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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.03.15
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 上杉謙信は、戦国時代に越後国など北陸地方を支配した武将です。
 ”上杉謙信の本音 関東支配の理想と現実”(2024年10月 吉川弘文館刊 池 亨著)を読みました。
 上杉謙信について、覇権、挫折、同盟、衝突などの戦国争乱を辿りその生涯を紹介していまう。
 上杉謙信は、長尾為景の末子として誕生し幼名を虎千代と名乗りました。
 長尾為景は長尾氏本家筋に属し、越後国の守護代を務めていた戦国大名です。
 長尾氏は上杉氏の被官として、関東管領や越後守護代を代々務めていました。
 1536年に為景が病死したため家督は兄の晴景が継ぎ、虎千代は春日山城下の林泉寺に入りました。
 青年期の7歳から14歳までをここで過ごし、深い学識と厚い仏心を培ったと言われます。
 その後、元服して長尾景虎と名乗り、病弱だった兄に代わって家督を継いで越後守護代となりました。
 以後のいろいろな戦歴は、元服をした1543年に始まっています。
 武田信玄、北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねました。
 謙信の戦いは欲によるものではなく、義を重んじ出兵したものだったといわれます。
 また、旗印の毘の文字は、自らを生まれ変わりと信じ厚く信仰していた毘沙門天からとったものです。
 内政や外交にも才を発揮し1578年に享年49歳で亡くなりましたが、その生涯は戦の連続でした。
 妻を持たずに生涯未婚を貫くなど、戦国武将としては異色の人物であったといいます。
 池 享さんは1950年新潟県に生まれで、1974年に一橋大学社会学部を卒業しました。
 1976年に大学院経済学研究科修士課程を修了し、1980年に大学院経済学研究科経済史専攻博士課程を単位取得退学しました。
 1997年に一橋大学より、博士(経済学)の学位を取得しました。
 1980年に一橋大学経済学部助手、1981年に大月短期大学専任講師、1983年に新潟大学人文学部助教授となりました。
 1987年に一橋大学経済学部助教授、1991年に同教授となり、2014年に定年退職して名誉教授となりました。
 専門は日本中近世史、特に室町時代と戦国時代の大名の研究です。
 上杉謙信の初名は長尾景虎で、関東管領の上杉憲政の養子となり山内上杉家の家督を譲られました。
 上杉政虎と改名し、同家が世襲していた室町幕府の関東管領を引き継ぎました。
 後に室町幕府将軍の足利義輝より偏諱の輝の1字を受け、最終的には輝虎と名乗りました。
 正式な姓名は藤原輝虎で、謙信はさらに後に称した法号です。
 謙信は合戦に明け暮れ、1561年の川中島合戦など派手な戦いも多く、1577年に加賀手取川で織田軍を撃破した一戦は印象深いです。
 しかし、1566年の下総臼井城での手痛い敗戦もあり、百戦百勝だったわけではありません。
 また、私利私欲なく信義に基づいて戦ったかどうかについては、再考が必要でしょう。
 他地域からの援助要請に基づいて出兵することは、戦国時代にはよくあったのです。
 何をもって信義とするかは、時代によって変わるのです。
 信義を絶対化するのではなく、政治戦略的意味づけが必要となるでしょう。
 謙信は、関東諸将の要請に応じて出兵を繰り返しました。
 これにはまったく領土的野心はなく、関東管領として平和秩序の回復を目指したといいます。
 もとをただすと、関東管領山内上杉氏と越後守護上杉氏との関わりにたどり着くといいます。
 越後上杉氏は、関東の享徳の乱、長享の乱介入、顕定の関東管領就任などで関東政治と関わってきました。
 はじまりは謙信最初の出兵から100年以上さかのぼり、政治状況は大きく変わっていました。
 関東管領は鎌倉府体制の主要な担い手ですが、その位置や役割も変わっていました。
 戦国争乱が何によって引き起こされたのかが、まず明らかにされねばならないでしょう。
 必要なのは、室町幕府による政治秩序がどのようなもので、なぜ機能不全に陥ったのかを明らかにすることです。
 その際大切なのは、社会のあり方に視野を広げることです。
 既存の社会秩序維持システムで紛争解決できなくなった理由や、新システムがどう用意されたかです。
 本書は、戦国争乱を通じて新たな政治秩序が生み出される過程を、社会動向との関わりのなかで見ていきます。
 これによって、謙信の出兵の意義も歴史の流れのなかで客観化してとらえることができるでしょう。
 「越後上杉氏と関東」で、鎌倉公方足利氏と関東管領山内上杉氏の成立までさかのぼります。
 そこから越後上杉氏と家宰の越後長尾氏が生まれ、室町時代の関東政治に関わっていきます。
 そして、鎌倉公方と関東管領の対立が高じて本格的武力衝突である享徳の乱が起こります。
 そして、上杉氏一族内部での主導権争いである長享の乱へと続き、関東の戦国争乱が始まります。
 越後上杉氏は、これに深く巻きこまれていきました。
 ここを押さえないと、なぜ謙信が関東にこだわったのかも理解できないでしょう。
 「長尾為景と関東」で、謙信の父為景は守護上杉房能を討ち国主として越後に臨み、享禄天文の乱など国衆らの抵抗を受けつつ戦国大名化していきました。
 「長尾景虎の覇権確立」で、為景の路線を引き継いだ謙信は享禄天文の乱を終結させ越後の覇権を確立させ、、覇権確立を機に本格的外征へと路線を転換しました。
 「関東管領体制の挫折」で、小田原北条氏との争いに敗れた関東管領上杉憲政が越後に避難してきて、これを契機に謙信自らが関東管領となって関東一円の支配を目指しました。
 「越相同盟の成立と崩壊」では、謙信が北条氏と越相同盟を締結し、北陸方面に外征の主目標を置いて関東から撤退していきました。
 「上杉謙信の遺産と波紋」で、謙信が実子を儲けなかったことから、養子の景勝と北条氏康の子の景虎の間で後継者争いが起こり、上杉氏と北条氏、武田氏との関係も変わっていきました。
 最後に、「関東管領から普通の戦国大名ヘーエピローグ」で、関東戦国史のなかに越山を位置づけ、あらためてその歴史的意味を考えるといいます。
上杉謙信のイメージープロローグ/越後上杉氏と関東/長尾為景と関東/長尾景虎の覇権確立/「関東管領体制」の挫折/越相同盟の成立と崩壊/上杉謙信の「遺産」と波紋/関東管領から普通の戦国大名へーエピローグ/あとがき/略年表/参考文献

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Last updated  2025.03.15 08:02:19
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