ川光来堂)」などによって作られています。公園内のお休み処などで提供されており、お土産としても人気です と。茶碗や香炉も。御用邸焼き。ハンカチ類ほか布製品。へだたちばな羊羹。橘(たちばな)不老長寿の薬「橘」垂仁天皇は常世の国にある不老長寿の薬「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」を田道間守という人に探させました。田道間守が十数年の歳月をかけて海の向こうの常世の国から持ち帰ったときには、天皇はすでに崩御された後でした。その「非時香果」が今の「橘」であると『日本書紀』や『古事記』にあります。御用邸ガレットガレット(galette)は、フランス発祥の「丸くて平たい料理やお菓子」の総称です。特に有名なのはブルターニュ地方の郷土料理である「そば粉のガレット」で、薄く焼いた香ばしい生地に卵、チーズ、ハムなどを包んで食事として楽しまれています。沼津商業高等学校 × 氏原製菓株式会社Newしずっ娘。静岡名物Green Tea Shizukko香り豊かな「沼津茶」と高級抹茶「宇治抹茶」を生地にふんだんに使用し、深みあるミルクあんを中に包みこみ、じっくり焼き上げました。とろけるくちどけ、伊豆ならではのお茶の香りと優しい甘さが口いっぱいに広がります。~高校生たちの思いが詰まった、甘くてほろ苦い青春の味~僕たち・私たちの「地元の魅力を全国・世界へ伝えたい!」という、思いが詰まった逸品です。とってもとっても、美味しく焼きあがりました!お茶の生産量全国1位奪還を目指します!高校生フードグランプリ初出場を狙います!いや・・・初出場だけでは済まさない!目指すは大賞!日本一!!!Green Tea Shizukko香り豊かな「沼津茶」と高級抹茶「宇治抹茶」を生地にふんだんに使用し、深みあるミルクあんを中に包みこみ、じっくり焼き上げました。とろけるくちどけ、お茶の香りと優しい甘さが口いっぱいに広がります。沼津商業高等学校×氏原製菓株式会社 初のコラボ商品!!ここがチッケト売り場だったのであろう。「チケット売り場」&「おみやげ処」、扁額の文字は、「松籟邸(しょうらいてい)」。「籟」とは?「籟(らい)」は普段ほとんど使われない漢字ですが、風が木々や竹林を吹き抜ける音という意味があります。そのため、松籟(しょうらい)とは松林を渡る風の音、松風の響きという、とても風雅な言葉です。名勝 旧沼津御用邸苑地(沼津御用邸記念公園) 案内パネル。 地図に近づいて。「「御用邸」とは、天皇をはじめとした皇室の別荘である。沼津の地は、当時皇太子であった大正天皇の静養先として、優れた景観と温暖な気候が評価され、御用邸敷地に選ばれた。明治26年(1893)に本邸、明治36年(1903)には学問所として東附属邸、明治39年(1906)には昭和天皇ら親王三人の御用邸として西附属邸が設置された。太平洋戦争末期の空襲によって昭和20年(1945)に本邸は焼失し、昭和44年(1969)には御用邸の役目を終えたが、翌年には「沼津御用邸記念公園」として開園した。現在でも皇室も眺められたであろう樹齢200年にも及ぶクロマツの巨木が存在している。本苑地は、近代日本における海浜保養地の景観を伝えるものとして、その重要性が評価され、平成28年(2016年)に国の名勝に指定された。」。「現在地」はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.10
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「本邸洋館とその内部(上段写真)東南側から見た本邸洋館の外観木造で下見板張り、屋根はスレート葺きで、外観は全体にルネサンス様式を基調にまとめられている。内部は、床は寄木張り、腰は羽目板張り、壁・天井は漆喰塗り仕上げである。(小野木重勝著『明治洋風宮廷建築』より)(中段左写真)●●●●(中段右写真) 表御座所の内部●●●●御陪食室の内部(下段左写真)●●●●(下段右写真) 御居間の内部●●●● 御座所の内部」西附属邸「女官室」には、建物の歴史や修復工事を紹介する展示が設けられており、「さざれ石」もこの部屋に展示されているのであった。「沼津御用邸百年誌 Ⅰ沼津御用邸とその時代」の展示パネルを読む旅友。 その先の部屋にも展示品が並んでいた。「侍従と女官」 「侍従と女官一日の侍従と女官とのかかわりあいは、通常、前夜吹上御所に宿直した侍従が女官に次のような電話をすることから始まる。『○○でございます。ご機嫌よう。』『○○でございます。ご機嫌よう。』注:『ご機嫌よう。』という言葉は、宮中では本来は両陛下のご様子を確かめるために用いられていたといわれる。毎朝、日曜日を除き、陛下の宮殿へのお出ましの時刻の五分前頃になると、侍従は、お出ましのことを申し上げていただくように女官に電話をかけるが、その最初に上のようなあいさつをがかわされる。侍従の申し出を受けた女官は、皇后さまにその旨を申し上げて、陛下にお出ましのことをお伝えしていただく。女官の仕事は、法令上は皇后陛下の側近に奉仕することであるが、実際には、お食事のこと、お身のまわりのことなど天皇陛下の私的なご生活にかかわることも多い。他方、陛下の側近に奉仕する侍従も、陛下のことだけでなく、皇后さまにも公的なお仕事の面では奉仕するので、女官と侍従は密接なかかわりあいがあり、その間に円滑な意思の疎通がなけらば、両陛下のご生活に何かと不都合が生じてくる。元侍従長:入江相政殿「宮中侍従物語」(昭和55年・TBSブリタニカ発行)より抜粋・引用制度の移り変わり故入江相政氏は昭和9年から昭和天皇の侍従を務め、同44年には戦後五人目の侍従長に就任して、同59年までその職にありました。侍従職(宮内庁の一部局)は侍従長の統括のもとに、侍従次長、侍従、女官長、女官、侍医長、侍医などの職員が天皇皇后両陛下、紀宮さまのご身辺のことを担当し、御璽(天皇のご印)、国璽(国印)を保管して、その事務をつかさどっています。「侍従等は、その職務と責任に重要な特殊性があるため、侍従長の任免は天皇の認証が必要とされるほか、上に掲げた侍従長以下の主な職員は国家公務員法などに規定される特別職の職員となっていて、その任用は一般職の職員とは異なっています。また、侍従職のほか皇太后宮職(こうたいごうぐうしょく)、東宮職(とうぐうしょく)があり、皇太后宮大夫、東宮大夫の統括のもとに、それぞれに侍従や女官、侍医が勤務して、皇太后陛下や皇太子殿下ご夫妻のご身辺のことを担当しています。侍従や女官の制度は古代から見られますが、現在の制度に近い形となったのは明治時代以降です。女官は、明治・大正期は皇后宮職に所属し、様々な職種と勅任、奏任、判任などの任用の区分(現在の特別職等の区分とほぼ同様)があり、昭和初期には女官長(勅任または奏任)、女官(奏任)、女嬬(にょじゅ)(※)(判任)という形になりました。しかし、戦後は皇后宮職は廃止されて、女官の身分は侍従職に移され、女嬬などは事務官となりました。(職名としては存続)」 現在、女官は主に秘書的な仕事とお食事のお給仕を受け持ち、両陛下のご身辺のお世話をするとともに、女嬬や雑仕(※)などを指揮して、きめ細かい用事をこなしているということです。※女嬬、雑仕=女子の職員で、お部屋の掃除、衣服のつくろい、洗濯などを担当する侍従の一日侍従の仕事の特徴の一つとして、『宮中侍従物語』では"24時間勤務であること"を挙げています。これは、当直勤務があるためですが、侍従の場合、当直者は午後1時から翌日の午後1時までが勤務となり、24時間両陛下のお側近くにいて、いろいろお手伝いをします。そして、翌日の午後1時には次の日の当直者と交代して、その日の勤務が終了します。「宿直の場合には、侍従は陛下に提出される公文書類を処理するなど、通常の勤務とはほとんど同様のことを行うとともに、御所宿直の責任者として内舎人(※)、仕人(※)を管理監督し、あるいは当直の皇宮護衛官(皇宮警察)との連絡などにも当たります。このように、侍従は必ず誰か一人が毎日御所において宿日直勤務をしなければならず、両陛下の地方へのご旅行には、通常、侍従は二人がお供をすることになるそうです。また、御用邸に皇族が滞在されるときには、侍従や女官を始め、関係する職員がお供をして、身の回りのお世話をすることになりますが、ご滞在が長期にわたる場合は、侍従などは、ほぼ一週間ごとに交代してお供をするようです。※内舎人、仕人=男子の職員で、陛下の洋服その他の身の回り品を整えたり、外回りの清掃や施設の維持管理などを担当する」 「女官室の室名の変化」 「昭和天皇沼津御用邸行幸に際し御用邸海岸に於て沼津種畜場生産牛を天覧の上献上する 昭和5年5月」 昭和32年 昭和天皇に牛乳を献上する昭和32年、国民体育大会(オレンジ国体)を静岡県が担当した際、昭和天皇の行幸を仰ぎ、静岡県沼津種畜場の「SNS. プリセラエンぺロールフラスマラソン号」「SNS. ベッシーデコールプラスフェムコ号」の2頭の乳牛より搾乳した牛乳を献上した。献上牛乳を搾乳する2頭は特別管理され、生乳は朝夕搾乳した冷蔵保存した後に、牛乳は特別瓶に入れ、日本の柄に収め献上した。生乳の冷却処理は種畜場が担当し、牛乳の輸送は小野輪輸が担当した。輸送者は護衛に付き添われ、輸送車は沼津土木改良事務所のジープを使用した。 静岡県畜産史資料による「昭和天皇・皇后両陛下 沼津御用邸に行幸啓昭和45年3月15日」 行幸(ぎょうこう): 天皇陛下が外出されること。一説には「みゆき」とも読み、天子が行く所では万民が幸いを 受けるという意味合いに由来します。行啓(ぎょうけい): 皇后、皇太子、皇太子妃などが外出されること。天皇以外の皇族(三后や皇太子など)の お出ましを指します。なお、天皇皇后両陛下がご一緒に外出される場合は「行幸啓(ぎょうこうけい)」と呼びます。他の皇族方(親王や女王など)が外出される場合は一般的に「お成り(おなり)」と表現されます。各地での皇族方のご日程や実績は、宮内庁 国内のお出ましページで公開されています「女嬬室(にょじゅしつ)」 女嬬とは、部屋の清掃や衣類の繕いをした女の人。御用邸で実際に使用されていた電化製品が展示されていた。左から、・トランク入電気スタンド 移動しやすいように丈夫なトランクに入れて運びました。・御用邸当時の電気ストーブ・御用邸当時の電気扇風機沼津御用邸やその他の皇室関連施設で使用されていた生活用品左から電気掃除機。ポータブルラジオ撞球台付属品。撞球(どうきゅう)は、室内でラシャ(特殊な布)を張ったテーブル(球台)の上にボールを配置し、「キュー」と呼ばれる棒状の道具で手球を撞いて的球に当て、その技術や得点を競う球技の総称です。一般的には「ビリヤード」や「玉突き」として広く親しまれています。左から・蒸留水発生機・水筒・手提げ金庫「皇孫殿下(こうそんでんか)と川村純義伯爵(かわむらすみよしはくしゃく)」 「皇孫殿下(こうそんでんか)と川村純義伯爵(かわむらすみよしはくしゃく)明治34年(1901)4月29日、大正天皇(当時は皇太子)の第一男子として、迪宮(みちのみや)裕仁親王(後の昭和天皇)がご誕生になると、退役後の海軍中将・川村純義伯爵が御養育係を命じられ、裕仁親王は川村家に預けられることになりました。当時の皇室では、皇子を信頼できる民間の家でお育てする習慣があり、高潔な人柄と家庭が円満なことで知られる川村伯爵に白羽の矢が立ったわけです。裕仁親王は明治天皇のお孫さん(皇孫殿下)であると同時に、皇太子(大正天皇)の次の天皇になることが約束された方であり、当時の時代背景からすると、親王の御養育には非常に重要な意味がありました。伯爵は御養育に専念するため、夫人や子どもたちにも、その方針を厳しく徹底させて、一家をあげて親王の養育に取り組みました。そして一年後、淳宮雍仁(あつのみや やすひと)親王(後の秩父宮殿下)がお生まれになると、やはり川村家に預けられることになりました。伯爵は、東京では麻布狸穴(あざぶまみあな)の川村邸で二人の皇子の御養育に当たり、ご両親の皇太子御夫妻が沼津御用邸に滞在されるときは、その隣地にあった川村家の別荘(この部屋を含む、現在の西附属邸の一部)に皇子たちをお連れして、なるべく親子水いらずの生活ができるように配慮していました。川村家にとって、このことは大きな名誉であった反面、その心労は筆舌に尽くしがたいものがあり、そのような中で伯爵はしだいに病気がちとなりました。明治37年の夏、伯爵が重態になると皇室では川村家に御見舞いを贈るとともに、明治天皇は特別に伯爵を海軍大将に昇任させました。これは、退役した軍人に対する処遇としては、異例のことでした。そして8月12日に伯爵が亡くなると、明治天皇は、次に掲げる弔慰文を川村家に寄せて、伯爵に対する哀悼と感謝の意を表しました。翌明治38年7月、宮内省は皇孫殿下御用邸として川村家の沼津の別荘を買い上げ、その後も数回にわたる増築を行って、大正11年には現在の西附属邸の形が整いました。」 「川村家の御養育の任務は伯爵の死去とともに解かれましたが、同家には皇孫殿下が御少時に使われた品物などが、御養育の記念として残されました。川村家では、これらの品物を大切に保管してきましたが、このたび、御養育に関わりの深い西附属邸の修復が完了したため、これらの品物が沼津市に託されることとなりましたので、その一部をここに展示します。」 「十年西南ノ役總督ヲ輔翼シテ遂ニ平定ノ功ヲ奏シ久シク海軍ノ重任ヲ擔ヒ大ニ更張ノ基ヲ立ツ又迪宮淳宮ヲ保育シテ善ク其誠ヲ竭セリ今ヤ溘去ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン因テ特ニ祭資弔慰スヘキ旨御沙汰アラセラル」。 【じゅうねん せいなんのえき そうとくを ほよくしてついに へいていの こうを そうしひさしく かいぐん の じゅうにん を になひおおいに こうちょうのきをたつまた みちのみや あつのみや を ほいくしてよく その まこと を つくせりいまや こうきょ をきくなんぞ しんとうに たへんよって とくに さいしを たまひちょうい すべき むねごさた あらせらる】注1.西南の役 明治10年2月、西郷隆盛を総帥として鹿児島に挙兵した内乱。同年9月、政府軍に捕らえられ 鎮圧された。2.総督 政府軍の最高責任者で、有栖川宮熾仁親王がこれに就任した。3.補翼 補佐する者のこと。この場合、総督を補佐する参謀長という役職を指す。三条実美は陸軍、 川村純義は海軍に属し、陸軍は当時の川村景明陸軍中将(後の陸軍大将)が、海軍は 川村純義海軍大輔(海軍卿に次ぐ海軍の実務上の最高責任者)がこれに就いた。 それぞれ陸・海軍を統括した。川村は、鹿児島の出身で西郷隆盛と姻戚関係にもあり、 政府軍の側から西郷軍との交渉を行う者として、うってつけの立場にあったが、内乱が 長引くことを恐れて海軍の参戦に尽力した。4.海軍の重任 川村純義は明治11年、初代海軍卿、勝海舟に次ぐ三代目の海軍卿となり、その後 一時辞任したが、明治天皇の海軍顧問に再任されるなど、約15年間にわたり日本海軍の 基礎づくりに貢献した。※字句の解説 更張=充実発展をさせること 溘去=急に亡くなること 軫悼=天皇が嘆き悲しむこと「弔慰文の額」も。明治天皇が川村伯爵死去に際して川村家に寄せた弔慰文。昭憲皇太后の御姿と和歌。「昭憲皇太后は毎年一月から四月まで御用邸にご滞在して、大正三年(1914年)沼津御用邸にてご崩御」 「昭憲皇太后の和歌くれぬまに 沼津のさとに つきにけり しばしみてこむ 海のけしきを 千本浜公園記念歌碑」 「昭和天皇、秩父宮様の御養育記念品おニ人の御養育にあたった川村伯爵家に残きれた、ご幼少時の品物など」 「昭和天皇が御幼少のころ着用された「ちゃんちゃんこ」」。 「御幼少時のアルバム」 御幼少時の昭和天皇。古くから日本には「男の子は悪霊や病気に狙われやすい」という民間信仰がありました。そのため、あえて幼少期に女の子の服を着せたり、髪を女の子のように結ったりして悪霊の目を欺き、健康に育つように願う魔除けの習慣(お稚児さんの文化など)が存在しました。赤い絨毯の敷かれた縁側にも様々な展示が。「西附属邸 Nishi Fuzoku-tei(West Annex)西附属邸は昭和天皇ら親王の御用邸であり、一部2階建木造の建物で、30以上の部屋がある。ここは昭和天皇の養育係であった川村伯爵の別邸であった(区域1)。明治39年(1906)に御所内の賢所附属建物を移築・増設し、西付属邸とした(区域2)。明治41年(1908)に車寄や湯殿など(区域3)、大正11年(1922)に玉突所(区域4)を増築し、現在の形となった。建物の構造としては、皇室が日常生活を送る御座所などが海側に、職員が使用する区域が陸側に配置され、皇室の使用区域は1m以上もある高床形式である。本邸が昭和20年(1945)7月に空襲で焼失した後は、この西附属邸が主に利用された」 「西附属邸エリア Area around Nishi Fuzoku-tei(West Annex)ここには昭和天皇の御用邸として西附属邸が設置された。海沿いのクロマッ林の南側に西附属邸などの建造物が残っている。工リアの北端海側に新たに設けた展望地からは、クロマッ林越しに見る富士山や牛臥山の眺望を楽しむことができる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.09
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さらに旧沼津御用邸の西附属邸の見学を続ける。「洗面台」が二つ並んでいた。 「御料浴室」。 「御料浴室浴槽のない 掛かり湯式の浴室でお湯は外から運び込みました」。 中庭を見る。そして「女官室」。 「女官室」の様様な展示品を。 当時の電話機。明治末から大正時代にかけて使用された磁石式電話機(マグネトー式電話機)の特徴を備えています。特徴は次のとおりです。・上部の送話器(話す部分)・側面に吊り下げられた受話器(聞く部分)・正面の丸い二つの金具は呼び出しベル・側面(または右側)には通常、交換手を呼び出すための手回し発電機(ハンドル)が 付いていました(写真では見えません)。御用邸ではどのように使われたのか沼津御用邸は明治26年(1893)に開設されました。当時は電話網がまだ発展途上であり、電話は自動的につながるものではなく、・ハンドルを回して電流を発生させる。・電話交換手が応答する。・相手につないでもらう。という仕組みでした。御用邸では、宮内省や東京、沼津市内の関係機関との連絡に重要な役割を果たしたと考えられます。女官室に展示されている理由この電話機が女官室に展示されているのは、女官が皇后や皇族の日常生活を支え、各部屋や事務部門との連絡役も担っていたことを示すためと思われます。電話は当時としては最新の通信機器であり、御用邸の日常業務には欠かせない設備でした。明治・大正期の電話機は現在の電話とは異なり、木製の重厚な箱と真鍮製のベルを備えた優雅なデザインで、実用品であると同時に時代を感じさせる貴重な歴史資料でもあります。「寄稿 国民的な文化遺産として活用」 別府大学教授 工藤圭章 元文化庁鑑査官、同建造物課長。 元沼津高専校長。 昭和51年から桂離宮の修復指導に当たる。 わが国の建築史の権威者。 旧沼津御用邸の修復にも基本構想段階から参画、指導に当たる。「寄稿国民的な文化遺産として活用はじめに明治百年が喧伝(けんでん)された昭和四十三年ころ、明治生まれの年配の方々が、「明治は遠くなりにけり」と嘆かれていたことを思い出す。日本の近代化が著しく進み、古き良き明治の面影が少なくなったことが、明治が遠くなったと感じさせたのであろう。ところで、あれからもう四半世紀も過ぎ、今はますます明治が遠くなってしまったと思わざるをえない。沼津に御用邸が定められたのは明治二十六年のことである。そして、奇しくも明治百年が過ぎた昭和四十四年に廃止されている。その後、代わりに須崎に御用邸が建てられたので、現在は御用邸は葉山、那須、須崎の三か所にある。もともと御用邸は皇子皇女の静養、保養のための施設として造られ、明治二十年代には、塩原、熱海、伊香保、沼津、日光、葉山、箱根宮ノ下など、環境のよい名勝地や温泉地を選んで建設されている。旧沼津御用邸では、遺憾なことであるが、明治二十六年当初の本邸が昭和二十年七月の戦災で失われている。しかし、東宮大夫官舎を赤坂離宮から移築した東付属邸や、隣地の伯爵川村純義海軍大将の別荘を転用拡充し、宮城の賢所仮便殿を移築増築した西附属邸がまだ現存し、厩舎、倉庫などの附属建物もなお共に残り、今も当時の面影が偲ばれる旧御用邸の数少ない遺構として大変重要である。明治の元勲や貴顕紳士の本邸、別邸の残るものの少なくなった今日、旧沼津御用邸は建物自体は決して華美なものではないが、まとまってこの環境のよい土地に残されていることに、数少ない明治の大規模木造住宅群として極めて高く評価され、この保存には大きな期待と意義が認められている。それらについてこれから述べてみよう。大規模住宅群の遺構現在、木造住宅群の大規模な遺構として知られているものには、国宝の二条城二の丸御殿をはじめ、有数の社寺の書院群がある。しかし、それらは公式的な接客空間、もしくは多数の人びとを謁見するための大広間や対面所を備えた格式ある書院造りの建物で、いわゆる住宅としての建物とは異なっている。例えば、重要文化財指定の、本県に所在する安政二年(一八五五)建築の掛川城御殿も、住宅というより役宅としての性格が強く、あまり生活の匂いを感じさせない。これに対して、桂離宮の書院群は二条城二の丸御殿とは違って、住宅風のたたずまいを強く感じさせる。桂離宮は十七世紀初めの元和・寛永時の建築で、二の丸御殿と似た時期のものであるが、前者は桂宮家の別荘、後者は将軍家の上洛時の御殿という差が、自然に建物の上に表れている。また、このころの大名の別荘というと、横浜の本牧にある三溪園の臨春閣がその代表に挙げられる。臨春閣の書院群はもともとは紀州徳川家の別荘だったが、現在地に大正四年に移築されている。この建物も住宅風で、建築群の配置が雁行していて桂離宮によく似ている。さて、十七世紀のものがこのように保存されているのに比べて、十八世紀十九世紀のものが少なく、日本の大規模な木造建築群の流れを知るためには残念なことである。大名屋敷などの高級武士の住宅がほとんど存続していないのが、このような現状を招いたのである。幸いにして、十九世紀中頃の弘化・嘉永時の建築である桂宮家の御殿が今も保存されているので、どうにかこの流れを辿ることができる。この御殿はもと京都御所の東北にあったが、明治二十七年に二条城の本丸に移築されて漸く今に伝え」 「られたのである。明治の大規模木造住宅では、三菱創始者の岩崎家の住宅の一部や北九州の松本家住宅、旧大名の立花家などが保存されている。明治の文明開化が上流階級の住宅に及ぼした影響で、これらの住宅は本館が洋館、居住棟が和風として造られ、共通している点に興味が引かれる。この風潮はやがて一般住宅に流行し、応接間が洋風、居間が和風に建てられるようになる。このような見方からすると、沼津御用邸の住宅史的意義はなおざりにできない。沼津御用邸のあり方沼津御用邸のほかにも、明治三十二年に建設された田母沢御用邸が今も日光に残されている。しかし、この建物は今までいろいろと転用されてきたので、主要部は旧規を残しているが、概して他の部分はかなり改造されている嫌いがある。建物は利用することが耐用年数を延ばすために有効であるが、かつてのたたずまいを知ることができるように、本来の形を残して保存活用することが、維持のためにも、後々の研究のためにも望ましい。ところで、旧沼津御用邸には当時の家具がよく保存されている。このようなしつらえがなければ、せっかく保存された建物も殺伐とした空間としか、評価されない憾みが残りかねない。什器備品が残されていれば、かつての建物の使われ方が想像できて、いろいろの面での活用と保存管理が考えられるのである。御用邸では、和室の畳敷の上に絨毯が敷かれている。これは皇室関係の建物によくみられる慣習で、おそらく昔の上流家屋で部屋に毛氈(もうせん)を敷いた名残であろう。御用邸の各部屋はそれぞれ当時の使われ方が室名とともに知られていて有難い。浴室は江戸時代以来の掛かり湯の浴室で、桂離宮の浴室と同じような浴槽のない形式のものである。このような浴室が今も残っているのは珍しい。玉突所は大正十一年に増築されているが、コテージ風の外観を示していて面白い。とくに撞球台の基礎が土管を外枠としたコンクリート造で、特異な施工法で注目される。各建物の窓台も雨仕舞のために、敷居樋端をくり抜くなどの配慮が及ぼされていて、当時の建築技法が細部まで窺われていて楽しい。天窓が設けられた調理室は、明治時代の上流階級のトップライトのある台所と軌を一にする。また、各部屋の照明設備も明治の器具がよく遺存されている。これらは明治が遠いというより、むしろこれが明治だと訪れる人に感じさせることだろう。その意味では「温故知新」の教材としての活用もある。ともあれ、復旧された旧沼津御用邸は旧規をそのまま残す明治の大規模木造建築群として、後世に伝えるべき優れた国民的資産であるといえよう。建物としても今は失われた技法を随所に留めていて参考になる。「旧沼津御用邸本邸復元想像図」 近づいて。本邸の面影を再現に近づいて。ここでは、今は見ることができない本邸の姿を、復元想像図と当時の建物写真で再現した。「御車寄と玄関部分」。 「御玉突所明治35年にこの場所に移築された。」 「御内庭の一部右側には洋館のベランダが見える。左手の塀の向こうには石垣越しに海が望める」 近づいて。「新御殿(御座所、御寝室)」。 「旧御殿(皇后宮御座所、御寝室)」。 「明治時代の離宮と御用邸」。 「明治時代の離宮と御用邸離宮とは、一般的に皇后や王宮以外の地に設けられた宮殿を指し、御用邸は皇室が避暑、避寒などのために用いる別邸を意味する。日本では、離宮は明治以前から存在したが、御用邸は全て明治になってから設置されている。現在の離宮は、京都の桂離宮、修学院離宮の二つであるが、これらは主として庭園鑑賞の目的で一般に公開されている。また現在の御用邸は、葉山御用邸、那須御用邸、須崎御用邸の三つである。戦前には各地に数多くの離宮や御用邸があったが、これらは戦後ほとんどが地方自治体などに移管された。ここで明治時代以降、地方に設置され、現在は廃止されている主な旧離宮・旧御用邸の規模と現況とを設置年代順に整理した。(次ページ表1)主な旧離宮・御用邸これらの旧離宮・御用邸は、それぞれの利用目的により立地条件が異なっているが、大半は保養地としてふさわしい場所に立地していたと考えられる。函根(箱根)離宮は芦ノ湖に突き出た半島(写真1)がその用地となっており、武庫離宮は須磨海岸に面した高台(写真5)がまた、それ以外の御用邸用地も海岸や山間地の景観や温泉などに恵まれた、優れた立地環境の場所が選ばれてこれらの施設は、いずれも設置後百年近い歳月を経ており、また震災や戦災の被害を受けているものも多く、当時の建物が一般に公開できる形で保存されているのは、沼津と日光田母沢、塩原の三つの旧御用邸だけとなっている。このほか、函根と武庫の旧離宮は、それぞれ都市公園として整備されている。建物が保存され、都市公園として整備されているのは、沼津御用邸記念公園だけということになる。」 「主な旧離宮・御用邸の規模と現況(明治以降に建築・設置され、その後廃止されたもの)」「旧沼津御用邸本邸復元想像模型」 横から。移動して。「本邸の規模と室名本邸のあった位置は現在の用地のほぼ中央で、現在市の歴史民俗資料館がある場所を中心とした周辺に広がっていた。本邸の建築面積は、約4,000平方メートルで、資料館の約8倍の規模であった。」本邸の室名本邸は明治二十六年の新築以来、数回の増改築を行った結果、最終的には百倍以上の部屋を備えることになった。その間、部屋の使われ方も一部変更され、御玉突所のように移築されることもあった。表1に掲げる室名は、大正十一年ごろの資料に基づくものであり、謁見所など、天皇、皇后両陛下が用いる室名が見受けられる。また、図2には建築年次の区分を判明している範囲で示した。本邸の室名をズームして。「国家「君が代」👈️リンク一番「君が代わ 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」うごきなく 常磐かきはにかぎりもあらじ二番君が代わ 千尋の底の さざれ石の鵜のゐる磯と あらはるるまでかぎりなき 御代の栄をほぎたてまつる「君が代」が二番いや三番まであることを、このブログを書きながら初めて知ったのであった。学校でも二番、三番を教わった記憶が全く無いのである。■題名は展示品では 「国家『君が代』」 と印刷されています(「国歌」ではなく「国家」と表記)。 これは「国歌」の誤植(誤記)である可能性が極めて高いと思われます。 御用邸内の展示品に おいて、この誤植(誤記)は関係者は誰も気がついていないのであろうか??1985年(昭和60年)2月26日の閣議で松永光文部大臣は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告しているのだと。日本の国歌である『君が代』👈️リンクは、「あなたの命(あるいは平和な時代)が、小石が大きな岩になり、そこに長い年月をかけて苔が生えるほどの、永遠に長きにわたって続きますように」という、大切な人の永遠の繁栄と平和を願うお祝いの歌。具体的な歌詞の意味を分かりやすく分割すると、次のようになります:・君が代は 「君」はあなたや大切な人、「代」は命や時代を指します(平安時代の元の歌では 「我が君(天皇)」を・千代に八千代に 千年も八千年も、さらにそれ以上の果てしない未来まで(永遠に)。・さざれ石の巌となりて 細かい小石(さざれ石)が年月を経て固まり、巨大な岩(いわお)になるように。・苔のむすまで その大きな岩に、長い時間をかけて苔が生えるようになるまで。背景この歌詞の元となった歌は、平安時代の『古今和歌集』に収められている「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」というお祝いの歌(詠み人知らず)です。小さな石が集まって大きな岩になる現象を「永遠の象徴」とし、相手の長寿や平和を祈る縁起の良い歌として親しまれてきました。「さざれ石(天然記念物)この石は、学名「石灰質角礫岩」と言い、石灰石が長い年月の間に雨水で溶解し、その粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が、次第に小石を凝結、だんだん巨巌となり河川の浸蝕により地表に露出、苔むしたものである。この石にまつわる郷土の伝承として平安朝時代、文徳天皇(在位八五〇年〜八五八年)の皇子惟喬親王(木地師の祖神)に仕えた歌人の藤原朝臣石位左衛門が、江州の君ヶ畑へ通う途中、自然に凝結、苔むして巨巌になっている珍しい石の状態を見て、ありのまま、「わが君は、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて苔のむすまで」と詠んだのだが、この石であり千代に栄えることを祈った、めでたい石であるという。献上昭和二十七年 十一月二十六日・皇居・明治神宮 約三屯 各一個 ・文部省・池田隼人元首相・吉田茂元首相 各 約一屯昭和三十八年 四月九日 ・伊勢神宮内宮・外宮 各約三屯 各一個・供膳所床飾用 一個昭和五十二年 十月二十七日・天皇皇后両陛下・皇太子皇太子妃両陛下 各二個昭和五十九年 四月五日・中曽根康弘首相 一個」 「さざれ石(天然記念物)」。 近づいて。「御用邸造営前の沼津町と楊原村 図1は、明治二十四年五月に発行されたもので、沼津町略図としながらも、狩野川左岸の楊原村を含んだ図になっている。これは、沼津町と楊原村が地理的に一体であったことと、楊原村の動向に注目すべきことがあったためと考えられる。二年後には、楊原村に御用邸が建設されるが、その前兆としての開発が楊原村に始まりつつあった。図1の右下には、大山巌(陸軍大臣)、川村純義(文部大臣)、西郷従道(陸・海軍大臣)の四人の伯爵の別荘が設けられていることが分かる。このうち、大木を除く三人は、いずれも旧鹿児島藩出身で、お互いに親交があったことから、別荘の設置についても、何らかの相談があったことが想像される。こうした別荘は、後に沼津町の千本浜付近にも数多く設けられるようになるが、この地図の時代にはまだそのような様子はうかがえない。東海道線が開通してまだ二年目の段階で、早くも御用邸の設置される島郷地区の周辺が保養地として注目されており、別荘や海水浴場などの開発が進んでいた状況が、この図からも読み取ることができる。当時の沼津の市街東海道の敷設に際しては、予め狩野川河口の蛇松から沼津駅まで支線が引かれ、ここからこの地域一帯の線路敷設の資材が搬入された。蛇松から船橋までの間の右岸一帯は、後に沼津港が建設されるまでの間は河岸港として大いに賑わっていた。沼津駅の南側には、明治の初期に廃城となった沼津城の堀の跡が見られるが、この中で測候所がある付近には、明治の当初、沼津兵学校が置かれていた。図1のころには、沼津の市街も江戸時代の面影を残しており、道路の形態も城下町、宿場町の当時(図2)のままで、沼津城を取り巻くように配置されていた寺院も、都市計画による移転以前の元の場所に見ることができる。」 再び「女官室」の展示品を振り返って。皇室の方々の在りし日に写真が展示されていた。「沼津御用邸(西附属邸)にお別れの行幸啓1970年(昭和45年3月一5日)」 「沼津御用邸(東附属邸)にお別れの行幸啓1970年(昭和45年3月15日)」 「常陸宮正仁殿下 華子妃殿下沼津御用邸記念公園御成り(平成8年7月2 5日)」 「沼津御用邸記念公園行啓写真 平成12年2月9日」 皇太子時代の徳仁親王(なるひとしんのう)と皇太子妃殿下・雅子様。さらに展示品を追う。「Ⅰ 沼津御用邸とその時代沼津御用邸の設置沼津御用邸は今から百年前の明治二十六年七月に造営され、そのころ建設が始まった各地の御用邸の中でも、最も早い時期に開設されることになった。このことは、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために設置が決定されたもので、前年の明治二十五年末から新築工事の準備が開始された。ここでは、当時の時代的な背景などを振り返ってみたい。優れた風土と景観御用邸の設置に当たっては、保養地としての立地条件が重視され、特に温暖な気候や風光明媚な環境が求められた。沼津御用邸の設置に先立ち、宮内省では前年東京と沼津との冬の気温の比較調査を行っている(表1)。この調査は明治二十四年の十月から二十五年の二月までの気温を比較対照したもので、これによれば六月の平均気温は沼津の方が東京より華氏二度前後高いという結果が出ていた。避寒のためには、冬季の気温は特に重要な要素だった。景観の面では、大正天皇の皇太子時代に長く御用勤務の侍医を務めたエルウィン・ベルツ博士が、当時の沼津御用邸とその周辺地域の印象を詳しく日記に書き残している。博士は、明治九年(一八七六)に日本政府の招きでドイツから来日し、我が国の近代医学の基礎作りに貢献するとともに、皇室の健康管理にも携わった人物である。ここで、岩波文庫『ベルツの日記』から沼津の気候や景観についての記述を引用してみたい。」 ベルツ『日記』より○ 明治三十七年二月十二日「沼津に近い静浦は、日本の最も美しい入り海の一つだ。冬は気候が温和で、訪れる人が多い。東宮のいわゆる御用邸もここにある。(略)」○ 明治三十八年二月三日「沼津は、気候の境界線である箱根の山を越して、最初の大きい町である。ここで急に、気候はずっと暖かになる。場所には富士の南のふもとにあって、その周囲に富士、この巨峯富士とその全面にそびえる愛鷹山、長く延びた箱根連山、雄大な甲州の山脈、伊豆の山々、いくたの魅するような入江のある海など、無数の絶景が控えている。これらの入り江の中でも一番美しい入り江に面して、厳めしい老松の林のそばに東宮の別邸がある。(略)」エルヴィン・ベルツ(1849-1913)明治9年(1876)来日。東京医学校(後の東京大学医学部)教師。荒井はな(花)と結婚。明治38年帰国。川村伯爵の努力沼津御用邸の造営に対して、最も深い関わりを持った人物の一人は、川村純義伯爵である。伯爵は旧鹿児島藩出身の海軍軍人で、明治十一年には勝海舟(安房)、安芳らの後任として海軍卿(後の海軍大臣)を務め、日本海軍の基礎づくりに貢献した。伯爵は、第一線を退いた明治二十年過ぎに、かねてからの希望どおり、沼津に近い島郷に別荘を設けることとなった。伯爵は、後に明治天皇から迪宮裕仁親王(昭和天皇)と淳宮雍仁親王(秩父宮)のご養育を命ぜられるなど、皇室の信任が厚く、沼津御用邸の設置についても、その数年前から気温調査を提唱し、景観面での利点を主張していた。また、その後も皇孫御養育の場所として御用邸の設置を訴えるなど、関係方面への強い働き掛けをしていたことがうかがえる。このことは地元の大中寺の記録『大中寺と沼津御用邸』や、伯爵の外孫に当たる作家・白洲正子さんの自伝『白洲正子自伝』、芸術新潮一九九一年三月号・連載第二回「ふたりの祖父」でも明らかである。伯爵は、裕仁親王のご誕生から三年後に亡くなったため、ご養育の期間はそれほど長くはなかったが、皇孫殿下をお預かりするためには家族の協力が不可欠であり、家庭が円満なことで知られる川村家ならではのことだったと思われる。ご養育の場所は、東京では麻布の川村伯爵邸、沼津では御用邸本邸の西隣の別荘を用いており、『ベルツの日記』でも沼津で伯爵の夫人や令嬢が、献身的にご養育に当たっている様子が述べられている。伯爵は、生前から皇孫殿下御用邸の設置の必要性を訴えていたが、亡くなって一年後の明治三十八年八月には川村家の別荘が買い上げられ、西附属邸として皇孫殿下の御用邸に充てられることとなった。東海道線の開通沼津の海に聞こえたる里は牛伏(臥)我入道春は花咲く桃のころ夏は涼しき海のそば明治三十三年につくられた鉄道唱歌の中で、沼津はこう歌われている。東海道線は、明治二十二年に東京・神戸間が開通しているが、当時は丹那トンネルがなく、現在の御殿場線が本線となっていた。「Ⅱ 沼津御用邸の沿革沼津御用邸本邸は最初の造営の後、数回の増改築を経て、同時期の御用邸の中では最大級の規模となり、昭和二十年七月の沼津大空襲で焼失するまで、半世紀以上に渡りその役割を果たしてきた。東西の付属邸は明治三十六年から三十九年になかけて、公孫殿下のための御用邸として造営され、戦後も焼失した本邸に代わって多くの皇族の方々のご利用に供されてきた。ここでは、本邸と東西附属邸の造営当時の模様をたどってみたい。本邸の造営本邸は、明治二十五年末から翌二十六年にかけて最初の新築工事が行われ、同年七月には早くも竣工した。この段階では、建物面積も全体の三分の一程度で、御座所を中心とした旧御殿といわれる部分だけであった。しかし、御用邸としての機能は備えてりおり竣工してから間もない二十六年七月二十二日には大正天皇(当時は皇太子)の初めての行啓をお迎えすることとなった。明治二十八年から二十九年にかけて、最初の増築工事が行われ、新しい御座所や御玉突所が設けられるとともに、侍医の詰所や女官室など、臣下の詰所が整った。この段階では、建築面積の全体の三分の二程度となり、御用邸としての機能の充実が図られた。また、牛舎や厩舎などの附属建物も次第に整備され、馬場も新設された。明治三十三年には更に増築工事が行われ、御車寄などが増築されるとともに、表御座所のある洋館が新築された。この段階では、建築面積も全体面積の約四千平方メートルに近い規模となりほぼ完成された形となったと思われる。建築史に残る沼津御用邸本邸洋館本邸の洋館は、当時の御用邸としては初めての洋風建築物であり、小規模ながら明治後期における宮殿建築の一つの事例として、建築史に残る建物であった。この洋館には五つの部屋があり、そのうち海岸に面した三つが主な部屋であった。北側の部屋は東御座所であり、謁見所、御学問所として用いられた。また、南側の部屋にはベランダが付設され、御遊戯室兼食堂として用いられた。この三つの部屋には暖炉も設置され、家具や内装の造作にもふさわしい高級感があるものとなっている。洋館の工事は、宮内省の建築技術者の中から、片山東熊と河面徳三郎の二人が担当したといわれる。片山は赤坂離宮を始めとする当時の代表的な西洋建築物の設計などで知られる高名な建築家であり、河面は内匠寮で活躍した技術者であった。「西附属邸御殿の修復西附属邸御殿の修復に当たっては、建物の保存を第一に、極力、御用邸として使われていた当時の形態と仕上げを忠実に再現することに心掛けました。このように”原型に忠実に”を基本方針として修復を行うこととなり、そのために必要な時代考証と建築材料等の選択には、当時の資料をもとに・・・・・・・・・・・・・。そして、沼津御用邸造営百周年に当たる平成5年度から3か年計画で修復工事が進められ、平成8年2月には御殿の修復に関する全ての工事が終了して、全館が公開されるとなりました。修復工事の概要は次のとおりです。洗い工事建物には主に杉や檜、松材が用いられていますが、こうした木の部分は長い歳月の経過とともに、雨漏りやシミによる汚れがひどかったため、特殊な薬品を使った「洗い工事」を実施しました。この洗い工事は、いわゆるアク洗いに相当するもので、建物内部の全体及び外側の主な部分について、柱や長押、天井など隅々まで、ていねいに行われ、木材の色合いに古さを残しながら時代を感じさせるたたずまいを保存することができました。外壁の杉板などは、いたみが激しい部分について、必要に応じて取り替えを行いました。屋根工事屋根は入母屋を中心とした寄棟造りの極めて複雑な構造で、瓦はもともとは「本磨きいぶし六四版面取桟瓦」という特殊なものが使われていました。この瓦は、一坪当たり64枚敷くことができるために「六四版」といわれていたもので、普通の瓦に比べてやや小さめになっています。また、鬼瓦や巴蓋瓦など、特殊な部分には菊の御紋章が施されたものもあります。これらの瓦は、今回の修復に当たり全て手造りで再現されたもので、固くて水はけがよいという特徴があり、雨上がりの後も水分が残りにくくなります。このため、木が腐りにくくなり、木造建築物である御殿の耐久性が増すことになります。建具とガラス障子や襖などの建具類には全て修理の手が加えられ、破損したり、あきらかに昔とデザインが変わってしまっていたものについては、資料をもとに当時の形に復元されています。建物に使用されている透明なガラスは、明治時代のガラスを復元したもので、表面に微妙な凹凸があって、昔に戻ったような不思議な味わいがあります。このようなガラスは、現在、国内では手に入りにくいため、ドイツ製の手造りガラスを用いています。間似合紙(まにあいし)御殿の主な部屋には、兵庫県西宮市郊外の名塩地区で伝統的な手すきにより作られた「間似合紙」と呼ばれる和紙が使用されています。この紙は雁皮(がんぴ)という特殊な植物繊維に石の粉を混ぜて作られますが、石の粉を混入することによって紙の伸縮を防ぐとともに、防火や防湿、防虫などの効果があったということです。間似合紙の名前の由来は、襖の幅である半間(約90cm)に継ぎ目なしに貼ることができるために、「間に合う」ことからきたといわれています。灯具、電球御殿内部の灯具は、展示用の照明を除いて全て昔からのものが、そのままの状態で用いられています。御食堂や謁見所など、公式に用いる主な部屋には真鍮製のシャンデリアが、日常生活に用いる御座所にはモール付きの電灯が用いられるなど、灯具のデザインにも明治宮廷の様式美をうかがうことができます。また、電球はタングステン製のフィラメントを用いた復元品で、電力は当時と同じ60ワットとしました。鐶金具(かざりかなぐ)柱と長押(なげし)の接合部分には「釘隠し」と呼ばれる鐶金具が随所に見られます。これは、本来は釘を打ったところを覆い隠すために考案されたと思われますが、後には建物の装飾のために用いられるようになりました。今回の修復工事に際しては、欠落していた分を昔と同じ方法で製作しました。」 鐶金具(かざりかなぐ)の作業風景ガラスケース内には、御用邸の修復工事で製作・復元された釘隠し金具が展示されていまた。釘隠しは、柱と長押(なげし)の接合部で釘頭を隠すための金具ですが、明治時代には実用品であると同時に、建物の格式を高める装飾としても重要な役割を果たしていました。左上の写真は、熟練した職人が伝統技法で釘隠しを製作している作業風景です。今回の修復では、欠落していた金具を当時と同じ工法で一つひとつ手作業により復元したことが紹介されていた。展示されている釘隠しには、さまざまな意匠が見られる。写真中央から右上には、・雁文釘隠し金具・ホトトギス文釘隠し金具・おしどり文釘隠し金具・千鳥文釘隠し金具など、鳥をモチーフにした優雅なデザインが並び、下段には梅や紅葉、花形など植物を意匠化した釘隠しも展示されている。これらは単なる装飾ではなく、明治宮廷建築の気品や美意識を今に伝える工芸品でもある。細部にまで意匠を凝らした金具からは、御用邸が皇室の御静養の場として建てられた格式の高さと、日本の伝統建築を支えた職人たちの優れた技術をうかがうことができるのであった。ズームして。「長押釘隠し六葉金具ができるまで」 。御用邸の長押(なげし)に取り付けられる六葉(ろくよう)形の釘隠し金具が、どのような工程を経て完成するかを紹介したもの。ガラスケースには、六葉形の釘隠し金具の製作工程が順を追って展示されていた。上段には、金工や釘隠しのデザインに関する資料や書籍が置かれ、伝統的な意匠や製作技法が紹介されていた。中央には、銅板を加工する途中の部材や、丸い飾り鋲、釘などが並び、職人が一つひとつ手作業で成形していく様子が分かりるのであった。下段には、平らな銅板から六葉形へと少しずつ形が整えられ、縁が立ち上がり、最後に立体的な釘隠し金具へと仕上がっていく各工程が順番に展示されていた。右端には、裏側に釘を固定するための穴が設けられた状態も見られ、最後に木型などを用いて成形されることが分かるのであった。この展示からは、長押釘隠しが単なる金具ではなく、銅板の切り出し、打ち出し、成形、仕上げまで、多くの工程を経て熟練した職人の手によって丹念に作られる伝統工芸品であることが理解できるのであった。沼津御用邸の修復では、このような技法を受け継ぎながら、明治時代当時の姿を忠実に再現することが目指されたのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.08
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「御用邸の暮らし」 「御用邸の暮らし昔、御用邸に皇族が滞在されるときには、身の回りの調度や衣類、寝具、食器などを全て運んできたといわれます。これは普段の機嫌を損なわないためといわれています。料理の道具類も同様で、寝室から食膳にいたるまで寝具やトランク、つづらなどに入れて、お召し列車や自動車で運んでいました。また新鮮な牛乳を得るために、牛も連れてきて飼っていたということで、旧沼津御用邸にも牛舎がありました。料理の材料は東京から運び込まれ、職員が点検してから使用したと思われますが、内玄関の脇の出入詰所は、出入りの商人が控えていたようです。なお、この内玄関は職員や商人などが使用し、正面玄関は皇族が用いるようになっていたそうです。また当時は火事を防ぐために、御殿の中ではなるべく火を使わないようにしており、調理室でも炭火などを用いる程度で、大きな火を使う場合は、調理棟の外側の石造りの湯沸所にあるかまどを用いていました。御料浴室にも湯沸かしの設備はなく、湯沸所から桶に入れたお湯を男子の職員が天秤棒を担ぎ、廊下の下をくぐる地下道を通って、御料浴室まで約30メートルの距離を運んでいたということです。料理ができるまで調理室は約14坪の広さで、採光と排煙を兼ねた天窓は、側面の可動式の窓をロープで開閉する形になっています。昔のままの流し台は人造石の前を井の字につに区切られた珍しい形です。かまどと魚焼き器は炭火を用いていました。また、当初は石炭を用いる西洋釜も設けられていました。」「調理室の入口にあるスロープ式の階段は、料理を運ぶために手押し車や運搬用の艚(ふね)と呼ばれる道具を用いていたことから、このような形になっていたということです。当時、皇族の日常のお食事は基本的には和食が中心で、一般家庭の食事と比べても、あまり変わらないものだったようです。沼津の土地柄からすると魚介類が食卓に上ることも多かったと思われます。調理や盛り付けをする台は六尺卓(ろくしゃくたく)といわれる折り畳み式のものを使っていました。これは移動に適しているために、御用邸では特によく使われたようで、職員の食事や作業などにも用いられたということです。(写真)運搬用の艚(前後を2人で持って運んだ)「天皇の料理番」料理は、厨司(ちゅうし)または主厨(しゅちゅう)と呼ばれる宮内庁の料理担当者が作りましたが、当時は料理材料や食品の冷凍・保存もままならない中で、安全なものを責任を持って作ることが必要だったため、たとえば豆腐などの加工食品も全て担当者が作っていたそうです。「天皇の料理番」として小説やテレビでも知られる秋山徳蔵氏は、大正初期から昭和47年まで、約60年間にわたり厨司長、後には主厨司長(現在の料理長)を務めましたが、この西附属邸の調理室でも、大いに腕を振るったことでしょう。昔、御用邸でも食事どきには、皇族の方が召し上がる一時間前に侍医などが料理を小皿に取って内容を点検する「試嘗(ししょう)」(「おしつけ」ともいう)を行っていました。その後、改めて料理を作り、それを運搬係と呼ばれる別の担当者が、運搬道」 具に載せて供進所(配膳室)に運んで盛り付けを行い、最後に女官が供進所の隣の御食堂にお出ししていたそうです。試嘗は毒見とは違って、料理内容が召し上がる皇族の方のご体調に合っているかどうかを調べたものといわれますが、今日このようなことは行われていません。現在、宮内庁では、宮中晩餐会などの公式な行事での料理や、天皇皇后両陛下の日常のお食事の調理や供進などの仕事は、管理部大膳課が担当していますが、宮内庁の料理人の実力は、我が国の最高レベルにあるといわれています。「西附属邸御殿案内図」」。 「沼津御用邸記念公園 西附属邸御殿案内図」をネットから。(※部屋の名称は当時の呼称を用いています。)「テーブルクロス」。 「明治三十三年五月十日 嘉仁皇太子殿下(後の大正天皇)ご成婚のお祝品福岡県中垣安太郎 他一名献上」 「テーブルクロスの箱 沼津御用邸の備え付けとして御食堂で使用しました。」 「侍従候所」 皇族の身の回りの世話をする侍従たちの控室でした。現在は西附属邸内にあり、昭和20年の空襲で焼失した旧本邸の模型や皇室ゆかりの品々が展示されています。テレビ画像を椅子に座って見られるようになっていた。「侍従候所侍従の部屋(展示コーナー)」 天皇(現上皇)の在りし日のご様子が映像で紹介されていた。「供進所」 皇室の食事を盛り付けたり配膳をしたお部屋です。昔は皇室の方がお召し上がりになる1時間前に、侍医などが皇室の方のご体調に内容があっているかどうか、料理を小皿にとって点検していたそうです。その後、「調理室」で改めて作った料理を、この「供進所」で盛り付け、「御食堂」に運んでいました。窓越しに眺める庭園は、「大正ガラス」特有のゆらぎによって、まるで一枚の絵画のように映っていた。その柔らかな歪みには、現代のガラスにはない温もりがあり、時を重ねてきた御用邸の歴史を静かに物語っていた。しばらくその窓辺に佇み、皇族の方々も同じ景色をご覧になったのだろうかと、遠い時代に思いを馳せたのであった。 「お食堂」。 「御食堂(おしょくどう)皇族が食事を召し上がる部屋で、椅子は食堂用の皮張り、御紋章入りのもの。DINING ROOMThe room for dining.The chairs covered with leather are decorated with the Imperial crest.」 「謁見所(えっけんじょ)」。 「謁見所(えっけんじょ)天皇陛下がご滞在中、来客に面会するときに用いた部屋。床の間側に置かれた玉座用の肘掛け椅子には、梨地漆に御紋章の蒔絵が描かれている。OFFICIAL GUEST ROOMThe Emperor met visitors here.The Emperor's armchair in the alcove is decorated with the gold lacquered Imperial crest.」 「玉座用肘掛け椅子」 「玉座用肘掛け椅子」に近づいて。 「日本人の椅子 十選 家具史研究家 小泉和子」 「玉座用肘掛け椅子(ぎょくざようひじかけいす)西附属邸謁見所(観覧順路⑦)に展示している玉座用肘掛け椅子は、明治11年ごろまでに作られたわが国の代表的な宮廷家具で、約120年の歳月を経た今日でも、歌会始などの主な行事のときには、天皇皇后両陛下がお使いになっています。この椅子は、昭和44年に旧沼津御用邸が廃止された際、宮内庁から沼津市が譲り受けたもので、その後の歳月の経過によるいたみがあり、大幅な修復を必要とする状態でした。そこで、今回の西附属邸改修に当たり、家具史研究家の小泉和子氏に依頼して、平成5年度に伝統的な技法に基づく本格的な修復を行うこととなりました。その過程では様々な専門家の協力を得て、この椅子の制作された時代的な背景や、僅かに残されていた特殊な技術や技能が体系的に結び付き、後世に継承できる可能性が生まれました。修復の詳しい内容については、小泉和子氏の報告書などを参考にしていただくとして、この椅子の特徴は次のとおりです。実物は後ほど謁見所でご覧ください。・・・玉座用肘掛け椅子の特徴・・・① 馬蹄形の背もたれで、肘掛と挽物を使った直脚がついている完全な洋風のクラシック (ヴィクトリアン)様式であるのに対して、造りは全くの和風の伝統的技法を用いている。② 背枠や脚などの木部はケヤキ材で梨子地塗仕上げをし、金の高蒔絵で菊紋80個余りを散らし、 背枠の上中央と両端には御紋章を埋め込んでいる。③ 裂地は濃紫色の西陣織で、模様の部分がビロード状になっていて、その下から裏側に 横糸として使っている金糸がちらりと見える。」 「寄稿沼津御用邸と家具日本の宮廷家具の代表小泉和子」 「寄稿沼津御用邸と家具日本の宮廷家具の代表旧沼津御用邸が沼津市に引き継がれた時点で、西附属邸には三種類の家具が残っていた。一つは謁見所の家具、一つは食堂の家具、いま一つは御座所の家具で、それぞれスタイルは違うが、いずれも明治時代に作られたものである。しかも、わが国の宮廷家具として最も代表的なものであり、かつ歴史的にも重要なものである上、工芸美術的にも非常に水準の高い最高級家具であるが、特に価値の高いのが謁見所の家具である。これは玉座用の肘掛け椅子(写真1)と、テーブル、小椅子三脚との計五脚で、様式は典型的な和洋折衷様式である。玉座は、馬蹄形の背もたれに肘掛けが付いたもので、脚は挽物を使った直脚である。もとになっている西洋のスタイルははっきりしないが、多分十九世紀のイギリスの椅子あたりをアレンジしたものであろう。背枠や肘掛け、脚などの木部は時に梨地塗仕上げをし、金の高蒔絵で大小の菊紋を散らしている。また、座枠のところには金蒔絵で南蛮唐草文様も付いている。西洋風のつもりだったのであろうか。裂地は西陣織で、輪奈ビロード紋切りといい、濃紫のところにちらりと金が光ところなど漆塗りのようで、まことに優雅で格調高いものである。テーブルは横100cm、縦60cm、高さ74cmほどの小形のもので、脚先が牙象になっている。何の変哲もない角脚のテーブルだが、これに卓袱を掛けるからで、皇室家具の場合、必ず卓袱を掛けている。卓袱はごりごりした高級な西陣織の錦製で、テーブルをきっちり包むような独特の形に掛ける。小椅子の方は、丸い背もたれに猫脚のバルーンバック・チェアというスタイルである。これはロココがもとになっているイギリス風で、十九世紀に入ってから、フランス、イギリスなどで盛んに使われたスタイルである。これをわが皇室用は木部を黒漆仕上げの上に桐文様を金銀の高蒔絵で描き、裂地も玉座と同じ西陣織(ただし金糸は入っていない)で張って和風に仕上げている。全体のシルエットが達磨を思わせることから、明治時代の職人は達磨椅子と呼んでいたものである。明治神宮絵画館壁画の家具東京代々木の明治神宮の一郭に聖徳記念絵画館という記念館がある。明治天皇の一代記を描いた壁画が展示してあるところだが、実はこの壁画に謁見所の家具と同じものが多数描かれているのである。たとえば「グラント将軍と御対話」という絵(図1)がある。これは明治12年にアメリカの元大統領グラント将軍が来日して、浜離宮の中島御茶屋で明治天皇と会見した際の情景であるが、ここで明治天皇が掛けているのが玉座用肘掛け椅子であり、グラント将軍が掛けているのが達磨椅子である。」 また、この一年前に天皇と英照皇太后が青山御所で能をご覧になっている「能楽御覧」でも、天皇と皇太后が掛けているのは玉座用肘掛け椅子のようであるし、明治十八年の「華族女学校行啓」でも皇后席として置かれているのもやはりこの肘掛け椅子である。さらに明治二十七年の日清戦争の際、広島大本営で参謀次長の戦況報告を受ける天皇を描いた「広島大本営御親裁」にも天皇用としてこの肘掛け椅子が描かれている。まさに天皇、皇后の行われるところ、必ず梨地蒔絵・ビロード八弁宝花の肘掛け椅子あり、といったところである。一方達磨椅子の方も、すでに明治七年に天皇が赤坂仮御所で元田永孚(もとだながさね)の御進講を受けている場面を描いた「侍講進講」に元田の席として描かれているし、明治二十三年の明治宮殿鳳凰の間における「歌御会始」(図2)、三十七年の「対露宣戦布告御前会議」などにも多数描かれている。つまりこのスタイルは、明治早々には宮廷家具として定着していたということである。延遼館に始まる宮廷家具ではこうしたスタイルがいつ、どこで始まったかであるが、これは明治最初の迎賓館として浜離宮の中に建てられた延遼館からである。「グラント将軍と御対話」に描かれている中島茶屋も延遼館の一部にあった建物である。延遼館は明治二年にイギリスのウィンブルク王子が世界漫遊の途中に日本に寄ることになって、急遽建てたものである。本瓦葺きの屋根に唐破風の玄関が付いた奉行所のような意匠だが、ベランダが付いていて、西洋風の窓があり、暖炉が付き、室内には絨毯を敷いてあるといった和洋折衷の建物であった。この時の明治政府の考え方が「外務省沿革類従」にあるが、一口にいえば建物を『洋風』にし、「美麗ヲ主トシテノ装飾ヲ厳ニシ」て整備し、日本側が一生懸命接待していることを示せば相手もきっと『永ク親睦ヲ遵守』するであろうということであった。ところが美麗な技術といっても、その当時洋風の装飾技術はまだない。そこでこの家具に見るような、形は洋風、技術は和風ということになったのであろう。こうしたデザインを実際に誰がどのようにして行ったのかは史料がなくて分からないが、結果としては、かなり成功している。当時はまだ、伝統的な工芸技術が立派に生きていた時期であり、しかも明治政府としては国威をかけて精一杯頑張って作ったものである。正統的な西洋の様式からすれば確かに妙なスタイルだが、しかし不思議と一つのスタイルになっているし、宮廷家具としての風格を備えているといえよう。その証拠に、この家具は今でも宮廷家具として続いていて、毎年の歌会始や立太子礼の時にも使われているのである。このたび幸いにも、こうした貴重な家具が、沼津市民のものとなったわけである。市では今回の御用邸の改修に伴って、これら家具類の修復を行い、百年余り前の美しさをよみがえらせることになった。今後、西附属邸を訪れる人々に近代日本の歴史の一端を語り掛けてくれる貴重な文化財として生き続けていくことであろう。「「グラント将軍と御対話」 大久保作次郎画」(図1)(ネットから) 。「山下新大郎画 明治二十三年 歌御会始」(図2)(ネットから)。 さらに赤い絨毯の敷かれた縁側を進む。再び「大正ガラス」越しに中庭を見る。このガラスの特徴・外の建物の柱や格子が、まるで水面に映ったように揺れて見えます。・ガラスの厚みが均一ではないため、場所によって像のゆがみ方が異なります。・光の当たり具合によって、独特の柔らかな輝きが生まれます。こうした味わいは、近代建築を訪ねる楽しみの一つなのである。 そして左側に現れたのが「御座所」。 「御座所は居間として用いられていた部屋。10畳の広さがあり、同じく10畳の御寝室と8畳の御着換所が続いており、前面に1間幅の縁座敷と半間幅の折曲り入側縁がついています。もともとはこの三つの部屋を総称して「御座所」と呼んでおり、皇族の方々の居住部分に相当するものでした。天井は杉板ですが、柱は黒松、鴨居や長押等には赤松を使用しています。日本の住宅建築で松を使うのは珍しいことで、この部屋の特徴の一つといえるでしょう。また、床の間に並ぶ違い棚はケヤキに着色し素漆で仕上げてあり、西附属邸の中で唯一色のある部分です。」 御座所ならではの和洋折衷の美しさがよく伝わって来たのであった。畳の上に洋風の絨毯が敷かれ、その上にソファとテーブルが置かれていた。これは明治時代の宮廷建築に特徴的な生活様式で、「形は洋風、暮らしは和風」という皇室ならではの空間を象徴していた。ソファには華やかな花模様の張地が用いられ、部屋全体に落ち着いた品格を添えていた。床の間や違い棚、障子、柱などは伝統的な和室の意匠でまとめられていますが、その中に洋家具が自然に溶け込んでいた。左手前の飾り台には美しい花瓶が置かれ、室内の格式を高めている。特に注目したいのは、違い棚。御座所の違い棚はケヤキ材に着色を施し、素漆で仕上げられており、西附属邸の中で唯一、色彩を持つ意匠として知られています。また、柱には黒松、鴨居や長押には赤松が用いられるなど、一般住宅では珍しい材料選びも、この部屋の大きな特徴である と。「御座所皇族の方々の居住部分として用いていた建物で御座所(居間)、御寝室、御着換所から成り全体を御座所と呼んでいた。」 移動して。牡丹の描かれた大きな壺も。そして「御寝室」。 「御寝室」の隣には。「御着換所」。 そして次に「御玉突所」へと向かう。 「御玉突所」入口。玉突(ビリヤード)は明治時代、上流階級の社交的レジャーとして人気があり、当時の政府高官や実業家などの邸宅には玉突所を設けた例が多く見られます。この御玉突所は昭和になってからは他に転用されていましたが、今回の改修に当たって当時の形に復元した と。小屋組は洋式のトラス構造、部屋の広さ約20畳で、壁、天井は間似合紙張り、床は絨毯敷き詰めです。外見ではわかりませんが、玉突台の4本の脚の下の床には土管を外枠としてコンクリートを打った基礎があります。これは玉突台を水平に保つための工夫です。このため玉突台を据える位置は当時と全く同じになっているわけです と。ズームして。「御玉突所(おたまつきじょ)クラシックスタイルの四つ撞玉式の玉台を使用していました。」 さらにズームして。「点取机」と「キュー立てとキュー」 その先にあったのが「洗面所」。 和・様式トイレ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.07
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次に訪ねたのが、「沼津御用邸記念公園」。バスガイドの女性が、入園チッケトを購入して戻るのを待つ旅友。「旧沼津御用邸時代の保養所・別荘等の分布明治22年(1889年)の東海道線の開通により、東京からの交通が便利になると、風光明媚な牛臥から静浦海岸にかけて、九州は薩摩藩出身の大山巌元帥・西郷従道元帥・川村純義海軍大将や佐賀藩出身の大木喬任文部大臣らの別荘が、いち早く建てられました。やがて、彼らの影響もあり、明治26年(1893年)に御用邸が造営されると頻繁に名士や富豪が来遊するようになり、明治末期から昭和初期には、千本から内浦にかけての海岸線に別荘や邸宅、保養所や臨海学校、旅館等が相次いで建てられ、沼津は一大保養地として脚光を浴びるようになりました。しかし、第二次世界大戦による御用邸本邸の消失や敗戦により社会状況が急速に変化し、往時は80棟を越える別荘群等も現存するものはわずかとなり、昔日の面影はなくなっています。この度、郷土史家の足立実氏と川口和子氏の協力を得て、旧御用邸を中心とした保養所・別荘等の分布図を作成しましたが、ご来園のみなさまには、かつての我が国を代表する保養地・沼津を再認識する契機としていただければ幸いです。 平成12年3月 沼津香陵ライオンズクラブ」 旧沼津御用邸時代の保養所・別荘等一覧 1.若山牧水邸(歌人) 2.仙松閣ホテル(別館は西園寺公望の専用) 3.安田善五郎別荘・別名「梅乃舎」(安田財閥) 4.川上五郎邸(川上音次郎の養者) 5.柴田定吉別荘(竹内栖鳳画伯滞在) 6.沼津林間学校 7.三輪善兵衛別荘(現・沼津倶楽部) 8.槇有恒別荘(登山家・日本山岳会会長) 9.公爵 西園寺公望別荘用地(首相・元老)興津に変更10.男爵 酒井孝忠邸(作曲家・本居長世と親交)11.公爵 大山巌別荘(陸軍大臣・元帥・元老)12.旅館・三島館(せせらぎ館開業)13.旅館・せせらぎ荘(山本五十六元帥滞在)14.13代市村羽左衛門別荘(歌舞伎役者)15.侯爵 井上馨別荘(外務大臣・元老)16.伯爵 川村純義別荘(海軍大将)後の西附属邸の一部17.学習院沼津遊泳場(院長・伯爵 乃木希典)18.伯爵 大木喬任別荘(文部大臣)後の駿海荘19.侯爵 黒田長成別荘(貴族院副議長)20.男爵 岩崎弥之介別荘(三菱財閥)21.静浦ホテル22.旅館・静浦保養館(安藤正胤開業)23.侯爵 西郷従道別荘(海軍大臣・元帥・元老)24.静浦海兵医院・安藤正胤邸(真山青果同家にて没)25.東京府立第一中学校(臨海学校)26.東京府立第二中学校(臨海学校)27.東京府立第七中学校(臨海学校)28.膳 桂之助別荘(国務大臣)29.子爵 岡部長景別荘(文部大臣)30.三井別荘(三井財閥)保養所・別荘等 配置案内図。「静岡県へようこそ」 「沼津御用邸記念公園」入口を見る。「名勝 旧沼津御用邸苑地」碑。右側の守衛室・警備小屋が可愛らしい。 「沼津御用邸記念公園 西附属邸」。 「団体入場口」へ。 「静岡県都市景観賞最優秀賞沼津御用邸記念公園、その周辺1996 静岡県知事 石川嘉延」 「西附属邸」玄関を見る。 「名勝 旧沼津御用邸苑地(沼津御用邸記念公園)御用邸とは、天皇をはじめとした皇室の別荘である。沼津の地は、当時皇太子であった大正天皇の静養先として、優れた景観と温暖な気候が評価され、御用邸用地に選ばれた。明治26年(1893)に本邸、明治36年(1903)には学問所として東附属邸、明治38年(1905)には昭和天皇ら親王の御用邸とし、西附属邸が設置された。太平洋戦争中の空襲によって昭和20年(1945)に本邸は焼失し、昭和44年(1969)には御用邸の役目を終えたが、翌年には「沼津御用邸記念公園」として開園した。現在でも、皇室が眺められたであろう樹齢200年にも及ぶクロマツの巨木が存在している。本苑地は、近代日本における海浜保養地の景観を伝えるものとして、その重要性が評価され、平成28年(2016年)に国の名勝に指定された。」 沼津御用邸は昭和天皇が小さい頃に育った場所とのことで、廃止されて沼津市に移管されるときにも、昭和天皇がお別れのために訪れたという。沼津御用邸記念公園 配置案内図。「西附属邸(Nishi Fuzoku-tei / West Annex)西附属邸西附属邸は昭和天皇ら親王の御用邸であり、一部2階建木造の建物で、30以上の部屋がある。ここは伯爵川村純義の別荘であった【区域1】。明治39年(1906)に御所内の賢所附属建物を移築・増設し西附属邸とした【区域2】。明治41年(1908)に車寄・湯殿など【区域3】、大正11年(1922)に玉突所【区域4】を増築して現在の形となった。建物の構造としては、皇室が日常生活を送る御座所などが海側に、職員が使用する区域が陸側に配置され、皇室の使用区域は1m以上もある高床形式である本邸が昭和20年(1945)7月に空襲で焼失した後は、この西附属邸が主に利用された。」 図面・写真の説明図面には西附属邸の部屋配置が示されており、主な部屋は次のとおりです。・御寝室・玉突室(ビリヤード室)・居間・食堂・浴室・御手洗・応接室・御車寄・女官控室・事務室・使用人室・商人詰所・厨房・配膳室・皇室用玄関・職員用玄関右上には建設当時の写真が掲載されています。1.正門2.御車寄3.親見所(公式応接室)4.御座所・御玉突所この右側の入口はチケット売り場・おみやげ処の建物。「西附属邸 御殿 御車寄」。皇室の方々が御車から降りて玄関にお入りになる場所で、現在「西附属邸」見学の入場口として利用されていた。正面中央部分には、猪目懸魚いのめけぎょの装飾が施されています。また鬼瓦には、皇室を表す御紋章の16弁の菊がデザインされています。しかも両サイドは、立体的。無骨な屋根にかわいらしく咲いた菊の花に、なんだか微笑ましくなってしまいます。 「西附属邸内は入場券ではご入場いただけません。観覧券を受付にてお買い求めください。」 と。玄関で靴を脱ぎ、邸内に入る。各種資料が置かれていた。「彫刻家紋世界記録ギネス認定わが家の家紋日本では多くの人々が家紋を〇〇していますが、これは・・・・・」 1882年(明治15年)に明治天皇が陸海軍の軍人に向けて下賜された軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)の冒頭部分が彫られていた。「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ明治天皇睦仁殿下 彫之」 明治15年(1882年)に明治天皇が陸海軍の軍人に向けて下賜された「軍人勅諭」の冒頭のお言葉。「朕と爾等国民との間の紐帯は終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ 単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず 明治天皇裕仁殿下」1946年(昭和21年)1月1日に発布された「新日本建設ニ関スル詔書」、いわゆる「人間宣言」の一節。この詔書は、敗戦による混乱と失意のなかにある国民を励まし、民主主義の基礎となる平和主義や相互の信頼に基づく国造りを目指すために出されました。昭和天皇は、自身を神格化する観念や、日本民族を他民族より優越しているとする思想を否定し、国民との結びつきは「相互の信頼と敬愛」によるものであると強調しています と。「江口彫家紋 木彫久江口 久夫様より寄贈いただきました。」 順路に従い見学する。「倉庫」。 「女官応接女官の応接間として使った部屋」。 移動して。「物置」 移動して。「前室」。 「主膳室」。正面から。料理担当者の部屋(展示コーナー) 主膳室・COOK'S ROOM主膳室とは、皇族の食品調達や食器管理、会食の準備などを担当する「主膳」の控室です。現在は御用邸の歴史に関する資料等の展示コーナーとして活用されており、天窓が設けられた平屋の構造を見ることができます。大正時代の自転車。移動して。「大正三年昭和天皇が学習院初等科時代にお乗りになった自転車の複製です。」 後輪が2つあり、三輪車。大正3年ということは1914年である。110年以上前の自転車はこんな感じだったようだ。昭和天皇の御姿。皇族の食事が作られた「調理室」。窓も広く光を十分に取り入れていた。左手奥にあったのが「冷蔵庫」。調理室は約14坪の広さで、採光と排煙を兼ねた天窓は、側面の可動式の窓をロープで開閉する形になっています。 昔のままの流し台は人造石の研ぎ出しで、四つに区切られた珍しい形です。かまど、魚焼き器は炭火を用いていました。 また当時は石炭を用いる西洋釜も設けられていました。当時、皇族の日常のお食事は基本的には和食が中心で、一般家庭の食事と比べても、あまり代わらないものだったようです。 沼津の土地柄からすると魚介類が食卓に上がることが多かったと思われます と。 ここは、調理人等の「浴室」か? 近づいて。テーブルと釜が。「内玄関宮内庁(省)の職員や御用邸に出入りする商人などが使用した」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.06
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「港八十三番地」沼津港の新鮮な魚介を使った海鮮丼や寿司、浜焼きバーベキューだけでなく、ベーカリーやカフェなど、10店舗以上の飲食・土産店が立ち並び、駿河湾の食を満喫できる沼津を代表するエリア と。特別な場所としてではなく、暮らしに溶け込んだ日常の一部でありたいという思いにより、この地の住所そのものから名付けられている と。 また、日本唯一の深海生物をテーマにした「沼津港深海水族館 シーラカンス・ミュージアム」やアトラクションもあり、丸一日楽しめる と。その横にあった「海天寿司 一富士丸」の看板。右手に「沼津魚市場」。 左手には「沼津港横丁」と「かもめ丸」。 バスを下車し「沼津港大型展望水門 びゅうお」を見る。沼津港大型展望水門「びゅうお」は沼津港に高くそびえる巨大な建造物で、東海地震の津波対策の一環として2004年(平成16年)に完成した水門です。津波をシャットアウトする扉体(ひたい)は、幅40m、 高さ9.3m、重量は406tと日本最大級で、制御設備は地震計と連動し地震発生後約5分で自動的に完全閉鎖されます。水門にはその高さを生かして地上30mのところに展望施設が併設されており、富士山や箱根連山、沼津アルプスをはじめ、駿河湾に突き出した大瀬崎をくっきりと見ることができるほか、魚市場の活気ある様子や往来する船、水門の心臓部である巻上機などを見学することができます。そして、夜になるとライトアップされフォトジェニックな水門をご覧いただくことができます。「びゅうお」は、令和7年12月に「日本夜景遺産」に認定されました。沼津港を訪れて新鮮な魚介類を堪能した後は、「びゅうお」からのパノラマビューを楽しんでみては?デートにオススメです! と。「びゅうお」の名前は英語の「View(ビュー)」+「魚(うお)」からとのこと。さらに、南に100mほど歩くと、同じく左にあったのが「沼津港横丁」。沼津港にある縁日スポットとして人気の「沼津港横丁縁日コーナー」ては、昔ながらのスマートボール・射的・サメ釣りなど、子どもから大人まて楽しめるケームが勢ぞろい!!していたのであった。 鯵の干物。「沼津牡蠣センター 牡蠣小屋2号店軒先のドラム缶テーブルでは、開放的な港の空気を感じながら焼きたての海の幸を味わえます。焼牡蠣やさざえ、生ガキもあり!生ビールもあります!テイクアウトなので食べ歩きにもぴったり!観光の合間にも立ち寄りやすい店。奥には、屋台メニューも楽しめるテーブル50席「米と魚」も併設。丼や定食など豊富なメニューをご用意し、バリアフリー対応でどなたでも安心してご利用いただけます。ペット連れのお客様も大歓迎!」と。 軒先のドラム缶テーブル。「創業明治二十二年 四代目 弥平四代目弥平を中心に、沼津魚市場やマルヤ水産の直営店です。四代目弥平シリーズに使用している原料は、脂のりが良い旬の魚を厳選して仕入れております。魚種に合わせた独自の乾燥方法により、旨味を引き出した干物に仕上げています。伝統を守りながらも新しい挑戦を続け、お客様に安心安全で美味しい干物をお届けしております。」と。 「徳造丸 海鮮家 直売所 沼津港店」。 そして、この日の昼食の店「魚河岸 丸天」に到着。 「天ぷら 魚料理 ジャンボえびフライ魚河岸 丸天」 と。「魚河岸 丸天」。 様々なメニューが。美味そうなメニューが所狭しと。「お土産コーナー」 マグロのかぶと煮(あら炊き)?金目鯛?そして私のこの日の昼食。刺身の盛り合わせと金目鯛の煮付け。これも食べたかったが・・・・。「徳造丸 沼津港」の店頭。 「金目鯛広場」はキンメダイのオブジェやベンチを配置して、記念撮影や休憩ができるようにしたのだと。赤色のオブジェは散策する行楽客の目を引き、座ったりポーズを撮ったりして記念撮影を楽しむ姿が見られたのであった。バスに向かって戻る。「金目鯛漁師煮」のお土産も売られていた。 2切れ入り。「さかなや 千本一」にあった巨大マグロ」。 様々な丼ものや刺身、魚のフライが。そして小雨の中、沼津漁港岸壁に停車していたバスに戻る。前方に見える緑は「沼津 港口公園」。 そして「狩野川」に架かる「港大橋」を渡る。 天気が良ければ(ネットから)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.05
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この日は6月29日(月)、地元の「ゆめクラブ六会」(老人会)の沼津周辺への親睦旅行に参加しました。自宅近くの集合場所に7:30に集合。バスは5分以上前に到着。その後、地区内の4箇所で参加者が順次乗り込み、総勢42人の親睦旅行となった。 「綾瀬スマートIC」から東名高速道路・下り線に入り、沼津を目指す。 「相模川橋」を渡る。「相模大堰管理橋」が橋の先に見えた。 相模川左岸の海老名市社家と右岸の厚木市岡田を結ぶ相模大堰管理橋。2020年に整備が終わり、人と自転車であればいつでも通行できるようになった。相模大堰は相模川の河口から12キロ上流にあり、約2.7km上流に相模大橋、約1.7km下流に戸沢橋がある。相模大堰は1998年に完成した県内有数の規模を誇る取水堰で、日量最大約62万m3の水を相模川から取水している。この堰から海老名市側に引き込んだ水は、海老名市社家の沈砂池で土砂などが取り除かれたあと、綾瀬浄水場と伊勢原浄水場に送られ、横浜市や川崎市、横須賀市、相模原市の水道水として供給されているのだ。「小田急小田原線」の線路を左手下方に見ながら進む。 「都夫良野トンネル」を出て「東名高速道路・左ルート」から「酒匂川」そして「山北町山北」の街並みを見る。大きく左にカーブする「東名酒匂川橋」が姿を現した。全長750mの曲線連続鋼トラス橋で、トラス部分は朱色に塗装されている。1969年(昭和44年)の完成当初は上下線各2車線の橋が2本並列していたが、1991年(平成3年)の拡幅事業により南側に離れた位置に上り線が新設され、現在は2本とも下り線(左ルート、右ルート)として運用されている。東名高速下り線は都夫良野トンネルを出てすぐに本橋に差し掛かり、酒匂川とその左岸に並行する神奈川県道727号川西線、右岸に並行する国道246号、神奈川県道76号山北藤野線を跨ぎ越す。橋梁区間が終わった先でJR御殿場線のトンネルと交差する。橋脚は鉄筋コンクリート製で、高さ65m・直径7m。開通当時は東洋一の高さを誇り、東名高速開通記念切手にも描かれた。1990年度には、4kmほど東京寄りに架かる東名皆瀬川橋とともにかながわの橋100選に選定されている。 こちらは以前の秋に国道246号線を走った時の写真。こちらも。切手にもなったと。この時には上り線になっていたようだ。(ネットから)「東名高速道路」上り車線の「東名足柄橋(とうめいあしがらばし)・790m」を左手に見る。 東名足柄橋は、静岡県駿東郡小山町に架かる東名高速道路上り線の橋で、斜張橋である。1991年3月に御殿場IC-大井松田IC間の上り線(東京方面)改良・新車線開通に伴い設置された。上り線が下り線(以前の上下線)を跨ぐ構造となっており、この橋より東京方面は都夫良野トンネルの先の高架橋まで、離れてはいるが対向車線の右側に位置する構造(右側通行)となっている。そして「足柄SA」にて最初のトイレ休憩。下り線(名古屋方面)・駐車場 ・大型 260台 ・小型 517台・トイレ ・男性 大22(和式4・洋式18)・小56 ・女性 95(和式8・洋式87) ・同伴の男児用 2 ・幼児用トイレ 2(洋式2) ・車椅子用 4・ガソリンスタンド(ENEOS(東京ガレーヂ)・岩谷産業 (オートガス)24時間)・給電スタンド(24時間)・水素ステーション(8:00 - 20:00)と ネットから。大型バスの駐車場に向かって進む。そしてバスを降りトイレに向かう。「EXPASA 足柄」エクスパーサ(EXPASA)とは、中日本高速道路(NEXCO中日本)が管轄する高速道路のサービスエリア(SA)に展開されている大型の商業施設ブランドです。地域の特産品や人気グルメが充実しており、「通過点」ではなく「目的地」として選ばれるような新しいスタイルのSAとして運営されています・EXPASAの特徴名称の由来:「外へ」・「超越」などを意味する「EXCEED」・「EXCELSIOR」の「EX」と、パーキングエリア(PA)・サービスエリア(SA)を組み合わせた造語。・充実した施設:人気の飲食店やカフェ、お土産店、アパレルショップなどが入り、 通常のSA・PAの枠を超えた多彩なサービスを提供しています と。 「ようこそ富士山エリアへ」。 天気が良ければ(ネットフリーから)。右手に「Family Mart」。 「EXPASA足柄 店舗案内板」👈️リンク 食べ物の店舗が並ぶ。そしてバスに戻る。「御殿場JCT」から「三国山」に続く山並みを見るが山頂付近は雲に隠れて。 そして「長泉沼津IC」から「伊豆縦貫道路」を利用して進み「6三島塚原」で下りる。そして「三島塚原」交差点の角にあった最初の目的地「伊豆フルーツパーク」に到着。静岡県三島市塚原新田181−1。 そして係員が我々のバスに乗車し、これ以後の説明を受ける。この日のツアーには、「マンゴー狩り1玉お持ち帰り」がSETで付いていたのであった。早速、我がバスで「マンゴー刈り」が出来る温室に向かう。県道142号線・三ツ谷矢田線を利用して10分ほど移動し、「マンゴー狩り」の温室前に到着。下車して多くの温室の最奥に向かって進む。 途中、マスクメロン栽培の温室を見ながら進む。販売用に収穫した「マスクメロン」であろう。 そして「マンゴー栽培」の温室に到着。 「マンゴー栽培」の温室内へ。多くの「マンゴー」が実っていたが・・。この温室には、馴染みのある「アップルマンゴー」が栽培されていた。マンゴーの実の上に掛けられている白い紙(紙袋他)には、主に次のような目的があるようだ。1.害虫や鳥から実を守るため・ハエ類や蛾などの害虫が実に卵を産み付けるのを防ぎます。・鳥などによる食害も軽減できます。2.日焼けを防ぐため・温室内でも強い日差しを受けると果実の表面が日焼けし、品質が低下することがあります。・紙袋は適度に光を遮り、美しい果皮を保ちます。3.傷を防ぐため・枝や葉と擦れてできる傷や、作業中の接触による傷を防ぎます。・見た目の美しい商品に仕上げるために重要です。4.農薬の付着を減らすため・袋を掛けた後は、果実に直接農薬が付着しにくくなります。特に注目したい点白い紙袋は果実全体を包むのではなく、上部だけを覆うように掛けられていた。これは、果実を保護しながらも風通しを良くし、湿気がこもるのを防ぐためのようであった。また、マンゴーは完熟すると自然に枝から離れます。そのため、多くの農園では袋が受け皿の役目も果たし、熟して落ちた実を傷つけずに収穫できるよう工夫されているのだと。この日の「マンゴー狩り」案内をネットから。6/27(土)からスタートしたようで、この日は3日目のようであった。案内された我々の「マンゴー狩り」の温室には、実が小さく細長い「マハチャノックマンゴー」が栽培されていたのであった。 大小様々な大きさの実が。私は手前のこれを収穫しました。係の方(インドネシア人と)が箱に入れてくれました。箱の中に入っていたのが「マハチャノックマンゴータイのラーマ9世前国王陛下の即位60周年記念として2006年11月より日本への輸入が解禁された新品種のマンゴーです。追熟が必要です。常温で追熟して下さい。熟すと赤みを帯びた黄金色となり、繊維質が少なく味は濃厚で華やかな香りが特徴です。柔らかくなって美味しそうな匂いがしてきたら食べ頃ですので、召し上がる1~2時間前に冷蔵庫で冷やしてお召し上がりください。」と。 8日経った7月7日(火)の追熟の状態です。色は黄色くなって来ましたが、香りがまだ弱いので、もう数日そのままにしておきましょう と。そして妻のアドバイスもあり、翌日7月8日に食べました。繊維組織が少なく味は濃厚で華やかな香りが。そして今回利用した観光バスに戻る。再びバスで「伊豆フルーツパーク」に戻り店内に。 「自社農園 マスクメロン お待たせしました。」 2玉入 5000円 と。ご当地のお土産が並んでいた。様々な菓子の土産物も所狭しと並んでいた。そして「伊豆フルーツパーク」を後にする。 「沼津港」を目指して、旧東海道の松並木を通過。 県道138号線の「大場川」に架かる「塚本新橋」を渡る。 沼津市内の「大手町」交差点を左折して沼津港に向かう。 ・・・つづく・・・
2026.08.04
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「富士屋ホテル」を後にして、この日の最後に向かったのが「石垣山一夜城」。石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されており、平成29年4月6日に日本城郭協会より「続日本100名城」に選定されました。この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されています。面積 約5.8ha富士箱根伊豆国立公園 昭和11年2月1日指定国指定史跡石垣山 昭和34年5月13日指定 愛車のカーナビを「石垣山一夜城」に設定し、箱根湯本駅前を通過し、国道1号を上り途中、右折し、早川方面に進むん。高架の新幹線沿いに進み、「石垣山一夜城歴史公園」右折⇒の案内に従い、「出世道」の坂道を上って行った。左手にあったのが「出世道」案内板。(以下2枚の写真は数年前に別々に撮影したもの)。「美しい日本の歩きたくなるみち500選 太閤・一夜城と長興山 史跡のみち 12キロコース」 「出世道緑と花の夢の道、風と雲の通い道、出会いがつくる心道農を育てる命道、歴史が誘う学び道」経済の国際化が進み、作物の転換と土地利用形態の改革が必要になり、大型農道なくして実現は不可能となりました。 幅員2.5メートルを5.5メートルの農道に改良するよう関係地権者が合意し、国県市の理解ある援助により、名刹海蔵寺山門跡より石垣山一夜城址まで団体営農道整備事業が採決されました。新しい道により、早川を訪れる方々に美しい四季の変化と眺望を見ていただくとともに、生産者の心のこもった農産物を手渡し、農業の必要性と緑の大切さを理解していただきたいと思います。この道が早川の農地に希望の光を運び、県西地域の文化的経済的活性化の出世頭になるよう祈願し、完成記念として石垣山農道組合にて建立いたしました。起 工 昭和六十年一月 竣 工 平成三年三月」小田原の市街を見下ろすことが出来た。小田原城の天守をズームして。「出世道」を上って「石垣山一夜城歴史公園」に向かって進む。 以下の武将紹介の写真は、以前に訪ねた時に撮影したものを再度アップさせていただきました。「石垣山に参陣した武将たち」案内板が通路脇に設置されていた。道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があったので都度撮影した。「「堀 秀政(ほり ひでまさ) 天文22年(1553年)~天正18年(1590年)美濃の豪族、堀秀重の子。織田信長に仕え、側近として活躍。信長の伊賀攻めの年に近江長浜城主となる。秀吉に従い羽柴姓を与えられ、小牧・長久手の戦いや紀州攻めで活躍した。その功績により、越前、加賀に18万石の領土を与えられて北ノ庄城に入り、北国支配の中心となった。小田原合戦では先鋒として出陣し、小田原城の西南、石垣山城の前衛として陣をしいた。ところが、5月27日、小田原包囲陣中で病死し、福井の長慶寺に葬られた。早川の海蔵寺にも墓がある。」 「堀 秀政(ほり ひでまさ)」。 「これより早川駅までの道沿いに、太閤の小田原攻めに従った武将や茶人など8人を紹介する看板があります。散策しながら、今は昔の物語をお楽しみください。」「伊達 政宗(だて まさむね) 永禄10年(1567年)~寛永13年(1636年)米沢城主伊達輝宗の子、幼名は梵天丸。天正13年以降、佐竹・蘆名らの連合軍と戦い、仙道七郡を手に入れて勢力を広げていった。秀吉に従い小田原攻めに加わるべきか迷い、なかなか参陣したかったため、その遅れを責められ領地の一部を没収された。政宗が小田原攻めに加わったことは、その援軍を期待した北条氏にとって大きな痛手となった。秀吉の死後、まもなく家康に近づき、伊達62万石を確定させ、仙台城を築いた。幼少のころ、右眼を失明し、「独眼竜」と恐れられたが、自身は独眼にふれることを嫌い、死後に残る肖像には両眼を備えるよう遺言したという。」 「伊達 政宗(だて まさむね) 」 「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ) 元亀3年(1572年)~明暦元年(1655年)備前岡山城主宇喜多直家の子。秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし両家と婚姻関係となり、備前・美作両国と備中東半分の約50万石を治めた。小田原包囲陣では、小田原城の西方、水之尾付近に陣場を構えたと言われている。合戦の最中、氏直の弟氏房に酒や肴を贈って籠城の苦労を慰め、伊豆の江川酒を返礼として贈られ、氏房に講和を勧めたとする物語が伝えられている。」「宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)」。 「早川・片浦ウォーキングトレイル太閤一夜城と長興山史跡巡りコース石垣山一夜城歴史公園 1130m」と。 「徳川 家康(とくがわ いえやす) 天文11年(1542年)~元和2年(1616年)三河岡崎城主松平広忠の子。長い人質生活の後、岡崎城に戻る。織田信長と同盟して、東海・中部一帯に勢力を伸ばした。娘の督姫を北条氏直に嫁がせ、北条氏とともに秀吉に対抗したが、その後に秀吉と和睦し、氏直にも秀吉に従うことを勧めた。小田原攻めが決まると、大軍を率い先鋒として出陣し、小田原城の北東、酒匂川の西岸に陣をしいた。秀吉死後、関ヶ原の戦いに勝ち征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。家康の陣馬跡には今でも土塁の一部が残り、江戸時代に建てられた石碑(市指定文化財)や東照宮の建物がある。」「徳川 家康(とくがわ いえやす) 」 「羽柴(豊臣) 秀次(はしば ひでつぐ) 永禄11年(1568年)~文禄4年(1595年)豊臣秀吉の甥にあたり、近江八幡43万石の城主。小田原合戦では先陣として山中城を攻め落とし、韮山城、さらに小田原城の包囲に加わった。秀次の陣場は小田原城の北西、辻村植物園の東部付近に位置したと伝えられ、この時秀次が使用した陣鐘が久野の総世寺に寄進されている(市指定文化財)。秀次はこの後、秀吉の養子となり関白に就任するが、秀吉に実子秀頼が誕生すると次第に関係が悪くなり、謀反を企てたとして高野山に追放、切腹を命じられた。」「羽柴(豊臣) 秀次(はしば ひでつぐ)」 「千 利休(せんの りきゅう) 大永2年(1522年)~天正19年(1591年)和泉堺の納屋衆千与兵衛の子。堺の町衆の間で流行していた茶の湯にひかれ、武野紹鴎らに学ぶ。初め与四郎、のちに宗易と名乗った。茶人としての名声を高めて織田信長の茶頭の一人に加えられ、ついで秀吉に仕えて利休の名を授かるなど、天下の茶匠と言われるほどになった。小田原合戦でも秀吉に同行し、側近の一人として活躍する一方、陣中で茶会を催し、諸将の苦労を慰めた。茶道の一つである「侘茶」で使用される竹の花生けは、小田原合戦に随行した利休が茶会の際にその場で作ったことが始まりと言われている。」「千 利休(せんの りきゅう)」 「淀 殿(よど どの) ?~慶長20年(1615年) 生年を永禄12年(1569年)とする説あり近江小谷城主浅井長政の娘。幼名はお茶々。母は織田信長の妹お市の方。信長の死後、重臣であった柴田勝家と再婚した母とともに越前北庄に移った。勝家が豊臣秀吉に敗れると、秀吉のもとに移り、やがて側室となり、長子鶴松を身ごもった。喜んだ秀吉から淀城を与えられ「淀殿」と呼ばれた。小田原合戦に持久戦で臨んだ秀吉は、集まった諸大名の苦労を思いやって妻たちを呼ばせ、自身も淀殿を呼び寄せた。石垣山城井戸曲輪の井戸は「淀殿化粧の井戸」と伝えられる。秀吉の死後は、遺児秀頼の生母として大坂城にあったが、大坂の陣に敗れ、落城するとともにその生涯を閉じた。」「淀 殿(よど どの)」 「豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし) 天文6年(1537年)~慶長3年(1598年)織田信長に仕えて活躍、信長の後継者となり天下統一を進めた。四国・九州平定した後、東国の攻略に乗り出した。容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。石垣山(国指定史跡)に城を築いて本陣とし、小田原城を攻め、北条氏を滅ぼして関東を平定した。この城を「太閤の一夜城」といい、秀吉が一夜にして築いたと言われているが、実際は80日を費やしている。小田原合戦によって、東北の諸勢力も従い、天下平定を成し遂げた。」「豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)」。 そして「石垣山駐車場」に到着 。 石碑「国指定史跡 石垣山 石垣山一夜城歴史公園」。 「東国最初の総石垣の城 石垣山案内図」。 近づいて。① 南曲輪南西面石垣石垣山城は、西の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」による野面積みの石垣です。関東大震災で一部は崩落しましたが、かなりの部分は往時の姿を留めています。② 二の丸東面石垣二の丸の東側にも石垣が積まれています。この辺りの石垣には比較的小さな石が使われています。③ 西曲輪から天守台を望む天守台は本丸南側に位置し、西曲輪からは約10メートルを超える高さの石垣が積まれていました。④ 本丸の石垣この辺りの石垣は10mを超える高さまで築かれており、「穴太衆」の技術の高さがうかがえます。小田原城から見える面のため、小田原側に最も意識を集中させた石垣の一つでしょう。⑤ 井戸曲輪渡辺化粧の井戸とも伝わる井戸です。谷を石塁でで塞いで井戸とした井戸曲輪の石垣は圧巻です。石垣山城は、豊臣秀吉が1590年の小田原攻めの際に築いた城で、関東では初めて本格的な総石垣を備えた城として知られています。現在は国指定史跡となっており、本丸・二の丸・井戸曲輪などの遺構や石垣を見学しながら城跡を一周できるようになっています。これも「東国最初の総石垣の城 石垣山城」案内板」。 「石垣山城は、天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原北条氏の本城である小田原城を水陸16万の大群を率いて包囲し、その本陣として築城されました。完成と同時に周囲の樹木を伐採し、あたかも一夜のうちに築城したと伝わり、「一夜城」とも呼ばれています。しかし、実際には、4月6日から築城に着手し、本陣を移した6月26日まで約80日間、昼夜間わずに工事が行われました。また、塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけたとも伝っています。秀吉は、この城に天皇の勅使を迎え、また淀君や千利休を呼んで茶会を開き、参陣の諸大名をなぐさめたりしました東国で最初に造られた総石垣の城で、白亜の櫓・塀を備えた近世城郭と呼べるものです。石垣は、自然石をそのまま使う「野面積み」で、近江の穴太衆(あのうしゅう)による当時の最先端の技術によって築かれました。大正12年の関東大震災で天守台などは崩落しましたが、南曲輪や井戸曲輪は崩落を免れ、当時の面影がよく残されています。一夜城伝説『北条記』には、秀吉が一夜にして城を築いたことに「関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる屋形出来るぞや」と、一夜城伝説の一端を伝えていますが、石垣山城を築城するには山を削り、周囲の木を伐採して、大量の石垣石を掘り出す必要があります。夜間はかがり火を焚いて、大勢での作業の様子は、小田原城からも逐ー確認されていたものと考えられます。むしろ、短期間に築城したことこそが、伝説として語り継がれているものと考えられます。」 「城への登城ロは、東ロと北ロの2か所あり、東口が大手と考えられます。本城曲物(本丸)を中心に馬屋曲輪(ニの丸)、西曲輪、東ロの両側に南曲輪と東曲輪が配置されます。本城曲輪の西端に天守台があリ、馬屋曲物の北側には井戸曲輸、さらに北側には北曲輪(三の丸)、西曲輪の西側には大堀切があリ、出曲輪が配置されています。こうした城の縄張は、肥前名護屋城に似ておリ、黒田官兵衛の関与が想定されています。」正面には巨石が2つ展示されていた。「移設された石垣用石材国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の西側斜面一帯には、 17世紀半の江戸時代初期に江戸城修築のための石垣用石材を調達した「石丁場」(石を切り出した作業場)があります。この石丁場は、早川石丁場群関白沢支群という遺跡名で呼ばれており、平成28年(2016)には静岡県熱海市と伊東市の石丁場とともに「江戸城石垣石丁場跡」として国指定史跡となり ました。ここに置かれている石垣用石材は、平成17~18年 (2005~06)に小田原市早川の広域農道小田原湯河原線(市道2390) 建設に伴う発掘調査によって発見され、移設したものです。移設された2石の石材は、発掘調査の11区から発見された 7号石材(右側)と8号石材 (左側)です。元々ひとつであった石 に「矢穴」を一列に彫った後、矢(クサビ)を入れて2石に割ったものです。左側の石材の前面には「八」の刻印、右側の石材の割った面に「◯寸」の刻印が刻まれていることから、「八」の刻印より「◯寸」の刻印が後で刻まれたことが分かります。これらの刻印は、石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられます。これらの石垣用石材は、広域農道小田原湯河原線(市道2390) の事業者である神奈川県、及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力によって移設されました。」7号石材、左側の上部に「矢穴」の痕跡が。8号石材 (左側)。「生命の星・地球博物館までのハイキング「自然を楽しむ みち」のご案内石垣山一夜城の一帯は、自然にまれています。ここから生命の星・地球博物館までは約3.2キロの道のりてすが、その途中のの道沿いで見ることがてきる動物や植物などについて、その説明や道案内を9カ所に設けました。どうそ自然を楽しみながら、ゆっくりと歩いてみてください。はじめに少し坂道を登りますが、あとは下り坂てす。50分ほどて博物館につきます。博物館から入生田駅まては3分てす。」」 「小田原城と石垣山城の位置関係」の写真をネットから。 「小田原合戦の経過天正17年(1589) 11月 秀吉、北条氏討伐の宣戦布告状を発する天正18年(1590) 3月1日 秀吉軍、京を出陣 3月29日 山中城落城 4月6日 秀吉、箱根湯本早雲寺を本陣とする 4月6日 秀吉が築城を指示(現在の石垣山) 5月14日頃 北政所(ねね)に石垣の完成を伝える 6月9日 伊達政宗、秀吉に拝謁 6月26日 秀吉、早雲寺から本陣を移す 7月5日 北条氏直、降伏し、小田原城開城天正19年(1591) 8月 天守に瓦が葺かれる」「小田原合戦の攻囲陣立図」。ここが「国指定史跡 石垣山(一夜城)入口」と。 「旧城道 東登口」。「東曲輪」(右)と「南曲輪」(左)の間を上る旧城道。この先がかつて大手門があった場所とされている。東ロ城道は駐車場川にある入口から南曲輪・南腰曲輪を経て本城曲輪へと至る現在の園路。北側に東曲輪、南側に南曲輪を見ながら切り通し状の道を入口から直進すると、南腰曲愉の石垣に突き当たる。途中大きな石垣が城道に崩れ落ちていて、さながら登山道のような風景であった。また、説明板の付近では、城道の脇に造られた石組水路の跡を確認することができたのであった。突き当りを南へ折れて南曲輪へ人るところには、東口外門があったと。この東ロ外門を過ぎると、すぐ西へ折れて東ロ中門のある南腰曲輸へと登る。さらに南腰曲輪を北・西へと折れると本城曲輸東門に至るのであった。このように、東ロ城道は、東ロ外門・中門と本城曲輪東門の三つの門を通過して本丸である本城曲輪に至る構造となっていたのであった。左側に巨大な石垣が。「南曲輪」下の、穴太衆により築かれた野面積みの石垣。角度を変えて。移動して。この日は、前日の飲みすぎや腰痛の方もあり、「石垣山一夜城」の見学はここまでとして引き返して、「一夜城ヨロイズカ・ファーム」に向かう。「ご案内マップ」に近寄って。 「一夜城ヨロイヅカファーム」は、鎧塚俊彦氏が手がける自然豊かな施設。敷地内にはレストランやカフェ・スイーツショップがあり、美しい景色や美味しいスイーツを楽しみながら、妻・「川島なお美」さんを偲ぶことができるのだ と。「一夜城ヨロイズカファーム入口ゲート」。 入口には牛の親子であろうか?「相模湾」を望む。 小田原~二宮の海岸線。三浦半島の山々。最奥にあったのが「川島なお美慰愛碑」。2015年に胆管がんで亡くなった女優・川島なお美さんの生前の遺言を元に、夫であるパティシエの鎧塚俊彦氏が建立した記念碑。 碑に刻まれたメッセージ碑には、生前彼女が書き残した直筆の遺言が石板と金属板に刻まれています。「今までありがとう なお美より」という感謝の言葉とともに、自然やファームへの深い愛情が表現された詩のような文章である と。慰愛碑の中央に空いている丸い穴は、彼女が直筆で遺した「蝶となって舞う」という 遺言(下記参照) を表現しており、蝶が自由に飛び立つための通り道や、天国のなお美さんと繋がるための窓という意味が込められているのだと ネットから。「私は蝶となって 咲きみだれるお花から花へと舞い 毎年咲く桜となって花ふぶきをお客様に散らし たわわに実る果実となってあなたの作品として 美味しくお皿の上にのります美しく生き生きとしたファームガーデンは私の夢ですその夢をかなえて下さい🦋今までありがとう なお美より」と。 在りし日の川島なお美さんと夫・鎧塚俊彦氏(ネットから)。引き返すと、オレンジ色のグラジオラスの花が。紫のアジサイ。ガクアジサイに近づいて。カンナ:カノーバ レッドゴールデンフレイムであっただろうか。近づいて。ブルーベリーの実がたわわに。収穫期を迎えたものも。そして「一夜城ヨロイヅカファーム」のSHOPへ。 石垣山一夜城歴史公園前にある一夜城 ヨロイヅカ・ファーム。日本を代表する菓子職人・鎧塚俊彦氏が地産地消を目指して作った店。自家農園で穫れた食材や、小田原の食材をふんだんに使った美味しいスイーツやパンが並ぶ。相模湾を一望するレストランでは、山海の恵みが活きたフレンチやケーキセットなどを味わうことが出来るのであった。小田原市早川1352-110。様々な種類のパンが。ケーキも。レストランの写真をネットから。ソフトクリームを楽しみました。そして駐車場に戻る途中に振り返って。昼食は、「めし家 やまや」で。小田原市早川1丁目6−10 小田原水産会館 1F。小田原漁港仲卸やまや水産直営の食堂。 ミックスフライ定食を楽しみました。ここで、都内に戻る旅友3人と別れ、西湘バイパスを利用して帰途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2026.08.03
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次に裏側にあった庭園散策。池には大きな鯉の姿が。右上には苔むした自然石が見え、左下には青々とした草木が茂っていた。人工的な装飾を控えながらも、自然の岩や植物を生かした日本庭園らしい落ち着いた景観が作られていたのであった。池の水面には、季節の花であるアジサイ(紫陽花)が木製の筏(いかだ)に美しく飾られていた。紫陽花の「花筏(はないかだ)」。水面に浮かぶ2つの木製の筏には、青から紫色の美しいアジサイが飾られていた。これは「花筏」と呼ばれる演出で、池や川に花を浮かべて季節感を楽しむ日本ならではの装飾。梅雨の時期の箱根では、アジサイが見頃を迎え、このような演出が庭園を華やかに彩っているのであった。小さな滝の姿も。別の場所にも少し大きな滝が。7,602坪の敷地を持つ富士屋ホテルですが、そのうち約5,000坪が広大な庭園。庭園の池や滝の水は箱根の湧き水で、水のせせらぎ、鳥の声に耳を傾けながら気持ちよく散策できるのであった。苔むした五重石塔の姿も。アジサイ(紫陽花)の姿も。庭園には、「幸福の丘の鐘」と呼ばれる鐘が設置されていた。庭園の散策路を登った高台「幸福の丘」にあり、緑豊かな自然の中で鳴らすことができる。四季折々の美しい風景を楽しめる人気のスポット と。庭園の中心近くにあった「水車」。この水車は「営繕さん」の手づくり と。営繕さんとは館内外の備品の制作・修復などを行う施設管理のスタッフで、富士屋ホテルの歴史において欠かせない存在である と。秋の紅葉も美しいのであろう。近寄って。ネットから。巨木の姿が。「セコイアこの木は山口正造氏(富士屋ホテル元社長)がアメリカから昭和4年に持ち帰り植樹したものです。セコイアは杉の近縁植物で二種類あり、そのひとつこの"Sequoia Sempervirens" はアメリカのカリフォルニア州とオレゴン州の海岸に野生し世界で最も高い木として知られています。セコイアは材質がよいので建材として使われ、そのため絶滅の危機にさらされましたが、ルーズベルト大統領の提唱で今では国立公園等で保護されております。この木は原産地に見られるような青空にそびえ立つ樹冠は見られませんが、日本で唯一の生存するセコイアとして異った環境に耐え育った雄々しい姿をご覧下さい。 1977年7月27日 学士院会員 木原 均 木原生物研究所々長REDWOODThis redwood tree was transplanted here in 1929 from the State of California,U.S.A.,by the late Mr. Shozo Yamaguchi, the former president of Fujiya Hotel.As a kind of cedar, this redwood is called "Sequoia Sempervirens", which originallygrows wild by the seaside of California or Oregon and is famous for the tallest treein the world.The redwood in our garden is not so tall as in California, but growsstrong in the different circumstance, being only one in Japan. Prof. Hitoshi Kihara, Ph.D. Member of Japan Academy」 奥には、「屋外プール」も。 人の姿はなかったが。箱根の山々を借景にした清々しいプールは、夏の間だけの愉しみ。間近に迫る緑と空の青に包まれて、日常から離れた贅沢な時間を楽しめる空間。そして館内に戻り、再びフロント横から階段を見る。花御殿の入口の回転扉と赤い絨毯の敷かれた階段を見下ろす。朱の手摺には龍の姿が。近づいて。金色の玉を抱えた2頭の「登り竜」が天に向け並ぶ迫力ある姿が彫刻。下部にも金色の玉が。そして再び外に出て、千鳥破風の屋根、校倉造りを模した壁が特徴の象徴的な「花御殿」を見る。昭和11(1936)年建造、外国人のお客様には「フラワーパレス」として親しまれた富士屋ホテルのシンボル的な存在。「花御殿」の玄関。 「花御殿(登録文化財)昭和11年(1936年)、和風意匠をテーマに建造されました。外観は寺社建築を思わせる屋根に校倉造りを模した壁、すべての客室に花の名前がついており、ドアにはその花の絵が飾られています。海外からのお客様にも人気があり、「フラワーパレス」と呼ばれ親しまれています。Flower Palace (Historical Monument)This building was designed with the Japanese taste and built in 1936 with itstemples/shrines-like roof and its traditional "Azekura", square log architecture style wall.Each room is given a floral concept, a flower name and a flower depicted door sinceits opening. This "Flower Palace" has been famous among foreign travelersas well as Japanese guests.」 振り返って。こちらが国道1号からの富士屋ホテルの入口国内屈指のクラシックホテルの一つで、明治後期から20年近く外国人専用ホテルとして営業していた歴史もある箱根の富士屋ホテル。耐震補強と改修工事のため、2年余の一時休館を終え、142年目の創業記念日にあたる2020年7月15日にグランドオープンしたのであった。和洋折衷の意匠を取り入れた文化的価値のある各棟の外観や内装の趣は変えることなく、可能な限り従来の姿を復元するとともに、新たな施設も誕生したのであった。「国際興業グループ 富士屋ホテル FUJIYA HOTEL」案内板。1878(明治11)年、宮ノ下で長い歴史を持つ旧老舗温泉旅館・藤屋旅館を買収して日本初のリゾートホテルとしてスタート。開業初期の頃はチャップリンやヘレンケラーはじめ、世界中のVIPご用達の「外国人客専用のホテル」として知られていた。武家屋敷をルーツとする日光金谷ホテル(1873年創業)より5年遅い開業だが、本館完成は1891年で、日光金谷ホテルが本格的な西洋式ホテルを建設した1893年より2年早い。富士屋ホテルを創業した山口仙之助は私財を投じて町内の道路を整備。水力発電会社を設立して電力を地域へ供給するなど箱根の振興に尽力した。富士屋ホテルの3代目社長は日光金谷ホテル創業者の次男で、両ホテルの縁も深いのだと。今では正月の風物詩ともなった、「箱根駅伝」の中継ポイントとして広く親しまれているのだ。「富士屋ホテル」の創業からの「歴史年表(1878~2018)」👈リンク。・1878年(明治11年)7月15日:山口仙之助が藤屋旅館を買収・改装し、 神奈川県足柄下郡底倉村に開業。・1883年(明治16年):火災により焼失・1884年(明治17年):平屋建て客室12室として再建し「アイリー」と命名そして・2018年 (平成30年) 7月15日 富士屋ホテルが創業140周年を迎える 富士屋ホテル 耐震補強及び改修工事(~2020年7月15日) 富士ビューホテル 大浴場 リニューアルオープン・2020年 (令和2年) 3月19日 箱根駅伝ミュージアムが15年を迎える 富士ビューホテル 新客室 オープン 7月15日 富士屋ホテル グランドオープン・2021年 (令和3年) 12月1日 箱根ホテル 外壁改修補強・設備更新工事のため一時休館・2022年 (令和4年) 1月 富士屋ホテル 安心・安全なリゾートホテルステイを 国際的衛生基準ガイドライン「 GBAC STAR™ 認証」を取得 3月 箱根ホテル プレミアムフォース 最上階スーペリアツイン 客室リニューアル 4月 箱根ホテル 外壁改修補強・設備更新工事を終え、オープン 7月 富士屋ホテル 創業144周年 7月 富士屋ホテル仙石ゴルフコース 開場105周年 9月 フルーツパーク富士屋ホテル 開業 25 周年・2023年 (令和5年) 2月 仙石ゴルフコース リモコン(電磁誘導)乗用ゴルフカートの 運用開始 6月 箱根ホテル 創業100周年 7月 仙石ゴルフコース ウッドチップを利用したバイオマスボイラーの稼働開始! 9月 湯本富士屋ホテル 開業50周年 10月 富士屋ホテル 公益財団法人日本デザイン振興会主催 2023年度 グッドデザイン賞を受賞!・2024年 (令和6年) 2月 富士屋ホテル 登録有形文化財の旧御用邸『菊華荘』がリニューアルオープン 3月 湯本富士屋ホテル 本館6階フロア・和洋室12室をリニューアル 4月 湯本富士屋ホテル 湯上がりラウンジオープン 6月 湯本富士屋ホテル 本館7階フロア・和洋室12室をリニューアル 7月 湯本富士屋ホテル 本館8階フロア・和洋室12室をリニューアル 12月 フルーツパーク富士屋ホテル 『災害時における要配慮者等の受入れおよび電力供給に 関する協定』~山梨市として宿泊施設と初の防災協定~・2025年 (令和7年) 2月 富士屋ホテル株式会社 社員の成長と持続的な活躍支援を目的に 2025年4月 新人事制度を導入 4月 湯本富士屋ホテル バー・ラウンジ『THE BAR』が新規オープン 6月 フュージョンダイニングF 開業20周年 8月 仙石ゴルフコース 将来のトップゴルファー育成へ 第10回 富士屋ホテル 仙石ゴルフコースU22ゴルフ選手権大会開催そして前庭。石碑「富士屋ホテル FUJIYA HOTEL」。「富士屋ホテル外観マップ」 そして「西洋館」前へ。西洋館一号館「カムフィ・ロッジ」・二号館「レストフル・コテージ」は、日露戦争勝利後の好況期に建てられた客室棟。デザインは軒が浅く、装飾が控えめで端正ですが、明治期の洋風建築の典型である天井や軒、階段の装飾、鎧戸付きの上げ下げ窓や、豪華な唐破風の玄関が存在感を放っている。比較的改造が少なく、富士屋ホテルの建築のうち最もよく創建時の姿が保存されているのだと。 「西洋館」正面。 正面右から1号館「カムフィ・ロッジ」、2号館「レストフル・コテージ」、同じデザインの2棟からなる木造2階建て。明治39年(1906)竣工の西洋館は、白亜の建物が二対になった典型的な明治の洋館である。1号館「カムフィ・ロッジ(COMFY LODGE)」を正面から。「COMFY」は「COMFORTABLE」の口語体で、「心地よい」の意味。鎧戸付の窓などさまざまな細部に西洋の文化を取り入れながらも、唐破風の屋根や寺院建築様式が施されているなど、外国からの客を楽しませるための工夫があるのだと。反対側から。そして「本館」を「洋館」側から見る。手前に「サンパーラー」が。「サンパーラー」に近づいて(以前の写真)。遠くからも見えた「食堂棟」の「三重塔」。いかにも外国人観光客が喜びそうな佇まいなのであった。三重塔の頂部は見事な「登り龍」が巻き付いて。「食堂棟」を南側から。◎設計:木子幸三郎◎施工:不詳◎竣工:昭和5(1930)年◎構造:鉄筋コンクリート造平屋、地下1階、塔屋は木造◎所在地:神奈川県南足柄郡箱根町宮ノ下359 ❖国登録有形文化財 ❖経済産業省指定近代化産業遺産上空からの写真をネットから。入口には「唐破風」が。唐破風に取り付けられる懸魚(げぎょ)は兎毛通し(うのけどおし)と呼ばれるのだ。唐破風の下の兎毛通の飾り彫刻が見事、牡丹の花か?駐車場に向かって「食堂棟」前を進む。向かいにあったのが「旧御用邸 菊華荘」入口。皇室の宮ノ下御用邸として造営され、後に高松宮家別邸となった由緒ある純日本建築の建物と名園。 富士屋ホテルが経営する菊華荘の日本料理が人気とのこと。国道1号の駐車場入口近くにあった「宮ノ下ノスタルジック散策路」👈️リンク。 そして「富士屋ホテル専用駐車場」へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.02
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この写真は、富士屋ホテル・ホテルミュージアム「建築(ARCHITECTURE)」コーナーの展示の一部で、創業当時から明治時代にかけての富士屋ホテルの建物の変遷を紹介していた。「ARCHITECTURE建築富士屋ホテル最大の魅力個性豊かな建築群富士屋ホテルで生まれる様々な物語の舞台は、時代時代のニーズに応える個性豊かな建築群です。この舞台を守り続けるため、私たちは営繕部の仲間とともに様々な工夫を重ねてきました。滞在するひとときが、日常の喧騒から離れ、箱根の自然と動植物の息吹を感じる特別な時間となるよう、いつの時代もこの姿でお客様をお迎えし、皆様の思い出に新たな1ページを刻んでいきます。Fujiya Hotel's main attraction—buildings of rich characterFujiya Hotel's buildings, each of which expresses great individuality in meeting the needs of the times, are the setting of numerous Fujiya Hotel stories.Together with colleagues at the Buildings and Facilities Maintenance Section, we have devised numerous ways to continually preserve them.We aim to welcome guests with these same buildings throughout the ages andthey create lasting memories at Fujiya Hotel. We hope their stays here are special ones, during which they can escape the hustle and bustle of daily life andfeel the breath of Hakone's natural beauty, flora, and fauna.」この展示は、富士屋ホテル最大の魅力は「時代ごとの要望に応えながら守り続けられてきた個性豊かな建築群」であることを紹介していた。営繕部(建物の維持管理を担当する部署)が長年にわたり工夫と修繕を重ねることで、創業当時から受け継がれてきた建物を保存し続けています。そして、訪れる人々が箱根の豊かな自然とともに特別な時間を過ごし、新しい思い出を刻めるよう、その歴史ある建築を未来へ伝えていくという思いが込められていたのだ。 富士屋ホテル・ホテルミュージアム「建築(ARCHITECTURE)」コーナーの展示の一部で、創業当時から明治時代にかけての富士屋ホテルの建物の変遷を紹介。左:「アイリー EYRIE」 "Eyrie(アイリー)"とは英語でワシやタカなど猛禽類の巣高い場所の住まいという意味があります。この建物は富士屋ホテルにかつて存在した宿泊棟の名称で、・明治時代に増築された客室棟・箱根の山並みを見渡せる高台に建てられていたため・「Eyrie(高みにある住まい)」という名前が付けられました。写真を見ると、・大きなガラス窓・ベランダ・木造平屋・二階建てを組み合わせた開放的な造りで、当時としては非常にモダンなホテルだったことが分かります。アイリーは、宮ノ下大火の後、最初に建てられた建物であり、現在の富士屋ホテル建築群の記念すべきはじめの一歩であるといえます 。現存する我が国最初期のリゾートホテル建築としてもとても貴重です。正面左右に突出部をつくり中央に唐破風を設けるという富土屋ホテル建築の大きな特徴は、このアイリーの時点ですでに確立されていました。右上:「The first-generation Western-style building創業時の洋館no longer existing(現存せず)」これは1878年(明治11年)、山口仙之助が開業した当時の富士屋ホテル最初の洋館を写したもの。木造二階建ての洋風建築外国人旅行者を迎えるために建てられた日本でも珍しい本格的ホテル宮ノ下大火などにより現存していません。富士屋ホテルの原点ともいえる建物。 現在は現存しない建物群を紹介するパネル。写真には、富士屋ホテルの発展の歴史を物語る2つの建物が紹介されていた。・HERMITAGEは西洋風リゾートホテルとしての発展を象徴する建物。・日本館は日本文化を体験できる和風宿泊施設として、外国人旅行者を魅了した建物。いずれも現在は失われていますが、富士屋ホテルが西洋文化と日本文化を融合させた国際的なリゾートホテルへ発展していった歴史を伝える貴重な記録です。展示は、現存する建物だけでなく、時代とともに姿を消した建築にもホテルの歴史が刻まれていることを来館者に伝えているのであった。左:HERMITAGE ハーミティジ no longer existing(現存せず) とあります。「Hermitage」とは「Hermitage(ハーミテージ)」は英語で・隠れ家・静かな別荘・隠棲の館 という意味。富士屋ホテルでは、明治時代から大正時代にかけて建てられた洋館の宿泊棟の一つでした。写真を見ると・木造二階建て・大きなガラス窓・長いベランダ・箱根の山並みを望む立地となっており、避暑地ホテルらしい開放的な造りだったことが分かる。現在は取り壊され、現存していません と。右上:JAPANESE STYLE BUILDINGSno longer existing(現存せず)こちらは外国人旅行者に「日本らしい宿泊体験」を提供するために造られた純和風の建物群。写真を見ると・平屋や二階建ての日本家屋・庭園・池・飛び石・松や植栽など、日本旅館の趣を取り入れた造りになっている。外国人が「日本建築に泊まってみたい」という希望に応えるための宿泊施設として人気を集めた。こちらも現在は残っていません。富士屋ホテルを代表する建築物の歴史を紹介。左:「THE MAIN(本館)」この建物は現在も富士屋ホテルのシンボルとなっている本館です。本館は・1891年(明治24年)完成・建築は 久留正道(くる まさみち) による設計・和洋折衷建築の代表作として知られています。写真を見ると・石積みの基壇・左右対称の外観・ベランダ・洋館でありながら和風屋根を取り入れたデザインが確認できる。現在の本館は国の登録有形文化財であり、2020年の大規模保存修理を経て創建当時の美しい姿を取り戻しました。右上:「FOREST LODGE(フォレスト・ロッジ)」現在のフォレスト・ウイングの前身となる宿泊棟。展示写真は昭和初期の姿を写したものと思われます。特徴は・森林の中に建つ別荘風建築・木造二階建て・大きな窓・山荘を思わせる落ち着いた外観で、箱根の自然を楽しむ長期滞在客向けの客室として人気がありました。「Forest Lodge」という名称どおり、森の中の山荘という雰囲気を大切にした建物。この展示は、富士屋ホテルが「洋風ホテル」でありながら、日本文化も大切にしてきたことを象徴しています。・COMFY LODGE は洋館に日本建築の美しさを取り入れた宿泊棟。・菊華荘 は本格的な日本建築と庭園文化を今に伝える建物。つまり、富士屋ホテルは創業以来、西洋のホテル文化と日本の伝統建築を融合させた独自の建築美を追求してきました。この二つの建物は、その象徴的な存在として展示されているのです。左:COMFY LODGE 西洋館1号館(カムフィ・ロッジ)「Comfy」とは英語で「快適な」、「居心地のよい」という意味。その名のとおり、宿泊客が自宅のようにくつろげることを目指した宿泊棟でした。・白い下見板張りの外壁・張り出した出窓・唐破風(からはふ)の玄関屋根・洋館に和風意匠を取り入れた入口など、富士屋ホテルらしい和洋折衷建築であることがよく分かります。この建物は現在も敷地内に残っており、現在は「菊華荘」へ向かうエリア付近に位置する宿泊施設(コムフィロッジ・レストフルコテージ)へと受け継がれています。右上:KIKKA-SO 菊華荘菊華荘とは、旧三井財閥・三井家の別邸として建てられた純和風建築です。その後、富士屋ホテルが取得し、現在は日本料理「菊華荘」として利用されています。ここでは、ホテルの宿泊施設が時代とともに増築され、多様な滞在スタイルに対応してきた歴史を紹介していた。左:COZY HOUSE(コージー・ハウス)パネルにはCOZY HOUSE西洋館3号館(コージーハウス)とあります。さらに右下にはbuilding remainingとあり、この建物が現在も現存している建物であることを示しています。「Cozy」とは英語の・居心地がよい、・こぢんまりして暖かい・家庭的な という意味。その名前どおり、家庭的で親しみやすい雰囲気を大切にした宿泊施設であったと。右:RESTFUL COTTAGE(レストフル・コテージ)パネルにはRESTFUL COTTAGE西洋館2号館(レストフル・コテージ)と書かれています。「Restful」とは・安らぎのある・静かな・心休まる という意味。その名のとおり、静かな環境でゆったりと滞在できる宿泊棟として建てられました。写真を見ると、・富士屋ホテル伝統の白い下見板張り・和風の唐破風(からはふ)の玄関・洋館と日本建築を融合したデザインとなっており、富士屋ホテルを代表する和洋折衷建築の一つです。現在も宿泊棟として利用されており、クラシックホテルならではの趣を味わうことができるようだ。富士屋ホテル・ホテルミュージアムの締めくくりともいえる展示で、富士屋ホテルが長い歴史の中で受けた数々の文化財・歴史的価値に関する認定を紹介していた。(左上)① 文化庁「登録有形文化財」登録有形文化財Registered Tangible Cultural Properties登録日平成9年(1997年)12月12日登録対象・本館・食堂棟・西洋館1号館・2号館・花御殿・アイリー(Eyrie)・菊華荘この制度は、歴史的・建築的価値を持つ建物を後世へ保存することを目的としています。(右上)② 経済産業省「近代化産業遺産」近代化産業遺産Heritage of Industrial Modernization正式名称富士屋ホテルと箱根観光関連遺産群認定日平成19年(2007年)11月30日対象・本館・西洋館・食堂棟・花御殿・菊華荘これは富士屋ホテルだけではなく、「日本の近代観光の発展を支えた歴史遺産」として評価されたものです。富士屋ホテルは、日本のリゾート観光や国際観光の発展に大きく貢献したホテルとして認められています。(左下)③ 箱根町「重要文化財」箱根町重要文化財指定物件富士屋ホテル レジスターブック(宿帳)58冊指定日平成11年(1999年)6月22日宿帳には、・外国人旅行者・皇族・政治家・文豪・芸術家など、宿泊した著名人の記録が残されています。建物だけではなく、ホテルの歴史を伝える資料そのものにも高い文化的価値が認められています。(右下)④ 箱根町「特定歴史的建造物」特定歴史的建造物指定日平成30年(2018年)5月1日対象・本館・食堂棟・その他6棟地域の歴史を代表する建築として保存・活用していくための制度です。この四枚の認定証は、富士屋ホテルが単なる老舗ホテルではなく、・建築遺産・観光遺産・歴史資料・地域文化財という四つの異なる視点から高く評価されていることを示しているのだ。つまり富士屋ホテルは、「泊まる文化財」とも呼べる存在であり、建物や資料、そしてホテルそのものが日本の近代化や観光史を語る貴重な遺産となっているのであった。「GALLERY MAP資料展示 館内マップ① GALLERY COZY(ギャラリー・コージー)左側に表示されています。このエリアでは主に・ホテルの歴史・創業者・建築・サービス・花御殿・歴代経営者などを紹介する展示があった。※「宿泊客専用」と表示されているため、この一帯はホテル宿泊者のみが自由に利用できる エリアでもあるようだ。」 ② PALACE-DORI(パレス通り)右側にある通路です。こちらも・宿泊客専用 となっていた。花御殿(Flower Palace)を中心とした建物へ続く回廊になっていた。中央の館内図地図には現在の富士屋ホテルの主要施設が描かれていた。主な建物は・FLOWER PALACE(花御殿)・THE MAIN(本館)・DINING ROOM(食堂棟)・COMFY LODGE・RESTFUL COTTAGE・FOREST WING・CASCADE WING など。またYou are here(現在地)の表示があり、現在見学している場所が、花御殿地下(B1階)付近のホテルミュージアム入口であることが分かつのであった。富士屋ホテル・ホテルミュージアムの「実用(FACILITIES)」コーナーの入口。「FACILITIES実用ホテルサービスを支えた道具たち富士屋ホテルの歴史そのものはもちろんですが、それぞれの旅館経営から海外と同等のリゾートホテル経営への革新の歴史でもあります。生活様式の異なる海外からのお客様が家庭と同様にくつろげるよう、従来は見えない施設設備だけではなく、安全で安全な宿泊となるよう整えられた施設や設備はホテル経営を陰ながら支えた大切な役者ともいえます。The tools that sustained hotel serviceThe history of Fujiya Hotel certainly revolves around the architecture of its buildings,but there is also a history of innovation in how hotel management transitioned fromthat of a traditional Japanese inn to a resort hotel on a par with overseas establishments.The hotel's carefully selected furniture allowed overseas guests of different backgroundsand lifestyles to relax as if they were still at home, while the hotel's facilities and equipment played a key role in providing behind-the-scenes support to hotelmanagement so that guests could feel safe and secure during their stay.」 展示されていた史料①不明②山口仙之助の胸像 棚の中央に置かれているのは、富士屋ホテル創業者・山口仙之助の胸像です。 立派な口ひげが印象的で、これまでご覧になった展示にもたびたび登場した人物です。 仙之助は1878年(明治11年)、宮ノ下に日本初期の本格的な西洋式リゾートホテルである 富士屋ホテル を開業し、日本のホテル文化の礎を築きました。③ 昔の事務機器 胸像の下には、 ・ホッチキスのような器具 ・活字印刷や事務処理に使われた機械 ・金属製の事務用品 などが展示されていた。 ホテルの予約管理や帳簿、伝票作成などに使われた実用品であろう。④ ガラス瓶 下段には大きなガラス瓶が並んでいます。 これらは ・消毒液 ・薬品 ・洗剤 ・保存液 などを保管するための容器として使用されていたものであろう。 当時のホテルでは、衛生管理も重要な仕事。⑤洗面台 少し写っている白い陶器は、昔の洗面台。 蛇口が二つ付いており、 ・温水 ・冷水 を別々に調節する、昔ながらのホテル設備を見ることができた。⑥提灯 右上には 「富士屋ホテル」 と書かれた提灯が展示されていた。 ホテルで祭事や行事、案内などに使われたもので、和の伝統を感じさせる資料。そして「ホテルミュージアム」の総合年表展示。ホテル創業から現在まで約150年にわたる歴史を、歴代経営者と時代背景を交えながら一望できる、ミュージアムの中心的な展示。展示の構成壁面は半円形になっており、上部には日本の時代区分が並んでいた。・明治・大正・昭和・平成・令和その下には、各時代に富士屋ホテルを支えた歴代の経営者や支配人の肖像写真が配置されていた。読み取れる主な人物は、・山口仙之助(創業者)・山口正造・山口正造(H.S.K. Yamaguchi)・山口恒太郎・小佐野賢治 など。それぞれの時代にホテルを発展させた人物の功績が紹介されていた。年表の内容年表には、ホテルの歴史だけでなく、日本の近代化や観光の発展と重ね合わせながら、多彩なテーマが紹介されていた。主な内容は次のとおり。・文明開化(西洋文化の導入)・ホテル業(外国人向けホテルとしての発展)・リゾート観光開発・和洋折衷建築・外国人外交・ホテル建築ラッシュ・戦後復興・FUJIYA HOTEL CHAIN(富士屋ホテルチェーン)・保養所ブーム・近代建築・増築・改修・文化財登録・耐震化・改修工事富士屋ホテルの歩みこの年表から読み取れるホテルの歴史を簡単にまとめると、・1878年(明治11年) 山口仙之助が宮ノ下に富士屋ホテルを創業。・明治~大正 外国人旅行者の増加に合わせ、西洋館や本館などを次々に建設し、日本を代表する クラシックホテルへ成長。・昭和初期 花御殿の完成やサービスの近代化により、国内外の著名人が訪れるホテルとなる。・戦後 占領軍による接収を経て営業を再開し、日本の観光復興を支える存在となる。・高度経済成長期 フォレスト・ウイングなどを新設し、ホテルチェーン事業も展開。・平成以降 建物の保存と耐震改修を進めながら、登録有形文化財や近代化産業遺産に認定される。・令和 歴史ある建物を守りつつ、現代の快適性を備えたクラシックホテルとして営業を続けているのだ。 富士屋ホテルだけの歴史を語るのではなく、日本の近代化や箱根観光の発展と重ね合わせて 紹介しているのであった。 創業者・山口仙之助から現代まで受け継がれてきた「おもてなし」の精神や建築へのこだわり、 そして時代ごとの挑戦が一枚の壁面に凝縮されていた。 ホテルミュージアムを一通り見学した後にこの展示を見ると、それまで個別に紹介されていた 「創業」「建築」「サービス」「文化財」「防災」などが一本の歴史としてつながり、 富士屋ホテル約150年の歩みを総括する展示なのであった。展示テーマ「基軸(IDENTITY)「時空の楽園 精神の具現」富士屋ホテルが単なる宿泊施設ではなく、・「時代を超えて愛される空間」・「おもてなしの精神を形にしたホテル」であることを表現している。壁一面に並ぶ歴史資料壁面には富士屋ホテルを象徴する数多くの資料が飾られていた。■ 創業当時のポスター右上には「FUJIYA HOTEL MIYANOSHITA HAKONE」と書かれた大正から昭和初期頃の美しい観光ポスターがあった。外国人旅行者向けに制作されたもので、当時の国際リゾートホテルとしての雰囲気が伝わるのであった。■ 広告・パンフレット左側には・富士屋ホテルのパンフレット・海外向け広告・英文冊子・宿泊案内などが展示され、海外からの宿泊客を積極的に迎えていた歴史を物語っていた。■ 「140 since 1878」中央上部には140 since 1878というロゴが掲げられていまた。これは2018年に創業140周年を迎えた際に制作された記念ロゴ と。■ 富士山を描いたデザイン左中央には、富士山を大胆にデザインした作品を展示。ホテル名の由来である「富士」を象徴するとともに、日本を代表する景観とホテルとの結び付きを表していた。■ キーワード展示展示の中には富士屋ホテルを象徴する言葉も配置されていた。例えば・箱根山の王・建築群・時空の楽園・誠至(せいし) など。「誠至」は、誠を尽くしてお客様を迎えるという富士屋ホテルの精神を表している言葉。展示ケース下部のガラスケースには、・宿泊券・名刺・封筒・文房具・ホテル関連資料・古い印刷物など、ホテルの日常業務で実際に使われていた資料が展示されていた。これらはホテルの歴史を裏付ける貴重な実物資料。右側の電話交換機写真右端には古い電話交換機(交換台)が。自動電話交換が普及する以前、ホテルでは交換手が宿泊客や各客室との電話を一本一本接続していたのだ。富士屋ホテルの高品質なサービスを支えた設備の一つなのであろう。ROYALTY(皇室)皇室と富士屋ホテル明治28年(1895年)に建てられた宮ノ下御用邸は、昭和21年(1946年)に富士屋ホテルに払い下げられ、「菊華荘」となりました。そのほかにも皇室ゆかりは深く、多くの皇族の皆様に富士屋ホテルや仙石ゴルフコースでお過ごしいただいており、その時々の記念の品が富士屋ホテルに残っています。Imperial Family and Fujiya HotelMiyanoshita Imperial Villa constructed in 1895 was granted to Fujiya Hotel in 1946 and renamed KIKKA-SO. The hotel's connection to the Imperial Household also runs deep as a result of the many Imperial Family members visiting Fujiya Hotel and Sengokuhara Golf Course. Fujiya Hotel retains many commemorative items from those times.写真一覧(皇室ご来訪記録)① 昭和天皇大正6年(皇太子時代) 仙石ゴルフコースにてEmperor Showa (posthumous name of Emperor Hirohito)at Sengoku Golf Course1917 (in his Crown Prince days)② 昭和天皇昭和40年Emperor Showa1965③ 昭和天皇昭和40年Emperor Showa1965④ 上皇陛下昭和30年(皇太子時代)His Majesty the Emperor Emeritus1955 (in his Crown Prince days)⑤ 上皇后陛下昭和33年(当時は正田美智子様)Her Majesty the Empress Emerita1958 (then Miss Michiko Shoda)⑥ 上皇陛下昭和39年(皇太子時代)His Majesty the Emperor Emeritus1964 (in his Crown Prince days)⑦ 秩父宮殿下・高松宮殿下昭和2年His Imperial Highness Prince ChichibuandHis Imperial Highness Prince Takamatsu1927⑧ 常陸宮殿下昭和40年・平成8年His Imperial Highness Prince Hitachi1965 / 2006⑨ 秋篠宮皇嗣殿下平成13年His Imperial Highness Crown Prince Akishino2001ホテルミュージアム「史実の新発見(Newly discovered historical evidences)」コーナー。ホテルの保存・修復工事で発見された建築資料や遺構を紹介し、富士屋ホテルの歴史に新たな光を当てた展示となっているとのことその下には、「保存修復工事によって新たに判明した事実や発見された資料を紹介する」という趣旨の説明が添えられていたが詳細不明。保存修復工事で見つかった貴重な発見中央のモニターには、令和の大規模保存修復工事の様子が映し出されていた。左側には、工事中に発見された図面や資料が展示されていた。展示パネルには英語で、・Hidden corridor(隠し通路)・建物の構造に関する資料・修復時に判明した設計図 などが紹介されていた。右側の展示ケース右側には、建築材料や実際に取り外された部材が展示されていた。展示パネルには次のようなテーマが。・Tiles left under the ogre tiles (鬼瓦の下から見つかった瓦)・Colonial-style colors (創建当時の洋館の塗装色)・Evidence of completion year (建築年代を裏付ける証拠)展示ケースには、・屋根瓦・外壁や内装の塗装片・建築部材・漆喰や木材の断面などが並び、実物を通して修復調査の成果を紹介していた。ホテルミュージアムの「平成の大改修(2018~2020年)」を紹介する展示コーナー。2018年4月から2020年6月まで約2年2か月にわたって行われた、創業以来最大規模の保存修復工事について、その目的や内容を分かりやすく紹介していたのであった。RENOVATIONS(改修)2018-04 ~ 2020-06平成の大改修の全容詳細不詳であるが、文化財としての価値を守りながら、安全性や快適性を向上させるための工事であったことが説明されているのでだあろう。中央から下部にかけて、8枚のパネルで工事の内容が紹介されていた。① 「THE FUJIYA」改修全体のコンセプト。「伝統を守りながら未来へつなぐ」という考え方のもと、創業以来の歴史的価値を維持しつつ、現代のホテルとして必要な設備や機能を備えることを目指しました。② 「計画(PLANNING)」改修工事の計画段階を紹介。建物全体の調査や文化財としての保存方針を決定するまでの過程、建築史や構造の調査などが解説されています。③ 「保全(PRESERVATION)」歴史ある建物をどのように保存したかを紹介するパネル。老朽化した部分を補修しながらも、創建当時の意匠や建材をできる限り残す工夫が説明されていた。④ 「消失(DISAPPEARANCE)」過去に失われた建物や設備について紹介している。火災や戦災ではなく、時代の変化に伴って姿を消した施設や建築物について、古写真を用いて解説している。⑤ 「新築(NEW CONSTRUCTION)」歴史的景観に調和する新しい建物や設備の整備について紹介。写真には、新たに建設された施設や、伝統的なデザインを生かした外観が掲載されていた。⑥ 「復元(RESTORATION)」創建当時の姿へ復元した事例を紹介。歴史資料や写真をもとに、失われていた内装や意匠を忠実に再現した様子が説明されていた。⑦ 「耐震(EARTHQUAKE RESISTANCE)」建物内部に施した耐震補強工事についての展示。歴史的な外観を損なわないよう、壁や柱の内部に補強材を設けるなど、高い耐震性能を確保する工法を紹介。⑧ 「修復(REPAIR)」家具や調度品、内装の修復についての展示。写真にはソファや椅子などが写っており、客室やロビーで使用されてきた家具を職人が丁寧に修復した様子が紹介されていた。「幻の建築計画(Impossible architecture plans)」コーナー。富士屋ホテルでは、これまで多くの改修工事が計画されました。国内外の情勢や天災の影響により、その多くは実施されませんでしたが、当時の貴重な史料からは、歴代経営者たちの想いが伝わって来ます。展示されている設計図上下2段、計6枚の設計図が年代順に展示されています。1958年(左上・左下)フォレスト・ロッジ計画など、戦後の観光ブームを背景にした宿泊施設の拡張計画です。1964年(中央上)東京オリンピック開催の年に合わせて検討された増築計画。高度経済成長期に急増する宿泊需要を見据えた構想でした。1967年(中央下)ホテル全体の配置計画。建物や庭園、道路の位置関係まで詳しく描かれています。1968年(右上)ホテル敷地をさらに山側へ拡張する構想。建物を段状に配置する大規模な計画だったことが分かります。1970年(右下)大阪万博前後の観光需要を見込んだ大規模開発案。宿泊施設だけでなく、周辺施設も含めた総合的なリゾート計画となっています。青焼き図面上段の青い図面は、当時の建築設計で一般的だった青焼き(ブループリント)です。コピー機が普及する以前、建築図面は感光紙を使って複製されていました。そのため、このような青地に白線の図面になっています。下段の図面下段には原図に近い設計図が展示されていた。建物の間取りだけでなく、・客室配置・廊下・庭園・道路・敷地全体まで細かく描かれており、当時の建築計画の本格さがうかがえるのであった。このコーナーの魅力は、「実現しなかった歴史」を知ることができる点。現在の富士屋ホテルは、増改築を重ねながら歴史的景観を守り続けていますが、その裏には数多くの構想や計画がありました。経済状況の変化や自然災害、社会情勢などによって実現しなかった設計図も多く、それらは富士屋ホテルが未来をどのように描いていたかを物語る貴重な歴史資料となっているのだ。ホテルミュージアム「FLOWER PALACE(花御殿)」コーナーに展示されている、日本画家による花の原画(下絵)と完成作品を比較展示したもの。・左上・左下 ・花や草木だけが淡彩で描かれた下絵(原画)。 ・構図や植物の配置、色彩の試作が分かります。 ・余白を大きく残し、一つひとつの植物を丁寧に描いています。・右上 ・下絵をもとに色彩を加えた制作途中、または完成原画。 ・緑の葉や淡紫色の花が鮮やかに描かれています。・右下 ・最も完成度の高い作品。 ・金色を背景に、 ・紫色の花 ・桜色の花 ・白い花 ・黄色い花 ・青い蝶 が描かれ、花御殿で実際に使われた装飾画を思わせる華やかな作品になっていた。「食堂天井画の原画メインダイニングルーム・ザ・フジヤの格天井の天井画は、近代日本画の巨匠・川合玉堂に師事した渡部浩年をはじめ、本田蕉風・大沼南園・梅荘ら4名の画家によって、昭和5年(1930年)の食堂棟建設時に描かれました。159面の格間には数々の高山植物が、376面の支輪には鳥や蝶が、それぞれモチーフとなっています。当時高価であった合板に描くため、実際に描く前に図案を確認したと思われます。Original picture of dining room ceiling artworkWhen the building was constructed in 1930, the ceiling painting ofMAIN DINING ROOM "THE FUJIYA" was painted by four artists who studied underGyokudo Kawai, the master of modern nihonga (Japanese-style paintings): Konen Watanabe, Shofu Honda, Nanpo Onuma, and Baiso.Numerous alpine plants are featured in the 159 panels, and motifs of birds andbutterflies are painted on the 376 cornices. As the artists were painting onveneer board, a material that cost a lot of money in those days, they most likelychecked their designs before painting the pictures we see today.このパネルは、メインダイニングルーム「ザ・フジヤ」の格天井(ごうてんじょう)に描かれた装飾画が、どのように制作されたかを紹介していた。・制作年:昭和5年(1930年)・指導者:日本画の大家・川合玉堂・制作画家:渡部浩年、本田蕉風、大沼南園、梅荘・格間(天井板):159面に高山植物・支輪(格天井を支える部材):376面に鳥や蝶当時は天井板となる合板が非常に高価だったため、いきなり本番に描くのではなく、今回展示されているような原画(下絵・図案)を制作して構図や彩色を確認してから、本番の天井板に描かれたと考えられているとのこと。「食堂天井画」。 レトロ調イラストポスター。ホテルミュージアム内の「基軸(IDENTITY)」コーナーに展示されており、富士屋ホテルを象徴する建物や風景を現代的なデザインで表現されていた。ポスター中央には、富士屋ホテルの代表的な建物である本館(THE MAIN)が描かれていた。その特徴である、・唐破風(からはふ)の屋根・白い外壁・和洋折衷の建築様式がデフォルメされながらも忠実に表現されていた。手前には車寄せ(エントランス)があり、往年の高級ホテルらしくクラシックカーも描かれていた。いただいたパンフレットにもこの絵が表紙となっていた。「HOTEL BROCHURE(ホテルパンフレット)」の展示コーナー。創業以耒、お客様に情報をお届けする大切な手段として、ホテルプローシャが制作されてきました。その時代に求められるホテルの魅力を最大限にお伝えでさきるよう、表紙、全館マツツ、施設紹介などの表現方法に工夫が凝らされました。情報伝達手段が多様化した現在においても、ホテルぶランドを熟成し象徴化する「富士屋ホテルプローシャ」の存在意義は変わらず受けがれています。富士屋ホテル館内マップ。建物ごとに・客室・レストラン・バー・ラウンジ・温泉・売店などが分かりやすく示され、宿泊客が館内を散策しやすいよう工夫されている。写真入りで各施設を紹介している点も特徴。富士屋ホテル外観マップ。ホテル本館を中心に、・花御殿・フォレスト・ウイング・カスケード・ウイング・菊華荘・庭園・レストラン・温泉施設などの位置関係が一目で分かるようになっていた。「実用・サービス用品」展示コーナー。宿泊客には普段見えない、ホテルを支えてきた道具や制服、宣伝用品などが展示されていた。左右の大きな番傘最も目を引くのが、左右に展示された富士屋ホテルの番傘。左の番傘には「富士屋ホテル」の文字が大きく書かれていた。右の番傘には「HOTEL」と「富士屋」の文字が見えた。これらは宿泊客の送迎や雨天時の案内に実際に使用されたもので、ホテルの「顔」ともいえる備品。法被(はっぴ)番傘の下には2着の法被が展示されていた。デザインには、・富士山・ホテル本館・富士屋ホテルのロゴなどが描かれており、開業記念行事やイベント、スタッフの制服として使われていたものか。中央の展示ケース・古いタイプライター・手動計算機・事務機器・ホテルで使用された機械類・金属製の器具などがあり、フロントや事務所で実際に使われていた備品。ラウンジ?と思われる空間。・中央に黒いグランドピアノ・左奥にバーカウンター・ゆったりと配置された革張りのソファやテーブル・高い天井と太い木製の柱・大きな窓から自然光が差し込む落ち着いた雰囲気売店(ショップ)に展示・販売されている「寄木細工(よせぎざいく)」のリンゴ型小物入れ。箱根を代表する伝統工芸品である寄木細工を、現代的なデザインで表現した人気商品。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.08.01
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「箱根町港」を後にして、ナビの設定を「石垣山一夜城」に設定して、箱根駅伝復路の国道1号線を下る。途中、久しぶりに「宮ノ下・富士屋ホテル」の見学をしようということになり急遽訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、「宮ノ下」交差点手前の入口からホテル敷地内に入る。 前方にあったのが「食堂棟」 。「HOTEL SHOP 」の入口を見る。 そしてフロントに行き、見学希望を伝え、「フロアガイド」をいただく。そして頂いた「フロアガイド」👈️リンク を見ながら散策開始。まずは「本館地下」から。 「クラシックホテルの仲間たち」と題して、戦前・戦後の日本の西洋ホテルライフの礎を築いてきた、富士屋ホテル、奈良ホテル。、ホテルニューグランド、日光金谷ホテル、軽井沢万平ホテル、東京ステーションホテル等が紹介されていた。左側にはホテルの「タグラベル」が並んでいた。 「CLASSIC HOTELクラシックホテルの仲間たち時代浪漫の真髄に触れる日本のホテルの黎明期に創業し、戦前・戦後を通じて西洋のホテルのライフスタイルを具現化してきた老舗ホテル。古い時代へのセンチメンタリズムや若いジェネレーションが憧れるレトロ感覚に応え六つの歴史的ホテルが手を結びました。ホテルには時代に応じたさまざまな人々が行き交い、多くの時間が降り積もってしまったかのような静寂と清潔な佇まいは、近代のホテルには見られない「凛」と安らぎの空間を見事に表現いたします。いま、ホテルの新しい世界にその門戸を開き始めたクラシックホテル探索の旅に是非お出かけください。・富士屋ホテル ・奈良ホテル ・ホテルニューグランド・日光金谷ホテル ・軽井沢万平ホテル ・東京ステーションホテル」 「西洋の品格を受け継ぐホテルたち日本各地には開港以来多くの外国人が訪れ、そのためにクラシックホテルとして人々を迎えてきたホテルがあります。歴史や伝統を受け継ぎながら日本の風土や文化と融合し、それぞれの地域ならではの魅力を育んできました。クラシックホテルは、国内に現存する歴史あるホテルとして、建築や調度品、サービス、そして受け継がれるおもてなしの精神など、今日まで大切に守られています。Hotels that assumed Western dignityThe prestigious hotels that have inherited the dignity of Western-style hospitality sinceJapan opened to the world. These classic hotels have welcomed guests fromaround the globe while preserving their history, architecture and traditions. They continue torepresent the elegance and hospitality of a bygone era.「FUJIYA HOTEL」タグラベル。 「SINCERITY至誠富士屋ホテルサービスの真髄創業した明治11年(1878年)以来、日本の心、「おもてなし」の精神として富士屋ホテルに脈々と引き継がれてきたものが「至誠」です。「至誠」とはこの上なく誠実なこと、まごころ。富士屋ホテルのサービスすべてに通ずる信念です。時を超えて、富士箱根の自然とともに人々を魅了し続けているのは日本精神の結晶といえる、この「至誠」なのです。The essence of Fujiya Hotel servicesSince Fujiya Hotel's establishment in 1878, the Japanese mindset, namely the spirit ofhospitality or omotenashi, has been passed down in the form of "sincerity," or utmost honesty and devotion.This steadfast belief is manifested in all of Fujiya Hotel's services.One could say this sincerity is the crystallization of the Japanese mind, that has continued to icaptivate people, along with the nature of the Fuji-Hakone region,over the years.」 このパネルは、富士屋ホテルが創業以来最も大切にしてきた理念「至誠」を紹介した展示。単なる接客技術ではなく、日本の「おもてなし」の精神を受け継ぎ、お客様に真心を尽くすことこそが富士屋ホテルのサービスの原点であることを伝えているのであった。「THE KING OF HAKONESENNOSUKE YAMAGUCHI(肖像写真)初代社長 山口仙之助「箱根山の王」と称された男のどかな湯治場であった宮ノ下の地に突如として現れた洋館は、それまでの旅館業では考えられない新しいホテル業の象徴でした。それを実現したのが富士屋ホテルの創業者・山口仙之助です。ホテル経営だけではなく道路の拡張などといった地域貢献を通じて、湯治場としての箱根を一大リゾート地に牽引した功績は、今もなお語り継がれています。The man described as "The King of Hakone"The Western-style building that suddenly appeared in the late 19th century was a newtype of hotel unlike any traditional Japanese inn.This was realized by Sennosuke Yamaguchi, the founder of Fujiya Hotel.He was more than just a hotel manager-his achievements in developing Hakone into one of the great hot spring resort desstinations through his contributions to thecommunity,such as by the expansion of roads in the area,is a storystill talked abouttoday.この展示は、富士屋ホテルの発展のみならず、現在の箱根観光の礎を築いた山口仙之助の功績を紹介していた。ホテル建設だけにとどまらず、交通インフラの整備を進めた先見性から、彼は「箱根山の王(The King of Hakone)」と称され、箱根近代観光の立役者として今も高く評価されているのだ。山口仙之助生年:嘉永3年(1851年) 没年:大正4年(1915年)養父・山口条載蔵が支記人を務めていた横浜・神風楼で外国人と接した経験や、20歳の時に日本を発ち、サンフランシスコなどで苦労を重ねた海外経験を原点として、ここ箱根・宮ノ下に日本初の本格的な洋式ホテルを開業した。 Sennosuke Yamaguchi1851–1915Based on his experience of interacting with foreigners at Shinpu-ro Inn, Yokohama, where his adoptive father Kumazo Yamaguchi was the manager, and his overseasexperience when he left Japan at the age of 20 and had some tough timesin San Francisco and elsewhere, he opened Japan's first full-fledged Western-stylehotel here in Miyanoshita, Hakone.山口仙之助は、富士屋ホテルの創業者です。横浜で外国人と接した経験と、若い頃の渡米経験を活かし、1878年(明治11年)に箱根・宮ノ下で日本初の本格的なリゾート型洋式ホテル「富士屋ホテル」を開業しました。外国人旅行者を迎えるための近代的なホテル文化を日本に根付かせた、日本のホテル史における先駆者の一人として知られています。ネットから。「HOT SPRING 温泉・CAT PAW BATHTUB 一般的に「猫脚バスタブ(猫足バスタブ)」を指す英語表現。 動物の「猫の足(Cat's paw / Cat paw)」をモチーフにした、 アンティーク調で優雅なデザインの置き型浴槽(クラウフット・タブ)を意味しています。 MERMAID BATHかつて花御殿にあった「人魚の湯(マーメイドバス)」。「MUSTACHESHOZO YAMAGUCHI(中央肖像)THE LATE MR. H. S. K. YAMAGUCHI髭のヘンリー「H. S. K.Yamaguchi」 は「Henry (海外生活をしていた時に労働者仲間から呼ばれていたニックネーム)」、「Shozo(正造)」、「Kanaya (金谷)」を組み合わせた3代目社長・山口正造のサインです。金谷ホテル創業者の次男であった金谷正造は山口家に婿入りし、海外のホテルと肩を並べる富士屋ホテルの地位を築き、多くの賓客と交流を深めました。正造は訪れたお客様に日本の文化と精神を伝えることに尽力しました。特徴のある髪は正造の存在感を立たせるとともに、交流の輪を広める重要な役割を担っていたことでしよう。Henry and his mustacheShozo Yamaguchi signed his name as "H.S.K. Yamaguchi." "H" was for Henry, the nickname bestowed on him by his work colleagues when living overseas,"S" was for Shozo, and "K" was for Kanaya. Born the second son of the founder ofKanaya Hotel, he was adopted into the Yamaguchi family through marriage, cemented Fujiya Hotel's position to rank alongside hotels in other countries, and deepened exchanges with many distinguished guests.Shozo strived to convey Japanese culture and spirit to hotel guests. His distinctivemustache served to enhance his presence and most probably played a key role inexpanding his socialnetwork.ネットから。「国際口ひげクラブ(International Mustache Club)」日本・箱根の伝説的な富士屋ホテルのメインホールの壁には、(数多くある興味深い展示品の一つとして)これが飾られていた。「口ひげのための国際クラブ」があった(今もある?)なんて、ご存じでしたか?写真はネットから。1931(昭和6)年、当時の専務取締役、山口正造氏が海外宣伝効果を高める為に結成。入会条件は最低2インチ(約5cm)以上の髭があること。10カ国43名の「髭自慢」が登録。髭を剃ったら、退会しなければならなかった と。MENUS & PRINTING毎日のメニューを印刷するホテルの建物管理を行う営繕部作業場の奥に、印刷品があります。現在は使われていませんが、かつてここでは毎日、ディナーメニューが印刷されていました。宿泊客の皆様に喜んでいただけるよう、厨房では多くの料理人が腕を振るっていますが、活字を拾ってメニューを印刷する職人もまた、ディナーを彩る富士屋ホテルの大事な仲間の一人でした。Menus printed dailyAlthough not in use today, at the back of the Buildings and Facilities Maintenancesection's workroom stands a printing press.It was there that the restaurant dinner menus used to be printed every day.Many chefs gave full play to their abilities in the kitchen in order to pleasethe hotel guests, but staff skilled at setting up types to print the menu cardsalso played a keyrole in enlivening dinners at Fujiya Hotel.」 展示品(判読できるもの)・活字ケース(木製)・活版印刷用活字・The Fujiya Hotel Christmas Greeting(クリスマス・グリーティングカード)・INDEPENDENCE DAY DINNER(独立記念日ディナーメニュー)・活版印刷用の版・インキローラー・印刷道具「HOTEL MANAGERKENKICHI YAMAGUCHI戦後の富士屋ホテルの発展に寄与した男第二次世界大戦後の連合軍による接収時に社長を務めていたのは14代目社長・山口健吉です。一般営業ができないなかでも、米軍の求めるホテルサービスを推進しました。安全衛生面の徹底やレクリエーションの創出、すきやきの提供のほか、菊華荘の開業や茶室の移築、東京・大阪案内所の開設、フォレスト・ロッジの新築を行うなど、戦後の激動のなか富士屋ホテルの発展に寄与しました。The man who contributed to the hotel's development after World War IIKenkichi Yamaguchi was president of Fujiya Hotel when it was requisitioned by the occupation forces after World War II. Despite its not being able to operate as usual, he promoted hotel services as required by the U.S. military. He took steps to ensurea safe and healthy environment, created recreational opportunities, and providedsukiyaki, for example.Amid the post-war turmoil, he contributed to Fujiya Hotel's development by openingKIKKA-SO, relocating the tea ceremony room, setting up Tokyo and Osakainformationcenters, newly constructing FOREST LODGE (now called FOREST WING), and so forth.」 山口健吉生年:明治18年(1885年) 没年:昭和43年(1968年)三重県桑名で蝋燭屋を営む商家であった倍井家の四男として生まれる。早稲田大学卒業後、日本郵船株式会社に入社し、外国航路の客船でパーサーとして勤務。その後、創業者・山口仙之助の次女・貞子の婿として富士屋ホテルの経営に携わる。1941年から5年間にわたって温泉村の村長を務めた。ネットから。「TRAINING SCHOOLサービス品質の向上かつて旅館は「ヤド(夜止屋)」と呼ばれ、夜の時間を過ごす場所と考えられていました。そのようななか、富士屋ホテルでは合理的な経営とホスピタリティを重要視していました。そして、昭和5年(1930年)、5代目社長・山口正造は日本全国の旅館・ホテル業界のサービス向上のために富士屋ホテルトレーニングスクールを開校しました。Ensuring a positive guest experienceIn the past, Japanese inns used to be called yadoya, which simply operated as places for visitors to spend the night. By contrast, Fujiya Hotel attached importance to rational management and hospitality.Thus, in 1930, Shozo Yamaguchi opened Fujiya Hotel Training School in order to raisethe level of services at Japanese inns and hotels across the country.」この展示は、富士屋ホテルが1930年に日本でいち早く本格的なホテルマン育成機関「富士屋ホテル・トレーニングスクール」を設立し、接客・ベッドメイキング・テーブルサービスなど、ホテルサービス全般を体系的に教育していたことを紹介するコーナー。現在のホテル専門学校やホスピタリティ教育の先駆けともいえる、富士屋ホテルの先進的な取り組みが分かる貴重な展示であった。「FUJIYA HOTEL & KANAYA HOTEL日本のクラシックホテルを牽引した兄弟3代目社長・山口正造は日光・金谷ホテル創業者・金谷善一郎の次男です。善一郎は日光で金谷カッテージ・イン(現在の金谷ホテル)を明治6年(1873年)に開業しました。その後、金谷ホテルは長男・真一に引き継がれました。同業者として手を取り合い、時には苦難を分かち合ってホテル経営にまい進した兄弟の情熱が、2つのホテルを今なおクラシックホテルとして輝かせています。Brothers at the forefront of Japan's classic hotelsThird-generation president Shozo Yamaguchi was the second son of Kanaya Hotelfounder Zenichiro Kanaya. Zenichiro opened Kanaya Cottage Inn (now Kanaya Hotel) in Nikko in 1873.Being in the same line of business, both families joined hands to share in each other's hardships on occasion, and the passion of the two brothers pushedahead as hotel managers is why both establishments are still illustrious classichotels today.」 展示品手前には、金谷ホテルのロゴ入りの陶器(洗面器・水差し)が展示されていた。右側には、富士屋ホテルと金谷ホテルの歴史を紹介した当時のパンフレット・冊子が展示され、両ホテルの深い交流の歴史を伝えています。この展示は、富士屋ホテルと日光・金谷ホテルが、山口家と金谷家という兄弟の絆によって結ばれ、日本のクラシックホテル文化を共に築いてきたことを紹介するコーナー。日本を代表する二つの老舗ホテルの歴史的なつながりを知ることができる、興味深い展示となっていた。「HOTEL SERVICESホテルサービスの多様化宿泊客の増加に伴い、多様なサービスが求められるようになりました。多くの職種が生まれて分業が進み、掃除、洗濯、調理、美容・理容、設備、営繕と部署が細かく分かれていきました。3代目社長・山口正造は機械化を進めるべく多くの設備を導入しましたが、それでも充実したホテルサービスを維持するためには多くの人手を要することとなりました。Diversification of hotel servicesAs the number of hotel guests increased, so did the various services required, which in turn created a variety of different job types.Each hotel department had its own specialized role, such as cleaning, laundry, cooking, hairdressing, facilities & equipment, and building maintenance.Shozo Yamaguchi introduced a lot of mechanization equipment. However, it requiredenormous labor to maintain the quality of hotel services.」展示品写真には、ホテルのさまざまな職種が紹介されていた。・barber(理髪)・washing(洗濯)・telephone operator(電話交換手)・cleaning(清掃)手前の展示品・タイプライター(Remington)・天秤ばかり(Balance scale)この展示は、富士屋ホテルが近代的なホテル運営を実現するため、職種を細分化し、それぞれの専門スタッフによる質の高いサービスを提供していたことを紹介しています。また、機械化を積極的に進めながらも、最終的には「人の手」によるきめ細かな接客こそがホテルの品質を支えていたことを伝える展示となっていた。「FLOWER PALACE「花御殿」という美術館華麗な和風の意匠や繊細な建築装飾、赤い欄干のついたバルコニー。富士屋ホテルの建築史において頂点を示す作品とされる花御殿は、3代目社長・山口正造が設計にあたり、昭和11年(1936年)に完成しました。各部屋には、宿号ではなく花の名前がつけられ、日本画家・三井翠松が部屋ごとに描いた花の絵を飾りました。同様の絵が描かれたルームキーは「花鍵」と呼ばれ、宿泊客の皆様を花御殿という非日常の空間へと誘います。The art gallery — FLOWER PALACEDistinguished by an ornate Japanese-style design, complex roof structure, and bright-red balcony balustrades, FLOWER PALACE, which is considered to be the pinnacle of Fujiya Hotel's architectural history, was designed by itsthird-generationpresident, Shozo Yamaguchi, and was completed in 1936.Instead of numbers, rooms were assigned the names of flowers, and floral motifs for each room were painted by nihonga (Japanese-style paintings) artist Baisui Mitsui. Room keys adorned with the same design are called "flower keys," enticing hotel guests to the extraordinary space that is FLOWER PALACE.展示品ケース内には、花御殿で実際に使用されていた「花鍵(Flower Keys)」 が展示されています。各鍵札には、・Lily of the Valley(スズラン)・Narcissus(水仙)・Iris(アヤメ)・Camellia(ツバキ)・Azalea(ツツジ)・Peony(ボタン)・Hibiscus(ハイビスカス)・Balsam(ホウセンカ)など、実際の客室名となった花々が描かれています。この展示は、花御殿が単なる宿泊施設ではなく、「花をテーマにした美術館」として設計されたことを紹介しています。客室ごとに異なる花の日本画が飾られ、宿泊客は花の名前が付けられた部屋と「花鍵」に迎えられることで、芸術と建築が調和した特別な滞在を楽しめるよう工夫されていました。」 近づいて。「SAFETY & SECURITYメインロビーに飾られている「達磨」の水墨画は、焼失して失意の底にあった3代目社長・山口正造のもとに届いた贈りものです。富士屋ホテルのたくましさの精神の象徴でもあります。Daruma ink wash painting was a present for Shozo Yamaguchi, who was in despairbecause of the Great Kanto Earthquake, from his friend.It is the symbol of Fujiya Hotel's spirit: never give up.富士屋ホテルの歴史は、災害からの再生の歴史富士屋ホテルが最初に経験した災害は明治16年(1883年)に発生した宮ノ下の大火でした。これにより、創業者・山口仙之助が建てた洋館は一夜にして焼失しました。長い歴史のなか、火災だけではなく、地震、大雨、噴火など様々な苦難をスタッフ全員で乗り越えてきました。その経験を活かし、私たちは定期的な訓練と時代に合ったテクノロジーで富士屋ホテルを守り続けています。The history of Fujiya Hotel is one of disaster recoveryFujiya Hotel's first experience of a disaster was the Great Miyanoshita Fire of 1883. The original Western-style building constructed by founder Sennosuke Yamaguchi wasburned to the ground overnight.In the course of its long history, all staff of Fujiya Hotel have overcome numerouscalamities other than fires, such as earthquakes, torrential rains, and volcanic eruptions. We will continue to utilize these experiences and safeguard Fujiya Hotelthrough regulardisaster drills and with the use of modern-day technology.防災(Disaster prevention)・関東大震災で被害を受けた西洋館 (Cozy lodge restored after the Great Kanto Earthquake)・平成の大改修における耐震補強 (Earthquake strengthening in recent major renovations)防火(Fire protection)・宮ノ下の大火で焼失した富士屋ホテル初代洋館 (The original Western-style building that burned in the Great Miyanoshita Fire)・自衛消防団による消防訓練 (Firefighting training by the fire brigade)展示品写真下部に展示されているものは、・消防鳶口(Firefighting tool)・カンテラ(Lantern)・消防用ベル(Fire bell)など、富士屋ホテルで実際に使用されていた防災・防火用品。この展示は、「富士屋ホテルの歴史は、災害を乗り越えてきた歴史でもある」というテーマで構成されていた。1883年の宮ノ下大火をはじめ、関東大震災や火災、豪雨など幾多の試練を経験しながら、そのたびに再建を果たしてきた歩みと、現在も続く防災・防火への取り組みが紹介されていた。」 ネットから。宮ノ下の大火で焼失した富士屋ホテル初代洋館。そして現在の「THE FUJIYA HOTEL富士屋ホテル」 近づいて。敷地マップ(主な建物)・FLOWER PALACE(花御殿)・FOREST WING(フォレスト・ウイング)・RESTFUL COTTAGE(西洋館)・COMFY LODGE(本館洋館)・THE MAIN(本館)・CASCADE WING(カスケード・ウイング)・DINING ROOM(食堂棟)・KIKKA-SO(菊華荘)・GREENHOUSE(温室)・GARDEN CHAPEL(ガーデンチャペル)・OUTDOOR POOL(屋外プール)・WATERFALL(滝)・PARKING(駐車場)・PICOT(ベーカリー&スイーツ ピコット展示されていた「本館」正面入口の写真。 羽を伸ばした鳳凰をかたどった木の彫刻が入口の回転扉の上に。富士屋ホテルで、最も古い彫刻の一つ。出入り口を覆うよう配置されていた。そして「本館」を「洋館」側から見る。手前に「サンパーラー」が。展示されていたフロント前の階段 の写真。以下の写真は、以前に訪ねたときの写真。この時は、フロントにて見学、写真撮影の了解を頂きました。フロント。受付カウンターの見事な彫刻は昭和5年製作のもの。けやきの一枚板を使用。源頼朝が「富士の巻狩り」👈リンク に興じる様子を描いているのだと。富士の巻狩りとは、建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩のことである。左手に富士山の姿。中央に源頼朝の姿が。柱にもいろいろな彫刻が施されていた。主役は尾長鶏(おながどり)。ヘレン・ケラー女史が昭和12年に来館した際、ホテルで飼育していた尾長鶏を可愛がってくれた。2度目に訪れた際、尾長鶏が亡くなっていたため、彼女のために事前に彫刻をほどこし、愛でられるようにしたのだと。「尾長鶏」の裏の柱の彫刻には梅の木が刻まれていた。「梅の枝と花」。以下、展示コーナー・「ルー・ド・ラ・ぺ」 の展示写真に戻ります。レリーフ画「野馬追」昭和10年(1935年) 小倉右一郎作。レリーフ画「羽衣」昭和10年(1935年) 小倉右一郎作。ホテル・ミュージアムへ。赤い絨毯の部屋。箱根・宮ノ下の天然温泉を使用した温泉プール。室内には、クラシカルな趣を感じる絵画も飾られていた。
2026.07.31
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そして早朝5時前に起床し、温泉風呂へ。そして朝食を済ませ、今回も「大涌谷」に向かう。雨の影響か?噴煙の量が前回よりかなり多かったのであった。4月から4回目の大涌谷。大涌谷の背後にそびえる「とがった山」は、箱根火山の最後のマグマ噴出によって形成された「冠ヶ岳(かんむりがたけ)」 大地の奥深くから噴き上がる白煙が風に揺れ、山肌をゆっくりと包み込んでいきます。荒々しく削られた斜面には火山活動の痕跡が刻まれ、その圧倒的な迫力は自然の偉大な力を物語っています。静かにそびえる山々と絶え間なく立ちのぼる噴煙が織りなす光景は、生命を育む地球の鼓動を感じさせる、まさに大涌谷ならではの壮観そのもの。岩肌から立ち上る白煙は、まるで大地の息吹そのもの。硫黄の香りが漂う谷には、数千年にわたる火山活動が刻んだ壮大な歴史が息づいています。自然の偉大さを前にすると、人の存在がいかに小さなものかを実感させられるのであった。空中へ大きく張り出した展望デッキ・息吹のデッキの先に立つと、目の前には白煙が立ち昇る大涌谷の壮大な景観が広がるのであった。噴煙は風に乗ってゆっくりと谷を包み込み、火山が今なお息づいていることを実感させた。その雄大な自然を前に、人々は国籍を問わず皆歓声を上げ、シャッターを切りながら、箱根でしか味わえない感動のひとときを満喫していたのであった。「くろたまごモニュメント(北)」前で旅友3人を。 この日も、1個食べると7歳長生き出来ると言われている、「黒たまご」1袋・4個入を購入しました。 黒たまごの椅子に座って。Nさんから頂いた「黒たまご」を。 そして「大涌谷」を後にして、箱根町港へ箱。「箱根駅伝」のゴール地点で記念撮影。そして箱根海賊船のりば「箱根町港駅」を訪ねた。 「箱根海賊船のりば 箱根町港」。 駅舎内に入る。壁には「海賊船」の写真案内が。 一番左に「パイオニア号」 Pioneer 「パイオニア号」は、神奈川県の芦ノ湖で運航されている「箱根海賊船」の記念すべき初代の船.■初代海賊船「パイオニア号」の概要 ・就航期間:1964年(昭和39年)7月 〜 1991年(平成3年) ・デザインのモデル:1630年代のフランス戦艦「セント・フィリップス号」 ・特徴: ・日本初の本格的な海賊遊覧船。 ・日立造船(現:カナデビア)が製造。 ・赤を基調とした派手でゴージャスな外観。 ・約470トンの鋼船。 ・誕生の背景: ・当時、西武グループとの間で激しい観光開発競争(通称:箱根山戦争)が起きて いました。 ・小田急側が劣勢を覆すための切り札として投入し、子どもたちから圧倒的な人気を 集めました「ビクトリア号」 Victoria 1980年~2007年 (昭和55年~平成19年) モデル船:サブリン・オブ・ザ・シーズ号(イギリス)「ロワイヤル号」 Royal 1987年~2013年 (昭和62年~平成25年) モデル船:ソレイユ ロワイヤル号(フランス)。「バーサ号」 1991年~2019年(平成3年~平成31年)モデル船 パーサ号(スウェーデン) 「ビクトリー号」。 Victory 2007年~現在就航中 平成19年~ モデル船 ビクトリー号(イギリス) 「ロワイヤルⅡ」 RoyalⅡ 2013年~現在就航中 (平成25年) モデル船 ロワイヤル・ルイ・(フランス)。そして現在就航中の箱根海賊船「クイーン芦ノ湖」👈️リンク が入港。 船首に立つサモトラケのニケをモチーフとした女神像。そして「箱根遊船 大茶会」👈️リンク。そして芦ノ湖の先には純白の富士山の姿が!!??白雲が富士山の形に。天気が良ければ!!。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.30
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フランス式庭園の箱根強羅公園には中央に「噴水広場・噴水池」があった。周りにはベンチが並んでいるので、休憩で腰を下ろす人が多くいた。噴水や噴水の周りの草花を眺めながら、ベンチに座ってのんびりと過ごす時間は癒しのひととき。南側を見る。北側に建つ「Cafe Pic」を背景に。 サンドイッチ料理店「一色堂茶廊」。 白いアジサイが両側に咲く坂道を上って行った。左側。実はすべての紫陽花が色を変えるわけではありません。白い紫陽花は、もともと色の変化に関わるアントシアニンをほとんど含んでいないため、土壌の性質が変わっても白いままなのです。右側。こんもりとした毬のような花が美しい白いアジサイ、「アナベル」。ライムグリーンのつぼみから徐々に純白に移り変わる花の様子は清涼感を放ち、爽やかに初夏の訪れを知らせてくれます。一見、装飾花(花びらの部分)が主体の一般的な西洋アジサイと同じようにも見えますが、大きく異なるのは花を付けた様子と葉の雰囲気。細い茎をスッと縦に伸ばし、先端に付けた花は明るく華やかです。葉はいわゆるアジサイよりも薄く、ひらりと繊細な印象。「強羅遊園開拓之碑」。「強羅遊園開拓の碑強羅公園は、大正三年(一九一四)び開園された、日本ではただひとつのフランス式整型庭園です。強羅公園着工当時、この地には人家も無く、荒凉として石ばかりの風景でした。そのような場所が、別荘地・温泉他として開発されるに到った状況を、この碑文は書きとどめています。建碑者は宮ノ下温泉の旅館主、沢田鋓義で、彼はこの碑の他、箱根各地の各所や旧跡に碑を残してその顕彰につとめました。 箱根強羅公園 園長」「バラ園」はエピローグへと。 そして旅友・元同僚の2人と久しぶりの再会。箱根強羅公園の「シンボルツリー」が正面に。園内のフランス式庭園の中央に堂々とそびえ立つヒマラヤ杉。鮮やかな青のガクアジサイ。近づいて。こちらは、こんもりとした毬のような花ではない白いアジサイ。アジサイを「紫陽花」と書くのは、中国・唐時代の詩人である白居易(はくきょい)が、ある寺院で咲いていた美しい花に「紫陽花」という名前を付けたことが由来です。この漢名がのちに日本へ伝わり、定着したのだ と。漢字の由来と歴史・中国での命名: 白居易が花の名前を知らないまま「与君名作紫陽花(君を紫陽花と名付けよう)」と 詩に詠んだのが始まりとされています。なお、彼が名付けた花は本来のアジサイではなく、 ライラックなど別の花だったという説もあります。・日本での当て字: 日本ではもともと「アジサイ」を「集真藍(あづさあい)」と呼んでおり、これは 「藍色の小花が集まって咲く様子」を表していました。 平安時代に漢名である「紫陽花」が日本に伝わった際、この当て字として用いられるように なりました と。こちらは「カシワバアジサイ」それとも「ノリウツギ」? バラ「アンジェラ」は懐かしい名前なのだ。 「イワガラミ」?であっただろうか。装飾花は白色で、萼片が1個つく。 萼片は長さ1.5〜3.5cm、幅1〜2cmの卵形〜広卵形で、脈が目立つ。 両性花の花筒は長さ約1.5mmの倒円錐形で、短毛が密生する。花弁は白色で5個、先端はくっついたまま開かず、帽子を脱ぐように脱落する。そして戻って再び白いアジサイを反対方向から。「アナベルアメリカノリノキの園芸品種。花序は大きく、白色の装飾花だけからなります。」 再び噴水を見る。「一色堂茶廊」を再び。 「護見箱 Trash Box」「護美箱(ごみばこ)」とは、「ゴミを入れることで周囲の美しさを護る」という意味を込めて、寺院などで使われ始めた当て字です。日本の公的なゴミ箱の歴史は明治時代に始まりましたが、「護美」という言葉は、禅宗の教えや仏教的な美化の思想から生まれました。ゴミ箱の歴史と「護美箱」の経緯・明治時代(ゴミ箱の誕生) 1900年(明治33年)に「汚物掃除法」が制定されたのをきっかけに、 日本で初めて「塵芥箱(じんかいばこ)」と呼ばれる蓋つきの木箱が設置されました。 これが現在のゴミ箱のルーツとされています。・昭和時代(「護美」の広まり) 時代が進むにつれ、曹洞宗の「永平寺」や奈良の「東大寺」などの寺院において、不要な ものを捨てる箱を「美しさを護るための箱」=「護美箱」と呼ぶようになりました。 これは修行の一環である掃除や、万物を大切にする禅の思想を背景にしています。・現在(日常への浸透) 元々は寺院や特定の施設で用いられていた言葉ですが、近年ではその前向きな当て字の魅力が 広まり、環境美化の観点から一般家庭のインテリアや学校教育、環境保全の啓発活動などでも 広く使われるようになっています。 「とんぼ玉工作堂」。 「とんぼ玉とんぼ玉(とんぼだま)とは、中央に穴のあいた美しい柄入りのガラス玉の総称です。高温で溶かしたガラスに色ガラスで模様をつけ、トンボの複眼に見立てられたことから名付けられたとされています。現在では、かんざしやネックレスなどのアクセサリーとして親しまれています。」と。 入口。様々な商品案内が置かれていた。約30分の製作体験も出来ると。店内。カシワバアジサイ、花があまり長くない種類か?カシワバアジサイ「ハーモニー」か?「Hydrangea quercifolia 'Harmony'カシワバアジサイ「ハーモニー」カシワバアジサイの園芸品種。装飾花は白色の一重咲で、垂れ下がった大きな円錐花序に多数、密につきます。アジサイ科(旧 ユキノシタ科)」 カシワバアジサイ、花が細長い種類か?カシワバアジサイ「スノーフレーク」。東屋(あずまや・休憩所)。壁面に描かれたカラフルな絵は、箱根クラフトハウス20周年を記念して、小田原市の福祉事業所 アール・ド・ヴィーヴル のアーティストたちが制作したライブペインティング作品。2024年に開園110周年を迎えた箱根強羅公園の記念事業として、この東屋が鮮やかなアート作品へと生まれ変わりました と。そしてこの日の散策を全て終え、仙石原にある宿泊場所に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.29
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昨日・7月27日のわが家の前の畑に咲くヒマワリ・向日葵の花を我が部屋からズームして。この畑は、実家の畑ですが、維持管理に手が回らず、湘南台にお住まいのTさんが「趣味の菜園」として多種の野菜栽培に使ってくれています。我が部屋からズームして。 家の前の道路の出て撮影。日本に伝来した当初、向日葵はその極めて特異な姿から、さまざまな和名や漢名で呼ばれていました 。寛文6年(1666年)に刊行された、中村惕斎による日本初の図解百科事典『訓蒙図彙』には、「丈菊、俗に言う天蓋花、一名迎陽花」として紹介されています 。背丈が人の高さを優に超えることから菊に例えて「丈菊」と呼び、また仏教の厳かな法具に似ていることから「天蓋花」、太陽を迎える性質から「迎陽花」と名付けた先人たちの鋭い観察眼が光ります 。その後、元禄8年(1695年)に江戸の著名な園芸家である三代目伊藤伊兵衛が著した総合園芸書『花壇地錦抄』において「日廻」の名で紹介されると、元禄13年(1700年)頃には「ひまわり」という呼び名が広く定着していきました 。ここで見落としてはならないのは、漢字表記である「向日葵」がたどった深遠な歴史です 。現代の私たちはこの漢字を「ひまわり」と当然のように読みますが、実はヒマワリが日本に渡来するはるか昔、平安時代の室町写本に見られる『和歌童蒙抄』などにおいて、すでに「向日葵」という漢字表記が存在していました 。これは、唐代の詩人である白居易が文化7年(1810年)の作として詠んだ詩の中の一節「負気衝星剣、傾心向日葵」に端を発するものです 。この詩における「向日葵」は、天子や愛する者へ忠誠を尽くし、太陽に心を傾けるアオイ科の植物を指していました 。江戸時代の本草学者や歌人たちは、新しく渡来した「日廻り」が、まさに太陽を追って首を傾ける姿を目にしたとき、古典文学の中で長年培われてきた「絶対的な敬慕と忠誠」の象徴たる「向日葵」という美しき言葉を重ね合わせました 。こうして異国の新来植物は、日本の王朝文学が誇る高雅な精神の文脈へと幸福な合流を果たしたのです 。とネットから。ひまわり(向日葵)の別名には、主に日輪草(ニチリンソウ)や日車(ヒグルマ)など、太陽を連想させる名前があります。詳しい呼び方や外国語での名称は以下の通りです日本での主な別名・日輪草(ニチリンソウ):太陽のような丸い大きな花を輪に見立てた呼び方・日車(ヒグルマ) / 日車草(ヒグルマソウ):黄色い花びらを車輪に見立てた呼び方・日回り草(ヒマワリソウ) / 日廻り(ヒマワリ):太陽を追って花が回る性質に由来する呼び方・天竺葵(テンジクアオイ) / 日向葵(ヒュウガアオイ):アオイの仲間のような葉や姿から ついた呼び方・天蓋花(テンガイバナ):上を向いて大きく咲く姿を表した呼び方外国語・その他の呼び方・サンフラワー(Sunflower):英語での呼び方・ソレイユ(Soleil):フランス語で「太陽・太陽花」を意味する呼び方日本人がひまわりを好きな理由は、明るい見た目、強い生命力、そして夏らしさを感じるからです。明るい見た目と元気な印象・ビタミンカラー:鮮やかな黄色い花びらが、見る人に元気や明るい気持ちを与えてくれるため。・太陽のような姿:大きな花が太陽に向かってまっすぐ咲く姿が、爽やかで気持ち良いため。季節感と象徴・夏の風物詩:青い空と暑い夏にパッと咲く様子が、日本の夏のイメージにぴったりだから。・前向きな花言葉:「あなただけを見つめる」や「憧れ」といった、前向きで素敵なたとえが あるため。・親しみやすさ身近な存在:公園や花壇、ひまわり畑などで簡単に見ることができ、子供から 大人まで昔から親しまれているためひまわりが太陽を向くのは、成長する時期の茎の伸び方に偏りがあるからと、植物の体内時計が関わっているためです。一日中ずっと太陽を追いかけているのは若い時期だけで、花が咲く頃には東を向いて止まります。若いひまわりが動く仕組み・茎の伸びる速さの変化: 太陽の光が当たらない側の茎がより速く伸びることで、 花が太陽のほうへ曲がります。 その秘密は、茎の成長ホルモンの分布に原因がありました。 茎の成長ホルモンである オーキシンが、太陽光の当たらない側の茎に多く集まることで、その側の成長が促されます。 そして、ヒマワリは葉に効率よく太陽光を浴び栄養分をつくります。・体内時計: 昼と夜のリズムに合わせて動き、夜の間に西から東へ戻ることで 翌朝の太陽に備えます。太陽を追うヒマワリのメカニズムを、光を集めてエネルギーを作る太陽電池に応用すれば、沢山のエネルギーを最大限供給することができるかもしれません とも。花が咲いた後に東を向く理由・朝の温まりやすさ: 朝日を早く受けて花が温まり、受粉を手伝う虫が集まりやすくなります。・成長の終わり: 花が咲いて茎が固くなると、それ以上は動かなくなります。ヒマワリの花を西向きにすると、東向きにした場合に比べて訪れる昆虫が減少しました。ヒマワリの花は、東を向くことによって朝日を浴び、早朝から花の温度を上昇させることができます。花を訪れる昆虫は、気温が低い時には、暖かい花に好んで訪れる習性があることが報告されています。ヒマワリを訪れる昆虫も、夜間に下がった体温を上げるために早朝は、暖かい花を好んでいると考えられます。西向きにしたヒマワリをヒーターを用いて東向きのヒマワリと同様の温度に熱すると、訪れる昆虫の数が増加しました。このため、花が東向きであるのは、朝日でヒマワリの花を温め、多くの訪花昆虫を呼ぶということが理由の一つではないかと考えられています。ひまわりはなぜ黄色いのか?黄色のヒマワリは、黄色を示すルテインというカロテノイド色素を蓄積しています。一方で、茶色(赤色)のヒマワリは、ルテインに加えて赤紫色を示すアントシアニン色素(シアニジン配糖体)も蓄積します。ひまわりはなんの象徴か?太陽に向かうひまわりの姿は、何か大切なものに向かってまっすぐ進む姿勢や、尊敬する人物に対する強い思いを象徴しています。 また、「元気」や「明るさ」という花言葉も広く知られています。 ひまわりはその鮮やかな黄色や大きな花が目を引き、見る人に元気やポジティブな気持ちを与えます。ひまわりの花言葉一覧ひまわりには、複数の花言葉があります。・あなただけを見つめる・憧れ 花言葉の由来はさまざまな説がありますが、一説ではひまわりの印象的な特徴が由来に なったといわれています。 その特徴は、太陽を追うように咲く姿。 太陽をずっと見つめているように見えることから「あなただけを見つめる」という花言葉が 付いたといわれています。 そして太陽を見続けるひまわりは太陽にあこがれているのではないかと考えられ「憧れ」と いう花言葉が付けられたのだそう。・情熱 一説には、暑さに負けずに美しい花を咲かせている様子が由来していると。 また、「あなただけを見つめる」という花言葉の由来でも紹介した、 太陽の方向を向くように成長する様子が、情熱的だと考えられたから、ともいわれています。・光輝 太陽の光を浴びた黄色い花がキラキラと輝いて見えることから付けられました。ひまわりの本数ごとの意味ひまわりには、花言葉の他に贈る本数ごとに意味があるとされています。ひまわりだけで束ねたブーケや花束を渡す時は、本数の意味を意識してもいいかもしれません。・1本のひまわり:一目惚れ・3本のひまわり:愛の告白・4本のひまわり:あなたに一生の愛を捧げます・6本のひまわり:あなたに夢中です・7本のひまわり:密かな愛・9本のひまわり:いつまでも一緒にいてほしいプロポーズ・愛の告白には3本 と。9本のひまわり、私は誰に!!!?1本のひまわり、この言葉は私の辞書には既に・・・・??以下は、キャプション無しでお楽しみください。そして最後に、我がセイヨウミツバチの姿を。巧く撮れました。これにて「ひまわり・向日葵の花講座」を修了とさせていただきます。「ひまわり Les Tournesols /フィンセント・ファン・ゴッホ 1888年」(写真はネットから) ・・・END・・・
2026.07.28
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「箱根彫刻の森美術館」から10分弱で、旅友との待ち合わせ場所の「箱根強羅公園」に到着。 正門から入園する。旅友は噴水池の先の展望スポットで待ってくれていると。神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300。様々な色の紫陽花の花が、正門脇に。「強羅公園」と。 近づいて。「入口 ENTER」アジサイスポット開催中6/1~6/30 と。「強羅公園」配置案内図。「強羅公園」は、正門は標高約574m、西門は標高約611mという傾斜になっている。季節を通して様々な花が咲く園内には、様々な施設があるのだ。冬でも暖かい熱帯植物館や、歴史ある茶室、カフェ、工芸体験クラフトハウスなど、 1日中楽しむことができる園内 と。美しい色彩のアジサイ。最初に「熱帯植物園」に向かう。 「熱帯植物園」内に。濃いピンクのブーゲンビリア。「熱帯植物館」内の湿度を上げているのであろうか。「強羅公園(ごうらこうえん) 標高590M」。 ミッキーマウスノキ。近づいて。「ミッキーマウスノキみんなが大好きな「ミッキーマウス」にそっくりな木だよ!お花が実になると「ミッキーマウス」の顔みたいになるよ!小さい実だからよ〜く見て、いちばん「ソックリ」さんを見つけてね!チャンスは黒い実が3個ついているときだよ!」 近づいて。撮った写真を逆さにしてみました。ミッキーマウス。様々な色のブーゲンビリアを楽しむ。「ゼラニウム(センテッドゼラニウム/ニオイゼラニウム)」? この付近は「アジサイスポット」。 そして噴水をアジサイで彩る「あじさい花手水」。青、紫、ピンクや白など色とりどりのアジサイが噴水池の水面に浮かんで。そして屋外に。杉林のトンネルを進む。「白雲洞茶苑入口」。「「白雲洞茶苑」は、箱根強羅の巨岩怪石の間に、深山のおもむきを保存して、見るからに山家の風情の濃い茶室群です。 ここは大正時代のはじめ、利休以来の茶人と称された鈍翁・益田孝(三井コンツェルンの設立者で男爵)によってはじめられ、特に白雲洞は、翁の創案になる田舎家の席として貴重な茶室とされています。大正11年(1922)、この茶苑は三渓・原富太郎(横浜の富豪で美術品収集家として著名)に譲られ、この時三渓はあらたに対字斎を増築しました。 昭和15年(1940)、茶苑は再び原家より耳庵松永安左衛門(電力界の重鎮、松永コレクション創設者)に贈られ、こうして茶室は、明治・大正・昭和と3つの時代を代表する3人の茶人の間に伝えられてきたものです。」と。「鈍翁・三渓・耳庵の遺席登録有形文化財「白雲洞茶苑」ご案内ここに保存される三棟の茶席は大正時代のはじめ鈍翁・益田孝によって創始され、ついで三溪・原富太郎、耳庵・松永安左ヱ門と近代の三代茶人と称される人々に継承されてきたものです。益田鈍翁による開席当時、ここには不染庵、白雲洞の二席が営まれ、これに寄付と白鹿湯が附属していました。これらは一代の数寄屋師とうたわれた仰木魯堂の設計と言われています。大正11年原三溪に伝えられ、新たに対字斎一棟が増築されました。ついで昭和15年松永耳庵に受け継がれました。耳庵自筆の「白雲洞の主人となるの記」によって知られます。耳庵没後次第に荒廃していましたところ、当社に移譲されより全面的に補修の手を加え昭和57年5月に旧観に復しました。全苑の構成には山中の岩かげに建つ山家の趣が深く、岩上に根を占める巨桜の下に軒を低く佇むのは不染庵です。また囲炉裏に自在釣を掛け粗朶で瀗縁のある田舎家の席は白雲洞です。茶道界に鈍翁創案の田舎家の茶席はあまりにも著名ですが、現在その多くは失われここ白雲洞は唯一の遺構としてかけがえもなく珍重されています。益田鈍翁、原三溪、松永耳庵という偉大な茶人であり、明治・大正・昭和の日本経済に大きな役割を果たした稀代の経済人たちが遺した「白雲洞茶苑」は近代数寄の茶道の風雅を偲ぶ茶室群です。 箱根登山鉄道」。秋になると、紅葉は美しい「白雲洞茶苑」を望む。茶苑は比較的高いところに建てられ、白雲洞、不染庵、対字斋、白鹿湯から四つの席から構成されていると。そして巨岩の間に点在していた。2023年の秋に訪れた時の写真を。これぞ日本の秋!!石段の両脇も「アジサイスポット」。「あじさいスポット」では、青、紫、ピンク、白など色とりどりのアジサイが咲き誇り、初夏ならではの華やかな風景を楽しめます。木漏れ日ややわらかな光を受けた花々は、一輪一輪が異なる表情を見せ、園内を優しく彩ていた。雨の日はもちろん、晴れた日にも瑞々しい美しさが際立ち、散策しながら季節の移ろいを感じられる、強羅公園を代表する人気の撮影スポットなのであった。 色とりどりのアジサイが咲き競い、園内はまるで花のパレットのよう。青、紫、ピンク、白の花々が梅雨の季節を鮮やかに彩り、歩くたびに異なる表情を見せてくれた。初夏の陽光を浴びたアジサイは、一つひとつが宝石のように輝き、園内を華やかに彩る。色彩豊かな花々が織りなす風景は、まるで絵画の中を歩いているかのような美しさ。石段の両脇に咲き誇る色とりどりのアジサイが、訪れる人を優雅な花の回廊へと誘う。丸く愛らしい花房が重なり合い、初夏ならではの華麗な彩りを楽しませてくれるのであった。濃いピンクから淡い桜色、紫、青へと移り変わる色彩のグラデーションが見事。大小さまざまな花房が織りなす華やかな競演は、箱根強羅公園ならではの美しい季節の風景となっていた。深い瑠璃色から紫へと溶け合う花びらに、淡い黄緑色の縁取りが優しく輝き、まるで宝石を散りばめたような美しさ。光を受けた花々は神秘的な輝きを放ち、静かな庭園に気品ある彩りを添えているのであった。淡い藤色から澄み切った青紫へと移りゆく花びらが、初夏の光をやさしく受けて気品ある輝きを放っていまた。幾重にも重なる花びらは、まるで絹を重ねたように繊細で、ひとつひとつの花房が優雅な存在感を漂わせていたのであった。淡いピンクから乳白色へと移ろう繊細な色合いは、まるで春の名残を映した水彩画のよう。八重咲きならではの立体感が美しく、一輪一輪が優雅なドレスをまとった妖精のように咲き誇っていた。丸く咲く青や白の花房、星を散りばめたような可憐なピンクのガクアジサイ。それぞれ異なる表情を持つアジサイが一つの鉢に集い、まるで色彩豊かな花束のような美しさを見せていたのであった。初夏の陽光がその彩りを一層鮮やかに映し出して。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.28
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そして『ミュージアムショップ・MuseumShop』を訪ねた。ステンドグラスタワー「幸せをよぶシンフォニー彫刻」のジグソーパズルも。お菓子やGUIDEBOOKも。これも販売品のようであった。『徳持耕一郎KOICHIRO TOKUMOCHI鉄筋彫刻Iron SculptureLine Drawing in The Air』建築現場で使われる「鉄筋」を溶接し、わずか数ミリの線だけで楽器を演奏するジャズメンや動物などを立体的に表現するアーティスト。『後ろ向きのソプラノ』。『アルトマンG2』。『フルーティング Fluting』ミニ彫刻作品。そして「スーベニールショップ・Souvenir Shop」へ。 ミニ絵画。エレベーターホールにあった『田窪恭治「オベリスク」1985』。この作品は、美術館の中ではなくて、入口・出口付近に展示されていた。『フェルナン・レジェ(フランス) Fernand Léger (French) 花束をもつ女 Woman with Bouquet』。「フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)1881–1955花束をもつ女Woman with Bouquet1952モザイクmosaic太い輪郭線と単純な形態、明快な色彩を特色とする、石によるモザイクです。正面性が強調されています。This stone mosaic is characterized by thick outlines, a simple form and clear coloring, emphasizing its frontality.」 そして天候の回復した入口を再び見る。彫刻の森美術館の入り口、八角堂のレリーフは『建畠大夢(たてはた たいむ) 働く人々』近づいて。そして、入口を振り返りながら、駐車場に向かい、旅友との集合場所の『箱根強羅公園』に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.27
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『流 政之 Masayuki Nagare(Japanese) 風の刻印 Wind's Impression』。白花崗岩 393×310×137 cm。「流 政之Masayuki Nagare(Japanese)1923–2018風の刻印Wind's Impression1979花崗岩granite作者は、原石をたたき割ったそのままのような表面を「ワレハダ(割れ肌)」と呼び、簡潔な形の彫刻を制作しました。The artist refers the texture obtained by splitting rough stone as'warehada' (cracked surface), and utilizes it to create sculptures with simple forms.」 『イガエル・トゥマルキン(イスラエル)Igael Tumarkin (Israeli) 私の7本の知恵の柱 箱根へのオマージュ My Seven Pillars of Wisdom as a Homage to the Mountains of Japan』。「イガエル・トゥマルキン(イスラエル)Igael Tumarkin (Israeli)1933–2021私の7本の知恵の柱 箱根へのオマージュMy Seven Pillars of Wisdom as a Homage to the Mountains of Japan1992鋼鉄forged steel題名は、旧約聖書「箴言」第9章第1節「知恵は家を建て、その七本の柱を刻んで立てた」に由来し、天と地を結ぶことを表しています。The title references the "Seven Pillars of Wisdom" mentioned in Proverbs, Chapter 9, Verse 1 of the Old Testament, and the work expresses the linking of Heaven and Earth.」 『伊藤 隆道Takamichi Ito(Japanese)1939–16本の回転する曲がった棒Sixteen Turning Sticks』「伊藤 隆道Takamichi Ito(Japanese)1939–16本の回転する曲がった棒Sixteen Turning Sticks196ステンレス・スチール、鉄、モーター、塗料stainless steel, iron, motor, paint整列した集団が美しい、光と動きをテーマにした作品です。動くものを見る時、人は立ち止まる習性を利用しています。Based on the theme of light and movement, this carefully aligned group of poles is quite beautiful. The work exploits people's tendency to stop and look whenthey see something moving.」 『1.マッチンスキー=デニングホフ(ドイツ) Matschinsky-Denninghoff (German) 2.マルティン・マッチンスキー Martin Matschinsky 3.ブリジット・マイヤー=デニングホフ Brigitte Meier-Denninghoff シュトルム(暴風) Sturm (Storm)』ズームして。巨大なステンレス製の彫刻作品『シュトルム』。「シュトルム」は暴風、騒動、突撃などを意味するドイツ語。デニングホフはムーアらに師事し舞台美術も手がけた女性彫刻家。マッチンスキーは舞台俳優でしたがデニングホフと出会って彫刻家に転身した と。「マッチンスキー=デニングホフ(ドイツ)Matschinsky-Denninghoff (German)マルティン・マッチンスキーMartin Matschinsky1921–2020ブリジット・マイヤー=デニングホフBrigitte Meier-Denninghoff1923–2011シュトルム(暴風Sturm (Storm)1980ステンレス・スティールstainless steelシュトルムはドイツ語で嵐の意味。大きくうねる幹は、自然のもつ力強さを表わしています。夫婦による共同制作です。The German word, “Sturm” means “storm.” The powerfully bent trunk expressesthe power of nature in this work produced jointly by the husband and wife team.」 『箱根彫刻の森美術館』の屋外作品展示を全て?巡り、入口付近まで戻り再び『岡本太郎 樹人』を。青空を背景に。『井上武吉 My sky hole 84』。『カール・ミレス 人とペガサス』。『ポケっと』。2021年4月、彫刻の森美術館に体験型作品を中心に休憩できるエリア「ポケっと。」がオープン。美術館入ってすぐに目に飛び込んでくる大きなブールデル作品の壁面裏側に、地形の高低差でできた秘密基地のような空間が広がる。そこにはからだを使ったり写真を撮ったり、風が奏でる音に耳をすませ、こどもからオトナまでが体感しながら楽しめる色彩に溢れた作品を展示。さらに、このエリアの特徴でもある芝生面にも色どり豊かなソファを設置し、来館者にくつろぎの時間を提供する。頭上に広がる青空や箱根の眺望を、アートに包まれたポケットでぽけ~っとお過ごしください と。円形広場の右奥に設置されたブロンズの人物群像で。古代ギリシャ・ローマを思わせる装いの男女が、それぞれ異なる方向へ視線を向けながら円形に配置され、静かな緊張感と物語性を生み出していた。周囲を包む箱根の豊かな緑が彫刻の重厚な質感を引き立て、自然と芸術が調和した彫刻の森美術館ならではの風景を楽しむことができたのであった。近づいて。左から『エミール-アントワーヌ・ブールデル(フランス) 自由ー大』『同 雄弁ー大』『同 力ー大』『同 勝利ー大』この作品は『???』実は、観光客の女性の傘が風に飛ばされ、入口上部の木に引掛ってしまったのです。この傘の結末は?現在でも人気の『常設展示作品』か?「屋外展示場」を後にして「出口」の地下道を進む。 エスカレーターを上がる。そして『マルチホール常設展示』を訪ねた。「彫刻の森美術館のコレクションの中から、不思議な雰囲気を持った作品3点を紹介します。それらは巨人像と大きな樹、そして形容が難しいオブジェです。この不思議な森へ入り込んだかのような空間で、少しの間、足を止めて作品に向き合うと、作品の新しい見え方や感じ方、さらには思いもよらない発見があるかもしれません。