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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.01.19
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 一国の統治は過ぎても不足でも適わない中庸こそが大切として、3代将軍徳川家光のとき大老となって大名統制を断行した土井利勝は、徳川の世の礎を築きました。


 古河藩は、信任厚き譜代が城主の関東平野枢要地で、雪の殿様や桃まつりにみられる小江戸の優美が煌めく街です。


 ”古河藩”(2011年2月 現代書林社刊 早川 和見著)を読みました。


 古河の街には、藩主と共に学問振興を図った家老・鷹見泉石の勉学の精神が今なお脈々と連なっています。


 早川和見さんは1953年古河市生まれ、故・千賀忠夫氏に師事し、郷土史全般、古文書解読法等を学んだ千賀史学の継承者です。


 1993年に第18回郷土史研究賞特別優秀賞を受賞し、現在、古河の文化と歴史を護る会会員、古河郷土史研究会会員で、日本歴史学会、山形県地域史研究協議会、東亜天文学会等に所属しています。


 古河は関東平野のほぼ中央部に位置する内陸性気候の地で、夏は湿度を伴った猛暑となり、冬は北西からの強烈な”からっ風”によって厳寒となることが多いです。


 古河の地名は大変古く、古来より河岸があり、河川交通が盛んで人々の往来が多く栄えていたことが『万葉集』からも知られています。


 古河城は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての御家人である下河辺行平により築城されました。


 室町時代になると、足利尊氏は関東統治のために鎌倉府を設置しました。


 初代鎌倉公方(関東公方)は尊氏の子基氏でした。


 鎌倉公方は基氏の曾孫で第4代持氏の時、京都の第6代将軍で尊氏の曾孫義教と対立しました。


 永享の乱を引き起こして持氏は自害させられ、鎌倉府は滅亡しました。


 義教の没後、持氏の遺児成氏は罪を許され、1449年に鎌倉に戻って第5代鎌倉公方となりました。


 1454年に成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことを端緒として、享徳の乱が引き起こされました。


 山内上杉家は憲忠の後継者に実弟の房顕を立てて体制を立て直し、室町幕府の第8代将軍足利義政に支援を要請しました。


 成氏は房顕を武蔵分倍河原で破りましたが、房顕の支援を決定した義政が駿河の今川範忠を動かし、1455年に後花園天皇より成氏追討の綸旨と御旗を賜って成氏を朝敵としました。


 そのため、成氏は鎌倉を放棄して古河を本拠としました。


 以後、成氏の系統は古河公方と呼ばれました。


 成氏は、1457年に修復が完了した古河城に正式に入城しました。


 当時の古河公方は下総・下野・常陸に及ぶ強大な勢力圏を誇りました。


 成氏は幕府の派遣した堀越公方の足利政知や上杉家と抗争を続けましたが、1477年に成氏は和睦を申し出て、5年後に幕府と古河公方家は和睦しました。


 成氏は1497年に病死し、息子の政氏が第2代古河公方となりました。


 政氏は外交方針をめぐって嫡子の高基と対立し、父子が不和になって内紛を起こし、最終的に高基が勝利して政氏は追われ、高基が第3代古河公方となりました。


 高基の実弟の義明が還俗し、上総守護代の武田氏の勢力を背景にして小弓公方として独立するなど、次第に古河公方の衰退は明らかになっていきました。


 高基は勢力挽回のため、関東で台頭し始めていた北条早雲・氏綱に接近し、嫡子晴氏の正室に氏綱の娘を迎えて北条との連携を図り、1538年には小弓公方を滅ぼしました。


  高基の跡を継いだ晴氏は関東管領上杉憲政に接近して氏綱の嫡子氏康と敵対し、1546年に武蔵河越で氏康と戦い兵力では圧倒的に優位ながら大敗しました。


 以後、古河公方家は後北条家の影響下に置かれ、その勢力範囲内の各所を居所として転々としました。


 晴氏は1560年に死去し、子で第5代の義氏は北条準一門として古河公方に立てられましたが、嗣子が無く天1582年に死去し、古河公方は断絶して後北条家より以後は古河に城番が置かれました。


 1590年に関白豊臣秀吉により小田原征伐が行なわれ、7月に後北条氏が滅び、8月に秀吉の命令で、駿河など東海に5カ国を領有していた徳川家康は関東8カ国に国替えとなりました。


 家康は古河を重要視し、嫡男松平信康の娘婿である小笠原秀政を3万石で入部させました。


 秀政は荒廃していた古河城を修復・拡張し、隆岩寺を開基しました。


 1601年に、信濃守護の末裔の秀政を家康は故郷に2万石加増の5万石で戻し、秀政は信濃飯田へ移封されました。


 徳川家康は、古河城を江戸城の支城と位置付けて、北部防衛の拠点として極めて重視しました。


 城主には、譜代大名の中でも特に信任の厚い者を人選しています。


 こうしたことから、藩主においても老中等の要職者が多数輩出しました。


 そして古河藩と江戸城との関係は、単に政治、軍事的な結び付きにとどまらず、水陸運の北関東枢要地として大消費地江戸との経済的、文化的等の関係を一層深め、古河における小江戸化が形成されました。


 古河藩は江戸時代下総国葛飾郡 を領有した藩で、奥州街道の重要地点にあったため、藩主は譜代大名がほとんどです。


 古河藩主は国替されることが多く、多くの譜代大名から任じられています。


 小笠原氏の3万石に始り、松平 (戸田) 氏2万石、小笠原氏2万石、奥平氏 11万石、永井氏7万2000石、土井氏16万石、堀田氏9万石、松平 (藤井) 氏9万石、松平 (大河内) 氏7万石、

 そして、本多氏5万石、松平 (松井) 氏5万8000石、土井氏7万石です。


 その中の代表格が土井家であり、同家の入封は前期・後期の2回で、その期間は1世紀半を超えます。


 古河城のシンボル御三階櫓は、藩祖の土井利勝によって創建されたものです。


 土井家本家11代目当主土井利位=としつらは、筆頭老中まで昇進する一方で、日本で最初に蘭製顕微鏡で雪の結晶を観察したことで知られています。


 その雪の殿様こと土井利位を補佐した家老が鷹見泉石です。


 古河藩史に初めて正面から取り組んだ頃、著者は幕末の古河城内には、歴代大名家の在藩時の史料が、きちんと一貫して累積されているものだと思い込んでいたそうです。


 しかし、大名家の交替の際、在藩史料については次に入部する大名には事務引き継ぎはされず、移封地へ持って行ってしまうようです。


 古河には、江戸時代後期から明治時代に入るまでの土井家の藩政記録しかなく、他の10家にわたる大名家時代の記録は、残念ながら存在していません。


 このため本書においては、古河藩大名家としては土井家を中心とせざるを得なかったといいます。


第1章 古河藩成立以前と藩初の展開/第2章 土井家治政の初期/第3章 お家再興と移封、そして再封/第4章 古河藩再封後の財政問題/古河藩社会が直面した時代の動き 






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Last updated  2019.01.19 07:00:22
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