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【ぎょうはい・ゆうはい】業俳・遊俳
業俳と遊俳という言葉がある。業俳は文字通り職業としての俳人。遊俳は他に本業があって俳句を楽しむ人である。
業俳はまさに生活がかかっているので「命懸け」である。江戸期の知られている俳人はほとんど業俳であった。
業俳と遊俳の関係も微妙で遊俳は業俳のスポンサーとなっていることが多い。現代でいえば結社の同人・会員である。
この関係の好例としては一茶と夏目成美の関係がある。夏目成美は江戸の札差。一茶の後援者であった。成美はいつもは一茶を師と立てて援助していたものの、あるとき成美の店で金子が紛失したことがあった。このときは一茶も容疑者として一室に閉じ込められていたという。
これと同じことが、虚子と赤星水竹居の間でもあった。赤星水竹居は、「ホトトギス」が事務所を構えていた丸ビルの支配人で「ホトトギス」の同人でもあった。
いつもは虚子先生、先生とたてていたものの、関東大震災(一九二三年九月一日)で東京が壊滅的な被害を受けたとき、虚子は鎌倉から丸ビルまで、苦心してかけつけた。
東京は避難民でごった返し。丸ビルは地震にも被害がなかった。しかし、避難民が押し寄せるかも知れないと、赤星水竹居は丸ビルの入口を警備していた。そこに虚子と遭遇したものの、水竹居は虚子をまったく無視していたという。
丸の内
震災の時、私は鎌倉から横須賀まで歩いて、関東丸に乗って品川湾に著(つ)いた。その夜は風波が荒くて上陸が出来ず、或士官の紹介で軍艦長門(ながと)に移って、はじめて安らかな眠りについた。陸地におれば絶えず余震におびえていたのが、海上に浮んでいる城の如き軍艦の上では、眠りを驚かすものは一つもなかった。人間は窮迫すると、その場限りの安易を求める。あす又陸地に上れば様々の恐怖すべきことに出あうのであるが、そんなことはどうでもよい。ただ一夜の安眠を得るということが、その時にあっては無上の慰楽である。
翌朝芝浦に上陸して見ると、右往左往に歩いている男女のそわそわしている状態は、鎌倉、横須賀辺に比べて更に甚(はなはだ)しかった。それから芝公園に入った時避難民の群衆に驚かされて、公園を抜けてから、道の両側の焼尽された廃墟のあとに、まだぶすぶすと燃えているものがあるのを見た。
桜田本郷町を過ぎて警視庁、帝劇の焼けあとを見、いたる所に『すいとん』の旗が出ていて、そこに人が黒山のようにたかっているのを見た。
私はこの『すいとん』に腹をこしらえたことも一、二度ならずあった。しかしこの時八重洲町を歩いているうちに、どこであったかを忘れたが、(否、どこということを十分気にもとめなかったが)ある洋館の這入口(はいりぐち)に『ライスカレー一杯二十五銭』とある札を見て、私は大旱に雲霓(うんげい)を得た心持でそこにはいった。そこは震災に荒されたあとは見えたが、かなり立派な食堂であった。給仕人もちゃんと白い洋服を著(き)ていた。そして暖かそうな白い飯に琥珀(こはく)のような光りのある黄汁をかけたものが、私の前に運ばれた。昨夜軍艦の中では缶詰の牛肉を食った。その牛肉は素敵に美味(おいしい)ものであった。それにパンも食った。そのパンも美味しかった。が、しかし白い御飯にありつくのは久しぶりであった。ましてライスカレーというような御馳走にありつくことは、予期しなかったことであった。私はそこで腹をこしらえて丸ビルに向った。
丸ビルは多少破壊しておったが、それでも巍然(ぎぜん)としてそびえておった。丸ビルの中も雑踏しておった。その群衆の中に三菱地所部長の赤星氏が巻ゲートルをして突立っておった。私が目礼した時、氏も目礼を返したが、それが私であることは認めなかったようだ。私は相変らず和服を著て、尻をからげて、白いズボン下をはいて、腰に大きな手拭をぶら下げていた。それにひげは生え、目は落窪んでいたため、私であることは気づかなかったのであろう。それに氏の顔面筋肉は引きしまり、何事かを沈思しているように見えた。幸いに火災は免れたけれども、多少の震災は免れなかった三菱村の諸建築の事は一にかかって氏の双肩にあるのだもの。わがホトトギス発行所たる丸ビルの一室が気になって来た私とは大変な相違である。 (高浜虚子「丸の内」『大東京繁昌記』毎日新聞社)
虚子は抑制的に書いているものの、俳人と実業家の差をまざまざと感じたのであろう。
金子兜太はよく「おれは業俳だ」といっていた。それはそれで否定しないものの、藤田湘子から直接聞いた話では、日本銀行を定年退職した兜太は業俳とはいわない。そんなことを言えば定年退職した俳人はみな業俳だろうといっていた。
これは、国鉄本社で課長職まで勤めながら、定年前に退職した湘子のプライドでもあった。湘子は自身と業俳と考えていたわけだ。
私自身は、五十一歳で電力会社を早期退職。俳句第一の生活に入った。ただし、 師の 古沢太穂先生からは俳句では飯は食えないよと言われていた。したがって業俳といえるほどのことが出来たどうか。これは本人が自称する問題ではないと思っている。 (初出「鴎座」2022年6月号)
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