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2月11日、“歌う仲間のコンサート”会場のすぐ近くに“市来鶴丸城跡”はあった。正確には,鹿児島県日置市東市来町長里にある。主催団体心づくしの弁当を食べたあと、開演までの時間を使ってデジカメをしっかり握って一人で出かけた。 日置市役所支所(旧東市来町役場)の向かい側(北方向)にある。この道を50mほど行くと赤い鳥居の春日神社がある。 境内には「鶴丸城址登道」「永山大佐紀念碑」の石碑や「日露戦役紀念碑 海軍大将東郷平八郎書」の石碑がある。そこを更に進む。「聖ザビエルと市来鶴丸城」「聖ザビエルと家老ミゲル」「市来鶴丸城とザビエル」の説明版がある。そこには概要次のことが書いてある。「16世紀、ヨーロッパから日本に初めて渡来した聖フランシスコ・ザビエルは1549年8月15日鹿児島の祇園州に上陸、伊集院の一宇治城で島津貴久公からキリスト教の布教の許可を得た。ザビエルと市来鶴丸城の関わりは鹿児島で布教していたザビエルの教えを聞いた市来鶴丸城の家老ミゲル(洗礼名、日本名は不明)の案内でザビエルが市来鶴丸城を訪れたことから始まる。城主新納伊勢守康久は快く城内に招き、厚くもてなし城内で布教することを許した。この為、康久の夫人と2人の子をはじめ家臣17人はザビエルの教えに感動し洗礼を受けた」「11年後の1561年ザビエルの弟子ルイス・アルメイダが貴久公の招きで鹿児島を訪れた時もアルメイダ市来鶴丸城を訪れミゲルとも会いザビエルの教えを説いた。このとき70名が洗礼を受けた」「この地はその後の日本における布教活動の足がかりになった意義深い地である」 上の写真は「薩摩国市来鶴丸城想定復元図」であるが、次のような説明がなされている。「この鳥瞰図は縄張図をもとに市来城が最大規模に拡張されたと想定される時期であり、天文年間から天正年間(1540年代~1570年代)の市来鶴丸城想定復元図である」 この写真は「大日寺の歴代住職の墓」である。この大日寺も説明文によると明治2年の廃仏毀釈により廃寺となっている。 この墓地を右に見ながら更に進むと、階段状の急坂になり、元気な私でも息があがりそうなくらいである。そしていよいよ本丸のあった「鶴丸城跡」に着いた。 ここの説明版によると「市来鶴丸城は、鹿児島を代表する中世城郭でで標高106mの城山を最高地点とするシラス台地にあり、およそ南北に600m、東西に500m、面積20万平方キロメートル、鶴丸城と呼ばれる曲輪群(くるわぐん)と御惣坊城と呼ばれる曲輪群と供に市来城を構成していた。『古城主由来記』等には『13世紀初頭市来家房が最初の城主』と記されている。また他の古文書では『建武4年(1337年)市来院氏系惟守姓市来氏で御家人であった市来時家と島津貞久の子、川上頼久がこの城で合戦した』というのが記載されている。その後この城は15世紀半ごろ守護島津家領となり、15世紀末に島津薩州家領となった。そして天文8年(1539年)島津相州家から戦国大名となった島津忠良・貴久領となったが、16世紀末に使用されなくなり、中世の山城としての役割を終えた」とある。 この東市来長里には薩摩藩独特の“外城制”による“地頭仮屋”はなかったが、それはこの東市来麓(長里麓)は市来郷の一村であったためであり、地頭仮屋は市来麓にあったそうだ。それでもこの周辺には、古い石垣や石の門などが残されている。次はそれらを紹介したい。
2012.02.13
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4日の鹿児島はこの冬一番の冷え込みとなったが、街の楽器屋さんに用事があるという妻につきあって、二人で出かけた。2日に照国神社に初詣に出かけたばかりだったが、鹿児島一の繁華街・天文館や山形屋デパートなどぶらぶらするのは、この数年滅多にないことである。 足を鹿児島港のある方面に向けて、ドルフィン・ポートに行きついた。ちょうど昼時だったので、お節料理に飽きた私たちは「筑豊ラーメン山小屋」に入った。ここの「昭和ラーメン」は私のお気に入りである。というのも現役時代、佐賀市の鍋島にあるグールプ会社に毎年一回出張していた時に、この「山小屋」が会社の近くにあり、数日滞在のうち1日か2日は昼食にここのラーメンを食べていたからだ。 この昭和ラーメンに大した特徴があるわけではないが、チャアシュー2枚の他に、茹で卵を二つに切って、目玉のようにして載せてある。この卵の黄身はオレンジ色と言ってもいいほど鮮やかでおいしい。博多ラーメンほど豚骨だしが強くはないが、私の知る範囲では熊本ラーメンに近い。どっちにしてもくせになる味である。 ここの店のもう一つの楽しみは食べ放題の「辛炒め高菜」の漬物である。ラーメンに入れて良し、ごはんのおかずにしてまた良し。食欲が進む。鹿児島のラーメン屋は、大根の漬物を出す店がほとんどで、これはこれで凄くおいしいのだが、山小屋の高菜も負けていない。 この後、天文館方面に引き返し、タリーズコーヒーに入り、アメリカンを中カップで飲んで満足して帰った。 今日の写真はドルフィン・ポートから見た桜島。桜島は季節や時間、写す場所などにより、様々な表情を見せてくれるので、飽きることがない。この日も冬空とは思えない青空の下に美しく映えていた。
2013.01.05
