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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2021.01.16
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 ”カナダ 歴史街道をゆく”(2017年5月 文藝春秋社刊 上原 善広著)を読みました。

 2017年7月1日に建国150周年を迎え、誰もが笑顔になれる癒される国として注目を集める広大な国土を持つカナダの、歴史の道をたどりつつ横断・縦断したルポルタージュです。

 当時、大西洋を西北に向かえばアジアに到達する通路があると信じられ、カボットはこの西北航路発見のためニューファンドランド島に到達し、この付近の海域が豊かな漁場であることを知りました。

 この知らせを聞いて、フランスやポルトガルの漁師が大西洋を横断してニューファンドランド沖で漁をするようになりました。

 17世紀初めにフランス人が、セントローレンス川流域に入植したのがカナダの始まりです。

 1763年にイギリス領となり、フランス系住民と先住民がイギリス帝国の支配に組み込まれました。

 1867年に英連邦内の自治領となり、1931年に事実上独立国家となりました。

 上原善広さんは1973年大阪府松原市生まれのノンフィクション作家で、被差別部落出身である事をカミングアウトし、部落問題を中心に文筆活動を行っています。

 羽曳野市立河原城中学校、大阪府立美原高等学校を卒業し、スポーツ推薦で大阪体育大学に入学しました。

 在学中に20歳で学生結婚し、1996年に同大を卒業して中学校の体育非常勤教師となりました。

 冒険家を志して単身渡米し、米国で1年間ほどを過ごし、23歳の時にロサンゼルスの日系新聞でフリーライターとしてデビューしました。

 2010年に第41回大宅壮一ノンフィクション賞、2010年に咲くやこの花賞文芸その他部門、2012年に新潮45編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞大賞、2016年にミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞しました。

 1997年に当時23歳で、アラスカからメキシコまでを、ハンティング用のカートに荷物を積み込み、約1万キロを1年かけて踏破したといいます。

 カナダのユーコン準州、ブリティッシュ・コロンビア州を3ヵ月ほどかけて縦断しました。

 それはかつてのゴールドラッシュの道を、逆にたどるルートでもありました。

 当初歩いたアラスカ・ハイウェイは、もともと第二次世界大戦のとき、対日本軍用に半年ほどで緊急に拓かれた軍事道路でした。

 ハイウェイ沿いにある小さな町の博物館には日章旗が飾られていました。

 第二次大戦後、日系人が開いた歴史あるロッジでは、同じ日本人ということで食事をご馳走になったりもしました。

 そのときカナダに何か奇妙な縁を感じ、いつかこの地を再訪したいと思い続けてきたといいます。

 2015年にカナダを旅することになったとき、かつて自分が歩いたルートはもちろんですが、今度はカナダの歴史が始まった東海岸から旅を始めることにしました。

 カナダは先住民と移民によってできた国ですから、その歴史は移民の歴史であるといっても過言ではありません。

 2017年はカナダ建国150周年に当たりますが、それは東海岸に上陸した移民たちが、北米大陸を横断して西部に至り、国を形づくった歴史の頂点でもあります。

 そのルートを辿ることによって、カナダの移民史を肌で感じると共に、日本とも無関係でない移民について肌の温感で考えたかったといいます。

 強烈な個性をもつ隣国アメリカと比べて、カナダは大自然以外あまり印象に残っていません。

 しかし2015年に中道左派の自由党から、当時43歳のジャスティン・トルドーが首相に就いたことは、日本でも広く報道されました。

 そしてアメリカで保守の権化、ドナルド・トランプが大統領になったことで、アメリカとの違いがより鮮明になりました。

 2015年から2年かけて、実質6ヵ月、東西南北約1万キロを旅することになりました。

 プリンス・エドワード島からトロントまでは自転車で、トランス・カナダ・トレイル=カナダの歴史街道を走り、その後はバス、鉄道、レンタカーなどあらゆる交通手段を駆使しました。

 2015年5月に、日本からトロント経由でプリンス・エドワード島に着いたときには、深夜1時になっていました。

 プリンス・エドワード島は、日本人にとって”赤毛のアン”で馴染みある島ですが、同時にカナダの歴史の中で重要な島でもあります。

 人口は14万人ほどで、島がそのままプリンス・エドワード島州となっており、カナダの中ではもっとも人口が少ないです。

 1526年以降、フランスのフランソワ1世が探検家ジャック・カルティエをしばしばカナダに派遣し、セントローレンス川流域を探検させました。

 プリンス・エドワード島は、1543年にカルティエによって発見され、16世紀半ばにこの地はフランス領となりました。

 1608年にフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランが、セントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地を創設しました。

 ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿は、1627年にヌーベルフランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ねました。

 1642年にはモントリオールにも植民拠点が創設されましたが、植民地経営はなかなか発展せず、ルイ14世のもとで植民地を王領としました。

 1682年にド・ラ・サールがミシシッピ川流域をフランス領と宣言し、1712年にヌーベルフランスはメキシコ湾にいたるルイジアナ植民地にまで拡大しました。

 しかし、この頃から世界各地で英仏の対立が激化し、英国のアメリカ植民地との間に一連の北米植民地戦争が開始されました。

 この一連の抗争の最後の七年戦争が勃発すると、ニューイングランドの英軍はケベックを襲撃し、1759年に英仏両軍はアブラハム平原で激突しましたが、仏軍の大敗に終わりケベックは英軍の占領下に置かれました。

