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ベルギー・ブリュッセル『王立美術館』2階「古典美術館」ヒエロニムス・ボッシュの作品にまた出会う事が出来ましたプラドで初めて「快楽の園」を観て強烈なインパクトを与えてくれたボッシュ嬉しいですきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第34回ブリュッセル王立美術館・LEVEL=2古典美術館2019年4月10日(水)午前に訪問ボッシュヒエロニムス・ボスHIERONYMUS VAN AKEN genaamd BOSCH’s-Hertogenbosch?-1516 repliekTRIPTIEK MET DE BEKORIBG VAN DE HEILIGE ANTONIUS『聖アントニウスの誘惑』祭壇画聖アントニウスのお話は・・・数多くの画家がテーマとして描いており中世ルネサンスにおいては、特に人気がありました。聖アントニウスは・・・3世紀半ばにエジプトに生まれ20歳の時に全てを棄てて修行の道を選び貧困に喘ぐ人々へ財産を与え砂漠に移り住み隠修士として瞑想と苦行の生活を送った修道院制度の創始者として考えられている人物です。聖アントニウスは、生涯を通して心理的な苦痛に絶え抜く修行を続けるのであります。聖アントニウスの物語をボッシュは、彼の特徴が最もよく表れる奇怪で幻想的な静物として聖アントニウスを誘惑する悪魔として画面に多くの不思議な生物を登場させております。中央パネル下部・拡大ヒエロニムス・ボス(ボッシュ)・・・とは?Hieronymus BoschJherorims Bosch1450年頃-1516年8月9日没ブルゴーニュ領ネーデルラント・スヘルトーヘンボスに生まれる。国籍=現在のオランダルネサンス期・ネーデルラント(フランドル)の画家初期フランドル派初期ネーデルラント絵画史において最も特異な存在感を示す大画家である。人間の本性的な罪悪感を世界に対する厭世観(えんせいかん)を悪魔的な怪奇性と幻想性に富んだ極めて個性的な様式を確立し独自の世界観と道徳観、宗教観によって社会への風刺や批判を痛烈に表現した作品は当時、国内はおろか諸外国までに人気を博した。現在までに様々な研究や解説が進んでいるがその生涯については、謎が多い。ボッシュは・・・アーヘン出身の画家一族の子どもとして生まれました。父は、アントニス・ファン・アーケン祖父=ヤン、兄=ホーセン、3人の叔父たちも画家であった。母は、仕立て屋の娘であった。ボッシュは、父親の工房で制作技術を身に付けたと推測される。1478年、公式の「自由な画家」としての資格が与えられる。アレイト・ホヤールト・ファン・デ・メルヴェンヌと結婚。メルヴェンヌは、上流階級の富裕層の生まれでそれは、持参金に土地まで含まれるほどの妻であった。「ヒエロニムス」は・・・本名のラテン語読みで、作品には「Bosch」とサインをしている。画名の由来は・・・ス・ヘルトーヘンボス(デン・ボス)で生まれ、生涯のほとんどをここに住んでいたことにちなむ。1486年(または1487年)、新信仰一派であった「聖母マリア兄弟会」に所属したのも裕福な妻のお蔭であります。名士として以後、同会への制作に従事。他の地へ赴いた記録や師弟関係を示す記録などは残っていないもののブルゴーニュ公フィリップ2世などの諸外国の多くの王侯貴族から注文を受けるほかボッシュの作品は・・・スペイン国王フェリペ2世など後の権力者たちをも魅了した。その悪魔的な表現から一部の研究者からは、異教徒的思想も指摘されているが確証は無い!ピーテル・ブリューゲルなどと・・・ボッシュ以降のネーデルランドの画家を始めとする後世の画家や芸術家・文化人に多大な影響を与えた。ボッシュの『最後の審判』を始めとするボッシュの作品には後補や修復が認められ、オリジナルの筆跡との判別も困難な作品も少なくないほか数多くの模写も確認されており現在も帰属論争が続いている作品も多いのであります。ボッシュHIERONYMUS VAN AKEN genaamd BOSCH’s-Hertogenbosch?-1516 repliekCALVARIE MET SCHENKER『キリストの磔刑と寄進者』ボッシュのキリスト可愛くて私は好きです!ゴルゴダの丘には、骨が散らばってカラスも来ておりますが~背景の街は、明るく描かれております。ボッシュは、復活を信じていたからでしょうか?・・・つづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.31
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ロベルト・カンピン?『メロードの祭壇画』と同じテーマの美しい「受胎告知」がブリュセル王立美術館・古典美術館で出会う事ができました2019年4月10日先月の事。平成最後の旅でありました♪きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第33回ブリュッセル王立美術館 古典美術館【70展示室】ロベルト・カンピン?MEESTER VAN FLEMALLE(RONERT CAMPIN?)?ca.1375-Doornik 1444DE BOODSCHAP AAN MARIA L’ANNONCIATION『受胎告知』初期フランドル派の「ロベルト・カンピン」が描いたと思われる『受胎告知』ベルギー・ブリッセル王立美術館所蔵のこの作品はおそらく特別注文に寄って描かれたと推測されます。ですから『メロードの祭壇画』の受胎告知の別バージョンかと思われます。ニューヨーク・メトロポリタン美術館には、ほぼ同じテーマの『メロードの祭壇画』左右翼を持つ、三連祭壇画を所蔵しております。こちらは、カンピンの作品?もしくはカンピンの弟子との共作である可能性があります。『メロードの祭壇画』は、1957年まで、ベルギーのメロード家に所蔵された事が由来であります。ブリッセル王立美術館2階「古典美術館」の作品には・・・両翼が見当たらず・・・別バージョンであると思われます。しかし、ロベルト・カンピンが描いた絵画の中で最もよく知られた作品テーマであります。家庭的な雰囲気にあふれた室内描写と窓越しに見える都市の風景描写とで構成されている。遠近法を用いた狭い空間構成に配された主要人物以外の家具や花瓶など調度品に見られる現実的描写に当時の庶民生活を強く感じます。また、明瞭な輪郭線や油彩による豊かで鮮やかな色彩を用いるなど各部において、それまで金色を主体としていたゴシック様式とは、全く違う新しい描き方を始めたのであります。このような表現手法で初期ネーデルラント絵画は独自に展開、発展した伝統の基礎を築き上げた最初のカンピンの代表作であります。ブリッセル王立美術館・古典美術館【70展示室】受胎告知・拡大カンピンの『受胎告知』この作品は、教会や修道院ではなく個人の注文によって描かれたと考えられます。このモチーフは「受胎告知」であります。(右)聖母マリアが書物に目を落としたままの姿です(左)大天使ガブリエルが降臨して来ましたがマリアは、その出来事に気付いて居ない事からマリアが神の子の受胎を告げられる直前の場面を描いたものであります。この場面は、一般の家庭の一室の中に描かれております。これは、聖なる告知を世俗である一般家庭で受ける!?というありえないスティエーションで描くという見た事も無い絵画であります。これは、注文主の依頼により、聖なる空間を世俗的に描いておりカンピンは・・・一般住宅を聖なる部屋に変える工夫をココで凝らします!世俗を神の世界に変える・・・それはミラクルでありますがカンピンの見事な工夫とは、テーブル中央には、大きな本がっ「聖書」を置きテーブルの上には・・・「白い百合の花」受胎告知に度々、描かれる百合の花は、マリアの清純と純潔を意味しております。聖なるお子を聖なる体で受胎するという説明です。テーブルの右側の燭台には・・・蝋燭があり、たった今炎が消えたばかりで「神は光である」と言う宗教観を中世ゴシックのままに伝えその蝋燭の光が消えた瞬間に神のお子は、マリアのお腹に入るその時マリアは、受胎されたとされる清く聖なる物語をこの世俗の家をカンピンの見事な工夫で神の世界「受胎告知」を描き注文主の期待に沿う絵画に仕上げたのであります。カンピン・・・とは?ロベルト・カンピンRobert Campin1375年頃~1444年4月26日没初期フランドル派、最初の偉大なる画家とされフレマールの画家・・・との異名がある。カンピンの記録は、当時としては比較的に明らかでありますが何しろ大昔の事ですからカンピンの作品であると確定できる作品は、現在1つも無い!証明されていないという事。これは100年以上にわたって論議の的となっている。カンピンの生涯は・・・親戚がヴァランシエンヌにいたとされる。カンピンの名前が最初に現れるのは・・・1405年の記録で、画家のギルド聖ルカ組合に所属するトゥルネー在住の画家となっている。1410年、トゥールネーの市民権を購入していることからカンピンは、トゥールネー出身ではないかと考えられる。後にギルドの理事となり大規模な工房を運営し他にも教会委員や近隣の都市の管理職などの地位を得た。1432年ころに政治的混乱を引き起こしたとしてこれらの社会的地位を失ってしまう。1429年、証拠隠滅を図ったとして、巡礼を強制されており1432年、密通で有罪となり一年間の追放処分を受けた。この時は、ブルゴーニュ公ジャン一世の妹でバーヴァリア公ヴィルヘルム二世公妃マルグリット・ド・ブルゴーニュが介入し罰金刑に減刑されている。現在2枚の両翼だけがプラド美術館に所蔵されている『ウェルル祭壇画』には、1438年の日付が入っており以降もカンピンが画家として活動していたことを示している。(一部・資料=ウィキペディア様より)ZUID-NEDERLANDSE SCOOLca.1400TAFERELEN UIT HET LEVEN VAN MARIASCENES DE LA VIE DE LA VIERGEマリアの生涯からのテーブル画面は、暗いですが・・・板に描かれたマリアの生涯と思われます。近づいて観ると金箔が多く使われております。ゴシック様式の特徴的な宗教画であります。カンピンより前の宗教画は、聖人に金を使う手法でありました。・・・つづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.30
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ベルギーを旅したのは2019年4月9日~16日であります♪一番の楽しみは王立美術館であり、昨年から北方ヨーロッパ絵画を集中的に学ぶ旅をしております。古典美術館では「ウェイデン」の作品に出会えましたきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第32回ブリッセル王立美術館・2階・古典美術館【70展示室】ウェイデンローヒル・ファン・デル・ウェイデン作ROGIER VAN DER WEYDENDoornik 1399・1400-Brussel 1464PORTRET VAN ANTOON VAN BOURGONDIE1421・1422-1504『ブルゴーニュ公庶子アントニーの肖像』1460年頃裏側の肖像画も・・・観ましょう!ウェイデン作ROGIER VAN DER WEYDENDoornik 1399・1400-Brussel 1464PORTRET VAN JEAN DEFROIMONTca.1460(裏側の肖像画)およそ1460年作ウェイデン・・・とは?ローヒル・ファン・デル・ウェイデンRogier van der Weydenロジェ・ド・ラ・バステュール1399年?1400年生まれ-ブルゴーニュ領ネーデルラント・ブリッセルにて1664年6月18日没ベルギー人。初期フランドル派の画家。キリスト教的主題を描いた祭壇画・肖像画を作成。当時、最も成功し国際的に名声を得た画家であった。ブルゴーニュ公フィリップ3世などネーデルラントの貴族階級や諸外国の王侯貴族から絵画制作の依頼を多く受けるが17世紀、バロック美術が台頭したために人気を失うも18世紀半ばには忘れさられるがその後200年の間に徐々に再評価され現在では、ロベルト・カンビン,ヤン・ファン・エイクと共に初期フランドル派を代表する三大巨匠として認識される。15世紀、ヨーロッパ北方絵画で最も影響力を与えた画家である。ファン・デル・ウェイデンは・・・現在のベルギーにあたるブルゴーニュ領ネーデルラント・トゥルネーに生まれる。ウェイデンについては、ほとんどが不明であります。1399年か?1400年に生まれたらしく?父は、ヘンリ・デ・レ・パストゥル母は、アニエス・デ・ワットルローである。ファン・デル・ウェイデンは・・・1420年頃、エリザベート・ホッファールと結婚。1436年、ブリッセルの公式画家となる。この時に自身の名前をフランス風からオランダ風の名前「ファン・デル・ウェイデン」に改めたと思われるがそれ以外の情報が少なく謎多き画家であります。ファン・デル・ウェイデンは、自画像を描いておらず重要な作品の多くが不人気となった17世紀後半に失われる。ファン・デル・ウェイデンの最初期は・・・1427年~1432年、ロベルト・カンビンのもとで修行。間もなく師の技量を上回り最終的にカンビンの作品に影響を及ぼす程に優れた技術を身に付ける。(ファン・デル・ウェイデンがカンビンの弟子であったかも疑問である)ファン・デル・ウェイデンは、徒弟期間を終えトゥルネーの芸術ギルド聖ルカ組合にマイスターとして登録。1435年に移住したブリッセルに置いて卓越した技術と感情豊かな筆使い色彩感覚は、すぐさま高い評価を受けるようになる。1435年、代表作『十字架降架』を描きあげ北ヨーロッパで最も人気があり影響力が高い画家であるという不動の評価を得る。ファン・デル・ウェイデンは・・・人物像を描く時に実在の人物をモデルにした。その観察力は、非常に高かったが表情などモデルの特定の要素を優雅に理想化して描くことも多く特に三連祭壇画に描かれた人物像にその傾向が強い。常に豊麗で温かみのある色使いで感情豊かな人物像を描いているが作品に感じられる哀愁感と写実主義でも高く評価された。ファン・デル・ウェイデンの肖像画の多くは、上半身のみで斜め前を向いた作品で宗教的な祭壇画と同じように好んでよく描かれている。ファン・デル・ウェイデンは、異例なまでに多くの色と様々な色調を用いて絵画を描いた。最も優れた作品では、一箇所として同じ色調は見られず白色でさえも様々な階調で塗り分けられているのであります。白色が見事に塗られた・・・そうそう!?「ウェイデン」と言うとこの絵画を思い出してしまう私Portrait of a Lady(1460) 『女性の肖像』1460年頃 34.0cm×25.5cm【ワシントン・ナショナル・ギャラリー】にてファン・デル・ウェイデンの父ヘンリは、刃物職人でありました。ファン・デル・ウェイデンは・・・1426年、ブリッセルの靴職人ヤン・ホッファールトと妻カテリーナ・ファン・ストケムの娘エリザベトと結婚。2人の間には、後にカルトジオ会修道僧になった息子コルネリウス(1427年)、娘マルガリータ(1432年),ここで2人の子どもを持つ。1435年10月21日までにファン・デル・ウェイデン一家は、ブリッセルに移住してピーテル(1437年)とヤン(1438年)と2人の息子が生まれる。1436年、ブリュツセル公式画家の称号を得る。当時のブリュツセルは・・・ブルゴーニュ公家の荘厳な宮殿が置かれていた重要な都市でありファン・デル・ウェイデンが手にした地位は、非常に名誉なものであった。ブリッセルは、オランダ語圏でありファン・デル・ウェイデンは、それまでの名前ロジェッ・ド・ラ・バスティール(=牧場のロジェ)というフランス語の名前をオランダ語に訳したローヒル・ファン・デル・ウェイデン(=牧場のロヒール)に改めている。ファン・デン・ウェイデンの修業時代の記録は少なく第二次世界大戦で全て失われたために美術史家によって解釈が異なっております。数少ないウェイデンの記録としては・・・1427年3月17日、トゥルネー市議会が「マイスターのジェ・ド・ラ・パトゥーラ」を祝って(ローヒル・ファン・デル・ウェイデンの旧氏名)ワインを贈ったという記録が残るが1428年3月5日、聖ルカ組合の記録では、「ロジェ・ド・ラ・パステュール」がジャック・ダレーとともにロベルト・カンビンの工房に弟子入りしている。という記載があるが・・・この時点ですでに「ド・ラ・パストゥール」は、独り立ちした画家として認められていたはずである!それは、カンビンに弟子入りしてから5年後の1432年8月1日に「ド・ラ・バステュール」は、画家のマイスターの称号を得ている。すでに独り立ちした「ド・ラ・バステュール」が再び徒弟として修行を積んだ理由として1420年代のトゥルーネは、非常に混乱していた時代で当時の芸術家ギルドも充分に機能していなかったためではないか?と考えられる。同時期にカンビンに弟子入りしたジャック・ダレーは、20代の間修行を続け、少なくとも10年以上カンビンのもとで過ごしている。ファン・デル・ウェイデンが・・・画家としてマイスターになる前に別の学術的組織からマイスターの称号を授与されておりトゥルーネの市議会からワインを贈られたというのは後者のマイスター獲得のお祝いだったという可能性もある?ファン・デル・ウェイデンの作品における洗練された「学術的造詣の深い」図像学的特徴と構成とを兼ね備えた高品質の作風がこの仮説を裏付ける根拠とされることがある。ファン・デル・ウェイデンの・・・後半生における社会的文化的な地位は、当時の単なる専門職人の地位を遥かに上回るものであった。ダレーが、カンビンの弟子だったとは記録の上から明らかでありカンビンの作品ではないかと考えられる絵画とファン・デル・ウェイデンの作風がよく似ているということからダレーと同時にカンビンに弟子入りした「ロジェ・ド・ラ・バステュール」がローヒル・ファン・デル・ウェイデンだったという説の裏付けの一つにもなっている。トゥールネーに残るロジェ・ド・ラ・バステュールの最後の記録は1435年10月21日のもので・・・「現在ブリツセルに在住」という記述である。そして同時に「ローヒル・デル・ウェイデン」に関する最初の記録としてブリッセルの公式画家となったというものがある。この2つの記録こそが、カンビンのもとで修行していた「ロジェ・ド・ラ・バステュール」が「ローヒル・ファン・デル・ウェイデン」と同一人物で同じ画家を指しているという考えの最大の根拠となっている。ブリッセルの公式画家という地位は、ファン・デル・ウェイデンのために特に新設されたものでファン・デル・ウェイデンの死去とともに廃止されている。これは、おそらくファン・デル・ウェイデンが依頼を受けブリュッセル市庁舎の「黄金の議場」に描いた大規模な4点の裁きの情景の画家と何らかの関係性がある。ファン・デル・ウェイデンが所有する様々な資産や不動産に関する記録や証拠が残っており当時の経済的に成功していることも当時のネーデルラント上流階級と密接な関係を築いていたことを証明している。『ミラフロレスの祭壇画』は・・・カスティーリャ王ファン2世の依頼によって描かれたと考えられており、完成後の1455年、ファン2世がミラフロレス修道院に寄進したものである。ファン・デル・ウェイデンは、聖年の1450年、ローマへ巡礼の旅に立ちイタリア人の芸術家、パトロンたちの知己を得てエステ家、メディチ家といった大貴族がファン・デル・ウェイデンから絵画を購入している。ミラノ女公ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティは、自身の宮廷画家だったザネット・ブガッティをブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修行させるなど当時のファン・デル・ウェイデンの国際的な評価は非常に高くなっていた。ニコラウス・クザーヌス、アントニオ・フィラレーテのような1450年代~1460年代の著名な学者たちがファン・デル・ウェイデンを「最高」、「最も素晴らしい」画家であると評している。ファン・デル・ウェイデンは、1464年7月18日に死去。聖ミシェル・エ・ギュデル大聖堂の聖カテリナ礼拝堂に屈葬された。(資料=ウィキペディア様より)ブリツセル王立美術館展示の作品ウェイデンROGIER VAN DER WEYDENDoornik 1399・1400-Brussel 1464NOOD GODSウェイデン作の『ピエタ』であります。制作年月日不詳。ゴルゴダの丘で十字架から降ろされたイエス中央でイエスを抱える聖母マリア『ピエタ』イエスの死を知って聖母マリアは深く悲しみ左は、イエスを腕で支える聖ヨハネ聖母マリアの青い衣聖ヨハネの赤い衣青と赤の特徴的なコントラスが見事であります・・・つづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.29
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ブリュッセル王立美術館の2階には、古典美術館があります。入ってすぐの右側【70展示室】には、フランドルの重要な宗教画・祭壇画が並びます。誰が描いたか?知ってみると当時の画家同士や王家のとの関わりが興味深く繋がってくるのであります2019年4月11日訪問。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第31回古典美術館【70展示室】ディルク・ボウツDIRK BOUTSHaarlem ca.1410?-Leuven 1475PANELEN MET DEGERECHTIGHEID VANKEIZER OTTODE MARTELDOOD VANDE ONSCHULDIGE GRAAFDE VUURPROEF『皇帝オットーの裁判』1470年頃オットー皇帝の裁判,正義の勝利ディルク・ボウツ・・・とは?Dirk BoutsDienic,Dieric,Dierickとも1410年・1420年頃-1475年初期フランドル派の画家オランダ人画家・伝記作家カレル・ヴァン・マンデルが書いた『画家列伝』によれば・・・ボウツは・・・オランダ・ハーレムに生まれ、1468年からは画家としてルーヴェンを中心に活躍した。ボウツに関しては、ほとんど分かっていないが、ヤン・ファン・エイク、ローヒル・ファン・デル・ウェイデンに大きな影響を受けておりウェイデンの弟子だった可能性もある。ボウツが、最初に記録されているのは・・・1457年のルーヴェンで1475年に死去するまでここで活動していた。ボウツは・・・ヨーロッパで最初に遠近法における消失点を表現した画家の一人である。それは、1464年~1467年の作品『最後の晩餐』で見ることが出来る。ボウツの作品は・・・洗練されているとは言い難いが表現に生硬なところがあるが表現力は非常に豊かでバランスよく構成され色彩に満ちたものになっている。ブリッセル王立美術館 古典美術館 70展示室の作品は『皇帝オットーの裁判』1470年頃オットー皇帝の裁判,正義の勝利ボウツの最晩年の作品であります。ボウツは・・・大きな祭壇画『オットーの裁判』を依頼され1470年~1475年に死去するまでこの祭壇画の作成に没頭しました。ボウツは・・・1枚目のパネルを完成させ2枚目のパネルにも取り掛かった。残りの2枚のパネルは、未完成に終わった。『皇帝オットー皇帝の裁判』『正義の勝利』2つのパネルに描かれた内容は・・・オットー皇帝の妃は、伯爵に言い寄りますが、ふられてしまいます。(不倫しゃないの?それなのに)妃は、激怒し腹いせに「伯爵に誘惑された!」と夫に言うとオットー皇帝は、真に受けて怒り伯爵を斬首してしまいます。伯爵の妻が夫の無罪を証明する為に熱い鉄塊を握ると・・・なんと~火傷の一つも負いません!皇帝は、それを見て騙した妃を火刑に処したとのストーリーであります。・・・70展示室はまだつづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.28
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『ブリュッセル王立美術館』エントランスから2階に上がると「古典美術館」であります♪古典美術館に入り右側に進むと【70展示室】であります2019年4月10日友人と訪問きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第70回ブリッセル王立美術館 古典美術館【70展示室】ジャン・エイ作?MEESTER VAN MOULINS(JEAN HEY?)werkzaam in Frankrijktussen 1480 en 1500MARIA MET KIND DOOR ENGELEN AANBEDENVIERGE A L’ENFANT ADOREE PAR LES ANGESジャン・エイJEAN HEYwerkzaam in Frankrijktussen 1480 en 1500ECCE HOMOgesigneerd 1494ジャン・エイ・・・とは?JEAN HEYジャン・エイは・・・1480年頃から画家として活動。1500年頃に死去。初期フランドル派の画家。「ムーランの画家」として知られていた画家と同一人物だと考えられている。フランスとブルゴーニュ公国で活動。ブルボン公爵家の宮廷人であった。(エイの生涯についてはほとんど分かっていない)その作風から・・・フーゴ・ファン・デル・グースの弟子だったのではないか?と考えられている。死去するまでの数年をパリで過ごした可能性がある。ファン・エイク(デック)(バーテルミー・デック?)MEESTER VAN DE BOODSCHAPVAN AIX(BARTHELEMY D’EYCK?)vermeld te Aix-en-Provencevan 1444 tot 1472RECHTERLUIK VAN DE TRIPTEK MET DE BOODSCHAPUIT DE SAINT-SAUVEURKERKTE AIX-EN PROVENCE『アクスの受胎告知』1443年頃 三連祭壇画・右翼のみバーテルミー・デック・・・とは?ファン・エイク(デック)van Eyck(d’Eyck)ファン・エイク(デック)は・・・1420年頃~1470年初期フランドル派の画家画家としてのキャリアの大部分をフランスとブルゴーニュで送り宮廷画家・装飾写本画家であったと考えられる。デックが・・・画家として活躍したのは、1440年~1469年ころである。現存している作品が疑いなくデックのものとして資料から裏付けることはできないもののデックは、当時の主要な芸術家として現在の作家らによって称賛され数多くの重要な作品がデックの作品だと一般的に認められている。特に多くの専門家に絵画『エクスの受胎告知』と装飾写本『ルネ・ダンジューの時祷書』の制作者は、デックであるとされておりほかに『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』にも関係していると考えられている。デックは・・・ヤン・ファン・エイクと関係があると考えられているが記録としては残っていない。デックの義理の父は、織物商人でアンジュー公ルネ・ダンジューに従ってナポリそして南フランスへと移住している。母親は、1460年に死去しているがYdria Exters d’Allemagne という名前であったと記録が残っている。しかしながら、プロヴァンスの人々にとっては「ドイツ」という言葉は「全ネーデルラントの」と胴着であった可能性が高い。ヤン・ファン・エイクの兄弟ランベルト・ファン・エイクもヤンの死後、プロヴァンスで活動していたと考えられる。研究者の中には・・・デックとヤンの作風が似ているため親族であるヤンの工房で修行したと考えている者もいる。1430年代には、フーベルトヤンのファン・エイク兄弟が制作に携わり後世に火災にあい大部分が焼失した装飾写本『トリノ=ミラノの時祷書』の現存しているいくつかのミニアチュールは、デックの作品とされている。1440年、ブルゴーニュ公フィリップ3世の文献に「バーテルミー」と呼ばれる画家がディジョンで活動していたと記録されておりこの画家こそがバーテルミー・デックではないかと考えられている。後にデックの主要なパトロンになるルネ・ダンジューは、フィリップ3世と争い当時は、フィリップ3世の虜囚だった。1444年までにデックは・・・南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに在住しており当時の一流フランス人画家アンゲラン・カルトンと法的に正式な契約書を交わして共同作業をしている。(資料=ウィキペディア様より)古典美術館【70展示室】の作品はデックの代表作である『アクスの受胎告知』1443年頃 三連祭壇画・右翼1441年~1445年の制作日付が入っている『アクスの受胎告知』は・・・デックの作品であると、広く認められている。三連祭壇画であり・・・ブリッセル王立美術館・古典美術館の作品は、その右翼の部分であります。『アクスの受胎告知』の三連祭壇画は、現在プロヴァンス、ブリュセル、アムステルダム、ロッテルダムとバラバラに保管されております。(三連祭壇画の片翼が2つに切断されたために4カ所となっている。)この作品は・・・デックの義理の父の求めで描かれたものでディジョンで活躍していた初期フランドル画家ロベルト・カンビン、ヤン・ファン・エイク、彫刻家クラウス・スリューテルやナポリの画家コラントニオの影響がみられる。『エクスの受胎告知』は・・・ヤン・ファン・エイクが以前に描いたワシントン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されている『受胎告知』などのように非常に複雑な寓意に満ちた作品となっている。1456年の制作日付の入った見事な肖像画ウィーン、リヒテンシュタイン・コレクション所蔵とキリストの磔刑を描いた断片(ルーヴル美術館蔵)とともに組み合されていた祭壇画で、デックが描いた現存する唯一のパネル画と考えられている。デックが、キャリア後期に残した作品は、ほとんどが装飾写本で、ルネ・ダンジューの求めによって制作されたものである。ルネ・ダンジュー(1409年-1480年)は、フランスの王族でありアンジュー公ルイ2世とアラゴン王フアン1世の嫁ヨランド・ダラゴンの次男である。1435年にナポリ王となったが後にアラゴン王アルフォン5世に敗れ1442年に王位を追われている。ダンジューが、ナポリ王になった時にデックもナポリに移住することとなった。このことがデックの作品がナポリで有名となった理由でコラントニオやアントネロ・ダ・メッシーナのようなナポリ在住の画家たちの作品に影響を及ぼすようになった。自身の領地であるフランス南部やロワール渓谷で過ごすことを好んだダンシューは、詩や絵画などの才にも恵まれていた。現在では、デックの作品であると見なされている装飾写本が過去には、長い間ダンシューの手によるものだと考えられていた。現存する記録によると1447年頃からデックは「芸術家ならびに近侍」として名が残っている。この「近侍」は、ブルゴーニュ公フィリップ2世の宮殿でのヤン・ファン・エイク、ベリー公ジャン1世の宮殿でのリンブルク兄弟なども就いた地位でデックは・・・ダンシューの個人的秘書として宮殿内でも重要な役職を与えられたのである。デックは、ダンシューとともにフランス南西部のギュイエンヌやアンジェを訪れた。1447年~1449年にかけてデックのアトリアは、ダンシューの私室の隣にありこのことは、ダンシューとの間に緊密な信頼関係があったことを示唆している。デックの記録が最後に現れるのは1469年である。当時は、年俸とともに3人の召使いあるいは助手3頭の馬を支給されていた。デックが少なくとも1476年まで存命だったことは複数の証拠によって確認することができる。『アクスの受胎告知』右翼(裏側)三連祭壇画は、両翼を閉じる形になっております。閉じた時の表面になるように絵画が描かれている場合が多く教会などで三連祭壇画に出会ったら・・・必ず裏側に周って裏側に見に行くきらり。であります閉じた時の前面は、地味でありますが~意味深く感じる事が多く興味津々であります。・・素晴らしい70展示室はまだ続きます・・・古典美術館にぽち
2019.05.27
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『ブリッセル王立美術館』2階の「古典美術館」には、ベルギー各地から集めたルーベンス&工房の巨大な祭壇画が展示してある【53展示室】ルーベンスの部屋がありますきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第29回『ブリッセル王立美術館』LEVEL・2「古典美術館」53展示室【53展示室】は、とても大きな展示室であります赤い壁には、ゆったりと・・・巨大な「祭壇画」が向かい合う形でピーター・ポール・ルーベンスと工房作品が並んでおりますPETER PAUL RUNENSSiegen,Westfalen 1577-Antwerpen 1640EN ATELIERNOOD GODS MET DE HEILIGE FRANCISCUSPIETA AVEC SAINT FRANCOIS『聖フランチェスコのいるピエタ』なんと~素晴らしい~PETER PAUL RUNENSSiegen,Westfalen 1577-Antwerpen 1640EN ATELIERDE TENHEMELOPNEMING VAN MARIAL’ASSOMPTION DE LA VIERGE『聖母被昇天』上部には、天に昇る聖母マリアが描かれ~天使たちがいっぱいです。下部には、聖母マリアの棺を覗きこんで大騒ぎの信徒たちが描かれております。PETER PAUL RUNENSSiegen,Westfalen 1577-Antwerpen 1640EN ATELIERDE KRONING VAN MARIALE COURONNEMENT DE LA VIERGE『聖母マリアの戴冠』1690年頃向かい合って反対側の壁面にも・・・ルーベンス&工房の祭壇画PETER PAUL RUBENSSiegen,westfalen 1577-Amtwerpen 1640EN ATELIERDE AANBICCING DER WIJZENL’ADORATION DES MAGES『東方三博士の礼拝』1619年頃PETER PAUL RUNENSSiegen,Westfalen 1577-Antwerpen 1640EN ATELIERDE MARTELING DE HEILIGE LIVINUSLE MARTYRE DE SAINT LIEVIN『聖リヴィナスの殉教』1635年頃大きなベルギー人男性が横に立つと1枚の「祭壇画」の大きさが分かりますね!PETER PAUL RUNENSSiegen,Westfalen 1577-Antwerpen 1640EN ATELIERDE TUSSNKOMST VAN DE HEILIGE MAAGD EN VAN HEILIGEL’INTERCESSION DE LA VIERGE ET DE SAINT FRANCOIS DIVINES『聖母マリアと聖フランチェスコの神への仲介が神の否妻を止める』ルーベンス・・・とは?ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens1577年6月28日-1640年5月30日(62歳没)現在のドイツ・ジーゲンで生まれ、現在のベルギー・アントワープに没する。ルーベンスは、バロック期・フランドルの画家・外交官祭壇画・肖像画・神話画・寓意画・歴史画などを描いた。画業だけでなく7か国語を話し「外交官」として活躍。古典的な知識を持つ「人文主義学者」であり「美術収集家」でもあった。そして・・・スナイデルスの作品も同室にありました。 ↓フランス・スナイデルスFRANS SNIJDERSAntwerpen 1579-1657ヤン・ウィデルスJAN WILDENSAntwerpen 1586-1653DAMHERTENJACHTCHASSE AU DAIMアントワープ「ロコックスの家」にある【野猪狩り】と似ております。フランス・スナイデルスは・・・フランドルの動物画家・静物画家である。狩りの獲物や野生の動物を描いた作品を卓越した技術と情熱で創作した。ルーベンスは・・・自身の作品の動物や果物、静物の描写をしばしばヤン・ウィデルスに依頼している。スナイデルスは、このような形でヤーコブ・ヨルダーンスや他の画家の作品制作にも協力している。スナイデルスのサインのあるライオン狩りや猪狩りの作品には、時折ルーベンスの手が入っている。そんな共同制作があり~クオリティーを追及した作品を制作した歴史があったのです。広い【53展示室】の中に異質な動物がおります~『企画展示』です。絹のカーペットから~何故に豚?Wim Delvoye 2013YAZDSilk carpet on polyester moldZijden tapijt op polyester malTapis de soie sur mouleen polyester残念な事に貸し出し中の作品が2点ありました。(これは、観たかったーー;)テオドール・ファン・ローンThodoor VAN LOONBruxelles・Brussel 1581・82-Louvain・Leuven 1667L’assomption de la ViergeDe tenhemelopneming van MariaJan Baptist BONNECROYAnvers・Antwerpen 1618-Bruxelles・Brussel 1678Vue sur BruxellesGezicht op Brussel・・・つづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.26
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ブリュッセル王立美術館・古典美術館の素晴らしい展示作品の中には、静物や食べ物を描いた作品を多く観る事が出来ます。その卓越した描写は、ルーベンスとも関係があったのであります。おや~っ!?猫が魚を狙っていますよ(^0^)はははっ。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第28回ブリッセル王立美術館 古典美術館 54展示室54展示室は、55展示室「マラーの死」と53展示室「ゴルゴダの丘行き」の間にあります。美味しそうな食べ物が多く描かれたコーナーですフランス・スナイデルスFRANS SNIJDERSAntwerpen 1579-1657figuren Toegeschreven aanコルネリス・ド・フォスCORNELIS DE VOSHulst,Zeeland 1585-Antwerpen 1651KEUKENSTUK『肉屋』フランドル地方のお肉屋さんには、色々なジビエが売っていたのですねおやっ~下部分には猫がっ(拡大)なんと~めっちゃ写実でありますもしかしてルーベンスが?フランス・スナイデルス・・・とは? Frans Snyders1579年11月11日-1657年8月19日フランドルの動物画家・静物画家である。スナイデルスは・・・アントウェルペンで生まれ、同地で没した。1593年、ピーテル・ブリューゲル(子)の弟子であった。アンソニー・ヴァン・ダイクの最初の師であるヘンドリック・ファン・バーレから教授を受けた。スナイデルは・・・ヴァン・ダイクの友人でありヴァン・ダイクは、スナイデルを幾度か描いている。スナイデルは・・・1602年、アントウェルペンの画家組合に所属する親方となった。1608年~1609年、イタリアへ、ローマも訪れた。ミラノでは、フェデリーコ・ボッロメオ枢機卿のために働いた。1611年、コルネリス・デ・フォスや動物画家のパウル・デ・フォスの姉妹であるマルガレータとアントゥエルペンで結婚している。ヤン・フェイトは、彼の弟子で1629年から助手となった。『野猪狩り』ロコックスの家にて(2018年4月12日ほしのきらり。撮影)スナイデルスは・・・最初は「花」「果物」などの静物画を描いたが後に動物を描くようになり狩りの獲物や野生の動物を描いた作品を卓越した技術と情熱で創作した。スナイデルスは・・・最初期の専門の動物画家といえる。構成は、豊かでバラエティーに富みデッサンは、正確で勢いがある。タッチは、大胆で動物の皮膚や毛皮の異なった質感を非常によく表現している。スナイデルスのこの分野に於ける卓越性は、ルーベンスを感嘆させた!ルーベンスは・・・自身の作品の動物や果物、静物の描写をしばしばヤン・ウィデルスに依頼している。スナイデルスは、このような形でヤーコブ・ヨルダーンスや他の画家の作品制作にも協力している。スナイデルスのサインのあるライオン狩りや猪狩りの作品には、時折ルーベンスの手が入っている。スナイデルスは・・・南ネーデルラント総督のオーストリア大公アルブレヒトの首席画家となり大公のために主要な作品を幾つかを制作した。そのうちのひとつ『鹿狩り』は、スペイン王フェリペ3世に贈られた。フェリペ3世や後継者のフェリペ4世がスナイデルスに狩猟の獲物の作品を依頼したのでそれらの作品は、今でもスペインに所蔵されている。スナイデルスは・・・総督ネポレオン・ヴィルヘルム大公のためにも作品を制作している。『肉屋』の共同制作者「コルネリス・ド・フォス」は、義理の兄弟だったのですねCornelis de Vos コルネリス・ド・フォスは・・・1584年-1651年4月9日没・・・ルーベンスの部屋につづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.25
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ベルギー「ブリュッセル王立美術館」LEVEL=2『古典美術館』55展示室には・・・フランス新古典主義の有名な巨匠=ダヴィッドとアングルにご対面ですウキウキ古典美術館【55展示室】細長~く めっちゃ~広々とした展示室ですきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第27回55展示室に入ると右側、最初に展示してあったのがダヴィッド『マラーの死』ジャン・ポール・マラーの死を描いた「ダヴィッド」の代表作(2日間説明済み)【55展示室】では、ダヴィッドの弟子である アングルの作品も展示されておりましたドミニク・アングルJean-Auguste-Dominique INGRES1780-1867AUGUSTE ECOUTANT LA LECTURE DE L’ENEIDE.TU MARCELLUS ERIS(1819)AUGUSTUS LUISTERT NAAR DE LECTUUR UIT DE AENEIS.TU MARCELLUS ERIS(1819)ドミニク・アングル・・・とは?Jean-Auguste Dominique Ingresジャン-オーギュスト・ドミニク・アングル1780年8月29日-1867年1月14日フランス新古典主義における最後の巨匠である。極めて高度な線描を基軸とした形体描写による厳格で廉潔(れんけつ)な絵画を制作し19世紀前半のフランス絵画界最大の権威者となる。生涯にわたり理想美を追い求め幾つかの作品は発表当初には、批難の的になったもののその多くは、画家の傑作として今も絵画史に燦然と輝いております。当時、最も格調が高いとされた「歴史画」をはじめ、「神話画」「宗教画」、官能性豊かな「裸婦」「肖像画」「風景画」など様々な画題を手がけている。師ダヴィッドの亡命により・・・新古典主義の後継者として名が挙げられる。手がけられた作品の本質は、ロマン主義的な革命性や個性を見出すことができる。ドミニク・アングルは・・・1780年8月29日、フランス南西部モントーバン近郊ムスティエで画家・彫刻家・装飾美術家の父・ジャン・マリージョセフ・アングルと母・アンヌ・ムレの子どもとして生まれた。父・ジョセフは・・・美術家というよりは、職人で化粧漆喰・建築・家具の装飾彫刻、看板描きから音楽まで手広く手がけていた。アングルも・・・幼少期から絵画と共に音楽も学んでおりヴァイオリン演奏者としての一面もあった。実際にニコロ・パガニーニと弦楽四重奏団を結成しパガニーニのスケッチも残している。フランス語で、「アングルのバイオリン」と言えば「本格的な趣味」(losir)と指すようになっった。アングルは、11歳の時トゥールーズの美術アカデミーに入学した。1797年、パリへ出る。新古典主義の巨匠=ダヴィッドのアトリエに入門。1801年『アキレウスのもとにやってきたアガメムノンの使者たち』で当時の若手画家の登竜門である「ローマ賞」を受賞。ローマ賞受賞者には、政府給付金でイタリア留学が出来たはず?アングルの時には、フランスの政治的・経済的な状況により留学が延期され1806年、まで待ってからローマを訪れた。留学時代に描かれたのは、『スフィンクスの謎を解くオイディプス』1808年『浴女』1881年『ユピテルとttィス』これらの作品を留学の成果を示す為にフランスの美術アカデミーに送付された。アングルは・・・留学期間が終了してもイタリアに滞在。1813年、マドレーヌ・シャペルと結婚。1820年までローマに滞在1824年までフィレンツエで活動した。~1824年まで長期間イタリアに滞在した。この間、フラフェッロ・ミカランジェロなどの古典を研究し生活のために肖像画を描きつつ母国フランスのサロンへの出品も続けた。1812年-1813年『オシアンの夢』1814年『グランド・オダリスク』パリ・ルーヴル美術館所蔵1819年『アンジェリカを救うルッジェーロ』1820年『聖ペテロへの天国の鍵の授与』などの作品は、この時代に制作されたものである。長いイタリア滞在の後・・・1824年、サロンに出品したモントーバンのノートルダム大聖堂祭壇画『ルイ13世の誓願』により44歳のアングルは、ダヴィッドの後継者としてまた当時の新しい芸術運動であった「ロマン主義」に対抗する「新古典主義」の指導者として熱狂的に迎えられた。翌年、レジオンドヌール勲章を受け、アカデミー会員に推された。10年ほどの母国での活動を経て1834年(1835年?)再びイタリアのローマを訪れフランス・アカデミー院長を努める。1841年、パリに戻る。1852年頃『パフォスのヴィーナス』パリ・オルセー美術館所蔵1854年『聖餅の聖母』パリ・オルセー美術館所蔵この頃には、アングルは祖国フランスでも巨匠と目され1856年『泉』パリ・オルセー美術館所蔵1855年、パリ万国博覧会においてアングルの大回顧展が開催された。1808年『浴女』パリ・ルーヴル美術館所蔵アングルの代表作のひとつ1862年『トルコ風呂』は・・・パリ・ルーヴル美術館所蔵最晩年の1862年の制作である。円形の画面に退廃的・挑発的な多数の裸婦を描き込んだこの作品は、当時82歳のアングルがなおも旺盛な制作意欲を持っていた事に驚かされる。パリ・ルーヴル美術館所蔵古典美術館【55展示室】Pierre-Joseph Celestin FRANCOIS1759-1851(BELGIQUE)L’ENLEEVEMENT D’EUROPE 1810DE ONTVOERING VAN EUROPA 1810FRANCOIS・・・とは?1759年3月29日-1851年3月13日没Francois-Joseph NAVEZ1787-1869(BELGIQUE)PORTRAIT DE LA FAMILLE DE HEMPTNNE(1816)PORTRAT VAN DE FAMILIE DE HEMPTINNE(1816)NAVEZ・・・とは?1787年11月16日-1869年10月12日没ブリッセル王立美術館【55展示室】広いですね~ベルギーの小学生が居るだけ静かに鑑賞できました。さぁ~て待望の「ルーベンス」へ向かって歩きますGOGO・・・つづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.24
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ダヴィッド・・・とは?Jacques Louis DAVIDジャック・ルイ・ダヴィッドパリ『ルーヴル美術館』ダヴィッドの自画像1794年1748年8月30日-1825年2月29日フランス・パリ生まれ-ネーデルラント連合王国・ブリュッセル77歳にて没フランスの新古典主義の巨匠。18世紀後半~19世紀前半にかけてフランス史の激動期に活躍した画家である。厳格で理知的な構図・厚生と非常に高度な写実描写。運動性の少ない安定的場面展開などを用いた絵画制作をしフランス絵画界における新古典主義の確立者となる。静謐で説明的な光彩表現や当時としては最先端の考古学に基づいた細部の描写歴史的主題における英雄的生活なども同主義の典型として位置付けた。ダヴィッドは・・・1748年8月30日、パリに商人の子どもとして生まれる。9歳、父親は決闘で亡くなる。ロココ絵画の大家であるフランソワ・ブーシェは、ダヴィッドの親戚であったが、ブーシェはすでに50歳代で弟子を取っていなかったのでブーシェの紹介でジョセフ・マリー・ヴィアンという画家に師事する。長い修業期間を経てダヴィッドは・・・1774年『アンティオコスとストラトニケ』で当時の若手画家の登竜門であった「ローマ賞」を得る。ヴィアンに入門してから10年後で26歳頃の事で当時としては、30歳頃で受賞が普通であったので少し早いデビューであった。ローマ賞受賞者は・・・国費でイタリア留学ができる制度になっており1775年、ダヴィッドは、イタリア留学。同年、師のヴィアンは、ローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ就任したため、師弟揃ってのローマ行きとなった。ダヴィッドは・・・1780年までの約5年間イタリアで個展絵画の研究に没頭する。イタリアでの研究を機にダヴィッドの作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから新古典主義的な硬質の画風へと変わってゆく。ルイ16世注文の『ホラティウス兄弟の誓い』1784年は、王室から注文を受けて制作された最初の作品であったがサロンに出品されたさいに同時代の画家が「ダヴィッドこそ今年のサロンの真の勝利者である」と述べたほど大きな評価を集めダヴィッドの代表作の一つとなった。1787年『ソクラテスの死』1789年、フランス革命が勃発。この時ダヴィッドは、ジャコバン党員として政治にも関与していた。『球戯場の誓い』を描き、バステーユ牢獄襲撃事件に加わる。1792年、国民議会議員となる。1793年、革命家マラーの死を描いた『マラーの死』を制作。1792年、ロベスビエールに協力し最高存在の祭典の演出を担当。一時期は国民公会議長を努める。ロベスビエールの失脚に伴いダヴィッドの立場も危うくなり一時、投獄された。この時、自画像と唯一の風景画と唯一の風景画を残している。国費を使って留学をしていた為に王側の人だと思われていたが・・・ナポレオンも同じような境遇でありローマ愛が強かった為、意気投合する。一生ナポレオンについて行くことを誓う。段々と地位が上がっていき最後は、芸術を総括する長官に任命される。1799年『サビニの女たち』制作。1800年、ナポレオンがレカミエ夫人を愛人にするための贈り物として肖像画を依頼され1800年『レカミエ夫人像』を制作した。しかし、レカミユ夫人は、気に入らず未完成に終わった。その後、ナポレオン・ボナパルトの庇護を受けて復活した。1804年、ナポレオンの首席画家に任命される。縦6.1m、横9.3mの大作『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠』1806年~1807年に描かれた。1808年「帝国における騎士ダヴィッド」の爵位を与えられた。1812年『ナポレオンの肖像画』ナポレオンの失脚後、ダヴィッドも失脚し1816年、ブリッセルへ亡命。1825年2月29日、ブリッセルにて77歳の生涯を終える。ルイ16世の処刑に賛成票を投じたことが災いしダヴィッドの遺体は、フランスの帰国を許さなかったが心臓が、現在=ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。・・・旅日記につづく・・・ダヴィッドにぽち
2019.05.23
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いよいよ『マラーの死』ダヴィッド作に♪ベルギー「ブリュセル王立美術館」でご対面です!きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第26回ブリッセル王立美術館 古典美術館 55展示室古典美術館のはなれの一番奥まで来ると大きな展示室に小学校の4年生位でしょうか?こんなに小さい頃から・・・難しい絵画の説明を聞いておりますベルギーも絵画鑑賞にとても熱心みたいで・・・羨ましく感じます。それに引き替え日本はどうなのでしょうか?美術館で、こんな姿を見た事もありませんが・・・残念な事であります。ベルギーの児童の邪魔にならないように~見せていただきますか?【55展示室】展示『マラーの死』ダヴィッドJacques-Louis DAVID1748-1825MARAT ASSASSINE 1793DE MOORD OP MARAT 1793『マラーの死』・・・とは?めっちゃ~ドラマチックに死んでおりますが~そもそも・・・『マラー』って誰なのでしょうか?マラー・・・とは?ジャン・ポール・マラーJean Paul Marat1743年5月24日-1743年7月13日フランスの革命指導者・医師。革命勃発後、山岳派に加わり恐怖政治を推進した。(資料=ウィキペディアさま・他より)(写真=ほしのきらり。2019年4月10日撮影)1789年、フランス革命が勃発以後・・・新聞『人民の友』を発行し過激な政府攻撃をして下層民から支持された。そのことがもとで・・・1790年1月、イギリスに亡命。4月に戻って、コルドリエ・クラブに入り8月10日、テュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への九月虐殺を引き起こしたといわれている。1792年、国民公会の議員に選出されて山岳派に属した。議会を主導するジロンド派を攻撃し一時、逮捕されパリ民衆を蜂起させて最終的に国民公会から追放した。この頃・・・持病の皮膚病が悪化。活動不能となり自宅にこもって一日中入浴して療養していた。1793年、面会に来たジロンド派のシャルロット・コルデーに暗殺された。暗殺後、現場で画家ジャック・ルイ・ダヴィッドが有名な『マラーの死』を描いている。ジャコパン派の盟友マクシミリアン・ロベスピエールによって神格化されジロンド派の弾圧の口実となった。遺体は、「革命の殉教者」として巣窟されたがテルミドールのクーデター後に取り除かれた。ブリッセル王立美術館『古典美術館』55展示室ダヴィッドJacques-Louis DAVID(1748-1825)ダヴィッド作『マラーの死』1793年フランス新古典主義の画家「ジャック・ルイ・ダヴィッド」がフランス革命の指導者「ジャン・ポール・マラー」の死を描いた油彩である。ダヴィッドは・・・当時のフランスを代表する画家であり山岳派のジャコバン党員であるだけでなく革命保安委員会の一員でもあった。『マラーの死』は・・・フランス革命を描いた有名な絵画の1つである。1793年7月13日、シャルロット・コレデーに暗殺された急進的なジャーナリストが、浴槽に横たわっている場面を描いた。マラーの死後数ヶ月で描かれ「政治的要素を材料に脚色をすることなく描かれた」初の近代絵画であるとT・J・クラークに評された。一番、気になるのは・・・左手に持ったまま死んでしまった「紙」は?マラーの左手に握られた紙の拡大Il suffit que je sois bien malheureuse por avoir droit a votre bienveillance.(不幸であるなら、私にはあなたの助言を乞う権利がある。)と書いてあります。マラーの姿は理想化されている。たとえば・・・彼が患っていた皮膚疾患は、どうも~描かれていない!しかし、ダヴィッドは、暗殺の前日にマラーの家を訪ねた際に得た情報、すなわち緑の敷物、新聞、ペンについては絵に描きこんでいる。マラーは・・・1793年7月13日に皮膚病の治療と緩和のために硫黄風呂に浸かっていた時、「伝えねばならない重要な情報がある」との理由で近づいてきたシャルロット・コルデに刺殺された光景を描いた作品である。画面中央で力なく倒れるマラーは、同じく槍に刺されて死した受難者イエスの如く神々しい姿である。またその姿には、古代の悲劇的情景にも通じる『革命の英雄』的印象を観る者に与えることに成功している。浴槽からだらりと下った右手には・・・報道者としての側面を示す「羽ペン」が持たされているさらにペンの左側下の床には・・マラーを刺殺した際に使用したと考えられる「ナイフ」が1本落ちておりこの作品の緊張感を盛り上げる効果を発揮している。画面の最前景へ配されているペンとインク壺が置かれた木箱の側部には、「マラーへ、ダヴィッド、2年」と記されておりダヴィッドの亡き友人に対する哀悼の意が明確に示されている。ダヴィッドは・・・殉教の恐怖以上のものを記録しようとしているのである。現実にどうあったかではなくこの絵の全体が当初から犠牲に焦点を当てて秩序立てて構成された虚構、現代の評論家の一部が「ひどく美しい嘘」とみなす著しい虚偽なのである。たとえば・・・法医学的・科学的な観点からみるとコルデーがマラーの胸に突き刺したままのナイフは浴槽の外にナイフが落ちていることはありえない!(と、京都の法医学教室のマリ子さんも怒っていると?)殺害直後をそのまま描いたとの情報には色々と間違いがあると・・・私は、考えてしまいます(個人の感想です)まぁ~こんなイメージであったと考えておきましょうか?『マラーの死」は、しばしばミケランジェロの『ピエタ』と比較されるキリストの垂れ下がった腕が・・・共通している!ダヴィッドは、カラヴァッジオの『キリストの埋葬』を称賛しており『マラーの死』のドラマと光にもその影響が観られる。下った手が~なるほど似てます木箱の下部には・・・マラーダヴィッドのサインがあります。・・・ダヴィッドについては、次回に・・・古典美術館にぽち
2019.05.22
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ピーテル・ブリューゲルPieter Brueghel・・・とは?Piter Brueghel the Elder1525年か?1530年頃出生~1569年9月9日没16世紀に活躍した画家・素描家・銅版下絵画家である。ヤン・ファン・エイク以来となるネーデルランド絵画の巨匠となった。出生地は・・・不明であるが現在の「ベルギー」リンブルグ州かと推定される。同名の長男と区別する為にブリューゲル(父)(大)(老)と表記し区別される。ブリユーゲル(父)の生年や出生地は、はっきり分かっていない!ブリューゲル村の出身だと言う人物も居るが謎である。農民画家と言われた彼が農民出身だと考えられるが彼は、都会出身の人文主義者である可能性がある。『イカロスの墜落のある風景』「ブリュセル王立美術館」展示の作品は、ほぼブリューゲル(父)の模写であるとされている。1551年、アントウェルペンの画家組合ギルド「聖ルカ組合」に“Peeter Brueghels”という名前で登録されている。組合に新規加入するのが通常では、21歳~26歳なのでブリューゲルが生まれたのは・・・1525年~1530年頃であると推定される。ブリューゲルは、アントウェルペンでピーテル・クックファン・アールストから絵を習ったらしい?クックは、当時の画家で最も尊敬された画家の一人であった。神聖ローマ帝国カール5世に仕えた宮廷画家であり彫刻、建築、タペストリーやステンググラスのデザインも手掛けた。ブリューゲルに影響を与えたことが確実なもう一人の画家は、ブラウンシュヴァイク・モノグラミストである。ファン・アムステルは、ピーテル・クックの義理の兄でありブリューゲルに風景画、人物画に影響を与えた。ブリューゲルは、ピーテル・クックのアトリエを去ってからアントウェルペンの版画家業者ヒエロニムス・コックの下で働くようになった。1550年9月~1551年10月までは、アントウェルペンを離れメヘレンのClaude DorziのアトリエでPierer Baltenとともに手袋製造業者のギルドのために祭壇画を制作している。1551年、アントウェルペンの画家組合に加入してからすぐにイタリアに渡った。リヨンを経てモン・スニ峠を越える路程で画家マールテン・ド・フォスも一緒であったと思われる。ブリューゲルは、ローマ滞在には飽き足らず1552年、南イタリア・カラブリア州までおもむき同年、トルコの攻撃で焼けたレッジョ・ディ・カラブリアの街を描いた素描から推測される。レッジョから、さらにメッシーナまで行った事も彼の版画から推測がされる。ブリューゲルの「死の勝利」は、シチリア島・パレルモのスクラファーニ宮殿にあるフレスコ画に基づいたものであるとして彼が、パレルモまで足を延ばしたと言う説もある。ブリューゲルの最初期の作品である可能性がある「イタリア風回廊のある山の風景」1552年、「背景に山のある渓谷」1552年は、南イタリアで描かれたものである可能性がある。「ナポリの戦い」の油彩も南イタリアへの旅を裏付ける。1553年までに、ローマに戻ったと思われる。Joris Hoefnageによる2枚のエッチングに「ピーテル・ブリューゲル画、ローマ、1553年」という銘がある。 Petrus Brugel Fecit Romae Ao 1553ローマの「リバ・グランデの港」の素描も残っている。ローマの啓蒙家ジュリオ・クローヴィオの収蔵品目録に「半分を自分が、半分をピーテル・ブリューゲルが描いた細密画」その他ブリューゲルの「バベルの塔」、ガッシュ水彩画「リヨンの眺め」等数点の作品が記載されていることもローマに滞在していた証拠である。ブリューゲルは・・・1554年には、北方に戻っている。その時の道のりについてはモン・スニ峠、スイス、リヨンを通ったか?これより東のミュンヘンを通るルートだったか?争いがある!マンデルは・・・「ブリューゲルはアルプスで全ての山々と岩岩を飲み込み、 帰って来てから、それをキャンバスとパネルの上に吐きだした」と書いている。ブリューゲルは、1555年までにアントウェルペンに戻った。1555年、ヒエロニムス・コックが「大風景画」と呼ばれる12枚の版画を出版していることから分かる。ブリューゲルの油絵で日付の付されたものは1557年が最初である。当時のアントウェルペンは・・・アジアへのアフリカ航路、アメリカへの大西洋航路などにより地中海沿岸都市に代わり大航海の一大拠点となると共に絹・香辛料をもたらす中東、穀物を産するバルト海、羊毛を産するイギリスを結ぶ南北貿易でも栄えヨーロッパの中で成長著しい都市であった。芸術も盛んであり1560年には、360人の画家がいたと言われる。(1569年時点でアントウェルペンの人工は約89,000人)ブリューゲルは・・・アブラハム・オルテリウスや出版者クリスト・プランタンなどオランダの著名な人文学者たちと親交を持っていた。ブリユーゲルは・・・1559年から“brughel”から、大文字の“BRVEGEL”に変えているが、Hを落としたのは、人文学者の慣習に従いラテン語的な書き方を採用してものと考えられる。『叛逆天使の失墜』1562年1563年、ブリューゲルは・・・マリア・クック(1545年?-1578年)と結婚。マリアは、ピーテル・クックと、啓蒙家で水彩画家のMayken Verhulstとの間の末娘である。ブリューゲルは、結婚と同時にブリュセルに移り住んだ。彼の主要作品の多くは、ブリッセル時代に制作された。マリアとの間には、長男ピーテル・ブリューゲル次男ヤン・ブリューゲルと娘1人が生まれた。『ベツレヘムの戸籍調査』1566年1567年8月、スペイン王フェリペ2世から派遣された第3代アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドがブリッセルに入市して、プロテスタントに対する激しい弾圧を行った。ブリューゲルは、この事態を間近で見ることとなった。『聖マルティンのワイン祭り』1566年~67年頃ブリューゲルは・・・死の直前、妻に「余りに直截的・風刺的な」素描を焼き捨てさせたという。「後悔の念からか、妻が迫害されたり 何らかの形で責任を問われたらすることを恐れていたためか」とマンデルは、記している。この記録をめぐってブリューゲルの政治的・宗教的立場が例えば再洗礼派のように、微妙なものであったのではないか?という推測が行われてきた。ブリューゲルは・・・メヘレン大司教アントワーヌ・ド・グランヴェルから尊崇を受けておりフェリペ2世に仕えたアブラハム・オルテリウスとも親友であった一方哲学的には、新ストア主義に近くデジデリウス・エラスムスやトマス・モア、Dirck Volckertszoon Coormhertの著作にも親しんでいたと思われる。ただ、特定の党派に属するものではなかった可能性が高い。1669年、30代末~40代前半で没した。ノートルダム・ド・ラ・シャペル教会に屈葬された。(資料=ウィキペディア様他より)・・・旅日記につづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.21
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古典美術館の2階奥の展示室を観ております。2019年4月10日(水)一番奥の60展示室ルーベンスから先へ進んで行きましょう♪きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第25回60展示室からは、ほぼ画家さん毎の展示になっております60展示室から出ると59展示室は、細長い廊下のような58展示室=ブリューゲル展示室へ行く為の通路という感じです。ベルギー王立美術館 古典美術館 59展示室金や銀の燭台の展示ですね~彩色の壺も見事でしたWim Delvoye 1990 Cabinet陶器は、白地に藍色の模様が描かれています(特別展示)廊下のような展示を過ぎると・・・古典美術館【58展示室】ブリューゲルうわぁこれこれ“Brughel”らしい絵画が並びますベルギーの美術館を訪問するにはどうしても知っていなくてはならない!『ブリューゲル』一族それぞれの名前ですが代表的な人物は・・・●ピーテル・ブリューゲル(父)(大)(老)と表記 Pieter Brughel the Elder 1525年-1569年 通称=農民の画家ブリューゲル 一族で最も有名な画家 著名は、一族中唯一 H.を除いて“Bruegel”と記した。 ●ピーテル・ブリューゲル(子)(小) Piteter Brueghe the Younger 1564年-1638年 通称=地獄のブリューゲル ピーテル・ブリューゲル(父)の長男 5歳の時に父が亡くなり祖母に絵を習う●ヤン・ブリューゲル(父) Jan Brueghel the Elder 1568年-1625年 通称=ビロードのブリューゲル,花のブリユーゲル ピーテル・ブリューゲル(父)の二男 父は、彼が1歳の時に亡くなり 兄と共に祖母に絵を習う●ヤン・ブリューゲル(子) Jan Brughel the Younger 1601年-1678年 ヤン・ブリューゲルの息子。 父親と同じようなスタイルの作品を制作し サインまで同じであったが父親より落ちる? ●アンブロシウス・ブリューゲル Ambrosius Brueghel 1617年-1675年 ヤン・ブリューゲル(父)の子ども ヤン・ブリューゲル(子)とは腹違いの兄弟 風景画を得意としたバロック画家である。 父の画風に似ているが新しい世界を開いた。●アブラハム・ブリューゲル Abram Brueghl 1631年-1690年 ヤン・ブリューゲル(子)の次男 花を描いた静物画で知られる。 10代から高い評価を得る。 18歳で腕を挙げる為にイタリアへ移住し イタリア人と結婚し生涯を過ごす。ブリッセル王立美術館・古典美術館【58展示室】ヤン・ブリューゲル(子)Toegeschreven aanJAN BRUGHEL IIAntwerpen 1601-1678DE CALVARIEBERGLE CALVAIREヤン・ブリューゲル(子)の作品ですベルギーではブリューゲル(II)と表記ピーテル・ブリューゲル→(次男)ヤン・ブリューゲル(父)→(長男)ヤン・ブリューゲル(子) ピーテル・ブリューゲルの孫ですヤン・ブリューゲル(子)・・・とは?Jan Brughel JongeJan Brugel II1601年9月13日-1678年9月1日フランドルの画家。ピーテル・ブリューゲル(父・大・老)の孫ヤン・ブリューゲル(父)の長男ヤン・ブリューゲル(子)は・・・父親の元で修業した。父親と同じようなスタイルの作品を制作した。異母兄弟のアンブロシウスと共に細部まで描写した風景画や寓意画を手掛けた。サインも含めて父親の模写を制作し売っていた。彼の作品は、父親のものと比べるとやや質が落ち色遣いが明るい!1624年からアンソニー・ヴァン・ダイクと共にイタリアを旅したが1625年、父がコレラで亡くなったためアントワープに戻って工房を引き継いだ。1626年、画家アブラハム・ヤンセンスの娘と結婚後に11人の子どもをもうける。1630年、聖ルカ組合の組合長になる。同年、フランスの宮廷から依頼を受ける。その後、オーストリアの宮廷からの依頼を受けパリでも活躍する。1657年、アントワープに戻る。ルーベンスやへンドリック・ファン・バーレン、アドリアーン・ファン・シユタルベムト、ルーカス・ファン・ウーデンダフィット・テニールス(子)、アブラハム・ヤンセンス等同時代の著名な画家たちと共同制作している。ヤン・ブリューゲル(子)DE TERUGKEER VANDE BEDEVAARTgesigneerdRETOUR DEPELERINAGEsigneヤン・ブリューゲル(子)DE GOEDE HERDERgesigneerd1616LE BON PASTEURsigne1616『良き羊飼い』1616年そしていよいよ・・・大御所ピーテル・ブリューゲル(父)NaarPIETER BRUGEL Ieind 16de・beguin 17de eeuwDE SINT-MAARTENSWIJNLE VIN DE LA SAINT-MARTIN『聖マルティンのワイン祭り』1566年~67年頃聖マルティンは、右側で優雅に白馬に乗っておりますピーテル・ブリューゲル(父)Pieter Bruegel(Brueghel)de oude1525年・1530年頃-1569年8月9日16世紀のブラバント公国(現在のオランダ)の画家Pieter・ペーターあるいは、ペーテルとの表記もある。同名の長男ピーテル・ブリューゲル(子)と区別するためにピーテル・ブリューゲル(父・大・老)と表記される事が多い。・・・以後・長く語りたいので「次回ブログ」で詳しく・・・ブリューゲル一族で一番の大御所の作品であります。画面が光って見にくいですが~近寄ってみましょう。あらあら子どもまでワインを飲もうと・・・ワイン祭りで農民たちがワインに群がっています。ブリューゲル(父)流石です~ジャック・カロNaarJACQUES CALLOT 17de eeuw,na 1620DE JAARMARKT TEIMPRUNETALA FOIRED’IMPRUNETA部屋の隅にあるメタリックなバゲージは・・・特別展示Wim Delvoye次の部屋は【57展示室】その次は【56展示室】次は、55展示室へ向かいます~いよいよ会いたいマーラー様の部屋に・・・ブリューゲル(父)につづく・・・お互いに利益(お金)が発生する訳ではありませんがいつも~ぽち。ありがとうございます古典美術館にぽち
2019.05.20
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290万アクセス突破!ありがとうございます(^0^)感謝。感謝であります~♪きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第24回ブリッセル王立美術館 古典美術館 60展示室『ルーベンス』【60展示室】は・・・王立美術館2階「古典美術館」エントランスの吹き抜けがあるコーナーの先【64展示室】から進み少し外れ階段を4段下った場所にありますここは世界屈指の画家である「ルーベンス」の世界この静けさ、ひとり占めなんと~幸せな事。代表作ではありませんが・・・巨匠ルーベンスの作品をたっぷりご覧下さいませルーベンスPETER PAUL RUBENSSiegen 1577-Antwerpen 1640DE WIJSHEID HOUDT DEGEWAPENDE REBELLIE WEGVAN DE TROON VAN JACOBIVAN ENGELANDLA SAGESSE ELOIGNANT LAREBELLION ARMEE DUTRONE DE JACQUES ID’ANGLETERREルーベンス作DE MIRAKELEN VAN DEHEILIGE BENEDICTUSLES MIRACLES DE SAINTBENOIT贅沢に『ルーベンス作品』が上下に並んでおりますルーベンスの作品たちルーベンスの作品たちルーベンスDE TRIOMF VAN HETKATHOLIEKE GELOOFmodel voor een der tapijten vande Triome van de EucharstieLE TRIOMPHE DE LA FOICATHOLIQUEmondele pour I’une des tapisseriesdu Triomphe de I’EucharistieルーベンスVIER STUDIES VAN HETHOOFD VAN EEN MOORQUATRE ETUDES DE LATETE D’ UN MAURE(キッズにお勧め作品)ルーベンスPORTRET IN EEN MEDAILLONVAN DON GASPARO DEGUZMAN,GRAAF VANOLIVAREZ EN HERTOGVAN SAN LUCR DEBARRAMEDAPORTRAIT DANS UNMEDAILLON DE DONGASPARO DE GUAMAN,COMTE D’ OLIVAREZ ETDUC DE SAN LUCAR DEBARRAMEDAルーベンスDE AARTSENGEL MICHAELVERSLAAT DE OPSTANDIGEENGELENmoded vor een van de plafond-schilderijen van de jezuietenkerkte AntwerpenSAINT MICHEL TERRASSNTLES ANGES REBELLSmodele pour une des Peinturesdu plafond de I’eglisedes jesuites a AnversルーベンスDE MARTELING VAN DEHEILIGE URSULALE MARTYRE DE SAINTEURSULEルーベンス・・・とは?ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens1577年6月28日-1640年5月30日(62歳没)ベルギー人の画家・最大の巨匠である。現在のドイツ・ジーゲンで生まれ現在のベルギー・アントワープに没する。バロック期・フランドルの画家・外交官祭壇画・肖像画・神話画・寓意画・歴史画などを描いた。画業だけでなく7か国語を話せて「外交官」として活躍した。古典的な知識を持つ「人文主義学者」であり「美術収集家」でもあった。・・・つづく・・・2900,000人にぽち
2019.05.19
