心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.09.27
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 藤原広嗣は、生年不詳、奈良前期の政治家で式家宇合(うまかい)の第1子です。
 母は蘇我石川麻呂の女で、弟に綱手・良継・田麻呂・百川らがいます。
 ”藤原広嗣”(2023年12月 吉川弘文館刊 北 啓太著)を読みました。
 藤原式家宇合の嫡男に生まれ出世街道を歩んでいましたが、突如左遷されました。
 後に内乱の首謀者となって蜂起しましたが、敗死してしまった藤原広嗣の生涯を紹介しています。
 宇合は藤原四子の一つで、藤原式家の開祖です。
 藤原四子は、中臣鎌足の息子である藤原不比等の子供です。
 四子はそれぞれ独自の家を起こして、当時隆盛を誇っていました。
 武智麻呂は藤原南家、房前は藤原北家、宇合は藤原式家、麻呂は藤原京家の開祖です。
 藤原家は、在位西暦724年~749年の第45代聖武天皇の時代に政治の中枢を担っていました。
 広嗣は宇合の長男として生まれ、順調にいけば出世を約束されている地位にありました。
 宇合は右大臣だった藤原不比等の三男で、官位は正三位・参議、勲等は勲二等です。
 731年に参議となり、畿内副惣管となりました。
 翌年に西海道節度使として九州に赴き、西国警備のための警固式を作成しました。
 ところが、735年に大宰府管内において天然痘が襲い掛かかりました。
 藤原四兄弟も次々と天然痘を発症し、737年に相次いで病没しました。
 聖武天皇は緊急事態を打開すべく、橘諸兄に事態の収拾を任せました。
 北 啓太さんは1953年北海道生まれ、1984年に東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学しました。
 宮内庁書陵部編修課長、同庁正倉院事務所長、同庁京都事務所長を歴任し、2014年に定年退職しました。
 藤原不比等政権の末期から、日本は新羅と安定した外交関係を築きました。
 それを前提に、軍事を縮小して経済的に資するようにしました。
 藤原四兄弟は唐を支援する新羅に軍事的圧力をかけ、軍事拡張路線に転じたのです。
 737年に藤原四兄弟が天然痘によって死去すると、代って政治を担ったのは橘諸兄でした。
 諸兄は聖武天皇の皇后である光明子の異父兄で、臣籍降下して橘朝臣姓を名乗っていました。
 諸兄は社会の疲弊を復興するため、新羅との緊張緩和と軍事力の縮小政策を取りました。
 また、唐から帰国した吉備真備と玄昉を重用するようになりました。
 この二人は、当時としては最先端の知識と学問を携えて帰国していたのです。
 唐の最新文化を取り入れ国の威信を高めるために、当時の日本には適材適所でした。
 これに対して、藤原氏の勢力は大きく後退し、広嗣は738年に大養徳守から大宰少弐に任じられました。
 これは対新羅強硬論者だった広嗣を中央から遠ざけ、新羅使の迎接に当たらせる思惑がありました。
 広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いたとみられます。
 藤原氏の地位低下に対し、日常的に周囲に不満をもらしていたといいます。
 740年4月に新羅に派遣した遣新羅使が、追い返される形で8月下旬に帰国しました。
 憤った広嗣は8月29日に政治を批判し、吉備真備と玄昉の更迭を求める上表を送りました。
 同時に筑前国遠賀郡に本営を築き、烽火を発して太宰府管内諸国の兵を徴集しました。
 朝廷はこの言動を謀反とし、広嗣逮捕の勅を出しました。
 しかし広嗣はこれに従わず、9月3日に九州の兵を集めて反乱を蜂起しました。
 藤原広嗣が反乱を起こしたとき、挙兵は大宰府管内諸国に及びました。
 広嗣は、弟綱手に筑後・肥前などの軍兵5000人を率いて、豊後道より豊前国へ進ませました。
 一隊は田河道に配し、自らは鞍手道を遠珂郡家に進み、ここに軍営を営みました。
 烽火をあげて軍兵を徴発し、隼人を含めて大隅・薩摩・筑前・豊後などの軍兵5000人余を擁しました。
 聖武天皇は大野東人を大将軍に任じて節刀を授け、副将軍には紀飯麻呂が任じられました。
 東海・東山・山陰・山陽・南海五道の1万7000人を動員し、24人の隼人も従軍させました。
 朝廷からは伊勢神宮へ幣帛が奉納され、諸国に戦勝を祈願するよう命じられました。
 9月21日に東人は長門国へ到着し、渡海のために停泊中の新羅船の徴用の許可を求めました。
 9月22日には、勅使・佐伯常人、阿倍虫麻呂が板櫃鎭に陣を構え、一帯を制圧しました。
 これに伴い、広嗣勢の豊前国の京都鎮・登美鎮・板櫃鎮の三営は政府軍に抑えられました。
 9月25日には、豊前国の諸郡司が500騎、80人、70人と率いて官軍に投降してきました。
 10月初旬の板櫃川の対陣で、1万余の軍勢を擁しながら、広嗣勢は渡河を阻まれ隼人の降伏も続出しました。
 中旬には船で敗走し、済州島付近に達しましたが、逆風で五島列島に吹き戻されました。
 最後は9月23日に、宇久島で捕らえられ、11月1日に綱手とともに斬刑に処せられました。
 反乱に対する処分は280人以上に及び、弟良継・田麻呂らも配流されました。
 そして、広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建されました。
 新薬師寺の西隣に鎮座する南都鏡神社は、その勧請を受けたものです。
 藤原式家は一時衰退し、大宰府も742年から3年余り廃止されることになりました。
 広嗣と言えば、一般的には、ほぽこの藤原広嗣の乱の一事のみで知られているのではないかといいます。
 本書でも、それ以外に付け加えられる内容は多くないといいます。
 乱関係を除くと、確かな史料が少ないからです。
 五位以上にならないと、特別なことがないと正史には記載されません。
 乱の時には五位になってわずか3年で、まだ20代だったと考えられます。
 広嗣については、確かな史料に基づく事跡というものはあまり求められません。
 そのため本書では、広嗣に関わる周囲の状況や歴史の流れをみていくといいます。
 これにより、広嗣という人物を理解できるよう叙述を進める場合があるということです。
はしがき/第1 家系、一族/第2 誕生、成長、出身/第3 五位貴族として/第4 藤原広嗣の乱の勃発/第5 乱の展開と終息/第6 乱後の世界/第7 伝承上の藤原広嗣/藤原広嗣関係系図/皇室略系図/略年譜





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.09.27 08:28:42
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: