心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2013.07.09
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 水は万物のおおもとであり、水を吸って伸びる植物は水が姿を変えたもので、この世のすべてのものは水から生まれました。

 水と水はあらゆる所で手をつなぎ、溶け合って生命の営みを支えています。

 ”水の舳先”(2005年3月 新潮社刊 玄侑 宗久著)を読みました。

 クリスチャンの女性と禅僧の出会いを通じて、多様な宗教観にたつ人間の病と死を描いています。

 温泉施設ことほぎの湯の社長が目玉として妙な印を組んだ観音像を建てたのに、僧・玄山が開眼供養を頼まれたことから話が始まっています。

 そこは重い病を患う人が集まってくる温泉施設で、玄山はそこで書道教室を開き、彼らの相談相手になっていました。

 そこには、ガン患者である久美子や達成、無農薬製品以外は口にしない宏子、患者ではないが施設に通い気まぐれに一句詠むミネオなど、さまざまな個性が集まっていました。

 特に久美子はキリスト教徒で、明るく人気者ですが心に深い孤独を秘めていました。

 玄侑宗久さんは、1956年福島県三春町生まれで、慶應義塾大学中国文学科を卒業し、様々な仕事を経験した後、京都、天龍寺専門道場に入門し、現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺住職を務めています。



 僧・玄山は人の死に際に関わり看取りと葬式を執り行い、死と救済、看取りと葬儀の意味などを説いています。

 そして、末期癌の久美子は、あるとき、身寄りもなく死んでいくサトウという男を懸命に世話するのです。

 玄山は、仏教に半ば醒めた疑問も感じつつ看取りの意味について真摯に考え抜くひとりの僧です。

 久美子の死に際して、仏教者はキリスト者の救いを理解できるのかという、宗教理解の問いを含みつつ進行します。

 神の子・イエスの教えを絶対とするのと違い、仏教には懺悔で神に赦しを乞うと言う考えはありません。

 クライマックスは看取りの瞬間にあり、送るものと逝くものの恍惚、エクスタシーの中にその本質があるようです。

 一見異教的なその恍惚に、異なる宗教が歩み寄れる原初的救いの地平があります。

 人は水から生まれ出て、死ねば水に替えます。

 僧の身である玄山と、久美子の体を恍惚裡に浮かばせたのは水でした。

 水と水とは手をつなぎサトウと久美子を溶かし合い、最後には、玄山もまた水の手に招き寄せられて、久美子の体へとつながれてっゆきます。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013.07.09 19:21:22
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: