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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2021.08.25
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婆娑羅=ばさらは、日本の中世、主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉で、実際に当時の流行語として用いられました。


 語源はサンスクリット語で、”vajra (伐折羅、バージラあるいはバージャラ)= 金剛石(ダイヤモンド)を意味していました。


 ”婆娑羅大名 佐々木道誉 ”(2021年4月 文藝春秋社刊 寺田 英視著)を読みました。


 元弘の乱から建武中興の争乱が生んだ自由奔放な武人といわれ、室町幕府の要職につき守護となり権勢をふるい、入道して道誉と号し佐渡大夫判官入道といわれた、佐々木道誉の生涯を紹介しています。


 平安時代には、雅楽・舞楽の分野で、伝統的な奏法を打ち破る自由な演奏を婆娑羅と称するようになりました。


 身分秩序を無視して実力主義的で、公家や天皇といった名ばかりの権威を軽んじ、奢侈で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識でした。


 鎌倉時代末期以降、体制に反逆する悪党と呼ばれた人々の形式や常識から逸脱して奔放で人目を引く振る舞いや、派手な姿格好で身分の上下に遠慮せず好き勝手に振舞う者達を指すようになりました。


 室町時代初期、南北朝時代に流行し、後の戦国時代における下克上の風潮の萌芽となりました。


 源氏足利将軍執事で守護大名の高師直兄弟や、近江国守護大名の佐々木道誉(高氏)、美濃国守護大名の土岐頼遠などは、ばさら的な言動や行動でばさら大名と呼ばれ、ばさらの代表格とされています。


 佐々木道誉は、足利幕府草創期の不動の重臣であり歴戦の強者でもあり、若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護でありまあした。


 華道、香道、茶道、連歌、そして能・狂言まで、現代日本人の美意識の源流はこの男にあったといいます。


 寺田英視さんは、1948年大阪府生れ、上智大学文学部史学科を卒業し、文藝春秋社に入社後、主として編輯業務に携わり、2014年に退社しました。


 在学中から武道に親しみ、和道流空手道連盟副会長・範士師範を務めています。


 佐々木道誉は佐々木高氏のことで、一般的に佐々木佐渡判官入道、佐々木判官、佐々木道誉の名で知られ、道誉(導誉)は法名であり実名は高氏です。


 鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極道誉または京極高氏とも呼ばれます。


 初めは、北条氏得宗家当主で鎌倉幕府第14代執権の北条高時に御相伴衆として仕えました。


 1331年に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、京を脱出して笠置山に拠った元弘の乱では、道誉は幕府が編成した鎮圧軍に従軍しました。


 捕らえられた後醍醐天皇は廃され、1332年に供奉する阿野廉子・千種忠顕らと共に隠岐島へ配流された際には、道誉が道中警護などを務めました。


 後醍醐帝を隠岐に送り出し帰京したのち、後醍醐の寵臣で前権中納言の北畠具行を鎌倉へ護送する任にあたります。


 しかし道中の近江国柏原で幕府より処刑せよとの命をうけ、同年6月19日に具行を処刑しました。


 後醍醐配流後も河内の楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦い、後醍醐も隠岐を脱出して伯耆国船上山に立て籠りました。


 1333年に幕府北条氏は、下野の足利高氏、後の尊氏らを船上山討伐に派遣しました。


 しかし高氏は幕府に反旗を翻し、丹波国篠村で反転して京都の六波羅探題を攻略しました。


 この時期の道誉自身の動向については良く解っていませんが、足利高氏と道誉が密約して連携行動を取ったことを示す逸話があります。


 足利尊氏、上野の新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、入京した後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、六角時信や塩冶高貞ら他の一族と共に雑訴決断所の奉行人となりました。


 尊氏が政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった新政に対しては、各地で反乱が起こりました。


 1335年には、信濃において高時の遺児である北条時行らを擁立した中先代の乱が起こり、尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した時行勢の討伐に向かう尊氏に道誉も従軍しました。


 時行勢を駆逐して鎌倉を奪還した尊氏は独自に恩賞の分配を行うなどの行動をはじめ、道誉も上総や相模の領地を与えられました。


 後醍醐天皇は鎌倉の尊氏に対して上洛を求めましたが、新田義貞との対立などもありこれに従わず、遂には義貞に尊氏・直義に対する追討を命じた綸旨が発せられました。


 しかし、建武政権に対して武家政権を樹立することを躊躇する尊氏に、道誉は積極的な反旗を勧めていたともされます。


 建武の乱では、足利方として駿河国での手越河原の戦いに参加しましたが、新田義貞に敗れ弟の貞満らが戦死しました。


 道誉自身は義貞に降伏し、以降新田勢として従軍して足利方と争いましたが、箱根・竹ノ下の戦いの最中に新田軍を裏切り足利方に復帰しました。


 この裏切りにより新田軍は全軍崩壊し敗走し、道誉を加えた足利方は新田軍を追い京都へ入り占拠しました。


 しかし、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利軍は京都を追われ、兵庫から九州へと逃れました。


 この時、道誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされます。


 九州から再び東上した足利軍は湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して京都へ入り、比叡山に逃れた後醍醐天皇・義貞らと戦いました。


 道誉は東から援軍として来た信濃守護小笠原貞宗と共に、9月中旬から29日まで補給路である琵琶湖を近江国を封鎖する比叡山包囲に当たりました。


 やがて尊氏の尽力で光明天皇が即位して北朝が成立し、尊氏は征夷大将軍に任じられて室町幕府を樹立し、後醍醐天皇らは吉野へ逃れて南朝を成立させました。


 道誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任しました。


 1337年に、勝楽寺に城を築き、以降没するまで本拠地としました。


 1340年に長男の秀綱と共に白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちし、山門宗徒が処罰を求めて強訴しました。


 朝廷内部でもこれに同情して幕府に対し道誉を出羽に、秀綱を陸奥に配流するように命じました。


 ところが、幕府では朝廷の命令を拒絶、結果的に道誉父子は上総に配流されました。


 山門に悩まされる尊氏・直義兄弟には、道誉を罰するつもりなど毛頭無かったものと推察されています。


 翌年、何事もなかったかのように幕政に復帰し、引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行いました。


 1348年の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍し、帰還途中に南朝に奇襲を受け次男の秀宗が戦死しました。


 室町幕府の政務は当初もっぱら弟の直義が主導しましたが、1350年から観応の擾乱と呼ばれる内部抗争が発生しました。


 道誉は当初師直派でしたが、擾乱が尊氏と直義の兄弟喧嘩に発展してからは尊氏側に属しました。


 南朝に属し尊氏を撃破した直義派が台頭すると、1351年に尊氏・義詮父子から謀反の疑いで播磨の赤松則祐と共に討伐命令を受けました。


 これは陰謀であり、尊氏は道誉を討つためと称して京都から近江へ出兵し、義詮は則祐討伐のため播磨へ出陣し、事実上京都を包囲する構えで、父子で京都に残った直義を東西から討ち取る手筈でした。


 しかし、事態を悟った直義は逃亡しました。


 道誉は以後も尊氏に従軍し、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言しました。


 尊氏がこれを受けた結果正平一統が成立し、直義は失脚し急逝しました。


 1358年に尊氏が薨去した後は、2代将軍義詮時代の政権において政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停しました。


 この頃、道誉は義詮の絶大な支持のもと執事の任免権を握り、事実上の幕府の最高実力者として君臨しました。


 婆娑羅を一身に体現したのが佐々木道誉です。


 婆娑羅は何よりも誰よりも、道誉と結びついています。


 道誉の家すなわち佐々木家、京極家は、宇多天皇の孫雅信王に出自し、近江を根拠地とする宇多源氏です。


 鎌倉時代には、京において検非違使を務める家でもありました。


 婆娑羅大名と言えば高師直や土岐頼遠の名もすぐに浮びますが、彼らが時を得顔にふるまうのは一時で、戦上手ではありますが、美意識と教養の広さ深さにおいては、遥かに道誉に及ばないでしょう。


 道誉に象徴される婆娑羅とは、単なる乱暴者の所業をいうのではありません。


 日本人の美意識と深くかかわる何かがそこに潜んでいます。


 婆娑羅の内実は、能狂言から茶の湯、立花、聞香、連歌にまで及びます、


 幅広い文化の享受者であり、庇護者であり、指導者でもありました。


 本書で、南北朝という動乱と向背常なき時代を生き抜いた道誉の婆娑羅ぶりを通して、自由と狼籍の間に潜む日本人の出処進退と美的感覚を瞥見しています。


 人間という社会的存在にとって永遠の難問である自由、すなわち根源的主体性の在処を垣間見る小さな足掛かりを得たいと願うといいます。


 第一章と第二章は、道誉が生きた時代背景と出自についての概略です。


 面倒であれば第三章の道誉の婆娑羅ぶりから読み始めて下さってもよいとのことです。


 興味の赴くままにお読み戴ければ、著者としては十分満足であるといいます。


はじめに 名物道誉一文字/第1章 佐々木氏の出自と家職、そして若き日の道誉/第2章 動乱の時代ー両統迭立と三種の神器/第3章 婆娑羅ーその実相と文化人道誉(妙法院焼討/立花/聞香/連歌/能狂言/茶寄合/楠木正儀と道誉/大原野の大饗宴/肖像自賛と道誉の死)/第4章 婆娑羅から傾奇へー変容と頽廃/第5章 根源的主体性と自由狼藉の間/あとがき 主要参考文献 佐々木道誉略年譜と関連事項


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Last updated  2021.08.25 06:40:44
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