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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2021.12.18
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 百福と結婚後、夫の投獄、事業の失敗、財産喪失など、度重なる不運を乗り越えて、世紀の発明と呼ばれるインスタントラーメン「チキンラーメン」が完成するまで夫を支え、その生涯を共に生き続けました。

 ”チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子”(2018年9月 中央公論新社刊 安藤百福発明記念館編)を読みました。

 激動の時代に何度失敗しても諦めずに復活を果たしてきた、波乱万丈の日清食品創業者・安藤百福の妻として、夫をひたすら支えた仁子の生涯を紹介しています。

 その人生は、2018年10月から2019年3月まで放送された第99作目のNHK連続テレビ小説「まんぷく」の主人公の1人、立花福子のモデルとなりました。

 「まんぷく」は2017年11月14日に制作発表が行われ、インスタントラーメンを生み出した日清食品、現在の法人格としては日清食品ホールディングス創業者の安藤百福と、その妻・仁子の半生をモデルに、懸命に生き抜いた夫婦の物語でした。

 主人公・仁子に関した公開資料はほぼなかったため、このドラマのために初めて親族や友人などにインタビューし、生前の手帳や日記を元に資料が作成され、登場人物や団体名を変えてフィクションとしました。

 安藤百福発明記念館は大阪池田と横浜にあり、大阪池田は安藤百福発明記念館 横浜、愛称、カップヌードルミュージアム大阪池田と呼ばれ、横浜は安藤百福発明記念館 横浜、愛称、カップヌードルミュージアムと呼ばれています。

 大阪池田は1999年に、池田市に「インスタントラーメン発明記念館」としてオープンしました。

 2002年にはラーメン屋「麺翁百福亭」が近隣にオープンし、2008年11月末まで営業していました。

 2004年に拡張新築、展示物の拡充など改装を図り、2006年には入場者数100万人を達成しました。

 2008年に第6回世界ラーメンサミットが大阪で開催されるのを記念して、正面広場に建てられた安藤百福の銅像の除幕式が行われました。

 2017年に、施設の名称を「安藤百福発明記念館 大阪池田」、愛称:カップヌードルミュージアム 大阪池田に改称しました。

 現在、入館料は無料で、管理・運営は日清食品ホールディングス関連団体の公益財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団が行っています。

 チキンラーメンの開発がなされた研究所の小屋が再現され、ほかにもインスタントラーメンやカップヌードルの製法と改良の歴史が模型とともに展示されています。

 世界中で発売されているインスタントラーメンのパッケージの展示もあり、有料でスープの種類や各種トッピングを自分で選択するオリジナルのカップヌードルを作るコーナーがあえいます。

 横浜は広く東日本や世界に向けて安藤百福の功績を伝えるため、2番目の記念館として横浜みなとみらいに建設されました。

 2010年の安藤百福の生誕100周年と、1971年の世界初のカップラーメンの発明40周年を記念して、2011年に開設されたのでした。

 日清食品ホールディングス株式会社と、公益財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団が共同運営しています。

 ミュージアムのテーマは、生涯を食の創造開発に尽くした安藤百福の精神の、クリエーティブ・シンキング=創造的思考です。

 発明・発見の楽しさや、ベンチャーマインドの大切さを子供たちに伝えることを目的としています。

 全館、見て、触って、作って、食べる、大人から幼児まで一緒に遊んで楽しめる体験型ミュージアムとなっています。

 2012年に累計入館者数100万人を達成し、その後も、毎年100万人を超える入館者数を記録し、2019年には累計入館者数800万人を達成しました。

 安藤仁子は1917年に大阪市北区富田町に生まれ、1870年生まれの父親は重信、母親は1879年生まれの須磨です。

 父親は福島県二本松の神社の宮司の次男、母親は鳥取藩士の娘でした。

 実家の安藤家は、福島県の二本松神社の神主を務める名門で、父親は大阪で事業に乗り出す資産家でした。

 子供は三姉妹で、長女は晃江、次女は澪子、そして三女が仁子です。

 仁子は1929年に小学校を卒業し、金蘭会高等女学校入学に入学しました。

 この小学校時代、教会の英語塾にも通い、英語を学びました。

 1931年に重信の事業が失敗し、生活を支えるため14歳で大阪電話局で交換手の見習い職員となり、1年間、高等女学校を休学しました。

 一家は次姉の嫁ぎ先に転居しましたが、次姉の家も生活が苦しかったようです。

 仁子は1935年に18歳で金蘭会高等女学校を卒業し、両親とともに京都市伏見区醍醐に転居しました。

 家計を支えるため、得意な英語と、取得していた電話交換手の資格を活かして、都ホテル、現・ウェスティン都ホテル京都に就職し、正規の電話交換手として採用されました。

 1941年に太平洋戦争が勃発し、翌年25歳のとき、父親が71歳で亡くなりました。

 仁子はホテルでの働きぶりが認められ、フロント係に抜擢されました。

 ここで1944年27歳のとき、大阪で事業を手掛けていた呉百福と出会い、求婚を受けました。

 一度は仕事の未練から断ったものの、何度もにわたる求婚の末、仁子は好意を受け入れました。

 1945年に第一次大阪大空襲で百福の工場と事務所焼失しましたが、数日後、仁子は28歳で、35歳の百福と結婚し、京都・都ホテルで挙式しました。

 父方の先祖に幕末の学者の安積艮斎と歴史学者の朝河貫一がいて、このことは仁子にとって生涯の誇りでした。

 大阪府吹田市千里山に新居を構えましたが、戦局悪化により、百福、須磨とともに、兵庫県上郡に疎開しました。

 終戦後、1946年に、疎開先の上郡から戻り、大阪府泉大津市に転居しました。

 1947年に百福が泉大津の旧造兵廠跡地で製塩事業を開始し、また、名古屋市に中華交通技術専門学院を設立しました。

 製塩事業では従業員として慈善事業同然に、仕事を失った若者たちを仕事に雇い、いつしかその数は百人を超えました。

 仁子は母と共に、彼らの母親代わりになって、若者たちの面倒を見ました。

 月に1度は誕生会を開催し、アルコールにカラメルを混ぜ、ウイスキーに似せた酒を造って誕生日を祝いました。

 若者たちからは実の親以上に慕われ、小遣いの前借や、恋人とのデートのことまで相談されたといいます。

 1947年に息子の宏基が誕生し、仁子は宏基の出産後の肥立ちが悪かったのですが、百福が研究の一環で材料とした食用ガエルの肉片を食べることで健康を取り戻しました。

 これが栄養食品であるビセイクルの開発のヒントの一つとなりました。

 1948年に、百福が泉大津市汐見町に中公総社を設立し、同時に、国民栄養科学研究所を設立し、栄養食品の開発に当たりました。

 同年、百福が脱税容疑でGHQに逮捕され、巣鴨プリズンに収監され、財産没収となったため、1949年に家族は、大阪府池田市呉服町の借家に転居しました。

 仁子の母の隠し金で生活しながら、巣鴨プリズンに通い百福と面会しました。

 百福は処分取消を求めて提訴し、税務当局は司法取引を持ちかけましたが、百福は応じませんでした。

 仁子は訴訟を取り下げるように頼みましたが、夫は頑なに応じませんでした。

 収監から2年後、仁子が子供たちを連れて面会に来て、百福はその姿を見て潮時と思い、1950年に訴訟を取り下げて釈放されました。

 同年、百福が中公総社をサンシー殖産に商号変更し、休眠状態を経て、後に、日清食品として引き継がれました。

 1951年に百福は信用組合の理事長に就任し、仁子は西国三十三観音霊場の巡礼を開始しました。

 1957年に、百福が理事長をしていた信用組合が倒産し、再び全財産没収され無一文になり、池田市呉服町の自宅でチキンラーメンの開発に着手しました。

 百福が何度も麺の製造に失敗する一方で、仁子はその失敗した麺をブタの餌として販売することで、陰ながら百福を支えました。

 百福はスープを完成させた後、即席麺の開発に取り掛かりましたが失敗が続きました。

 しかし、仁子が、高野豆腐なら水を吸ってすぐ柔らかくなるのに、と何気なく言ったことがヒントとなり、麺に小さな穴を開ける方法を発案しました。

 さらに、ある日の夕食に仁子が天ぷらを揚げているのを見て、天ぷらの表面のわずかな穴を見て、麺を油で揚げて乾燥させる瞬間油熱乾燥法を発見し、世界初の即席麺チキンラーメンを完成しました。

 家族総出で製造、出荷作業を手伝い、仁子はスープ作りを担当しました。

 試作品を受け取ったアメリカからは、500ケースの注文が来ましたので、仁子たち家族総出でラーメンを作りました。

 その後、大阪市東淀川区田川通りに借りた倉庫を工場に改装し生産を開始しました。

 大阪市中央卸売市場でチキンラーメンを一食35円で発売して爆発的にヒットし、会社の商号をサンシー殖産から日清食品に変更し、本社を東区、現・中央区に置きました。

 1966年に百福が初めて海外視察し、カップヌードルのヒントを手に入れました。

 1967年のアメリカ出張の帰り、飛行機の客室乗務員からもらったマカデミアナッツの容器を持ち帰り、仁子が大切に保管していました。

 そのアルミ蒸着したフタが、のちにカップヌードル容器に採用されました。

 呉服町の借家を出て、池田市満寿美町に転居し、1968年に母親が89歳で亡くなりました。

 1971年に、百福は世界初のカップ麺カップヌードルの開発に成功し、発売を一食100円で開始しましたが、値段が高いなどの理由であまり売れませんでした。

 しかし、1972年に起きた連合赤軍の浅間山荘事件の際、カップヌードルを食べる機動隊員の映像がテレビで全国中継され、これがきっかけになって売れ始めました。

 1985年に息子の宏基が社長を継ぎましたが、百福と宏基は経営方針が違いから対立が多く、仁子が巻き添えとなりました。

 その後、百福は娘の明美から電話で諭され、仁子に謝罪したそうです。

 また宏基が仁子を思い、父の話を聞き入れ、百福もそれを受け入れ、ようやく平穏が訪れたといいます。

 仁子の晩年の楽しみは、信仰の人生の集大成といえる四国八十八箇所の巡礼と、日清食品の工場に祀った観音菩薩への日々の参拝でした。

 百福が目を患うと、目に効く寺を見つけては、必ず立ち寄って参拝しました。

 2003年86歳のとき、石田家の、石田ゆり、いしだあゆみ、石田治子らをモデルにした、NHK朝の連続テレビ小説「てるてる家族」が放送されました。

 石田家の実家は喫茶店で、仁子がよく小学校時代の子供を連れて、その店に行っていたという数奇な縁があったことから、放送では、インスタントラーメン発明の物語も放送されました。

 2005年に、百福が夢をかけて開発した宇宙食ラーメンを乗せたスペースシャトルの打ち上げ成功し、野口聡一宇宙飛行士が宇宙ステーションで食しました。

 2007年に百福が96歳で亡くなり、百福の死去から3年後の2010年に、仁子が百福を追うように92歳で亡くなりました。

 仁子の少女期や戦中の困窮期の生涯はほとんど知られていませんでしたが、没後、遺品として寝室から1冊の手帳が発見されました。

 そこに記された少女時代の思い出を土台に取材を加え、百福との結婚後のエピソード群と共に、仁子の波乱万丈の生涯をまとめ、評伝が2018年に発行されました。

序章 観音さまの仁子さん/第一章 家族~両親と三人姉妹/第二章 幼少期~女学校時代の苦しい日々/第三章 百福との出会い~戦火の中で結婚式/第四章 若き日の百福~実業家への挑戦/第五章 戦火避け疎開~混乱の時代を生きのびる//第六章 解放された日々~若者集め塩作り/第七章 巣鴨に収監~無実をかけた闘い/第八章 一難去ってまた一難~仁子、巡礼の旅/第九章 即席麺の開発~仁子の天ぷらがヒント/第十章 魔法のラーメン~家族総出で製品作り/第十一章 鬼の仁子~厳しい子育て/第十二章 米国視察~カップ麺のヒントつかむ/第十三章 仁子の愛~鬼から慈母へ/第十四章 四国巡礼の旅~百福最後の大失敗/終章 ひ孫と遊ぶ~百福少年に帰る/安藤仁子の年譜/参考文献





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Last updated  2021.12.18 07:39:08
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