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いきなりの話題だが島津義弘は島津本宗家の第17代当主だったいう説と、そうではなかったという説がある。つまりは、義弘は当主になったのか、ならなかったのかという歴史家の見解が二つにわかれているということだ。このことを今日ブログに取り上げたのは1月24日(月)の地元南日本新聞の月曜日連載記事、歴史作家・桐野作人氏の「かごしま街道見聞記」に「加治木島津家と精矛神社」(くわしほこじんじゃ)が掲載されその中の義弘の記事に触発されたからである。 その記事の17代当主云々の部分を紹介する。前略 注目すべきは、その末尾に義弘の名前を「檀越島津十七代 藤原義弘 敬白」と刻んであることである。 義弘が島津家の当主(17代)になったか否かは、重要な研究テーマになっている。近年では、新名一仁氏が義弘を「特別な舎弟」として惣領権を兄義久と共有していたとみている。また同氏は、関ヶ原合戦後、義弘が息子家久に宛てた書状で家久を「十八代」として、自身を十七代になぞらえていることも指摘している。 後略 以上のように述べながら、十七代であったとは断言はしていない。 一方「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」の著者・川口素生氏はその著書の中で次のように言う。前略 江戸時代に成立した「島津国史」や「寛政重修諸家譜」が義弘を島津家嫡流の第17代当主とする一方で、「加治木古老物語」などは義弘を歴代当主とは見ておらず、地元の鹿児島では義弘を、第16代当主・島津義久(貴久の嫡子で、義弘の兄)の守護代(代理司令官)と見なす意見がある。また、義久が天正15年(1587)、もしくは文禄4年(1595)に隠居し、家督を次弟の義弘に譲ったという見方もある。 中略(川口素生氏はその後、義弘の子・忠恒のち家久が当主についたときのことを次のように述べてもいる)ちなみに、家久は義久の三女で従姉に当たる亀寿を正室に迎え、義久の引退後に島津家嫡流の第17代当主、薩摩藩初代藩主に就任している。(ということで義弘は当主には就いていないという見解をとる) 他には「島津義弘の賭け」の故 山本博史氏は明確には言っていないが、その著書では上の系図と同じ「島津家正統系図」を使っている。 更にいえば、上記新名一仁氏はその著書 「不屈の両殿」島津義久・義弘 の最後に次のように述べている。 前略 最後に付言しておくが、義弘を「十七代当主」として認めるべきではないと言っているのでは無い。むしろ、義弘がみずから「十七代当主だと主張していたこと、忠恒以降の歴代藩主が義弘を「十七代当主」と認定し、薩摩藩が系図・家譜を作成して「正史」としてこれを確定させたこと自体が、近世島津家の歴史認識を考える上で重要なのである。と述べている 私は一歴史愛好家としてあまり深く考えることはなかったが、「島津家正統系図」などに鑑み、これまで島津義弘を第17代当主として書いてきた。これからも歴史学者の研究を注目していきたいと思う。
2022.01.26
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島津義弘の加治木屋形跡(加治木仮屋町)の訪問は2回目である。と言っても6年前の2015年9月10日に当ブログに「島津義弘の居城跡 加治木護国神社を訪ねる」という標題で書いているのでちょうど6年ぶりという訪問だ。 入り口に「島津義弘公 薨去碑」(こうきょひ)という石柱があったが、これは私の記憶では2015年には無かったのではと思う。下の石碑は光線の具合で文字が見えないが「義弘公薨去地碑」と書いてあり、大正7年11月に貴族院議員 島津久賢(当時の加治木島津家当主)氏が建立した。 義弘は慶長12年(1607)73歳で平松城よりここ加治木屋形に転居し、元和5年(1619)当地で生涯を閉じる。享年85歳だった。その間、80歳を越えた頃から義弘は自伝を記している。それは現在「惟新公御自記」とよばれているもので、年代などの記憶違いは多いとはいうものの、晩年における義弘の人生観、歴史観、宗教観が伺えて興味深いものであるという。島津修久氏の編集で増補改訂版が発行されている。 前回も紹介しているが珍しい石造物がある。今回もついついシャッターを切ってしまった。 加治木護国神社は、明治元年の戊辰戦争、10年の西南戦争、27年の日清戦争、37年の日露戦争、昭和16年の大東亜戦争の国事に殉じた加治木町出身者・並びに縁故者を祀る。 戊辰戦争記念碑 大東亜戦争 西南之役百周年記念碑
2021.10.03
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先日の新聞に小野町4丁目にあるあけぼの幼稚園が昔「園田清左衛門屋敷跡」であり、島津義弘公と夫人・宰相夫人との出会いの地であった、との記事が掲載された。宰相夫人については、当ブログ2020年5月10日の「島津義弘に連なる人脈、義弘夫人・宰相殿」で書いていたので、あけぼの幼稚園に新しく造られたという案内板を見に行った。案内板には次のように記述されていた。 島津義弘公 宰相夫人 出会いの地 (園田清左衛門屋敷跡) ~大根が結んだ2人の縁~ 戦国時代、小野の地は交通の要所で、豪族の勢力争いをめぐり合戦の場にもなった場所です。中福良のあけぼの幼稚園一帯は、園田家が屋敷を構え、この地を治めていました。 のちに関ケ原の戦いで有名になった島津義弘は20代のころ、鷹狩でこの地を訪れたときに、川で大根を洗っている若い女性を見かけ、大根を分けてくれるようにお願いしました。その女性は義弘に大根を献上しましたが、そのときのしぐさが可愛かったらしく、後日義弘と結婚し、正室になります。盛香集には「夫に大根を精進上せし有様ゆうにやさいかりしかば」と出会いのシーンが描写されています。 この女性こそ、園田清左衛門実明の娘で、後年「宰相夫人」(宰相殿・広瀬夫人)と呼ばれることになる方です。宰相夫人は義弘との間に五男一女に恵まれ、現在につながる島津家の繁栄の祖になりました。義弘夫妻は当時としては長寿で、義弘が陣中から宰相夫人に出した手紙が残っています。 宰相夫人が薩摩藩初代藩主の家久の母であったことから、藩政時代を通して園田家は島津家から特別に米の支給を受けていました。その後、園田家は明治維新後も昭和20年代までこの地で暮らしていました。 以上 案内板より この際、義弘夫人のことを調べてみた。〇正室 北郷忠孝の娘〇継室 亀徳 相良晴広の娘〇継々室 実窓夫人(広瀬夫人)宰相殿 園田清左衛門実明の娘 生年不詳~慶長12年(1607)2月1日没 それより前、2016年8月21日の当ブログに「鹿児島市小野町の六地蔵尊(塔)」というテーマで小野湯(温泉)近くの六地蔵塔のことを書いているが、その案内板に「小野町の聖宮の入口にもう一つ六地蔵塔がある」という記述ある。それ以来気になっていたが、今回、園田清左衛門のことを調べる中で「聖宮の六地蔵塔」がその屋敷にあるということが分かった。そのため、今度こそと思って先日、日枝神社を訪ねた日に1時間くらい探し回ったのだが、その日は探し出すことが出来なかった。そこで今日改めて地図で確認してたどり着くことができた。なんと、あけぼの幼稚園の右側の細い道を30mくらい進んだ先から更に山道を20mくらい進んだ先の左側にひっそりとたたずんでいた。 高さ約80cm。この地は、応永11年(1404)島津家8代当主・島津久豊から園田氏が拝領してから代々園田氏の屋敷となったところであり、薩州家島津実久の軍勢に追われた島津家15代当主・島津貴久をかくまった園田清左衛門実朝の屋敷である。(鹿児島市 史跡めぐりガイドブックより) 六地蔵塔は右側の山の中にあった。
2021.04.10
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島津義弘居館を左に見ながら山手に向かって歩いていくと左側の田んぼの向こう側、山の下に墓標らしきものが見えてきた。のどかな田園風景の中である。コスモスも今を盛りと咲き誇っている。 現地に着くと向かって左側「膝跪駻の墓」と右側に石碑がある。膝跪駻は、島津義弘が出陣したとされる52回の合戦のうち、20数回で騎乗した愛馬である。名前は元亀3年(1572)、日向の伊東氏と戦った木崎原合戦(きさきばるがっせん)で膝を折って義弘を助けたことからつけられたといわれる。この馬の出生地については、蒲生の青色野牧(おしきのまき)や加治木西別府の上嶽牧内など諸説があるが、定かではない。墓石は藩家老種子島伊時が安永6年(1707)に再建した。膝跪駻は83歳の長寿を全うしたといわれていて、鍋倉の亀泉院墓地に葬られている。石碑には、膝跪駻が名馬として由来が書かれている。石碑は亀泉院総代であった白濱氏により建立された。 墓の後方には、膝跪駻を最後まで飼育した橋口対馬安重夫妻の墓があり、現在でも愛馬を見守っているようである。 帰り道に市街地の方を見ると、このところ噴火活動の激しい桜島が煙を吐いているのが見えた。 参考資料現地案内板姶良市歴史民俗資料館発行 「島津義弘の足跡をたどる」
2020.11.13
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島津義弘居館跡(御屋地跡) 島津義弘は文禄4年(1595)に栗野松尾城から帖佐へ移り住んだ。そして、ここ帖佐に1596年、家老の新納旅庵の監督により館を建築した。館の石垣は加治木の岩の獄(湯湾岳)から運んだという。義弘居館は「築地石垣九十九間」と言われ、今は残ってないが、石垣の上には築地塀があったという。この時、館周辺の町割りも整備された。 慶長11年(1606)義弘は平松へ移り翌年には加治木に移る。帖佐の館には義弘の娘・御屋地様(島津朝久の妻)が住んだ。その御屋地様と島津朝久の墓地はすぐ近くにあるので、行ってきた。そのことは後日に。 敷地内には稲荷神社があり、これは朝鮮出兵における泗川の戦いで狐が現れて敵兵を混乱させたという故事に由来する。関ヶ原のたたかいの時もここを本拠地としていた。 大手門跡 石段途中にボツ穴を持つ礎石がある。義弘がここに居住していた頃の大手門の跡である。ここにあった門は江戸時代の初めに出水に移築され、現在、出水麓の仮屋門として市指定文化財となっている。 大手門跡のホゾ穴 惟新公邸(島津義弘邸)址碑 この碑は大正17年(1918)11月7日、義弘公没後300年祭が挙行され、その記念事業として建立された。題字は島津本宗家30代当主忠重氏が書かれたものである。 ここは「花園寺跡」公園「花園寺跡公園」(かえんじあとこうえん)は2018年4月26日に訪問して、当ブログに書いているので詳細はご覧ください。義弘居館跡の一角にあるのだが、2018年には花園寺跡公園には立ち寄って見学したものの、義弘居館跡は知識がなく、素通りしていた。義弘居館跡が隣接していたことを後で知って是非訪ねたいと思っていたのが今回の訪問につながった。 花園寺は、江戸時代に修験者米良家が家久から命じられ、代々守り伝えた寺であるが、もとは義弘の看経所であった。平成24年度の発掘調査により、江戸前期に遡る枯山水様式の庭園遺構が発見された。
2020.11.11
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えびの市在住のAさんが「飯野城跡」(別名は亀城、鶴亀城)を案内していただけるということで、Aさんの車の後ろに続いた。 「飯野城跡」方向表示板の前にAさんの車が止まると、「縄張り図」とともに「史跡 飯野城」の説明版があった。 飯野城は、永暦元年(1160)に日下部重貞が真幸院司に就任し、真幸院守護の守護の目的で築き居城としたが、その日下部氏が没落すると、康永4年(1345)に北原兼幸が真幸院司に就任し居城とした。永禄7年(1564)北原氏も滅び、今度は島津氏の保有となり、島津貴久が北への守りとして次男・島津義弘を領主とし送り込み居城となった。義弘は30歳から56歳まで実に26年間ここを居城とし、数々の合戦にここから出陣した。天正15年(1587)に義弘の嫡男・島津久保の居城となるが、久保は文禄の役に参戦中の文禄2年(1593)に病死する。それより前、天正18年(1590)6月義弘は栗野の松尾城(栗野城)に移った。しかし、慶長20年(1615)一国一城令により廃城となる。 下の表示にある「加久藤城連絡道」を使って義弘は加久藤城に住む愛妻の許に通ったという。 石碑に記された文字は飯野城址ではなく、別名の亀城址碑としたのか「亀・・・」とあり、亀の文字は読み取れるが他は読解くことはできなかった。 本丸、二の丸、三の丸に加えて、見張り台、枡形、弓場と呼ばれる郭が存在したという。 物見曲輪跡からの展望 城跡は50mの河岸段丘上にあり、城の南方は川内川に面して、また東方と西方もその支流が流れいずれも険しい崖となっている。北方は押建山が壁の役割を果たしている。
2020.08.07
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「加久藤城」を後に「えびの市歴史民俗資料館」に向かう。ここでは「田の神さあ」の大きなモデルなど見て、えびの市の歴史や市の概要などを知ることができた。諸資料もたくさんいただく。 そこから「木崎原古戦場跡」に向かう。今回楽しみにしていた場所の一つである。道路を挟んで左側に上の写真にあるように堂々たる「木崎原古戦場跡」の石碑があった。 右側にこれも歴史を感じさせるこんもりした森があった。ほとんどが400年以上の樹齢を持つ杉の木である。ここに「六地蔵塔」などがある。 では「木崎原の戦い」とはどうようなものだったのだろう。元亀3年(1572)5月3日夜、日向の伊東義祐(よしすけ)の重臣・伊東佑安以下3000余りの将兵が出陣した。島津貴久の死で動揺している島津家をこの際、日向から排除しようという算段である。佑安は連携する肥後の相良義陽と飯野城に近い妙見原で兵を二手に分け、一部を残して薩摩・日向・肥後の国境に近い真幸院の島津側拠点・飯野城に兵を向ける。飯野城には島津義弘がいたが、事前の諜報で伊東勢の動きは察知していた。ただ島津側の兵力は飯野城に300。加久藤城には50しかいない。しかし、義弘の考えは加久藤城の防備をわざと薄くし、敵を誘い込もうとしていたのだ。 伊東勢が放った火は夜の空を赤く染めたので飯野城からも遠望された。それを知らされた義弘は「時ぞ来たれり」と新納忠元の薩摩大口城やなど近隣の島津方拠点に狼煙をあげさせ、遠矢良賢以下60人を加久藤城後詰めに向かわせた。そして五代友喜40を南の野間口、村尾重候50を南東の本地口の溝にそれぞれ伏兵として配置し、準備していた幟や旗印を肥後国境近くに林立させて兵が布陣しているように見せかけ、相良勢を牽制した。それを見て義弘は手兵130を率いて出陣した。 一方の伊東勢は地理にも疎く、加久藤城を攻めあぐねていた。地形を利用した城からの投石や弓矢で損害が増えていった。そこに城内から川上忠智も突撃をかけ、さらに馬関田城などの援兵も伊東勢に襲いかかったため、一旦退却しようとしたが、島津方の僧兵らに行くてを阻まれてまた北上し木崎原まで退却する。この頃には相良勢は義弘の計略にだまされ、伊東軍に合流することなく引き上げていた。 義弘は伊東軍に正面攻勢をかけ伊東佑信を討ち取る。伊東軍は慌てて白鳥山に登り、そこから高原城への撤退を図る。しかし、これも義弘の思うつぼであり、一旦攻撃を緩めて最終決戦地へ追いやろうとしたものであった。これが後に島津勢の十八番となる「釣り野伏せ」という伏兵包囲戦術だった。鎌田正年に兵60を割いて伊東勢の背後に回らせた義弘は、自身伊東勢に正面突撃を敢行する。義弘は自ら太刀打ちする苦境に陥るが、全ての戦力を集めて戦闘に参加。伊東勢は大混乱に陥り潰走する。「九州の桶狭間」とも呼ばれるこの戦いでは島津軍も85%の被ったが、総大将の佑安も敗走の途中で途中で戦死した伊東軍に対し、武将クラスの戦死者がいない島津軍の勝利と言っていい。3割近い兵と猛将・佑安ら多くの有力武将を失った伊東義祐は再起不能の状態に陥り後の天正5年(1577)には島津氏が攻めてきて、豊後の大友氏を頼って落ち延びたが、漂白の末に死を迎える。 木崎原の戦いで戦死した敵・味方の霊を慰めるため、六地蔵塔がある。島津氏は大きな戦いのあとにはほとんど六地蔵塔を建てた。 「三角田」と呼ばれる場所。木崎原合戦の時、伊東軍と島津軍が一進一退の激戦を繰り返したところで島津義弘が伊東軍の将・伊東新次郎を槍で突き伏せ、また敵中に深く進み過ぎた義弘を退かせるため盾となって六人の重臣が討ち死にした場所である 参考資料 えびの市ホームページ 「薩摩島津家 最強の真実」 KKベストセラーズ 他
2020.07.30
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ここは加久藤城の大手門の表示があった場所から少し先に進んだ道。車をここに止めて、先に進んだ。150mから200mくらい歩いただろうかやっと「史跡 加久藤城跡」の案内板のある場所にたどり着いた。というのも7月21日のこの日、南九州の梅雨は明けず、偶然といっていい晴天に恵まれた日ではあったが、これより先の曲がりくねった道は急坂で苔がいっぱい。日陰のため、濡れた苔は水分をたくさん含んで、誰が歩いたのか滑った跡も数ヶ所残るありさまだった。 加久藤城については、下の案内板の通りだが付け加えると、応永年間(1394~1428)に真幸院の領主・北原氏が小田村の山に「久藤城」(ひさふじじょう)を築いたのが始まりである。永禄7年(1564)島津忠平(義弘)が中城と新城を縄張りに加えて「加久藤城」と改め、加世田よりここに移った。その後のことは下記案内板の通りである。 加久藤城には現在、本丸跡に竈門神社と土塁が残され、二の丸跡は林状になっている。 加久藤城に行く途中には長子・鶴寿丸の墓ある。詳細は下の案内板の通りである。 次回はいよいよ「木崎原の戦い」(きさきばるのたたかい)の古戦場跡を紹介します。
2020.07.28
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霧島市牧園町のM家墓地を参拝見学した私たち一行が次に目指したのは、湧水町栗野にある「松尾城」(栗野城)である。 松尾城は島津義弘ゆかりの城の一つであり、天正18年(1590)~文禄4年(1595)の5年間在城した中世の山城である。これより前は肝付氏庶流の血筋である真幸院の在地領主・北原氏の居城だった。城は川内川に面した台地に築かれていて、現在は城山公園として大手門を模した冠木門が築かれている。本丸、二の丸の他、堀を隔てて各出城や護摩所、研屋敷、南御門、調練場などが配置されている。 本丸の石垣は義弘が太田道灌の子孫といわれる太田武篇之助に造らせたといわれ約500個の野面石の積み上げられた強固な造りとなっている。 この野面積みの石垣は鹿児島では珍しいと言われている。 石垣は総延長約52m、勾配70度であるという。甲州流の築城と言われており城壁に石垣をもつ山城は他に例を見ないという。 石の階段を登り、平地になった本丸跡に着く。 逆光で見えにくいが「松尾城址」の石碑がある。 本丸跡と二の丸跡には館の礎石が残っていた。(ここは本丸跡) 二の丸跡には館の礎石が幾つか残されているだけでこの写真の左側は草が生えているだけだった。 文禄元年(1592)義弘は豊臣秀吉の命を請けて二男・又一郎久保とともに朝鮮での文禄の役に当城から出陣した。「刀磨欲踊り」(かたなときほしおどり)を舞わせ軍勢の士気を高めたといわれる。 文禄4年(1595)8月義弘公は無事帰城したが、久保は文禄2年9月に戦地で病死した。また帰城前の文禄4年7月には五男・久四郎が病死、相次いで子を亡くして悲しい思いの続いた義弘公は居を帖佐に移し、この松尾城に腰を落ち着けることはなかった。 参考資料 当城の説明版を中心に「戦国武将 島津義弘 史跡ガイドブック」、ネット情報など。
2020.07.24
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