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桜が満開の春の一日、かねて一期上のM先輩から教えていただいた「常安峯の島津墓地」を訪ねた。島津家歴代の墓は初代忠久から5代までは出水市の感応寺と、先日拙ブログに書いた鹿児島市の本立寺(五道院)跡にあり、6代から28代斉彬までの墓は鹿児島市の福昌寺跡にある。そのあと明治政府となり、廃仏毀釈となってからの29代忠義からは福昌寺跡の西・常安峯の島津墓地に埋葬されるようになった。 俗に言う「土まんじゅう」という形式の墓のことは聞いてはいたが、実際に目の当たりにすると驚いた。神道様式で鳥居の奥に土を盛って造られていた。高さは土台まで入れると1,5mくらいはあろうか。 いくつかの墓地に石垣で区切られているが、数えてみたら大小15基ある。 ここは鳥居の向こうに2基の土まんじゅう。 明治維新のときの29代当主にして、12代鹿児島藩主の島津忠義は従一位勲一等公爵になった。この墓地の中で面積も一番広く奉灯、献燈も一番多い。 最後の藩主となった忠義とその父久光はある意味時代に翻弄された悲劇の人とも思われるのだが、実際はどうだったのだろうと思い調べてみると、いろいろ出てきて面白いのだが、ここでは尚古集成館・薩摩島津の歴史・島津忠義の項の概略を述べる。 安正5年(1858)に叔父斉彬の遺言により跡を継ぐ。当初斉彬の政策に批判的だった祖父斉興が補佐したため、集成館事業の縮小・整理を進める。斉興死後は久光を後見役とし、大久保利通ら尊皇攘夷派の突出を押さえ、小松帯刀を起用して藩内を結束させようとした。文久3年(1863)、薩英戦争で欧米の力を目の当たりにすると、集成館事業の再興に力を注ぎ、軍事研究のための開成所を設立する。慶応元年(1865)に藩士をイギリスに派遣させ、紡績機械等を購入したり、技師を招いたりするなどイギリスと密接な関係を結ぶ。また慶応3年(1867)のパリ万博では幕府とは別に薩摩琉球国として出品、海外より高い評価を得た。日本を近代国家に生まれ変わらせるため、慶応3年(1867)に倒幕の密勅を受け大兵を率いて上洛、小御所会議に出席する。翌年からの戊辰戦争で薩摩藩兵は奮戦、翌年に版籍奉還を率先して行い、薩摩藩知事となる。廃仏毀釈運動で福昌寺が壊されると鶴嶺神社を建てた。明治4年(1871)の廃藩置県で藩知事の任を解かれる。明治10年(1877)の西南戦争では久光とともに桜島に逃れて中立を保った。明治17年(1884)公爵を授かり明治23年(1890)には貴族院議員となる。翌年ロシア皇帝ニコライ2世が来鹿した際に仙巌園で接待した。 以上のことなどから忠義公は私が思っていたような悲劇の人ではなく、むしろ最後まで鹿児島、日本のために多くの働きをした人だということがわかった。 自然石を組み合わせた灯篭もある。 30代当主・忠重公の墓標は石造である。それ以降は石造である。
2015.04.03
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私が現在受講中の「鹿児島清水城ガイド養成講座」の清水城は島津家第7代当主・島津元久により、1384~1387年に建てられた。それから14代勝久に至る当主が1550年まで使い、164年間にわたり島津家の本城だった。しかし、ここが手狭になり、15代貴久が内城を築く。その跡に1556年に建てられた寺が真言宗の大乗院である。そしてこの大乗院は島津氏縁の場所に建つ寺院として歴代の藩主の尊崇が厚く、現在の南さつま市坊津秋目にある一乗院と真言宗藩内首座を争った。 しかしそれが災いとなり、明治時代になって、1869年廃仏毀釈により、最初に破壊された寺になった。跡地には11世貫主・覚山の墓と門前の大乗院橋のみが残されていた。この大乗院橋は、天保13年(1842)肥後の石工・岩永三五郎作の屈指の名橋であったが、平成5年(1993)鹿児島を襲った大水害(8.水害)により流されてしまい、現在はコンクリート製の新しい橋が架けられている。流された橋は、近くの若宮公園に半分に縮小されて残されている。 大乗院跡にある清水中学校のプールの山側にその当時の磨崖仏が残されていることは、昨日紹介したが、同じく中学校の入り口を入ったところにもその遺跡が残されている。 鹿児島清水城平城(屋形)部、即ち大乗院跡地では、鹿児島市教育委員会による埋蔵文化財発掘調査がこれまで5回にわたり行われているが、この上水道の石管はその時、出土したものである。 また大乗院は現在の清水中の敷地のみならず、寺から向かって南に200mのところに正門(仁王門)があり、その間に10の支院が立ち並んでいた。 仁王門のあった場所は当時から湧水があり、現在も仁王堂水として残されている。私も高校時代ここは通学路に当たり、良くおいしい水を飲んだものだった。清水小学校の前である。大乗院の10か所の支院跡は全て民家になっているが、仁王堂水から清水中学校に向かう右側の民家の入り口に「威光院跡」という看板が掲げられており、昔をしのぶことが出来る。 〈参考資料〉三木靖先生の「鹿児島市清水城ガイド養成講座」 ウィキペディア「大乗院(鹿児島市)」
2013.02.13
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肝付家歴代墓地は江戸時代270年に渡ってここ喜入を治めた領主たちが眠る場所である。喜入領主肝付氏は島津氏と数百年に渡り争い続けた大隅の戦国大名肝付氏の庶流(分家)である。肝付氏の始祖は伴兼行が薩摩に下向したのが安和2年(969)とされ、その曾孫の兼俊が肝付氏を名乗った。喜入肝付氏の初代兼光は肝付氏12代兼忠の三男だが、父兼忠と長兄国兼が仲が悪く不仲だったので。これをいいことに次兄国連は国兼を領外へ追放する。兼光はこの間に立って国兼の復帰を願い出たが、とりあってもらえない。それで兼光は本家と別れ島津氏に帰順し大崎に居住する。それ以降溝辺、加治木と拠点を移し、一時は島津貴久と敵対するが、加治木の黒川崎において敗北してかrさは島津氏に仕えた。そして文禄4年(1595)豊臣秀吉により喜入に移封されて喜入肝付氏となった。同じ時期に肝付氏本家は戦国大名としての地位を失った。 移封以降は、九代久兼、十代兼柄が藩の家老職に就いた。十五代兼善の四男兼戈(尚五郎)は、安政3年(1856)に吉利小松氏の養子となり、後に「小松帯刀清廉」と名を変え、日本を大きく動かしていく。特に藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)に大きな役割を果たした。残念ながら明治維新直後の明治3年(1870)に死去したため、明治政府での活躍は叶わなかった。 歴代の墓碑も宝篋印塔などもあり変化に富んでいる。 五輪塔式墓碑 小松帯刀の墓地については、当ブログ2021年3月29日の「日置市日吉吉利の園林寺跡 小松帯刀の墓地を訪ねる」に詳細はある。 参考資料 「鹿児島古寺巡礼」 川田達也著 南方新社 wikipedia 「肝付氏」 鹿児島市観光農園 グリーンファーム ホームページ