This section introduces three works from the collection of the Hakone Open-Air Museumthat all possess a strange feeling. These are: a figure of a giant man, a huge tree, and a series of three objects that are difficult to describe.Together they create a mysterious forest. You may feel as if you have entereda mysterious forest, but if you stop and confront the works, they may find new ways of looking at them and make unexpected discoveries.」 『マッタ(ロベルト・セバスチャン・マッタ・エチャウレン)(チリ/フランス) エラメン(われら熱愛ス)』近づいて。「エラメン(われら熱愛ス)1985–86ブロンズマッタ(ロベルト・セバスチャン・マッタ・エチャウレン)(チリ/フランス)1911–2002人の意識の成長を、大地から育つ1本の樹にたとえています。それは、多くの芸術家との交流によって成長した作者自身の姿ともいえます。溢れるように広がる枝葉は複数のパーツを重ねて表現され、樹の割れ目からは蛙を飲み込もうと狙う蛇が垂れ下がり、その蛇は別の蛙の口から出てきています。[1995年に世界文化賞を受賞]Matta(Roberto Sebastian Matta Echaurren)(Chilean / French)1911–2002Eramen (Our Passionate Love)1985–86bronzeThis work likens the development of human consciousness to a single tree growingin the ground. It can also be said to represent the artist himself, illustrating the way in which he developed through his interactions with numerous other artists.The spread of the branches and leaves has been expressed through the combination of numerous different parts, while the snake, that can be seen hanging down from a crack in the trunk, about to devour a frog, is itself emerging from the mouth of another frog.Received the Praemium Imperiale Award in 1995.」 部屋の壁にはステンドグラスが。左。右。『トニー・クラッグ(イギリス) アトモス』「アトモス1991鋼鉄トニー・クラッグ(イギリス1949–壺を伏せたような形に管がついていて、実験器具や蒸留器のようにも見えます。作品名は「大気」を意味する英語 atmosphere を、形は大気を浄化する装置を思わせます。製作者は、自然界にも機能本位の世界にも存在しないオブジェを作り出そうとしています。[2007年に世界文化賞を受賞]Tony Cragg (British)1949–Atmos1991ironThese jar-like objects, with tubes emerging from their surfaces, resemble some kind oflaboratory or distillery equipment. The title of the work, Atmos, is an abbreviation ofthe word atmosphere, and these vessels represent devices for purifying the atmosphere. Through his work, the artist aims to create objects that do not exist in either natureor a world that focuses on function.Received the Praemium Imperiale Award in 2007.」 『ジョナサン・ボロフスキー(アメリカ) 心臓をもった男』。高さ3m75cm。緑色の身体の無表情な男の像です。胸の鮮やかな赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえてきます。 この音は、作者ボロフスキーの心拍音で、生命のエネルギーを表わしています。 ボロフスキーは、夢やおとぎ話から得たイメージを展開させて、独特の世界を作りあげている作家です。この作品では、〈巨人〉や〈赤いルビー〉といったボロフスキーの夢に登場するモティーフが組み合わされています。「心臓をもった男1995ガラス繊維、塗料、電灯、コンピュータージョナサン・ボロフスキー(アメリカ)1942–胸の赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえてきます。この音は作者の心拍音で、生命のエネルギーを表しています。この作品では、作家の夢に登場するモティーフが組み合わされています。作家の夢日記には、「赤いルビーをみつける夢をみた 2457977」と記されています。その「赤いルビー」は、緑の巨人に命を与えました。Jonathan Borofsky (American)1942–Man with a Heart1995fiberglass, paint, light, computerA red light flashes in the figure's chest in time with a regular, rhythmic beat. This is the sound of the artist's own heartbeat and represents the energy of life. The work consists of a combination of a variety of motifs that the artist sawin dreams. Dream number 2457977 in the artist's dream diary describes howhe discovered a red ruby, and it is this red ruby that imbues the giant green manwith life.」 胸の赤いランプが点滅し、規則的な音が聞こえて来たのであった。「ショッピングモール」に向かってエスカレーターにて上がる。 エスカレーター横にも作品が並ぶ。詳細は不明。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.26
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様々な植物が。花期になると一斉に開花。『Antony Gormley (British) 密着 III Close III』。「Antony Gormley (British)1950–密着 IIIClose III1993鉄iron作家の体を鉄で型取りしました。地球の自転と公転がもたらす遠心力や重力のため、地面に張りついています。[2013年に世界文化賞を受賞]The artist recreated his body in iron. The rotation and orbital revolution of the Earth produces centrifugal force and gravity, binding it to the ground.Received the Praemium Imperiale Award in 2013.」 廻り込んで。アントニー・ゴームリーは、自分自身の身体を型取った彫刻を数多く制作することで知られる現代彫刻家。この『密着 III』は、鉄で鋳造した自身の身体が大地に吸い付くように横たわり、人間と地球との深いつながりを表現しているのだと。移動して。一見すると静かな人体像ですが、その背景には「人間は地球の重力や宇宙の運動の中で生かされている存在である」という壮大なテーマが込められて。鑑賞者は作品を通して、自らの身体と大地、そして宇宙との関係に思いを巡らせることができるのだ と。『カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ)Carl Milles (Swedish / American) 神の手 The Hand of God』.「カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ)Carl Milles (Swedish / American)1875–1955神の手The Hand of God1954ブロンズbronze《宇宙》とも名づけられ、宗教と天文学を基底に、真理の探究を渇望する人間を表現しています。Also entitled The Universe, this work is based on religion and astronomy, depictinga person with a yearning to explore the truth.ネットから。『バリー・フラナガン(イギリス) Barry Flanagan (British)ボクシングをする二匹のうさぎ The Boxing Ones』。「バリー・フラナガン(イギリス)Barry Flanagan (British)1941–2009ボクシングをする二匹のうさぎThe Boxing Ones1985ブロンズbronze神話の中にトリックスターとして現れる、自由で生命力にあふれる野うさぎが、キリスト教の十字架の上で戯れています。In mythology the hare is depicted as being a trickster. In this work, the hares appear unrestrained and full of vitality as they play together on top of a Christian cross.」 近づいて。『セザール(セザール・バルダッチーニ)(フランス)César (César Baldaccini) (French)ヴィルタヌーズの勝利 Victory of Villetaneuse』石の女性像は、人類最初の人物彫刻ですが単純な形の中に種族の反映のもととなる母体としても女性の肉体的な特徴を強調した芸術性は今世紀の芸術家にも影響を与えています。「セザール(セザール・バルダッチーニ)(フランス)César (César Baldaccini) (French)1921–1998ヴィルタヌーズの勝利Victory of Villetaneuse1965ブロンズbronzeネジやボルトなどの屑鉄を組み合わせた人体像です。「ヴィルタヌーズ」とは作家のスタジオがある地名です。[1996年に世界文化賞を受賞]A human figure created from nuts, bolts and other scrap iron.Villetaneuse is the name of the area where César had his studio.Received the Praemium Imperiale Award in 1996.」 そして大きなウッドデッキ上には・・。目玉焼きのベンチが。移動して。『Sunny Side Upクライン ダイサム アーキテクツ2006 Klein Dytham architecture 2006』。移動して。ウッドデッキ上には連絡橋が。『ケネス・アーミテージ(イギリス) Kenneth Armitage (British)両腕 Both Arms』『ケネス・アーミテージ(イギリスKenneth Armitage (British)1916–2002両腕Both Arms1969–70ブロンズbronze作者独特のユーモアをもって、人体の一部分が実際より大きく拡大され、生命力に満ちたたくましい作品です。The artist expresses his unique humor by enlarging parts of the human anatomy to create powerful works, brimming with vitality.作者は人体の一部を誇張して大きく表現する独特のユーモアによって、生命力あふれる力強い作品を生み出しています。』『ウジェーヌ・ドデーニュ(フランス)Eugène Dodeigne (French)オーロラ Aurore』。「ウジェーヌ・ドデーニュ(フランス)Eugène Dodeigne (French)1923–2015オーロラAurore1981石(ソワニー石)stone (Soignies stone)石の塊に切り込みを入れ、中に閉じ込められた生命を解放するかのように、荒々しい形を作り出しています。In this rough-hewn sculpture, the artist has cut deeply into the lump of stone as if to release the life-force trapped within.」 『三木 富雄 Tomio Miki (Japanese)耳1、2、3 Ear 1, 2, 3』。「三木 富雄Tomio Miki (Japanese)1937–1978耳1、2、3Ear 1, 2, 31970–75アルミニウムaluminum「私が耳を選んだのではない。耳に選ばれたのだ」と語る作家は、強迫的な観念に突き動かされるように左耳を繰り返し制作しました。"I did not choose the ear, the ear chose me," so said the artist. Driven by a kind of obsession, he repeatedly created left ears.」 ズームして。3つ並んだ《耳》。その断ち切られた耳からは、「聞く」というコミュニケーションを断たれた孤独感がうかがえます。 三木が初めて耳を発表したのは、1963年に開催された最後の読売アンデパンダン展で、アルミニウムに鋳造された耳5点からなる作品でした。その後も、ほとんど左耳ばかりを制作しています。三木は「なぜ耳ばかり作るのか」という問いに、「私が耳を選んだのではない、耳が私を選んだのだ」と答えています。 三木の《耳》は、実物大のものから3メートルにおよぶものまであります。『ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian) 偉大なる物語 A Grand Story』。真っ白な大理石の塊から、様々な人間の姿が浮かび上がっています。作者のジュリアーノ・ヴァンジによれば、この作品は、人間の存在とその意味、とりわけ、男の人生を表わしています。目の前で、膝をかかえているのは、洞窟にかがむ古代の男。男の背後には、記憶のなかの女性の顔が、風のようなシルエットを見せています。向かって左へと進み、作品の周りを時計まわりに見て見ましょう。若いオリーヴの木が、青々とした葉を茂らせています。その横には、人生の入り口が開いていますが、先に行くにつれ、だんだん狭くなっているのがわかります。これは、人生の苦労を表わしています。飛び石をつたって、左側にまわる。樫の古木が大きく枝を伸ばし、愛し合うカップルの顔を豊かな葉でやさしく撫でています。人間と自然が共に生きることの大切さを表わしているのでしょう。その先には、顔をあげる男の姿があります。苦難にあっても、現代の男は、希望をもって前進してゆくのです。イタリアの巨匠―ヴァンジは、苦しみに満ちた閉塞した社会の中でも、なお存在してゆく人間の威厳やその孤独を表現してきた作家です。作品に登場するのは、みな平凡な人間ですが、不安、苦悩、心配、おごり、悪徳とともにありながら、なお存在する人間の威厳、それゆえの美しさを訴えかけてきます。「ジュリアーノ・ヴァンジ(イタリア)Giuliano Vangi (Italian)1931–2024偉大なる物語A Grand Story2004大理石(カラーラ産)marble (Carrara)人生の物語が時の流れと共に、時計回りに刻まれています。様々な葛藤を抱えながらも生きる人間の姿を表わしています。[2002年に世界文化賞を受賞]The story of humankind has been carved into a block of stone chronologicallyin a clockwise direction. It expresses the way that people persevere despitevarious hardships.Received the Praemium Imperiale Award in 2002.」 『森のアトリエ』に向かって進んだ。そして引き返して作品を追う。『柳原義達 道東の四季・秋』見上げて。『船越保武 道東の四季・春 』。『木内 克 エーゲ海に捧ぐ』。『水井 康雄 五合目標』『高村光太郎 みちのく』。『峯 孝 プリマヴェラ 』。『ジョージ・リッキー 2本の垂直線、箱根』。『有田暁子 足跡』この足跡は何だろう。有田は、制作時に次の言葉を残している。「この足跡のパターンは、かつてこの空間で展開されたある人々の行動の過程を表わしたものである。私たちにとって本来その全てが無であった筈の人々の行動が、それをもたらした認識・思考・意志の過程が、時の流れを越えて今なお空間を支配し、私たちに強力に働きかけてくる」。誰のどんな生の痕跡なのかは、わからない。けれど、知らず知らずの内に人々はこの足跡を辿り、振り返ってみる。見る人にそんな働きかけをする作品である。『後藤 良二 Ryoji Goto (Japanese) 交叉する空間構造 Intersecting Space Construction』「後藤 良二Ryoji Goto (Japanese)1951–交叉する空間構造Intersecting Space Construction1978素材FRP(繊維強化プラスチック)、鉄、塗料FRP, iron, paint金網の格子にヒントを得た、人間の連帯を謳歌し群舞しているようなエネルギーに満ちた作品です。Taking a hint from a wire mesh, the artist created this work depicting people dancing together in praise of their connections and it overflows with energy.」 黒い男性像と赤い女性像が、それぞれ72体、手と足をつなぎあい連なっています。両手を左右に大きく広げる姿は、踊っているようにも見えます。作者の後藤良二は、具象と抽象、有機的な形態と幾何学的な形態などの対照的な表現形式をひとつにする方法を探していたといいます。そうしたなか、ある日何気なく見た金網の格子に、人のつながりがオーバーラップして見えたことが、この作品が生まれるきっかけとなりました。人間の姿を幾何学的に組み合わせることで、個々の人間の情念や感情を消し去ったこの作品は、人間の連帯が生み出す若々しいエネルギーを謳いあげています。近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.25
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『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British)原子の形 Atom Piece (Working Model for Nuclear Energy) 』手前右:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像・カット Two Piece Reclining Figure: Cut左奥:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』手前に『 ヘンリー・ムーア ふたつに分けられた横たわる像:ポイント Two Piece Reclining Figure: Points』。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure:cut』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ふたつに分けられた横たわる像:ポインツTwo Piece Reclining Figure: Points1969–70ブロンズbronze見る角度によってひとつの形が他方を隠し、変化に富んだ多様な形が次々と現れてきます。Depending on the angle from which it is viewed, one form becomes hidden behind the other, a rich variety of forms appearing in succession as the viewer moves.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British) 横たわる像 Reclining Figure』。ズームして。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986横たわる像Reclining Figure1969–70ブロンズbronzeムーアは、横たわる人体のポーズについて「最も自由で、かつ安定している」と語っています。Speaking of reclining figures Moore said that they are "free and stable at the same time."」 『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ふたつに分けられた横たわる像・ポイント Two Piece Reclining Figure: Point』。ステンドグラスの塔(幸せをよぶシンフォニー彫刻)中央には金色の球体と周囲の青い装飾が。作品の一部としてデザインされたもので、・金色の球体:太陽や生命の源を象徴・周囲の青い輪:光の広がりや宇宙・生命のエネルギーをイメージした装飾下から見上げると、ステンドグラスを通した光と一体となって「生命・光・希望」を表現するように構成されていた。『伊本 淳 輝く太陽』を再び。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)ファミリー・グループ Family Group』。ズームして。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ファミリー・グループFamily Group1948–49ブロンズbronze男性像を制作したことがほとんどなかったムーア。作品の構想中に娘が生まれ、母と子に父親が加わりました。Moore produced very few male sculptures; however, while planning this workhis daughter was born and he added a father figure to those of the mother and child.」 奥:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure: Cut』。手前:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986大きな糸つむぎの形Large Spindle Piece1968–74ブロンズbronze高さ16センチのひな型(マケット)を最初に作り、次に86センチの原型、最終的には333センチの作品となりました。Moore first made a 16 cm high maquette, then an 86 cm working model, beforefinally producing a 333 cm work.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像:カット Two Piece Reclining Figure: Cut』。『ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British) ふたつに分けられた横たわる像 No.1 Two Piece Reclining Figure No.1』。移動して。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986ふたつに分けられた横たわる像 No.1Two Piece Reclining Figure No.11959ブロンズbronze人体の形をふたつに分けることで、見る人の意識が人物像から離れ、より風景に溶け込むことを意図しています。By splitting the work into two, the intention is that the viewer's consciousness will bedistracted from the human form, allowing it to meld with the scenery.」 『ミクロネシア連邦ヤップ島の石貨』。「ミクロネシア連邦ヤップ島の石貨手のひらに乗るものから3mを超すものまであり、大きな石貨は動かさずに所有者の名義だけを変更します。材料のパラオブ石(石灰岩)は、約450km離れたパラオ共和国よりカヌーで運ばれ、貨幣の価値は搬送における困難さや歴史の古さに基づいています。この石貨は高松宮家の庭園に長年設置され、「幸福の石」として親しまれていました。高松宮妃殿下が2004年に亡くなられた後、賜ったものです。Rai Stone from Yap Island in the Federated States of MicronesiaOnce a form of money, Yap stones came in a variety of sizes, from those that fit in the palm of the hand to those over 3 meters tall. Due to their size, large stoneswere not moved; instead ownership was recorded. Carved from a crystalline limestone not found locally, they were transported by canoe from Palau, their monetary value deriving from their historical age and the difficulty of transport.This Rai Stone was displayed in the garden of Prince Takamatsu where it was knownas the "Stone of Happiness." It was donated to the museum after the princess passed away in 2004.」 再び手前:『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British) 大きな糸つむぎの形 Large Spindle Piece』奥: 『ヘンリー・ムーア(イギリス)ふたつに分けられた横たわる像:カット』奥」再び「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986大きな糸つむぎの形Large Spindle Piece1968–74ブロンズbronze高さ16センチのひな型(マケット)を最初に作り、次に86センチの原型、最終的には333センチになりました。Moore first made a 16 cm high maquette, then an 86 cm working model,before finally producing a 333 cm work.」 『ヘンリー・ムーア(イギリス) Henry Moore (British)母と子:台座 Mother and Child: Block Seat』。「ヘンリー・ムーア(イギリス)Henry Moore (British)1898–1986母と子:台座Mother and Child: Block Seat1983–84ブロンズbronze小さな生命を愛おしむ母親の姿を抽象的に表現しています。〈母と子〉はムーアにとって重要な主題のひとつです。An abstract expression of the love of a mother for her child. The “Mother and Child” motif was an important theme in Moore's work.」 『ふたつの形 1968 バーバラ・ヘップワース 』 イギリス 1903-1975ヘップワースは、『ふたつの形』について「ひとつの生物が他の生物のそばにいる時の、両者の優しい関係を表わしている」と語る。抽象的な形の構成であるが、この作品には寄り添うように立つふたりの人間のような風情がある。柔らかな曲線で縁取られたふたつの形の間には、程よい緊張感と優しい空気が流れている。上部に穿たれた穴は後ろまで突き抜けて、風景の中に溶け込む。穴は彩色され、窪みそれ自体よりももっと奥深い海や空を想像させる と。『猪熊 弦一郎 Genichiro Inokuma (Japanese) 音の世界 The World of the Sounds』。「猪熊 弦一郎Genichiro Inokuma (Japanese)1902–1993音の世界The World of the Sounds1979モザイク(ガラスタイル)glass tile鳥や動物などを題材に、それらが浮遊する澄んだ色彩と明快なリズムをもった抽象絵画を制作しました。Initially using birds and animals for his subjects, the artist later employed clear, floating colors to create abstract paintings and murals with well-defined rhythms.」 近づいて。『ニキ・ド・サン・ファール(フランス)Niki de Saint Phalle (French) ミス・ブラック・パワー Miss Black Power』。ズームして。「ニキ・ド・サン・ファール(フランス)Niki de Saint Phalle (French)1930–2002ミス・ブラック・パワーMiss Black Power1968ポリエステル樹脂、塗料polyester resin, paint妊娠した友人の、日ごとに大きくなっていくお腹に発想を得ました。生命の源として、全ての女性を讃えています。(2000年に世界文化賞を受賞)The artist got the idea for this work after seeing a pregnant friend whose stomachgrew bigger every day. It exalts women's role as the source of life.Received the Praemium Imperiale Award in 2000.」 」『アントワーヌ・ポンセ(フランス) Antoine Poncet (French) 伸びていくフーガ Fugue Fusante』。ズームして。「アントワーヌ・ポンセ(フランス)Antoine Poncet (French)1928–2022伸びていくフーガFugue Fusante1982–83白大理石(カラーラ産)white marble (Carrara)フーガ(遁走曲)のように、反復する旋律が軽やかに立ち上っていくような、詩情をもつ作品です。Possessing poetic sentiment, the repeating melody rises, fugue-like, towards the sky」 田窪恭治「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 箱根ヴァージョン」2012 フランスはノルマンディー地方のサン・マルタン・ド・ミューと言う小さな村の廃墟となった16世紀のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂を、田窪が一家でフランスに移住し、作品として再生した。箱根ヴァージョンは、実物の礼拝堂と同じ大きさや同じ素材の床面を使ってイメージを再現したものである と。「田窪 恭治(日本)Kyoji Takubo (Japan)1949年~サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 箱根ヴァージョンLa Chapelle de Saint Vigor de Mieux, version Hakone2012年耐候性鋼(コルテン)、鋳物(CORQ)、花崗岩anti-weathering steel (COR-TEN), casting (CORQ), granite協力:新日鐵住金株式会社、株式会社サカコーCourtesy of Nippon Steel & Sumitomo Metal Corporation, Sakako Corporationフランス・ノルマンディー地方のサン・マルタン・ド・ミューという小さな村で廃墟となっていた16世紀のサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂を、田窪が一家でフランスに移住し、1989~1999年にかけて作品として再生した(通称「林檎の礼拝堂」)。再生プロジェクトの資金は企業と個人の寄付によって調達され、フジサンケイグループも全面的に支援した。現地は林檎の産地であることから、礼拝堂の内壁には林檎の絵が描かれ、色ガラスの屋根からは光が色の帯となって降り注いでいる。この箱根ヴァージョンは、実物の礼拝堂と同じ大きさで、同じ素材の床面を使ってイメージを再現した「姉妹版」といえる。La Chapelle de Saint Vigor de Mieux in the small Normandy village of Saint Martin deMieux was a ruined 16th century chapel before Takubo moved to France with his familyand set about transforming the building into a work of art, now known affectionately as La Chapelle des Pommiers, meaning the Chapel of Apple Trees.Takubo began the project in 1989 and completed it in 1999. Funding for the reconstruction work was supplied through corporate and individual donations, including significant support from the Fujisankei Communications Group.Normandy is known for producing apples and that is why the chapel, which is bathed in light shining through colored glass roof tiles, has pictures of the fruit paintedon its walls.This work could be called a "sister version" of the chapel in Normandy. It represents an image of the chapel of the same size and uses the same floor materials as the actual chapel.」 写真キャプションサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂 外観/内部La Chapelle de Saint Vigor de Mieux – Exterior / Interior。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.24
