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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.02.09
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 鎌倉初期の武士で武蔵国畠山荘の荘司重能の子・畠山重忠は、頼朝挙兵当初は平氏に属して頼朝に敵対しましたが、のち頼朝に服属しました。


 治承・寿永の乱で活躍し、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなしました。


 ”中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流”(2018年11月 吉川弘文館刊 清水 亮著)を読みました。


 まっすぐで分け隔てない廉直な人物で坂東武士の鑑として伝わる、武蔵国男衾郡畠山の在地領主・畠山重忠の武士としての生き方を描いています。


 清水 亮さんは1974年神奈川県生まれ、1996慶應義塾大学文学部を卒業し、2002年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程を単位取得退学し、博士(文学)となりました。


 現在、埼玉大学教育学部准教授を務めています。


 畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがあります。


 畠山氏が成立した12世紀前半から中葉は、日本中世の成立期にあたります。


 この時期、日本列島各地に天皇家・摂関家・大寺社を最高の領主とする荘園が形成される一方、各国の国管が管轄する国訴領もまた中世なりの郡・郷として確定されていきました。


 武士の多くは在地領主でしたが、全ての武士が在地領主であったわけでも、在地領主の全てが武士であったわけでもありません。


 武士とは武芸を家業とする職業身分であり、地方の所領に本拠を形成し、収益を取得する在地領主とはそもそも異なります。


 2000年代に入って、武士団と地域社会との関わりについての研究は大きく進んだといいます。


 とくに、武士の本拠・本領とその周辺の地域社会との関係が明確になってきました。


 武士の本拠が館だけでなく、地域の流通・交通の要衝である宿や、地域社会の安寧を保障する寺社と結びついて形成されていました。


 武士はこのような本拠を拠点として、地域における交通・流通の主導者、地域信仰の保護者の役割を果たしていました。


 頼朝時代の御家人集団が、鎌倉殿のもとでの平等性とそれぞれの勢力の差に基づく差別をともに孕んでいました。


 また、中世前期の武士を考える上で欠くことができないのが京都との関わりです。


 武士身分を認証するのは王権であり、清和源氏・桓武平氏・秀郷流藤原氏に系譜を引く武士たちは王権の認知を受けた正統的な武士です。


 一方、国管軍制の拡充過程で武士に認定された者たちも存在しており、その武士身分を認証するのは国街ですから、王権に認証された軍事貴族クラスの武士よりは格下です。


 武士・武士団には家格・勢力に応じた階層性がありました。


 畠山重忠・畠山氏は在地系豪族的武士で、その軍団は在地系豪族的武士団と呼称できそうです。


 畠山氏は、郷村規模の所領を持つ地方中小武士を郎等・目下の同盟者として抱えていました。


 本書では、近年の武士研究・在地領主研究の達成をふまえ、武士・在地領主としての畠山重忠・畠山氏のあり方をできうる限り具体的に示すことを目指すことになります。


 畠山重忠の振る舞い・言説に関する史料は多く残されていますが、そのほとんどは鎌倉末期に成立した『吾妻鏡』や、『平家物語』諸本の記事です。


 重忠個人の言説一つ一つの実否はともかく、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本などに示された重忠の姿は、武士としての重忠、武士団・在地領主としての畠山氏のあり方をそれなりに投影しています。


 多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていました。


 父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に渡り忠実な家人として仕えました。


 坂東八平氏は、平安時代中期に坂東に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏です。


 8つの氏族に大別されていたため、八平氏と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門です。


 時代や年代により優勢を誇った氏族が移り変わるため、数え方はその時々の各氏族の勢力により様々ですが、一般的には千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八氏が多く挙げられます。

 秩父氏は日本の武家のひとつで、桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東8平氏のひとつに数えられます。

 平良文の孫で桓武天皇6世にあたる平将恒を祖とし、平将門の女系子孫でもあります。


 秩父平氏の直系で、多くの支流を出した名族で、武蔵国留守所総検校職として武蔵国内の武士を統率・動員する権限を有し、秩父氏館を居城としました。


 初代の平将恒は、武蔵介・平忠頼と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称しました。


 1180年8月17日に、源義朝の三男・頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵しました。


 この時、父・畠山重能が大番役で京に上っていたため、領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かいました。


 8月23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走し、相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇しました。


 合戦となり、双方に死者を出して兵を引きました。


 8月26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡しました。


 重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取りました。


 9月に頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入りました。


 10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏しました。


 重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたといいます。


 重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入りました。


 河越重頼は、娘の郷御前を頼朝の弟である源義経に嫁がせることに成功しました。


 しかし、義経が失脚すると重頼・重房親子もこれに連座して討伐され、秩父氏惣領の地位は畠山重忠に与えられました。


 奥州合戦では、源頼朝に従い畠山重忠が先陣を務めたほか、江戸重長も従軍しています。


 1204年11月に、重忠の息子の重保が北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争いました。


 この場は収まりましたが、牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求めました。


 1205年6月に、時政は息子の義時・時房と諮り、『吾妻鏡』によると二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対しましたが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したといいます。


 時政の娘婿の稲毛重成が御所に上がり、重忠謀反を訴え、将軍実朝は重忠討伐を命じました。


 こうして、畠山重忠の乱が起こり、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされました。


 これは、鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つでした。


畠山重忠のスタンス―プロローグ/秩父平氏の展開と中世の開幕(秩父平氏の形成/秩父重綱の時代)/畠山重能・重忠父子のサバイバル(畠山氏の成立と大蔵合戦/畠山重忠の登場)/豪族的武士としての畠山重忠(源頼朝と畠山重忠/在地領主としての畠山氏)/重忠の滅亡と畠山氏の再生(鎌倉幕府の政争と重忠/重忠の継承者たち )/畠山重忠・畠山氏の面貌―エピローグ/あとがき






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Last updated  2019.02.09 06:58:41
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