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2018年11月4日(日)15:15アムステルダム発カタール空港QR=274無事乗船出来ました(^0^)♪カタール航空に乗船した時の楽しみは「機内映画」でありますきらりのわがままオランダ旅日記・・第138回アムステルダム⇒ドーハ「機内映画」1.タイタンの逆襲2.クワイイェット・プレイス3.ミッション・イン・ポンッシブル・フールアウト4.マンマ・ミーア!ヒア・ウィ・ゴー続編4本鑑賞【機内食】アムステルダム⇒ドーハ「ビーフ」を選択しましたMain mealAppetiserSeasonal saladMainschicken tikka masalaYellow basmati rice and vegetableCottage beef Piemashed potato and mixed vegetablesMushroom risottosliced courgette and grated parmesan cheeseDessertTriple chocolate brownie deliceLight snackSavoury pastry,cakeメインは、お肉にマッシュポテトとミックス野菜です。イメージカラーのパープルの機内は、暗くなり仮眠&映画鑑賞しばらくすると・・・boxが・・・ALL DAY SNACK開けてみるとココナツッ・カップケーキとスパイシーなチキンとトマトが入ったパイです。ノドにめっちゃ~詰まりましたごほごほ。カタールドーハ着は 23:35到着です。おやっいつもと全く違う場所に到着しましたよそれにしてもこの不思議な木製モニュメントは・・・いつから?・・・つづく・・・機内食にぽち
2019.03.31
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前回オランダに来た15年前にも帰りに空港で「ピンクのチューリップ」を1袋買い求めました。今回は・・・きらりのわがままオランダ旅日記・・第137回随分、早く到着したと~空港でまったりしていたら空港で大行列をしているのがこれが、私たちが乗る飛行機の列であることが気づいたのは・・・しばらくしてからでした。並んでいる行列には表示が無くて案内する人も全くおりません!チェックインには、凄く時間が掛かりましたQATAR カタール空港アムステルダム・スキポール空港発カタール・ドーハ空港行き2018年11月4日(日)15:15発QR=274チェックインに時間が掛かり過ぎて搭乗口までダッシュしなくては、いけなくなりましたエスカレーターを降りて来る時にその下に「チューリップ屋さん」を発見いやいや~時間が無いけど・・・これだけは、買わないと急いで3袋をレジに持って行きました。一番大きな袋は・・・TULIPSレンブラントのサインが入ったチューリップ価格=€.19.95上部がフリルになった変わったチューリップは、価格=€.17.99小さ目の袋に詰まった下っていたチューリップは、価格=€.7.99これは自分用に購入しましたさて~帰国後に植え付けました。10球です~楽しみですね~2018年11月末の植え付けです。チューリップは、オランダの様に寒い環境を与えないと芽が出ないと・・・聞きますので寒い戸外で過ごさせました。2019年2月15日発芽を確認10球の芽は、2cmにもなっていました桜も満開になり今朝のチューリップは・・・ギザギザの花芽が葉っぱの中に見えて来ましたそろそろですこちらは・・・来週でしょうか?待ち遠しいチューリップにぽち
2019.03.30
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オランダの街並みを散歩して私が計画した「アムス半日街歩き」を何とか無事に終わりホテルに戻って来れました【アムステルダム半日街歩き計画】マヘレの跳ね橋⇒レンブラントの家⇒ムントの塔⇒世界遺産シンゲル運河⇒シンゲルの花市⇒アムステルダム国立美術館⇒(トラムでスリに遭遇)⇒ホテル⇒レンブラント広場⇒中央駅⇒空港きらりのわがままオランダ旅日記・・第136回2018年11月4日(日)完璧な半日観光からホテルに戻り「帰国」です【世界遺産】オランダの運河と街並みの中にあるホテルに宿泊するめちゃ~めちゃ幸せな旅でありましたホテルから・・・トラムの『レンブラント広場』Rembrandtplinの近くでありましたレンブラント広場からトラムに乗ってアムステルダム中央駅まで行きます。レンブラント像とも「夜警」の実物大彫刻ともお別れですアムステルダム市内で「72時間乗り放題」バス・トラム・地下鉄乗り放題の切符を購入してとても便利にほぼ72時間使い果たしました!最後には、ホテルから中央駅までトラムに乗車5分で、到着ですアムステルダム中央駅⇒空港「スキポール・エアポート」までの切符は往復切符を買って居たので・・・帰りは、お金を支払う事無く「空港」へ・・・つづく・・・世界遺産にぽち
2019.03.29
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オランダの旅も最後に『アムステルダム国立美術館』で楽しいお買物をしました♪大きめのバックに詰め込んだのは、ゴッホ柄のポンチョ・塗り絵・フェルメールの20色の色鉛筆などでありますきらりのわがままオランダ旅日記・・第135回『アムステルダム国立美術館』2018年11月4日(日)訪問さぁ~お買物も済ませたし・・・トラムに乗って「アムステルダム中央駅」まで行ってホテルに向います。私とミーちゃんは、トラムに乗り込みました。日曜日なので・・・大きなトランクを持った旅行者が、いっぱいで座れません国立美術館から中央駅までは、8停留所。15分程かかります。乗客は、次々と増えて私とミーちゃんは、左右に離れ離れになりました。私は、出入口扉と列車のつなぎ目の窓に押し込められました!私の横には・・・上下黒尽くめの25歳位の移民らしき?男が黒いリュックを持ち何故だかにやにや薄笑いを浮かべて窓ガラスに貼りついています。感じ悪くは無いし移民の方もオランダで定着して楽しく暮らしている事がむしろ嬉しく感じました。上下が黒服で移民らしき?男は・・・ドアーの前に立って大きなトランクを持っている男性にええ~っホモかと思う位に胸を男性の背中に体をペッタリ付けてニヤニヤキョロキョロ何だか~気持ち悪いです~黒服の移民らしき?男。トラムは、ダム駅で半分くらい下車したでいか・・・空いて来ました。ほっ。私は、その場所から直ぐに離れトラムの中央で立っておりました。もうすぐ終点。その時、一番前に座って居る女の子たちが大騒ぎを始めたのです何の騒ぎ~っ!?私は、驚いて振り向くと・・・女の子たちは、振り向いた私を全員で見ています!私の斜め掛けをした大きなバックを指さしてまた大騒ぎをしているのですええ・・・っ。気が付くと、いつの間にか?黒服の移民らしき?男が、私の隣に居たらしく男は、サッと私の横から離れました女の子たちは、もっと大きな声で叫んでおります私のバックを見るとパックリ開いてます!ここで初めて私は、スリに会ったと理解しました。女の子たちは男がバックを開けた!と叫んでいたのです。それでも私は、バックの中にはゴッホ柄のポンチョとフェルメールの20色の色鉛筆とぬり絵などがっむしろ私は、ギッチギチに詰まったバックのファスナーをよくぞスンナリ開ける事が出来た事に驚きました。そのバックの一番~下に小さなポーチに貴重品がある訳でアムス街歩きには、充分注意していたのでありむしろ、そのをバックの底からいちいち取り出す度に同行ミーちゃんを内心イライラさせる程でした。そこまでに万全の体制であるのに絶対にそのポーチを出す事は、私にも時間が掛かる事であり取られて居ない事は、確かだと思っておりました。大騒ぎの女の子たちにお財布は、大丈夫よ~と伝えましたが女の子たちは、まだ心配顔です。それにしても、めっちゃ~注意していたのにスリにバックを開けられた事にめっちゃ~腹が立って来ましたきらり。も怒る事があるのであります・・・一番前の席に座って居る女の子たちが私の応援団に見えて来ました!その応援団から勇気をもらったきらり。男の黒いジャンパーの後ろ首辺りをムンズとつかんで・・・大きな声で「ポリス!ポリス!!」と叫びました!!「アムステルダム中央駅」まであと・・・50mほどです。トラムは、停車しました。(これは、単なる駅前の交通渋滞による停車です)めったに怒らない私ですがぁぁぁ~「悪人」は、許せない!私は、移民の方にだって、いつも敬意を払っているしそんな私の気持ちをブチ破る行為に腹が立ったのであります私は、男のジャンパーの首をしっかり握ったまま男のリュックを指さして「バッグ・オープン!!」と叫びました!男は、しどろもどろバックは、開けるよ~と手でリュックのファスナーを開けるポーズを何度も繰り返しているだけで、全くリュックのファスナーを開けないのです!さては~さっき、ホモみたいに貼りついていた男性から財布をすでに抜き取って居るに違いないいや~あれだけ混んで居たらもっと沢山の人から財布をすっているかも?だから、絶対にリュックのファスナーを1mmも開けられないのだ余計に腹が立った私は、大きな声で「ポリス!ポリス!」と叫びました!オランダのトラムの中には、車掌さんのコーナーがあります。車内に居る車掌さん(55歳位の太いおばちゃん)は、車内電話を持ち上げてスリが出た事を報告をし始めました。それを見た男は、驚いて跳び上がり私の腕を振り切って・・・車両の一番後ろへ走って一番後ろの扉を力ずくで開けようとしています。その時、トラムは、駅に向かって走り始めました駅前の交通状態が解消して走りだしたのです男は、何度も激しく扉を揺すって、やっと少し扉が開くと男は、自分の体を外に出そうと肩から外に出たかと思うと・・・リュックサックだけが車内に残されていますうわわわ~っ!リュックが車内でしょ?となると男は、リュックを背負ったまんま外でズルズル体が引きずられております!!乗客は、驚いてみんな大騒ぎです「男が、引きずられている!」大騒ぎになったので、トラムは急停車その時に引きずられたリュックが少しだけゆるんだのか?男は、トラムから解放されリュックを背負い猛ダッシュで、道路を駅と反対側に走り出しました!大きな目玉をして、こちらを一度だけ振り向きましたがその後の逃げ足の速い事あっという間に角を曲がって消えてしまいました。私は、大騒ぎをしてくれた女の子たち(応援団)に何度もお礼を言いました。彼女たちも、お互いの無事を喜んでおりました。トラムは、そのまま静かにアムステルダム中央駅に到着しました。同行のミーちゃんは、安心しきってトラムを降りながら・・・「きらちゃんが、犯人を捕まえなくて良かった 本当にポリスが来たら事情聴取で帰国できなくなる事だけ心配だったわ」あちゃ~っ。あんたは、冷静過ぎる!確かに、私も男を捕まえながらもその事は、少し考えはしたのですが~私が、スリにバックを開けられた事がそしてアムスの優しくしてくれた人たちの事を思い出すとどうしても、あの男が許せなかったのです。旅先で、誰とも仲良くできる特技を少し自慢していたきらり。そんな私の信頼を裏切られた事が許せなかったのであります。まぁ~乗客の中に怪我人が出なかった事は、幸いでありました。これが、日本だったら~そうそう、スリにバックを開けられたりチカン被害に会った見るからに異国のちっちゃい東洋女性に大騒ぎをしてくれる乗客が居るでしょうか?見て見ぬ振りをするかも知れません!やはりオランダ人は、ほぼ親切な国民でありました。・・・つづく・・・オランダ日記にぽち
2019.03.28
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アムステルダム国立美術館へ来るのも4回目です~いよいよ帰国であります~最後のお買いものです♪きらりのわがままオランダ旅日記・・第134回トラムを降りると左が『アムステルダム国立美術館』で正面は『ミュージアム広場』でミュージアム・ショップが見えますトラムを降りると道路の中央がトラムの停留所で・・・向かいからは、アムステルダム中央駅へ行くトラムが走って来ます!何とか道路から舗道に着いたかと思うと・・・そこは、自転車専用道路です後ろからチリン・チリンと、ならしながら))スポーツタイプの自転車のサドルを思い切り高くした男性が、めっちゃ~怖い顔をして走って来るでは無いですかっ。いやいや~オランダは、自転車優先であります。もたもた東洋人が歩いて居るとアホかぁ~と言わんばかりに勢いで突進して来ます。自転車専用道路は、舗道と区別がしにくいので、考えなしに横断して叱られる・・・という訳です。大きな声で「ソーリー」と叫んでみましたがそんな声を発した時には、男性は7m位先まで走り去っております。日本もチャリンコは、多いけれどオランダのサドルを目いっぱい上げて高速で走る自転車は、気を付けないといけませんね。ミュージアム広場の「ミュージアム・ショップ」は、大行列になる事がありますが・・・2018年11月4日(日)午前・訪問時は、空いておりました。ビニールのポンチョを買いました珍しく雨が降らないアムステルダムの旅でしたが・・・ゴッホ模様のポンチョが可愛くて衝動買い使う予定は、無くても・・・ゴッホ柄楽しいミュージアム広場の有名な・・・Iamsterdamも4回来ましたが・・・一番、空いております日曜日の午前中が空いているって不思議ですけど向こうに見えるのが『アムステルダム国立美術館』です。空には、飛行機雲が私たちも夕方には、白い飛行機雲をはきながら機上の人となります。『アムステルダム国立美術館』のミュージアム・ショップは地下1階にあります。美術館のチケットを持って居なくても入場できます。『アムステルダム国立美術館』の愛称は・・・ライクス RIJKS国立美術館では、布バックを買いましたこれは、自分用です。フェルメール『牛乳を注ぐ女』の20色・色鉛筆RIKS MUSEUM・・・フェルメール・ブルーの色鉛筆がもう~使っております楽しい塗り絵ですこの色鉛筆で・・・まだ、未完成どうも~中を塗るのはいつの事やら?またまた、どうでも良いお買物をしてしましました・・・つづく・・・アムス散歩にぽち
2019.03.27
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【世界遺産】17世紀の環境運河は、オランダの黄金時代に掘られたものであります♪17世紀の環境運河地区は、ユネスコの世界遺産に2010年に登録されましたきらりのわがままオランダ旅日記・・第133回シンゲル運河は、ムントの塔から直ぐです。アムステルダムの中心街を半円形に囲む運河の外堀でありました。運河沿いに並ぶビニール・ハウスが・・・シンゲルの花市場でありますこの花市場の歴史は1862年に始まりました。花の運搬ルートとして運河を利用し街の中心へ運んでいたのです。始めは、舟から花を販売していたそうでありますが・・・現在は、運河の上にビニール・ハウス型のお店が運河沿いに並んでおり半分は、道路の上と言う感じですねやはりオランダ・・・と言えば「チューリップ」ですよね毎日、トラムに乗って通り過ぎる時。あ~っ!チューリップ屋さんがっ!夜遅くまで、明るく照らされて気になっていたのでありますが・・・ここが『シンゲルの花市』の入口だとは思いも寄りませんでした。ムント広場の「ムントの塔」から【世界遺産】シンゲル運河沿いを・・・コングス広場まで、続いております1袋・・・€.5 2袋・・・€.10安いです!!変わった種類は1袋・・・€.62袋・・・€.10めっちゃ~お買い得です!!これは(ハッパ?)もしかして日本に持ち込めないお品かもです(公然と販売されております)2018年11月4日(日)9:30頃そろそろ「チューリップ」の植え付けシーズンなので主にチューリップばかりが店頭に張り出して売っております。ムント広場から歩いてくると「右側」が花市場です。道路の反対側は、お土産屋さんやレストランが並んでおります。そろそろ花市場は、終わりに近づき振り返って見ると・・・日曜日の朝だからでしょうか?めっちゃ~空いております。「BONSAI」盆栽も人気みたいです。そろそろ花市場の終点「コニングス広場」です。ガーデニングが趣味のきらり。空港で、めっちゃ~高いチューリップをドッサリ買い込みましたチューリップの球根は、重たいものですね。「コニングス広場」Koningspleinからトラム乗り場は、すぐです。私たちは、最後の目的地「アムステルダム国立美術館」へGO))アムス散歩にぽち
2019.03.26
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朝からアムステルダムのお散歩を楽しんでおります。2018年11月4日(日)トラムSpuiで下車これは、目的地Muntplein「ムント広場」で下車するはずが通過してしまい次のSpuiまで行ってトラムを降りて歩いて戻ってまいりましたが・・・それでも大好きな街並みなので楽しいアムス散歩でありますきらりのわがままオランダ旅日記・・第132回『ムントの塔』ムントタワー MUNTTORENムント・・・とは?貨幣の事。1672年、フランスがアムステルダムを侵略した時にこの塔の中で、お金を造っていた事から「ムントタワー」と呼ばれおります。中世のアムステルダムは・・・他国の侵略を防ぐ為に城壁で囲まれていました。17世紀に・・・アムステルダムの町が大発展を遂げるとシンゲル沿いに町を取り囲んでいた城壁は取り払われました。その残った塔の上に時計台を付けたのが「ムントタワー」です。ムントタワーの窓には・・・ミフィーちゃんがっ。ミフィーちゃんのサンタですクリスマスツリーですオランダのサンタクロースは・・・11月の中旬にプレゼントをいっぱい積んで船でやって来ます。子どもたちは、とても楽しみに11月中旬を待つそうです。この窓はムントの塔のチケット売場でしょうか?塔に上る階段は、この扉の中でしょうしっかり閉まってしばらく営業している様子はありません張り紙があります・・・文字がかすれて見えにくいです土曜日の14:00・・・の文字が見えますが(やっているの?)残念ながら、現在日曜日の9:12ですから・・・入れません煉瓦の部分は、城壁だった頃の物でしょうね?ムントの塔は・・・諦めて城壁の一部が続く煉瓦にお店があります。いや~っ。ミッフィーちゃんのお店かしらミッフィーちゃんは、オランダ生まれなのです『ヨリット・ヘイネン・デルフトウエア』 JORRIT HEINEN DelftwareHEINEN DELFTS BLAUWデルフト陶器のお店です。さすがお上品ですね~「ムントの塔」の窓のディスプレーは・・・このお店の宣伝だったのですね営業時間=9:30~18:00惜しいです私たちの次の予定は・・・ここからシンゲル運河沿いに始まる『シンゲルの花市』ですつづくアムス散歩にぽち
2019.03.25
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アムステルダムのお散歩を楽しんでおります~♪朝から「マヘレの跳ね橋」から「レンブラントの家」へトラムに乗って2駅目「ムント広場」で降りるはずですがトラムは、「ムントの塔」を右に曲がり・・・通り過ぎてしまいましたきらりのわがままオランダ旅日記・・第131回次のトラムの駅はSpuiです~あらら急いでピンポンクリスマス・イルミネーションが下っています2018年11月4日(日)朝。オランダのサンタクロースは・・・もうすぐ11月中旬に船に乗って来るそうです本場のクリスマス・イルミネーションは、地味ですね。アムステルダム中央駅行きのトラムが・・・通ります。まだ早朝なのでお店は、閉まっております。おやっPIKACHUカラフルな・・・ピカチュードレス派手っ。ピカチュー・ショップでしょうか?おやっ日曜日の朝なのに・・・ゴミ収集車が近寄って来ました大きな「ダストボックス」が歩道に置いてありますね~ゴミ収集車は、クリーム色です~アムステルダムの町並みが大好きであります~そうそう私たちは・・・「ムント広場」Muntpleinで降りるはずだったのにトラムは、ムント広場の表示が出なくて・・・通り過ぎてしまいましたムント広場の停留所も見当たらないし無くなったのかしら?歩いて戻るしかありません!まぁ~72時間乗り放題のカードを持っているのですから何度、乗っても良いのですが~アムス散歩は楽しいですから歩きましょう「ムント広場」Muntplein「ムントの塔」見えて来ましたよ~あらっ。ここにも白いゴミ収集車でしようか・・・つづく・・・アムス散歩にぽち
2019.03.24
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2018年11月4日(日)アムステルダム最後のお散歩であります~日曜日の朝は静かです。宿泊の「エデンホテル・アムステルダム」から「マヘレの跳ね橋」「レンブラントの家」へきらりのわがままオランダ旅日記・・第130回「レンブラントの家」右隣には・・・Rembrantdt Cornerレンブラント・コーナー?レンブラントの角・・・と言う名前の「カフェ」でしょうかレンブラントの家の隣の角ですから~そのまんまですが「レンブラントの家」の角のカフェを・・・左に曲がると私たちが、宿泊しているホテルが見えるはずまたまたプリントされた「コンテナー」が並んでおります。アムステル川に出ましたこの近代的な建築は、国立オペラ&バレエ劇場の隣のカフェです。AMSTEL HOECK GARND CAFE AMSTELHOECKカフェの前は、広場のようなスペースです。夏には『運河カフェ』になるスペースかも知れません私たちが宿泊していたホテルは、アムステルダム川の向かいにあります。Eden Hoter「エデンホテル・アムステルダム」2階に宿泊して、窓から眺めていた場所に立つ事ができましたこちらから、私たちのホテルを眺める方が・・・アムステルダムらしい景色ですねレンブラントが・・・「レンブラントの家」の2階から毎日、見ていた景色なのであります東洋から戻ってくる船がここに到着するからであります。レンブラントは、和紙を愛しておりました。そしてエキゾチックな衣装や骨董品を2階からココまで駆け下りて買い求めたそうであります。レンブラントさんは、買い過ぎですオランダ国内の絵画も相当、買い占めていたそうであります。うううう~。それも破産の原因だったかも知れませんが。アムス散歩を続けましょうぐる~っと周ってバス・トラム・地下鉄の駅がある「ワーテルロープレイン」から~9番、12番トラムに乗ります。次は「レンブラント広場」2つ目の「ムント広場」で下車します。・・・つづく・・・アムス散歩にぽち
2019.03.23
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19世紀オランダの大巨匠「レンブラント」のアトリエ『レンブラントの家』は、宿泊したホテルから、とても近かったので朝から歩いて行ってまいりましたきらりのわがままオランダ旅日記・・第129回地下鉄・トラム・バスでも行ける便利な場所にあります。WATERLOOPLEIN(ワーテルロープレイン駅)下車BUS通りです。中央には、Waterlooplein トラムの停留所トラム=9番、12番M・メトロ=Waterlooplein『ワーテルロープレイン駅』⇒『レンブラントの家』まで徒歩5分。ご一緒に歩いて行きましょうレンブラントの家は、北側に向います。この辺りは、新市街なので近代的なビルがありますね~プリントしてあるコンテナーもあります。何が入っているのか知りませんが・・・船で運んだ荷物の保管場所でしょうか?早朝ですが、叫びながら歩いている男性が居て・・・怖い危ない距離を取りながらも、さりげなく離れるようにサッサと歩きました怖いです~ドラッグの国ですから注意しないとです。道でパフォーマンスの準備をしている若い男性に聞いてみました!「レンブラント・ハウスは、どこですか?」若い男「知らないね!」えええ・・・っ。レンブラントの家の近くだからパフォーマンスするのでしょう?と思ってちょっと~ぉ。目の前にあるじゃん『レンブラントの家』『レンブラントの家』公開は・・・10:00~18:00もう~1人、並んでおりますね~早く無いですか?ここですよ右側がレンブラントの家で左側は『新館』で展示室になっております。レンブラント・・・とは?レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインRembrandt Harmens van Rijn1606年7月15日-1669年10月4日(63歳没)17世紀・オランダ絵画黄金期に活躍した最大の巨匠レンブラントがここに住んだのは・・・1639年(33歳)から1658年まで、彼が、破産するまでであります。レンブラントの画風は・・・スポットライトを当てたような強い光りによる明瞭な明暗対比や、赤褐色や緑褐色を基調とした輝くような色彩、場面状況を明確に伝える劇的な運動性登場人物に示される深い精神性を帯びた表情が大きな特徴である当時の画家たちは、芸術の本場=ローマに渡って箔をつける事が重要でありましたがレンブラントは、イタリアへ留学する事をせずに故郷の「ライデン」で仕事を多く請け負っておりました。1630年4月23日、父が亡くなる。レンブラントは・・・30歳アムステルダムに進出することを決意。アムステルダムの工房に移ります。レンブラントは、2階から港を毎日、港を眺めておりました。どの窓だったのでしょうか?地下玄関ものぞいて・・・先ほど待っていた女性の連れでしょうか!?10時からですよ~まだ早すぎませんか?若き頃のレンブラントの自画像が美術館の目印です。レンブラントが、この家に来たのは、33歳の頃です。正面には・・・レンブラントが住んでいた年号が記してあります。Rembrant’sWONING1639=16581606(この家が建てられた年号です。)レンブラントは、借家住まいでした。徳川家康の頃ですね。オランダでは、普通に使えているのが凄いです!残念ですが、開館を待ちきれない私たちは、申し訳ないのですが入場せずにアムステルダム散歩を続けます。~~~~~~~~~レンブラント作品・・・とは?レンブラントの『自画像』1629年頃【アムステルダム国立美術館】所蔵『テュルプ博士の解剖学講義』1632年【王立マウリッツ・ハイス美術館】所蔵『自画像』1640年頃【ルーヴル美術館】所蔵『夜警』フランス・バニング・コック隊長の市警団(1642年)【アムステルダム国立美術館】所蔵『ホメロスの胸像を見つめるアリステレス』1653年ニューヨーク【メトロポリタン美術館】所蔵『バテシバ』1654年【ルーヴル美術館】所蔵『ユダヤの花嫁』1660年【アムステルダム国立美術館】所蔵『聖パウロに扮した自画像』1661年【アムステルダム国立美術館】所蔵『アムステルダム織物商組合の見本調査官たち』1661年【アムステルダム国立美術館】所蔵アムス散歩はつづく・・・レンブラントにぽち
2019.03.22
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アムステルダムのお散歩は、2018年11月4日(日)早朝です~♪ホテルから歩いて『マヘレの跳ね橋』Magerebrugを渡って・・・トラム&地下鉄駅=Waterloopleinまで歩いてまいります♪きらりのわがままオランダ旅日記・・第128回アムステルダム川クルーズの観光船が停泊する場所かしら?早朝なので・・・まだ誰もおりませんこのミニバンは・・・観光船の宣伝カーでしょうか?私たちは『マヘレの跳ね橋』から『レンブラントの家』方向へ歩いておりますまた『跳ね橋』発見『マヘレの跳ね橋』よりは、小さ目ですがシステムは、同じです。船が通っていないので通行できます自転車の人や歩行者が渡っております。WALTER SUSKINDBRUGワーテルロー・スキンブルグ?「ワーテルロー跳ね橋」と読むのかしら・・・ワーテルロー跳ね橋?の中央からの景色も楽しい早朝・・・お散歩大きな道に出ましたBUS通りです。中央には、Waterlooplein トラムの停留所があります。トラム=9番、12番「ワーテルロープレイン」には、バスとトラム・・・そしてM・メトロ=Waterlooplein地下鉄の駅もあるので・・・とても便利です。これから『レンブラントの家』まで約5分行きましょう・・・アムス散歩はつづく・・・アムス散歩にぽち
2019.03.21
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アムステルダム旅行の計画には、この橋が最初から訪問する事に組み込んでおりました♪偶然にもゴッホゆかりの橋『マヘレの跳ね橋』MAGEREBRUGが宿泊したホテルの近くにありました~なんと偶然じゃないですか。さぁ~早朝のアムス散歩をご一緒にきらりのわがままオランダ旅日記・・第127回ホテルの前に停泊している多くの船です。ガーデニングにお野菜まで栽培して自家用車は、オランダ名物自転車《アムステルダム最終日の計画》マヘレの跳ね橋⇒市庁舎・国立オペラ&バレエ劇場⇒レンブラントの家⇒レンブラント公園(トラムに乗り)⇒ムント広場(ムントの塔)⇒シゲルの花市(トラム)⇒アムステルダム国立美術館(お買物)⇒ホテル⇒空港(出国)2018年11月4日(日)早朝からホテルを出発ホテルからのお散策です。運河の周辺の古い建築の中で・・・ひときわ近代的な建物が『国立オペラ&バレエ劇場』Nationale Opera & Balletホテルのお部屋から運河をはさんでいつも見えて・・・気になっていて真正面から朝から見ると改めて素晴らしいですね。最初に向かうのは『マヘレの跳ね橋』確か~この辺りを曲がってこの辺りの建築物には、特に歴史を感じますレンブラントやゴッホが・・・歩いた時代と変わって居ないはずなんと~アムステル川に・・・朝日がっ。まぶちぃなんと~気持ちの良いお散歩なのでしょうか紅葉の並木道が運河に映り込み橋の名前はヘンドリック・ジヤコビズ・ステエツブルグと読むのかしら?アムステルダム川の向こうにも跳ね橋が見えます。アムステルダム市内には、運河が縦横無尽にありますその運河に沿って家が建てられたのでどうしても橋を渡らなければ・・・移動ができません。これ等の古い家は、リメイクしながら現役で人々が暮らしております。2階入口は・・・階段を上るのですね。両側には、ガス灯ゴッホ『夜のカフェテラス』のガス灯と良く似たデザインです。今は、飾りかも知れませんがっ。アムステルの街を早朝散歩。静かですね~日曜日の朝はホテルから歩いても・・・出会う人はおりません!出会ったのは、朝日のみ。そろそろ橋が・・・多分、ここですホテルから歩いて5分・・・近いですネ。ガス灯は、今では電化しておりますここが『マヘレの跳ね橋』ですか?と、聞きたいけれど~誰もおりませんアムステルムに残る跳ね橋の中で・・・残り少ない「木製の跳ね橋」の中のひとつだそうであります。跳ね橋には、ライトアップの電気がまだ点灯してます。大きな船が来たら跳ね橋が上がるのでしょう~橋を渡ってみると確かに「木製」ですこれだけ大きな橋が木製。中央まで来ました案外、簡単なシステムです。橋のこんな場所に・・・名前が『MAGERE BRUG』オランダ語で「マヘレ・ブルグ」・・・マヘレ橋です。『マヘレの跳ね橋』見つけました!!思ったより・・・大きいです船が来て・・・跳ね橋が上がると信号が「赤」になるみたいです。しかし、静かですね~相変わらず無人であります。ヴィンセント・ファン・ゴッホは・・・この橋を見て故郷アルルの跳ね橋を思い出していつも懐かしく思い出していたそうであります。そして実際に描いたのは、・・・『アルル』に移ってすぐです。昨日『クレラー・ミュラー美術館』で観てきたばかりのゴッホ作『アルルの跳ね橋』でありますとなると・・・何処から見たイメージかしら?もう少し上流です。洗濯をしている女性たちが居る場所は。この辺りゴッホは、この辺りから『跳ね橋』を眺めていたのでしょう?幌馬車と洗濯する女性たちが~私も浮かんできましたゴッホが、アムステルダムに暮らした頃にお散歩したコースであります(多分)そして、レンブラントも・・・・・・お散歩は、つづく・・・アムスにぽち
2019.03.20
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2018年11月4日(日)アムステルダム最後の朝であります~今日も「晴天」♪今回の旅は、雨が多いオランダで晩秋なのに素晴らしいお天気続きでありました。きらりのわがままオランダ旅日記・・第126回ホテルの目の前の運河EDEN HOTEL朝から食欲満天ですヨーグルトにフルーツ&胡桃今朝もオムレツを作っていただきましたマッシュルーム・ソテーが美味しいですカリカリ・ベーコンも美味しいのです今朝のパン・・・気になるパンを切ってまいりましたやはりサーモンは、最高です紅茶とオレンジジュースもいただいて・・・出発ですエレベーターは、自室のカード・キーを指さないと動かないタイプですこのシルバーの箱の前に・・・怪しい男がおります浅黒い移民風の男です。私たちを待ち構えて居たかのように・・・シルバーのキー箱を指さして何か言っております当然の様な顔をして手を出して「キーを貸してくれ!」と小声で言っております。怪しい~何で、小声なの?絶対、怪しいわよこんな時、日本語で相談しても相手には、分からないので便利な日本語。怪しいよね~絶対に怪しい男。掃除の道具とか持って居ないし手ぶらですから~多分、エレベーターで上がって悪い事をするに決まっている私たちは、「ノン、ノン、ノン」と言いながら食事も済んでバックを持っていたので・・・そのままホテルを出発しました。いやいや~危ない人、オランダにもおります。注意して下さいね。いよいよ、最後の1日、歩いて近くから散策ですマヘレの跳ね橋⇒市庁舎・国立オペラ&バレエ劇場⇒レンブラントの家⇒レンブラント公園(トラムに乗り)⇒ムント広場(ムントの塔)⇒【世界遺産】シンゲル運河⇒シンゲルの花市場(トラム)⇒アムステルダム国立美術館(お買物)⇒ホテル⇒空港(出国)今日の計画です))つづくアムステルダムにぽち
2019.03.19
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アムステルダム国立美術館を出ても午後5時ですから~まだホテルに戻るには早すぎるでしょ?とは言っても2018年11月3日(土)もう~すっかり夜であります。きらりのわがままオランダ旅日記・・第125回アムステルダムの歴史が始った場所であります。アムステルダム川をダムで堰き止める事により発展したアムステルダムの町ですから正にここが・・・中心・おへそそんな歴史を確認したいとやってまいりましたが・・・暗すぎます土曜日の夜ですからパブなどには、酔っ払いが多く遊び歩く勇気は・・・ムリムリそれでも、観光客相手のお店は、賑わっておりました。エミchanのリクエストのお土産バック表裏裏は、アムステルダムの地図が印刷してあります。運河で出来た町ですね。私たちが、宿泊したホテルも地図の範囲に入っております。それにしても・・・まだ早いですが疲れて来たし危ない人に声でも掛けられると怖いので早々にホテルに戻りました運河の前の夜景は・・・素敵ですいよいよ明日は、最終日であります。・・・つづく・・・アムステルダムにぽち
2019.03.18
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2018年11月3日(土)夕方の事。私たちは朝から『クレラー・ミュラー美術館』に出掛けて夕方にアムステルダムに戻って来ましたまだ時間があるので『アムステルダム国立美術館』に少しだけ行きましょうきらりのわがままオランダ旅日記・・第124回アムステルダム中央駅アムステルダム中央駅⇒アムステルダム国立美術館への行き方は?「トラム」ちんちん電車が便利です市内の景色も見えて楽しいです私たちは・・・3日間(72時間)乗り放題「チップ・カールト」購入€.17.50(約2200円)紙製ですが、磁気カードです。裏側↓このカードは・・・お勧めです。トラムに乗るには、運行地図を頭に入れて置く必要があります。これが、大分・・・変わっておりました『るるぶ』さんの情報が古くて・・・指示通りのトラムに乗っても「アムステルダム国立美術館」「ゴッホ美術館」には、行けませんアムステルダム中央駅に向って左側のトラム乗り場から2番、12番のトラムに乗ります。(以前は、5番で行けたみたいですが路線変更で行けなくなっております)濃い緑=2番、12番9駅目が「アムステルダム国立美術館」「アムステルダム中央駅行き」は、Central Station と表示。せすがこのCentral Station(中央駅)は、大きな町には、それぞれ中央駅があるのです。2番=Central Station⇔Nieuw Sloten12番=Sentral Station⇔Amstelstation12番は、ややこしいです。セントラル・ステーション⇔アムステルダム(アムステルダム中央駅)行き先表示を間違えないで下さいね!同じ12番でも行き先が反対に乗ったら大変です。トラムの中で撮影しました~トラムの形に曲がりくねっております。乗ったら乗車券を「ピンクのマーク」に押し付けると ピッ!と言います。ピッ!と言う音を確認してから乗りましょう車内は、かなり急激にカーブし複雑に揺れるので、なるべく素早く座りましょう。 座った方が、スリの被害にも会いにくいです。 車内には、電光掲示板があって駅名が次々と表示されるので耳で聞くだけでなく必ず表示を見て確認しましょうトラムの降り方~とは♪降りる駅に近づいたら「降車ボタン」を押して乗車券を降車ドアーのゲートがある「ピンクのマーク」に押し付けると ピッ!と言います。ピッ!!と音がすればOKです。 乗車時と降車時にピッ!としないと次回から乗れない事があるらしいです ゲートのボタンを押してドアーが開き ゲートを押すと降車できます。まぁ~最初は、なるべく降車場所の近くに座ると良いです~ 現地の人のマネをして下さい。「アムステルダム国立美術館」で下車します。はいここが『ライクス』です。無事に着けましたね。私たちは「ミュージアム・パス」を€.64(約8000円)をココのチケット売場で購入しました。オランダの美術館5カ所に大行列せずに入場できます。しかし、5カ所に入らないと・・・元が取れませんので、この日に私たちは、最後の5カ所目としてやってまいりました。1カ所目=王立マウリッツ・ハイス美術館2カ所目=アムステルダム国立美術館3カ所目=ファン・ゴッホ美術館4カ所目=クレラー・ミュラー美術館5カ所目=アムステルダム国立美術館最後のアムステルダム国立美術館は・・・約1時間の鑑賞でした。それでも、もう一度じっくり閉館まで粘りました。閉館ですよ振り返りながら・・・名残惜しいお別れです。まだ午後5時なので「アムステルダム中央駅」に戻るトラムに乗りかつての街の中心地DAMに下車しました。・・・つづく・・・アムステルダムにぽち
2019.03.17
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『クレラー・ミュラー美術館』へ行くのは、少し難しいのですが~私とミーちゃんは、難なくオッテルローの『デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園』の中にあるクレラー・ミュラー・ミュージアムに着いて・・・そうそう帰りのバスの時間も確認しているし「完璧」余裕で帰れると自信を得ておりましたが・・・それがきらりのわがままオランダ旅日記・・第123回クレラー・ミュラー美術館2018年11月3日(土)館内全体を観終わりミュージアム・ショップでお買物をして・・・帰路バス通りまで出て来ましたここで日本人として【注意事項】ですオランダの道路は・・・人=左側通行。車=右側通行です。ですから~日本とは反対にバスが来る訳であります道路の左側に行くので「車は右側通行」なので道路を横断して向こう側の「バス停留所」に行きます。ほほぅ~。用心し過ぎてまだ早かったみたいです。静かです行く時に時間を確認していましたが~1時間に1本です。案外、時間には正確にバスが来ます。バス停の名前=Kröller Müller Museum106番バスに乗って・・・Rotondeでバスを乗り換えます。公園の中の道路は狭いですが・・・公園を出ると道は、広くなり下車する=Rotondeは、広い道路の交差点になっております。バス停留所を間違えないで下さいね~交差点ともなると、どっち方向に進むかさえ(不明)時刻表が、いっぱいあるので「確認」落ち着いて・・・間違えないようにね。誰かに付いて行こう~と他人は、当てになりません!!Rotondeの地図私たちは・・・帰るのでApeldoorn「アッペルドールン駅」に行きます。108番のバスに乗ります。naar Apeldoorn,Station要確認。ここも1時間に1本です注意Kröller Müller Museum=11分発車。 ↓乗車時間=10分くらい ↓Rotond=00分発車なので、少し待ちます。ここで、同じバスに乗って来た30歳位の日本人らしき女性バスを待つ時間に街道筋をどんどん反対方向に歩いて行きましたえええ~っ。あっちって何も無いわよね!女性ひとりで何処へ行くのかしら?周囲は、何もない雑木林。心配になって来ましたが、バスが来てもその女性は、戻って来ませんでした何処へ行ったのでしょうかね。108番のバスに乗りました。Rotonde交差点を発車。後方座席が一段高くなって眺めが良い・・・ウィンドゥが大きいので紅葉の車窓が走ります日本人は、私たち2名だけ・・・周囲の人は、頼りになりませんです~。乗車時間は、45分位でしょうか~Apeldoorn駅に到着。ここから列車に乗ります(観光客は、私たちだけ。)Apeldoorn⇒Amsterdaam Central アッペルドーン駅⇒アムステルダム中央駅アムステルダム・・・と言えばオランダの首都ですから当然、列車は、多く運行されているはず・・・駅の時刻表を見るとええええ・・・っ!アムステルダム中央駅行きの列車が無い嘘でしょ?しかし、駅には・・・誰もおりません!!切符は、日帰り往復切符を買っているので駅構内には、入れるのですが時刻表・電光掲示板にも表示されておりません。何番ホームに行ったら良いかもわからない。呆然としていると・・・駅の構内に自転車屋さんがあってそこの店員さん(19歳位の女の子)多分バイトが私たちに近づいて来ました。おおお~っ。この子には・・・「天使の羽が生えてる!」そう見えたのです!!何とか英語で説明をすると・・・「確かにアムステルダム行きの列車は無いわね!」彼女は、直ぐお尻のポケットから「スマホ」を取り出して「今、検索するから~ちょっと待ってね!」うわぁ~あり難いチャッチャと検索しても・・・「あ~。ちょっと~無いですね!」あらら~途方に暮れる私たち「待ってね~スマホで更に検索。 ありました乗り換えれば行けます。 時間は、掛かりますけど」【オランダ版乗換案内あるのですね】「ここで乗り換えます」スマホで乗換駅を見せてくれます。私たちは、パニくっているので彼女のスマホの文字を必至で覚えます。なになに・・・Hilversum何と読むのでしょうね?覚えにくいですヒルベルスム?おそらく全然違う発音だと思うのですが・・・次の列車が来るのは、おっと~あと5分しかありません!急いで、彼女にお礼を言って駅の階段を上ります。はぁ~間に合いました。列車の一番前には、次の停車駅が表示されるのですが・・・どうも~次の次も表示されて私たち日本人には、分かりにくいのですずっと、掲示をチラチラ見ながら列車に乗って行きました。車内放送の発音は、日本語カタカナ表記とは、かなり違います。おまけに・・・Hilversumをスマホでチラッと見ただけで心配は、つのるばかり列車が停止したのですが駅には、駅名が書いてありません列車の停止する駅名には、Hilversum・・・の文字が見当たりませんえええ~っ。それでも乗客は、大量に降りて行きますもしや?同行のミーちゃんが、反対側のホームの掲示板を見ると「あっ、アムステルダム・セントラルって書いてある電車が来たっ」えええ~~~っ。「乗り換えよ急いで」乗客は、ほぼ降りて私たちは、最後に下車しました。ダッシュ急げや急げ駅の階段を上って・・・急いで下りて列車は、まだホームに留まっておりますドキドキが止まりませんそれでも乗る直前にドアーが閉まったら最悪ですから最後まで、気を引き締めて・・・飛び乗りましたセーフです間違いなくアムステルダム・中央駅に留まります。日本だったらですね~首都・東京駅行が終点ですがオランダは、違いますね~首都=アムステルダム中央駅は、最終到着駅では無いのです。通り過ぎて・・・空港に・・・もっと先までゆくみたいです。いやいや~まだまだ前準備が甘かったですね。大体が、私たちの乗った駅アッペンドールンは、列車が、めったに留まらない駅だったのです。乗り換えて行かなくては、行けないとなると行きの時は・・・珍しいApeldoornに留まる列車だったのであります。停車駅を確認して乗ったとは言え「地球の歩き方」に書いて欲しいです。アッペンドールン=現地発音アッポ、ドーンアムステルダム=アムステルダーヒアリングにも注意であります・・・つづく・・・Apeldoormにぽち
2019.03.16
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いつまでも旅の達人にはなりきれない私きらり。美術館の帰りには、ミュージアム・ショップに寄ってから帰りますが爆買いこそしなくなっておりますが、やはり好きな絵画のグッズを1個くらい欲しいなぁ~乙女心。ご理解下さいませきらりのわがままオランダ旅日記・・第122回クレラー・ミュラー美術館でのお買い物超~ベタですが『マグカップ』何処でも買う訳では・・・ありませんがたまたま好きな形そうそう~形です。温かい物を飲む時に・・・ほっこりそうそう~行ったわね電車とバスを2台も乗り継いで『クレラー・ミュラー』ゴッホ『夜のカフェテラス』今回は本物より・・・マグカップの方が色が濃いですそうです~本物は、思ったより薄かったんです。やはり正確に伝えなくては・・・ゴッホの黄色に青。このこだわりの明度も正確にね!今回の旅でも・・・お気に入りが増えましたそして布バックもクレラー・ミュラー美術館の布バックです「美術館が詳しくて好きな人」しか理解できないお土産なので(残念ながら私の友人には、この美術館の存在を知っている人はおりません)自分土産ですクレラー・ミュラー美術館の作品が日本にいらしたら持参しましょうかこのグレーは、珍しい淡い色です。Kröller Müllerにぽち
2019.03.15
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オランダは、何処まで行っても平らな国であります~山というものが見当ら無いのであります。オランダ人に富士山を見せてあげたいと思ってしまいますがそうなるとジャポネーゼ私たちは、何処まで行っても低い森に驚きそれを楽しむのでありますきらりのわがままオランダ旅日記・・第121回クレラー・ミュラー美術館 Kröller Müller Museum2018年秋11月3日(土)午後、鑑賞が終わり、私たちは・・・美術館を出て来ましたが~そろそろ、現地の方たち(多分)が私たちと入れ替わりに入って行きます大きく息を吸い込んで~森林浴を楽しみます。静かです~クレラー・ミュラー美術館には、彫刻がさりげなく展示されております。グループの幼児が芝生で休んでおります。遠足でしょうか?クレラー・ミュラー美術館のメインエントラスに向かう歩道です。大きな赤い彫刻が見えます。アメリカ人の彫刻家マーク・ディ・スヴェロ1972年‐『Kピース』マーク・ディ・スヴェロ作アメリカ人の彫刻家1972年‐1200cm×1200cm×630cmとても大きな『Kマーク』です作品を構成するのは、大きく真っ赤に塗られたベット固定H型鋼でいくつかのパートで組み合わされてアルファベットの「K」を形作っています。これは・・・作品名の由来ではあるのですがこれが、作品の制作動機になった訳ではありませんマーク・ディ・スヴェロは、作品の構成要素であるさまざまな線を用いて空間に新たな効果を生み出そうとこの作品を制作したのです。バランスはとれていますがひょっとすると今にも崩れてしまうかもしれないそんな予感をまったく感じさせない訳でもありません。マーク・ディ・スヴェロは・・・1960年頃から、すでにニューヨークの造船場や繁華街の戸外スペースでかなり大きな彫刻を制作しています。これ等の遊び心に溢れた作品は、木材や形鋼をロープや鋼鉄ケーブルで結びつけるという構造でした。作品を構成するパーツは、どれも相互にバランスをとっております。「頭の中で、 いつもバランスと力の重心を意識しています。 ダンサーや曲芸師たちが体を動かしながら 力のモーメントをはっきりと感じているように 私も、目には見えない重心が感じられるんです。」マーク・ディ・スヴェロの作品には、多様な分野で新しい潮流が模索されていた前世紀七十年代の躍進的風潮に良く似合うものでした。マーク・ディ・スヴェロは・・・とても大きな作品を作るのですが大抵は、自分ひとりで全部作り上げますこの「Kピース」では・・・彼が自ら起重機を運転してH形鋼を持ち上げて移動させ構成パートを組み立て溶接固定しましたこの自ら起重機を用いて作品を制作するのはマーク・ディ・スヴェロ流であります彼は・・・「起重機を筆にして描いた立体絵画」と呼んでおります「Kマーク」の謎が解決した事で・・・ほぅ。門番さんどうも~お世話になりましたおおっ。もぅ~帰るのかいまた、おいでと。優しい眼差しさぁ~私たちはこれからバスに乗って乗り換えて列車に乗ってアムステルダムに帰ります「クレラー・ミュラー・ミュージアム・最終回」・・・旅日記は、つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.14
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『クレラー・ミュラー美術館』最後の展示室はEXPO・4であります(^-^)♪私が大好きなルドンとシャヴァンヌと並んぶのはナビ派の「モーリス・ドニ」です。独特の色彩で幻想的・・・なぜかカワイイ飾っておきたい作品たちきらりのわがままオランダ旅日記・・第120回ドニMAURICE DENISGranville 1870-Paris 1943Kröller Müller Museum EXPO=4Vepres a I’Hopital 1890Avondgebed in het ziekenhuis 1890Evening prayer in the hospital 1890oil on canvasクレラー・ミュラー美術館EXPO4展示室『病院での夕暮れの祈り』1890年ドニ・・・とは?モーリス・ドニMaurice Denis1870年11月25日-1943年11月13日(72歳没)フランスの人のナビ派の画家、版画家、著述家キュビスム、フォーヴィスム、象徴絵画にも影響を与えた。ドニMAURICE DENISGranville 1870-Paris 1943Kröller Müller Museum EXPO=4『カトリックの秘蹟』1891年クレラー・ミュラー美術館EXPO4展示室モーリス・ドニは・・・「ナビ派」を代表する画家、版画家装飾性に富んだ抒情性に豊かな象徴的絵画や版画を制作し最年少ながらナビ派の画家として確固たる地位を確立した。日常に典拠を得た親密的で柔和な作品たち信仰心と精神性を感じさせる宗教画や神話画、さし絵、壁画装飾など様々な作品を制作しました。ナビ派の中で、理論家としても名高くポール・セリュジェと共にナビ派の絵画表現の理論の中核を担った。ドニは・・・敬虔なカトリック教徒でありました。初期ルネサンスのフラ・アンジェリコや新古典主義に強い影響を受けました。(アール・ヌーヴォーとの類似性も指摘される)。ドニMAURICE DENISGranville 1870-Paris 1943Kröller Müller Museum EXPO=4Le monotone verger 1898De eenvoudige boomgaard 1898The monotone orchard 1898oil on carticatcクレラー・ミュラー美術館EXPO4展示室にてドニは・・・1870年11月25日、グランヴィルに生まれる。パリ郊外のサンジェルマン・アン・レで幼少期を過ごす1882年~1888年からアカデミー・ジュリアン入学セシュリエ、ボルナール、バトットンらと知り合う。総合主義のゴーギャン、ベルナールらの新しい絵画表現に魅了されドニは「ナビ派」を結成。1890年8月(20歳)の時に芸術雑誌「芸術と批評」へ理論的な芸術論文を「絵画とは、軍馬や裸婦、 或いは何かの逸話である以前に 本質的には一定の秩序の上に集められた 色彩で覆われる平面であることを まずは認識すべきである・・・。」と述べ。セザンヌ以降の近代絵画の定義や理論考察に大きな影響を与えた。ルドンにも大きな関心と尊敬の念を寄せる。1893年から古典主義的な蛍光を強めつつ1899年、ポン・タヴェンへ初来訪。シャンゼリゼ劇場やヴェジネの教会附属礼拝堂の壁画制作。50年近くブルターニュの情景を描き続けた。さぁ~ここまで友人ミーちゃんと共に作品を鑑賞してまいりました。クレラー・ミュラー・ミュージアムのこの時に展示してある作品は、全部鑑賞致しました来た道を戻ることになりますゴッホの『積みわら』ゴッホ『夜のカフェテラス』ゴッホ『アルルの跳ね橋』ゴッホ『糸杉と2人の女性』ゴッホ『糸杉と星の見える道』この辺りを・・・もぅ一度観ながら入口へ戻りますKröller Müllerにぽち
2019.03.13
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シャヴァンヌの最もシャヴァンヌらしい作品にクレラー・ミュラー美術館で出会いました♪EXPO=4近代絵画の展示ですマグラダのマリアが美しいですねきらりのわがままオランダ旅日記・・第119回シャバンヌPIERRE PUVIS DE CHAVANNESLyon 1824- Paris 1898Kröller Müller Museum La Madeleine au desert(Meditation)1869Maria Magdalena in de woestijn(Meditatie)1869Mary Magdalene in the desert(Meditation)1869oil on canvasクレラー・ミュラー美術館・EXPO・4所蔵シャバンヌ・・・とは?ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌPierre Puvis de Chavannes1824年12月14日-1898年10月24日(73歳没)19世紀フランス人の画家クールベやマネたちと同世代だがシャヴァンヌの作風は・・・「象徴主義」である。(写実主義、印象派、アカデミズムとは少し違う)物語風の伝統を受け継いで自然の風景と人物像が調和した独自の作風を作り上げ・・・後の世代に大きな影響を与えフランスを代表する巨匠として評価された。大規模な壁画の仕事を次々とこなし多数の肖像画も描いた。神々や聖人を描きながらもシャヴァンヌの作品は、その芸術が静かに湛える自然の息吹こそが多くの画家たちをひきつけた。ピカソもその中のひとりで美術館に何度も通って模写していたそうであります。シャヴァンヌは・・・1824年12月14日、リヨンの織物業の名門に生まれた。父の後を継ごうとしたが病気になり学業を中断。療養の為にイタリアを旅し、帰国後は、画家を目指す。ロマン派のドラクロワと古典的な画風のトマ・クチュールに師事。1850年、サロンにデビューするも8年連続で落選。ナポレオン3世のパリ大改造計画により公共の建物の壁画を多く依頼される。シャヴァンヌは・・・イタリアを旅した際にフレスコ画に魅せられ作品には、フレスコ画を思わせる色調や表現が見られ古典文学や神話に多く題材を取り画面には、静けさと詩的で夢幻的な雰囲気に満ちている。その後のシャヴァンヌの特徴は・・・立体感や遠近感、陰影を抑えた平面的で装飾的な処理中間色を多用したフレスコ画的色調などである。・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.12
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『クレラー・ミュラー美術館』には、ルドンの素晴らしい作品も展示してありました♪象徴主義の代表的な画家ルドンの不思議な世界とクレラー・ミュラー・ミッジアムの紅葉がガラスに反射して(訪問=2018年11月3日)益々、不思議な世界に見えてまいります・・・がきらりのわがままオランダ旅日記・・第118回ルドンODILON REDONBordeaux 1840-Paris 1916Kröller Müller Museum EXPO-4L’Homme primitif(Le chasseur)circa 1915-1916De primitieve mens(De jager)circa 1915-1916Primitive man(The hunter)c.1915-1916pastel and black chalk on paperクレラー・ミュラー美術館・EXPO=4『人間』1915年-1916年大好きなルドン最晩年の作品であります淡い背景の中心に・・・黒い人間が描かれております。ルドンに置いて「黒」の存在とは・・・「黒を大事にしなければならない 黒は、何ものにもけがされることがない 黒は、眼を楽しませてくれるわけではないし 肉感性を目覚めさせてくれるものでもない 黒は、パレットやプリズムの 美しい色以上に精神の活動家なのだ。」「ルドン」にとって最終的に象徴とするシンボルは「黒」となったのでしょうか?ルドン・・・とは?オディロン・ルドンOdilon RedonBertrand-Jean Redonベルトラン-ジャン・ルドン(=本名)1841年4月20日・22日-1916年7月6日(76歳没)19世紀後期から20世紀初期に活動したフランス人画家オディロン・ルドンは・・・象徴派の代表的な画家。象徴主義は、19世紀末に起こった美術と文学の運動である。無意識と説明不可能な神秘を重視する傾向があります。夢やファンタジー、自覚あるあるいは、無意識の欲望を形にするため象徴派の芸術家たちは、神話や古典に由来するシンボルを用いるのであります。ルドンODILON REDONBordeaux 1840-Paris 1916Kröller Müller Museum EXPO-4L’apparition circa 1890De verschijning circa 1890The apparition c.1890oil on paper mounted on cradled panelクレラー・ミュラー美術館・EXPO=4オディロン・ルドンの・・・非現実的な世界が大好きな私きらり。時々、怖い生物が出て来ると困るのですがルドンは全てを充分承知のうえで描いております。自分の不可思議な絵を分析して解釈しようとした評論家についてルドンは、こう書いています。「あの評論家が 僕の絵について犯した 失敗のすべては・・・ 明確に定義できないもの 明快に理解できないもの はっきりとした形が与えられていないもの 明らかな説明がができないもの そういうものが あの評論家には見えず わからないってことだ。」ルドンの絵は・・・鑑賞する私たち自身が理解できない神秘の中に自ら分け入って行こうと努力しなければなりません!「僕は、 神秘に足を踏み入れるための 小さな窓を開けたんだ。 物語を作ったのは僕だ。 その先生に進むかどうかは、 彼らの責任だ。」そうそう・・・分かりますそれでは、もう一枚分け入ってみましょうか~ルドンODILON REDONBordeaux 1840-Paris 1916Kröller Müller Museum EXPO-4Le Sacre Coeur(Le Boudha)circa 1906Het Heilig Hart(De Boeddha)c.1906pastel and charcoal on paperクレラー・ミュラー美術館・EXPO=4・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.11
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国立公園の中にある『クレラーミュラー美術館』の一番奥まで進んでまいりました♪公園を成す建築物事態が芸術の一部である素敵な美術館でありますきらりのわがままオランダ旅日記・・第117回Kröller Müller Museum EXPO=42018年11月3日(金)美術館の大窓は・・・巨大なカンヴァスであります遊歩道の先には、彫刻が見えます紅葉が良い感じですこの押しつけがましく無いまったりした中の芸術鑑賞が、気に入りましたそして『クレラー・ミュラー・ミュージアム』の鑑賞は・・・EXPO=4。19世紀末から20世紀にパリからフランドルにかけて時代の先駆けとなった近代芸術の画家たちの展示が嬉しいプリッカーJOHAN THORN PRIKKERDenHaag 1868-koln 1932Kröller Müller MuseumKruisafneming 1892Descent from the cross 1892oil on canvasクレラー・ミュラー美術館・所蔵キリストの十字架降下ですアール・ヌゥーヴォーの衣装が斬新です。ヨハン・トルン・プリッカー・・・とは?Johan Thorn Prikker1868年6月6日-1932年5月5日(63歳没)オランダのデン・ハーグ生まれの画家。19世紀末~20世紀前半にオランダとドイツで活躍。プリッカーは・・・1868年6月6日、オランダ・デンハーグで父親=ヘンドリック・フィリップスは、画材店を営みつつ壁画やガラス工芸の仕事をしていた。プリッカーは・・・1881年~1887年、デン・ハーグの美術アカデミーで学ぶ。ここで画家として活動する。初期は「ナビ派」や「新印象派」の影響が見られる油彩画、水彩画、パステル画を描く。1893年、ベルギー、ブリッセルの「二十人会」レ・ヴァン展に出展した。『許嫁』クレラー・ミュラー美術館・所蔵が代表作である。ブリッカーは、この時期には家具やテクスタイルのどのデザインも制作しました。1904年、ドイツ西部・クレーフェルトへ渡り1914年、ドイツ国籍取得。壁画やステンドグラス、モザイク画を多く制作。クレーフェルト・カイザー・ヴィルヘルム美術館『人生の諸階段』1923年ロッテルダム市庁舎『市民の間』1926年、1927年頃など。デュッセルドルフ、ケルン、その周辺にはプリッカーの手掛けるステンドグラスや壁画が多く残されている。どこにあるか、よく調べて・・・(ぜひ、現地で確認したい)・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.10
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嵐は・・・どこに?猫カワイイっ『クレラー・ミュラー美術館』EXPO=4の広い空間にはオランダの抽象画家ファン・デル・レックの作品が展示されておりますきらりのわがままオランダ旅日記・・116回レックBART VAN DER LECKUtrecht 1876-Blaricum 1958Kröller Müller MuseumDe kat 1914The cat 1914casein on eternite37.0cm×29.0cm【クレラー・ミュラー美術館】所蔵『猫』1914年バルト・ファン・デル・レック・・・とは? Bart van der Leck1876年11月26日-1958年11月13日(81歳没)オランダ・ユトレヒト出身の抽象画家であるレックBART VAN DER LECKUtrecht 1876-Blaricum 1958Kröller Müller Museum左『嵐』1916年 120.0cm×160.0cm【クレラー・ミュラー美術館】所蔵この作品の題名は『嵐』です。嵐は、どこに近寄って見ると・・・左の海かしら「赤」と「黄色」そして「青」の三原色に「黒」と「白」も加えた単純な色と堂々と「大きな面」を構成要素にして描かれております絵の左には・・・高波の荒れ狂う嵐の海が描かれ赤い帆の漁船も見えます。右側には・・・海浜の砂丘の足下には、黒いケープをまとった漁師の妻たちがじっと漁船の帰りを待っております。絵を二分するきっぱりと強い対角線が海と陸を隔てている漁船と女たちの横に流れるケープが嵐の凄まじさを感じさせます。悪天候の危険性は、絵を囲んだ赤い枠でさらに強調されております。はっきりと二分された海と陸を結ぶのは、空を表す白と砂丘を表す黄色です。こうした構成要素のどれもが一体となって絵に強い動きを与えています。レックは、漁師たちの危険な厳しい仕事を漁船の帰りをじっと待つ漁師の妻や母親も加えてこうして見事な絵に表現しました。1916年以降、レックは絵というものは単純な図形にまで凝縮された形を遠近法無しで三次元的空間を感じさせずに構成した平面であるという考えで制作活動をおこないます。この考えに立って制作された作品には完璧な平板さが生まれ同時に壁にかける絵画に威風堂々とした記念碑的重みが加わります。そしてこれこそファン・デル・レックが作品で意図し表現しようとしたことだったのです。バルト・ファン・デル・レック左『コンポジション1916年4番』1916年作113.0cm×222.0cm【クレラー・ミュラー美術館】所蔵1914年、ファン・デル・レックは・・・ミュラー合名商会からの指示でスペインと北アフリカで経営していた鉄鋼鉱山へと向います。目覚ましかった鉱山事業を記念碑的な大型色窓ガラスとして制作するために下準備としてレックは、鉱山現場の様子を数多くデッサンに収めます。レックは・・・アルジェリアの鉱山の様子を写実的なスケッチ連作として記録し後になってこれらデッサンの数点を三枚組の絵にしこの作品『コンポジション1916年4番』の下絵として使用しました。これらの下絵となったデッサンには左右に岩山と道あるいは線路そして中央に橋とクレーンのある風景が描かれております。帰国したレックは・・・こうしたデッサンをベースに風景を抽象化し色を加えて大型の習作4点を制作します。この習作の四番目の絵では、橋は、水平で細長く黒いラインにそして道あるいは線路であったものは相互に延長上にある対角線にまで抽象化されております。こうして、抽象化の進められたデッサンがこの三枚組絵の中央の絵の下絵になりました。左右の2枚は・・・真っ黒な坑道を思わせます。注意深くこの二枚を見ていると・・・非常に単純化されスケッチ風に描かれた坑夫二人が現れて来ます。一番上のに加えられた白い点は、おそらく坑道の天井に吊るされたランプなのでしょう。ヘレーヌ・クレラー・ミュラー夫人に宛てた手紙にレックは、こう書いています。「鉱山では、何か猛々しいほどの 威圧感がすべてを支配しています。 圧倒的な現実が露になってそこにあり 何者もそこから逃れられず ロマンなど微塵のかけらもありません」バルト・ファン・デル・レック『コンポジション1917年4番』一番右(工場から出てくる)、1916年作95.5cm×102.2cm【クレラー・ミュラー美術館】所蔵1910年、ファン・デル・レックは・・・すでに『工場から出てくる』を描いております。それは、工場の仕事が終わって外に出てくる労働者たち男や女そして子どもを描いたものでした。1917年には、この1910年の最初の絵を下にして、二枚の抽象画を制作しています。一枚は、彩色された線による構成でもう~一枚は、彩色された面による構成です。この作品『コンポジション1917年4番』では・・・工場建物を画面上部の水平と垂直の図形にしてしまいかなり抽象化して描いています。工場建物の前面、画面下半分にあたる部分はさまざまな大きさと色のブロックが描かれています。こうした単純な図形と三原色そして、白と黒だけがこの絵を構成しております。ファン・デル・レックがこの作品を制作したのは芸術家集団「デ・ステイル」に参加していた頃でした。しかし、仲間の芸術家たちとは反対にファン・デル・レックは、自分の絵から現実の姿を全く取り去ってしまうことは好まずこうした意見の相違から後には「デ・ステイル」から脱退します。後年のファン・デル・レックは・・・もう~社会的モチーフを扱う事はしませんでした。自宅近くや、個人的生活に絵の題材を求め家族の肖像や静物画、動物、木や草花を描くようになります。描こうとするモチーフを彩色面に単純化しそれも特に線を使って白いバックに次々と描き続けました。それはまるで・・・これこそが揺るがぬ本質なのだと主張しているかのようです。・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.09
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『クレラー・ミュラー美術館』には、オランダ人画家=モンドリアンのそれぞれの時代の作品が収蔵されております(^0^)♪きらりのわがままオランダ旅日記・・115回モンドリアンPIET MONDRIAANAmersfoort 1872-NewYork 1944Kröller Müller Museum EXPO=4Compositie no.XI circa 1912Composition no.XI c.1912【クレラー・ミュラー美術館】EXPO=4所蔵oil on canvasモンドリアン・・・とは?Pieter Cornelis Mondriaanピーテル・コルネーリス・モンドリアン1872年3月7日-1944年2月1日(71歳没)19世紀-20世紀のオランダ出身の画家ワシリー・カンデンスキーとカジミール・マレーヴィチ、らと並び本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家。初期には、風景画、樹木などを描いたがやがて完全な抽象へ移行する。有名な『リンゴの樹』の連作を見ると樹木の形態が単純化され完全な抽象へと向かう課程が読み取れる。作風は、表現主義の流れをくむカンディンスキーの「熱い抽象」とはまったく対照的で「冷たい抽象」と呼ばれる。水平と垂直の直線のみによって分割された画面に赤・青・黄の三原色のみを用いるというストイックな原則を貫いた一連の作品群が有名。モンドリアンPIET MONDRIAANAmersfoort 1872-NewYork 1944Kröller Müller Museum EXPO=4Tableau no.1 1903Tableau no.1 1913oil on canvas【クレラー・ミュラー美術館】EXPO=496.0cm×64.0cm『作品1番』1913年モンドリアンは・・・初めは、ハーグ派のごく自然で写実的な絵を描いておりました。こうした初期作品の典型としては、例えばアムステルダム近郊のハイン川の夕暮れ時を描いた情緒溢れる作品が複数あります。絵の変化は、1908年から現れ始めモンドリアンは、写実的な手法から徐々に離れてゆきます。後に「私の絵でまず変わったのは色使いだ。 現実にある色じゃなく もっと純粋な色を使い始めた。 自然そのままの色をキャンヴァスの上で その通りに再現することは 実際不可能だからね。 だけどどこか本能的に 自然の美しさを表現するために これまでとは違う 新しい絵の描き方があるはずだと感じていたんだ。」ピカソとブラックの起こしたキュビスムなど美術の新しい潮流とその動向を自分の目で見てみようとモンドリアンは、1911年、パリを訪れます。そこでキュビスムに感化され再び以前のようにグレーやオークル、茶色などを使うようになり一目して明らかに何を描いているのかわかる写実的な絵もだんだんと描かなくなります。この『作品1番』は・・・キュビスムの分析的手法が明瞭に現れております。絵のモティーフは、バラバラに分析分解され個々に分解されたたくさんの欠片になっております。これ等の欠片が水平垂直の両方向へと伸びる線真っ直ぐな、もしくは少々たわんだ線グレー、あるいは彩色面となって生きているような動きのある構成を生みだしております。この作品や同じ年に制作した作品も「変化し続ける自然の形態の その影に潜んだ純粋で 変化することのない真実」へ近づく第一歩を踏み出したのであります。モンドリアンPIET MONDRIAANAmersfoort 1872-NewYork 1944Kröller Müller Museum EXPO=4Compositie met raster 6: ruit,Compositie met kleuren 1919Composition with grld 6:lozenge,composition with colours 1919oil on canvas【クレラー・ミュラー美術館】EXPO=4所蔵1919年モンドリアンPIET MONDRIAANAmersfoort 1872-NewYork 1944Kröller Müller Museum EXPO=4Contra-compositie X 1924Comtra-composition X 1924oil on canvas【クレラー・ミュラー美術館】EXPO=4所蔵新しい時代には・・・美術が大きな役割を果たすとの強い信念がモンドリアンを動かしていました。自らが起こした新造形主義絵画で、普遍的な調和を表現したいと願っていました。「私の絵が何を表現しているかって? 私はただ、 線と色と平面を相互にうまくバランスを持たせて 美しい調和を作り出そうとしているんだ。 これは画家なら誰だって目指すことだが 私がやるのは最も明快で最も力強い方法だ。」モンドリアンにとっては・・・「美術におかるバランスは、 人間にとっても重要である。 例え人の生命がある時期しばらく バランスを失うような事態にあったとしても 人の命の土台がバランスと調和にあることを 美術ははっきりと教えてくれる。」ものなのです。そして、このバランスと調和は、何の形も想起させない表象媒体によって最もうまく視覚化できるとモンドリアンは、述べております。そのために作品に水平または垂直な線、赤・青・黄の三原色そして無彩色の白と黒、グレーのみを使いました「形体や形体になる色にこだわらないこと。 これが新造形主義だ。 目の前に実際の形としてあるものに あまり振り回されないこと。 これが美術の新しい精神だ。 美術とそして自らの人生においても 全体のバランスと均整のみに専念し これを創造し 見事にバランスを持たせようと努めること。 これが、現代における立派な制作活動なんだ。 これこそが未来を創っていくのだ。」・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.08
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『クレラー・ミュラー美術館』Kröller Müller Museumの一番奥のEXPO=4キュビスムの創始者であるピカソとブラックの作品が展示してありますきらりのわがままオランダ旅日記・・第114回ブラックGEORGES BRAQUEArgenteuil 1882- Paris 1963Kröller Müller MuseumGuitare et verre 1917Gitaar en Glas 1917Guitar and glass 1917【クレラー・ミュラー美術館】EXPO4所蔵oil on canvasジョルジュ・ブラック・・・とは?Georges Braque1882年5月13日-1963年8月31日フランスの画家パブロ・ピカソと共にキュビスムの創始者のひとりピカソより画家としてのキャリアは少ないが絵画における発明の才能は、ピカソも一目を置いていた。第一次世界大戦を挟んで画風は、一変するが生涯に渡って絵を描き続けた画家である。体格が良くイケ面であったらしい?ブラックは・・・セーヌ川沿いの町アルジャントゥイユで育った。少年時代は、家業のペンキ屋・装飾画家の見習いをしながら1897年頃~1899年までル・アーヴルのエコール・デ・ボザールで夜に学ぶ。1900年、パリへ。1902年(22歳)から美術学校に通う。初期には・・・マチスの影響を受け「野獣派」に近い作風。1907年、サロン・ドートンヌでセザンヌの記念回顧展を訪れる1907年11月、詩人ギョーム・アポリネールと共にピカソのアトリエを訪れ『アヴィニヨンの娘たち』【ニューヨーク近代美術館】所蔵『アヴィニョンに娘たち』を見て衝撃を受けるブラックは・・・セザンヌとピカソの絵画にほぼ同時に影響を受けることとなった。1906年、ブラックは、セザンヌ的な風景画を数点残した。とは言うが・・・セザンヌとは全く違っていたらしい?キュビスムの語源となったのは・・・小さなキューブとマティスに評された『レタックの家』である。【ボストン美術館】所蔵(左)ブラック(右)ピカソブラック最初の『家と木』は、この年の作品。この時期の絵画は、セザンヌ的な構図でキュビスム的である事。1909年、ブラックは2点の作品をサロンへ出品。このとき初めてキュビスム的絵画が大衆に知られ大きな噂となる。1912年頃から・・・ブラックは、カンヴァスの一部に丁寧に木目を描いたり絵の具に砂を混ぜるなど後のコラージュやパピエ・コレに通ずる作品を制作した。1914年前半は、ブラックは、ピカソとパリで作品を制作した。第一次世界大戦が勃発しブラックは出征。1917年、ブラックは製作開始。この年の作品ブラックKröller Müller MuseumGuitar and glass 19171919年、ブラックはローザンベールの画廊で個展を開く。1920年、サロン復活。1918年~1942年、小型円形テーブルの連作で幾何学的な絵画から色彩豊かなスタイルへ進展していった。1930年~1940年前後、黒や灰色、茶色を主体とした静物画を手がけた。1963年8月31日、パリにて死去。ブラックFruits Sur une nappe et compotiポンピドゥ・センター【国立近代美術館】所蔵クレラー・ミュラー美術館 Kröller Müller Museum館内地図 EXPO=4 展示室は、一番下です・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.07
