心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.08.30
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 蔦屋重三郎は、1750年に江戸の新吉原で生まれました。
 ”蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王”(2024年10月 新 潮社刊 増田 晶文著)を読みました。
 貸本屋から身を起こし日本橋通油町の版元となり、北斎、歌麿、写楽ら浮世絵師の才能も見出した、蔦屋重三郎の生涯を紹介しています。
 重三郎の本姓は喜多川、本名は柯理=からまるといいました。
 通称は蔦重、重三郎、号は蔦屋、耕書堂、薜羅館などです。
 当初は、遊郭を案内するただの細見屋でした。
 20代で吉原大門前に耕書堂という書店を開業しました。
 1774年に北尾重政の『一目千本』を刊行してから、日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担いました。
 細見を刊行し、書店を作り、新人作家や浮世絵師を発掘し、洒落本や版画を出版しました。
 版元として、多数の作家や浮世絵師の作品刊行に携わりました。
 大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽などです。
 また、エレキテルを復元した平賀源内をはじめ、多くの文化人と交流を深めました。
 そして、最終的に版元として一流の実績と富を築きました。
 増田晶文さんは1960年大阪府布施市、現、東大阪市生まれ、1973年に大阪市内の私立中高一貫校に通いました。
 1979年に、同志社大学法学部法律学科に入学しました。
 1983年に卒業して、大阪ミナミのアメリカ村にあった編集プロダクションに入社しました。
 1984年に、会社が広告企画の業務にシフトするため東京へ進出しました。
 1994年3月に会社員生活に終止符を打ち、文筆の世界へ入りました。
 しばらくはスポーツを中心に、実業家、作家、文化人とインタビューをして、雑誌に原稿を書きました。
 1998年に、短編『果てなき渇望』で「文藝春秋Numberスポーツノンフィクション新人賞」を受賞しました。
 2000年に、長編『果てなき渇望』を草思社から単行本で刊行しました。
 蔦屋重三郎は寛延3(1750)年の正月七日に生まれ、父は尾張出身の丸山重助、母が江戸出身の広瀬津与でした。
 両親は譚つまり名乗り名柯理と名付け、通り名は重三郎と言いました。
 重三郎は、狂歌をこしらえる時に蔦唐丸(蔦が絡まるに掛けている)というペンネームを用いていました。
 数えで8つだった宝暦7(1757)年に、父母が離婚しました。
 そのため親戚に預けられることになり、養父の姓は喜多川と言いました。
 吉原で蔦屋の商号を掲げていましたが、親の生業や兄弟姉妹があったかなどは不明です。
 曲亭馬琴は、重三郎の養父を叔父だと書き残しました。
 馬琴は戯作者として大成する前の一時期、重三郎のもとで働いていたことがあったといいます。
 叔父は、吉原にあってかなり羽振りがよかったそうです。
 重三郎は、親戚に身を寄せたことで経済的な貧窮とは縁遠かったと思われます。
 安永2(1773)年23歳の時、新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店しました。
 お店は、吉原で引手茶屋を営む重三郎の義兄の、蔦屋次郎兵衛の軒先だったと言われます。
 引手茶屋は、客と妓楼や遊女を取り持つ役割でした。
 客はまず茶屋にあがって、豪奢な宴席を楽しみ、好みの遊女を指名します。
 遊女が花魁であれば、妓楼から茶屋まで迎えにきてくれました。
 ただし、吉原には茶屋経由など必要のない店もたくさんあったといいます。
 当時の本屋は、多色摺りの浮世絵と、見開きに挿画を配した草双紙が主力でした。
 一方、貸本屋は店舗としての本屋に負けない影響力を誇っていました。
 長屋だけでなく武家屋敷にまで、風呂敷や葛龍を背負った貸本屋が入り込んでいました。
 貸本屋には、身ひとつの商いだけでなく、たくさんの要員を抱える大手もありました。
 江戸の本は、店頭販売だけでなく貸本することによって評判を高めました。
 この年の秋に、重三郎は『這蝉観玉盤』を版木で印刷して発行しました。
 これが、重三郎が出版にかかわった最初です。
 安永3(1774)年に、吉原細見の改めの『細見鳴呼御江戸』編纂に携わりました。
 吉原細見は、遊郭の最新情報を満載した案内書でした。
 版元は鱗形屋孫兵衛といい、経営する鶴鱗堂は100年以上続く老舗でした。
 年2回出されて、妓楼、茶屋、船宿の場所や、遊女の名前、揚げ代などが書かれました。
 奥付には取次として、新吉原五十間左かわ蔦屋重三郎と明記されました。
 内容については、最新、詳細、正確である必要がありました。
 細見改には、廓内情報を収集する役割がありました。
 そして、蔦屋の名で初めて大物絵師の北尾重政の評判記『一目千本』を刊行しました。
 これはいわば遊女の名鑑であり、遊女を挿絵に擬して紹介したものです。
 掲載してもらう遊女は、上客にねだって費用を出してもらったりしました。
 開板した本は、遊女が名刺代わりに配りました。
 遊郭や引手茶屋も、この本を販売促進用に利用しました。
 安永4(1775)年に洒落本の『青楼花色寄』を刊行し、吉原細見『籬の花』の刊行を始めました。
 この吉原細見では、中本という判型で旧来より一回り大きくしました。
 一方、町内案内は見やすく軽便にして、鱗形屋より安く売れました。
 8年後には、重三郎が吉原細見を独占出版するようになりました。
 最上級の遊女は浮世絵に描かれ、その衣装や装飾は江戸の流行の先端となりました。
 吉原は、老若男女を問わず足を運びたい町でした。
 人々は細見を片手に吉原を訪れ、地方からの客は細見がお土産になりました。
 そして、巻頭の序文には有名人を起用し、有名人との絆を世に広めました。
 巻末の刊行物案内では、重三郎が手掛けた本を宣伝しました。
 安永5(1776)年には、北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行しました。
 この本は、当時の吉原の最高傑作とされています。
 版元には、重三郎だけでなく問屋の山崎金兵衛も名を連ねました。
 その後も、天明の時代から寛政の時代にかけて、一段と大きく飛躍していきました。
 重三郎の狙いを満載した出版物は、江戸を席巻したのです。
 狂歌集、黄表紙、洒落本などで話題作が続出しました。
 美人画や役者絵の大首絵は、浮世絵の主流になりました。
 浄瑠璃では、富本節の詞章を写した版本が人気を博しました。
 喜多川歌麿、東洲斎写楽の画業は、重三郎の存在なしに考えられません。
 勝川春朗と名乗っていた若き日の葛飾北斎にも、眼をかけていました。
 また、戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝も大いに関係があります。
 さらに、曲亭馬琴と十返舎一九は重三郎のもとで働き、初期作品を世に出してもらいました。
 こうして築いた人材ネットワークが、江戸のメディア王に押し上げる源泉となったといいます。
 出版活動を通じて、化政文化の端緒を開き礎を築いたのです。
 そして、寛政8(1796)年秋に体調を崩し、翌年3月に脚気により47歳で死没しました。
 本書は、蔦屋重三郎の発想、手法、業績を振り返っています。
第1章 貸本屋から「吉原細見」の独占出版へ/第2章 江戸っ子を熱狂させた「狂歌」ブーム/第3章 エンタメ本「黄表紙」で大ヒット連発/第4章 絶頂の「田沼時代」から受難の「寛政の改革」へ/第5章 歌麿の「美人画」で怒涛の反転攻勢/第6章 京伝と馬琴を橋渡し、北斎にも注目/第7章 最後の大勝負・写楽の「役者絵」プロジェクト/第8章 戯家の時代を駆け抜けて





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.08.30 09:48:35
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: