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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2008.12.30
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 祇王寺は、浄土宗の僧、良鎮が創建した往生院に、平清盛の寵愛を受けた白拍子祇王・仏御前が入寺した寺といいます。

 その後往生院は衰退し、明治初期一時廃寺となりましたが、嵯峨大覚寺の支配下で真言宗となり、富岡鉄斎らの尽力により復興されました。

 ”京の古寺から(12)祇王寺”(1995年10月 淡交社刊 高岡智照/大木 明著)を読みました。

 京都市右京区にある真言宗大覚寺派の寺院、祇王寺の四季を、写真と文章で紹介しています。

 高岡智照さんは、1896年大阪府生まれ、1908年大阪宗右衛門町で舞妓となり、1911年東京新橋へ転籍、1915年妓籍を去り、1929年奈良県に隠棲し「ホトトギス」門下に入り、1934年奈良県久米寺にて出家得度し、亮弘坊智照となりました。

 1936年京都大覚寺塔頭祇王寺に入庵、1994年10月22入寂、享年98歳でした。

 大木明さんは、1956年千葉県成田市に生まれ、広告代理店の写真部を退社後、フリーの写真家として独立。

 コマーシャル写真、エデイトリアル写真を中心に1980年から1992年に渡り取り組み、1993年より仏教遺跡、寺社等の撮影を本格的に始めました。

 祇王寺は、京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にあり、真言宗大覚寺派に属する尼寺です。



 平清盛の寵を失い、尼となった白拍子祇王と、妹の祇女、母の刀自らがこもったことにちなんで、のちに祇王寺とよばれるようになりました。

 平家物語の巻頭から読み進むと、祗王祗女のことが出てくるそうです。

 平氏全盛の頃、平清盛と二人の女性の哀れな物語です。

 都に聞えた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹は、近江の国野洲江辺庄の生れで、父九郎時定は、江辺庄の庄司でしたが、罪あって北陸に流されました。

 母と共に京都に出て、白拍子となり、のち姉の祗王が清盛の寵を得て、妹祗女も有名となり、毎月百石百貫の手当もあり、安隠に暮らしていました。

 ある時清盛が祗王に、何か欲しいものがあるかと尋ねると、祗王は、自分の生国は水の便が悪く、毎年旱害を受け、一庄三村は飢餓に苦しんでいるから、願わくば、水利を得させて戴きたいと願いました。

 清盛は早速、野洲川から三里の溝を掘らせ、水を通しました。

 里人はこれを徳とし溝を名づけて、祗王井川と呼び、今に至っています。

 しかし、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現われて清盛寵愛を受けると、祗王は館を追い出されることになりました。

 のちに、祗王21、祗女19、母刀自45のとき、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て仏門に入りました。

 その後、母子3人が念仏している所へ思いもかけず仏御前が剃髪した尼の姿で訪ねてきて、4人一緒に籠って朝夕の仏前に香華を供えて、みな往生の本懐を遂げた、といいます。



 仏間には正面に本尊大日如来、左に清盛、祇王、刀自、右に祇女、仏御前の木像が安置されています。

 寺の墓地にある宝篋(きょう)印塔は、祇王、祇女、刀自の墓、五輪塔は平清盛の供養塔で、いずれも鎌倉時代のものです。

京の古寺から(12)





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Last updated  2008.12.30 18:56:31
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