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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.12.28
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 アーネスト・サトウはイギリスの外交官で、イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、イギリスにおける日本学の基礎を築きました。

 日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、一時帰国の期間を含めて計25年間になります。

 ”アーネスト・サトウと倒幕の時代”(2018年12月 現代書館刊 孫崎 亨著)を読みました。

 幕府を支援していたイギリスを薩長に付かせ、日本の政治体制を大きく変え江戸城無血開城へつながった、日本名・佐藤愛之助または薩道愛之助、イギリスの外交官アーネスト・サトウを紹介しています。

 サー・アーネスト・メイソン・サトウは、1843年に非国教徒でルーテル派の宗教心篤い家柄で、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つ独人の父親と英人の母親の三男としてロンドンで生まれました。

 父親は兄弟で一番優秀だったアーネストをケンブリッジ大学に進学させたかったのですが、非国教徒が学位を取れる保証がありませんでした。

 そのためため、アーネストはプロテスタント系のミル・ヒル・スクールに入学し1859年に首席で卒業しました。

 宗教を問わないユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに進学し、ローレンス・オリファント卿著『エルギン卿遣日使節録』を読んで日本に憧れ、1861年に英国外務省へ通訳生として入省しました。

 駐日公使ラザフォード・オールコックの意見により、清の北京で漢字学習に従事しました。

 孫崎 亨さんは1943年旧満州国鞍山生まれ、第二次世界大戦終結にともない、父の故郷である石川県小松市に引き揚げ、小松市立松陽中学校を経て金沢大学教育学部附属高等学校を卒業しました。

 東京大学法学部在学中に外交官採用試験に合格したため、1966年に大学を中途退学し外務省に入省しました。

 イギリス、ソ連、米国、イラク、カナダでの勤務を経て、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を歴任しました。

 城西国際大学大学院研究科講師、東アジア共同体研究所理事・所長、ハーバード大学国際問題研究所研究員、ウズべキスタン特命全権大使、外務省国際情報局局長、イラン特命全権大使などを歴任しました。

 1862年9月8日に、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任しました。

 当初、代理公使のジョン・ニールは、サトウに事務の仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができませんでしたが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許されました。

 このため、当時横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学びました。

 また、公使館の医師であったウィリアム・ウィリスや画家兼通信員のチャールズ・ワーグマンと親交を結びました。

 1863年8月、生麦事件と第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉が妥結した後、ニールは薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・キューパー提督に7隻からなる艦隊を組織させ、自ら鹿児島に向かいました。

 サトウもウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していましたが、交渉は決裂して薩英戦争が勃発しました。

 サトウ自身も薩摩藩船・青鷹丸の拿捕に立会いましたが、その際に五代友厚・松木弘安(寺島宗則)が捕虜となっています。

 開戦後、青鷹丸は焼却され、アーガス号も鹿児島湾沿岸の砲台攻撃に参加、市街地の大火災を目撃します。

 1864年、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩みますが、帰任した駐日公使オールコックから昇進に尽力することを約束されましたので、引き続き日本に留まることを決意しました。

 オールコックはサトウを事務の仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間を日本語の学習につかえることとなりました。

 また、ウィリスと同居し親交を深めました。

 1864年8月20、長州藩は京都の蛤御門等で武力を行使しましたが、幕府、会津藩、薩摩藩の兵力に負けました。

 この時点では、薩摩藩と長州藩は敵対関係にありました。

 そして長州藩征討の勅命が発せられ、薩摩藩の西郷隆盛は長州征討の参謀格でした。

 1865年4月、通訳官に昇進し、この頃から伊藤や井上馨との文通が頻繁になりました。

 この往復書簡で、長州藩の内情や長州征討に対するイギリス公使館の立場などを互いに情報交換しました。

 サトウはこの頃から「薩道愛之助」「薩道懇之助」という日本名を使い始めました。

 10月には新駐日公使ハリー・パークスの箱館視察に同行しました。

 11月、下関戦争賠償交渉のための英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣に同行、神戸・大坂に上陸し、薩摩藩船・胡蝶丸の乗組員と交わりました。

