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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2021.08.17
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 江戸時代の身分は世襲で固定されていたといわれますが、実際には自在に身分をまたぐ人々が全国に大勢いました。


 同義語として、壱人弐名、一鉢両名、一身両名などがあります。

 ”壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分”(2019年4月 NHK出版刊 尾脇 秀和著)を読みました。

 一人の人間が二つの名前と身分を同時に保持して使い分け、百姓でありつつ武士でもあったりする壱人両名について、融通を利かせて齟齬を解消することを最優先した江戸時代特有の秩序冠を解説しています。

 「壱」(「壹」)と「一」とは全くの別の漢字ですが、古来通用されますので、一人両名などの表記も当然混用されます。

 数値の表記でも「壱」を一般的に使用し、幕府の文書でも壱人両名の表記が多いです。

 著者は、最も代表的な表記であった「壱人両名」を、これらを総称する学術用語として使用しています。

 ちなみに壱人両名という言葉は今ではすっかり死語で、一般の辞典には載っていません。

 しかし「日本国語大辞典」(第二版)という、現在日本最大規模の辞典ともなると、「一人両名」という項目で、「一人で二つの名を持っていること」という意味が掲載されています。

 百姓が、ある時は裃を着て刀を差し、侍となって出仕する-周囲はそうと知りながら咎めず、お上もこれを認めています。

 なぜそんなことが、広く日本各地で行われていたのでしょうか。

 尾脇秀和さんは1983年京都府生まれ、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程を修了し、京都近郊相給村落と近世百姓で博士(文学)号を取得し、現在、神戸大学経済経営研究所研究員、佛教大学非常勤講師です。

 江戸時代の身分はピラミッド型の士農工商で、一生変えられないと考えられてきました。

 しかし、ある時は侍、ある時は百姓、と自在に身分を変える名もなき男たちが、全国に無数にいたといいます。

 江戸時代は身分制度で身動きのできない窮屈な時代だったという概念を、根底から覆すこととなるでしょう。

 なぜ別人に成りすますのでしょうか、お上はなぜそれを許容したのでしょうか。公家の正親町三条家に仕える大島数馬と、京都近郊の村に住む百姓の利左衛門の二人は、名前も身分も違いますが実は同一人物です。

 それは、時間の経過や環境の変化で、名前と身分が変わっだわけではありません。

 大小二本の刀を腰に帯びる帯刀にした姿の公家侍の大島数馬であると同時に、村では野良着を着て農作業に従事するごく普通の百姓の利左衛門でもありました。

 いわば一人の人間が、ある時は武士、ある時は百姓という、二つの身分と名前を使い分けていたのです。

 江戸時代中期以降、様々な壱人両名が、江戸や京都などの都市部から地方の村に至るまで、あちこちに存在していたことが確認できるといいます。

 伊勢国の、とある村の百姓彦兵衛は、別の村では百姓仁左衛門でもありました。

 武蔵国のとある村に住む神職村上式部は、その村の百姓四郎兵衛でもありました。

 近江国大津の町人木屋作十郎は、別の村では百姓清七でもありました。

 陸奥盛岡藩士の奈良伝右衛門は、同藩領の富商・佐藤屋庄六でもありました。

 幕府の御家人である河野勇太郎の父河野善次郎は、江戸の町の借家で商売を営む町人の善六でもあったなどなど。

 これらは、子供の留吉が成人して正右衛門に改名したというような、時間の経過などによって名前や身分が変化し移行したのではありません。

 ある時は佐藤屋庄六でありつつ、またある時は奈良伝右衛門でもあるといったように、一人で二つの名前と身分を、同時に保持して使い分けていました。

 「士」であると同時に「商」でもあるなんて、絶対にいるはずのない存在ですが、現実にはそれは広範に存在していました。

 壱人両名の存在は、幕府の公的な記録でも、百姓・町人らの私的な記録でも、覆しようのない明白な事実として確認できるといいます。

 いつの時代も世の中は、原則や綺麗ごとや建前だけでは成り立ちません。

 どんな物事にも本音と建前があり、表と裏があります。

 表だけ建前だけを見たのなら、江戸時代は身分が厳格に固定されていて流動性に乏しい姿しか見えてきません。

 しかし、本音と建前、表と裏の両方を見た時、壱人両名のような存在が、全く否定しようのない事実として浮かびあがってくるといいます。

 数多の壱人両名の男たちは、誰もが知っている、名のある歴史上の人物ではなく。名もなき者たちです。

 壱人両名というあり方に注目した時、長い期間、変わらなかったように見える江戸時代の社会、とりわけ身分の固定とか世襲とかいわれているものの、本当の姿が見えてきます。

 江戸時代、一般庶民にとっての士農工商という言葉は、社会を構成する諸々の様々な職種の総称です。

 この四種類しか身分・職種がないとか、あるいは士・農・工・商という四段階の階級序列だとかいう意味ではありません。

 世の中は、政治をする人、食糧生産に従事する人、服を作る人、物を交易する人など、様々な職種の存在によって成り立っています。

 政治もして、米も野菜も作り、魚も獲って、服も作る、などを一人でこなすことはできません。

 ですから、ある程度の文明が形成された社会では、分業によって社会が構成され、人はその社会の一員として、果たすべき役割を担うようになります。

 江戸時代における士農工商は、そのような社会的分業と、それによる人々の差異を当然あるべき状態とする前提のもと、一般には肯定的な意味で使われていた言葉です。

 江戸時代の人々は、このような社会的分業意識に基づいて、現在自分が受け持つ役割に精勤し、その役割を次代に継承させていけば、現状通り社会は安定し、自分も、家も、国も繁栄し続けるという価値観を持っていました。

 その社会の安定には、各自がその役割を果たす上での、秩序も必要不可欠となります。

 特に治者と被治者、君臣・父子・夫婦・兄弟・長幼など、その人の社会的立場に基づく上下の差別も重視されました。

 上位者は下位者への慈愛、下位者は上位者への敬意を求められ、その逸脱はあるまじき行為とされる社会でした。

 それゆえ、その地位・役割に相応しい行動と、務めを果たす分相応の生き方が美徳とされました。

 江戸時代の社会は差(たが)いと別(わか)ちがあることを大前提として、それを肯定した上に成り立っていた社会です。

 江戸時代は、近現代社会とは異なる価値観や仕組みで成り立ち、人々はそれを当然として生きていました。

 現代社会での差別(さべつ)という言葉は、理不尽で不当な扱いを受ける、絶対的な悪としての意味で使われます。

 江戸時代の差別(しゃべつ)は、太陽と月は違うとか、犬と猫は違うとかいうような、当たり前の物事の差異や区別を意味する言葉でした。

 社会的分業と分相応の意識と相まって、差別は社会を安定させる秩序そのものでもあり、ほとんど肯定的な意味でしか使われていませんでした。

 江戸時代と現代とで、字面も訓みも全く同じ言葉が使われていたとしても、その意味が同じでないことも多いです。

 ゆえに過去の史料に見える言葉を、現代社会の語感や意味で読みとらないよう、十分注意せねばなりません。

 検討する時代においてその言葉がどのような意味で使われていたかについて、当時の価値観や社会構造に即して、その時代における意味を正確に踏まえる作業が、歴史学の研究において考察の前提として重要です。

 現代人から見ると、壱人両名の状態は奇妙で面白く見えます。

 名前だけでは別人ですが実は同一人物、ある時は武士、またある時は町人だなんて、事実は小説よりも奇なり、という感じがします。

 ですが、別に他人を面白がらせようと思って、そんなことをしているのではありません。

 そこにはどんな理由があったのでしょうか。

 壱人両名を考えることは、江戸時代はどんな社会だったかを明らかにする、一つの視点ともなるのです。

 事実ありのままではなく建前を重視した処理は、百姓・町人たちばかりではなく、大名が幕府に対して行う手続きにおいても慣行化していました。

 例えば大名には、生前に相続者を選定して幕府に届け出ておかねばならない規則がありました。

 届け出がない状態で大名の当主が死ねば相続は認められず、原則としてその大名家は断絶となります。

 しかし実際はそんな状態で当主が死んだ場合、家臣や親族たちがなお当主存命の体を装って、当主が病床から後継者を届け出るという手続きを行いました。

 つまり、死ぬ前にちゃんと届け出ていたという状況を建前として作り出すことで、無事に相続が認められたのです。

 このほか、相続人として幕府に届け出ている長男が死んだ場合、次男を長男本人ということにしてこれとすり替えた事例があります。

 また、当主が17歳未満で死去すると相続が認められないという先例上の規則を意識して、幕府に実年齢とは異なる年齢を届け出る年齢操作が、様々な事情によって常態化していました。

 これらはいずれも「公辺内分」と呼ばれ、幕府には一切秘密裏に進められました。

 しかしその内情は、実は幕府も承知の上であり、表向き知らない体で黙認していたのです。

 真実なるものは、平穏な現状を犠牲にしてまで、強いて白日の下に曝される必要はありません。

 事を荒立てることなく、世の中を穏便に推移させることこそが最優先されるべきであり、秩序は表向きにおいて守られていればよいのです。

 そのように考えて、うまく融通を利かせて調整・処理するのが、長い天下泰平の期間に醸成されていきました。

 これが江戸時代の秩序観なのであり、壱人両名はその秩序観に基づいた顕著な方法であったといえます。

 特に非合法とされた壱人両名は、事実に即せば明らかに、支配される側の下位の者が、支配する側たる上位の者に虚偽の申告を行っている行為です。

 ですが支配側が、それをうまいことやっているだけだとして黙認していることも多いです。

 ただ何かしらの要因でそれが表沙汰になった場合、その事実は、上下の差別を重視する社会の秩序に反しますから、処罰せざるを得ないだけのことなのです。

 江戸時代の社会秩序は、極端に言えば、厳密に守られている必要はない、ただ建前として守られているという体裁がとられていることを重視するのです。

 壱人両名は、このような江戸時代の秩序観に基づきつつ、社会の秩序を表向き維持して、波風を立てず現実的に推移させる、作法・慣習の一つでした。

 社会構造が国民を一元的に管理する近代国家への改変に伴って否定されて変化し、作法・慣習としての意味を喪失し、国家に不都合な偽詐として消滅させられていきました。

 それは暗黙の了承下で行われていた調整行為であったがゆえに、やがて人々の記憶からも綺麗に忘れ去られていきました。

 けれども、壱人両名を作り出していた本音と建前のあり方、特に建前的な調整行為を是とする秩序観は、現代社会でも変わらないものではないでしょうか。

序 章 二つの名前をもつ男/一章 名前と支配と身分なるもの/第二章 存在を公認される壱人両名-身分と職分/第三章 一人で二人の百姓たち-村と百姓の両人別/第四章 こちらで百姓、あちらで町人-村と町をまたぐ両人別/第五章 士と庶を兼ねる者たち-両人別ではない二重身分/第六章 それですべてがうまくいく?-作法・習慣としての壱人両名/第七章 壊される世界-壱人両名の終焉/終 章 壱人両名とは何だったのか/主な参考文献・出店史料

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Last updated  2021.08.17 15:55:35
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