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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2017.08.11
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 大江匡衡=おおえのまさひらは、平安中期の詩文の才に秀でて優れた漢詩文を制作した文人官僚です。


 一条天皇の侍読などを歴任し、藤原道長と緊密な関係を築き、晩年は尾張・丹波の国守を務めました。


 ”大江匡衡”(2006年3月 吉川弘文館刊 後藤 昭雄著)を読みました。


 平安中期に漢詩文の才で栄達をめざした文人官僚、大江匡衡の生涯を紹介しています。


 後藤昭雄さんは1943年生まれ、1970年九州大学大学院文学研究科博士課程修了し、1982年に九州大学文学博士となりました。


 鹿児島県立短期大学講師、静岡大学教育学部講師を経て、1983年大阪大学教養部助教授、1994年同文学研究科教授となり、2007年定年で名誉教授となりました。


 2008年から2013年まで成城大学教授を務めました。


 大江匡衡は村上天皇の代である952年に、大江音人を祖とし菅原氏=菅家と並ぶ学問の家柄の大江氏=江家に生まれました。


 平安時代中期の儒者・歌人で中納言・大江維時の孫、左京大夫・大江重光の子で、官位は正四位下・式部大輔、中古三十六歌仙の一人でした。


 大江氏は菅原道真の失脚後に飛躍し、聖代とされている村上朝には、匡衡の祖父にあたる維時や一族の大江朝綱らが儒家の中心的存在となりました。


 父の重光は、対策に及第している文人官僚でした。


 晩年に自身の半生を回顧した長編の述懐詩によれば、大江匡衡は7歳で読書をはじめ、9歳で詠作を行ったといいます。


 964年に13歳で元服し、祖父の維時から教戒を受けたということです。


 ただし、維時は実際には963年に死去しています。


 966年に15歳で大学寮に入り、翌年には寮試に合格して擬文章生となりました。


 紀伝道を学び、973年に省試に合格して文章生となりました。


 なお、この時期に父の重光が死去しています。


 976年~978年ころ、赤染時用の娘で歌人として知られる赤染衛門を妻としています。


 匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られ、仲睦ましい夫婦仲より匡衡衛門と呼ばれたということです。


 979年に対策に及第しました。


 985年に襲撃され、左手指を切断されました。


 犯人は藤原保輔とされていましす。


 991年に仁康上人が河原院で五時講を行った際に執筆した願文により名声を高め、侍従に任官しました。


 998年に従四位下に叙され式部権少大輔に任官し、一条天皇の侍読となりました。


 1009年に文章博士となり、尾張守となりました。


 東宮学士や文章博士を経て、正四位下・式部大輔に至りました。


 匡衡が文人として活躍するのは一条天皇の時代ですが、一条朝こそ平安朝文学の精華の”源氏物語”や”枕草子”を生み出した時代です。


 それぞれの作者の紫式部と清少納言は、一条天皇の后として寵愛を競い彰子と定子に什える女房でした。


 さらに、歌人として和泉式部、また匡衡の妻である赤染衛門があります。


 一般的には、一条朝は女流文学が華やかに花開いた時代、というイメージで理解されているに違いありませんが、それだけではありませんでした。


 文字に仮名に対して真名があるように、文学にも仮名の文学に対して漢字の文学=漢詩漢文がありました。


 仮名文学全盛の時代と見える一条朝においてさえ、男性の貴族たちの間では、和歌よりも漢詩の方が、文学として正統な、より価値のあるものと評価されていました。


 平安朝の漢文の名篇を選録した”本朝文粋”には、匡衡は作者別では最も多い数の作品が収められています。


 ただし、表や願文、奏状など、上流貴族の依嘱を受けて制作した作品がかなりあります。


 このことは、文人として匡衡が重要な位置にあったことを示すものです。


 また、広く貴族社会の中にあっては、詩文制作の専門家という限定的立場に置かれていたことを物語ります。


 匡衡の伝を叙述していくに当たって最も基本となるのは、もちろん匡衡が作った詩文です。

 匡衡には詩集”江史部集”があり、130首余りの詩と29首の詩序が収められています。


 平安朝には多くの文人詩人が登場しましたが、その詩文集が現存するのはごくわずかな人々であり、匡衡はその数少ない幸運な詩人の一人でした。


 また、匡衡は歌人としても、中古三十六歌仙の一人で、歌集”大江匡衡集”を持っており、すなわち和漢兼作の詩人でした。


 匡衡の生涯を追っていくうえで、妻で歌人である赤染衛門の存在は大きいです。


 匡衡は一条天皇期に文人として活躍し、藤原道長・藤原行成・藤原公任などと交流があり、時折彼らの表や願文、奏上などの文章を代作し、名儒と称されました。


 また地方官としても善政の誉れ高く、尾張国の国司としての在任中は学校院を設立し、地域の教育の向上に努めました。


 公卿としての地位を望みましたが果たせずに終わりました。


第一=稽古の力(誕生とその時代/少年期/大学での修学/赤染衛門との結婚)/第二=帝王の師範(官途に就く/文章博士/帝師として)/第三=学統の継承(尾張赴任/京へ帰還/再び尾張へ/丹波守への遷任と死/詩文と和歌/子供たち)/人と文学/系図/略年譜/参考文献






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Last updated  2017.08.11 07:21:58
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