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はははっ。この印象的な絵画は、一度観たら忘れられない絵画です(^0^)パリ『ルーヴル美術館』で1年前にお会いしましたけど・・・ブリッセル『王立美術館』にもいらしたのどう違うのでしょうか?同じですよ!!これは~絵画の中に描かれたアイテムには・・・それぞれ理由があるのでありますきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第23回『ブリッセル王立美術館』2階「古典美術館」にて【64展示室】2019年4月10日(水)クエンティン・マサイスNaarQUINTEN METSYS Antwerpen?16de eeuwD’apresQUINTEN METSYSAnvers?XVIe siecleDE BANNIER MET ZIJN VROUWLE BANQUIER ET SA FEMMEおやっ確か~昨年ルーヴルでパリ『ルーヴル美術館』の作品です。2018年4月『ルーヴル美術館』で撮影展示の環境のせいで明るさに違いはありますが同じです『金貸しとその妻』両替商とその妻クエンティン・マサイス・・・とは?Quinten Massys1465年・1466年-1530年ルーヴェン-アントワープフランドルの画家宗教画・風俗画・肖像画を多く描くイタリア・ルネサンス&北方ルネサンスの融合1465年あるいは1466年ルーヴェンで生まれる。父親は、腕の立つ鍛冶屋であった。1507年、完全に独立した画家となる。(それまでの経歴は不明である)ルーヴェンのディルク・ボウツの工房で修行したと考えられる。1490年、アントワープに移り、画家組合に親方として登録。この頃から大画家としての名声を得た。1492年頃、最初の妻と結婚。3人の子どもをもうける。1508年、再婚。さらに10人の子どもをもうける。フォンテーヌブロー派の影響を受けたヤン・マサイスは、子どもである。(同名の孫)クエンティン・マサイスも著名な画家である。1530年、疫病で没した。マサイスは・・・当初は、ウェイデン、ボウツ、グースらの影響を受けた!宗教的題材を描いていたが次第に風俗的絵画へと移っていった。画風も技巧的で優雅なものとなりアントワープにおける代表的なマニエリスム様式の画家になった。マサイスが、イタリア絵画、特にダ・ヴィンチに深く傾倒していたのは明らかでありそれは、例えばスフマートの技法やカリカチュア肖像画の構図に見て取れる。ファン・エイクの伝統的手法からも多くを学んだ。晩年には、画力の衰えが見られ絵に感傷的傾向が強まっていった。マサイスの画法には・・・道徳的な内容がしばしば見られる。いわゆる人間の不徳、生命の儚さの告発でありマサイスは、絵画史におけるこのジャンルの開拓者である。代表作=『両替商とその妻』『不釣り合いなカップル』は、エラスムスの著作との関連が指摘されている。『金貸しとその妻』両替商とその妻・・・は記録的で、描写的な当時における職人の写実的描写もしくは時間制への信心と言うよりは・・・寓意と教訓虚栄心の象徴、審判の天秤といったキリスト教的シンボル、酷く物惜しみする事に対する告発誠実への賞賛などを籠めた作品と思われ奇妙な古典的衣装が古い時代を喚起している。細部が見事な鏡は、ファン・エイクの技法を彷彿とさせる。当時のアントワープは・・・重要な商業活動の街でたちまち北と南の間に位置する交流の主要点となりそこはポルトガルやスペイン商人やイタリアの銀行家が出会う土地であった。熱狂的な商業活動は、アントワープをヨーロッパにおいて最も重要な経済活動の中心地でした。方々の貨幣を用いる国際的な人種の存在は、ブリューゲルやとりわけアントワープといった外国人が頻繁に出入りする土地において金貸しや質屋といった商店の発達をもたらした。これらの土地のひとつに、かつてはルーベンスのものであったマサイスの有名な作品の場面が捉えられている。『金貸しとその妻』は・・・人物に大きな存在をもたらしている狭まった枠組みの中で半身像で描かれた二人の人物がテーブルの後ろに座って居る。二人の配置は、完璧な対称を成している。散らばった真珠や宝石金貨を目の前に男は、これらの財産を測っている所でその様子は、聖母子のさし絵でそれとわかる聖書を読んでいた彼の妻の気をそらしている。絵画に登場するアイテムの意味・・・とは?前景に描かれた「鏡」は・・・フランドル絵画の中では流行の作品の外側の世界との結合を生み出す手法であり「鏡」の中には・・・窓の前に描かれた一人の人物の姿が映っている!右側の細~く開けられた扉からは・・・一人の青年と老人が語り合っている姿が見える。緑と赤の対比の色彩は・・・ボリュームと同時にオブジェの描写に認められる綿密さによってもたらされた懐古主義からこの絵が実は・・・ファン・エイクの紛失した作品を模倣したものではないか?と言う説がかつて生まれたことがある。15世紀後半は・・・北方ヨーロッパにおける風景・日常生活の場面や肖像画といった風俗画の普及によって特徴づけられている。日常生活の道徳的な描写に寄って画家は人間の不徳や生命の儚さなどを告発した。このジャンルにおける先駆者と見なされているマサイスの作品の中では明らかにこれらの要素に重点が置かれている。ここでは、夫の前に散らばっている金、真珠(真珠は、色欲の象徴である)や宝石の誘惑が、彼の妻を聖書の読解という精神的活動からそらされている。背景に配されたオブジェは・・・入念に選び抜かれ、作品の持つ道徳的な要素を強調している。火の消されたロウソクと棚の上の果実は、本質的な罪の暗示で、腐敗を予告し死を喚起している。水差しとぶら下がったロザリオは・・・聖母の純潔を象徴している。さらに小さな小箱は・・・女神が隠れた宝石箱を表現している。この場面は・・・特にマリウス・ファン・レイメルスワールといった画家やその他の数々の作品の中でも登場している。絵画の中に隠されたアイテムの謎を解き明かすとますます、面白くなってまいりました古典美術館にぽち
2019.05.18
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ブリッセル王立美術館LEVEL=2(2階)古典美術館63展示室は、主にヴァン・ダイクの展示室であります。壁紙は・・・うすむらさきですね~きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第22回ブリュセル王立美術館 古典美術館 65展示室65展示室『ヴァン・ダイクの部屋』アンソニー・ヴァン・ダイクアントワープ1599年-ロンドン1640年(42歳没)ANTOON VAN DYCKAntwerpen 1599-Londen 1641ANTOON VAN DYCKAnvers 1599-Londres 1641PORTRET VAN EENBEJAARDE DAMEPORTRAIT D’UNE DAMEAGEE昨日のブログで『ヴァン・ダイク』の生涯を長く語り尽くしましたので素晴らしい「肖像画」を更にご覧くださいませアンソニー・ヴァン・ダイク作アントワープ1599年-ロンドン1640年(42歳没)PORTRET VAN PATERJEAN-CHARLES DELLAFAILLE,S.J.PORTRAIT DU R.PJEAN-CHARLES DELLAFAILLE,DE LACOMPAGNIE DE JESUSアンソニー・ヴァン・ダイク作アントワープ1599年-ロンドン1640年(42歳没)PORTRET VAN EENBEJAARD MANPORTRAIT D’UNHOMME AGEアンソニー・ヴァン・ダイクについては・・・昨日、長々とお話いたしましたが、【65展示室】には・・・ブリューゲル一族の絵画も一部あります。ここ「古典美術館」には、かなりの作品が展示されております。この展示室にもあります~ヤン・ブリューゲル(子)アントワープ1601-1678JAN BRUGHEL IIAntwerpen 1601-1678JAN BRUGHEL IIANVERS 1601-1678AENEAS IN DE HELENEE AUX ENFERSヤン・ブリューゲル(子)・・・とは?Jan brughl the yongerJAN BRUGHEL IIブリューゲル一族またまた(子)yonger,II?いよいよややこしくなってまいりましたね!オランダ語・フランス語表記なのでますますややこしさが増しておりますブリューゲル一族・・・とは?ブリューゲルは・・・フランドルで16世紀から17世紀にかけて画家を多く出した一族の姓である。同じ名前が多く日本語では・・・(父)(大)(小)(老)(子)ベルギー表記では・・・II英語表記では・・・YONGER?色々あって、ややこしいので通称などで呼ばれ区別されております。(私は、最終的に生年月日で区別してしまいますが)代表的な人物は・・・●ピーテル・ブリューゲル(父)(大)(老)と表記 Pieter Brughel the Elder 1525年-1569年 通称=農民の画家ブリューゲル 一族で最も有名な画家 著名は、一族中唯一 H.を除いて“Bruegel”と記した。 ●ピーテル・ブリューゲル(子)(小) Piteter Brueghe the Younger 1564年-1638年 通称=地獄のブリューゲル ピーテル・ブリューゲル(父)の長男 5歳の時に父が亡くなり祖母に絵を習う●ヤン・ブリューゲル(父) Jan Brueghel the Elder 1568年-1625年 通称=ビロードのブリューゲル,花のブリユーゲル ピーテル・ブリューゲル(父)の二男 父は、彼が1歳の時に亡くなり 兄と共に祖母に絵を習う●ヤン・ブリューゲル(子) Jan Brughel the Younger 1601年-1678年 ヤン・ブリューゲルの息子。 父親と同じようなスタイルの作品を制作し サインまで同じであったが父親より落ちる? ●アンブロシウス・ブリューゲル Ambrosius Brueghel 1617年-1675年 ヤン・ブリューゲル(父)の子ども ヤン・ブリューゲル(子)とは腹違いの兄弟 風景画を得意としたバロック画家である。 父の画風に似ているが新しい世界を開いた。●アブラハム・ブリューゲル Abram Brueghl 1631年-1690年 ヤン・ブリューゲル(子)の次男 花を描いた静物画で知られる。 10代から高い評価を得る。 18歳で腕を挙げる為にイタリアへ移住し イタリア人と結婚し生涯を過ごす。・・・ややこしい一族の話は、おいおいに・・・ヤン・ダヴィス・デ・ヘームJAN DA VIDSZ.DE HEEMUtreeht 1606-Antwerpen 1683.84JAN DA VIDSZ.DE HEEMUtreeht 1606-Anvers 1683.84STILEVEN MET VRUCHTENAN VISgemonogrammeerd1660NATURE MORTE AUX FRUITSET POISSONmonogramme1660ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム・・・とは?Jan Davids de Heem1606年4月17日-1684年4月26日17世紀のオランダで活躍した画家豊かな色彩と精密さが際立つ静物画である。ヤン・ダヴィス・デ・ヘームは・・・1606年4月17日、ユトレヒトで生まれる。バルタザール・ファン・デル・アストに師事。1625年~1629年、ライデンに住む。ダフィット・ベイリーの元で学ぶ。1635年~1636年、アントウェルペンの画家組合に加入。1667年までアントウェルペンで過ごし、ユトレヒトに戻る。1668年~1671年、ユトレヒトに住んだと思われる。1671年、フランス軍の接近によりその地を離れる。彼が、いつアントウエルペンに戻ったか記録にないが1784年4月26日、この地で亡くなった記録が残っている。息子=コルネリス・ド・ヘームも画家となった。(資料=ウィキペディアさまより)【64展示室】につづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.17
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ヴァン・ダイク・・・とは?師「ルーベンス」についてザックリ理解できましたところで♪一番弟子である「アンソニー・ヴァン・ダイク」についても興味深く生まれも良く、貴族のような生活ぶりでなかなか素敵な方だったみたいです~きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第21回ブリッセル王立美術館・古典美術館・LEVEL2・63展示室にてヴァン・ダイクToegeschreven aanANTOON VAN DYCKAntwerpen 1599-Londen 1641Attribue aANTOON VAN DYCKAnvers 1599-Londres 1641DE MARTELING VANDE HEILIGE PETERUSLE MARTYREDE SAINT PIERREアンソニー・ヴァン・ダイク・・・とは?Anthony van Dyck1599年3月22日-1641年12月9日(42歳没)現在のベルギーで生まれ、ロンドンで没する。17世紀に活躍したフランドルの代表的な画家である。肖像画・歴史画・宗教画・神話画を描いたが水彩画やエッチングの分野でも革新をもたらした。アンソニー・ヴァン・ダイク作PORTRET VAN EENBEJAARD MANgemonogrammeerd1613PORTRAIT D’ UNHOMME AGEmonogramme1613ヴァン・ダイクは・・・1599年3月22日、 エルギー・アントウェルペンの裕福な家庭に生まれました。幼少のころから優れた芸術の才能を発揮し1609年までにアントウェルペンの画家ヘンドリック・ファン・バーレンのもとで絵画を学ぶ。1615年頃、画家として独り立ちし年少のヤン・ブリューゲル(子)とともに工房を構えた。ヴァン・ダイクは・・・1618年2月には独り立ちしたマスターとしてアントウェルペンの芸術家ギルド聖ルカ組合へ入会。その後、数年で当時のアントウェルペンのみならず北ヨーロッパ全域で高い評価を得ていた芸術家であるピーテル・パウル・ルーベンスの筆頭助手となった。この時期のルーベンスは・・・自身の大規模な工房だけでなく他の芸術家が経営する工房とも多くの絵画制作助手契約を結んでいた。ルーベンスが年若いヴァン・ダイクに与えた影響は途方もなく大きなものだったがルーベンスの方も19歳のヴァン・ダイクのことを「もっと優れた弟子である」と評している。ルーベンスとヴァン・ダイクの関係がいつどのように始まったかは、はっきりしていない。ヴァン・ダイクの最初期の作品にヘンドリック・ファン・バーレンの影響がほとんど見られないことから1613年頃からルーベンスの弟子になっていたのではないかという推測もあるが、この仮説を裏付ける証拠は存在しない。1620年、ルーベンスは・・・アントウェルペンのイエズス会の天井画を制作する大きな契約を結びヴァン・ダイクもルーベンスのデザインにしたがって絵画を描く芸術家の一人として参加している。その後、諸外国で活動し国際的な評価を得ていたルーベンスは、定期的にアントウェルペンに戻っていたがアントウェルペンでのルーベンスの名声は徐々に弱まっておりヴァン・ダイクも師のルーベンスと同様に画家としてのキャリアのほとんどを外国で送ることとなった。アンソニー・ヴァン・ダイク作DRONKEN SILEENONDERSTEUND DOOR FAUNEN BACCHANTESILENE IVRESOUTENU PAR UN FAUNEET UNE BACCHANTE1620年、ヴァン・ダイクは・・・バッキンガム公「ジョージ・ヴィリアーズ」の務めでイングランドに渡る。第21代アラデル伯トーマス・ハワードがロンドンに所有していたイタリアルネサンスの巨匠ティツィアーノの絵画を目にしている。ティツィアーノの色彩感覚と優れた立体表現技法はヴァン・ダイクの作品における転換点となりそれまでのルーベンスから学んでいた絵画技法とを融合させることによってヴァン・ダイクの絵画技術に新たな境地をもたらした。ヴァン・ダイクは・・・イングランドで4ヶ月を過ごした後にフランドルへと戻ったが1621年終わりにイタリアに移転。6年間、イタリア人巨匠たちの作品を研究し優れた肖像画家として名声を確立し始める。当時のヴァン・ダイクは・・・ローマにたむろしていたどちらかといえば迷惑がられていた奔放な北方の画家たちとは一線を画し自身が重要な人物であることを自ら主張するかのような言動をとっていた。イタリア人芸術家ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリは、ヴァン・ダイクのことを・・・「古代ローマの画家セシウスを髣髴とさせる華やかな男で その態度は非常に紳士的であり いつも豪奢な衣装を身にまとっていた。 ルーベンスを通じて、その取り巻きだった 貴族階級の人々の暮らしが身についていたのだろう。 気質も陽気で、気品ある言動をとるように留意していた。 身に付ける衣服は絹服が多く 羽やブローチで飾られた帽子を着用して 胸元には、金鎖をあしらっており いつも召使をつれていた。」 と記録されている。ヴァン・ダイクは・・・活動の拠点をジェノヴァにおいていたがイタリア中を旅しパレルモやシチリアのように数回、訪れた場所もある。最後の隆盛を見せていた当時のジェノヴァ貴族のために等身大の肖像画を描いているがこの時期の作品には・・・ヴェロネーゼ、ティツィアーノそしてルーベンスの影響が残っており観るものを見下すかのような尊大な表現の優美な肖像画となっている。1627年、アントウェルペンに戻る。5年間フランドルの人々の肖像画を洗練された優美な作風で描いた。ブリッセルの市議会会議室に飾るために議員24名の等身大集団肖像画も描いているがこの作品は1695年に失われてしまっている。ヴァン・ダイクは・・・パトロンたちから非常に魅力的な人物であると見なされており師のルーベンスと同じように貴族階級と宮廷人の双方から受け入れられこのことがより多くの絵画制作注文につながった。1630年、フランドルを統治していたハプスブルク家の大公妃イサベル・クララ・エウヘニアの宮廷画家に任命されている。この時期のヴァン・ダイクは、肖像画だけでなく大規模な祭壇画など多くの宗教画を描き銅版画も手がけ始めている。イングランド王チャールズ1世は・・・イギリスの歴代君主のなかでも特に芸術に興味を示し美術品を収集した人物であり美術品は自身の威厳を増大すると考えていた国王だった。1628年、チャールズ1世は、マントヴァ公カルロ1世が売却を余儀なくされた美術品コレクションを購入したほか1625年、戴冠して以来諸外国の著名な画家たちをイングランドへと招聘しょうと試みている。1626年、イタリア人画家オラツィオ・ジェンティレスをイングランドへ招くことに成功しのちにオラツィオの娘で同じく画家だったアルテミジア・ジェンティレスもイングランドに迎え入れた。ルーベンスもチャールズ1世がイングランドへ招きたいと熱望していた画家で1630年、外交官としてイングランドを訪れたルーベンスに絵画制作を依頼した。その後にもチャールズ1世は、さらにルーベンスの作品をアントウェルペンから輸入し購入している。ルーベンスは、9カ月イングランドに滞在しチャールズ1世から歓待されてナイトの称号まで授与された。当時のイングランド宮廷肖像画家だったダニエル・マイテンスは、あまり優れているとはいえないフランドル人の画家だった。チャールズ1世は、背が低くチャールズ1世の肖像画を描く画家にとって力強く威厳に満ちた君主として描き出すためには技量が必要だった。160年以来、ヴァン・ダイクは・・・イングランド宮廷との関係が続いておりチャールズ1世の絵画収集代理人の手助けを務めることもあった。自身の作品をチャールズ1世へ譲渡することもありそれらの作品の中には、チャールズ1世の代理人と共に描いた自画像(1623年)タッソの恋愛叙情詩『解放されたエルサレム』に題材をとった神話の登場人物リナルドとアルミーダを描いた絵画(1629年)王妃の依頼で描いた宗教画などがあった。1632年、ヴァン・ダイクは、チャールズ1世の姉のボヘミア王妃エリザベス・ステュアートの肖像画を亡命先のデン・ハーグで描いた。1632年4月、ヴァン・ダイクは、ロンドンを再訪し間もなく宮廷に迎えられて7月にはナイト爵と「サー」の称号、200ポンドの年金首席宮廷画家の地位を授与された。さらにヴァン・ダイクが描く絵画は高価で買い上げられておりチャールズ1世は、5年の間年金を支払う必要がなかったほどで以降もヴァン・ダイクが描く絵画の価格が下落する事は無かった。ロンドン中心部のブラックフライアーズに邸宅兼工房を与えられこの場所がシティ・オブ・ロンドンのちょうど外側だったためにシティの芸術家ギルドが独占していた絵画専売権の影響を受けることもなかった。そのほか王族以外使用禁止だったエルサレム宮殿の続き部屋も静養所としてヴァン・ダイクに提供されている。ブラックフライアーズの工房には、国王夫妻がよく訪れ、後に国王夫婦専用の道路が敷設されるほどだった。ヴァン・ダイクが存命中にこのような厚遇を受けた画家は、他に存在しなかった。ヴァン・ダイクは・・・イングランドで、大きな成功を収め国王チャールズ1世、王妃ヘンリエッタ王子、王女たちの肖像画を次々に描いた。肖像画の多くには複数のヴァージョンがあり諸外国との外交儀礼用の贈答品や次第に議会と軋轢(あつれき)を深めていく国王の支持者たちへの下賜品(かしひん)として使用されている。ヴァン・ダイク作ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵『ヘンリエッタ・マリアと小人ジェフリー・ハドソン』1633年ヴァン・ダイクは・・・チャールズ1世の肖像画40点程度ヘンリエッタの肖像画30点程度ストラフォード伯トマス・ウェントワースの肖像画9点その他、宮廷人の肖像画も多数描いたと考えられる。自画像、さらには自身の愛人マーガレット・レモンの肖像画も描いた。ヴァン・ダイクは、権力者の権威や威光(いこう)などの描写は控えめにして、くつろいだ雰囲気で優雅さと気楽さが入り混じった表現で肖像画を描いた。このようなヴァン・ダイクの絵画表現は18世紀の終わりになるまでイングランドの肖像画に多大な影響を与え続けることになる。肖像画の背景には、豊かな自然の風景画が描かれていることも多い。ロイヤル・コレクションが所蔵する騎乗するチャールズ1世を描いた『チャールズ1世騎馬像』(1637年-1638年)はティツイアーノの傑作『カール5世騎馬像』(1548年)を下敷きにした名作だがチャールズ1世の肖像画でより印象的な作品は、ルーヴル美術館が所蔵する馬から降りたチャールズ1世を描いた『英国王チャールズ1世肖像』(1635年頃)である。「意図的にくつろいだ構成がとられており、 一見するとイングランド国王ではなく 田園地帯を散策している田舎の紳士に見えるかもしれない。 しかし、疑いようもなくチャールズ1世は天性の統治者としての 完璧な威厳に満ちた表現で描かれている」 と評価されている。ヴァン・ダイクの肖像画に描かれたイングランド上流階級の人物の多くは国王に忠誠を誓う伝統的な騎士党風スタイル衣装で描かれているが実際には、ヴァン・ダイクの主要な貴族階級のパトロンたち例えば第4代ベッドフォード伯フランシス・ラッセル第10代ノーサンバーランド伯アルジャーノン・バーシー第4代ペンブローク伯フィリップ・ハーバートなどヴァン・ダイクの死後に勃発したイングランド内戦でチャールズ1世に敵対する円頂党となった人々も多い。イングランドでは・・・ヴァン・ダイクは、外国人だったが事実上イングランド国民同然であり1838年、スコットランド貴族でルースヴァン卿の称号を持っていたことがあるパトリック・ルーズヴェンの娘メアリと結婚した。メアリは、1630年~1640年まで王妃付き女官に任命されておりこれは、チャールズ1世がヴァン・ダイクをイングランドに引き留めておくための対策だったと考えれれている。ヴァン・ダイクは・・・1634年のほとんどの時期をイングランドを離れてアントウェルペンに在住しておりイングランド内戦勃発間際の1640年~1641年には、数ヶ月間フランドルとフランスで過ごしている。1640年には、フランスの投獄から解放されたばかりのポーランド王弟ヤン・カジミェシュと行動をともにしておりヴァン・ダイクが描いたヤン・カジミェシュの肖像画も現存している。ヴァン・ダイクは、1641年の夏に再びイングランドを離れ滞在先のパリで重病を患って急遽ロンドンへと戻されたが間もなくブラックフライアーズの自宅で息を引き取った。未亡人となったメアリーは、のちに準男爵リチャード・プライズと再婚している。ヴァン・ダイクは・・・メアリと愛人との双方に娘をもうけており死去したときメアリとの間に生まれた娘は、わずか生後10日だった。どちらの娘も養子に出され最終的には、二人ともフランドルでその生涯を閉じている。ヴァン・ダイクは・・・ロンドン大火で消失する以前のセント・ポール大聖堂に埋葬されチャールズ1世がその墓碑銘を設置した。「1641年、信心深い、 よきカトリック教徒だったアンソニーは、 病を得てイングランドへと戻ってきたが その後間もなく亡くなってしまった。 国王と宮廷の深い悲しみ さらに芸術を愛するもののすべて嘆きのうちに セント・ポール寺院に埋葬された。 生前に多くの財を手にしたが ヴァン・ダイクが残した財産はわずかである。 その豪奢な暮らしぶりは画家というよりは 王族のようであった。 ーヴァン・ダイクの墓碑銘ー(資料=ウィキペディアさまより)アンソニー・ヴァン・ダイク様の事が詳しく理解できましたのでで~いよいよ古典美術館【65室】ヴァン・ダイクの部屋にまいりましょうヴァン・ダイクにぽち
2019.05.16
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ルーベンス・・・とは?ピーテル・パウル・ルーベンスPeter Paul Rubens1577年6月28日-1640年5月30日(62歳没)現在のドイツ・ジーゲンで生まれ現在のベルギー・アントワープに没する。ベルギー・アントワープ・フルン広場にて『ルーベンスの像』2019年4月11日(木)ほしのきらり。撮影ルーベンスは・・・バロック期・フランドルの画家・外交官祭壇画・肖像画・神話画・寓意画・歴史画などを描いた。画業だけでなく7か国語を話せ「外交官」として活躍した。古典的な知識を持つ「人文主義学者」であり「美術収集家」でもあった。ルーベンスの・・・画家としての生涯は、貧乏とは無縁であった。ルーベンスは・・・アントウェルペン(アントワープ)で大規模な工房を経営した。ヨーロッパ中の貴族階級や収集家から高く評価された。ルーベンスは・・・ヤン・ルーベンスと妻マリアとの間に両親はベルギー人であったがドイツの「ジーゲン」で生まれた。父のヤンは・・・プロテスタントの「カンヴァン主義者」の法律家であった。1568年、父は、プロテスタントの迫害の為にルーベンスが誕生する前にアントウェルペンからドイツのケルンへと逃れた。1577年6月27日、ルーベンス誕生1587年、父ヤン死去。一家は、アントウェルペンに戻る。ルーベンスは・・・カトリック教徒として成長し、人文主義教育を受けるラテン語と古典文学を学ぶ。1590年、母マリアは13歳のルーベンスをフィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュの下へ小姓に出した。ここで芸術的な素養を見込まれルーベンスは・・・アントウェルペンの画家組合・聖ルカ・ギルドに入会し見習いとして「トビアス・フェルハーフト」に弟子入りその後「アダム・ファン・ノールト」と「オットー・ファン・フェーン」に師事した。ルーベンス最初の修業は・・・先人たちの作品の模倣・模写であった。ルネサンス期のドイツ人芸術家「ハンス・ホルバイン」木版画ルネサンス期のイタリア人画家「ラファエロ」の作品を原画としたイタリア人版画家「マルカント・ニオ・ライモンディ」銅版画1598年、ルーベンスは修行を終え一人前となり芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員となった。1600年、古代と近代の作品を学ぶ目的でイタリアへヴェネツィアで「ティツィアーノ」「ヴェロネーゼ」「ティントレット」マントヴァで、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世ゴンザーガの宮殿に向えられる。ヴェロネーゼとティントレットの色彩感覚と作品構成は、ルーベンスの作品に即座に影響を与える後年になって円熟期を迎えティツィアーノの影響が見られた。ルーベンスは・・・マントヴァ公からの金銭的援助を受ける。モンテルト枢機卿への推薦状を手に1601年、フレンツェを経由しローマへローマでは・・・古代ギリシャ・古代ローマの芸術作品に触れるイタリア人芸術家たちの作品の模倣に努める。特に彫刻『ラオコーン像』ミケランジェロ『ピエタ』1498-1500ヴァチカン市国 サン・ピエトロ大聖堂イタリア・ルネサンスの巨匠「レオナルド・ダ・ヴィンチ」ヴァチカン宮殿「荒野の聖ヒエロニムス」1480年頃「ラファエロ」ヴァチカン宮殿ラファエロの間『アテナイの学堂』1509-1510ラファエロ『キリストの変容』1518-1520彼らの作品にに大きな影響を与えられる。当時の最先端であった「カラヴァッジョ」の高度な自然主義表現にも影響を受ける。後にカラヴァッジョの『キリストの屈葬』の複製画を制作する。ルーベンスは・・・マントヴァ公からの依頼を受けて現在は、パリ『ルーヴル美術館』所蔵のカラヴァッジョの『聖母の死』の買い付けも手配した。ルーベンスは、ローマ滞在時にサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂からの依頼で最初の祭壇画『聖ヘレナと聖十字架』を完成させている。ルーベンスは・・・1603年、マントヴァ公からスペイン王フェリペ3世への贈答品を携えた外交官としてスペインを訪れた。ルーベンスは、スペイン滞在中に先代のスペイン王フェリペ2世が収集したラファエロとティツィアーノの膨大な作品を目にしている。このスペイン滞在中にフェリペ3世の重臣レルマ公フランシスコ・ゴメス・デ・サン・ドバル・イ・ロハスを描いた『レルマ公騎馬像』には、ティッィアーノの傑作『カール5世騎馬像』などの作品からの影響が見られる。このスペイン訪問がその後のルーベンスが果たしていく外交官としての最初の役目となった。ルーベンスは・・・1604年、イタリアへと帰還し4年間でマントヴァ、ジェノヴァ、ローマを転々とした。ルーベンスは・・・この時期に『ブリジーダ・スピノラ・ドリア侯爵夫人』などの肖像画を多数制作しておりマリア・ディ・アントーニオ・セッラ・パッラヴィチーニを描いた肖像画は、後世の画家たちヴァン・ダイク、レイノルズ、ゲインズバラの作品に影響を与えた。1606年~1608年、ほとんどローマで過ごした。境界キエーザ・ヌオーヴァの主祭壇画を制作する。イタリアでの経験は・・・その後のルーベンスの作品に影響を与え続けた。後年になってイタリアを離れてからもイタリアの知人たちと多くの書簡を交わしておりイタリア名を「ピエトロ・パウロ・ルーベンス」Pietro Paoro Rubensと著名しイタリアへ戻る事を強く望んでいることを書き綴っているがルーベンスのイタリア帰還が叶うことは無かった。1608年、母マリアが病に倒れたことを聞いたルーベンスは、イタリアを離れアントウェルペンへと戻るが間に合わなかった。ルーベンスが戻った理由は、もうひとつネーテルランドとスペインの間の「80年戦争」が1609年4月の停戦協定の発行によって12年間の休戦期となった事もあった。この停戦に寄ってアントウェルペンは、新たな隆盛を見せ始めていたのであります。1609年9月、ルーベンスは・・・スペイン領ネーデルラント君主であるオーストリア大公アルブレヒト7世と大公妃でスペイン王女のイザベルの宮廷画家に迎えられた。当時アルブレヒト7世の宮殿が置かれていたブリッセルではなくアントウェルペンに工房を設置することを特別に許可された。ルーベンスは・・・宮廷からの作品制作依頼だけでなく他の顧客からの制作も受けていた。1633年、大公妃イザベルが死去するまでルーベンスとイザベルの関係は深くルーベンスは、画家としてのみならず特使や外交官の役割もこなすようになっていった。1609年、10月3日ルーベンスは、アントウェルペンの有力者ヤン・ブラントの娘イザベラ・ブラントと結婚している。1610年、ルーベンスは自身がデザインした新居に移り住んだ。『ルーベンスの家』は、現在博物館であります。アントウェルペン中央駅から歩いて7分ほどの場所イタリア風の建築様式で建てられたヴィッラである。ここには、ラファエロの工房も併設され弟子とともに幾多の絵画作品を制作する場所であると同時に最高級の美術品を収蔵する場所であり最高級の蔵書をを誇る私的図書館であった。ルーベンスの弟子には・・・ヴァン・ダイク(後にイングランド宮廷画家となった)若きヴァン・ダイクは、ルーベンス工房ですぐに頭角を現しフランドルの肖像画家の第一人者となり師ルーベンスと共に共同制作に当たることももあった。動物画を得意としたフランス・スナイデルスや親友のヤン・ブリューゲル(父)は、花を描く事が得意で花のブリューゲルと呼ばれた。アニメ「フランダースの犬」少年ネロで有名になった絵画アントウェルペン・聖母マリア大聖堂の代表作ルーベンス『キリスト昇架』1610年-1611年ルーベンス『キリスト降架』1611年-1614年この祭壇画は、イタリアから帰還して間もない頃の作品であります。この作品は、フランドルにおいて画家として第一人者であるという評価を確立する重要な役割を果たした。『キリスト昇架』は、ティントレットの『キリスト磔刑』の構成とミケランジェロの躍動感溢れる人体表現をルーベンス独自の作風で融合された絵画となっておりバロック期宗教画の最高峰として高く評価されている作品である。『マリー・ド・メディシスの生涯』1621年-1630年パリ「ルーヴェル美術館」1621年、フランス王太后「マリー・メディシス」がパリ・リュクサンブール宮殿の装飾用に自身の生涯と前フランス王で1621年に死去した夫「アンリ4世」の生涯とを記念する連作絵画2組の制作をルーベンスに依頼した。この依頼でルーベンスが描いたのが現在、ルーヴル美術館が所蔵する24点の絵画からなる『マリー・ド・メディシスの生涯』である。1625年、一組目の作品が完成する。ルーベンスは、もう一組の連作も開始していたが未完に終わり1630年、マリー・ド・メディシスは、息子のフランス王ルイ13世によって追放され幼少期のルーベンスが暮らしていたケルンの邸宅で1642年に死去した。1621年、ネーデルラントとスペインとの12年間の休戦が終わる。スペイン・ハプスブルク家の君主たちはルーベンスを外交的任務に重要視し始めた。1624年9月2日、フランス大使がブリュセルから贈った書簡には「スペイン王女の命によってルーベンスがポーランド王子の肖像画を描きに来ている」と記されている。1627年~1630年、ルーベンスの外交的活動が忙しくなる。スペインとネーデルラントに平和をもたらすためにスペインとイングランドの王宮を何度も往復した。ルーベンスは・・・画家と外交官の両方を担っていた。1628年~1629年の8カ月間マドリッドに滞在。外交官の任務に加え、スペイン王フェリペ4世らの依頼で重要な絵画制作をする。ルーベンスは、フェリペ4世の宮廷画家としてマドリッド王宮にいた「ディエゴ・ベラスケス」と親交を持つ。アントウェルペンに戻りすぐぬ別の任務を与えられイングランドへと向う1630年4月までロンドンに滞在『平和と戦争の寓意』の制作。ルーベンスとその工房では、アントウェルペン「聖母マリア大聖堂」の『聖母被昇天』1625年-1626年を制作した。ルーベンスは・・・最晩年に当たる10年間をアントウェルペン近隣で過ごしている。イングランドのホワイトホール宮殿の建築家イニゴー・ジョーンズが設計したバンケティング・ハウスの天井画制作など外国からの注文は、依然として多くこれ等の仕事に忙殺されていたがルーベンスは、自身の芸術の新境地を開きたいと考えていた。最初の妻イザベラが死去した4年後1630年、当時53歳だったルーベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚。エレーヌをモデルとした肉感的な女性像を『ヴィーナスの饗宴』1635年頃『三美神』1630年頃『パリスの審判』1639年頃(いずれも撮影禁止の為に画像はありません)1635年、ルーベンスはアントウェルペン郊外に土地を購入する。ステーン城と呼ばれる邸宅で最晩年のほとんどをすごす。『ステーン城の風景』1639年頃『畑から戻る農夫』1630年頃『フランドルの祝祭』1630年頃パリ・ルーヴル美術館1640年5月30日、慢性の痛風を患っていたルーベンスは、心不全で亡くなる。アントウェルペン「聖ヤコブ大聖堂」に屈葬された。『ルーベンスのお墓』正面の祭壇画『聖母子と聖人たち』は・・・ルーベンスが死する数日前に自分の墓に飾るよう願ったと言われたルーベンスによる祭壇画の代表作である。その手前に埋葬された墓石があります。静かにお墓参りをしてまいりました(2019年4月11日訪問)ルーベンスが残した子どもは8人で、そのうち3人がイザベラ5人がエレーヌとの間に生まれた子どもで最年少は、ルーベンスが死去時(62歳)に生後8か月であった。(資料:ウィキペディアさまより)・・・おわり・・・ルーベンスに押して下さい
2019.05.15
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今回の旅では、ブリッセルの王立美術館から始まりアントワープ大聖堂にルーベンスの家そしてルーベンスのお墓がある聖ヤコブ大聖堂まで行ってまいりました今回のルーベンスを訪ねる旅の出発点は、この美しい肖像画でありましたきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第20回【王立美術館 古典美術館 2階 63展示室】ルーベンスAtelier VANPERER PAUL RUBENSSiegen,Westfalen 1577-Antwerpen 1640PORTRET VAN JACQUELINEVAN CAESTRE,ECHTGENOTEVAN JEAN CHARLES DECORDESPORTRAIT DE JACQUELINEVAN CAESTRE,EPOUSE DEJEAN CHARLES DECORDESルーベンス・・・とは?ピーテル・パウル・ルーベンスPeter Paul Rubensアニメ「フランダースの犬」で主人公ネロが見たがっていた絵画アントウェルペン大聖堂の「キリストの昇架」と「キリストの降架」の作者として有名になった画家『ルーベンス』であります。バロック期 フランドルの画家 外交官 祭壇画、肖像画、風景画、神話画、寓意画、歴史画を描く1577年6月28日-1640年5月30日(62歳没)王の画家であり画家の王と呼ばれた諸外国まで名声を轟かせバロック期を代表する画家である。Atelier VANPERER PAUL RUBENSSiegen,Westfalen 1577-Antwerpen 1640PORTRET VAN JEANCHARLES DE CORDES,1574?-1641PORTRAIT DE JEANCHARLES DE CORDES,apres 1574?-1641ルーベンスは・・・世界屈指の画家でありますこれは、ザックリとお伝えする事は、いやいや難しい事。でありますが~『ルーベンス』の地元までわざわざ出掛けて行きましたので~これは、もう一度思い出しながら彼の作品を振り返ってみたいと考えるのでありますが~未熟ではありますが出来ますでしょうか・・・次回につづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.14
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カワイイですね~♪近づいて見るとビロードの大きな襟にベルギー・レースが見事に描かれております♪きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第19回コルネリス・デ・ボスCORNELIS DE VOSHulst,Zeeland 1584(1585)-Antwerpen 1651ZELFPORYRET VAN DEKUNSTENAAR EN ZIJNFAMILIEgesigneerd1621AUTOPORTRAIT DEL’ARTISTE ENTOURE DESA FAMILLEsigne1621『芸術家の家族の肖像画』1621年子どもが2人可愛いですね~もっと近くで鑑賞してみると妹の衣装を見て下さいビロードの大きな襟には・・・ベルギー・レースが豪華ですね~ドレスの地紋が浮き出てふんわりと体を包んでおります。ベルギーの冬は、寒いのでしょうね?姉は、白い耳当てをしております。いやいや~姉の衣装も近くで撮影しておけば良かったですね!まだ写真が無い時代には、王侯貴族や僧侶・豪商などは肖像画で立派なもしくは美しい自分の姿を記録してのであります。またお見合い写真の代わりにもなったそうでありますが当時は、子どもの死亡率が高かったのでカワイイ盛りの子どもの姿をお気に入りの画家に描かせたのであります。画家さんってそれは、それは気を遣うお仕事ですよね~腕に自信があればある程ありのままの姿を描けたはずしかし、偉いお方をそのままに描いては、叱られるそうは言っても誰か分からない程美人に描いては、失敗ですものね~そこで素晴らしい衣装を丹念に描いた腕の見せ所だったのでしょうか?その辺りの忖度が働く人が宮廷画家としてお抱えになったのでしょうがまぁまぁ~有名になるまでには、画家の中でもそれぞれドラマがあるものですね!世襲が多かった画家の世界ですが有名画家の娘さんと結婚したりそんなストーリーを知って絵画を鑑賞すると面白いですねしかし、コルネリス・デ・ボスの情報がうまく見つかりません!が気になりますね~(ルーベンスの関係者だと思うのですが)・・・・・つづく・・・・・古典美術館にぽち
2019.05.13