 このころから、日本語に堪能なイギリス人として、サトウの名前が広く知られるようになりました。

 1866年3月から週刊英字新聞に匿名で論文を掲載し、この記事が後に『イギリス策論』という表題で、サトウの日本語教師の徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳出版され、大きな話題を呼びました。

 1866年3月7日に坂本龍馬の斡旋で薩長連合が成立し180度変わりましたが、この連合が倒幕の中心になるにはまだ脆弱でした。

 アーネスト・サトウは、将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行条約はその将軍とだけ結ばれたもので、現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないと主張しました。

 また、現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきであるとも主張しました。

 イギリスの軍事力が強固であることは、当時政治に関与していた者は皆知っていました。

 その中、アーネスト・サトウの『イギリス策論』によって、イギリスは倒幕側についたことを人々は知りました。

 幕末期におけるアーネスト・サトウの活躍はこれで終わらず、江戸城の無血開城にも関わっていそうです。

 無血開城は勝海舟と西郷隆盛との問での合意ですが、アーネスト・サトウは双方にパイプを持っていました。

 パークス公使の発言が無血開城に貢献し、江戸城が無血開城され、勝海舟が江戸から去る時、愛馬の伏見をアーネスト・サトウに贈りました。

 アーネスト・サトウは、戦いの中で、倒幕側と幕府側の双方に太いパイプを持っていたのです。

 外交史を見ると、一方に食い込むという人物はいますが、戦いの双方と密な関係をもったのは稀有な存在と言えます。

 アーネスト・サトウを偲んだ石碑が千代田区一番町にあり、「1898年、当時のイギリス公使サー・アーネスト・サトウが、この地に初めて桜を植えました」と記されています。

 アーネスト・サトウは類まれな外交官であり、相手国の歴史の動きに深刻な影響を与えたという点では、アーネスト・サトウ以上の人はほとんどいません。

 徳川幕府が終わり明治政府が出来るというのは日本史の中の一大転換期には、歴史の流れから言って、様々な可能性がありました。

 幕府と倒幕派に分かれ内戦を続けるという可能性、幕府が朝廷と連携して延命を図るという可能性、幕府が倒れ新政権が出来るという可能性です。

 この時期、イギリスやフランスの持つ影響力は決して小さいものではなく、イギリスは倒幕側の雄である薩摩藩と長州藩を各々、薩英戦争、馬関戦争で破っています。

 もし、イギリスが幕府側を支援していたら、倒幕側の圧勝にはならなかったでしょう。

 事実、一時イギリスは幕府を支援していたのです。

 こうした中で、アーネスト・サトウは倒幕に与し、重要な役割を演じました。

 幕末に、勝海舟と話が出来る、西郷隆盛と話が出来る、木戸孝允と話が出来る、伊藤博文と話が出来る、こんな人物は、アーネスト・サトウ以外にいたでしょうか。

 なお、アーネスト・サトウは戸籍の上では生涯独身でしたが、明治中期の日本滞在時の1871年に武田兼(カネ, 1853-1932)を内妻とし3人の子をもうけました。

 兼とは入籍しなかったものの、子供らは認知して経済的援助を与え、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せて植物学者として育て上げました。

 長男の栄太郎は1900年にアメリカ・コロラド州ラサルへ移住して農業に従事し、現地の女性と結婚してサトウダイコンの生産者として暮らしたといいます。

第1章 アーネスト・サトウの来日/第2章 「桜田門外の変」から「生麦事件」へ/第3章 高まる「攘夷」の動き/第4章 薩英戦争後、薩摩はイギリスとの協調路線へ/第5章 国際的、国内的に孤立する長州藩/第6章 薩長連合の形成と幕府崩壊の始まり/第7章 イギリスと、幕府を支援するフランスの対決/第8章 倒幕への道/第9章 江戸城無血開城







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Last updated  2019.12.28 05:51:27
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