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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.04.30
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 ”問題の女 本荘幽蘭伝”(2021年10月 平凡社刊 平山 亜佐子著)を読みました。

 女優、新聞記者、救世軍兵士、喫茶店オーナー、ホテルオーナー、活動弁士、講談師、劇団の座長など、転職は50回以上に及んだそうです。

 また、50人近い夫を持ち、120人以上と交際し、多彩な男性遍歴を持ったそうです。

 さらに、日本列島、中国大陸、台湾、朝鮮半島、東南アジアに神出鬼没し、明治・大正・昭和を駆け抜けたそうです。

 幽蘭は、いまでいう毛断=モダンガールの本家本元です。

 今では名前も忘れられていますが、100年前の知名度は抜群でした。

 明治40年前後の新聞には、その動静が詳しく載っています。

 仕事も数十の職業について活動の場も幅広く、人脈も右から左まで顔が広かったのです。

 著者が本書執筆のための調査に着手したのが2013年6月でしたが、いったん出版の話が消えて2年のブランクがあり、気付けば足かけ8年にわたって本荘幽蘭を追ったといいます。

 平山亜佐子さんは1970年兵庫県芦屋市生まれ、挿話収集家、デザイナーで、戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意としています。

 時代に埋もれた破天荒な女性の生き方を対象とした研究や執筆を行うほか、歌のユニットのヴォーカリストとして、明治・大正・昭和の俗謡等を発掘し紹介しています。

 既刊本に”20世紀 破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ”(2008年)、”明治 大正 昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団”(2009年)、”戦前尖端語辞典”(2021年)、”問題の女 本荘幽蘭伝”(2021年)などがあります。

 2008年に河上肇賞奨励賞を受賞しました。

 幽蘭の本名は本荘久代といい、明治2年2月18日に生まれたことはどの資料でも一致していますが、久代の少女時代の資料は少ないため、出生地については諸説があります。

 実業之世界社の雑誌”女の世界”大正9年5号には、大阪市北区中の島に生る、故郷は九州久留米市とあるといいます。

 檜垣元吉の”西日本百年の群像38”には花畑、大正時代に本人が配っていた名剌には福島県(福岡県の誤植)久留米市篠山町、鱒書房刊・綿谷雪著”妖婦伝”と大阪屋号書店刊・田中香涯G著の”愛慾に狂う痴人”には佐賀県、とあるそうです。

 著者は、当時の父の職場に近いこと、「私生児二、公生児一を生み公生児のみ生存す」の記載があり、これは本人が書いた節があることから、大阪市が出生地ではないかと考えているそうです。

 本荘家はもと500年来の旧家で代々、久留米の藩主有馬家の番頭を勤めて居たといいます。

 父は本荘一行という古い弁護士の一人で、大坂新報の創立者として当時かなりに有名な人でした。

 父は幼名を八太夫、後に一行といい、久留米藩政にも参画した切れ者です。

 法律や経済学に精通していたため、藩内のもめ事の仲裁をつとめるなどして人望を集め、維新後には実業家五代友厚の腹心となりました。

 大阪商法会議所、後の大阪商工会議所創立時に理事を務め、弁護士業の傍ら大阪新報の社主となるなど、本人も実業家として名を成しています。

 父は頗る感情家であった上に、祖母には著しい狂伴の血が流れて居たといいます。

 母に関する資料はほとんどありませんが、その名を花子と言ったらしいです。

 また、母の従兄に牧師の伴君保がいること、久代の伯父に宗教家で立教大学創設者の元田作之進がいることから、日本聖公会に縁のある家柄と思われます。

 久代には7歳上の民野(民子という資料もある)という姉がいて、15歳のときに精神の病を得たが回復し、20歳で柳河の字椿原町、現福岡県柳川椿原町に住む田中秋という人物と結婚しました。

 その後離婚して石橋六郎と再婚し、父逝去の後に石橋が本荘家の家督を継ぎました。

 久代か物心ついたときに居住していた桜の宮、現大阪府大阪市都島区の家には母も姉もおらず、父と祖母と末という元芸者の妾と、妾の両親と兄一家でした。

 ほかに、末の両親と兄一家が住んでいて、末の芸者時代の養父母と妹芸者3人が外から通っていました。

 久代が7歳の春、一家は大阪から横浜に引っ越しました。

 その1年後、民野が病気だという報が舞い込み、祖母と久代の2人か曽祖母の実家である旗崎村、現福岡県久留米市御井旗崎に向かいました。

 母は精神を病んだ4年前から民野とここに移り住んでいました。

 いま一度、民野は母と同じ病で苦しんでいて、夜も昼も大きな声を出したり、室内や庭先を走り廻ったり、物を毀したり、物凄いほど暴れ廻りました。

 そして、民野の回復を機に、祖母、母、民野、久代、雇い人2人の6人は、西久留米、現福岡県久留米市西町の本荘家の中屋敷に移りました。

 久代はここで17歳まで暮らしましたが、父からの送金は一切なく、糸紡ぎや機織り、草鮭作りなどで賃金を得てつましく暮らしたといいます。

 原古賀尋常小学校に通い、11歳の8月には敗原町の尋常高等小学校に入学しました。

 この先は女子師範学校に進み、教師や作家になって母を助けようと考えていたそうです。

 しかし、母から機織りのために学校を辞めてほしいと言われ、13歳の卒業の年に退学しました。

 そして久代が15歳になる頃、婿選びの話が持ち上がり、病気で婚期が遅れた民野の代わりに、次女の久代か婿をとることになりました。

 婿候補の真っ先に挙がったのは、母の従兄の5歳年上の吉和國雄でした。

 幼いうちに孤児となって義理の兄に育てられ、細工町、現福岡県久留米市城南町辺りの歯科医の家で勉強していました。

 おとなしく利口で、色白の美形、早朝から雇い人を手伝い夜は遅くまで勉強して戸締まりの見回りもするという実直さで、久代も好意を抱きました。

 しかし、姉の民野は夫の従兄の藤古文太郎を紹介すると言います。

 困った母が父に問い合わせると、既に決めた人間がいるという返信がきました。

 旧武士階級の家では、娘が父に従うことが不文律ではありました。

 翌年の秋、吉和國雄が訪ねてきて歯科の勉強のため上京すると言い残して去って行きました。

 落ち込む久代に、最愛の祖母か寝つくというさらなる打撃か襲い、いよいよというときに父が突然姿を見せました。

 死の床にある祖母は父に、末を追い出して親子4人で暮らすよう諭し、父は承知致しましたと告げましたが、法要後に末から電報が届くとそそくさと帰ってしまったといいます。

 明治28年の夏、久代だけが父のもとに戻され、翌年の正月、客を迎えて同居の家族が集められ、末席に陸軍予備少尉の本荘忠之という男がいました。

 久代は末から、将来の夫だと言い聞かされていましたが、年が15も上で薄給という人物でした。

 その場で父は、本荘家の重大問題として口を切り、母を離縁し末を後妻に迎えると宣言しました。

 久代はショックを受け、母に会うため久留米に急ぎました。

 母は離縁の件を聞かされて3日間泣き明かし、家を引き渡せとの厳命が下ると実家の両替町、現福岡県久留米市に移りました。

 久代には忠之の迎えが来て、戻らざるを得なくなりました。

 ある日、忠之から葉書が来て、日清戦争の際、帰隊の期日延期をしたが、軍法会議に付せられ市谷監獄に3ヵ月の刑期を勤めるとあったといいます。

 刑期を終えた忠之は無収入のため本荘家に寄宿しましたが、次第に兄のいる北海道に一緒に行こうと持ちかけるようになりました。

 一刻も早く家を出たかった久代もついにその気になりましたが、そこへ吉和國雄が訪ねてきました。

 國雄と接した父と末が好感を持ち、婚約者と認めないでもないという雰囲気になりました。

 久代は土壇場で北海道行きを断り、忠之はひとりで旅立って行きました。

 明治29年7月、國雄が歯科医の試験の合格報告に訪れ、別室で父としきりに話し合っていました。

 いよいよ一緒になれるかと思ったのもつかの間、國雄の義兄に反対され縁談は立ち消えになりました。

 久代は思い詰め、英語を学んで國雄の仕事を助けようと、横浜の宣教師ジェームス・ハミルトン・バラ宅を訪れ、フェリス和英女学校、現フェリス女学院に入学を許されました。

 しかし、母の従兄で牧師の伴君保と滝野川孤女学院院長大須賀亮一が現れ、本荘家16代の孫として正なき業だと説教し、久代は学校を諦めました。

 女学校から戻った久代を出迎えたのは、久留米藩時代の旧家老有馬秀雄の弟で内務省勤めの有馬重男という人物でした。