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王立美術館Musees-Ryaux-des-beaux-arts-de-Belgique古典美術館Old-masters-museum訪問日=2019年4月10日(水)10:00~17:00ミーちゃんときらり。の気ままな2人旅であります古典美術館 LEVEL=2【63室】は、ヴァン・ダイクの肖像画きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第18回アンソニー・ヴァン・ダイクANTOON VAN DYCKAnvers 1599-Londres VERMOEDEDELIJK PORTTETVAN DE BEELDHOUWERFRANCOIS DU QUSNOY1597-1643PORTRAIT PRESUMEDU SCULPTEURFRANCOIS DU QUESNOY1597-1643アンソニー・ヴァン・ダイク・・・とは?Anthony van Dyck1599年3月22日-1641年12月9日スペイン領ネーデルラント(フランドル)アントウェルペン現在のベルギーで生まれイングランド・ロンドンで没する。17世紀に活躍したフランドルの代表的な画家である。荘厳性を損なうことなく明るい色調とバロック特有の流動感によって描かれた肖像画はイギリスを始め西欧各国の肖像画に多大な影響を与えた。ヴァン・ダイクは・・・裕福な商人の息子として生まれ11歳で「ヘンドリック・ファン・バンーレン」に弟子入りアントウェルペンの画家組合に加入。その頃は、ルーベンスの最も重要な助手のひとりを努め画家として稀に見る早熟を示した。1620年頃、一度英国を訪問した後1621年~1627年、イタリアに滞在。ルネサンス期の作品特にヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノから多大な影響を受ける。イタリア滞在の成功で国外にも名を馳せ英国王チャールズ1世の招きにより1632年~1641年、宮廷画家として活躍。ヴァン・ダイクの描いた肖像画は、イギリス国内で大きな反響と賞賛を受け英国における肖像画制作の最も重要な模範のひとつとして18世紀末まで継承された。アンソニー・ヴァン・ダイクANTOON VAN DYCKAnvers 1599-Londres PORTRET VAN PORZIAIMPERIALE,1586-?EN HAARDOCHTER MARIA FRANCESCAPORTRAIT DE PORZIAIMPERIALE,1586-ET DESA FILLE MARIA FRANCESCAこの辺りは、ヴァン・ダイクにルーベンスの作品が一緒に展示されております。ヴァン・ダイクは、アントワープで「ルーベンス」の優秀な弟子でありました。仲良く展示されている事をお2人は、きっと喜んでいらっしゃるとそれにしても何気に並んでいると贅沢に感じてまいりますね!!アンソニー・ヴァン・ダイクANTOON VAN DYCKAnvers 1599-Londres PORTRET VAN GIAN VINCENZOIMPERIALE 1582-1648,SENATOR VAN DE REPUBLIEKGENUA1626PORTRAIT DE GIAN VINCENZOIMPERIALE 1582-1648,SENATEUR DE LA REPUBLIQUEDE GENES1626アンソニー・ヴァン・ダイクANTOON VAN DYCKAnvers 1599-Londres PORTRET VAN ALEXANDRE DELLA FAILLE 1589-1653SECRETARIS VAN DE STADANTWERPENPOETRAIT D’ ALEXANDREDELLA FAILLE 1589-1753SECRETAIRE DE LA VILLED’ANVERE・・・つづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.12
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ベルギーとルクセンブルクを友人ミーちゃんと旅したのは、2019年4月9日~16日であります。私が盛り沢山の計画を組み込んだ8日間なのですがまず最初に訪れたのはベルギー王国ブリュッセルの『王立美術館』の中にある「古典美術館」でありますワクワクきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第17回王立美術館 2階 古典美術館 63展示室63展示室で最初に鑑賞したのは「ブリューゲル」でしたが続いて出会ったのは、何処かで観た覚えのある絵画であります ダフィット・テニールス(子)DAVID TENIERS IIAntwerpen 1610-Brussel 1690VLAAM SE KERMISgesigneerd1652ダフィット・テニールス(子)・・・とは?David Teniers de Jonge1610年12月15日-1690年4月25日(79歳没)ブラバント公国(現ベルギー)アントワープ生まれ-ブリュッセル没フランドルの画家農民の野外での祭りや祝賀の様子酒屋や台所の風景など大衆的な題材で知られているが宗教画・寓意画・風刺画・肖像画など多くの作品を残した。テニールスは・・・アントウエルペンで生まれた。父親は、同じ名前の「ダフィット・テニールス」父である。父親を通して「アダム・エルスハイマー」や「ルーベンス」の影響を受ける。1630年代は、「アドリアーン・ブラウエル」に影響される。1637年、「ヤン・ブリューゲル」(父)の娘アンナと結婚する1632年、聖ルカ組合の登録。マエストロの地位を確立。それ以前から広くヨーロッパ中の王侯貴族を中心に活躍。1644年、テニールスはアントウェルペン画家組合の組合長選出。ネーデルランド総督であるオーストリア大公「レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ」は美術愛好家で、テニールスを宮廷画家として召し抱えるだけでなく自身のコレクションの管理をするようにも任命した。1651年頃、テニールスはブリッセルに住所を移した。ここでヴィルヘルム公のために多くの絵画を収集し絵画化したコレクション・カタログを出版した ダフィット・テニールス(子)DAVID TENIERS IIAntwerpen 1610-Brussel 1690AARTSHERTOG LEOPOLDWILLEM 1614-1662 IN ZIJKGALERIJ ITALLAANSESCHILDERIJENgesigneerd1651L’ARCHIDUC LEOPOLDGUILLAUME 1614-1662DANS SA GALERIE DEPEINTURE ITALIENNEsigne1651『イタリア絵画ギャラリーのネーデルラント総督レオポルド・ヴィルヘルム大公』1651年めっちや~精密なので近づいて観てみましょう左下辺りの部分です同じ頃テニールスは・・・現在は、ウィーン『美術史美術館』にある「イタリアの巨匠たちの作品」などを描いた。ヴィルヘルム公が、ウィーンに戻るまで公務は続いたがその後の支配者である「ファン・ホセ・デ・アウストリア」からも好意を得ました。1690年4月25日、ブリッセルにて老衰の為に没する。息子の「ダフィット・テニールス3世」も画家となった。(資料=ウィキペディア様より)古典美術館にぽち
2019.05.11
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ベルギーの有名な画家の作品がたっぷり鑑賞できる王立美術館内の「古典美術館」です♪わざわざ日本から飛行機を乗り継いでやってまいりました2019年4月10日(水)午前10時ベルギーの一番有名な画家・・・と言えば「ルーベンス」に「ブルューゲル一族」でありますがもう~わざわざ出掛けるだけの価値のある美術館でありますきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第16回OLD MASTERS MUSEUM LEVEL=22階の左側 63室は・・・中央のエントランスを囲む柵に沿って展示されております。なんと~素晴らしい開放感ある展示室であります1階のエントラスから中央が吹き抜けになって柵で囲まれた2階が全て「古典美術館」であります。歩きいやすくて分かりやすい展示でありますおっと~いきなり「ブリューゲル」説明のモニターがっこれは、68展示室の説明を放映している所ですね日本語の説明は、無いのであります何しろBRUGELは、一族で画家家業をしておりいっぱいありますので~ゆっくり~鑑賞してまいりましょうか【68展示室】最初の作品は・・・ヤン・ブリューゲル(父)JAN BRUEGHEL IBrussel 1568-Antwerpen 1625STILEVEN METBLOEMENKRANS ENSCHAALgesigneerd16(18?)NATURE MORTE AVECGUIRLANDE DE FLEURSET COUPEsihne16(18?)『花輪とカップのある静物』1618年?ヤン・ブリューゲル・・・とは?Jan Brughel de oudeブリッセル1568年-アントウェルペン1625年1月13日ブラバン公国(現在のベルギー)の画家である。父は、ピーテル。ブリユーゲル(父)であり息子は、ヤン・ブリュ―ゲルとアンブロシウスである。「ビロードのブリューゲル」ビロードを思わせる色調から「花のブリユーゲル」好んで花を描いたのでそう呼ばれた。ヤン・ブリューゲル(父)JAN BRUEGHEL IBrussel 1568-Antwerpen 1625HENDRICK I VAN BALEN(?)Antwerpen 1575-1632DE BOETVAARDIGEMARIA MAGDALENAlegaat MW Fernand Peltzer MotBrussel 1958MARIE-MADELEINEPENITENTElegs Mme Fernend Peltzer-de MotBruxelles 1958父親は・・・ヤンが1歳の時に亡くなり母親も1578年に亡くなった為に兄のピーテルと姉妹のマリアと共に画家であった祖母Mavken Verhulst(彼女の夫は同じく画家のピーテル・ファン・アルスト)に引き取られる。画家であった祖母は、2人の孫に絵画を教えたと思われる。1578年以降に一家は、アントウェルペンに移住する。ギリス・ファン・コーニンクスロー等の画家の下で学ぶ。1589年から7年間イタリアに滞在ミラノでは、後に彼のパトロンとなるミラノ大司教フェデリコ・ポロメオのために働いた。1597年、アムステルダムに戻り1601年、聖ルカ組合のメンバーとなる。1610年、南部ネーデルランド総監であったアルブレヒト・フォン・エスターライヒとイザベル・クララ・ウエヘニアの宮殿画家に任命される。ヤンは始め花や果物といったものを描いたいたが後に風景画で評判を得るようになる。兄のピーテルと比べると父親の模倣ではなく独自のスタイルを築いた。初期の作品は・・・聖書から取った主題に特に森を描いた風景画を組み合わせたものが多くそのスタイルは、森林画家のギリス・ファン・コーニンクスローの影響があり後期になると純粋な風景画や街の情景、静物画を描くようになった。彼の作品は・・・他の画家と共同制作が多くそういった作品では、背景を受け持った。特に友人でもあったピーテル・パウル・ルーベンスとの共同制作が知られている。彼は、アントウェルペンに工房を持ち1625年1月13日コレラにより亡くなった。(資料=ウィキペディアさまより)古典美術館にぽち
2019.05.10
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ブリッセル『王立美術館』訪問は・・・2019年4月10日(水)10:00~17:00最初は、王立美術館のエントランスを囲むように2階には「古典美術館」があります。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第15回古典美術館 old masters2階への階段を上り左側の展示室からゆっくり鑑賞しておりますが同行のミーちゃんは、この辺りは飛ばしてルーベンスに飛んで行きましたがここで区切られて次の展示室へDUTCH SPRINGA Cabinet of the Most Delightful Drawings静かですね~誰もおりませんね【展示室】DUTCH SPRINGこの中で廃墟の画家として有名な「ユベール・ロベール」を発見ユベール・ロベールHUBERT ROBERT Paris 1733-1808FONTAINE ET COLONNADE DANS UN PARCsigne 1775ユベール・ロベール・・・とは?Hubert Robert1773年-1808年18世紀のフランスを代表する新古典主義の風景画家である。廃墟や古代建築のある風景を得意とし生命力溢れる人物を配置する知的で抒情豊かな風景を描く事で名を馳せ人々からは・・・「廃墟の画家」と呼ばれ大変に人気がありました。庭園設計や絵画管理者としての才能も発揮し1790年代後半に参加したルーヴル宮改造計画における一連の諸作品は、特に名高い!HUBERT ROBERTParis 1733-1808ALLEE DANS UN PARCsigne 1799ユベール・ロベールは・・・1733年、スタンヴィル伯爵の従者の息子としてパリに生まれ彫刻家、ミケランジュ・スロッツなどにデッサンを学び1754年から、スタンヴィル伯爵に随行するかたちでこの頃、遺跡の発掘が流行していたローマへ入る。伯爵の後援もあってアカデミー・ド・フランスの給費生の地位を得るナポリ滞在時には、後にロココ美術の巨匠となる「フラゴナール」や古代美術の研究者「サン・ノン牧師」と出会い強い影響を受ける。記念的建築物や古代的風景作品を手がける。このイタリア滞在でユベール・ロベールは自身の画風を確立する。1765年、パリに戻ると王立絵画・彫刻アケデミーの建築画家として正会員に迎えられ様々な画題による優れた風景画を制作して数多くの顧客を得る。1777年からは、王室庭園設計師に1784年からは、王立美術館ルイ18世絵画コレクションの管理者に任命される。その後もルーヴル美術館の改造計画へ参加するなど精力的に仕事をこなすものの1808年、パリにて死去。ベルギー王立美術館「古典美術館」展示のこの2作品は、ユベール・ロベールの特徴的な作風を楽しめるものでありました。・・・いよいよ次はブリューゲルさまへ・・・古典美術館にぽち
2019.05.09
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ベルギーの首都ブリッセルにある『王立美術館』に行ってまいりました(2019年4月10日)王立美術館は、3つの美術館(古典美術館・世紀末美術館・マグリット美術館)があります。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第14回古典美術館 old masters左側の最初の展示室は・・・地元出身の画家さんでパリ・ルーヴル美術館でも展示されたお方フィリップ・ド・シャンパーニュPHILIPPE DE CHAMPAIGNEBruxells 1602-Paris 1674DE OPDRACHT IN DE TEMPELeerste zending van de Franse regering 1802LA PRESENTATION AU TEMPLEpremier envoi du gouvenent francais 1802フィリップ・ド・シャンパーニュ・・・とは? Philippe de Champaigne1602年5月26日-1674年8月12日バロック期のフランス派の画家シャンパーニュは・・・ブリッセルの貧しい家に生まれました。風景画家=ジャック・フーキェールの弟子を経て1621年、パリに移る。パリにて、ニコラ・プッサンと共にリュクサンブール宮殿の装飾を手掛けた。その指揮をしたのは、ニコラ・デュシェーヌでシャンパーニュは、その娘と結婚しデュシューヌの後ろ盾を得た。デュシーヌの死後シャンパーニュは、母妃=マリー・ド・メディシスとリシュリー枢機卿の下で働くことになり枢機卿宮、ソルボンヌ教会の丸屋根、その他の建築物の装飾を手掛けた。1648年、王立絵画彫刻アカデミーの創立メンバーとなる。1640年以降、シャンパーニュは、ジャンセニスムの影響下にあった。伝えられるところでは・・・娘の麻痺がポール・ロワイヤル修道院で奇跡的に治癒したというのである。シャンパーニュは、彼の代表作である「1662年の奉納画」を描いた。その絵に描かれているのは、シャンパーニュの娘と女子修道院のカトリーヌ・アニェス・アルノーである。シャンパーニュは、多くの作品を残したが宗教画、肖像画が主であった。最初にルーベンスの影響を受けていたが後にはより禁欲的な作風になっていった。シャンパーニュは、1674年8月12日パリで亡くなった。古典美術館にぽち
2019.05.08
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世界の美術館巡りは、いよいよベルギー王国にやってまいりましたミーちゃんときらり。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第13回Musees Royaux des Beaux-Arts de Belgique『ベルギー王立美術館』エントランス奥にあるのが『古典美術館』です。王立美術館のチケットをお兄さんに見せるとチケットを翳してピピッとしてくれるかと思ったら・・・駄目だと言うええ~っ。今、買ったばかりのチケットですがっ。「バックを預けて来て下さい」と言っております。ええ~っ。「そんなに大きなバックじゃないですが・・・」それでもピッピ係のお兄さんは、ダメだと言う!あらら~っ。荷物預かりは、何処ですか?と聞くとエントランスの入口近くだと言ういや~また戻らないと・・・美術館に寄って手荷物の大きさの基準が違いますけどベルギーの美術館は、ほとんど貴重品以外は、ロッカーに預ける方式です。料金は、戻ってくる「無料」です。そのロッカーの全部が違うスタイルでありまして~時々、使い方が分からない事がありました。もう~恥を忍んで聞きまくりました。荷物預けの場所&クロークは・・・マグリット美術館と世紀末美術館よりも入口近くの地下でした。はぁ~メンドクサッと思いつつ『古典美術館』の入口に戻り今度こそ荷物を預けて来たよ!アピールをピッピ係のお兄さんにして今度こそニッコリの対応を受けてチケットにピッピして頂きました両開きのガラス扉を押すと・・・階段があります~2階への階段は2つ折れになった階段で2階は思ったより高く感じます。階段を上ると左がトイレで右の扉が『古典美術館』になります。うわぁ~宮殿であります正面には、彫刻天井はクリアーな明り取り正面の柵まで進むと下に見えるのは・・・エントランス先ほどまで、行ったり来たりしたエントランスを上から見下ろしてこのエントランスを囲む形で2階には、『古典美術館』old masters museumはあります。あまりの素晴らしさに~しばし柵を握りしめ立ち尽くしてしましますすると王立美術館は、2度目のミーちゃんは、さっさと目的の展示室へ先へ進んでおります。ここは、もう~展示室でありますが・・・左のガラス扉が入口です。中央には彫刻。椅子もあります。絵画の展示はCARLOMARATTA Camerano,Ancona1625-Rome1713APOLLO ACHTERVOLGT DAPHNEAPOLLON A LA POURSUITE DE DAPHNEカルロ・マラータ・・・とは?Carlo Maratta1625年5月18日-1713年12月15日(88歳没)イタリア・カメラーノ出身の画家ローマにて没するミーちゃんは、左側から入って進んで行きました「早くルーベンスに会いたいから」と急いで左側へいやいや~私は、ゆっくり観たいけど・・・つづく・・・古典美術館にぽち
2019.05.07
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ベルギー・ブリッセルの『王立美術館』に到着したのは、2019年4月10日(水)9:30であります♪きらりのわがまま『ベルギー』旅日記・・・第12回ベルギー『王立美術館』Musees Royaux des Beaux-Arts de Belgique王立美術館は、多分、ココだと思うのですが・・・誰もおりません美術館の前は、トラムとバスの停留所がありますので~まだ早朝ですからブリッセル中央駅方面に行く人々の列であり美術館へ入場しようとする人は、全くおりませんそれでも、ここが入口ですよねトラム・バス=ROYALE・KONING前です。心配になり・・・ベルギーの団体客を引き連れ旗を持った案内役に声を掛け(迷惑だと思いつつも)案内役の女性は、ニコニコしながら~「まだ開館は、10時からですよ」と笑いながら一団を引き連れて通り過ぎて行きました。いやいや~開館は、10時から17時まで知っていますよ~ここが入口かと聞きたかったのにそれでも、ここが美術館の入口であることは分かりました(多分)扉の中央ノブには、王様の証であるマークもあるし扉の鉄格子の中には「ベルギー王立美術館」って見えるし左には、荷物検査の場所が見えるし~右には、チケット売り場が見えます。それでも誰も来ないというのは、心配になります。休館日は、月曜日ですし・・・こんなに待っても誰も来ない美術館なんて~はははっ、あるある世界には、一番乗りで行って誰も並んで無い美術館は、度々、経験している私たち開館30分前は、早すぎるのでしょうか?王立美術館の左は、庭園になっております。早く到着したら・・・朝のお散歩も良いかも?同行のミーちゃんは、ひとりで偵察に行って来ました。庭園には、入口を探している人が何人かいらしたみたいです。左右には・・・日本語でベルギー王立美術館と書いてあったりちょっと~嬉しいですね(歓迎されている気がして)『ベルギー王立美術館』の開館は10時からであります。開館10分前になると、何となく人が集まってまいりました。アイフォンを見て確認しながら心配げに来る家族誰も初めて来る人ばかりの様子です。普通は・・・「ここが入口」柵があって「ここから並べ」的な様子を感じるのですが~あまりにも「美術館」的なアピール無くて~ありえませんさぁ~いよいよ午前10時「開館時間」です。おやっ。開きませんね・・・ああ・・・来た!来た!美術館の奥から年配の女性が鍵を持ってこちらに歩いて来ました!「お~い早く開けてくれ~っ」って言いたくなる遥々、地球の反対側から20時間も掛けてやっと今朝、着いたのですからちゃっちゃと10時に開けて欲しいけどあちらは、そんな事情を知らないはず悠然と厳重な幾つかの施錠を順に開けてゆきます。いやいや~厳重であります。それだけ貴重なお宝が詰まっている3つの美術館の入口ですからね。ベルギーのお宝、世界のお宝、人類のお宝であります。さぁ~て、10時開館で勿論一番乗りのミーちゃんときらり。大きな回転扉を押して左側へ進むと荷物検査のゲートです。その右には、ジグザグの「行列コーナー」があります。一番乗りなので直接、右側の「チケット売り場」へ進みます。おやっ値上がりしていますねTicketsRoyal Museums of Fine Arts of BelgiumCollections(Old Masters,Fin-de-Siecle)adalte(19-64)€.10senior(+65)€.8student(19-25)€.3child(0-18)€.0Audioguide €.4『ベルギー王立美術館の切符』古典美術館・世紀末美術館大人(19歳~64歳)10ユーロ(約1290円)高齢者(65歳以上)8ユーロ学生(19歳~25歳)3ユーロ子供(0歳~18歳)無料カード支払・・・可能です。オーディオ・ガイド(日本語無し)4ユーロ広い「エントランス」ですね~王立美術館は、ここから3つの美術館へ直接行けるのです正面突き当りに『古典美術館』の入口Old Masters 古典美術館は、階段を上り、エントランスをぐるっと囲むように展示されております。楽しみですね~世紀末美術館とマグリット美術館は、エントランスの右側から入ります表示が小さいですね。Magritte(マグリット美術館)Fin-de-Siecle(世紀末美術館)WIM DELVOYE(特別展)ここから入って・・・トンネルを通って行きます。館内地図が・・・ありませんううう~っ。地図があっても入り組んで説明しにくいかもです!ブログで、順に巡りながら説明して参ろうかと考えます。王立美術館のエントランスの巨大な絵画を鑑賞してみましょうJan VERHAS(1834-1896)BELGIQUELA REVUE DES ECOLES EN 1878(1880)DE OPTOCHT VAN DE SCHOLEN IN 1898(1880)ベルギーの画家で近代の作品が多く展示されていました。Constant MONTALO 1862-1944(BELGIQUE)LA BARQUE DE L’IDEAL(1907)DE BOOT VAN HET IDEAAL(1907)Pierre ALECHINSKY(1927)BERGIELE DERNIER JOURDE LAATSTE DAGPierre ALECHINSKY(1927)BRUSSELLe Dit du vieux pinceau(2004)Het lied van oude schilderThe Rime of the Ancient PainterConstant MONTALO 1862-1944(BELGIQUE)LA FONTAINE DE L’INSPIRATION(1907)DE BRON DER INSPIRATIE(1907)古典美術館の入口に展示してある車のボディは・・・今回の特別展の中から宣伝として展示してありました~WIM DELVOYE2019年3月22日~7月21日までです~ね最初は、2階の『古典美術館』からつづく国立美術館にぽち
2019.05.06
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ベルギーの首都「ブリッセル空港」からブリッセルへ向う説明をしているはずですが~ 今回の旅の足跡をきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第11回2019年4月10日(水)早朝7時過ぎにベルギー・ブリッセル空港に到着しました。はは~ぁ。長く続いた「花粉症」を感じない世界であります久しぶりに・・・躊躇せずに外気を胸いっぱいに吸い込むミーちゃんと私。空港で入国手続を済ませると地下に降りて国鉄に乗り・・・ブリッュセル中央駅に到着します。私たちがベルギー宿泊中に滞在するのは・・・5泊ブリッセル中央駅からトラムに乗ってブランド街がある「ルイーズ駅」の次『ステファニー』と言うトラムの近くにあります。ブリッセル空港→(国鉄)ブリッセル中央駅→1つ目「パーク」下車地下鉄『パーク駅』のエスカレーターは、上りだけですブリッセルの地下鉄マークはM=メトロ・マークこんな色です。地下鉄『パーク駅』の上は・・・ベルギー王宮の(PARK)公園です。私たちが宿泊するホテルは、ここから「トラム」に乗ります。PARKの交差点を渡って反対側の「トラム」です。この「PARK」は、私たちにとって重要なトラムの停留所です。行きと帰りは、反対側の停留所から乗るのですがどうも、日本とは反対側なので最初は迷ってしましますが必ず停留所にあるポールを確認してから乗ります。(T)トラムのマークここは、92番と93番の乗り場です。 92番 Schaerbeek Gare ⇔ Fort Jaco93番 Stade ⇔ Legrandホテルに向う時は・・・ここから92 Fort Jaco93 Legrandどちらに乗っても良いのですが私たちが降りる Stepanie「ステファニー」から92番と93番のトラムは、分かれる為に下車する場所が少し違うのですがこの時は、ホテルにとても近い位置で下車できました。この92番と93番の途中には・・・『王立美術館』の前を通る路線です。私たちの今回の旅で、一番楽しみにしている古典美術館・世紀末美術館・マグリット美術館があります。そして、行ってみたい「カフェ」が幾つかあります。私たちは、毎日この美術館の前を行ったり来たりトラムに乗る度に『王立美術館』を眺めながらベルギーやルクセンブルクへと旅をしたのであります。さぁ~今日は、朝から『王立美術館』へ開館から閉館まで、ゆっくり過ごす予定であります。ベルギー旅にぽち
2019.05.05
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長~いゴールデンウィークの少し前「平成最後の旅行」をミーちゃんと2人旅しました♪成田空港→アブダビ→ブリッセル→(国鉄にて)ブリッセル中央駅に到着しました2019年4月10日(水)きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第10回国鉄の切符は、Bussel Airport St.国鉄の(ブリュセル空港駅)で全部買いましたが・・・ブリッセル市内の交通は、空港では買えないのでブリッセル中央駅で買いました。地下鉄の近くに切符売場があります。(券売機もあります)地下鉄・トラム・バス共通の【1回券】2.1ユーロ約290円普通は・・・このカード式の切符が便利です。1時間以内ならば、地下鉄もトラムもバスも乗り換え自由ですたとえば、この時はブリッセル中央駅→1.地下鉄→2.トラム→「ホテルでチェックイン」→3.トラム「国立美術館」2.1ユーロ(約290円)で3回も乗れました!ブリッセル市内だけで仕えます(他の都市では、使えません)駅で、買うと2.1ユーロですがトラム内で買うと2.5ユーロ(約322円)トラム内で買う時は・・・一番前の運転士さんから買います。小銭で・・・2.5ユーロ用意しておきましょう!大体、乗る回数を計算して駅でまとめて買うと良いと考えますしかし、使い終わった切符と未使用の切符の区別が付かないので気を付けて下さいね地下鉄の乗り方・・・とは?オランダやパリと、ほとんど同じですが・・・微妙に違うのです。(国によってかなり違う事もあって驚く事が)ベルギーの地下鉄は・・・青い「M」マークです。地下鉄のホームには、掲示板があります。1番線STOKKEL行きが来るようです必ず行く先の終点駅を調べておきましょう~これは、何処の国でも同じですね電車の前面に「××行き」とか書いてありません。ホームの掲示板には、これから来る電車が何処の駅に居るかランプで表示されます。ところで・・・ベルギー・ブリッセルの駅には、ほとんど駅員さんが居ません!地下鉄の階段を降りると改札があります。〇印が見えますねそうそうココ切符をかざしますピッと言います~そうするとクリアーな扉が勢いよく開きます。出る時は・・・切符を差し込んだら扉が勢いよく開きます。切符の取り忘れに気を付けて下さい。次は、トラムに乗り換えるので・・・トラムは、どの扉からでも乗れます。扉のボタンを押すと扉が開きます。直ぐに〇マークの機械で刻印して乗ります。降りる前は、降りるボタンを押してまた切符に刻印してからトラムの扉ボタンを押して織ります。オランダのトラムとほぼ同じですがどの扉からでも乗れる点が違いますね。そんな様子は、旅日記の中でご説明してまいりますね・・・つづく・・・ベルギー旅にぽち
2019.05.04
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ベルギーのブリッセル空港に到着したのは、2019年4月10日(水)早朝7時20分ブリッセルの空港は、初めてです。きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第9回歩く歩道で『入国審査』に向います入国審査で、スタンプを押していただき・・・預けた荷物は、無いので~そのまま地下の国鉄の駅へ降りて行きます地下の国鉄窓口が早朝なので開いているか心配だったのですが7時半でも窓口が開いていました!駅員さんは、3つの窓口にそれぞれ座って居て直ぐに私たちの番が来ましたここで一気に旅で必要な国鉄の切符を全部買うように紙に書いて来ました最初は、空港からブリュセル中央駅までの往復からBrussls Airport⇔Gare Centrale BruxellsToday 10,4,2019Return 15,4,20192nd Class2Seets・・・旅の途中の分・・・・・・・・・・・・・・・・・Go to the Antwerpen11,4,2019Brussls Gare Centrale⇔Antwerpen CentralDay Return2nd Class・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Go to the GentBrussls Gare Centrale⇔Gent Sint Piters St.12,4,2019Day Return2nd Class・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Go to the Grand-Duche LuxembourgBrussls Gare Centrale⇔(Lux.)Luxembourg St.13,4,2019Day Return2nd ClassWeek end・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Go to the BruggeBrussls Gare Centrale⇔Brugge Station14,4,2019Day Return2nd ClassWeek end・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「黄色いうなぎ屋さん」の目立つ包装紙の裏に書いた紙を渡すと・・・お兄さんは、直ぐにPCに向って打ち込みを始めます。すると2枚づつ、チケットが出て来ます。合計5日間2人旅のチケットは、次々、打ち込まれチケットが2枚づつ出て来ます。ルクセンブルクは、海外なのでお兄さんは、何回か入力を間違えながら切符が、4枚出て来ました。大分、時間を掛けて5日間の切符が手渡されました。最後に封筒を渡しながらお兄さんもホッとした様子です。私は、書いて来た項目が間違えて居たらと心配でしたが質問は、全く無くスイスイと切符が入手できましたパリの時も同じようにして成功したのでやはり駅名は、発音が日本とは違い過ぎるので書いて来て良かったです。まぁ~券売機で、買えば良いのですが~カードを入れる事態が怖くて結局、いつも窓口で買います。私たちは、直ぐに買えましたが終わって振り向くと長蛇の列になっておりました。私たちは、飛行機に荷物を預けて無いので一番先に切符が買えたみたいです。ウキウキしながら~さぁ。空港からブリュセル中央駅まで国鉄でまいりましょう掲示板を見ると・・・Brus-Centraal(ブリッセル-セントラル駅の略)Knokke(終点クノック行き)08:01(8時1分発)IC(急行列車)その下に停車駅が書いてあります。私たちは、2nd Class(1等でなく)・・・2等列車に乗ります。2=の番号を確認してから2階建ての2階に上がりました。さぁ、まだブリッセル中央駅で買う切符があるのですが~上手に買えます様に・・・つづく。ベルギー旅にぽち
2019.05.03
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成田空港からエティハド航空で11時間半アラブ首長国連邦「アブダビ」経由でベルギー「ブリッセル」へ向けてほぼ定刻に飛行機は、離陸致しましたきらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第8回エティハド航空の「3席・3席・3席」の座席の中央を予約(有料)しましたが・・・後ろの席は、誰もおりませんラッキーですめっちゃ~ラッキー飛行機の扉が閉められても「空席」なので早速、後ろの3席に一人で座りました。肘掛けを全部上げると~フラットで寝れます全体にぽちぽち空席がありましたので・・・エコノミーなのにビジネス以上の「楽」さ加減成田→アブダビ 11時間半が座り通しで、めっちゃ~お尻が痛くて限界であったきらり。アブダビ→ブリッセルは、神さまが、与えてくれたラッキーな出来事であります2019年4月10日(水)2:15発 最初の機内食?いきなり紙袋が配られましたおや~これは・・・何でしょ?エクスプレス・スナックあ~機内食かしら!?飲み物は、リンゴジュースを頼みました袋には、サンドイッチ2個・ワッフル仕様のスナック・ミネラルウォーターです。紙袋が配られて・・・どうなの?と、期待して居なかったのですがこのバンズには・・・チーズ・トマト・ハムなどがサンドしてありそれが、めっちゃ~美味しいのですワッフル仕様のスナックもクリームが挟んであっておいしいお腹が空いていたからでしょうか?機内映画を・・・引き続き「ボヘミアン・ラプソディー」をセット何度、聞いても~飽きません一緒に歌いたいけど~こぶしは小さく))結局、往復で何回、観たのでしょう?まぁ~帰りも観れるのでソコソコにそろそろ、3席の肘掛けを全部上げて・・・フラットで横になりました同行のミーちゃんも前の席で3席あるのになかなか横にならずに映画を観ております。いやいや~もったいないでしょ?ファーストクラスって楽なのでしょうね?どうも、私は生涯一度も経験せずに終わるのでしょうけど格安チケットで、ごろりとできるだけで貧乏人のささやかな幸せであります。眼をつぶり・・・寝たのでしょうか?ウトウトしたのでしょうか?どうも、夜が明けたみたいです。機内食:2回目『朝食』です。スクランブル・エッグにしました鶏肉ウィンナーと思われます。トマトソース・鶏肉ウィンナー・ホウレン草ペーストイスラーム風の朝食かしらパンとヨーグルトも完食パインとスイカ(スイカ美味しいです)EY57は・・・2019年4月10日(水)7:20到着予定ですが少し早くベルギー王国ブリッセル空港に到着致しました夜が明けたばかりです。さぁて~今日は、色々の計画が詰まっております。飛行機は、タラップでなく直接、空港ターミナルに接続されました元気いっぱい・・・つづくベルギー旅にぽち
2019.05.02
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ピンポン『令和』となり最初のブログであります『令和』明けましておめでとうございます本年号もよろしくお願いいたします。きらりの【世界遺産】&【世界の美術館】を巡る旅勝手にダラダラと続けておりますが~退屈と思われながらもまだまだ『令和』に改元されても『平成』のブログを続けて参ろうかと~都合よくですねさて~14年目となった『きらりの旅日記』平成31年最後の4月は・・・ベルギーとルクセンブルクへミーちゃんと2人で行ってまいりました。いやいや~色々とありまして~どうでしょう?お恥ずかしい旅でありますが行きたい所に全部、行けただけで満足な旅でありました。とりあえず4月16日に無事、帰国できたことは、喜びでありました。・・・つづく・・・『令和』にぽち
2019.05.01
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