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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2018.09.08
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 明治20年代は大日本帝国憲法が公布され、最初の総選挙が実施され、最初の議会が開かれました。


 議会政治の幕開けであり、ほかにもあらゆる面で日本に近代が訪れていました。


 そんな時代に広まり、いまとなっては忘れ去られてしまったオッペケペー節は、誰が作り誰が歌い始めたのでしょうか。


 ”オッペケペー節と明治”(2018年1月 文藝春樹秋社刊 永嶺 重敏著)を読みました。


 カチューシャの唄やゴンドラの唄と並び、明治期の流行歌となった文明開化の世相を風刺するオッペケペー節を通して、明治20年代ころの近代化が始まった時代の空気に迫っています。


 本書は、このような流行歌の伝播過程に関する問題に、オッペケペー節を題材にして取り組んだ試みでする。


 永嶺重敏さんは1955年鹿児島県生まれ、九州大学文学部史学科卒業、図書館短期大学別科修了し、東京大学経済学部図書室に就職しました。


 以後、法学部附属明治新聞雑誌文庫、史料編纂所図書室、駒場図書館、情報学環図書室、文学部図書室に勤務しました。


 出版文化・大衆文化研究者で、日本マス・コミュニケーション学会、日本出版学会、メディア史研究会に所属しています。


 オッペケペー節は、明治24、5年ごろ、日本中の人々が口ずさんでいた七五調の歌で、途中や末尾に、オッペケペッポー、ペッポーポーという囃子ことばが入ります。


 ひょうきんな言葉の響きとは裏腹に、その歌詞には、心に自由の種を蒔け、洋語をならふて開化ぶりなど、政治的なメッセージや、鋭い批判、風刺があふれていました。


 これが文明開化の荒波に翻弄されていた当時の民衆の心をつかみました。


 関西の落語界出身の川上音二郎が、寄席や自分の書生芝居の幕間に歌ったのが初めとされています。


 しかし、創始者は川上の師匠であった桂文之助(二世曽呂利新左衛門)の門人の3代目桂藤兵衛であったという説が有力です。


 桂藤兵衛は1849年大坂安治川通3丁目の米屋の子として生まれました。


 17、8歳の頃、初代桂文枝の男衆に入り、文馬を名乗り、九郎右衛門町の大富席の前座に出ました。


 数年後、文車と改名し、その後、初代桂文之助=2世曽呂利新左衛門の門下となり、文字助を名乗りました。


 暫く東京へ赴き6代目桂文治の世話になったり、名古屋の林家延玉門下で修行していた時期もあります。


 帰阪後、1882年頃から京都を根城に、1885年3月、桂文左衛門門下で3代目桂藤兵衛を襲名しました。


 木遣崩し、鎌倉節、オッペケペー節、郭巨の釜堀=テケレッツのパーなどをはやらせました。


 川上音二郎は1864年筑前国博多中対馬小路町生まれ、父親の川上専蔵は福岡藩の郷士で豪商でした。


 旧制福岡中学校の前身に進学しましたが、継母と折り合いが悪く、1878年に家を飛び出し大阪へ密航しました。


 その後、無銭飲食で追われつつ江戸にたどり着き、口入れ屋・桂庵の奉公人に転がり込みましたが長続きせず、吉原遊郭などを転々としました。


 増上寺の小僧をしていた時に、毎朝寺に散歩に来る福澤諭吉と出会い、慶應義塾の学僕・書生として慶應義塾に学び、一時は警視庁巡査となりました。


 しかし長続きせず、反政府の自由党の壮士となりました。


 1883年頃から自由童子と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙されました。


 1885年に講談師の鑑札を取得し、1887年には改良演劇と銘打ち、一座を率いて興行を行いました。


 また、落語家の桂文之助に入門し、浮世亭◯◯と名乗りました。


 やがて、世情を風刺したオッペケペー節を寄席で歌い、1889年から1894・1895年の日清戦争時に最高潮を迎えて大評判となりました。


 川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれました。


 1891年2月、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げし、同年、東京の中村座で板垣君遭難実記などを上演しました。


 おおぎりに余興として、後鉢巻きに赤い陣羽織を着て、日の丸の軍扇をかざして歌いました。


 東京では、同年6月浅草中村座で歌いました。


 人気が出ると歌詞は10数種類できていたといいます。


 東京でもオッペケペー節が大流行しました。


 歌の変遷史に関する研究書も数多く出され、どの時代にどのような歌が流行したのか、おおよそ知ることかできるようになりました。


 しかし、各時代に流行した歌かいったいどのようにして日本各地に広まりていったのかという歌の伝播過程となると、ほとんどわかっていません。


 また、オッペケペー節はいわゆる演歌の系譜とも関連してとらえられることか多く、演歌の元祖、演歌の第一号と位置づける事典もあるほどです。


 東京ではオッペケペー節を歌いながら唄本を売り歩くオッペケペー売りか街頭や縁日に群れをなすようになり、吉原の芸妓たちもオッペケペー節を盛んに歌い出したといいます。


 しかし、現在ではオッペケペー節はまったく歌われることもありません。


 オッペケペー節には、いくつもの謎が解明されないまま残されています。


 そもそもこの歌を誰が作ったのか、誰か最初に歌い始めたのかさえわかっていません。


 さらに、テレビ、ラジオ、レコードもない時代に、この歌がどうやって日本全国に広まっていったのかについても皆目わかっていません。


 このような時代に、オッペケペー節という歌かどのようにして誕生し、大流行して、日本中で歌われるようになっていったのでしょうか。


 オッペケペー節の謎を追いかけなから、明治20年代の日本社会を探検する旅を楽しんでいただきたいということです。


 本書は、電波や音声メディアかまだ普及していない明治中期に、オッペケペー節という唄がどのようにして日本社会の津々浦々へ飛んでいったのか、その飛行の跡を追跡する試みです。


序章 よみかえる「オッペケペー節」
第1章 「オッペケペー節」関西で生まれる/京都の落語家グループと「オッペケペー節」/川上音二郎の台頭
第2章「オ″ペケペー節」東京公演で人気沸騰する/「オッペケペー節」関東へ向かう/「オッペケペー節」九州・東北へ拡がる/中村座公演と「オッペケペー節」の大当たり
第3章 「オッペケペー節」東京市中で大流行する/オッペケペーブームと印刷メディア/「オッペケペー節」の伝播ルート/「オッペケペー節」の歌われ方
第4章「オッペケペー節」全国で歌われる/最初期の伝播例/若宮万次郎の壮士芝居ルート/壮士芝居の拡がりと「オッペケペー節」/鉄道・蓄音器・選挙と「オッペケペー節」/その他の事例
第5章 「オッペケペー節」と声の文化/〈声の文化〉から〈文字の文化〉へ/「オッペケペー節」と声の文化
終章 その後の展開
参考文献
資料一「オッペケペー節」の替え歌 J






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Last updated  2018.09.08 07:02:31
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