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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2021.02.20
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 本田覚庵と本田定年の親子は、自らの足跡を少々自分の手で書き遺しています。

 この二人が綴った記録を中心に、その生涯を追いながら、江戸時代末から維新期を経て民権期に至るまでの時期をたどるといいます。

 ”江戸の村医者 本田覚庵・定年親子の日記にみる”(2003年2月 新日本出版社刊 菅野 則子著)を読みました。

 江戸時代後期から明治初年にかけて、絶えず村政の中心にありながら、地主としてまた家業の医者として、地域の医療活動に関わり、明治期にはいると民権運動に身を投じた本田家の人びとを紹介しています。

 覚庵と定年の二人は、親と息子、江戸と明治、村医者と民権家、というように一見すると対照的な存在のようにみえます。

 二人の日記も見方によっては対照的で、覚庵は日々の出来事をほとんど感情を交えることなく淡々と綴っている一方、定年は折にふれては感情を吐露しています。

 近藤勇・寺門静軒らとも交流のあった医者であり文人の父と、民権家として奔走した息子が、新時代の到来をどう受けとめたか、幕末から明治へという時代の転換期を駆けぬけた父と子の姿を描いています。

 菅野則子さんは1939年東京生まれ、1962年に東京女子大学文理学部を卒業し、1964年に東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程を終了しました。

 1993年に幕末農村社会史研究で都立大学博士(史学)となり、一橋大学経済学部助手を経て、帝京大学文学部教授を務め、2010年定年退任し、現在、帝京大学名誉教授です。

 明治維新を境に、それまでの人びとを取り巻く状況がめまぐるしく転換しました。

 支配の仕組み、生活基盤、生活様式、人びとの価値観、何から何までが大きな変化を遂げていきました。

 しかし、この変化は決して成り行きに任せてなったものではありません。

 そこにはきわめて確然とした人為が働いていました。

 そしてこの移行期に多くの人びとは、それぞれに思いをめぐらせていました。

 農民は農民なりに、町人は町人なりに、藩士は藩士なりに、大名は大名なりに、朝廷は朝廷なりにです。

 現在の東京・多摩地域の農村史料をみると、その当時の上層農民同士がたがいに親戚関係にあることが多いです。

 こうしたつながりをもつ上層農民の人たちは、いわゆる豪農層とよばれました。

 広くは中間層として位置づけられるこうした人たちは、広範なネットワークの中にあって、どのようにこの時代と対峙していったのでしょうか。

 当時、絶えず村政の中心にありながら、地主として、また家業の医者として地域の医療活動に関わり、明治期にはいると民権運動に身を投じ、それらを通して広範な人びとと交流をもっていた人がいました。

 豪農とも中間層の一員としても位置づけられる、本田家の人びとです。

 本田覚庵と本田定年の親子は、自らの足跡をわずかではありますが自分の手で書き遺している。

 本書は、この二人が綴った記録を中心に、その生涯を追いながら、江戸時代末から維新期を経て民権期に至るまでの時期をたどっています。

 本田家が谷保村と関わりを持つようになるのは、17世紀前半の四代源右衛門定之の時からです。

 本田家の始祖は本田定経で、上毛白井、現、群馬県にあったといいます。

 しかし、何らかの理由で定経は天正年間に越後国鮫ケ尾城で戦死し、一子源兵衛定寛、本田家二代の別名定弘が、母とともに武州川越、現埼玉県川越市に移住しました。

 定之は馬術を修めるとともに調馬師となり、徳川三代将軍家光から四代家綱の頃まで幕府の厩舎に勤めていました。

 そのころから馬の調教と獣医とを家業にするようになり、三代源兵衛定直を経て、四代の時、寛永年中に谷保の現在地へ移り、以後代々の時をこの地でかさねることとなりました。

 五代文左衛門定保は、同じ家業を以て広島藩松平家に仕えて十人扶持を受けるなど、村との関わりもまだそれほど深いものではありませんでした。

 定保の跡を継いだ六代市三郎重鐙は石田新田を拓きました。

 江戸中期までの本田家は、馬の調教や獣医を家業とし、幕府や広島藩に勤仕するほどの家柄でした。

 七代源之丞定庸は下谷保村の関家から入っており、この頃から徐々にこの土地に定着し、地主としての成長を開始し、八代源太郎定雄を経て幕末に至るまで着実に土地を集め大地主となっていきました。

