PR
Keyword Search
Calendar
Comments
武田勝頼は諏訪勝頼とも言い、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名で、甲斐武田家第20代当主です。
”武田勝頼-試される戦国大名の「器量」”(2017年9月 平凡社刊 丸島 和洋著)を読みました。
生き残りをかけて信頼が問われた乱世に、偉大な父の跡目を継いで武田氏滅亡への道をたどった勝頼の不運の正体を探り、戦国大名の本質を見ようとしています。
勝頼は、通称は四郎で、当初は諏訪氏=高遠諏訪氏を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼、あるいは、武田四郎、武田四郎勝頼とも言います。
「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられています。
丸島和洋さんは1977年大阪府生まれ、2005年に慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(史学)で専門は戦国大名論です。
国文学研究資料館研究部特定研究員などを経て、現在、慶應義塾大学文学部非常勤講師、立教大学文学部兼任講師、早稲田大学エクステンションセンター講師、戦国史研究会事務局長を務めています。
2016年のNHK・大河ドラマ”真田丸”では、黒田基樹さん、平山優さんと共に時代考証を担当しました。
ドラマの中に、従来とは異なる新しい見解をかなり入れています。
武田勝頼は1546年に武田晴信=信玄の四男として生まれましたが、生誕地や生月日、幼名は不明です。
母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人で、実名不詳の乾福院殿です。
武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にありましたが、父の晴信は1541年に信虎を追放する形で家督を相続すると、諏訪氏とは手切となりました。
1542年に諏訪侵攻を行い、諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡しました。
晴信は側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え、1546年に勝頼が誕生しました。
躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられていますが、武田家嫡男の義信や次男・信親に関する記事は見られますが、勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、乳母や傅役など幼年期の事情は不明です。
なお、”甲陽軍鑑”では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されていますが、内容は疑問視されています。
武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、1573年に信玄の死により家督を相続しました。
強硬策を以て領国拡大方針を継承しましたが、1575年の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退し、これを契機に領国の動揺を招きました。
その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図りました。
しかし、織田信長の侵攻=甲州征伐により、1582年3月11日に嫡男・信勝とともに天目山で自害し、平安時代から続く甲斐武田氏は、戦国大名家としては滅亡しました。
近世から近現代にかけて、神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など。相対する評価がなされてきました。
武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったのですが、近年では外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われています。
武田勝頼という人物の研究が進展したのは、2000年代に入ってからのことです。
2003年に柴辻俊六さんによって”武田勝頼”という伝記が新人物往来社から刊行されました。
それ以前の本格的人物伝は、1978年に上野晴朗さんが著した”定本武田勝頼”がほとんど唯一のものでした。
上野さんの著書は一次史料を駆使しつつも、当時の史料的制約と前提となる研究状況から、”甲陽軍鑑”に依拠する面が多いことは否めません。
その点で、柴辻さんの”武田勝頼”は大きな画期となり、同書刊行と前後して、勝頼期の武田氏研究が進められました。
それ以前の武田氏研究は、あくまで信玄期が中心であり、勝頼期の研究は、補完的なものにとどまっていました。
したがって、その人物像や歴史的位置づけも深められることは少なく、信玄の築いた領国を滅ぼした人物というマイナス評価が主でした。
しかしながら、研究の進展により、勝頼像は一変してきました。
特に、山梨日々新聞社の”山梨県史”通史編と、鴨川達夫さんの”武田信玄と勝頼”は、勝頼は信玄の負の遺産を受け継いだ人物という視点を確立させました。
また、長篠合戦に関する議論が再び活性化している点も見逃せません。
近年大きく進展した分野のひとつが、軍事史だからです。
このような研究動向は、武田氏を滅ぼした織田信長を相対化する研究が相次いだことで加速してきました。
そこでは、信長が当初から全国統一を目指していたわけではなく、新将軍足利義昭のもと、室町幕府の再建に乗り出していたことがほぼ確定されました。
戦国大名研究の進展により、戦国大名とは全国統一を目指した権力ではないということが明らかにされていましたから、信長も同様ということになります。
同時に、信長の勝因とみなされてきた、兵農分離、鉄砲三段撃ち、楽市楽座なども相対化されました。
楽市楽座は他大名でも一般的にみられる政策と評価されたり、兵農分離、鉄砲三段撃ちは存在そのものが否定されりしました。
本書の課題は、こうした歴史的事実と、現在の研究動向をつなぎあわせた場合、武田勝頼という戦国大名には、どのような歴史的評価を与えればよいかに尽きます。
もちろん、勝頼権力の前提として武田信虎や信玄が存在することはいうまでもありませんが、本書では信玄期の勝頼にかなりの紙幅を割くこととしました。
第一章 勝頼の出生と高遠諏方氏相続/第二章 思いがけない武田復姓/第三章 武田氏の家督相続と不安定な基盤/第四章 長篠合戦/第五章 内政と外交の再編/第六章 甲相同盟崩壊と領国の再拡大/第七章 武田氏の滅亡──戦国大名の本質/武田勝頼関連年表/主要参考文献