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平田篤胤は、戦後、皇国史観の元祖、狂信的国粋主義者という偏った見方でしか語られず、また、無視され続けてきました。
しかし、平田家に伝わる膨大な新資料を整理すると、その実像は、若くして亡くなった妻や、幼くして亡くなった子を思う、家族愛にあふれています。
また、現代にも通ずる日本独自の豊かな死生観を探究した、江戸後期を代表する思想家でもありました。
”平田篤胤: 交響する死者・生者・神々”(2016年7月 平凡社刊 吉田 麻子著)を読みました。
かつて国粋主義の元祖とされ国学において宣長学の俗化と捉えられてきた、篤胤の知られざる生涯を紹介しています。
吉田麻子さんは1972年東京生まれ、早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学し、現在、学習院女子大学・相模女子大学・東海大学などで非常勤講師を務めています。
1998年に、それまで未公開だった先祖伝来の気吹舎資料の調査を、平田篤胤神道宗家当主より許されたそうです。
また、2001年に、当時、国立歴史民俗博物館館長だった宮地正人さんと出会い、その指導を仰ぎながら共に調査を進めました。
平田篤胤は江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者で、1776年出羽久保田藩生まれ、成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となりました。
幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称しました。
号は気吹舎=いぶきのや、家號を真菅乃屋=ますげのやといい、医者としては玄琢を使いました。
1843年に67歳で亡くなり、墓所は秋田市手形字大沢にあり、国の史跡に指定されています。
東京都渋谷区に篤胤を祭った平田神社があり、千葉県旭市に平田篤胤歌碑が残されています。
死後、神霊能真柱大人=かむたまのみはしらのうしの名を、白川家より贈られています。
復古神道、古道学の大成者であり、大国隆正によって、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人=うしの中の一人として位置付けられています。
平田篤胤という人物について、これまである偏ったイメージをもって批判的に語られてきました。
たとえば、倫理学者の和辻哲郎は篤胤を、”日本倫理思想史”の中で、狂信的国粋主義の変質者と呼んでいます。
また、思想史研究者の安丸良夫は篤胤の思想を、”日本ナショナリズムの前夜”の中で、人間の頭脳か考えうるかぎりもっとも身勝手で独りよがりな議論と評しています。
篤胤の語る死後の世界は、実は日本神話の神々の織りなす壮大なコスモロジーの中に含み込まれて構想されています。
そこでは、日本を中心とした世界観が思想全体を覆っていて、日本が世界のもとの国であると主張しています。
日本の万事万物は万国にすぐれている、あるいは、わが天皇が万国の大君などといった、極端な文言か並んでいます。
そのような側面が、篤胤没後の幕末維新期に、尊皇攘夷と王政復古運動、廃仏毀釈、祭政一致など、一連の社会的な情勢や展開に多大な影響を与えたと言われています。
さらに、戦前の国家主義に利用されるといった、大きな歴史的経緯にも関わることとなったことから、篤胤についての偏った見方が生まれ無視されることとなりました。
しかし、未公開だった気吹舎資料の厖大な書簡や草稿類は、これまでのような単純な裁断を許さない迫力を有していました。
そこには、戦前の国家主義や国粋主義といった言葉には、とうてい収まりきれない、豊かな感性と思想がありました。
そのことによって、もういちど篤胤の書いた書物に立ち戻って考えたいという欲求が湧き上がってきた、といいます。
篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらしました。
神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えました。
また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称していました。
西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などに精通し、心霊現象、死後の世界、霊魂の実在、パワースポット、生まれ変わり、神などなどを考察しました。
人が生きているあいだには、どうしてもそのように穏やかな波間にたゆたっているわけにはいかなぐなることかあります。
なんとなく、あるような、ないようなではすまされない、この世ならぬものへの止みがたき希求の瞬間が訪れる場合かあります。
それは、社会的環境やその変化によってもたらされることもあり、また個人の人生における何らかの衝撃による場合もあるでしょう。
平田篤胤は、江戸時代後期の日本でその瞬間を迎え、自身の強い実感と現実とのあいだにある混沌とした大きな闇をなんとか言葉で解明し、他者に説き広めようとしました。
死後の魂の行方や、この世ならぬものの存在の有無といった問題は、実は私たちか死んだ後に関わってくる話ではありません。
まさに生きている私たちの世界がどのように成り立っているか、あるいは人間が生きるということはどういうことなのかを捉え直すことに他なりません。
少なくとも篤胤は、人間を、そのいとなみを、間違いなく愛しています。
名も無き庶民を、人間か生きることを、まるごと肯定しています。
にもかかわらず、中心としているのは人間ではありません。
では何を中心としているのかといえば、海、山、川、雨、風、稲など、万物にやどる八百万の神々とそこら中にある亡くなった人たちの魂です。
生きている人間だけを大切にするのでは、真の意味で人間を大切にすることかできないということです。
この篤胤独自の哲学は、江戸時代の平田門人たちだけでなく、現代社会に生きる私たちにとっても、けっして見過ごせないものであるように思われます。
篤胤の、生きている人間を中心としないヒューマニズムと、支えていた日本の前近代的な感性は、現代社会のありようを見つめ直す、大きなヒントになるのではないでしょうか。
第1章 平田国学の胎動/第2章 西洋の接近と『霊能真柱』/第3章 地城の奇談と平田門人/第4章 世界像と祈り/第5章 生の肯定、死生の捉え直し/第6章 近世後期の知識人たち/第7章 平田国学における倫理/第8章 広がりゆく書物と篤胤の最期