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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.05.25
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 絶家とは、戸主が死亡したことなどにより家督相続が開始されたにもかかわらず、家督相続人となる者がいないために、やむを得ず家が消滅することです。


 ”絶家を思う”(2017年3月 新講社刊 長宗我部 友親著)を読みました。


 長宗我部元親の末弟の親房から17代目当主が、家系も自分の代で終わるかも、関連の墓所はどうするなどの先祖への思いと、当主としての重い務めについて思いを語っています。


 廃家が戸主の意志を元に行うのに対し、絶家は不可抗力により生じたものになります。


 時代は変わりつつあり、どの家庭でも一度は考えねばならない課題です。


 長宗我部友親さんは1942年高知市生まれ、早稲田大学を卒業し、共同通信社に入り、経済部長などを経て、2002年常務監事となり、2004年に退任しました。


 ジャーナリスト、著述家で、長宗我部親房から17代目の当主です。


 家系図によると、長宗我部家は秦の始皇帝の流れをくみ、初代当主は能俊=よしとしで、第22代当主の盛親=もりちか亡き後、本流が途絶えました。


 よく知られているのは、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名だった第21代当主の元親=もとちかです。


 元親は第20代当主の国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘で、正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹でした。


 土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で、管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、15代当主・長宗我部元親と同名を名乗ることとなりました。


 第21代当主の元親は土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い四国に勢力を広げました。


 しかし、その後に織田信長の手が差し迫り、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ、土佐一国に減知となりました。


 豊臣政権時、戸次川の戦いで愛息・信親を亡くすと生活は荒れ、家中を混乱させたままこの世を去りました。


 元親の四男の盛親=もりちかは第22代当主となりましたが、戦国大名としての長宗我部氏の最後の当主となりました。


 関ヶ原の戦いで西軍に属しましたが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表しました。


 しかし、帰国直後に重臣たちが浦戸一揆を起こしたことをとがめられ、領国を没収され浪人となりました。


 のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城し、大坂の陣の戦闘に参加しましたが敗北しました。


 再起を図るため逃亡しましたが、捕らえられた後に処刑されました。


 盛親の長男の盛恒=もりつねは、大坂の陣で父盛親から参戦要請があり、大坂城へ入り、豊臣方として戦いました。


 しかし大坂城落城後に捕らえられ、父らと共に伏見で斬首されました。


 これにより、長宗我部氏嫡流は途絶えました。


 親房は本流が途絶えた後の初代当主です。


 第20代当主の国親=くにちかの四男で、第21代当主の元親の弟筋に当たります。


 親房は父・国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗ちました。


 武勇に優れ、異母兄・長宗我部元親の本山氏攻め等で活躍しました。


 しかし、病にかかり有馬温泉に療養に行く途中、強風で阿波国海部城下の那佐湾に舟を停泊し、敵襲と勘違いした城主・海部友光に襲われ、病の身で奮戦するも討たれました。


 その後、元親は弟の死に激怒し、海部城を攻略したそうです。


 徳川家に刃向かった長宗我部家は改易となり、江戸時代はずっと別の姓を名乗っていました。


 それが大政奉還になり、12代の與助重親の代になってやっと長宗我部を名乗れるようになりました。


 著者は高知で好きな場所は浦戸城のあった浦戸だそうですが、武家の末裔にもかかわらず、刀剣類は恐ろしい存在だといいます。


 先祖である盛親が六条河原で打ち首になったこともあり、刀を見ると寒気がするためです。

 家には設立と消滅があり、新たに家が設立される形態は、分家、廃絶家再興、一家創立が、家が消滅する形態として、廃家、絶家があります。


 廃家は、戸主が婚姻や養子縁組などの理由により他の家に入るために、元の家を消滅させることをいいます。


 これは、改正前の民法762条に規定がありました。


 絶家は、戸主が死亡したことなどにより家督相続が開始されたにもかかわらず、家督相続人となる者がいないために、家が消滅することをいいます。


 これも、改正前の民法764条に規定がありました。


 廃家が戸主の意志を元に行うのに対し、絶家は不可抗力により生じます。


 そして、廃絶家再興とは、廃家・絶家した家を、縁故者が戸主となり再興することです。


 改正前の民法764条に規定があり、家族は戸主の同意を得て廃絶した本家、分家、同家その他親族の家を再興することができることになっていました。


 再興した者はその家の戸主となり廃絶家の氏を称しますが、廃絶家前の債権・債務など各種の権利・義務を引き継ぐ訳ではありません。


 歴史のある家の当主として、各地に散らばった墓所に参り、ゆかりの地を訪ね、縁ある人に会う旅を続けてきたそうです。


 今日の少子高齢化の時代、墓移し、墓じまい、無葬に関心が集まっています。


 先祖や親の墓をどう守っていくか、あるいは次の代に負担をかけることなく、どう対処したらいいのか悩んでいるとのことです。


 子どもがいないため、養子を入れて無理やり名前を継がせても意味がありません。


 今は個人の時代で家を背負う時代ではないため、いったん家を整理して、後代に迷惑をかけないように整えるのもあり方の一つといいます。


 現当主としての責任感から、四国や九州、東北など、各地の墓所をまとめて供養することができないか奔走しているそうです。


第1章 薄れゆく人を思うこころ-落ちこぼれ末裔の不安/後継ぎをどうするか/複雑な時代の不安/系譜とは何であろうか/第2章 ルーツはみんな持っている-名家、名門、そしてお家騒動/姓の発祥の由来/田中、渡辺などいずれも由来が/名家を継いでゆく難しさ)/第3章 先祖の墓と系譜を繋ぐ-「死とは無である」との教え/墓にかける思い/人間はいずれ消え去るもの/遠い郷里への複雑な思い/第4章 土地の人に敬われた先祖-伊達政宗の懐/義民として祀られた末裔/長宗我部の血筋/阿波に眠る人々)/第5章 「墓じまい」と「個」の時代がきた-無理せず流れに任せる/天皇と長宗我部家/時代の変化も見据えて/さて自分はどこに眠る






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Last updated  2019.05.25 21:05:02
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