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『クレラー・ミュラー美術館』一番奥のコーナー「EXPO=4」までまいりました♪最初の展示室は・・・「パブロ・ピカソ」のキュビスムの時代の作品が展示してありましたきらりのわがままオランダ旅日記・・第113回ピカソPABLO PICASSOMalaga 1881-Mougins 1973Kröller Müller MuseumGitaar 1919Guitar 1919oil and sand on canvas『ギター』1919年パブロ・ピカソ・・・とは?Pablo Picasso1881年10月25日-1973年4月8日(91歳没)スペイン・マラガ出身の画家主にフランスで制作活動をしました。画家、素描家、彫刻家である。ジョルジュ・ブラックとともにキュビスムの創始者として知られている。生涯において13500点の油絵、素描、34000点の押絵、300点の彫刻、陶器を制作し最も多作な美術家であるとギネスブックに記されている。ピカソPABLO PICASSOMalaga 1881-Mougins 1973Kröller Müller MuseumViolon 1911-1912Violin 1911-1912oil on canvas『バイオリン』1911年‐1912年この『バイオリン』は・・・分析的キュビスムとよばれる典型的な作品であります。この段階まで展開されたキュビスムの絵は、モチーフの形態が分析解体されてそれぞれ別個の部分として捉えられ複数の視点から見ているように描かれます。こうした「同時構成」作品では・・・錯覚を利用した自然な遠近法は、まったく見られなくなります。代わりに線と陰影で区切られたほぼ平面な構成、並行するあるいは前後に並んだ平面間の相互表現が現れますこの作品のモチーフである・・・『バイオリン』の姿は、バラバラに分解されたように画面に広がって描かれています。分析的キュビスムは、構成がモチーフの中央から始まって外周に向って・・・「消失して」行くこと。この技法では、縦長の円形になるのが特徴。色は、かなり制限されてオークル、茶色、灰色だけである。作品の主眼は、あくまでも新しい形体の追及でありますピカソPABLO PICASSOMalaga 1881-Mougins 1973Kröller Müller MuseumWoman in a Corset Reading 1914-1917ピカソの作風・・・とは?ピカソは・・・91歳と長い人生の中で作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれています~ ☆青の時代(1901年~1904年) 19歳のとき、親友のカサヘマスが 自殺したことに大きなショックを受け 鬱屈した心象を、無機顔料のプロシア青を基調に使い、 盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。 現在「青の時代」という言葉は、 孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。 ☆ばら色の時代(1904年~1907年) フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、 明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。 ☆アフリカ彫刻の時代(1907年~1908年) アフリカ彫刻の影響を強く受けた時代。 このとき、キュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。 ☆セザンヌ的キュビスムの時代(1909年) スペインのオルタ・デ・エブロに旅し、セザンヌ的な風景画を描いた。 ☆分析的キュビスムの時代(1909年~1912年) モチーフを徹底的に分解・記号化し、 抽象絵画にもっとも接近した時代である。 ☆総合的キュビスムの時代(1912年~1918年) 装飾性と色彩の豊かさが特徴で、 ロココ的キュビスムとも呼ばれる。 このころ、新聞紙や壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュを発明したが、 これはマルセル・デュシャンのレディ・メイドの先駆である。 ☆新古典主義の時代(1918年~1925年) 妻オルガと息子パウロをモデルに、どっしりと量感のある母子像を描いた。 ☆シュルレアリスム(超現実主義)の時代(1925年~1936年 ) 化け物のようなイメージが多く描かれた時期で、 妻オルガとの不和が反映していると言われる。 代表作は『ダンス』『磔刑』など。 ☆ゲルニカの時代(1937年) ナチ・ドイツ(実行したのはドイツ空軍のコンドル軍団である)が スペインのゲルニカを爆撃したことを非難する大作『ゲルニカ』や、 その習作(『泣く女』など)を描いた。 ☆晩年の時代(1968年~1973年) 油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。 自画像も多く手がけた。 ・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.06
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『クレラー・ミュラー美術館』EXPO=3.おやっ!農民画家で有名なミレーの作品が!確か・・・アメリカでもありましたがきらりのわがままオランダ旅日記・・第112回『クレラー・ミュラー美術館』EXPO=3ミレー・・・とは?Jean-François Milletジャン・フランソワ・ミレー1814年10月4日-1875年1月20日(60歳没)19世紀フランスの画家「バルビゾン派」の代表的な画家のひとり写実派の農民画家。ミレーJEAN-FRANCOIS MILLETGruchy 1814- Barbizon 1875Kröller Müller MuseumLe bout du village de Gruchy 1854Aan het einde van het dorp Gruchy 1854End of the hamlet of Gruchy 1854oil on canvas『グリューシュの村はずれ』1854年ミレーは・・・故郷シェルブールからパリへ出て新古典主義の画家=ドラローシェに師事肖像画や歴史画を学ぶが・・・サロンでは、認められなかった。1848年、出展「箕をふるう人」でサロンに初入選それを転機に農民画家へと転向する。1849年、パリから南東60kmの場所にあるバルビゾン村へ移住し「バルビゾン派」となる。バルビゾンは・・・フォンテーヌブローの森の入口に当たり1820年代からコローが写生に訪れるようになり1830年代からは・・・ルソー、ペーニャ、1840年代には・・・トロワイヨン、ドービニーが滞在するようになる。彼らの拠点は、1824年にフランソワ・ガンヌが開業した「ガンヌの宿」である。ミレーと、シャルル・ジャックも当初は、ガンヌの宿に滞在したがその後、家を借りる。6月28日、サンシェへの手紙(ミレーの支援者)「ジャックと私は、 しばらく当地に滞在することに決めた。 2人とも結局、家を借りてしまった。 物価は、パリに比べれば極めて安く パリに出ようと思えば 大した時間もかからずに行ける。 とりわけここの風景は素晴らしい。 パリにいるよりもずっと静かに制作に打ち込めるだろうし もっと良いものが描けると思う。 要するにここしばらく暮らしてみたいのだ。」1850年、第4子(三女)マグリット誕生。1851年、サロンに『藁を束ねる人』と、代表作『種まく人』入選。『種をまく人』1850年【ボストン美術館】所蔵1851年、サンシエへの手紙「結局、農民画が私の気質に合っている。 社会主義者とのレッテルを貼られることがあったにしても 芸術で、最も私の心を動かすのは 何よりも人間的な側面なのだ。」1851年12月、ナポレオンがクーデターを起こす1852年12月、ナポレオンが皇帝に即位。1853年、農民画「刈入れ人たちの休息」ほか2点をサロンに出品。好評を得て2等賞を与えられる。1853年、「四季」連作を制作(夏=落穂拾い)1853年4月、母が亡くなり、遺産相続の為に故郷へ帰郷。カトリーヌと正式に結婚。『クレラー・ミュラー美術館』所蔵A woman baking bread 1854『パンを焼く女』1854年1855年、サロンはパリ万国博覧会に吸収され実施される。ミレーは、3点を出展。「木こり」と「草を焼く農婦」は、落選。「接ぎ木をする農夫」だけが入選。1856年3月、第5子(四女)エミリー誕生。1856年以降、ミレーにとって最も苦しい経済状態であった。予定していた絵の買い手が代金の額に納得せず売れなかった。家族の人数が増えたことにより益々、生活は苦しくなった。『落穂拾い』1857年パリ【オルセー美術館】所蔵 83.50cm×111.0cm1857年、サロンに「落穂拾い」を出品。1859年、サロンに「死と木こり」落選。「牛に牧草を食べさせる農夫」入選。1861年、サロンで「羊の毛を刈る女性」「ミルク粥」「待つ人」が入選。第8子(三男)ジョルジュ誕生。1863年、サロンに代表作「鍬に寄りかかる男」「羊毛を梳く女」と「夕暮れに羊を連れる羊飼い」を出品。1864年、サロンで「羊飼いの少女」と「仔牛の誕生」を出品。「羊飼いの少女」は、好評を博し1等賞となる。この作品からミレーの評価は、一気に高まった。『グリューシュの村はずれ』1856年【ボストン美術館】所蔵1866年、初めての大型の風景画『グリューシーの村はずれ』を制作。パステル画では、絵具のように混色できないこともあって油絵でも、それまでの褐色を基調としていた絵は、明るい色彩が増えてきた。ガーヴェと契約で収入が安定し1866年~1868年、毎年ヴィシーを訪れ余裕ができた。『晩鐘』1857年-1859年パリ【オルセー美術館】55.0cm×66.0cm1867年、パリ万国博覧会の美術展覧会でミレーは、一室を与えられ「馬鈴薯の収穫」、「死と木こり」「落穂ひろい」「晩鐘」「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」「羊の毛を刈る女」「羊飼いの少女」「馬鈴薯植え」「羊の牧舎、月光」9点をの代表作を展示する。これによりミレーは、巨匠としての名声を確立した。・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.05
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『クレラー・ミュラー美術館』EXPO=3.アンリ・ラトゥ-ルなどの静物画を~いやいや柘榴・・・流石です。美しいですねきらりのわがままオランダ旅日記・・第111回アンリ・ラトゥールHENRI FANTIN‐LATORCrenoble 1836- Bure 1904Kröller Müller MuseumNature morte(primeveres,poires et grenades)1886Stilleven(Primula’s,peren en granaatappels)1866Still life(Primroses,pears and pomegrates)1866oil on canvas【クレラー・ミュラー美術館】所蔵ラトゥール・・・とは?アンリ・ジャン・テオドール・ファンタン・ラトゥールHenri Jean Théodore Fantin-Latour1836年1月14日-1904年8月25日フランスの画家、リトグラフの版画家ファンタン・ラトゥールは・・・フランス・グルノーブルで生まれパリのエコール・デ・ボザールで絵を学んだ1876年、画家仲間だったヴィクトリア・デュブールと結婚夏になるとビュレにあった妻の家族の田舎の邸宅で過ごした。ラトゥールの作品は・・・静物画・花の絵友人の画家・作家たちのグループ肖像画クラシックの大作曲家たちの作品を描いた精巧なリトグラフなどラトゥールをイギリスに招いたのは、ホイッスラーであった。SIMON SAINT-JEANLyon 1808- Lyon 1860Kröller Müller MuseumStilleven in landschap circa 1850-1860Still life in a landscape c.1850-1860oil on canvas【クレラー・ミュラー美術館】所蔵・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.04
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『クレラー・ミュラー美術館』ファン・ゴッホ・ギャラリーからEXPO=3に戻るとまたまた「セザンヌ」を発見しました改めてポール・セザンヌについて分析してみたく筆をとりましたきらりのわがままオランダ旅日記・・第110回セザンヌPAUL CEZANNEAix-en-Provence 1839-Provence 1906Kröller Müller MuseumLa Route Versl’etang circa 1880De weg naar meer circa 1880Road leading to the lake c.1885 oil on canvas【クレラー・ミュラー美術館】所蔵『池に続く小道』1885年頃セザンヌは・・・1885年頃、故郷プロヴァンスに戻って風景画を多く描きましたセザンヌ・・・とは?ポール・セザンヌPaul Cezanne1839年1月19日-1906年10月23日(67歳没)後期印象派のフランス人画家近代絵画の父。20世紀絵画の扉を開いた多角的な視野の採用対象の内面に迫る心情性に富んだ形態・色彩の表現単純化された堅牢な造形性など印象主義的なアプローチとは異なる独自性に溢れた革新的な表現方法によって絵画を制作した。「印象派より永続的で堅牢なものを」との印象派的な過度の分析方法に反対の意を表し造形的な画面の構成に力を注いだ。長く正当な評価を得ることはできなかったものの自然などのモティーフを前にしたときの感覚を重要視した表現は、数多く生まれた世紀末~20世紀初頭の絵画様式特にピカソやブラックによって提唱・創設されたキュビスムの形成に多大な影響を与えた。セザンヌの・・・個性的な表現手法は、19世紀フランス画家アルフレッド・モンティセリから受けた影響が色濃く反映している。セザンヌは、静物画や風景画を好みこれらの画題で幾多の作品を残しているが画像画や自画像、水浴画に代表されるモニュメンタルな大構図の作品でも優れた作品を手掛けている(おいたち)1839年、当時は結婚していなかったものの南仏の小さな町エクス・アン・プロヴァンスで帽子の販売業を営んでいた裕福な父=ルイ・オーギュスト・セザンヌと母=アンヌ・エリザベート・オノリーヌの間に長男として生まれ1844年、両親が正式に結婚した後に父が、知人と共に「セザンヌ・カバソール銀行」を設立。事業は、成功しセザンヌ家は裕福になる1852年-1858年、エミール・ゾラと知り合い詩作や絵画の創作に熱中しながら友情を育む。1858年、エミール・ゾラは、パリへと移住。1859年、父の希望で法律を学ぶためエクスの大学へ入学するがその就学は、最小限にとどめ、本格的な絵画を学び始める。次第に画家への想いが強くなり1861年、法律の勉強を放棄。パリへと旅立つ。アカデミー・シュイスに入る。ピサロやギヨマン等と出会う。一時、エクスに帰郷するがパリへ再来。1862年、カフェ・ゲルボワでモネ、ルノワール、シスレー、バジール等後に初期印象派を形成する主要な画家たちと出会う。このころ・・・色彩の魔術師とも呼ばれたロマン主義のドラクロワと写実主義のクールベを崇拝に近い程に賞賛精力的に研究をおこなう。その後・・・マネや、ドガとも知り合い当時の印象派の画家たちと行動を共にしていたものの近代都市と変貌していたパリの雰囲気に馴染むことができず故郷エクスとパリを往復する生活を送りながら第1回、第3回印象画展に参加するも作品は、ほとんど理解されなかった。1772年、後に妻となるオルタンスとの間に息子ポール誕生。1886年、数年前から不仲になっていたゾラが主人公の失敗した画家のモデルにセザンヌと思われる小説を出版したために決定的な亀裂が生じる父の死去。父が残した膨大な財産により生涯の経済的不安から解放される。1880年代以降、故郷エクスに戻るプロヴァンスの風景画、静物画、水浴画など後にセザンヌを代表する作品を制作することに専念。1890年代後半から次第に評価を得るようになり晩年期には・・・高額で絵画が売れるようになる。糖尿病など健康状態悪化。精神状態も不安定になり対人関係が困難となる。1906年、偉大なる巨匠としての地位は確立されたいたものの1906年10月23日、エクスのアパートで肺炎により67歳で没する。~~ セザンヌの主な作品 ~~【ニューヨーク近代美術館】所蔵『水浴の男』両手を腰に当てて立つ男(1855年‐1887年)パリ【オルセー美術館】所蔵『首つりの家、オーヴェル・シュル・オワーズ』1873年パリ【オランジェリー美術館】所蔵『林檎とビスケット』1879年‐1882年頃【ワシントン・ナショナル・ギャラリー】所蔵『アルルカン』道化師(1888年‐1890年)パリ【オルセー美術館】所蔵『サント・ヴィクトワール山』1890年頃パリ【オルセー美術館】所蔵『カード遊びをする人たち』1893年‐1896年パリ【オルセー美術館】所蔵『リンゴとオレンジのある静物』1895年‐1900年頃・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.03
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『クレラー・ミュラー美術館』EXPO=3には、フィリックス・ヴァロットンが展示してありました♪きらりのわがままオランダ旅日記・・第109回ヴァロットンFELIX VALLOTTONLausanne 1865-Paris 1925Kröller Müller MuseumLes filets,Honfleur 1912Visnetten,Honfleur 1912Fishing nets,Honfleur 1912oil on canvasヴァロットン・・・とは?フィリックス・ヴァロットンFelix Edouard Vallottonフィリックス・エドワード・ヴァロットン1865年12月28日-1925年12月29日(60歳没)スイスの画家グラフィック・アーティスト現代木版画発展期の重要な人物である。=代表作=「ボール」1899年作ヴァロットンは・・・スイス・ローザンヌの保守的な中流の家庭に生まれる。ローザンヌ・カントナル大学に進む。1882年、古典研究の単位を取得。アカデミー・ジュリアンで学ぶためにパリに移る。ルーヴル美術館に入り浸りホルバイン、デュラー、アングルに魅せられる!これ等の画家たちは、ヴァロットンの一生涯の手本となった。1885年、ヴァロットンの初期の絵画は、アングル風でありましたが、1886年、アカデミックな伝統にしっかり根付いた作品となる。自画像「Autoportrait」でサロン名誉賞を与えられる。その後10年間は、絵を描き、美術批評を書き多数の木版画を作った。1891年、ヴァロットンの最初の木版画「ポール・ヴェルレーヌの肖像」1890年代に作った多くの木版画は、新聞や本に掲載されヨーロッパのみならず、アメリカまで広く普及し版画を革新したとまで言われている。ヴァロットンは・・・芸術表現としての木版画をリヴァイヴァルさせそのリーダーとしての評価を得た。それまでの西洋の版画は、素描画、彩画、後には写真の絵柄の再生産になんの独創性もないままで長く利用されてきていたのでした。ヴァロットンの飾り気のない木版画スタイルは、むらのない黒の大きなかたまりと階調のない白の画面が特徴的である。輪郭とフラットなパターンを重要視する一方でグラデーションや、ハッチング(陰影線)による伝統的な立体感をほとんど使わなかった。ポスト印象派、象徴主義、日本の版画の影響があった。1890年、浮世絵の大々的な展覧会がエコール・デ・ボザールで開かれたことでジャポニスムのファンである当時の多くの芸術家と同様にヴァロットンも浮世絵をコレクションしていた。ヴァロットンは・・・街の群衆や街頭デモの風題などを描写した。入浴する女性、頭肖像などユーモアで扱った主題などを描写した。1898年、ヴァロットンのグラフィック・アート出版。それは、男と女が緊張感を持って描かれた。ヴァロットンの版画は・・・ムンク、ビアズリー、キルヒナーに影響を及ぼしたと言われる。1915年「これが戦争だ」シリーズが最後の木版画であった。ヴァロットンは・・・1892年、ナビ派に参加。若い美術家たちのグループでボナール、ルーセル、ドニ、ヴイヤールは、彼の生涯の友となった。1890年代、アヴァンギャルドと密接な関係を持っていた時ヴァロットンの彩画は、フラットな色面、ハード・エッジ、ディテールの簡素化など木版画のスタイルを反映していた。風俗画、肖像画、裸体像などを主題にした。1899年頃は、木版画の仕事は減っていた。当時の主流に関係なくまじめに辛辣な写実主義の開発に専念していたからである。1907年「ガートルド・スタインの肖像」は、ピカソが前年に描いた肖像画の返答として描かれ1933年、ガールード・スタインは「アリス・B・トクラス伝」(トクラスは、スタインの終生の恋人)という本を書いたがそこで用いた非常に整然とした方法は、ヴァロットンのあたかもカンヴァスにカーテンを降ろすように上から下に向って描く方法と同じものだった。ポスト・ナビ期のヴァロットンの絵は・・・ファンを獲得!!その誠実さ、技術的クオリティは、尊敬を受けたもののスタイルの地味さは、たびたび批判の対象となった。1910年3月23日号、新チューリッヒ新聞には「警官か、 もしくは形と色を捕まえようとする人間のようい描く。 すべてが耐えられない乾燥にきしんでいる・・・ 色にはまったくといっていいくらい喜びが欠けている。」その頑とした雰囲気は、1920年代、ドイツで全盛を極めることとなる新即物主義を予見しているし、またエドワード・ホッパーの絵に類似したものも持っていた。バロットンは・・・美術評論家の仕事も時々だが続けていた。8つの戯曲を書き1904年と1907年に上演したが不評であった。1907年、自伝的な「殺意の人生」を書きはじめる。出版されたのは、死後だった。晩年、バロットンは・・・静物画「合成風景画」に力をいれた。写実するのではなく、アトリエで記憶と創造から創作する風景画の事である。1925年12月29日、パリでガン手術後に60歳で没する。その日は、60歳の誕生日の翌日であった。・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち Félix Félix
2019.03.02
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『クレラー・ミュラー美術館』EXPO=3には、印象派の作品も多く展示されております♪今日は、大好きな・・・シスレーですきらりのわがままオランダ旅日記・・第108回シスレーALFRED SISLEYParis 1839- Moret-sur-Loing 1889Kröller Müller MuseumLa briquetteie 1880De steenbakkeij 1880The brickfield 1880oil on canvas【クレラー・ミュラー美術館】シスレー・・・とは?アルフレッド・シスレー Alfred Sisley1839年10月30日-1899年1月29日(60歳没)フランス生まれのイギリス人画家印象派を代表する画家のひとり。他の印象派の画家たちのような強烈な個性は示さないが戸外制作による光と色彩豊かな都市や農村、河辺、田園などの風景画を生涯にかけて描きバティニョール派(後の印象派)の中で確固たる地位を確立した。穏健な性格からか評価を得たのは晩年ながら現在では、印象派の画家の中でも主要な画家である。写実主義のクールベとバルビゾン派のコローやドビーニに強く影響を受けながら、自身の画風を形成その様式は生涯大きく変化しなかった。シスレーは・・・パリ在住の裕福な英国人商人の息子として生まれる。国籍は、英国であるが、生涯の大半をフランスで過ごす。1862年、シャルル・グレールの画壇に入りモネ、ドガ、ルノワール、バジールなどと出会う。1860年代は、彼らと共にフォンテンブローの森やパリとその近郊などで制作活動をおこなう。この頃、カフェ・ゲルボワの常連となりピサロ、セザンヌ、ギヨマンなどアカデミー・シュイスの画家たちとも交友を重ねる。1867年、サロンに出品。1870年、父の破産により長期の経済的困窮に陥る。1871年、パリ・コミューンを避けルーヴエンヌに移住。アルジャントゥユ、ブージヴァル、ポール・マルリーなど1874年、イギリスに4ケ月間滞在し制作をおこなう。 第1回、印象派展に参加。マルリ・ル・ロワやセーヴルに移り住みながら精力的に制作をおこなうが・・・穏健で控えめな性格のため積極的に売り込みをせず経済的困窮は続いた。しかし、ピサロなど仲間の画家から認められるようにシスレーは、確かな技術と豊かな感受性、才能に恵まれてモネや、ルノワールには、及ばないかも知れないが晩年には、高い評価を得た。1899年1月29日、モレ・シュル・ロワンにて60歳で没する。=アルフレッド・シスレーの代表作=パリ【オルセー美術館】所蔵『ポール・マルリの洪水』1876年パリ【オルセー美術館】所蔵La Seine a Suresnes(1877年)パリ【オルセー美術館】所蔵La Forge a Marly-le-Roi(1875年)パリ【オルセー美術館】所蔵『サン・マルタン運河の眺め』1870年パリ【オルセー美術館】所蔵『池に続く小路』1885年頃ニューヨーク【グッケンハイム美術館】The Hermitage at Pontoise(1867年頃)・・・つづく・・・Kröller Müllerにぽち
2019.03.01
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