心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.04.12
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 矢部貞治は欧米に留学し、帰国後は大学で政治学講座を担当しながら首相のブレーンとして活躍しました。
 ”矢部貞治 知識人と政治”(2022年11月 中央公論新社刊 井上 寿一著)を読みました。
 首相のブレーンの昭和研究会に参加し、現実政治での実践を試みました。
 矢部貞治は1902年に鳥取県気鳥取市生まれで、のち愛媛県今治市出身の司法官の養子となりました。
 旧姓は横山で、後に養子縁組によって矢部姓にかわりました。
 旧制鳥取県立鳥取中学校と旧制第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部に入学しました。
 1926年3月に大学法学部政治学科を卒業し、矢内原忠雄博士から教育者になることをすすめられました。
 政治学の創始者として知られる恩師の小野塚喜平次博士に従って、政治学者への道を進むこととなりました。
 1928年に東京帝国大学法学部助教授、1939年に同大学法学部教授となり、1945年に東大教授を依願免官となりました。
 1952年に早稲田大学大学院講師、1953年に選挙制度調査会委員、1955年に拓殖大学総長兼教授となりました。
 1955年に行政審議会委員、1956年に公安審査委員会委員、1957年に憲法調査会副会長となりました。
 ほかに、1959年に中央教育審議会委員、選挙制度審議会委員になりました。
 1960年に文部省東南アジア教育調査団長として、東南アジアの4か国に出張しました。
 1961年に憲法調査会海外調査団長として、北中南米の7か国に出張しました。
 1964年に拓殖大学総長を辞任し、以後は政治評論家として活躍しました。
 1967年5月7日に自宅で死去し、従三位勲一等瑞宝章を授与されました。
 井上寿一さんは1956年東京都生まれ、1981年に一橋大学社会学部を卒業し、1983年に一橋大学大学院法学研究科修士課程を修了しました。
 1986年に同博士課程を単位取得退学し、1988年に法学博士(一橋大学)となりました。
 専攻は、日本政治外交史、歴史政策論で、日本外交について一次史料に即した実証研究を重ねています。
 以後、一橋大学助手を経て、1989年に学習院大学法学部助教授、1993年に法学部政治学科教授となりました。
 2005年から2009年まで、学習院大学法学部長を務めました。
 2014年から2020年まで、学習院大学学長を務めました。
 矢部貞治は、政治に直接コミットした最初の研究者の一人です。
 助教授時代の1935年から1937年まで、ヒトラー台頭下の欧米に留学し政治の大きな変革に遭遇しました。
 帰国後は政治学講座を担当しつつ、首相の近衛文麿のブレーンとして昭和研究会に参加しました。
 そこで現実政治での実践を試みて、国内と国際関係の新体制を立案しました。
 敗戦後は東大を辞職し、同志を集めて日本再建についての研究を始めました。
 1950年代半ば以降は、拓大総長、憲法調査会委員、選挙制度審議会委員などを歴任し、メディアでも積極的に発言を行いました。
 本書は、矢部貞治の評伝と日本政治での知識人の役割を考えています。
 これまでの、欧米を中心とした民主主義世界が大きく動揺しています。
 ロシアのウクライナ侵攻、台頭する中国、アフガユスタンにおげるタリバソ勢力の復権です。
 欧州における極右勢力の伸長、アメリカのドナルド・トランプ現象も危機の例証になっています。
 日本でも、ポピュリスムと反知性主義が日本の民主主義を脅かしています。
 この点で、日本固有のデモクラシーの発展を求め続けた矢部貞治から学ぶべきことは多いでしょう。
 日本の民主主義の将来について、矢部貞治がその方向を示しているといいます。
 二大政党制の可能性については、保守一党優位体制の継続が望ましいのでしょうか。
 有権者は、それよりも二大政党制のような政党政治システムを求めている可能性もあります。
 矢部貞治は、イギリスを模範国として戦前から二人政党制の確立をめざしました。
 戦後は、保守政党の進歩化と革新政党の現実化に力を注ぎました。
 今日の政治状況において、矢部貞治の二大政党制論は振り返るに値するでしょう。
 つまり、進歩的な保守と穏健なリベラルとの間の二大政党制のような政党政治システムです。
 憲法改正問題については、いまこのまま改憲に進むべきかが問題です。
 少し前まで改憲の発議が可能な国会の勢力分布が続き、世論も改憲志向にみえました。
 その後この状況に変化がありましたが、ふたたび改憲の可能性が高まったときどうすべきでしょうか。
 改憲論者だった矢部貞治は,立ち止まって考えることを促しています。
 それは、国民のなかから湧き上がるような改憲支持の勢いかあるか否かが重要であるといいます。
 しかし、二大政党割と憲法改正を中軸とする矢部貞治の戦後構想は、道半ばで未完のまま終わりを告げました。
 矢部貞治は、政治家志向ではなく学究の徒だったのです。
 日本の知識人たちは、英語さえ満足に喋れずヨーロッパ語もまともに読み書きできません。
 かといって、ソフトウェアが書けるわげでも数学を使いこなせるわけでもありません。
 メディア知識人は、滑舌と声が良く話がわかりやすく面白いですが、ちょっと博識な一般人でしかありません。
 一方で、古い知識人たちは、誰も読まない論文を書いて同業者同士でやりあっているだけです。
 そして、審議会やメディアでおしゃべりの下請けをしているようです。
 このような知識人の没落は、大衆社会状況における知の民主化がもたらしたものです。
 知の民主化は、反知性主義の興隆と社会からの知識人の退場を促しています。
 他方で、知識人は権力と国民との間に介在し、情報伝達・政策立案・政策評価の三つの機能を持ちます。
 今でも、これら三つの機能を持つ知識人の社会的な有用性は変わりません。
 矢部貞治は、この三つの機能を持つ知識人として、1930年代から1960年代まで日本政治に大きな影響を及ぼしました。
 しかし、丸山眞男、清水幾太郎、清沢冽、馬場恒吾と比較して、矢部貞治の存在感は稀薄です。
 その理由を詮索してみたところで、どうなるものでもないのです。
 矢部貞治は過去から呼び戻すに値しますので、本書はこの忘れられた知識人の生涯を追跡するということです。



 [http://lifestyl e.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]



矢部貞治 知識人と政治 (中公選書) [ 井上寿一 ]





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.04.26 08:27:00
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: