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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2009.02.10
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 酬恩庵は山号は霊瑞山、本尊は釈迦如来で、枯山水の石庭や一休和尚の木像のほか、塩辛納豆の一種である一休寺納豆でも有名です。

 ”京の古寺から14 一体寺”(1995年12月 淡交社刊 田邊宗一/永野一晃著)を読みました。

 一休寺と称される、京都府京田辺市の臨済宗大徳寺派酬恩庵の四季を、写真と文章で紹介しています。

 著者の田邊宗一さんは酬恩庵住職で、1949年京都府田辺町の酬恩庵に生まれ、1972年花園大学文学部卒業し、名古屋徳源僧堂掛塔を経て、1977年酬恩庵住職となりました。

 永野一晃さんは、1945年京都府生まれ、1966年ヤラカス館本店に入社、ファッション、料理などの広告写真撮影に従事し、1971年フリーランスとなり、大阪にスタジオIKKOを設立し、1977年永野一見写真事務所として出版物の写真撮影を多数手がけました。

 酬恩庵の前身は正応年間(1299年~1293年)南浦紹明が開いた妙勝寺で、元弘年間(1331年~1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)一休宗純が草庵を結んで中興し酬恩庵と号しました。

 江戸時代に前田利常が伽藍を再興し、江戸幕府からは朱印状が与えられていました。

 一休は、末期的といわれた室町時代の乱世にあって激しく生きた人たちのひとりでした。

 その生き方や行動は現代人の心の中に今も息づいています。



 天皇のそば近く宮仕えをしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれたといわれています。
 照子姫はねたむ人たちの計略にあって宮中を出て、一休は洛西の民家で誕生しました。

 幼名は千菊丸といい、生母のもとで育てられましたが、6歳の頃その将来を僧侶にと願った母の考えで、臨済宗の安国寺の像外鑑公和尚のもとに出家し、周建と名づけられ、ここで11年間にわたって禅の修行をしました。

 応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為の弟子となり、戒名を宗純と改め、応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高華叟宗曇の弟子となりました。

 そして、応永27年(1420年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟した、といいます。

 以後は詩・狂歌・書画と風狂の生活を送りました。

 1481年、88歳で酬恩庵に没しました。

京の古寺から(14)






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Last updated  2009.02.10 19:28:26
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