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次に訪ねたのが「The Hakone Open-Air Museum Café」前にあった『ロバート・マンゴールド(アメリカ)Robert Mangold (American) 風の歌 V Windsong V』。「ロバート・マンゴールド(アメリカ)Robert Mangold (American)1930–風の歌 VWindsong V1989ステンレス・スティール、塗料stainless steel, paint六色に塗り分けられた48枚の翼が、風を受けて回転しながら球体を形成します。多様な自然を表現しています。The forty-eight vanes have been painted in six colors and when these rotatewith the wind, they create a spherical form. This work expresses the diversity of nature.」 そしてこちらは『森の足湯』。「森の足湯」では、箱根の森の美しい景色を一望でき、鳥のさえずりや沢の流れ、風の音を感じながらゆったりとおくつろぎいただけます。敷地内の源泉を利用した「足湯」に加え、手軽に温泉を楽しめる「手湯(てゆ)」や、車椅子の方にも配慮した席を新たにご用意しています。さらに、勾配のあるランドスケープを見直し、段差を解消することで、隣接するカフェや多目的に利用できる休憩スペース「丸太広場キトキ」とともに、誰もが一層くつろげるエリアとして生まれ変わりました。また、国内外から厳選した15種類の石をダイナミックに使用し、色や模様、表情の異なる石の質感を体感できます。彫刻の代表的な素材のひとつである石の迫力や魅力を身近に感じられるデザインとなっています。■⾜湯概要リニューアルオープン:2024年7月27日(土)源泉名 :⼆ノ平温泉泉質 :ナトリウムー塩化物温泉(無⾊透明無臭)⾜湯全⻑ :約28m利⽤⼈数 : 39名設計 :トラフ建築設計事務所 | 園⽥慎⼆建築設計事務所『森の足湯』案内ボード。温泉の成分について公式サイトより■源泉名 二の平温泉 台帳番号 宮城野 第28号■泉質 ナトリューム塩化物・炭酸水素塩・硫酸塩温 低張性 アルカリ性 高温泉■泉温 源泉 64.2℃ (地下の状態により64℃から75℃程度まで変化します)■成分 pH 8.5 無色透明、無味、無臭■飲用不可 県条例により飲用は禁止されています。「森の足湯Foot-Bath MORI NO ASHIYU森の足湯は、敷地内から湧き出る源泉を使用した、箱根の自然を感じながらくつろげる足湯スペースです。彫刻を素材のような原石を並べ、彫刻と箱根の山々を調和させています。野外美術館ならではのアートと自然の融合をゆっくりとお楽しみください。This foot-bath is where you can relax while experiencing the natural beauty of Hakone, using hot spring water from our own premises of the museum. It is harmonized bystones resembling like sculptures, harmonizing with the various sculptures and the mountains of Hakone. We hope you all enjoy this unique atmosphere of fusionof the art and the nature with the time to relax.石材一覧No. 石材名 英名 種類 産地① ニューインペリアルレッド New Imperial Red 花崗岩 インド② セルペジャンテ ベージュ Serpeggiante Beige 大理石 イタリア③ ブラウンファンタジー Brown Fantasy 花崗岩 インド④ オリーブグリーン Olive Green 花崗岩 南アフリカ⑤ ホワイトサンドストーン White Sandstone 砂岩 インド⑥ ブラックマリナーチェ Black Marinace 花崗岩 ブラジル⑦ ロッソガズビーラ Rosso Guazubira 花崗岩 イタリア⑧ ルナパール Luna Pearl 花崗岩 イタリア⑨ 暁サラサ Akatsuki Sarasa 大理石 日本⑩ レッドサンドストーン Red Sandstone 砂岩 インド⑪ グリーンウェーブ Green Wave 大理石 ノルウェー⑫ ジャッロサンタセシリア Giallo S. Cecilia 花崗岩 ブラジル⑬ ビアンコスペリオーレ Bianco Superiore 大理石 イタリア⑭ ジュライエロー Jura Yellow 石灰岩 ドイツ ⑮ ジンバブエ Zimbabwe 花崗岩 ジンバブエ『ガブリエル・ロアール 幸せをよぶシンフォニー彫刻 1975年』この塔のなかには、外からは想像もつかない華やかな夢の世界が広がっています。どうぞ、階段をあがり、塔のなかにお入りください。ふくろう、鳥、魔法使いの姿もあれば、踊ったり、音楽を奏でたり、パントマイムをしたり・・・、700色のガラスのかけらが外からの光を受け、子供たちの夢の世界を万華鏡のように映し出しています。螺旋階段を登れば、屋上から数々の作品を見おろすことができます。作者のガブリエル・ロアールは、フランスを代表するステンドグラス作家です。鎚でたたいて形をつくったガラスは、通常のステンドグラスの5倍の厚みをもち、外の光を複雑に屈折しながら透過させ、幻想的な輝きを放ちます。『伊藤 隆道(日本) Takamichi Ito (Japanese) 廻る曲線のリング Moving Rings』近づいて、ズームして。「伊藤 隆道(日本)Takamichi Ito (Japanese)1939–廻る曲線のリング👈️リンクMoving Rings1975ステンレス・スティール、鉄、モーター、塗料stainless steel, iron, motor, paint「光と動き」がテーマとなっています。たなびく雲のような形は、モーターで回転する機械に有機性をもたらし、詩的な空想を呼び起こします。Created on the theme "light and movement" this work consists of oblong forms, resembling clouds, that are rotated by a motor, transforming the mechanical into the organic and evoking poetic visions.」 高さ18m、内径は8m。この写真の中央にある金色と黒色の立体モニュメントは、ガブリエル・ロアール自身がデザインした「幸せをよぶシンフォニー彫刻」のシンボル。写真を見ると、・金色の大きな鳥のような形(右側)・黒い翼のように広がる部分・金色の球体(左側)から構成されています。これらは写実的な表現ではなく、ロアール独特の幻想的な造形です。それぞれの象徴・鳥 ・平和 ・自由 ・天へ向かう希望 ・幸福を運ぶ存在・金色の球 ・太陽 ・光 ・生命 ・宇宙・黒い翼状の部分 ・大地 ・樹木 ・炎 ・自然のエネルギーこれらが一体となり、「光が生命を生み、幸福が空へ広がっていく」というイメージを表現しています。ステンドグラスとの関係この塔の正式名称は「幸せをよぶシンフォニー彫刻」。内部には約480枚のステンドグラスが四季や子どもの夢の世界を描き、塔全体が「光の交響曲(シンフォニー)」として構成されています。中央のモニュメントは、その"序章"あるいは"象徴"として、外観に生命感を与える役割を担っています。正面中央の飾りは、「生の歓びを奏でるニンフ」井本 淳氏作。「ガブリエル・ロアール(フランス)Gabriel Loire (French)1904–1996伊本 淳(日本)Atsushi Imoto (Japanese)1915–1984幸せをよぶシンフォニー彫刻Symphonic Sculpture1975スパルビデュア・グラス、エポキシ樹脂、鉄sculptured-glass, epoxy resin, iron(上から/From the Top))耀く太陽Shining Sun1975FRP(繊維強化プラスティック)、金箔、塗料、鉄glass fiber, gold leaf, paint, iron生の歓びを奏でるニンフA Nymph Playing the Joy of Life1975ブロンズbronze480枚のステンドグラスによるパネルで壁面が構成され、色ガラスの光だけで空間そのものを造形した作品。ステンドグラスの技法のうち、ダル・ド・ヴェールという厚さ2〜3cmの板ガラスを使用する技法がとられている。ガラスをたたいて割れ模様を入れ、そこに差し込む光が屈折することで、独特のきらびやかさが出ている。ロアールは、このガラスを「スカルプチャード・グラス」と呼んだ。作品の構図は、ロアールの子供時代の世界が散文詩的に映し出されている。その情景は、東南西北の方角に合わせて春夏秋冬の場面が四分割されて、螺旋階段を昇り降りしながら四季を巡る。塔の外側には、伊本淳による、ロアールの詩調に合わせたレリーフ彫刻3点が螺旋状に設置されている。With walls consisting of panels, each made up of 480 sheets of stained glass,this workcreates a unique space, filled with light that has passed through the colored glass.Of the various forms of stained glass, this work uses the 'dalle de verre' (slab of glass) technique, employing sheets of glass 2 to 3 centimeters thick. The artist, Gabriel Loire,struck the glass to create patterns of cracks, the light being refracted throughthese to produce an unparalleled, glittering beauty that he refers to as 'sculptured glass'.The composition of this work presents the world as it was when Loire was a child, expressing it in the form of a prose poem. The scene is divided into four sections, facing east, south, west and north anddepicting the four seasons, spring, summer, autumn and winter, allowing visitors toenjoy the changing seasons as they climb and descend the spiral staircase inside.Three relief statues by Atsushi Imoto, which harmonize with the tone of Loire's poetry, are attached in a spiral around the exterior of the tower.」 黒い螺旋階段を一歩ずつ上るたび、色鮮やかなステンドグラスが光を受けて表情を変え、まるで光の渦の中を歩いているような幻想的な世界が広がるのであった。四季を映す色彩と光が美しく溶け合い、心を優しく包み込む至福の空間であった。見上げる先いっぱいに広がるステンドグラスは、赤や金、緑、白の光が幾重にも重なり合い、まるで天空を彩る光の絵巻のよう。刻々と変化する輝きが空間全体を包み込み、見る人を幻想的で詩情あふれる世界へと誘うのであった。青を基調に、緑や紫、赤の彩りが光の粒となって広がり、まるで宝石をちりばめた天空を見上げているよう。螺旋を描くステンドグラスが光と色彩を織りなし、静寂の中に生命の息吹と幻想的な美しさを感じさせるのであった。青や金、朱色の光が繊細な模様となって重なり合い、まるで物語の一場面を描く壮麗な絵巻を見上げているよう。光がガラスを透して優しく降り注ぎ、色彩と祈りが響き合う幻想的な空間が心を深く魅了するのであった。黄金色の光を放つ太陽を中心に、色とりどりのステンドグラスが放射状に広がり、生命の輝きが空間いっぱいに満ちあふれていた。見上げるたびに光が表情を変え、まるで大自然の息吹と希望の光に優しく包まれるような感動を覚えるのであった。琥珀色や黄金色を基調とした温かな光が幾重にも重なり、生命の樹を思わせる模様が優しく浮かび上がる。やわらかな光彩が空間を包み込み、自然のぬくもりと穏やかな安らぎを感じさせる、美しく詩情あふれる光景。黄金色を基調に、赤や青、白の光がリズミカルに散りばめられ、まるで生命の鼓動が色彩となって躍動しているよう。幾何学模様が織りなす光の世界は、見るたびに新たな発見をもたらし、心を豊かな感動で満たしてくれるのであった。鮮やかな赤や黄金色の光に包まれた少女の表情は、見る人に優しい微笑みを届けてくれるよう。色彩豊かなステンドグラスが生命の輝きと喜びを映し出し、温もりと希望に満ちた幻想的な世界へと静かに誘ってくれた。塔の頂上から望む箱根の山々は、深い緑と立ちのぼる雲や霧が織りなす幻想的な風景に包まれて。眼下に広がる彫刻の森と雄大な自然が美しく調和し、まるで一枚の風景画の中に身を置いているかのような感動を味わいながら。雨上がりの箱根の山々を、白い霧がゆっくりと包み込み、深い緑との美しいコントラストが幻想的な風景を描き出していた。刻々と姿を変える雲と山並みは、大自然が織りなす一瞬の芸術であり、静寂の中に心洗われる感動を与えてくれた。『緑陰広場』を見下ろして。塔の頂上から見下ろす芝生広場には、緑の中に彫刻がゆったりと点在し、自然と芸術が見事に調和した美しい景観が広がっていた。木々の緑と青空の光に包まれた静かな空間は、訪れる人に穏やかな時間と心安らぐひとときを届けてくれるのであった。屋上から螺旋階段を見下ろすと、足元には色鮮やかなステンドグラスが優雅な曲線を描き、光の世界へと誘う。一歩ずつ階段を下るたびに色彩が移ろい、まるで光の渦の中を旅するような幻想的なひとときを味わいながら。螺旋階段の優美な曲線が色鮮やかなステンドグラスと溶け合い、足元から光の芸術が広がりる。一歩ずつ歩みを進めるたびに光と色彩が表情を変え、まるで虹色の渦に包まれながら夢の世界を巡るような幻想的な美しさに心奪われるのであった。見下ろす螺旋階段の先には、色鮮やかなステンドグラスが光の帯となってどこまでも続き、まるで虹色の銀河へ吸い込まれていくような幻想的な眺めが広がる。光と色彩が織りなす美しい世界は、訪れる人の心に深い感動と静かな余韻を残すのであった。穏やかな弧を描くステンドグラスに、青や緑、金色の光が美しく溶け合い、まるで四季の彩りが天空へと続く大きな虹を描いているよう。見上げるたびに光が優しく表情を変え、幻想的な世界へと心を誘う、息をのむような美しさが広がる。柔らかな弧を描くステンドグラスに、黄金色や緑、青の光が幾重にも重なり、まるで四季の彩りが天空を優雅に流れていくように。繊細な光のきらめきが空間全体を包み込み、静けさの中に温もりと希望を感じさせる幻想的な美しさが広がるのであった。鮮やかな青や赤、黄金色の光が美しい調べを奏でるように広がり、一枚一枚のガラスが生命の輝きを映し出していた。色彩豊かな光のハーモニーは見る人の心を優しく包み込み、夢と希望に満ちた幻想的な世界へと誘ってくれるがごとくに。塔の中心を見上げると、螺旋階段が天空へと優雅に伸び、その周囲を色鮮やかなステンドグラスが光の大渦のように包み込んでいた。光と色彩が織りなす壮大な空間は、まるで天へと続くシンフォニーの中に身を置いているような感動を与えてくれるのであった。螺旋階段が天へ向かって優雅な曲線を描き、その周囲を色とりどりのステンドグラスが光の大空間として包み込んでいた。見上げるたびに色彩が美しく移ろい、光と芸術が織りなす壮麗なシンフォニーの中へ吸い込まれるような感動に満たされて。塔の中心から天へ向かって伸びる優雅な螺旋階段を、色鮮やかなステンドグラスが万華鏡のように包み込む。青や紫、赤、黄金色の光が美しく響き合い、まるで光のシンフォニーの中を天空へ旅するような、息をのむ感動的な光景が広がっていたのであった。天へと続く螺旋階段が力強く伸び、その周囲を色鮮やかなステンドグラスが光の大空間として包み込んでいた。降り注ぐ光は刻々と表情を変え、芸術と光、そして人々の営みがひとつに溶け合う、幻想的で心震える美しさを生み出していたのであった。 塔の下部には『井本 淳 愛のお告げを奏でるニンフ』。『ジャン・アルフ Jean-Alf 大きな種 Giant Seed』。再び「幸せをよぶシンフォニー彫刻」の頂部の作品『伊本 淳 耀く太陽 Shining Sun』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.23
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『胸像と4人の男の顔 Bust of a Woman and Four Male Heads』。「胸像と4人の男の顔 1972年7月23日グワッシュ、紙若さを象徴する豊満な女性、欲望を隠そうとしない小男。背景には、死の影を漂わす童謡した男。その傍らの老人はおそらくピカソ自身である。90歳を超えて、愛した女性、人間の本能、そして死と直面していた。Bust of a Woman and Four Male HeadsJuly 23, 1972gouache on paperA voluptuous woman, symbolizing youth, and a small man who makes no attempt tohide his lust. In the background is a distraught man emitting an aura of death. The old man to the side is probably Picasso himself. He was over 90 years old,and confronted by the woman he loves, human instinct, and death.」 『アルカンのサルバド Portrait of the Painter Salvado』左腕をズームして。「アルルカンのサルバド原画(1923年):パブロ・ピカソ制作:ロジェ・マレルヴ・ナティエルジュマイユ原画は《新古典主義》の時代に描かれたもので、道化研究家アルルカンの衣装をつけたカタルーニャ地方の画家ジャシント・サルバドがモデルになっている。ピカソはこの頃よく、サーカスの道化を主題にして描いていた。道化はその仮面の下に悲しみや孤独を抱える存在で、生きることの本質がそこにあると思えたからである。Portrait of the Painter Salvadooriginal painting (1923): Pablo Picassogemmail: Roger Malherbe-NavarreThis work was painted during Picasso's Neoclassical period. The model, identified as a Harlequin, is Catalonian painter Salvador. During this period, Picasso often depicted circus clowns in his work. He chose to depict clowns because, although they are comic characters, they carry sadness and loneliness beneath their masks, and therefore express the essence of the human condition.」 「ピカソのフルネームピカソの洗礼名(フルネーム)は、当時のマラガ地方の慣例に従って、赤ん坊に聖人や縁者にちなんだ沢山の名前がついた。その上、スペイン人には姓がふたつあって、第1の姓は父方から受け継ぎ、第2の姓は母方から受け継ぐことになっている。パブロ = 祖父で父方の叔父ディエゴ = 父方の祖父と叔父ホセ = 父(ホセ・ルイス・ブラスコ)フランシスコ・デ・パウラ = 母方の祖父フアン・ネポムセノ = 男性の名づけ親、従兄マリア・デ・ロス・レメディオス = 女性の名づけ親、従姉クリスピン・クリスピニアノ = ピカソが生まれた10月25日に当たる殉職した手袋職人の守護聖人デ・ラ・サンティシマ・トリニダード = 三位一体ルイス = 父の名字ピカソ = 母の名字(マリア・ピカソ・ロペス)Picasso's full nameIn accordance with the customs of the Málaga province of Spain where he was born, Picasso was baptized with a long string of names, derived from the names of relatives and saints. Furthermore, Spanish people have two surnames: the first comes from the father while the second comes from the mother.Pablo: patron saint (Saint Paul)Diego: paternal grandfather (Diego Ruiz Blasco)José: father (José Ruiz Blasco)Francisco de Paula: maternal grandfather (Francisco de Paula Picasso)Juan Nepomuceno: godfather and cousin (Nepomuceno Blasco Navarro)María de los Remedios: grandmother and cousin (María de los Remedios Alarcón Herrera)Crispín Crispiniano: patron saint of shoemakers whose feast day falls on Picasso's birthday (Oct. 25)de la Santísima Trinidad: the Holy TrinityRuiz: father's surnamePicasso: mother's surname (María Picasso y López)」 『ピエロのポール Paul as Pierrot』。「ピエロのポール原画(1929年):パブロ・ピカソ制作:ロジェ・マレルブ・ナヴァルジュマイユピエロに扮装したポールは、最初の妻オルガ・コクローヴァとの間に生まれた長男で、《新古典主義》の時代に描かれた油彩が原画となっている。常に新しいものに興味を示すピカソは、20世紀に考案されたガラスと色彩と光を用いるジュマイユを、表現手段として採用した。Paul as Pierrotoriginal painting (1929): Pablo Picassogemmail: Roger Malherbe-NavarrePaul was the son of Picasso with his first wife Olga Khokhlova. This work is thought to be based on a painting from the neoclassical period. Picasso was always interested in new techniques, and this work uses the technique of gemmail, which was developedin the 20th century, harnessing glass, color and light.」 「ジュマイユジェマイユは、フランス語の「ジェム(宝石。ここでは色ガラスを指す)」と「エマイユ(七宝)」のふたつを合成した言葉。透明な板ガラスに下絵を描き、色ガラス片を積み重ねて色の濃淡を調節する。この重ね合わせによって絵画の絵具と同じような色調が得られる。そして作品を無色透明なエナメルに浸してから、窯で焼き固める。作品の背後から照明をあてることで、光が透けて輝き、色に溶け込むジェマイユ特有の透明感と立体感が生み出される。Gemmail (plural gemmaux)The word gemmail is a combination of the French words, gemme, meaning gem (in this case colored glass) and émail, meaning enamel. First a design is drawn ona sheet of transparent glass, then fragments of colored glass are built up on top of this, the number of layers of glass determining the intensity of the final colors. By superimposing colors in this way it is possible to achieve a greater range of colors as can be found with the artist's palette. Once the work is satisfied, it is submergedin colorless enamel and fired in a kiln, the enamel serving to bind the pieces of glass together. When light is applied from behind, it shines through the picture to create a feeling of transparency and illusion of three-dimensionality that is uniqueto the medium.」 まだまだ鑑賞したい作品があったが、旅友との待ち合わせの時間もあり、ここまでとした。そして出口へと向かう。出口のステンドグラスを内側から。右側下部。右側上部。左側上部。左側下部。外に出て、ステンドグラスを振り返って。「PICASSO館」を見下ろして。 「PICASSO」館正面。 「歩く花」を「picasso館」を背景に。 『フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)歩く花 Walking Flower』。「フェルナン・レジェ(フランス)Fernand Léger (French)1881–1955歩く花Walking Flower1952ブロンズ、塗料bronze, paint花びらが頭や手足となり、太陽に向かって力強く行進するかのような、力とエネルギーに満ちた作品です。The flower's petals form the head, arms and legs as it appears to march boldly towardsthe sun. It is a work filled with power and energy.」 正面から。花びらを頭、腕、脚に見立てており、太陽に向かって誇らしげに歩みを進めるような躍動感あるデザイン。鮮やかな色彩とロボットのように力強く行進する姿が特徴。再び「PICASSO」、 『エミリオ・グレコ 腰かける女No.2』自然な姿勢で腰掛け、片腕を腰に添えた落ち着いたポーズから、静けさと生命感が同時に伝わって来る。筋肉を誇張せず、なめらかな曲線で人体の美しさを表現しているのがグレコならではの魅力。『 エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)水浴びをする女 No.6 Large Bather No.6』。「 エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)1913–1995水浴びをする女 No.6Large Bather No.61962–64ブロンズbronzeグレコの作品の特徴は、憂いを含んだ端正で優美な女性像にあります。量感を感じさせながらも伸びやかで躍動感に満ちています。Greco's works are typically elegant sculptures of women possessing an air of melancholy, which despite projecting a feeling of mass, appear relaxed and full of vigor.」 ズームして。『うずくまる女 No.4 Large Squatting Figure No.4エミリオ・グレコ(イタリア) Emilio Greco (Italian)』「エミリオ・グレコ(イタリア)Emilio Greco (Italian)1913–1995うずくまる女 No.4Large Squatting Figure No.41973ブロンズbronze現代の女性をモデルとしていますが、その彫刻的な技術の巧みさと描線は、イタリア美術の伝統を感じさせます。Although featuring a contemporary woman as a model, the sculptural technique andskillful lines are redolent of Italian traditional sculpture.」 「PICASSO館」を後にして進む。 「平和のためのパイプ ピーター・ローガン作(イギリス)」。 ズームして。そして『草間彌生 われは南瓜』。黒い南瓜のオブジェを中央に据え、その周囲に草間彌生を象徴する黄色い水玉模様が広がる屋外展示。草間彌生は幼い頃から南瓜を好んでおり、「ユーモラスで、たくましく、どこか人間味のある存在」として繰り返し作品に取り上げていまる。南瓜は草間芸術を代表するモチーフの一つで、水玉模様(ドット)とともに、生命力や無限性、自然とのつながりを象徴している。この作品では、黒い南瓜と黄色い水玉の床面との対比によって、南瓜がまるで大地から生命力を放ちながら現れたかのような印象を与えている と。『うつろひ 宮脇愛子』。「うつろひ Utsurohi」は、10本のワイヤーで空間に素描するように線を描いた作品。ワイヤーはしなやかにたわみながら風にふるえ、光に輝き、瞬間瞬間の移りゆく時や風景を記憶に留めるための媒体となっていた。「カフェ&丸太広場 キトキ」へ。 広大な彫刻庭園内の一角にある同施設の1階はカフェ、2階はギャラリーとなっていたが、室内で休憩できるスペースが不足していたため、2階に休憩と展示を両立するスペースが求められた。彫刻の森美術館では、屋外展示の彫刻には基本的に触れることが出来ない。そこで、触れたくなる、また山に囲まれた環境ならではの素材として、箱根山で伐採された杉の丸太材と、360mm角の集成材を土台として井桁状に並べ、階段室を境に分断された細長い空間に一体感を与える提案とした。空間全体にグリッドを設定し、橋のように架け渡した丸太材は、ベンチとしてもテーブルとしても使え、お弁当を食べたりくつろいだり、来館者の憩いの場となる。ゴムチップマットのエリアでは靴を脱いで、角材を背もたれに寄りかかったり、またはローテーブルとして囲んだりもできる。 ごく単純なルールで出来た空間は、使い方を限定せず、訪れた人それぞれが能動的に使い方を発見できる余白に満ちた場所となっていた。1F:カフェ/ショップ2F:フリスペース/ギャララリー ・草間彌生《南瓜》(2017年) YAYOIKUSAMA Pumpkin1F:カフェ/ショップ階段下に「草間彌生《南瓜》(2017年)YAYOIKUSAMA Pumpkin」案内板。 階段を上る。「丸太広場 キトキ丸太広場キトキは箱根の木を使ったフリースペースです。木のぬくもりを感じながらゆっくりおくつろぎください。」 赤い水玉(ドット)で壁一面が覆われ、中央には巨大なカボチャのオブジェが展示されていた。草間彌生ならではの「無限の水玉」の世界を体感できる空間で、多くの来館者が写真撮影を楽しむ人気スポットであった。丸太広場「キトキ」木のベンチやテーブルが並ぶ休憩スペース「キトキ」は木の温もりを感じられる交流空間草間彌生作品を背景に休憩や記念撮影が楽しめるのであった。草間彌生と水玉草間彌生は幼少期から幻視体験の中で見えた無数の水玉を作品化してきた。水玉は「自己と宇宙の一体化」や「無限」を象徴するモチーフで、カボチャと並ぶ草間芸術の代表的なテーマである。廻り込んで。「丸太広場 キトキ」。 天井からも巨大なカボチャのオブジェが吊り下げられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.07.22
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