 1763年のパリ条約でフランスはカナダの植民地を放棄し、ケベックは正式に英領となりました。

 英国議会は1774年に、フランス民法典とカトリック教会の存続を容認するケベック法を制定しました。

 これは今日までケベックにフランス色が残る決定的な役割を果たしました。

 翌年アメリカ独立戦争が勃発し、アメリカ大陸議会がカナダ住民に革命への参加を呼びかけてきましたが、フランス系住民は応じませんでした。

 モンゴメリー将軍率いるアメリカ革命軍はモントリオールを占領し、ケベック市に迫りましたが撃退されました。

 1783年に戦争が終結し、アメリカ合衆国が成立すると、アメリカのロイヤリストは国内に残ることを嫌い、ノバスコシアやケベック東部に大挙して移住しました。

 1793年にアレグサンダー・マッケンジーがロッキー山脈を越えて大陸横断に成功し、英領カナダの領域は西方にも拡大していきました。

 1812年の米英戦争が勃発すると、カナダは再び米国軍の占領の脅威を受けましたが、上カナダにおける米軍の侵攻は撃退されました。

 南北戦争後のアメリカが産業革命によって急速に発展を始めると、再びアメリカによるカナダ併合の危機が高まりました。

 英国議会はカナダを統一するため、1867年に英領北アメリカ法を制定し、両カナダやノバスコシア、ニューブラウンズウィックなどを併せた自治領カナダ政府を成立させました。

 この立法によってカナダは英連邦の下で自治権を有する連邦となり、オタワに連邦首都が置かれましたが、外交権はまだ付与されませんでした。

 ジョン・A・マクドナルドが初代連邦首相に就任し、通算19年間在任しました。

 この時代のカナダは新興の意気に燃える発展期でした。

 1871年にはブリティッシュ・コロンビアも自治領政府に参加し、1885年カナダ太平洋鉄道が完成しました。

 大西洋岸と太平洋岸が結ばれた1905年までには、西部地域の発展によりノースウェスト準州からマニトバ州とサスカチュワン州が成立しました。

 1926年にイギリスはカナダに外交権を付与し、英国議会は1931年に英連邦諸国は共通の国家元首に対する忠誠心で結びついているだけであると決議しました。

 このウェストミンスター憲章によって、カナダは実質的には独立を達成したとされます。

 プリンス・エドワード島はカナダが独立する際、カナダ建国会議が開かれたという由緒ある歴史の島です。

 もともとは先住民ミクマック族が暮らしており、島はアビグウェイト=波間に浮かぶ揺りかごという、ロマンチックな名で呼ばれていました。

 1864年に、ノバスコシア、ニューブランズウィック、プリンス・エドワード島の3植民地による沿海同盟が企画され、シヤーロツトタウン会議が開催されました。

 そこにカナダ建国を目指すオンタリオとケベックの連合カナダが参加することになり、当初は沿海同盟の会議だったものが、カナダ連邦政府の設立を目指す会議になりました。

 この記念すべき第一回会議がプリンス・エドワード島で聞かれたことから、後にプリンス・エドワード島は連邦結成の揺りかごと呼ばれるようになりました。

 しかしプリンス・エドワード島政府は、連合カナダにオブザーバーとして参加を認めただけで、カナダ連邦への参加を頑なに拒んでいました。

 プリンス・エドワード島は、カナダの中でもイギリス本国の伝統と文化を重視する島だったからです。

 その後もケベックなどで引き続き会議は行われ、1867年7月1日に連邦政府が発足しましたが、それでもプリンス・エドワード島は参加しませんでした。

 島内で強引に進められた鉄道建設で島の経済が破綻状態になって、カナダ連邦からの援助を受けるようになると、ようやく1873年にカナダ連邦に参加することになりました。

 沿岸部ではニューファンドランドが参加に否定的で、ニューフアンドランドがカナダ連邦に参加したのは1949年と、つい最近のことです。

 1年目はプリンス・エドワード島からウィニペグまで、2年目は東端の地ニューファンドランドを起点に、鉄道でトロントからバンクーバー、さらに北上して北極圏のタクトヤクタックまで踏破しました。

 カナダ全土に張り巡らされたトランス・カナダ・トレイルという古い街道や、廃線になった線路跡などのトレイルを自転車でめぐりました。

 また、建国の礎となった大陸横断鉄道に乗って西海岸に到達し、先住民と共にユーコンで狩りをしたりしました。

 1万キロ以上6ヵ月に及ぶ、長いようで短い旅が終わりました。

 旅を終えて思ったのは、カナダは多様性と共生する国であるということであるといいます。

 同じく移民大国である隣国アメリカで、人種による分離と対立が深刻な社会問題となっていることを思えば、カナダは世界でもっとも移民政策が成功している国です。

 医療費は無料で、高校までの授業料も免除されていますが、そのぶん税金が高く設定されています。

 大富豪が生まれにくい代わりに、貧困層は手厚い福祉で保護されています。

 資本主義にあって、社会主義の良さも取り入れた独特な政策です。

 独立心旺盛なケベックや、先住民問題なども抱えていますが、それらを考慮しても、カナダという国の魅力に陰りは見えないといいます。

 島国日本とはあまりに地理的・歴史的背景が違いますが、外国人労働者などの受け入れや、貧困などの社会問題の対処について、カナダから学ぶべき点は多いといいます。

第一章 カナダ史の始まり/第二章 フランス語圏を旅する/第三章 トロントから大陸横断鉄道へ/第四章 ウィニペグからアルバータ/第五章 ロッキーを越えてバンクーバーへ/第六章 北極海への縦走

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Last updated  2021.01.16 07:24:27
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