 本田家がいつ頃から医家として活動を始めたのかはわかりませんが、村医者としての活動がはっきりとするのは九代孫三郎定緩からです。

 18世紀末から19世紀前半には、すでに村医者として近隣に知れわたった存在であったようです。

 本田家の屋号となる「大観堂」も定緩の時に名乗り始めて、称した「孫三郎」が、以後、本田家の当主の通称となりました。

 以後、十代定位、十一代定済(覚庵)、十二代東朔、十三代定年(退庵)とこれを受け継ぎ、1886年に定年が弟定堅に医業部分を譲って別家させるまで、本田家は、谷保村の唯一の村医者として活躍しました。

 本田覚庵は江戸時代の武蔵国多摩郡下谷保村、現在の東京都国立市谷保の地主・在村医で、通称は孫三郎、名は定済・定脩、号は謙斎・安宇楼・楽水軒です。

 1814年に谷保村の大地主本田家の貫井村新屋分家に生まれ、母方の実家でもある本家本田孫三郎の養子となりました。

 覚庵は1832年に江戸に出て、麹町の産科医に入門し、本草学・鍼灸を学び、多和田養悦の輪読会に参加し、丸薬の調合に従事し、武家屋敷への往診に同行しました。

 同年に養父昂斎の病気を伝える飛脚便があり、急遽帰郷しました。

 1833年2月13日に昂斎、1834年11月13日に祖父随庵の死を見届け、1837年頃医業を開始しました。

 近隣地域や是政(府中市)、国分寺(国分寺市)、貫井(小金井市)、砂川(立川市)、日野(日野市)に往診し、産科を専門として難産や流産の後始末に立ち会ったといいます。

 本田定年は明治時代の地方行政官・民権家・書家で、通称は孫三郎、号は退庵です。

 武蔵国多摩郡下谷保村名主、神奈川県第十大区一小区戸長、北多摩郡役所書記を務めました。

 書記時代は公務の傍ら自由民権運動に関わり、晩年は東京に書法専修義塾を開いて書道を教えました。

 1865年2月21日に父覚庵、1867年9月15日に兄東朔が急死して急遽家督を継ぐことになりました。

 医術は未熟だったため、伊豆国賀茂郡長津呂村から覚庵の同門武田宗堅を招いて医業を任せ、診療収入を宗堅のものとする代わりに無償で医業を学びました。

 公務に忙殺される中、医術開業試験で必修となった西洋医学を学ぶ時間もなく、医業の継続を断念し、1875年に宗堅を帰郷させ、昭和初期まで婦人病薬黒竜散を製造販売しました。

 1886年に谷保村・青柳村・本宿村・四ツ谷村・中河原村連合戸長となりましたが、1ヶ月で辞任し、三男定寿に家督を譲りました。

 この二人には共通するものも少なくなく、村政をリードしていく村役人として、村内一の地主として、地域の文人として、新時代の到来とどのように絡み合っていったのでしょうか。

 二人のたどった道筋を通して、支配が幕府から新政府に転換された多摩に生きた人びとの時代感覚をも捉えることができたらといいます。

一章 谷保村に生きた本田家の人びと/(一)江戸時代の谷保村/(二)本田家の系譜/(三)遺された本田家の蔵書/(四)家族と経営/(五)地主として/(六)村役人として
二章 村医者・本田覚庵の生涯/医の昔と今「覚庵日記」/(一)覚庵と江戸/(二)村に生きた覚庵/(三)覚庵がみた幕末の政治社会情勢/(四)多彩な人びととの交流/(五)覚庵の死
三章 文明開化・自由民権と本田定年/(一)定年と維新/(二 定年の文化活動/(三)村のリーダー・定年/(四)活躍する民権家・本田定年
終章/時代の転換/「自由の権」/新時代に向けての人材/「官」と「民」/ほんとうの「開化」とは
参考文献

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江戸の村医者 本田覚庵・定年父子の日記にみる [ 菅野則子 ]






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Last updated  2021.02.20 07:49:23
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