2021.05.08
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渋谷の「ハチ公像」とは別に東京大学農学部に3月8日 新たに「ハチ公像」がつくられて除幕式があったという。上の写真は東京都文京区に住む同期生のNくんが撮影したものを、鹿児島のKくんがメールで受信したものである。私はそれを拝借してアップした。 Nくんメールのには次のようにある。1935年3月8日、ハチ公(満11歳)没からハチ十年(80年)に当たる今年の3月8日 上野英三郎博士の勤務先だった東大農学部構内(文京区)でハチ公と上野博士像の除幕式が行われた。因みにこの像は寄付金1000万で作成されたという。 翻って渋谷のハチ公像は鹿児島市に西郷隆盛像を作成した安藤照の手によるものである。 安藤照は鹿児島市出身、市立病院北東角に誕生碑がある。初代ハチ公像は戦争のための金属供出で、終戦前日の8月14日に溶解され機関車の一部にされた、昭和28年に息子・安藤士(たけし)によって2代目のハチ公像が作成された。 この情報を得た私はすぐ現地に行って写真を写してきた。 現在の市立病院は今年 JT跡に引越しすることになっているが、ここに残されるのだろうか。ぜひそう願いたい。
2015.03.10
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薩摩藩独特の剣法として知られる「示現流」の流祖・東郷重位が島津家から拝領した屋敷跡である。鹿児島一の繁華街・天文館と高見馬場の中間の二官橋通りを城山に向かって歩いて行くと屋敷がある。(詳細は下の案内板の写真のとおりである)「人斬り半次郎」とよばれた桐野利秋も使った剣法と言えばわかりやすいのではないかと思う。とにかく先手必勝で「二の太刀要らず」という剣法である。。但し、一般のイメージとは異なり初太刀からの連続技も伝えられており、初太刀を外された場合に対する技法も伝えられている。鹿児島では現在もアチラコチラで修行しているが、一種独特の「キェー」という気合を発して斬っている。 余談になるが、先日、再放送されたNHK総合テレビの「ファミリーヒストリー・薬丸裕英」で取り上げていた薬丸裕英さんはこの案内板の中に書いてある「薬丸自顕流」の薬丸兼陳列の子孫だそうだ。 東郷重位屋敷跡から城山方面に向かって少し歩くと「示現流兵法所資料館」がある。私は入館したことはないが、示現流について、」東郷家古文書を中心に一般公開がされているそうだ。 上記「東郷家拝領屋敷跡」と「示現流兵法所」のある二官橋通りから高見馬場方面に向かうと次の通りが「三官橋通」である。中国から逃れてきた医者「沈一貫」は、島津家に仕えた。一貫は、名医として有名になり、住んでいた近くの清滝川に架かる橋に「一貫橋」「二貫橋」「三貫橋」の名前がつけられ、やがて「貫」が「官」になり、通りの名前になったという。鹿児島弁に鈍ると「さんかんばしどおい」となるので、そのままひらがなで書いてある。以前も他の場所の「○○通」をたくさん紹介したことがあるが、これからもたくさん紹介したと思っている。 下二枚の写真は「三官橋通」の現在。 山の上に見えるのは「城山ホテル 鹿児島」
2022.03.19
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昼食を食べた後、私たちツアー一行は、チャーター船に乗って長島遊覧へ。養殖ブリ生産日本一の養殖筏が散在する海を巡り、船長からいろいろな説明を聞くことができた。 東町漁業協同組合が商標登録した「鰤王」の養殖現場を目の当たりにして、私が想像していた以上のそのスケールに驚いた。その生産量は年間約12000トンだそうだ。稚魚(モジャコ)から出荷まで一貫しているとのこと。 午前中に針尾公園の展望台から下に見えた伊唐大橋を今度は海上から眺める場所に案内された。 養殖場の珍しい場所を見て満足した私たちは、今度は化石で有名な獅子島に案内された。嬉しいことにここで約15分の上陸をすることもできた。 船を降りて目の前の崖の上に「獅子島幼小中一貫校」があった。 その崖の下の道路沿いに「アンモナイト」と「サツマウツノミヤリュウ」の大きな造り物があった。ここで、ほとんどの人々が記念写真を写していて、この写真を写すまでは少し時間がかかった。 獅子島はお隣の熊本県御所浦島と共に日本有数の化石産地だという。島の大部分は約1億年前「白亜紀」の地層とされる御所浦層群で覆われいる。島の北西岸の御所浦周辺には新しい姫浦(ひめのうら)層群が露出し、更に片側から白浜を結ぶ海側には、より新しい数千年前の古第三紀の地層が表れている。いずれの地層にも化石が多く含まれるが、特にアンモナイトや爬虫類の化石も発見される白亜紀の地層は古生物ファンにとっては魅力があるのだという。 船着場の前にはちょっとした食堂兼お土産屋の「獅子島屋」があった。 船着場の前には「片側港」というバス停があっかご
2024.03.14
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ここは山岳信仰の地・行人岳(ぎょうにんだけ)。標高は394mあるという。最初に行った針尾公園とはまた違う風景が広がっている。 山岳信仰・修験道の聖地だけあって周囲は灯篭や石造物が多い。その昔、ここに登ってきた山伏たちが一心不乱に修行に励んだ場所として今に残る。 自分としても久しぶりの歴史ある石造物に興奮して、いつの間にか仲間たちとは離れてシャッターを押すのに夢中になっていた。ここに取り上げたものはその一部に過ぎない。 「行人岳の山岳信仰」については、下の案内板を一覧ください。 本尊の「蔵王権現」を綺麗に写すことは、残念ながら叶わなかった。 蔵王権現像の説明文 不動明王像 鐘撞堂 漁業の町だけあって七福神の一人、恵比寿さんの像もある。 行人岳を後にする頃には少し日も傾きかけていた。
2024.03.17
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鹿児島市 常盤の史跡案内板である。ちょっと見難いと思うが、10、日枝神社 11、谷峰城 18、桃が岡 である。某学舎の桃が岡の案内版によると、「谷峰城」と「桃が岡」が同じ場所ということになっているのだが、この案内版では明らかに別の場所である。県立図書館所蔵の「常磐町之史蹟」(昭和14年8月30日発行・発行者 甲西史談会)によっても、「谷峰城」は日枝神社の山の上である」となっている。したがって(11)の場所が谷峰城跡とみていいのではないかと、私も思う。話題は進んで、この常盤を貫く道路は、鹿児島市道 横井水上坂線である。この道路を挟んで史跡が散在しているが、(17)の「水上坂」の登りの手前右側に下の写真の(15)の「水神様」がある。この水神様はその昔「阿弥陀井戸」と呼ばれていた(上記 常磐町之史蹟による)が、現在は写真のように水道になっている。昔はこの道が参勤交代の通路であり、左側には(16)の「東・西客屋跡(水上の御仮屋)」があった。毎年10月の第4土・日には鹿児島市からこの道を伊集院の徳重神社まで歩く「妙円寺詣り」が行われる。「日置市 祭りイベントカレンダー」に下記の案内がある。「妙円寺詣り 10月第4土・日(23年10月22日・23日) 日置市伊集院町徳重神社近辺 時は1600年、天下分け目の戦いとして知られる関が原の戦いの折、豊臣方として戦った島津勢は徳川方の戦中を突破し帰鹿を果たしました。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、いつからともなく妙円寺詣りとして参拝するようになりました。当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか・・・」私も数年ぶりに歩こうと思っている。
2011.10.12
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9月28日(土) Kくんと鹿児島中央駅で待ち合わせて7時42発の新幹線「さくら544」に乗り佐賀県新鳥栖駅に9時8分に着いた。わずか1時間26分で鳥栖まで行ってしまう新幹線は有難い。そこに現在鳥栖に単身赴任中の息子に来てもらっていた。この日「祐徳稲荷神社」と「肥前浜宿」(ひぜんはましゅく)、「吉野ヶ里遺跡」に車で連れていってもらうようにしていたからだ。 祐徳稲荷神社への参詣は2018年以来、6年ぶり2度目である。一回目のことは、当ブログの2018年5月3日に「福岡の結婚式を終わって佐賀県へ 祐徳稲荷の巻」に書いている。下の写真はその時の一枚である。 祐徳稲荷神社は佐賀県鹿島市にあり、伏見稲荷、笠間稲荷と並ぶ日本三大稲荷の一つである。商売繫盛、家運繁栄、交通安全、縁結びなどのご利益ありと信仰されており、年間300万人の参拝者がある。 創建は貞享4(1687)年。鹿島藩主鍋島直朝(なおとも)の夫人・花山院萬子姫が京都から輿入れする際、京都御所内の花山院邸に鎮座する稲荷大神から分霊されたものである。 木々の緑に映える建物の緑鮮やかな朱色が印象的で、神殿、拝殿、楼門など主要な建物は総漆塗りであり、「鎮西日光」とも呼ばれている。 「楼門」前では赤ちゃんの「お宮参り」のめでたいシーンを見ることもできた。 2018年に行ったときにはなかったガラスの光る建物が建てられていた。何かと思ったら有料のエレベーターだった。ここをエレベーターで昇っても奥の院までは、まだ相当の距離がある。こういうのも老大国の一つの光景か? 楼門を真正面から見る 緑に映える朱色の建物は、九州ではここが一番だろうと感じさせる光景である。
2024.10.04
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南九州市川辺町にある水元神社の薩摩塔をやっと訪ねることができた。ここの案内版には次のとおり書いてある。 「薩摩塔は、九州西岸に分布する石塔で南九州市内では川辺町清水の水元神社、宝光院跡、同町神殿の虎御前供養塔の三基が確認されている。鎌倉時代に作られたとされ、近代の研究で中国浙江省の石材であることが明らかになっており、中国の商人や地元権力者によってもたらされたことが指摘されている」 薩摩塔は1958年に坊津で発見(現在は坊津の輝津館に展示)されたが、薩摩で初めて発見されたことから「薩摩塔」と呼ばれるよになった。基礎の須弥壇部は高欄付きで四面に四天王が彫られている。下の写真の中心のつぼ形の塔身部は本尊が浮き彫りされ、その上に屋根部などが載り頂部の造形は諸説ある。鹿児島県では 南さつま市では坊津の他にもその後、加世田川畑の民家からも発見された。南九州市の3基や霧島市隼人でも一部分が発見されている。九州では他に長崎、佐賀、福岡でも発見され全体では20基を越えている。「薩摩塔」の詳細についてはいずれ別な機会に書こうと思う。 壷型の塔身に彫られた如来像。 須弥壇部に彫られた四天王像 この薩摩塔は水元神社の入口にある。 本殿は岩を切り込んだ中に作られている。 清水(きよみず)の湧水が湧く。
2016.12.12
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先日の新聞に小野町4丁目にあるあけぼの幼稚園が昔「園田清左衛門屋敷跡」であり、島津義弘公と夫人・宰相夫人との出会いの地であった、との記事が掲載された。宰相夫人については、当ブログ2020年5月10日の「島津義弘に連なる人脈、義弘夫人・宰相殿」で書いていたので、あけぼの幼稚園に新しく造られたという案内板を見に行った。案内板には次のように記述されていた。 島津義弘公 宰相夫人 出会いの地 (園田清左衛門屋敷跡) ~大根が結んだ2人の縁~ 戦国時代、小野の地は交通の要所で、豪族の勢力争いをめぐり合戦の場にもなった場所です。中福良のあけぼの幼稚園一帯は、園田家が屋敷を構え、この地を治めていました。 のちに関ケ原の戦いで有名になった島津義弘は20代のころ、鷹狩でこの地を訪れたときに、川で大根を洗っている若い女性を見かけ、大根を分けてくれるようにお願いしました。その女性は義弘に大根を献上しましたが、そのときのしぐさが可愛かったらしく、後日義弘と結婚し、正室になります。盛香集には「夫に大根を精進上せし有様ゆうにやさいかりしかば」と出会いのシーンが描写されています。 この女性こそ、園田清左衛門実明の娘で、後年「宰相夫人」(宰相殿・広瀬夫人)と呼ばれることになる方です。宰相夫人は義弘との間に五男一女に恵まれ、現在につながる島津家の繁栄の祖になりました。義弘夫妻は当時としては長寿で、義弘が陣中から宰相夫人に出した手紙が残っています。 宰相夫人が薩摩藩初代藩主の家久の母であったことから、藩政時代を通して園田家は島津家から特別に米の支給を受けていました。その後、園田家は明治維新後も昭和20年代までこの地で暮らしていました。 以上 案内板より この際、義弘夫人のことを調べてみた。〇正室 北郷忠孝の娘〇継室 亀徳 相良晴広の娘〇継々室 実窓夫人(広瀬夫人)宰相殿 園田清左衛門実明の娘 生年不詳~慶長12年(1607)2月1日没 それより前、2016年8月21日の当ブログに「鹿児島市小野町の六地蔵尊(塔)」というテーマで小野湯(温泉)近くの六地蔵塔のことを書いているが、その案内板に「小野町の聖宮の入口にもう一つ六地蔵塔がある」という記述ある。それ以来気になっていたが、今回、園田清左衛門のことを調べる中で「聖宮の六地蔵塔」がその屋敷にあるということが分かった。そのため、今度こそと思って先日、日枝神社を訪ねた日に1時間くらい探し回ったのだが、その日は探し出すことが出来なかった。そこで今日改めて地図で確認してたどり着くことができた。なんと、あけぼの幼稚園の右側の細い道を30mくらい進んだ先から更に山道を20mくらい進んだ先の左側にひっそりとたたずんでいた。 高さ約80cm。この地は、応永11年(1404)島津家8代当主・島津久豊から園田氏が拝領してから代々園田氏の屋敷となったところであり、薩州家島津実久の軍勢に追われた島津家15代当主・島津貴久をかくまった園田清左衛門実朝の屋敷である。(鹿児島市 史跡めぐりガイドブックより) 六地蔵塔は右側の山の中にあった。
2021.04.10
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先日の鹿児島の地元新聞・南日本新聞に上の記事「国見金山跡知って」記事が掲載された。これまでに当ブログでも鹿児島の金山については、いくつかの金山・金山跡を取り上げてきたが、「国見金山跡」というのは初めて知る金山である。この国見金山は、現在の鹿児島県湧水町幸田にあり昭和初期までの約300年間、金鉱石の採掘がなされていたという。それを知ったくりの図書館の司書が「立派な史跡をもっと町内外の人に知ってほしい」とパネルを作成し展示したという記事である。(詳細は記事を参照ください) 私は、鹿児島県内の金山については現役時代大きなお得意さんであった住友金属鉱山の「菱刈鉱山」やブログに書いた「山ヶ野金山」「永野金山」、それにこれも取引先だった「串木野鉱山」「春日鉱山」などは現地のも行ってよく知っていた。菱刈鉱山のある大口方面は昔ら近辺に牛尾鉱山などもあり注目の場所であった。そういう中で昭和56年(1981)住友金属鉱山が菱刈に金鉱脈を発見し、昭和60年(1985)出鉱を開始する。このことについては、いずれ「Tくんの物語」で取り上げる予定である。菱刈鉱山は現在日本最大の金山といわれており、江戸時代あの佐渡金山が390年かけて80トンの金が採れたといわれているが、菱刈鉱山は20年間で既に140トンの金を掘り出している。一般の金山ではトンあたりの金産出量は3~5gというが、菱刈では平均でも20gあるという。 新聞記事に戻って、鹿児島には私の知らない金山がどれくらいあったのかと思い、ネットで調べてみた。下の「日本の金銀鉱床分布図」は山口大学工学部学術資料展示館」の資料である。この資料によると67ヶ所あって、うち8ヶ所が鹿児島である。これだけ見ても、日本の鉱床の1割以上が鹿児島にある。 下の地図資料は鹿児島大学の「かだいおうち」からの引用である。「薩摩の金脈」という地図があり、1ヶ所づつの名称は省くが、菱刈鉱山(金山)、串木野金山、山ヶ野金山、永野金山など入れて何と46ヶ所が書かれている。その中には新聞記事にある「国見金山」の名はないが「幸田(大昭)」があるのでこれがそうであろう。地元で「国見金山」という名前で呼ばれているのだろう。
2022.07.18
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鹿児島市の鴨池動物園は私達の子供の頃、いつ行っても楽しい場所だった。終戦後の復興の中で小学校時代を過ごした私と同年輩の人々にとっても恐らく同じ気持ちであっただろう。当時は「鴨池」という名前の由来も知らず、この歳になって初めて知る始末であったが、改めて今回訪れてあまりの変わりように驚くしかなかった。 下の案内板にあるように、江戸時代、現在のこの鴨池児童公園(鴨池2丁目)の辺りに黒木屋敷という薩摩藩の家老の別荘があり邸内に大きな池があったそうだ。そこに鴨が集まりたくさんの人が鴨狩りを楽しみ、鉄板で焼いて美味しく食べて賑わった。後に島津藩第29代藩主・島津忠義が譲り受けたという。忠義は昔からの池の近くに更に大きな池を掘って禁猟区にしたので、たくさんの鴨が繁殖したという。そのようなことから人々がここを「鴨池」と呼ぶようになったという。 駒池動物園は大正5年(1916)鹿児島電気軌道によって開設された日本で4番目の歴史の古い動物園である。昭和3年(1928)鹿児島電気軌道を鹿児島市に買収され動物園も市営となった。鴨池という地域には、この動物園の他にも鹿児島市営野球場や海水浴場もあり、当時の子供達にとっては一つのオアシスでもあった。私の記憶では毎年春のお別れ遠足は市内の小学校の全てが動物園に行っていたと思う。私は昭和37年の春に鹿児島を離れたが、鴨池動物園は昭和47年(1972)鹿児島市の平川町に移転し現在は「平川動物公園」となったという。 公園内にある「鴨池」の石碑。石垣も当時のものだという。 下の写真はネットから当時の絵葉書という動物公園の写真を拝借した。私の記憶ではここは入口から比較的近い場所であり、写真でも見えるように公園の中を高架で電車が通り過ぎていた。 公園の一角に残された動物園入口の本門
2022.10.26
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千葉に住むFくんの帰鹿を機会に、かねて彼が行きたいいと言っていた、島津豊久の眠る天昌寺跡を訪ねた。高校八期会の事務局長で「八期歴史会往来」を毎月発行してくれているKくんも一緒の3人旅である。6ヶ月ぶりの運転で少し運転に不安を抱えたクマタツがKくんの車を運転して一路 吹上町に向けて8時30分、鹿児島を出発した。予定の10時より15分くらい前に現地に到着。 ガイドをお願いしていた「永吉南郷会」の前会長で現在は顧問で「語り部」としてご活躍中の本田哲郎さんはすでに到着されて我々を待って頂いていた。本田さんは天昌寺跡を訪れる歴史愛好家の人々に永吉島津家の菩提寺・天昌寺跡を始め、梅天寺跡、六地蔵塔、南郷城址、大辻石塔群などを案内される。また、最近は県内各地の歴史講座の講師としてもご活躍中である。その他永吉島津家初代・島津家久(島津四兄弟の4男)2代目・豊久等の歴戦の地・沖田畷、戸次川、耳川などを巡ったり、時代を経てその市町村との交流などに尽力されている。 その本田さんの説明を聞いたあと、島津豊久公の墓標への案内説明をいただいた。(下の写真)なお、天昌寺跡には私は、過去2回訪れて本田さんとは旧知の仲でもあり、今回のガイドもご多忙中にもかかわらず引き受けていただいた。墓地の詳細については2015年11月13日、17日に書いているので、興味のある方はご覧ください。 この墓標は永吉島津家当主・島津久敬(ひさたか)のものである。久敬公はあの「篤姫」の次兄であり、今和泉島津家第10代当主・忠剛の次男、生まれは文政12年(1829)、天保11年(1840)元服する。嘉永6年(1853)永吉島津家の島津久陽の養子に入る。薩摩藩主9代・島津斉宣の孫に当たる。慶応4年(1868)没。 永吉島津家の墓地・天昌寺跡には4つの六地蔵塔がある。これらは、永吉島津家が建立したものであり、下の島津本宗家が建てたものとは違う。 島津本宗家が建てた「六地蔵塔」は朝鮮を始め、全部で13塔あるが、この六地蔵塔はその中でも最初に建てられたものだという。
2019.10.03
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9月30日、ちょい旅に出たkくんと私は鳥栖で息子の車に乗せてもらって、午前中に佐賀県の祐徳稲荷神社と肥前浜宿、午後は吉野ヶ里遺跡公園を見学した。その後その日のうちに大分県の日田市に入るべく息子に久留米駅まで送ってもらって、久大本線に乗車した。乗って見てびっくり! 久留米発~日田止まりのローカル列車で途中から高校生なども乗り込んできて立錐の余地もないほどの込みようだった。日田駅からはタクシーでその日の宿・「日田天領水の宿」に向かった。上の写真はホテルの入口にあった「小鹿田焼」(おんたやき)。比較的ここに近い「小石原焼」と共に九州では陶器の産地として有名であるが、クマタツにとっては小鹿田焼」の産地は未踏の地である。小石原には数回行ったことがある。 日田の豆田町は「上町通り」(うわまちとおり)と「御幸通り」(みゆきとおり)の二つの通りが有名である。先に訪ねたのは「上町通り」。昔を偲ばせる建物が続く。 今回、Kくんが事前予約までしてくれて訪ねたのが「日本丸館」。国登録有形文化財である。木造四層三階建ての資料館に万能薬「日本丸」。昔の家や家財道具等を展示。三階の天望楼からは市内が見渡せた。 三階からの眺望 他にも見たいもの、見どころはたくさんあり、予定では城跡などピックアップして訪れる予定を暑さによる疲労のため端折った。今となると残念! この老舗の羊羹屋さん始め甘党の私を引き付けるお店やさんも全てスルーした。ただ、暑さしのぎに喫茶店に入りコーヒーをので小休止したり、もう一軒の喫茶店では生まれて初めての「タピオカミルクティー」の抹茶入りを飲んだりした。いつも写す写真も撮り忘れる有様だった。この後は大分市に入ります。
2024.11.06
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イラストはネットから借用した。 これは60年前、銀行に就職した「Tくんの物語」とした私の物語である。。昭和37年4月 鹿児島の地元銀行に入社した私は、それより前36年夏に入社試験に合格し、37年の3月、本部で新入社員研修を1週間くらい受講したという。入社したのは男子大学卒が7,8人、男子高卒10人くらいと、高卒女子の数は全然覚えていない。その全員が同じ研修を受講したが、内容はほとんど覚えていない。講座は本部のホールや会議室であったが「札勘定」「窓口応対」「電話応対」の実務以外はどういう内容だったかこれはもう全て忘却の彼方に在る。札勘定は皆さんが窓口で銀行員が両手でお札を振るようにして扇形に広げた後、札の上端を数えていって50枚を区切りにするのを見たことがあると思うがあれが札勘定である。私の勤務した銀行では扇形に広げたお札を4枚ずつ12回数えて最後の2枚まで入れて50枚にする方法だった。銀行によっては5枚づつ10回数えて50枚を一区切りにするところもあるという。50枚が二組集まれば千円札なら10万円、一万円札なら100万円の札束にするのだ。これを銀行では通常「札勘」と呼んでいるが、扇形に広げる「横読み」の他にお札の束を縦方向に持って数える「縦読み」の方法がある。この時、最後のお札で「パチン」と音を出せるよになれば一人前だったいう。私が少し覚えているのは、土曜の午後か日曜日だったかに、本店営業部の広いフロアで「電話応対」や「出納窓口での受付・札勘定」の実務があったのだが、慌てて幾つも失敗をした。その札勘定も現在は機械がやってくれるのかよくわからないが当時は研修でも先ずはこれという必須の科目だった。 研修の終わった私たち新入社員にそれぞれの新任地が発表されて、私の初任地は夢にも思わなかった小倉支店だという。私にとっては、正に青天の霹靂で、生涯でもっとも驚いたことだったと今でも思う。発令のあったその日のことは私は鮮明に覚えていて、銀行の近くのいずろの海岸近くにあった親戚の会社に勤めていた母親のもとに真っ先に駆けつけて報告をした。母子家庭で長男だった私は将来母親の面倒をみるためもあって地元の銀行に就職したつもりだったのだが、初任地とはいえ、とんでもない遠いところという感覚が当時まだ「井の中の蛙」だった私にはあり、ただ戸惑うばかりだった。 いよいよ私がが新天地・小倉 へ出発の日はきた。当日は現在「鹿児島中央駅」となった西鹿児島駅からではなくて、「鹿児島駅」らの出発だった。鹿児島駅では家族のほか大学時代一緒に歌った「男声合唱団 フロイデ・コール」の同級生や後輩たち、家庭教師として数年間、逆にこちらがお世話になった附属小学校の男の子やそのお母さんなど多数の見送りを受けて不安の中にも希望も入り混じった気持ちで出発した。 小倉駅に着くと右も左もわからないだろう私を迎えるために先輩のAさんとMさんが迎えに来てくれていて、職場兼独身寮のある京町銀天街の小倉支店まで案内していただいた。見慣れない九州有数の繁華街を期待と不安の入り混じった気持ちで先輩方についていく私は傍から見るとどう見えたのだろうか。初めて着るスーツは? ネクタイは? 似合っていたのだろうか。? 今も私は思う。誰でも一回は通る道ではあったようだが・・・。小倉支店の予備知識は全然持たずに行ったのだが、銀天街の中にあったこと、建物が立派だったことには驚いた。それもそのはず、以前は都市銀行のF銀行の建物だったというのだ。店舗部分は2階まで吹き抜けで広々としていた。ただ先日も書いた私の独身寮の部屋は1階の宿直室の奥にあり、ビルの谷間でもあったので一日中暗い部屋であった。しかし、半年後には2階の先輩が一人転勤異動があったので、私も2階の明るい部屋に引っ越すことができた。私のいた1階の部屋には転勤してきた同年齢の独身者が入った。 支店で配属された係は「出納・会計係」だった。ベテランのおじさん行員が後ろに控えていて、私は若い女子行員と窓口に並んでお客さんと直接お金のやり取りをする仕事だ。お客さんからの入金を私と女子行員のどちらかが受け取ってそれを研修で体得した「札勘」をし、入金表に金種ごとに数字を記入し、後ろに控えるベテランおじさん行員に渡すと、それをおじさん行員が間違いがないか「再勘定」して「預金係」などに伝票を回して一つの仕事が終わるのである。出金の場合は後ろから現金と伝票が回ってきて「再勘」をし、予め渡しておいた「番号札」と引き換えに窓口のお客さんに現金を渡すのである。当時はパソコンどころか計算機もないし、計算は全て「そろばん」でやっていた。「そろばん」は小学校で少し習っただけだったと記憶する私も何とかこなした記憶があるので、そういう意味ではのんびりした時代だったのかなと思う。出納係としては一日のお金の出し入れを出納帳に記入する仕事もあり、窓口業務の合間を縫って入金、出金を全て記帳し、午後3時になったら、渉外係(一日中お得意さん回りや新規のお客さんの開拓をする仕事)の帰りなども待って、全ての記帳の後、いよいよ出納帳を〆て、その残高が現金や小切手などの合計金額と合うかを見なければならない。一発で合えば「一算ごめい」(一算合明)となり、出納係の仕事は終わのだが、私みたいな新入社員はなかなか合わずに苦労したものだ。これが世間の人が言う「銀行員は、その日の勘定が1円でも合わなければ、帰れない」ということだ。その場合には伝票と出納帳の記入間違いはないかということから始めるので大変だった。ただそのことで、お客さんにまで迷惑をかけたことはなかったのが幸いだったと今になっても思う。 今日は私が新入社員として初めて経験した専門的な退屈な出納係の話中心で終わってしまったが、この辺で〆て次回を期すことにしよう。 「Tくんの物語」2回目
2022.04.27
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我が家の墓地は上の写真にあるこの場所が私の知る限りでは2ヶ所目である。私が物心ついた頃の墓はここから1kmくらい離れた北側にあった。もっとも同じ山には違いない場所だが、以前は比較的一般道路に近い場所だったが、納骨堂の写真のあるここは海抜では100mを超す山の上に位置する。ここに引っ越す前は納骨堂ではなく、個別の墓標があった。そこからここに引っ越したのは私が鹿児島を離れて転勤族として他所で暮らしていた時だった。そこが区画整理になり、そこも山の中腹まで広がる大きな墓地だったがここに引っ越すことになったのだ。蛇足ながらいまそこは一般の住宅の他、マンションがやまの中腹まで林立している。そのため私の母と両親(私の父の弟夫婦)がその墓に一緒に入っていた私の従兄弟と話し合って、全てを取り仕切ってくれたのだった。そして納骨堂にして先祖代々のお骨をまとめてここに納めたのだ。今回ここを墓じまいしたのは、2年前に亡くなった妻を納骨するために新しくお寺さんに納骨堂を買ってそこに妻を先に納骨していたのだが、そこに今回墓じまいをして、先祖も再火葬して納骨しよということにしたのだ。しかし、母と話し合った従兄弟も昨年亡くなってしまったので、その息子と今回話し合いを持ったところ相手も引き取って別にしようと思っていたらしく、話し合いは計画どおりに順調に進み後顧の憂いなく遂行できた。 下の写真は私の祖父の墓石を引っ越し後もそのまま使って表書きを「〇〇家之墓」としたようで、横に生年月日と没年が残されている。以前から知っていたことではあったが、今回改めて見てみると、生年月日と亡くなった日が同じ2月28日である。つまり、誕生日に亡くなっているのだ。それともう一つ興味を持ったのは、生年が明治4年(1871)という廃藩置県の年であることだ。明治維新の年から4年目に生まれたということで、そのような時代に生を受けた祖父がわずか私の二代前だったのかと思うと感慨深い。祖父が満6歳の明治10年(1877)に日本最後の内戦と言われる「西南戦争」が起こっている。2月に始まった西南戦争は9月24日の西郷隆盛の自刃を以って終結するのだが、わずか6歳、現代であれば小学校一年生に当たる祖父の周辺はどのようなものであったろう。祖母は私が小学5年生の時に亡くなったので、曾祖父や祖父から西南戦争の時の様子や庶民の生活などのことを聞いていたかもわからないので、聞いておけば良かったと思うが、後の祭りである。 墓地内には前の墓地から移したお地蔵さんも置かれていたが、これも今回の墓じまいでお願いした石材店において整理されてしまうのだろう。「長い間見守っていただいてありがとうございました。」と祈って墓地を後にした。
2024.11.19
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11月13日(水)私たち楠声会合唱団は朝10時30分、貸切バスに乗って霧島市に向かった。10日の長島町の総合文化祭に行った日は雨だったが、今回はいい天気に恵まれて高速道路を一路鹿児島空港のある溝辺まで走り、インターで降りて霧島に向けて進んだ。途中牧園町の町並みを抜けて、未だ紅葉に程遠い木々を眺めながら霧島温泉郷に入った。温泉郷の真ん中あたりにある高千穂小学校に到着、先生方の出迎えを受けて控室に入った。 学校全体の佇まいも素晴らしいが、控室は目を見張るような美しさである。特に天井の素晴らしさに目を奪われた。ここで小休止の後、仕出し屋の幕の内弁当を食べた。おじさんたちも嬉しそうに頬張った。 弁当を食べていると、もう一つパックに入ったモノが配られた。今回のコンサートのために尽力してくれた地元出身の団員でかって牧園町教育長を務めたTさんが関係する「牧園町特産品協会」からの心尽くしのプレゼントである。鹿児島で「がね」と呼んでいるが、サツマイモ入りかき揚げのことである。揚げた姿が「かに(鹿児島弁でがね)」に似ていることからこのように呼ばれている。地域や作る人によって材料や味も異なるが、共通点は「さつまいもを粉類を使い油で揚げたもの」ということである。昔から、正月料理に加えられるとともに焼酎の肴やお茶請けまた子供のおやつとして親しまれているが、クマタツおじいさんも大好きな食べ物の一つである。 学校行事の一環「芸術鑑賞授業」としての今回のプログラムは次のようなものだった。1,「高千穂小学校校歌」生徒たちと私たちと斉唱2,「輝く黎明」 楠声会合唱団団歌3,「ゆりかごの歌」4,「紅葉」と「冬景色」5,「箱根八里」 男声合唱の仕組みの説明 団員司会者と指揮者の下で「夕やけ小やけ」をパートごとに歌ったり全体で歌ったりして子供たちに仕組みを理解してもらった。 6,君をのせて7,旅立ちの日に8,群青 終わって実行委員長から「霧島神宮」に参拝して帰るとの話があり、バスは神宮に向かった。 この階段は、昔々 小学校の6年生の修学旅行で霧島神宮に参拝した時、階段にズラッと並んで記念撮影をした場所であり、その後、「大浪の池」に登るために全員杖を持って写っている。 私も車の免許がある頃は、ほぼ毎年、初詣に来ていたが、80歳で免許返上してからはそれも叶わずブログで振り返ってみると2021年12月に娘一家と参拝したとの記録があるので、ちょうど3年ぶりの参拝だった。
2024.11.14
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