 そんななか、未来の代議士候補という35歳の阪本格という人物が訪ねてきて、父がこの男との縁談を進めていることかわかりました。

 松村雄之進の仲介で阪本との縁談か具体的に進んだため、久代は父に断りを告げて大変な叱責を受けました。

 しかし、阪本の友人が阪本の訪問当日に着ていた服はすべて松村の物であることを暴露し、貧乏人に嫁がせると自分か損をすると考えた末が縁談を断りました。

 このとき久代は20歳で、これまでに登場した婚約者は、吉和國雄、藤古文太郎、本荘忠之、阪本格の4人で、どの場合も久代と無関係に話が進み無関係に雲散霧消しました。

 そして今ひとり有馬重男が残されていますが、この男こそ久代の運命を大きく歪める張本人となりました。

 明治31年1月15日、数えで20歳のときのこと、父と末が家を空けた隙に重男に蹂躙されてしまったのです。

 その後も何度か繰り返され、久代は妊娠し早急に結婚して月足らずとして産むしかないと迫りましたが、重男は堕胎を主張しました。

 その頃、父は経営していた日本運輸株式会社か破産の危機に陥り、介する人があって富士紡績株式会社の工場、現フジボウ愛媛株式会社小山工場の支配人となりました。

 父と末と久代は小山、現静岡県駿東郡小山町小山に移住し、重男は東京から休みの度に泊まりにきました。

 重男の目的はあくまで堕胎を促すことでしたが、久代は秘かに出産しましたが、6ヵ月の早産児ですぐに死亡しました。

 子供には重興と名付け、遺体を風呂敷に包んで富士川に流したといいます。

 しばらくして遺体発見の報が駆け巡り、警察が工場の女工3000人を調べたと噂になりました。

 今後は15歳以上50歳以下の女性全員を取り調べるとのことで、久代は半狂乱となり翌朝の一番列車に乗って重男の住む牛込に駆けつけました。

 しかし、やっと会えた重男は他人のようなそぶりで、そこへ父と末が追ってきて久代を責め立てました。

 思い余った久代は、重男と末の今までの罪をあげつらい、口を極めて罵倒しました。

 頭に血が上り、自分の声が遠くに聞え、資料には、遂に発狂したとあります。

 久代は巣鴨病院に入院し、退院後、明治女学校に入学しました。

 この頃から幽蘭と名乗るようになりました。

 卒業後、久留米で医師と結婚し、第二子を出産しましたが、過去の出来事を夫に告白し、夫は慰めてくれましたが、身を引く決心をし、子供を背負って東京に出奔しました。

 上京した幽蘭は、救世軍の兵士、次に新聞記者になりました。

 いくつか転職を繰り返し、読売新聞に入りました。

 1カ月で辞めましたが、マスコミ業界と顔をつなぎ、その後も転職と男性との交際を繰り返しました。

 男性遍歴が後世に伝わるのは、幽蘭が肌身離さず持っていた手帳に、今まで関係した男性の名前をすべて記録していたからです。

 錦蘭帳と呼ばれる手帳には、約60人の名前が挙がり、新聞社社長、新聞記者、俳優、小説家、芝居の座長、ヤクザ、国士、外国人商社員、社会主義者などが記載されているといいます。

 一方、自身でも、カフェを開いたり、辻占いの豆売りをしたり、高知で活動弁士になったり、中国の大連でホテルを開業したり、劇団を結成して朝鮮半島へ、と実にたくましく内外を行き来していました。

 動向が分かるのは、問題の断髪美人などと自称し、自ら新聞社にネタを売り込んでいたからです。

 大正9、10年あたりから、消息は断片的になり、朝鮮半島や中国大陸に滞在していたらしいです。

 戦後は日本に戻ってきて、昭和25年に雑誌に掲載されたのが最後の写真のようだといいます。

 明治40年頃から大正にかけて、幽蘭は都会では多くの人が知っている名前でした。

 しかしこの多くの人はやがていなくなってしまうため、歴史は変わりませんが歴史においてわたしたちが記憶しておきたいと思うことは変わってしまいます。

 ですから、著者には、時の波間に消えた本荘幽蘭を書き留めておきたいという強い気持ちかあったそうです。

 生きていた時代にだけ有名だった本荘幽蘭という女性が喚起した問題を、あらためて問い直したいと考えたといいます。

第1章 少女時代/第2章 幽蘭誕生/第3章 仕事遍歴、男性遍歴/第4章 満鮮、南洋へ/第5章 戦争に向かって

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Last updated  2022.04.30 07:17:33
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