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May 30, 2007
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カテゴリ: 思うこと






そんなわけで結局のところ3連荘で京都市内まで運転していくことになったのだが、次に問題になってくるのが住むところを決めることだ。私が内定を頂いた会社が少し変わったところで…住むところを確実に確保しないと次のステップに進めないようなニュアンスのことを仄めかしていた。できるだけ早く実践的に仕事がしたいと思うので家の確保もできるだけ迅速にしたいと思うのだが…今の時期、つまり就職や進学で賃貸ブーム到来期からややずれたような今の時期にはいい物件にめぐり合うことはそうない。ここはもう有名そうな賃貸紹介会社に決めうちで決めてしまうしかない。そう心に決めた私はまた明日京都に行くことにした。これで今週はもう3回も行くことになるのだが…背に腹は変えられないというものだ。必要なことにはお金も時間も糸目をつけないというポリシーの私にはちょうどいい試練かもしれないと思えばそう苦でもないというわけだ。







話は変わって…







最近はまともなことを書いていないので下らないブログに成り下がっていたような気がする。立派なことを書いたからそのブログが立派だという低俗な考えは生憎持ち合わせていないのだが、それでもここに長く文章を書くということに意味を持たせたい私としては…日々を綴るだけのものにはしたくないというわけだ。そんなわけでここ最近で話題になっていることに焦点を当ててみようと思う。テーマはタイトルにも書いたように


「安楽死について」だ。








最近ニュースでやっているものに興味深い(と言っては当事者に失礼かもしれないが)ものがある。それは呼吸器をつけていないと生命を維持することが出来ないという症状の患者に対して、家族の了承を得た上で人工呼吸器を外して絶命させてしまったという事件だ。これは所謂安楽死であり尊厳死だ、これ自体にはそこまで追求すべき概念は含まれていない。しかしそのような行動をとった医者を殺人容疑で書類送検したということで物議を醸しているようだ。このことに関しては倫理的な問題、病気における末期の概念的な捉え方の根本的差異があるので一概に善悪を決め付けることは出来ないのだが、あくまで私なりの意見を述べようと思う。
感想の延長上にある内容である可能性が高いので一般的に論拠に欠けるかもしれないが、一応感じたことには違いないので述べさせてもらう。


まず感じたのは、私はその医者のとった行動が殺人容疑にかけられる謂れはないということだ。確かに医者のとった行動で患者が死に追いやられたということは紛れもない事実だ、しかしそこには家族の同意というものが存在している。家族の同意なくやられた行動の結果患者に死が訪れたのだとしたら…それは独断に拠るものと推察され殺人容疑で立件も可能だと思われる。その観点からは医者の行動は正しいと決め付けるまではいかないものの、問題があったとは思えない。
それに患者自身の判断という問題がある。問題とされていた医者は多くの安楽死を行っていたのだが、その事例のほぼ全てに家族や患者本人の同意がなされていた。病気で苦しんでいることを1番身をもって感じているのは当然患者自身であるし、その次に苦しいのはその身内であろう。喋ることも意思表示をすることもできないまま機械に繋がれ生き長らえる、そんな生き方を望む人はいるだろうか?死というものが何故怖いのか、それはそこに肉体的・精神的な痛みが伴うからだ。誰だって半身不随で苦しく生き長らえるのと苦しみが全くなく死を迎える選択肢から選択可能だとするなら後者を選ぶだろう。


しかしこれを一概に善だと決め付けることが出来ないのが「本人の意思の介在」だ。つまりは半身不随や重篤な症状を患っている患者が安楽死を望んでいる「意思」を汲み取れるかどうかという問題だ。喋ることも意思表示することも出来ない患者がいた場合、その患者をたとえ家族の同意があったとしても死に至らしめることが正義だと言えるかどうかという問題がある。もしかしたら患者自身は生きようと思っているかもしれない、安楽死なんてごめんだと思っているかもしれない、しかしその患者自身がその気持ちを表現することが出来ず、家族はもう安楽死を望んでいる。このようなケースで安楽死が行われた場合…それは「安楽死」というある種最も簡単な方法で綺麗に終わらせた「ように」見えるだけかもしれない。世の中での安楽死反対の動きの大半はここに起因しているだろう。こちら側の意見も重々よくわかるというものだ。
しかしだからといってそれを殺人として書類送検するのとは話が別だ。殺人とは人を殺すという意思が働いていることを意味している。「殺してしまった」であれば業務上過失致死であるのが正しいように思える。もし仮に安楽死を選んだ医師に患者を殺そうという意思が働いていたとすれば、きっと家族の同意を得ずとも呼吸器を外していたろうし、もっと用意周到ならば家族の同意を偽造したことだって考えられる。それをしていないにも関わらず「患者が亡くなった」という状況を一意で見て「殺した」と言われてしまえばそれは多くの波紋を呼ぶような気がする。


同じケースに先日起こった小牧市の立て篭もり事件がある。最初に犯人の家を訪れた警察官が首を撃たれその場に倒れこんだ。結果から言えばその警察官は5時間以上もその場に放置され、一命は取り留めたものの、一歩間違えば重大なことになっていたかもしれない。
「生きていたんだから」それでは済まされない。助けるつもりがあればあの警察官はいつでも助けられたはずだ、何の為に盾を持っているのかわかったものではない。5時間以上も負傷者を放置したのだから上記の考え方でいくならばこれも立派な職務怠慢、業務上過失傷害に問われて然るべきだ。それなのにそのようなことは槍玉に上がらない。これはどういうことなのだろうか?


亡くなったから問題、亡くならなかったから不問、このような考えを抱いている人はきっといないだろう。しかし状況だけ考えるとこうとられても仕方のないことのように見える。安楽死を善と捉えるか悪と捉えるかは人それぞれだし、どの意見が間違っていてどの意見が合っているかを判断することは誰にもできないかもしれない。真に悪しきは当事者のみが問題を顕在化していて、その他の人がそのことに無関心であることだ。
「もしも自分なら…」その考えの上で問題を客観的に捉えることは誰にでもできるはずだ。右から左へニュースが流れていく今だからこそ、1つ1つを軽んじることなく受け止めていくことが肝要だ。

















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Last updated  May 31, 2007 11:40:53 PM
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