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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2013.07.16
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 ”秋葉原、内田ラジオでございます”(2012年12月 廣済堂出版刊 内田 久子著)を読みました。

 いまも現役で活動中の秋葉原ラジオセンター2階内田ラジオ・アマチュアショールーム店主の内田久子さんのこれまでの人生が語られています。

 内田久子さんは大正15年8月、父福次郎、母スズの両親のあいだに、兄二人、弟一人、四人兄弟の一人娘として箱根・塔ノ沢萩の里で生まれ育ちました。

 父親は箱根・環翠楼の支配人を務めていました。

 環翠楼は1614に開湯した由緒ある宿で、当時の名は元湯でした。

 皇室や将軍への献上湯を行い、和宮が病気療養のため環翠楼へ登楼したり、篤姫が和宮終焉の地となった環翠楼に行きたいと登楼した、といいます。

 昭和14年の春に旧制県立の高等女学校に入学しましたが、入学式に来てくれた母親は、その秋に出産のおりに亡くなりました。

 子どものために再婚はしないという明治生まれの父親のもとで、きびしいしつけを受けて育ちました。

 小学校5年生のときに日中戦争がはじまり、戦中は勉強よりも農家などへの勤労奉仕の日々でした。



 ご主人は1921年に福井県で生まれ、福井商業学校を卒業して税務署に1年間務めたあとNHK福井放送局に入局し、その後、NHK技術研究所に勤めました。

 結婚した半年後に、故郷福井で大地震があって、義妹と姪の二人を東京に引きとったそうです。

 翌年に長男を出産しました。

 ご主人はNHK技術研究所時代は新型真空管の開発に従事していました。

 それが、ある日突然NHKの研究所を辞め、タクシーに荷物を積みこんで帰宅したそうです。

 その後、独立して内田ラジオ技術研究所長となり、雑誌への執筆、メーカーヘの技術指導などをしていました。

 ご主人は、この時代に三極鉱石というトランジスタを発明しました。

 トランジスタは実用化につながった1948年のベル研究所によるものがよく知られていますが、三極鉱石による増幅作用の発見はそれ以前に既になされていた、ということです。

 秋葉原電気街には電子部品店がたくさん入った、東京ラジオデパート、ラジオセンター、ラジオストアの三大ビルがあり、内田ラジオはラジオセンターの2階にあります。

 ご主人は、お店は昼間は従業員まかせ、夕方になると出かけていって、アマチュアからの質問や相談に応じ、家ではさまざまな研究をしながら、特許申請、研究発表と奮闘しました。

 ナムジュン・パイクら文化人との交流、オーラメーター研究、イオンクラフト円盤研究なども行いました。



 その後、久子さんは、14年もの間、看護に追われながら、原稿の代筆、講演での代読、アマチュアの相手をするための勉強をしながら午後3時過ぎにお店に出るのが日課だったとのことです。

 3年前に癌がみつかり、治療、そして再発、1年半の放射線治療は通院ですませ、満86歳になるいまも週4日、世田谷から杖を突きながら片道1時間かけて秋葉原のお店に通っている、といいます。

目次:
ガード下のマーケット
箱根のこと、父母のこと

発明家・内田秀男との結婚
夫唱婦随の不思議研究
「アキバの語り部」として






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Last updated  2013.07.16 22:43:03
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