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先日、この冬一番の積雪を記録。関東地方は雪が降らない。正確には、降るには降るが積もらないという意味だ。もともと太平洋側ということで雪が降ることも稀であるし、ましてや積もったりすることなんて本当に少ない。私が関東地方に遠征に来てから早4年が経とうとしているが、その中でも明らかな積雪として認識出来たのは両手の指で数えられる程だ。とは言っても5センチや10センチくらいなので微々たるものなのだが(笑)雪は雨と違って処理が非常に難しい。それに雪が降るだけならいいが、積もるとなると公共交通機関にも影響が出る。ダイアが乱れるだけならばまだいいが、最悪の場合電車そのものがストップしてしまうことも考えられる。車よりもむしろ電車の方が発展している都会の場合、そのようなことが起こってしまうのは致命的だ。ならば雪国のような雪に強い電車にすればいいのだが、前述の通り雪が積もる機会の少なさ故そのような策が施されることはない。ままならないものだ。まぁそういったマクロな見方ではなくミクロの見方をすると…通行の阻害になるというレベルの雪が降った場合、雪かきの必要性が生まれる。私の生まれ育った場所は雪国だったこともあって、雪かきというのは冬の恒例行事のようなものだ。今でこそ温暖化の影響か何なのかはわからないが、雪がそれほど積もらなくなってきたとは言え、それでも都会で積もるそれよりは明らかに雪の量が違う。故に雪かきも恒例行事となってしまうわけだ。今回はそんな雪かきについての話。先日の雪は、私の地域でも5センチくらいは積もった。流石にそれくらい積もると雪かきをするらしく、近くの商店街では雪かきを行っていたようだ。しかしそのやり方が実に表面的であることに気づいた。雪は積もったすぐが一番除去に適している。しかし夜間に積もる雪などはすぐに除去することが難しい。なので活動時間帯になったらすぐに雪そのものを完全にどかしてしまう必要がある。どかす場所は水が流れる場所であったり、通行の邪魔にならない場所が好ましいのだが、何故だか私の地域の周りでは、雪を表面的にしかどかさない。道の半分しか雪をどかさないのが主流らしかった。最初は私の家の周りだけかとも思ったのだが、どうやらそうではないらしい。歩けるスペースさえ確保出来れば後は雪かきをしないという一貫したスタンスを感じた。恐らくはそれが積雪地帯ではない場所の普通の雪かきなのだろう。あながち間違っているとは言えないものの、その方法では朝になって雪が凍った時に非常に厄介な存在になってしまうことが想像に難くない。もう少し確実性のある雪かきをして欲しいとも思ったのだが…地域性を考えると仕方ないのかもしれないと感じてしまった今日この頃だった。因みに…関東に越してきてから、等間隔で道端に設置されているポストのようなオレンジ色のタンクを見かけなくなった。最初は何故ないのかわからなかったのだが、その理由は1年も経った頃に理解出来た。見慣れると別に何でもないのだが、見ないと見ないでなんだか寂しいと思ってしまうのは私だけだろう(笑)
Mar 4, 2012
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久しぶりの友人より連絡が入った。その人と知り合いになったのは何時頃だっただろうか?少なくとも1年前とか2年前とかそんな時期ではない。もっと昔に知り合い、そして連絡を取るようになった。具体的な知り合い方なんて覚えていない。しかし古い友人になればなるほどそんな感じなのではないだろうか。はっきりと記憶に残っているものは確かに多いが、そうやっていつからつるむかわからない出会いの方が人生では多いように思う。その友人とは一度だけ会っただけだ。まぁ世間的にはこれを友人と呼ぶのか微妙なところなのかもしれないが、少なくとも私は友人だと思っている。その一度だけ会ったというのももう数年前になる。何故会ったのか、その時何を話したのか、そのようなディテールもまた記憶がおぼろげだ。ただ、その人がどんな人で、どんな感じの雰囲気なのかは結構覚えている。それだけで十分なのではないかとも思う。古い友人ならば、何年会わなくても結構顔や雰囲気などは覚えていたりするものだ。友達付き合いとは不思議なものだ。私にはもっと昔から知り合いの友人が名古屋にいる。もう何度もブログに登場しているし、このブログの1日目の内容を書いた時にすぐ横にいたくらいだ。少なくともこのブログ以上の歴史があることになる。その友人とは、今は住んでいるところが遠いせいもあってか、平均すれば2年に1度くらいしか会っていない。勿論その間に連絡はしているが、実際に会うのは大体2年に1度くらいだ。それでも実際に会えば話は弾むし、別に気まずいというようなこともない。私は常々そういうのは友人として最高のスタンスなのではないかと思う。よく「毎日のように連絡をする」だとか「頻繁に会う」とか「共通の趣味を持っている」というようなことを友人の定義として挙げている例を見かけるが、私はそういうものよりももっと友人としてのあり方のようなものがあるように思う。上述の友人とは毎日連絡をしないし、頻繁にも会っていない。趣味も多分全然違うだろう。だけど私とは長い間友人として接してくれている。だからこそ私は友人の本当の資質というのは、その人そのものにあるように感じる。どんなに他の要素が足りなくても、その人自身を認めていれば友人としての付き合いはずっと続くだろう。少しばかり雰囲気に依存した話になってしまったが、友人として大切なことはシンパシーだ。連絡を毎日する、頻繁に会う、趣味が合う、そのようなものを越えての人としての魅力を感じなければやはり友人にはなれないのだろう。だからこそ人間関係というのは面白い。そういう友人を沢山作れる人を、或いは人として魅力的な人と呼ぶのではないかと感じた今日この頃だった。
Mar 3, 2012
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まだまだ寒い日が続いている。今年は雪が降ることが少ないとは言え、それでもかなり寒い冬だと感じる。それは単純に私自身がそう感じているだけなのかもしれないし、或いはこのようなことを毎年言っているだけのような気もする。しかしやはり1月とは違う種類の寒さが2月にはあるような気がしてならない。そしてその寒さもまた毎年違った匂いがあるように思う。冬になれば空気が乾燥するという話がある。実際に部屋の中で加湿器を使っているという人も多いだろう。しかし、殊更外の空気だけについて考えるならば、夏よりもむしろ冬の方が外の空気には水気があるような気がする。仕事柄太陽が上るよりも早く活動しているわけだが、丁度朝の5時半頃の少しずつ明るくなり始めているような時間帯には、なんとも言えないような空気が流れているように感じる。勿論寒いのは寒いのだが、寒さの中にも微妙な水分がある。そしてそれは夏の朝よりも多いように思う。まぁ私だけだとは思うが。恐らくは冬の朝が大好きな分、贔屓目に見ているのだろう(笑)さて、本題へ。もうすぐ決算の時期だ。一般的な商社ならば、そうでもないと思うが、私の職場のような環境では、本当に人の入れ替わりが激しい。1年前までいたのに、もういなくなっている人なんて日常だ。新人が入ってきて1週間でいなくなったという話も語り草だ。兎に角入れ替わりの激しいところだ。そんなところにあって、決算期というのはより入れ替わりの激しい時期になる。3月末日を以って人員の移動がなかった年はなかったと言えるくらいだ。必ず何かある、それが決算期。今が2月の下旬ということもあって、決算期に於ける人員の異動の話は私の耳にも届いている。意外な采配ではあったが、想定の範囲内であったと言える。小さな驚きと溜息で迎えるのが恒例となりつつあるこの時期、ふと不思議に思ったことがあった。今回はそんな話。来期のメンバーも決まり、今期の締めに向かいつつあるこの時期、既存のメンバーを眺めていてある違和感を感じた。社歴の長いメンバーと浅いメンバーがいた場合、通常ならば社歴の長いメンバーがいなくなって新人を入れるというような動きがあるはずだ。しかしながら、今年に限らず私の現場ではその観点から人事を行っていない。1年目や15年目の人が残り、8年目の人がいなくなるということがいつも見受けられた。まぁこのような采配は、単純に新人の育成を考えてのことや、もう社歴の長い社員は次の受け入れ先がないから囲うというような様々な因子があるわけなのだが…残ったメンバーを眺めていてある共通点に気づいた。それは…仕事が出来る人は皆イケメン!!これは私の職場だけではなく、色々な職場にとっても同じことが言える気がする。仕事が出来る人は往々にしてイケメンだ。これは逆説的な意味も孕んでいるかもしれないが、それでもやはり確固たる事実のようだ。仕事が出来るから職場に残り続ける、それが真理に思えて仕方ない。長年いるようなベテランの方はイケメン率が非常に高い。歳を召した方も多いので、イケメンというよりは渋いという方が正しいかとも思うが、一意的に言うと「カッコいい」と換言出来るものではある。やはりカッコいい人は仕事も出来るということなのだろう。で私はと言えば、旧案件のメンバーの中でもかなりの古株になってきている。それは必要だから残されているようにも思えるが、単純に首を切る理由がないだけにも思える。結構長くこの仕事に従事している私がイケメンかどうか…それはきっと全ての人が首を横に振ることが目に見えている。まぁどのような法則にも例外はあるということだ(笑)
Feb 21, 2012
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6歳と言えば、どれくらいだろうか?来年、小学校に通うことが決まっていて、ランドセルなんかを買って貰って毎日つけたりして小学校に行く練習をしているような時期だろうか。それともまだ見ぬ小学校で沢山友達が出来るか心配しているような時期だろうか。どちらにせよ今までにはないような環境の変化が待っている時期だと言えよう。私のブログも今日でその6歳になったわけだ。思えば、かなり長くやっているように思う。小学生なら入学から卒業迄経験したのと同義だ。こう言えば長さがわかりやすいだろう。而して長ければいいというものでもない。内容が大切なのがブログだ。その観点で考えてみると…まだまだだと言わざるを得ないだろう。食材をどう扱うかが料理人ならば、ネタをどう昇華させるかがブロガーの持ち味だというわけだ。そういう意味で言えば私はまだまだ2流だ。反省点の方が多いからだ。まぁそのような諸々の思いがあれど…無事に6年を迎えられたのは偏にアクセスして下さる方のお陰だ。常にそれは忘れないでいようと思っていることでもある。読んでコメントを残してくれる貴方がいるからここがある、それは間違いない事実だからだ。これからもまぁまぁそこそこの面白さを発揮出来れば及第点をモットーに頑張っていこうと思う。ゴールが明確に決まっている以上、そこに向かう足取りは年々軽くなってきているつもりだ。たとえそれが100万キロの道のりを1キロ縮めただけだとしても(笑)
Feb 20, 2012
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ルオンノタルの強さは異常。関東地方は地震が多い。考えてみればもうあの震災から1年が経とうとしている。それでもあの震災以降、微弱な地震の数が増えたのは事実だ。1日に地震は二桁以上は発生しているとは言え、体に感じる程の地震というのはそうそうないものだ。にも関わらず、震災以降のこの1年ではあまりにもその回数が多いように感じる。やはり余波は確実にあるのだろう。そんな日々が続いているわけなのだが、先日少し変わった出来事があった。今回はその話。先日、私は休みの日を家で過ごしていた。家のこともやってしまったし、殊更何もすることがないということでまったりしていたわけだ。すると、近くに置いておいた携帯電話から聞いたことがないような音を発し始めた。まるで警報のような音だった。買い換えてから間もないというのにもう壊れたのかと心配してみてみると、どうやら何かの報せを受信したようだった。よく見てみると、それは緊急地震速報だった。「茨城県沖で強い地震が発生、揺れに注意して下さい。」そんなような内容だったように記憶している。今までそのようなメールは受信したことがなかったので、真偽の程が疑わしかったのだが、事実その30秒後に家が小さく揺れた。その時には緊急地震速報の凄さを身をもって知ることになったわけだが(笑)それが丁度1ヶ月程前になるだろうか?それからも結構強めの地震は何度かあったものの、それ以降一度も私の携帯電話は緊急地震速報を受信していない。頻度低いんじゃあ意味ないんではないか!?確かに地震予知は非常に難しいことだということはわかっているし、全ての地震について対応していたら緊急性が希薄になってしまうのもわかる。しかし100あるうちの1つか2つくらいの地震を検知したところで、その信頼性について評価出来るだろうか?しかもその一度だけ受信した緊急地震速報も、速報が届いてから30秒程で地震が来てしまっている。揺れとしては軽微だから問題なかったようなものの、もしもこれが震災と呼ばれるレベルのものだったなら…30秒で一体何が出来るだろうか?せいぜいガスの元栓を消すくらいが関の山だ。まぁそれでもしないよりはマシだろうが…なんとも言えない感じだ。地震は根本的に無くせないし、予知も難しいと聞く。地震関連の事象については後手後手になってしまうのは仕方ないことだ。今はまだある程度の予知が出来るだけかもしれないが、将来的にはもっと高確率に地震を予知出来るようになることを祈って止まない今日この頃だった。
Feb 15, 2012
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参謀30とエクLIMでは、エクLIMの方が好き(笑)本日はお休みだった。先日の結婚式の二次会の為にとった休暇の派生とでも言うのか、もう1日貰った休みだったというわけだ。生憎と、先日ブログにも書いたように、結婚式の二次会から同窓会に雪崩れ込むといった流れに私は関係ない。今日の休みは予備日のようなものであれ、実質的にはただの休みだったというわけだ。さて、やることがないとは言っても、一人暮らしの休日はそれなりにやることがある。家のことは放置しても誰もやってくれないからだ。そんなわけで今日も今日とて掃除を始めることにした。まぁもう長年やってきた流れの一部だ。掃除をしながら私はいつも考え事をする。大体はブログの内容についてだ。どのような構成にするのか、何を中心に置くのか、そのようなことを考えながら掃除をする。そうすると、丁度電話をしながら電話のコードをくるくるしてしまうのと同様に、掃除が凄く捗る。これは最近見つけた方法だ。そんなわけで、いつものように掃除を始めた。考えながら掃除をしていたのだが、掃除も終わろうとした頃、かなりいいものが思い浮かんだ。構成もばっちりだし、それなりの文量も期待できる。これは今日は大丈夫だなと思った矢先…それは霧散した。それから今に至るまで、必死に思い出そうとしているのだが、結局思い出せないでいる。すぐに思い出せないことはどうでもいいことだという言葉もあるくらいだから、恐らくその時には価値があったものでも、客観的に考えれば価値がなかったのだろう。或いは書かない方が良かったようなものなのかもしれない。夜に考えたラブレターくらい危険な因子があったのかもしれない(笑)というわけで、今回の内容は内容を失ったということを内容にしたブログと相成ったわけだ。考えてみれば、こういう系統のものは1年に2度くらいのペースで書いているように思える。期せずして鉄板ネタになりつつあるのが正直あまり快くない今日この頃だった。
Feb 12, 2012
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今日は友人の結婚式の二次会に参加してきた。結婚式とはめでたいものだ。露骨な幸せがそこにあるから。換言すれば幸せの塊とも言えるようなその場は、皆が笑顔でとてもいい空間だと言える。そしてそこに参加出来ることは、とても光栄なことだと思う。結婚式に呼ばれるかどうかというのは、もろに人間関係が影響するからだ。結婚というめでたい場に於いて、仕事関係以外で嫌いな人は呼ばないだろう。自分達の幸せを祝ってくれる人だけでやりたいと思うのが普通だ。そしてそこに呼ばれたということは、ある意味では信頼されているということになる。普通なら…今回私が呼ばれたのは、以前に飲み会をした面子の女の子の一人が結婚するという名目だった。かなり好意的な見解をすれば、友人だということになる。冒頭で私が「友人の」と言ったが、それはあくまで私がそう思っているだけで、向こうがどう思っているかはわからない。まぁ呼ばれたのだから悪い印象ではないだろう。そしてそれは喜ばしいことだ。普通なら…。私が何をそんなに言葉を濁しているのかと言うと、その結婚式二次会の状況にある。なにしろ…参加者は60名いたのだが…私が知っているのは新婦含めて4人という状況だからだ(笑)新郎さえ知らないし、参加している人の9割近く知らない人の状況だ。これが導き出す場の空気というのは、何やら同窓会のような雰囲気の中にいる異物という感じだ。明らかに誰も私を知らない状況で「誰だあれは」という空気が遠慮がちに流れる場になることは想像に難くない。だから私は憂鬱だった。そして予想していた空気は、見事的中した。勿論悪い意味で。二次会が始まった途端に流れ出す「懐かしいねぇ」という空気。そしてお互いの近況を報告しあう人々。その中で私は明らかに異質だ。どう考えてもそこにいるべき存在ではない。なので私は部屋の隅っこで料理もお酒も口にせずにただ立っていた。言及されるのが嫌だったからだ。そしてそんな時間が40分程過ぎた頃、始まってしまった、あのイベントが。そう、ビンゴ大会だ。結婚式二次会の恒例とも言える行事。これが異分子付の二次会では、かなり殺伐とした空気になってしまう。新郎・新婦の懐かしい知り合いが当たったならば、そこでお祝いのコメント等を残してにこやかに終わることは想像しやすい。そして場には和やかな空気が流れる。しかし今回の私のような存在がビンゴになろうものならば、かなり白けた空気が流れることになる。誰も知らない存在が商品を持っていく、この図式は結婚式の二次会というめでたい空間に於いては異質なもの以外の何物でもない。だから私は参加しながらも参加しなかった。ビンゴした人が出た時に大きな拍手をおくる要員に徹したわけだ。今さっき家に帰ってきたのだが、気を張り過ぎていて気持ち悪くなってしまった。色々な方面に気を遣って存在感を消していたが故に、楽しめる状況ではさらさらなかった。ともあれ、二次会はとても幸せそうな雰囲気でとても良かったように思えた。これからが大変な時期ではあろうが、結婚した2人に幸多からんことを♪
Feb 11, 2012
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人は窮地に陥ると冷静さを欠く。いつものことをいつものように出来るのは当たり前だ。大切なのは、イレギュラーな時に冷静でいられるかどうか。これがまた非常に難しい。何かが起きた時、しかもそれがかなり大きな規模の時、冷静でいられるかどうかは、ある意味では性格が影響するようにも思えるが、実はそこは経験がものを言うことも多い。初めて経験したことでは誰しもがイレギュラーに対して慌てることだろう。そしてそれによって冷静な自分ではとらないような行動をとってしまうかもしれない。それはある程度仕方ないことだ。それによって人は学び冷静さを会得していくからだ。こんなことは当たり前のようにも思えるが、実はかなり難しい。常に一定のリズムで行動することはかなりの経験を積まないと困難だ。そして私は何故だかそんな人に見られがちだということに最近気づいた。周りからの評価がそうだと、少しのことでは動揺出来ない。期待されていると言えば過言かもしれないが、それでも冷静だと思われていることはプラスであることは自明だ。私の好きな作家さんの言葉にこんなものがある。「動揺することは得になりえるが、動揺していると思われることは明らかに損だ」つまりは心の中では動揺していても、それを表面化させなければ問題ないと言うことだ。人は心の中まで見透かされることは殆どない。つまりは表面的にでも冷静さを保つことが出来れば、それは物事を優位に運ぶ可能性が残されているということだ。だが、万事に於いて冷静でいることは非常に難しい。人の評価を保つことも同様に…だ。人の評価というのはなかなかに行動云々を縛り付けるものだと感じた今日この頃だった。
Feb 10, 2012
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とは言ってもラジオの話ではないので悪しからず。私の家の周りは結構なレベルでの田舎だ。大きなショッピングモールもなければ、有名なお店があるわけでもない。所謂普通の住宅地だ。何か買い物したくしても電車に乗って出かけなければ何もないようなところに住んでいる。だが、そんな場所でも必ずあるものがある。今やそれがない地域を見つける方が難しいくらいだ。それはコンビニだ。コンビニには多くの種類があり、どうやら地域によって多くあるコンビニとそうではないコンビニがあるということに最近気づいた。地域性とコンビニの量と種類には何かの因果関係があるような気がするが、単純にコンビニ経営母体の絶対的な位置に起因しているようにも思える。まぁそこは特に掘り下げるつもりもないが…(笑)日本中をコンビニが埋め尽くすように、私の家の近くにもコンビニがある。一番近くのコンビニはFMなのだが、今の家に引っ越してきての3年間かなりお世話になったコンビニだ。3年間も通っていればそれなりに人の出入りもわかってくるし、よく見ていれば店員の変遷も見ることが可能だ。私は元来人間観察が好きなこともあってか、お店の店員等はよく観察してしまう。今回はそのFMの話。彼が入ってきたのは何時だったろうか?少なくとも半年前にはいた。彼は兎に角異質だった。通常研修中のアルバイトというのはそこまで異彩を放つものでもない。通常通りのマニュアル型の店員を育成する途中だからだ。経営する側にとっても欲しいのはコンスタントに働ける人材だ。そこに特殊なノウハウは要らない、普通ならば。しかし彼は違った。初めて彼を見て、そして彼の接客に触れた時から、何かが違うと感じていた。具体的に何が違うのかを明確に理解するまでには少しだけ時間が掛かった。最初はただの違和感だった。たとえるならカスタードの中にマスタードが混ざっているような違和感、そんな感じだ。一目にはわからない異彩が彼にはあった。明確に違和感を感じたのは、ある時私が入店した時だった。コンビニは客が入店すると店員全員で挨拶する風潮にある。その時も挨拶をされたわけなのだが、件の彼の挨拶は何かが違っていた。声が変なのではない、ましてや発音も問題ない。しかし何故だか異様に耳に残る挨拶だった。例えるなら、電車内のアナウンスのような…耳に残る感じだった。とは言っても…コンビニの店員の入れ替わりは激しい。接客がとても丁寧で好感が持てる人がいたとしても、すぐにいなくなってしまうものだ。私が見た彼もきっとすぐにいなくなってしまうだろうと思っていた。しかし予想に反して今でも現役で頑張っている。ただ挨拶が耳に残るだけの店員、そんな彼なのだが、その後店全体に影響を与えるような存在になる。それはまた別の話(笑)
Feb 2, 2012
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今日は風が強くて寒い日だった。朝起きてベランダへ出てみると、ベランダ用の履物が飛ばされてしまっていた。これは私の家独特の風の強さを示すバロメータのようなものだ。風が比較的強くても、履物が飛ばされなければ外へ出たとしてもそこまで風が強いと感じることもないのだが、履物が飛ばされている時に外へ出ると風の強さを体感出来ると言った具合のものだ。冬の寒さと履物が飛ばされているという状況を鑑み、今日は外出を控えることにした。そういえば部屋の電球が1つ消えてしまっているが、それは明日にしようということで落ち着いた。どうやら私には小さなことは先に回してしまう傾向があるようだ。悪い兆候だと言える(笑)さて、本題へ。私の家の近くには商店街と呼ばれるものがある。私が勝手に商店街と呼んでいるわけではなく、商店街そのものが「ここは商店街ですよ」と言っている。つまりは町が認めた商店街だというわけだ。因みに商店街とは…商店街は、一般には道路の両側に店舗が張り付く形態が多い。このため商店街は横の百貨店とたとえられた時期もある。中には、これらが複合化し実質的に面状の商店群を形成しているものや、わき道に飲食店やファッション関係の小店舗など、路面店とは別の業種・業態の店舗が張り付き、魅力ある市街地を形成している例も多い。また、イメージアップのためにアーケードや街灯、カラー舗道等で、商店街であることが視覚的に認識できるようにしているものも多い。アーケードや街灯、舗道の形や色が途中で変わるのは、商店街組合の境界を示す一例である。 (WIKIPEDIA引用)とある。定義的には上記の事項の条件を満たして初めて商店街となるわけだ。しかしながら私の家の近くにある商店街はそうではない。むしろかなり穿った形での商店街だと言える。まず特筆すべきは、同じ店ばかりがあるという点だ。商店街だというくらいだから、店の数はそれなりにあるわけなのだが、どういうわけか同じ種類の店ばかりが並んでいる。例えば、美容院とパン屋とクリーニング屋、この3つは何故か商店街の中に3つずつある。商店街の中の何処かの店が潰れてしまって新規でテナントを募集している時には、何故か毎回もう既にある店が並ぶことが多い。後は、商店街と言っている割にアーケードがないことや、舗道の統一性がないことも挙げられる。商店街だと言いながら、そこが商店街だと認識している人はかなり少ないのではなかろうか。あと致命的なのは、スーパーの存在がないことだと言える。商店街と言えば大なり小なりスーパーの存在は欠かせない。そこを中心に始まっていると言ってもおかしくないあ。しかしその存在も見受けられない。なんだか変わった商店街だという印象を受けるには十分だろう。この間も1つ店が潰れて新しくクリーニング屋が出来た。通り100メートルの範囲にクリーニング屋が3つもあるのはどう考えても不合理なように思えて仕方ない。それならば全く別種の店をおいた方が幾許か効率的なように感じて仕方ない。でも考えてみれば今の世の中そのような形での商店街などは多いのではないか。結局まわりまわって同じ種類の店でしか形成されないのは、設備等を安くあげることを考えれば当然のことなのではないか。そうも感じてしまう。新しいことを始めるには何かとお金が掛かるのであり…そしてそのお金を簡単に捻出出来るほど地域は潤っていないのかもしれない。そう考えると私の家の近くの商店街も頑張っている方なのかもしれない。確かに美容院とパン屋とクリーニング屋ばかりがある商店街だが、その気になれば汎用性を感じることも出来るかもしれないからだ。まぁ…今のところ私にはあまり利用価値のある場所ではないが…(笑)
Feb 1, 2012
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いい天気だ♪何も予定がなければ外へ出てまったりと散歩でもしたい天気になった朝だった。寒いのは寒いのだが、この季節の寒さはなんだか身が引き締まる思いがして好きだ。息を吐くと白く可視化されるのもまた気持ちいい雰囲気に拍車を掛ける。兎に角気持ちのいい雰囲気だ。そんな日に私は…会社に遅刻した。。。考えてみれば私が会社に遅刻したのはもう数年ぶりになる。仕事を始めて2度目の経験だ。1度目は起きたタイミングがどう考えても間に合わない時間帯だったのだが、あまりの気の動転に、間に合うものだと思って全力で走ったのを覚えている。スーツを着ていたのだが、そんなことを気にもせず古都京都の町並みを走り抜けたわけだ。いつもは風情を感じる風景も全く目に入らないし、何よりそんな私の存在が風情を失わせている一番の原因であることを知っていたからだ(笑)そして2度目は今日だ。転勤後は初めての経験となった。しかし今日はあまり走らなかった。それは別に2度目だから慣れたというのではなく、惜しくもなんともなかったからだ。起きたのが始業の時間だったので…確かに気は動転したが、それでも以前の時よりは冷静だった。関係各所に謝らなければならないこと、身の振り方、そのようなことを延々と考えながら出勤した。勿論いつもの2.5倍くらいの早足で、だが。こういうことをやらかしてしまうと、1ヶ月くらいは寝ることが怖くなってしまうのが私だ。まるで臆病なのは百も承知だが、それでも遅刻した時の感覚はえもいわれぬ感覚があるものだ。出来るならば味わいたくはない。これから暫くは眠りに対して消極的な日が始まるのだと思うと少々気が滅入るのだが、自分のせいなのだから仕方ないというやるせなさを何処にぶつけていいのかわからない今日この頃だった。
Jan 31, 2012
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雪が降った次の日は晴れる可能性が高いように思う。恐らくそうではないこともあるだろうが、少なくとも私が生きてきた今までの経験から考えるとかなり確率は高いように感じる。次の日の晴れは放射冷却の影響でかなり気温が下がる。晴れていたとしても、下手をすると雪の日よりも寒いこともままある。あくまで朝の気温の話だ。そうなると非常に外に出るのが億劫になる。ぬくぬくと部屋で過ごそうとインドアな考えが頭を過ぎるわけだ。しかしながら、悲しきかなそういう日に限って仕事だったりする。私はそういう運命の星の下に生まれたのだろうかと感じる程に(笑)さて、本題へ。仕事に於ける1人前というのは、全ての仕事がソツなくこなせるかどうかよりも…もっと違うところにあるような気がする。仕事を覚えるのは書いてあることを覚えることだ。それは実践的に何かをやっていくうちに経験則として自分の中に培われるものでもある。人間は学習能力が高いのだから、同じことを何度もやっていればそれなりに覚えていくものだ。勿論そこに積極性による差異は当然ながら発生するが、嫌々やっていたとしても、長い月日やっていればやはり覚えてくる。そうやって様々な仕事をしているうちに、どのような仕事でも出来るようになってくる。仕事をやるだけではなく、やっている仕事の持っている意味まで考え出すとかかなり内容を理解出来ているところまできているのかもしれない。世間ではそのような状態になることを一人前になることだと認識しているようだが、最近私はどうも違うような気がしてきた。確かに仕事を覚えてどれでもこなすことが出来ることが一人前の条件の1つかもしれない。しかし、それだけでは足りないように感じる。営業職や技術職はそれでも1人前と呼べるかもしれないが、所謂ルーティンワークをこなすような仕事の場合には、それだけでは足りない。私が思うに、自分ならではのやり方で仕事を効率的に回転させることが出来る人を1人前と呼ぶように感じる。例えば普通にやれば3時間掛かる仕事があったとしよう。普通にやれば3時間なのだから、当然納期は3時間と見積もられる。普通にやっていれば3時間で終わるのだから、3時間以内に片付けてしまえばまぁ文句を言われることもないだろう。この仕事について「3時間で終わらせればいいや」と感じるか「出来るだけ早く終わらせてみせる」と感じるかに1人前とそうでないかが分かれるように思う。確かに3時間なのだから、それまでに終われば何の問題もない。目の前にある仕事はそれだけではないのだ。「仕事なんか探せば幾らでもある」と言うように、当初の仕事が終わったから終わりというわけではない。3時間をいっぱいいっぱい使って仕事をする人は、確かに3時間の仕事は終わるかもしれない。しかし効率的に物事をまわす人は3時間以内で仕事を終わらせて次の仕事に着手することが出来る。焦ってやるだとか、早くやることを指すのではなく、効率的にやる、これが重要だ。どのような局面でも効率性を重視する人は、そのうち仕事になくてはならない人材になることだろう。この「なくてはならない」という点がそのまま1人前の条件であるように最近では思うのだ。勿論そうは思わないという意見もあるだろうし、私がそれに反論するつもりもない。しかし少なからず職場に必要とされる人材は、先の先を見据えて仕事をしている。結果的に仕事が効率的に片付いていき、仕事が出来るという評価を受けるのは必ず上記の人物であるのは言うまでもないことだ。仕事を始めてもうそろそろ5年になろうとしているが、私はまだまだその境地には達しない。勿論そうなる為の努力はしている。確かに私の仕事は社会から見れば末端の末端かもしれない。しかし私はそれでもそれなりの矜持を持って仕事をしている。仕事に上も下もないように、私の仕事もまた極めるに値するものだと思っているからだ。現場にいる1人前の人は、確かに他の普通の人とは違う雰囲気を持っている。そのようになってこそ初めて見える仕事の本質があるのではないか、最近ではそう感じ始めている今日この頃だった。
Jan 25, 2012
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昨日は久しぶりに雪が降った。関東地方に雪が降るのは結構珍しいことのように思う。私は日本海側出身なので、雪など見慣れたものなのだが、そんな雪でも数年間見ないとそれなりに珍しいものだと感じる。関東に転勤になってからは如実に雪を見る回数が減ってきている。昨日見た雪もなかなか新鮮な気持ちで見れたものだった。さて、本題へ。血液型で人となりを決めるというのは日本だけの風習らしい。血液型は基本的には4つしかない。たったそれだけの要因で何億人といる人を4つにカテゴライズすることは早計なようにも思えるが、実際に書籍にされて出版されている血液型の本を読んでみると、それなりに当たっているようにも思えるから不思議だ。科学的に根拠がないと言われている血液型による性格の決めつけがなくならないのはそういった背景があってのことだろう。かく言う私もそれなりに血液型による人の性格については満更信じていないわけではない。当たっていない部分も確かにあるが、当たっている部分があるのも事実だからだ。その中でも私が一番興味があるのが、AB型の性格診断だ。これが意外に面白いものだ。今回はそんな話。私自身がAB型だからだということもあるかもしれないが、他の血液型による性格診断よりも、AB型のそれは非常に的を射ているように感じる。本などを見てみても、当たっていると感じるところが非常に多いし、私の周りにいるAB型の人の人となりを見ていても、自分とよく似ていると感じることが多いからだ。とは言っても、自分のことはなかなかわからないものだ。貴方はこういう性格ですよと誰かから指摘されたとしても、自分自身がそうかもしれないと感じなければただの妙な意見として片付けられてしまうからだ。殊更この傾向はAB型に多いように感じる。しかし私は最近気づいてしまった。AB型というものの恐ろしさに。先日仕事をしていた時だ。その時一緒に仕事をしていた人の中にAB型の男性がいた。彼は以前から職場内でかなり変わった人格だと言われていたのだが、私には同じ血液型だということもあってそこまで納得出来ることもなかった。恐らくは同属擁護の気持ちがあったからだろう。しかしその考えもその日改められることになった。仕事が始まって数時間、忙しい時間帯も一段落し、私はその人とは別の人と談笑していた。内容はあまり覚えていないが、かなり盛り上がっていたように感じる。するとその問題の先輩が話に入ってきて何やら知識のひけらかしを始めた。その先輩は知識の量は凄く、色々な分野についての知識を持っていた。しかしそれはあくまで本の中に書いてあるような知識の質であり、自分が実際に経験した上での知識ではないこともまた周知の事実だった。盛り上がっていたのだが興が削がれた私は話を離脱し、少しだけあった仕事に戻ることにした。私と最初に話していた人もその人の相手をしていたのだが、暫くすると仕事に戻ったようだった。また数時間後、また仕事が一段落したところで、今度は私が例の人以外の3人で話をしていた。確かその時には電車か何かの話をしていたように思う。盛り上がっていたのだが、ふと背後に気配を感じて振り返ってみると、案の定その人がいて話に入りたそうにこちらを見ていた。仕方ないので話を振ると、また話に入ってきて知識のひけらかしを始めた。面倒になったので私はまた仕事に戻ることにした。まぁこれだけ聞けば普通にあることだと感じるかもしれない。しかしその人の会話への割り込みと知識のひけらかしには以前より辟易としていた。まぁそれがその人の性格なのだろうと割り切ろうと思ったのだが、私はそこであることに気がついた。その人がAB型だということは、私にも気づかないうちにそうやって人の気分を害していることがあるかもしれない…。確かに私も新しい知識があれば誰かに話したくなるし、そこから会話が始まれば面白いだろうなと感じている節がある。もしかしたらその関係で誰かに嫌な思いをさせている可能性だって大いにあるわけだ。そのことに気づいた私は、その日以降思うが侭に話すということを自重するようになった。自分の話をするだけではなく、相手の話を聞いてそれについて意見するという会話形式を重んじるようになったわけだ。杞憂かもしれないと言えばそれまでだが、自分で自分の短所に気づくには少なからず他者の存在は重要だ。今回の私のように、実例があって気づかされるようなパターンはむしろ幸運だと言えるかもしれない。他者とのコミュニケーションは色々と煩雑なところもあるというのが本音だろうが、それでもそこから学び取ることがあるからこそ面白いのかもしれないと感じた今日この頃だった。
Jan 24, 2012
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そういえば、実家に帰った話をしていなかった(笑)最近物忘れが激しいような気がする。昔から物忘れは結構多かった私なのだが、最近は頓にその傾向が強いように感じる。これも年齢のせいなのだろうか?いつまでも若いままではいられないのかもしれない。1つ飛ばしになってしまったが、実家に帰った時の話の続きだ。兄と義姉に会うのは半年ぶりくらいかもしれない。私はそれまでは関東に引っ越したこともあって、殆ど家に寄り付かなかった。それは単純に帰省するにしても移動距離が長いだとか、それに掛かる時間が勿体無いだとか、様々な理由があった。それらの本当に些細な理由を「仕事が忙しいから」という大きな理由で包み隠しながらなんとなく避けていた、そんな感じだった。決定的な理由は多分ないんだろうと感じる。だが、そんな私が1年に2度は確実に帰省するようになった。その理由は義姉が出来るからだということ以外にはない。私は昔から姉が欲しかった。しかし姉というのは自分が生まれ出でた段階でいなければ出来るものではない。兄も同様だ。そんなわけで私に与えられなかった要素の1つとして姉が欲しかったのだと思う。ないもの強請りとも言うが(笑)私に義姉が出来るかもしれない、そう具体的に感じたのは去年くらいだった。初めて義姉に会ったのもそれくらいの時期だったかもしれない。兄と義姉は本当に仲が良い。羨ましいくらいだ。兄も義姉も私に会いたがってくれている。それは遠くに住んでいるからなかなか会えないこともあるのかもしれないのだけれども、少なくともそうやって口に出して言ってくれているというのは悪い気はしない。結婚の話が明確に出だした頃、私は早く帰らなければならないという気持ちになっていた。多分兄と義姉の結婚を一番喜んでいるのは私なのだろう。今回の帰省の目的は色々あったのだが、一番はやはり兄と義姉と3人で飲むことだった。これが帰省の一番の目的だからだ。美味しいお酒を飲みながら腹を割って話すのはやはり何物にも変えがたい価値があるように感じる。いざ飲み会が始まり、以前に帰った時から今に至るまでの話をした。私も流石に手ぶらでは帰れない。ちゃんと帰るに値する話を仕入れてきたわけだ。こんな私にも彼女が出来たという話だ。どうやら兄も怜さんもこのことに興味津々だったらしく、必要以上の追求が始まった。私の生まれが超がつくほどの田舎であることもあって、遊びに行くのにテレビの中でしか見れないような場所に行っているという話に激しく食いついてきていた。兄もしばらくは都会で暮らしてはいたが、仕事と長男であることを鑑み地元に帰って早数年、すっかり田舎の人と化していた分、話には食いついてきていた。話もお酒も進んだ頃、兄がトイレに立った。この時がチャンスだ、遂に私の願いの1つである怜さんを「義姉さん」と呼ぶというエクストリームチャレンジが始まった(笑)最初は自然な流れから言おうと思ったのだが、意識すると何故だか上手く言えない。意識すればするほど言う機会を逸してしまう。兄は少々飲みすぎたせいかなかなかトイレから帰ってこなかったので、かなり長い間チャンスがあったにも関わらず、したのは私の彼女の話くらいだった。ついぞ義姉さんと呼ぶことは出来なかった。帰りの電車の中で自分の体たらくについて反省しながら、頭は次に帰省することについて考えていた。次は恐らく兄の結婚式だろう。年内には挙式するとの事なので、いつからかカンストしている有給をフルパワーで使い切って参加することにしよう。その時には正式に兄と怜さんは夫婦ということになる。そうなれば気兼ねなく呼ぶことが出来るだろう。私の長い間の夢もその時叶うような気がする♪
Jan 23, 2012
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おこたりて磨かざりければ光ある玉も瓦にひとしからまし少し遅い初詣に今日行って来た。取り敢えず場所は有名どころということで明治神宮にしてきたわけなのだが、ただの日曜日のはずなのに観光客が非常に多かった。それだけで名所の片鱗を窺い知ることが出来るだろう。明治神宮前の橋を渡っている時に、この風景は何時か見たことがあると感じたのだが、渡りきる前にその記憶を固着させることが出来た。私は確かに明治神宮に来たことがあった、12年前に。その時は確か中学校の修学旅行だったような気がする。見るもの全てが都会の一端であり、珍しい以外の何物にも形容出来なかったその建物群の中にあって、その印象よりも班員の1人が約束の時間に来なかったので残りの班員で探し回ったというエピソードの方が強烈に頭の中に残っていることを思うと、インパクトの差を思い知る程だ。というわけで2012年の初詣が今日となったわけだ。冒頭の文章は私が引いた御神籤に書かれていた一文だった。由緒正しい名文のようなのだが、考えてみれば当然のことを言っているように思える。まぁ今の私にはぴったりの言葉なのかもしれない。この一年はこの言葉と共に歩んでみようと感じた今日この頃だった。
Jan 22, 2012
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1月の初旬、突然大きな連休を頂いた。私の職場だけがそうだとは思わないが、私の職場は休みが少ない。勿論規定通り貰ってはいるのだが、体感的に少ないのだ。いつもだというわけではないが、私の職場の夜勤の明けを休みとすることがある。確かに表記上は明け「休み」とされているわけなのだが、実際のところ休みかと言われればそうではない。なので休みと言われたところであまり実感もないというわけだ。夜勤をやったことがある方ならばわかると思うが、夜勤の明けというのは相当疲れが溜まっている。どんな疲れも仕事が終わればスッキリ♪と言いたいところだが、予想以上に疲れというものは蓄積するものだ。故に休みだと言われても明けは寝て過ごすことが殆どだ。時々元気な時もあるのだが、比率にして8:2くらいで疲れている方が多い。それで休みだと言われると釈然としない気持ちは察して頂けることだろう。まぁそんな感じで休みが体感的に少ない私の職場なのだが、稀に巡り合わせで大きな休みを貰えることがある。今回がそれだった。何をしようかよりも何処へ行こうかとすぐに考えてしまった。私は元来アウトドア派ではないのだが、仕事柄どうしても休みの日にはどこか出かけたくなってしまう。しかし1日くらいの休みではその気は起きない。それはやはり一人暮らし故の家のことがあるからだ。休みの日には家のことをしたい。片付けなければならないことは山ほどある。なので、出かけるにしてもかなり大きめの休みが必要だというわけだ。さて、その点を考慮した上で今回の連休を何に使おうかと思ったのだが…結構あっさり決まった。帰省することにしたのだ。考えてみれば、1年ほど前から私には帰省する大きな理由があった。それは兄に会う為だ。兄自体はもう見慣れたものなのだが、本当の目的は兄の彼女さんにある。怜さんと言えば、もう何度もブログには登場していることだろう。私自身あんなに兄と波長が合う人を見つけたのは初めてだった。私も兄も同じAB型だ、所謂ちょっと(かなり贔屓目に見て)変わった性格をしている。そんな兄の彼女なのだから相当器が大きい人なのだろうと思っていたが、実際に会ってみての衝撃はそれはそれは相当のものだった。その怜さんと兄が結婚するという話が飛び込んできたのはもう半年も前の話になる。そのニュースを聞いて私はかなり嬉しかった。人のことでこんなに自分が喜べるのかと自分自身驚いた程だ。それほどまでに嬉しかった出来事だった。結婚を決める前にも何度も怜さんに会っていたが、前述の通りかなり波長が合う人だった。こんな人が私の義姉さんになってくれたら凄く嬉しいだろうなと思っていたので、この結婚のニュースは私にとっても喜ばしいことだった。そして今回の帰省は結婚が決まって初めて帰る場となったわけだ。帰りの電車の中、私は驚くほどに緊張していた。怜さんに初めて会わせてもらった時の緊張感の何倍もあっただろう。それはやはり本当の義姉さんになるにあたっての私の身の振り方を考えてのことだった。開口一番にはまず祝福の言葉だろう、だとか色々な考えが巡り巡ってよくわからない状態に陥っていた。取り敢えずさしあたっての課題は一度でも「義姉さん」と呼ぶことだろうと決めて、私は帰路を急いだ。と、まぁそんな感じで続く(笑)
Jan 19, 2012
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本日は2回目の新年会と相成った。私のような仕事をしている人間というのは、仕事と一口に言ってもかなり多くの会社の人と接することになる。取引先という形で関わっているということは多いかもしれないが、私の仕事の場合にはこの「取引先」という言葉の意味が若干異なる。端的に言えば、もっと深い密接な関係があるというわけだ。なので、忘年会をはじめ、新年会も関係のある会社毎に行われることになる。そんなに多くの会社で新年会をそれぞれ行うのであれば、いっそ全部ひっくるめて1回で済ませばいいのではないかとお思いになるかもしれないが、そう簡単にいかないのがこの業界の常識だ。例えば私の会社がA社とB社の2つの会社と懇意にしているとして…私の会社とA社に関係があることをB社に知らせてしまうとまずいのだ。そうなってしまうと今の関係がまずい方向へと進んでしまうことになる。この関係は丁度二股をかけている男性の絵を考えてもらうとわかりやすいと思う。クリスマスのようなカップルにとって大切なイベントを二股をかけているという理由で二人ともと一緒に3人でやるわけにはいかないだろう。まぁ例は悪いかもしれないがそんな感じだ(笑)というわけで、今年2回目になる新年会に今日行ってきた。結論から言えばまぁまぁ楽しかったのだが、こういう機会は非常に有用であると感じる。確かに仕事の為に1日フイにするのだからあまり好意的に解釈されないことが殆どなのだが、お酒が入っているからこそ聞ける話があるというのも事実だ。会社の人とは会社の人としての付き合いがあるが、どこまで行ってもその関係は消えない。世間話をしても、馬鹿なことをやっても、どうしても会社の人間だというだけで一線を引いてしまうことになる。会社の人が友達にはなれないというのはこのあたりから来ることだろう。そんな人達に対して仕事以外の話が聞ける…しかもお酒がまじった無礼講で、となるとそうそう機会があるものでもない。これはチャンスだ。自分を売り込むも、仕事に優位な情報を聞き出すも自由だ。せっかくの機会なのだから有効に使わなければ損というものだろう。というわけで今回の私もお酒と料理を楽しみつつ、情報もがっつり仕入れてきたわけだ。しかしこれには重要な注意点がある。それは…自分がお酒に飲まれないこと、だろう(笑)
Jan 18, 2012
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人間、3週間やり続けたことは習慣になると言う。苦労が伴うこと、面倒なこと、望まないこと。それらを排斥出来ればおおよそ及第点くらいは貰えそうなのが人生というものだろう。まこと人生には面倒がつきものだ。生きていくだけでもしがらみを抱えていかなければならないのは本当に辟易とするものだ。面倒なことを回避し続けるだけが人生ではない。どうしてもやらなければならないことというのは存在するもので、それらをこなすことを或いは習慣と呼ぶのかもしれない。どんなに面倒なことでも、どんなに望まないことでも、それが必要だと自分自身が感じていれば、3週間という時間で人はそれらを習慣化することが出来るらしい。卑近な例で言えばダイエットであるとか、貯金であるとかだ。コンスタントに無理のないように2週間続ければ、それは不思議と習慣になるらしい。しかし逆も然り。3週間かけてやりつづけたことでも、ほんの僅かな気の緩みから3週間ほどやめてしまうとその習慣はなくなってしまう。まぁ先ほど述べたことと若干矛盾することと思うかもしれないが、実際にそうだと思う事例は多いのではなかろうか。結局は良くも悪くも継続することが大切だということだ。いやいや続けたことでも、不思議と苦ではなくなるのが3週間という継続だ。継続して行っていることは力になるということだろう。小さなことでも大きなことでも、何かを成す人は必ずコンスタントな継続を行っている。大切なのはどれだけの量を行ったかではなく、どれだけの期間行ったかということだろう。仕事にしても勉強にしてもそう、全ては継続の成せるところが大きい。まぁ何が言いたいのかと言うと…頑張ってブログ更新しますという、昨日と同じことであるわけで…(笑)
Jan 17, 2012
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毎度毎度なかなか有言実行とはいかないものだ。ネタを見つけてそれをブログに書くくらいにまで練り込んで、そしてブログへの昇華する。そんなブログを書いている人ならば誰しもが行っている行為を、当然ながら私も行っている。しかしながら毎日コンスタントにアップする人と私の違いがあるとするならば、それは真面目か不真面目かに起因するところだ。真面目かどうかということは色々な面から推し量ることが出来る。それはメールの返信1つをとってみてもわかる。真面目な人はメールの返信をかかさないだろう。自分から送ることもあれば、来たメールには必ず返信をする。それが真面目な人の共通点だと思われる。そう考えるとやはり私は真面目ではないのかもしれない。まぁ今のブログの更新率を見てもそれは容易にわかることなのだが。。。という私のここ最近の悩みはと言えば…ネタがあるのに時間がないということだ。一体何にそこまで追われているのかと我ながら思うほどに、今の私には時間がない。何か得体の知れない強迫観念に苛まれていて、そこからくる反動のようなものでブログを書いているような感覚に近い。ネタがあるのにそれが全くブログという形でアウトプットしないのはそこに起因しているだろう。そして小さな理由としては、新しいパソコンのキーが使いにくいということもあるかもしれない(笑)やっとのことでこうして今書いているのだが、これが果たしてどれほど保つ原動力なのかは知れない。書きたいことが山ほどあるのに、それが昇華出来ないジレンマがないとは言わない。しかしながら、毎度毎度適度な時間を空けてブログを更新し、そしてその時にブログに対する考え方なんかを書いていると、いつもそれで終わってしまい、結局溜め込んだネタを放出するには至らないというのが現状だ。若い頃の苦労は買ってでもしろというくらいだ、私には少し気合が足りないのかもしれない。5年間続けてきたこのブログに対する甘えのようなものが出てきている。プライベートを押さえつけてでもブログに挑まねばならないフェーズに差し掛かっているのかもしれない。そんなわけで少し考え方を変えてきた今日この頃だった。ネタはいつ使い切ることになるのやら…笑
Jan 16, 2012
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おめでとうございます。2012年がめでたく始まったわけなのだが、いきなり不穏な気配が漂うスタートとなってしまった。というのも、東海地方並びに関東地方にしか関係ない話になるが、新年を迎えてものの30分もしないうちに比較的大きめの地震が起きてしまった。しかもその僅か14時間後ぐらいに更に大きな地震が発生した。私が住んでいるところでも震度3くらいはあったように思われる。仕事中だったのではっきりしたことはわからなかったが、それでもヒヤリとする震度であったのは誰しもが同じだっただろう。昨年は本当に地震に見舞われた年だった。3月の震災以降も、震度1から2レベルの地震は両手の指では足りないほど発生していた。あまりよろしくない意味で慣れが発生するにはそう時間がかからなかっただろう。2012年はそのようなことのない良い意味で平穏な年になってほしいものだ。とは言っても…やはり新年というのは心躍るものだ。今日が仕事でなければなおさらだったのだが(笑)まぁとにもかくにも…明けましておめでとうございます。本年もブログという形を通してにはなるが、良好な関係を築いていけるよう願う所存だ。本年が様々な方々にとって良い年となりますように。
Jan 1, 2012
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なんやかんやと結局時間が無くて気づけばもう2011年も年の瀬になってしまった。1年を振り返るということは重要なことのように思う。その年に何があったのかを振り返ることによって、その年に自分自身がどのように過ごしてきたかの指標になるからだ。結局のところ思い出せるのは一部ではあるとは思うが、それでも1年に対して振り返りを行うことは重要なことのように思う。私も毎年その年をこの時期に振り返っているのだが、それでもやはり1年という年月の長さと、過ぎていく時の速さに驚嘆するばかりだ。仕事をやっていると特にその点については痛感するものだ。何やら年々その速さが増しているような気がしてならない。何かに一生懸命になっていると言えば聞こえはいいかもしれないが、結局のところ遮二無二やっている間に1年が過ぎてしまったという方が正しいだろう。そんなわけで私の一年の振り返りになるわけだが…一番大きいのはやはり伴侶が出来たことだろう。そのことによって考えさせられることも非常に多かったように思う。いいことばかりだと言いたいところではあるが…実際のところはそうでもないのが正直なところだ。やはり人間比較するところがないと客観的に物事を推し量れないというように、いた場合といない場合を比較しないとその差というのはわからないものだ。そしてその結果として感じたのは…まぁ悪いものではないということくらいだろうか。何事にも長所と短所はあるということだろうか。結果的にいい部分が若干ながら勝っている為にそのような評価になったわけだ。変化と言えば、今年は5年間使い続けた携帯電話とパソコンを変えた。今となってはそれは英断だったと思っている。やはり使い慣れたものの汎用性というのは非常に高いと「最初は」思うものだ。慣れてくると最新技術の凄さに驚嘆することになるのだが(笑)携帯電話もパソコンもリリースしてからまだ日が浅いが、特にパソコンについては驚くべきスペックを発揮してくれている。立ち上がり・起動中の音・レスポンス…どれをとっても前のパソコンの比にならない。携帯電話にしても、インターフェイスの違いに戸惑うところはあったものの、いざ使ってみると使いやすいのなんの。ハイテクの恩恵に預かるとこうも生活が変わるのかと感心したものだった。やはり日頃使用する機器はハイテクなものに限る。恐らくハイテク機器を使いこなせるのももう数年の話になるような気がしないでもないが、それでもやはり便利なことに越したことはないだろう。利便性を求めて小型化・ハイテク化を目指す人類の進化の一端を垣間見ることが出来た年だった(笑)もっと大局的に見ても大きな動きのある年だったのが今年だ。やはり誰の記憶にも新しいのが3月の震災だろう。実際に被害の大きかった地域に住んでいたからこそその爪痕もわかるというものだ。首都圏に繋がる道路がテールライトで埋まったまま微動だにしなかったあの光景は忘れようにも忘れられないものになった。被害に遭われた方も多いと聞く。忘れ去る必要はないが、覚えておくにはあまりにも大きすぎると言えるだろう。まぁそんなこんな大小悲喜こもごもなことがあった2011年もあと数時間で終わる。1年の終わりを見、そして来年へ繋げる。考え事をするにもこの12月31日の21時前後をもってほかにベストな時間帯はないだろう。これから私はお世話になった方々への新年のメールを作成する作業を始めるわけだが…皆様にとっても今年一番の充実をもった時間にして頂けることを祈って締めとさせて頂こうと思う。今年もお世話になりました。来年も皆様にとって良い年となりますように。
Dec 31, 2011
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こうやって書くのもかなり久し振りだ。長らくブログを更新することをやめていた。それには深い理由があるようで…実はそうでもないという感じだ。面倒だから書かなかったというわけではないことだけは確かだ。ネタがないわけでもない。しかしながら何故だか書こうという気になれなかった。この一ヶ月半の休みは、ある意味では私の中でかなり新鮮なものとして残っている。正直に言えば、完全にブログというものが消失していた。今までは生活の中にブログというものが当たり前に存在していた。しかしながらこの一ヶ月半の間はブログのことが思い浮かぶことすらなかった。そう言えばと起動をかけたのが今日だというわけだ。つまり端的に言えば…それくらい忙しかったと言える。とは言え、私がこの一ヶ月半に何をしていたのかと聞かれれば特に何かをしていたわけではない。言えないのだ、この一ヵ月半何をしていたのか。ただ換言すれば忙しかったとなるだけの時間だった。以前ならばある程度忙しかったとしてもブログの存在を忘れることなんてなかったのに、何故かここ一ヵ月半は完全に失念していた。これにはかなり我ながら驚きだ。もしかしたらこのままブログをやめてしまうこともあったかもしれない。しかしながら、自分で言い出したことを曲げるわけにはいかない。このブログの明確な最期はキチンと用意してある。となれば、その最期を迎えずして辞めるという選択肢は逃げ以外の何物でもないだろう。何も言わずにブログを辞めたりブログを消したりすることはない、これだけは明確に言えることだ。大学生のあの頃、何も知らない私が全く別の目的で作ったこのブログは最早別の意味合いとして成立しているからだ。はじめのはじめから読んでくれている人がいることも大きい。というわけで、ゴールに至ったわけではない為僭越ながら舞い戻ってきた。これからはある程度精神的な余裕が出てきそうな気配がするので、それなりに更新はかけていこうと思う。この1ヶ月半で見つけたネタの在庫も豊潤だ。しばらくはネタに困らない感じになりそうだ(笑)
Dec 16, 2011
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季節外れの話を1つ。先日、私は仕事をしていた。夜の仕事の日だった。時刻は確か午前2時前くらいだったように記憶している。その時間の私は、仕事の中でも一番集中力を要する作業に従事していた。間違ってしまうとそのままミスに繋がり影響が大きくなるようなものだった。私はこの作業において一度もミスをしたことがないのだが、ミスをしない自信はあった。この作業を例えるならば…そう、モグラ叩きのようなものだ。4つの場所から色々なものが出てくるのだが、それにあったものを処理するといったようなものだ。〇と書かれたものが来れば〇を処理する。×なら×と言った具合だ。これがかなり早いスパンで要求される。こう書くと遊びのようにも聞こえるが勿論これは比喩だ。あしからず(笑)その作業をいつものようにしていた。私の位置から数メートルのところで、先輩が別の作業をしていた。これまた集中力が必要な作業で、普段は気さくに笑い話をしてくる先輩でも流石にその作業中は黙って作業をしていた。お互いの作業が一段落したところで、くだらない話をしていたのだが、しばらくしてまた忙しい時間帯に突入した。これでまたお互いに作業に従事することになった。私が様々な要求に対して的確に答えていると、ふと声が聞こえてきた。「あ~…なんかなぁ~…」周りを見回しても、他の作業をやっている前述の先輩以外は誰もいない。先輩が作業に集中力を必要とするあまりに独り言でも言っているのだろうと最初は思った。この業界では結構普通にあることだからだ。私も重要な作業を行う際にはチェックの意味も込めて喋ってしまうことがある。その類かと思って聞き流していた。仕事に慣れない頃は話しかけられたのかと思っていちいち反応していたのだが、私自身がその癖を身に付けてしまうと相手の独り言はスルー出来るようになった。なので、その時は殆ど気にすることもなく作業を続けることにした。後で先輩にその時になんでそんなことを言ったのかと聞いてみたのだが、先輩の答えは意外なものだった。「えっ?何にも言ってないけど?」まぁ本人が覚えていないこともあるだろう。しかし私ははっきりと聞いた。しかも後になって考えてみると、その私に聞こえた声は、先輩とは反対側から聞こえてきたものだった。勿論その時に私と先輩以外には誰もいなかった。思い返してみると、こういう現象が私の職場では珍しいとは感じないレベルで存在する。建物の中で何かしかの不思議な現象を感じていない人はいないだろう。以前にブログに書いた排煙機の話もそうだし、誰もいないはずの部屋で誰かが後ろに立っているということを経験した人もいるらしい。まぁ今のところ実害はないのだが…確かに真夜中の誰もいない部屋というのはあまり気持ちのいいものではないだろう。このことを自覚した私が思ったことは、怖いというよりもむしろ眠たい時間帯にそういう刺激で起こしてくれるのはありがたいということだ(笑)よもや慣れというのは怖いものだ(笑)
Oct 28, 2011
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今朝方は恐ろしいほどに寒かった。私の家は一般的な家に比べて暖房器具の導入が遅い。その点については散々過去言及を受けたことがあるが、その都度私が答えている理由は一貫して同じだ。それは気候の動きが一貫していないからだということだ。例えば今くらいの時期にとても寒い日があったとして…厚い布団やヒーターを出したとしよう。今のような時期は気候が最も安定しない時期でもある。その日1日が寒かったとしても、次の日が異常に暑くなることだってある。現に昨日はうだるような暑さだった。そのような場合にも平均して暖房器具を使用出来るかと言われれば、答えは否だろう。要するに平均して活躍するか否かという点において私は暖房器具の導入を先送りにするのだ。しかしながらこのような方策をとっている人の方がマイノリティであることもまた事実だろう。寒い時は寒いのだから、暖かくすればいい。そう考える人が殆どなのは自覚している。ただこういう場合にも私が言うことも決まっている。だって…私の血液型を考えればわかるでしょう?(笑)さて、本題へ。今回のテーマはかなり狭い層に向けた内容だと言える。対象となるのは喫煙者、或いは喫煙者を家族に持っている人に限定される。つまりかなり納得されにくい話であることを予め付記しておく。煙草を扱っている店は数多あれど、喫煙者の殆どは煙草をコンビニから買っていることだろう。昨今煙草を自動販売機で買うことに対して制限が設けられている以上、形骸化している年齢確認だけすればいいコンビニで買うのが最も効率のいい方法だというのが現実だ。そのような場所で煙草と何か別のものを買った場合…おおよそ私の統計では40%程度の確率で店員が言ってくる言葉が今回の骨子だ。大抵の店員は、別のものを袋に詰めた後、煙草も同じ袋に入れていいのかどうかを客自身に問うてくる。その問いかけ方が問題なのだ。普通の対応をする人はきっとこう言うだろう。「こちら(煙草のこと)も袋ご一緒で宜しいでしょうか?」これは100点満点の対応だと言える。これを言われたら私も何の文句もなく袋に入れてもらうなり、シャツの胸ポケットに入れてもらったりするだろう。しかし中には…そう、40%ほどの確率で言ってはならないことを言う店員がいる。その店員は決まってこう言う。「おタバコご一緒で宜しいでしょうか?」「お」タバコ!?この言い回しが私にはなんだか我慢ならない表現に思えて仕方ない。店員からすれば客はユーザであるので、敬って然るべきなのはわからないでもない。しかしその客が買った煙草にまで敬称をつけるとはどういうつもりなのだろうか?もしもこの表現が丁寧な表現だと思っている人がいるなら、それは非常に嘆かわしいことだと言わざるを得ない。というのが一般的な意見だろう。しかし私がこの言葉を言われる度に思うのはもっと他のところだ。それはこの「お」というのは、何故か煙草にしか付けられないという点だ。前述の例であれば煙草と何かを買っている為、袋に入れるものは別の何かが優先されることになる。煙草のサイズは本当に小さいので、煙草単品で買った場合には袋に入れてくれない店が殆どである以上、袋は別の何かの為に用意されているものだと考えるのが自然だ。大きいものを優先し、小さいものを同梱するという概念、それはわからないでもない。しかしながら、もしも前述した例が雑誌や生活雑貨の場合とペットボトルの飲み物の場合を考えてみて欲しい。雑誌とペットボトルを買った場合…その時には一緒に買ったものが別々である以上、同じ袋に入れることを嫌う客も多いことだろう。その時には1つを袋に入れた後に、もう1つを袋に入れていいかどうかを客に問うことになるだろうが…雑誌とペットボトルに「お」をつけて対応する店員が果たしているだろうか?私も結構長いこと生きてきたが、未だかつて「お雑誌」や「おペットボトル」という言葉は聞いたことがない。雑誌やペットボトルの例だけではなく、煙草以外の品物に対して「お」を付ける場面に出くわしたことは一度もない。「お飲み物」という表現はかろうじて聞いたことはあるが、それはあくまで飲むものの総称、つまり大きなカテゴライズの1つであって品物を特定する言葉ではない。その考え方でいけば煙草も別の言い方になってしまう。故に煙草だけが特別な言い方をしていることになる。お酒を買った場合には店員が「お酒」と表現するかもしれないが、これは「おやつ」や「おにぎり」と同じく、日頃よく使う表現であって…丁寧な言葉ではあるが、不自然な響きはない。自然な言い方を崩してまで丁寧であるかのように使われる「おタバコ」という言葉が私には気になって仕方ない。しかしながら、だからと言ってこの言い方がなくなるとは思っていないし、なくならなければならないと強く願っているわけでもない。ただふとした刹那の違和感を覚えるだけだし、おタバコと言われたところで意味がわからないでもない。昨今日本語の使い方が乱れていると言われているが、きっと私のような「まぁ意味が伝わればいい」という風潮が根底にあるような気がしてならない。そのような言葉を聞いた時に一番に私が思うのは、憤りではなくむしろこのような言葉を使う大人にはならないようにしようという明確な決意だけなのだから。
Oct 27, 2011
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大学生がよくやる遊びは何だろうか?私が大学生の頃によくやっていた遊びは、ずばり有名な3つのものだった。ビリヤード・ダーツ・ボーリングの3つだ。これは大学生の方であれば必ずと言っていいほどやっているはずだ。ある意味では嗜みと言えるかもしれない。まぁお金もないし、ほどほどのお金で楽しめる、且つ大人数で楽しめるというニーズに応えているのがこの3つかもしれない。特にボーリングに比べてビリヤードやダーツはお洒落だ。都会に住んでいればお洒落なダーツバーなんかは山ほどある。私はこの2つについてはカッコいいというほどの腕はないのだが、ボーリングはそれなりに出来るつもりだ。かく言う私もボーリングは大学時代にしこたまやっていたクチだ。一番やっていた頃は大学の3年生の頃だった。投げ放題のボーリング場で講義をサボって朝から夕方までボーリングに興じていたものだった。懐かしい昔の光景だ。そんな私なのだが、社会人になってからというものは、時間に余裕が出来なくなってきた為にあまりボーリングをやらなくなってきていた。明確に覚えているのは、私が関東に引っ越すことになった時に前の職場の人達が送迎ボーリング大会を開いてくれたことくらいだ。なのだが…最近またボーリング熱が再燃してきた。そのきっかけはあいだった。何かの折りに私がボーリングが好きだったという話をしたのだが、そのことで勝負をするという流れになったことがあった。その勝負では私は負けた。これが相当に悔しかった。そのせいで私の眠っていたあの頃の情熱が若干戻ってきたように思う。2度目の勝負が今月の中旬頃に開かれたのだが、その勝負では私が勝った。これで1勝1敗だ。この勝負はしばらく続くことが確定しているので、来月もまた勝負することになりそうだ。流石にここは「男として」勝たなければならないだろう(笑)全然関係ない〆になるのだが…ボーリングに重要なのは油だと思う。指に馴染む穴の大きさや、力にあった重さも大事だとは思う。しかし私が思う大切なところは、レーンの助走するところ(正確な名前は知らないが)にある油の量だ。これは思いのほか結果に響くところではある。勿論私はボーリングに関しては素人だし、プロのような腕を持っている人からすればもっと大事なところはあるだろう。しかし素人考えだからこそ結果にもろに影響するのが油だと感じる。ベストは油がひいてあるのかどうかわからない程度だ。だからだろうか、あの有名なボーリング場のレーンにはあまり好印象が持てない。まぁそれも素人の言い訳に過ぎないのだろうが(笑)
Oct 26, 2011
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今日は頭髪の日らしい。髪の毛の問題というのは本当に繊細な問題だ。こればかりは先天的な部分が大きい為、自分の力でどうすることも出来ないということも関係しているだろう。勿論環境的な要因もあるらしいが、やはり頭髪に関しては隔世遺伝の影響が大きいと言えるだろう。更に母方か父方の祖父や祖母の頭髪の量とも関係しているらしい。そうなってくると更に混迷を極めるに違いない。男性でなくても気になるところではあるだろう。頭髪は服装よりももろに印象に影響するところだ。殊更仕事をする上では重要だったりする。私の職場には私よりも年上の人口が多い為、頭髪の少なくなってきている人というのは顕著だ。さて、私はと言えば…年齢を重ねる毎にやはり気にならないと言えば嘘になる繊細な問題故、私もかなり気にしている。もう若くは無い年齢だ。兄は特に問題ないようだが、私はどうなのかわからない。そう思うには私の家族構成が大きく関係している。私の父は髪の毛は豊富な方だ。今年で還暦ということで、流石に以前よりは薄くなってきているようにも見受けられるが、それでも豊富だと言えるレベルだろう。そして父方の祖父もまた髪の毛は豊富だった。祖父はもう十年以上前に亡くなっているが、遺影の写真の髪の毛は本当に豊富だといつも思っていた。次に母方の祖父なのだが、かなり頭髪の量は少なかったように記憶している。母方の祖父もまた昨年亡くなっているのだが、頭髪の量はやはり少なかったように思う。それは最近のことではなく、私が小学生の頃から少なかったように感じる。故にその可能性だけを考慮すれば、半々と言ったところだ。遺伝の顕著な例の1つにアルコールの分解に関する部分もある。これは直接的な遺伝を強く受けると聞いたことがあった。次にアルコールの分解に関するところを考えてみるとしよう。父方の祖父は、アルコールは本当に弱かった。弱いのにお酒が好きという人だったように記憶している。幼い頃、祖父がお酒を飲んでいる様子をよく見ていたが、本当にお酒を飲むのは好きだがすぐに酔ってしまうという印象しか残っていない。それは父も同じらしく、父もまたお酒がそこまで強いわけではないようだ。これは祖父よりもはっきりと覚えている。そしてここが重要なのだが、祖父も父もすぐに顔に出るタイプだった。1杯飲んだだけで顔が真っ赤になってしまう人だった。次に母方の祖父なのだが、この人は本当にお酒が強い人だった。同様に母もまたお酒が結構強い人のように思う。ここでの強いはあくまで父と比べた時の相対的な評価のことだ。しかもいくら飲んでも顔に全くでない人達だった。兄は母方の血を濃く引いているらしく、お酒は本当に強い。私はと言えば、お酒は本当に弱い。1杯飲んだだけで顔が真っ赤になってしまう。まぁ仕事上の付き合いでこれで得したことは何度もあるのだが…それはまた別の話だ(笑)つまりはアルコール分解に関する点で言えば、私はもろに父方の血を引いていることになる。この結果を遺伝に関する点と繋げると…また確率は半々ということになってしまう。情報の上だけでなら、頭髪が薄くなるか否かがまったくわからない状況だと言っていい。男性にとってはこの問題はかなりのウェートを占めていると言ってもいいだろう。女性にとってはわからない感覚かもしれないが、死活問題だと言っていい。結局のところ隔世遺伝による影響を強く受けるということは「なるようにしかならない」ということと同義だ。であれば、どんと構えるが肝要なのだが…そうも言えないのが実情かもしれない。願わくば今のままの頭髪量で生涯生きていきたいと思うが…神様がどのようなジャッジを下すかは今をもってまだわからない。同窓会で会った時に「歳をとったね」と言われることを地味に恐れている今日この頃だ(笑)
Oct 20, 2011
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隣の家が外壁工事を始めた。こういう類のものは、騒音が出る場合に限り近隣住民への何かしかのアナウンスがあるものではないだろうか?まぁ別にその家が外壁工事をすることに対して何かしらの不満があるとも思えないし、何よりも騒音が出る類のものでなければそもそもアナウンスの必要性はないように感じる。しかし…しかしだ。私の部屋が1階であり、工事を行っている作業員の人が頻繁に窓の外を通るという環境についてはどうだろうか?それは結構我慢出来ない問題ではないか。1日中部屋にカーテンをかけておくというのもなかなか厳しいロケーションだと言えなくもない。こういう部分での苦情というのは、前もってアナウンスすることが不可能だと感じる。それは、作業員がどのように動いて作業を行うかが未確定だからだ。なので私の部屋に対して何らかのアクションがないものと推察出来る。しかし…しかしだ。それにしてもこれはなかなかのストレスだと言わざるをえない。まぁ長く続くものでもあるまいし、暫くの我慢だろう。何事も最善はないのだから。さて、本題へ。物事に対する考え方というのは人それぞれだ。それは往々にして「価値観」という言葉で表現されることが多い。端的な言い方をすれば「何が大事で、何が些末か」という問題に起因する。大切な物事は評価する側の人の立場に立って極めて主観的に評価されることになる。世の中の人の殆どが大切だと感じることが必ずしもそうではないように、価値観は普遍的なものではありえない。人の評価が介在すること、そしてその人のバックボーンがそれぞれ異なることを差し引いても尚…である。何に重きを置くか、それが最も顕著に現れるのは仕事だ。仕事ではしばしば「優先順位」という言葉を用いる。片付けるべき仕事に順番をつけ、最も制限の強いものから片付けていくというものだ。この優先順位という定義も、こと仕事に於いてはなかなかに不明瞭だと言えるだろう。全ての仕事の名称を限定して定義した場合はそのような問題は起きないが、仕事のアウトラインを抽象的に捉えた場合には、そこに人の「価値観」が介在することになる。そして意識の格差が生まれ、そこから仕事に対する優先順位がその人の中で形成されることになる。そうなると確固たるルールを持たない仕事については、漠然と据えたルールが形骸化することになってしまう。柔軟且つフレキシブルに行う場面の多い仕事だからこそ、そのような局面にはよく遭遇することだろう。そこで重要なのが「凌ぐ」ということだ。凌ぐことは、仕事を確実完璧に片付けるという意味合いからすればマイナスであるように聞こえる。しかしこれが意外に重要であるということに最近気づき始めた。これは車で目的地へ向うことを例にして考えてみるとわかりやすい。車は目的地まで行く為の手段だ。目的地に到着することが目的である以上、極端な言い方をすれば車のコンディションは問わないのと同義だ。つまり車の状況がどうであれ、目的地に着きさえすればいいわけだ。車に乗っていて車が何やらおかしいと感じたとしても、その場で運転が可能であれば運転してしまう人が殆どだろう。車が大好きで本当に車のことを大切に思っている人であれば、少しの異常でも過敏に反応して運転をやめるかもしれない。しかし現状走っているのだから、目的地に着いてからでもどうとでもなると考える人も多いのではなかろうか?恐らくはその考えはそんなにマイノリティではないはずだ。この騙し騙し走らせる行為が「凌ぐ」ということと似通っている。仕事は完璧に片付けられるならそれに越したことはないが、そうはいかない局面も多い。むしろ問題が起きない方が珍しいと言えるだろう。否、何事にも完璧がないように、何も問題が起きない方がむしろ問題なのかもしれない。そこで凌ぐということが大切になってくる。問題が出るとその都度立ち止まって完璧に解決するまで待つよりも、取り敢えず凌いでおいて、一旦のゴールを向え、その後に問題について検討する方が大切なのではないか、そう感じるようになってきた。勿論これは全ての仕事に当てはまることではないだろう。だが私の仕事ではそれが結構重要なスキルであるかのように感じる。きっと同様のことを感じる業種も多いのではなかろうか。凌ぐことで先に繋ぐ、問題は後で時間をかけて協議する、私の業種はまるで駅伝のようなものだ。ランナーのコンディションが完璧で次に繋ぐ必要はない。ただ襷が次に繋がればいい。自分が在籍している職種ではあるのだが…かなり興味深い範囲だと改めて感じた今日この頃だった。
Oct 19, 2011
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いい天気だが、寒い。気温の変化が顕著になってきた。特に晴れの日中と夜の気温の差が激しくなってきた。私なんかは1人暮らしなので、昼間に窓を開けたまま寝てしまうと、夜に目が覚めた時に異常に寒さを感じることになってしまう。恐らく私のようなずぼらな性格な人間がこの時期に風邪を引いてしまうんだろうと感じる。気をつけなければならない、もう若くはないのだから(苦笑)さて、本題へ。先日の話だが、珍しいものを見た。テレビ等ではそこそこ見たことがあるのだが、実際に見たのは初めてだった。その時の話。その日私は夜勤だった。いつもの時間に起きて、いつもの動きをしながら仕事の準備をする。あいへのメールを作り、そして出かける。全くもっていつもと同じ流れだ。違いも淀みもなかった。家を出るまでは。いつもの道を歩く。歩いて10分程の距離に職場がある。私はいつも大きな国道を歩いて職場に行っている。その道は通称ニーヨンロクという名前の、国道246号線だ。交通量も時間を問わず多いところで、私は関東にすんで4年目になるが、ニーヨンロクが空いていたところを一度も見たことがない。恐らくは立地的な要因もあるだろう。ジャンクションとニーヨンロクの合流地点でもあるということで、大型のトラックが走ることも多い。そのせいで極端に交通量が多いように見えてしまうのかもしれない。まぁニーヨンロクについてはこれくらいでいいとして…。そのニーヨンロクの近くをいつも歩くのだが、何やら道路の傍でしゃがみこんでいる男性がいることに気がついた。私が歩いている車線側とは反対だったのでよく見えなかったのだが、最初は気分が悪くなってしまったのだろうかと思って心配した。しかしよく見てみると背負っている大きなリュックサックから何かを取り出そうとしているようだった。何か感じるところがあって暫く眺めていると、その男性はリュックサックの中からA4サイズのプラカードのようなものを取り出した。聡明な方ならもうわかるかもしれない、そうヒッチハイクに遭遇したのだ。男性が取り出したプラカードには「渋谷」と書かれていた。そして定番(なのかどうなのかは些か疑問だが)の親指を立てて道路側に突き出すという行為もやりだした。初めてその光景を見た私は、少しだけテンションが上がってしまった。まさか自分が生活している区域でそのようなものが見られるとは思ってもみなかった。軽い感動を覚えた。珍しい光景に遭遇した私は、もしかしたら車が停まる瞬間迄みられるかもしれないと思い、もう暫く眺めることにした。必死にプラカードを掲げる彼、通り過ぎる車。そんな光景を5分程眺めていた頃、私はあることに気づいた。そして仕事にむかうことにした。どうやら私はかなり無駄な時間を過ごしたようだった。私が歩き出した後ろで、彼は色々と体勢を変えながらヒッチハイクを継続していたことだろう。しかし彼は大切なことを2つ忘れている。1つ目は、車を止めようとしている道がニーヨンロクとジャンクションの合流地点近くだということ、そして2つ目は彼が立っているところが交差点の角だったということ。以上の2点から車が停まる要素は1つとしてない。もしかしたら、これは何かのテレビのロケなのだろうか?ヒッチハイクをしていた男性は或いは有名人なのではなかろうか?そんな想像をしなかったわけでもない。だが、だとしてもテレビを殆ど見ない私には意味がないことだった。秋口に見かけた光景は私に色々なことを考えさせてくれた。しかし私の中で1つの結論が出たのも確かだ。やっぱりヒッチハイクは難しいということだ(苦笑)
Oct 18, 2011
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何をするにもお金が要る。至極当然の話ではある。何をするにもお金はいる。昔みたいに、ただ何も考えずに遊んでいるだけで良かった時代には、お金なんて殆ど必要ではなかった。しかしその環境を保持する為にもお金が必要であるということを知らなかっただけで、実際はお金の上に生活は成り立っている。自明のことだが、子どもの頃にはその当たり前にも気づけないことが殆どだ。何をするにもお金が必要で、そのお金を稼ぐことは非常に難しい。ただ好きなことをしていればお金になる人なんて稀だ。皆嫌なことをしてお金を稼いでいると言えるだろう。アルバイトだってなんだって、自分の時間というかけがえのないものを犠牲にしてお金に換えている。時間という何ものにも変え難いものを安売りしてお金を手にすることになる。誰だってそうだ。突き詰めれば突き詰めるほどにお金の価値は大きく…そして希薄であることを知る。それが本質的なところなのだろう。私は今お金がない。ないとは言ってもそれなりにはあるのだが、同年代の人よりは持っていない方だろう。それにお金が必要だと感じることも殆ど無かった。それは単純に使い道がないからだ。例えば目の前に大金があったとしても、その使い道を考えるだけの頭が私にはない。大金があっても何に使っていいのかわからないのだ。何かが欲しいということもあまりないし、分不相応だと感じてしまうことだろう。昔から大金には縁がなかったからだろうか、そういったシチュエーションには困ってしまう私だった。しかし今は違う。今はお金を使う対象がいる。そしてそのことが少しずつでも私のお金への執着を戻しているようだ。考えてみればそれはかなり久し振りなような気がする。子どもの頃なんかは、欲しいものの為に一生懸命にお金を貯めていたものだ。思えばその頃の生き方は愚直ではあったものの、なかなか充実したものであったように思う。半端なお金を手にした今、欲しいものはあってもすぐに手に入ってしまう。そのことが私からお金を貯めるということをやめさせたのかもしれない。そして目的を無くさせたのだろう。お金を使う対象がいるということは、自分が使える部分もかなり矍鑠とするということだ。人によってはそれを不自由だと思うかもしれない。しかしそれくらいの制限があった方が逆にいいように思う。少なくとも私には効果的だ。ゴールがないまま走り続けるよりも、後何キロ走ればいいと知らされている方が頑張れるようなものだ。目的意識が薄弱になってきた今までの私だからこそ、より高次の目的が据え付けられ、そしてそこに向う気になったのだろう。今は以前よりもお金が大切に思えるようになってきた。それは恐らく…お金の価値に気づいたというよりもむしろ、それがあることによって見つかる幸せのようなものを発見したからかもしれない。物から人へと、私の興味はうつっていったのだろう。貯金も具象があれば楽に出来るような気がするから不思議だ(笑)
Oct 12, 2011
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冷たい雨が降る。先週までの暑さは消え、今はほんのりと秋の気配を感じる気温になってきた。どうやら10月に入ってからそれらしい天候になってきたらしい。そして今日には冷たい雨が降った。季節の変わり目の雨はかなり体調が崩れやすくなるので注意が必要だ。私はと言えば、先週まで体調を崩していたことが功を奏してか、今は元気でやっている。こういうものは巡りなのだろうと感じるものだ。さて、本題へ。長年履き続けてきた靴が遂に寿命を迎えた。私が今の靴を履き始めてからもうだいぶ時間が経つ。思えば関東に引っ越してきた最初の年に一念発起して買った靴だった。デザインというか、フォルムが結構好きで、仕事用なのにも関わらず、普段履きとしても使っていた。ビジネスライクな靴ではあったが、それでも普段履くような時でも存在感を出せるような感じだった。値段的にもかなりしたように記憶している。多分私が持っている靴の中では一番高価だろう。そういう理由も相まっていつも履いていた靴だった。しかしその靴が今日の仕事の最中に紐が突然切れた。多分前々から切れていたのだろう。気づいたのが今日だというだけの話かもしれない。一般的に靴の紐が切れるのは悪いことが起きる前触れだと言うが、切れた紐を見ながら私が思ったことはそんなことではなかった。この靴で色々なところへ行った、そう思った。何年も何年も履き続けてきた靴もようやく休息の時が訪れたのかもしれない。ただ私はそれを見守ることしか出来ない。新しい靴を買うにももう少しだけ時間が必要だ。あと3日くらいは今の靴で頑張らなければならない。それまでは今の靴に頑張ってもらうこととしよう。恐らくは最期の仕事になるだろう。靴は履き潰すものだと言うが、私は本当にそんな感覚で靴を履いている。何を持っても一般の人の限界以上に物を長持ちさせるのが私の特徴だ。それは1つのものに拘るということでもあるが、とっかえひっかえにしないということでもあるかもしれない。だからだろうか、私の家に古いものばかりあるのは。いい加減に物をそれなりに使うということを覚えた方がいいかもしれないと感じる今日この頃だった。
Oct 5, 2011
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ありえない。これはもう3度目の試行だ。ネタとしても非常に見ている側に伝わりにくいので極力書きたくはないのだが、それにしても書かざるを得ないほどの怒りだ。こういう類のものは、本当に泣きたくなる。長い文章を書いていれば尚更だ。私のブログは比較的文章量の多いものだから余計にそのショックは大きい。1度目は定番となりつつある熱暴走による再起動で内容の消失。2度目は楽天ブログサイトのエラー発生による内容の消失だ。それでも尚、同じことを書き続けていればいいのだが、私のブログには当たり前ながら草稿がない故に、全く同じものを作り出すことは出来ない。まぁそれでもネタに出来ているうちはまだいいと思う。恐らくこれと同じことがもう一度起きたらその気力はなくなってしまうだろう。以前にも同じブログを3度書き直した歴史があるが、その時のテンションが思い起こされるようだ。あの時は7000文字オーバーだっただけに、そのショックたるや相当に大きいものだった。熱暴走による再起動については、防ぎようがない。厳密には防げはするのだが、その防ぎ方は新しいものを買うというくらいなので、特に抜本的解決だとは思えない。それ以外にも本体の熱を逃がす方法があるらしいが、それは効果が無いことが先日判明した。まぁ後は私自身の運の問題だと言ったところか(笑)投稿ボタンを押すのに緊張感が伴うのはあまり健康的によろしいものではない。ましてや油断している故に起きてしまうものは本当に心臓に悪い。こんなところに緩急をつけられても困る。笑いの原理と同じで、緩急をつけてこられても笑うのは私だけしかいないし…何よりそんなことをされても笑っていられるほど私は暇ではないということを、このパソコンはもう少し理解して欲しいものだ(苦笑)
Oct 4, 2011
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昨日は私のアニバーサリー。ケーキがあって、笑顔の人がいて。そんな雰囲気を最後に味わったのは何時頃だろうか?多分覚えていないぐらい前だろう。笑える話だが、一番思い出に残っている日は、友人がお酒を持ってうちに来た時だろう。何故こんな日に友人のフラレ話を聞かなければならないのだろうと思いながらも、こういう日も悪くないかなと思ったものだった。まぁ色々な思い出はあるが…昨日は私のアニバーサリー。この日を誰かと過ごすのはあまりない。あまりというのは、子どもの頃の思い出も総括しての話だ。要するに色っぽい話があるかどうかということで言うと…今年が初めてかもしれない。あいと過ごすこの日は何か特別な気がした。取り敢えず待ち合わせをしていつものようにぶらりと歩き出す。夜のあの街はまるでデートの為にあるようなものだった。どこを見渡してもカップルしかいない。普通の友人同士であの場所を歩く勇気はないだろうし、気になっている相手を誘うには絶好の場所だと言えるかもしれない。あの街は私もかなり思い出深い場所だ。そこを選んだのは理由があった。その理由は何か2人でアクセサリーでも作ろうという話になったからだ。綺麗なもので…しかも青いものが好きな私は青い指輪を作ることにした。これは私の希望というものが大きかった。同じものを共有するということが私にとっては大切なことだと思うし、これからも楽しくやっていく為の糧になるような気がする。お店に着いたらかなり魅力的なアクセサリーが沢山あった。この中から選ぶのはかなり難しいと思われたのだが、私がもしかしたら金属アレルギーがあるかもしれないことを考慮して、シルバーではないものを選択することにした。今のアクセサリーはかなり広範囲までカバーしているようで、金属アレルギー対策がしてあるものも沢山あった。その中からかなり魅力的なものを私は見つけた。軽いスティールで、金属アレルギーの心配もないようだ。あいと一緒にそれに決め買うことにした。お値段もお手ごろだったし、かなりデザインがお気に入りだった。二人で決めたということがかなり重要だろうと思う。今はこうして端末に向っている時には勿体無くて付けていない。かなり私のお気に入りランキングの上位に食い込んだからだ。汚れるのがかなり惜しいように思う。それにしても…私が15号、あいが7号、その差に少しだけ可笑しくなった今日この頃だった(笑)数年ぶりに良い誕生日になった。
Sep 19, 2011
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猛暑続く。水分の補給はキチンと行うが、塩分の補給を忘れてしまう私だ。どうにも塩分の補給という概念が非常に難しいように思えて仕方ない。水分の補給は水を飲むだけで事足りる。まぁ吸収率や浸透率を考えると普通の水では駄目だということはわかってはいるのだが、まぁ応急処置的には水で足りるだろう。しかし塩分はどうだろうか?塩を直に舐めるだけでは駄目だろうし、十分な塩分補給は難しい。勿論それに適したものもあるだろうが…やはり水だけの摂取で足りる水分とは違うように思う。熱中症で倒れる人が多い中、水分と塩分の摂取は重要項目だろう。私もあいから口酸っぱく言われているくらいだ(笑)さて、本題へ。ある日の昼間の話。私のメッセンジャーに1つのメッセージが届いた。相手は2年以上も連絡していない人で、すぐにわかった。内容はとりとめも無いようなものだった。私はメッセンジャーを仕事用にしか使っていないのだが、同日の朝に仕事をしていたままメッセンジャーをあげっぱなしにしていたのだろう。メッセージが届いた時には私はパソコンの前にいたので、すぐにメッセージに返答することは出来た。しかし私はそれをしなかった。メッセージを返そうとキーボードに手を伸ばす気にもなれなかった。今回はそこから見えた話。一般的に、言った本人は覚えていなくても、言われた人はそのことをずっと覚えている。悪いことなら尚更。自分がいて相手がいる。その状況下で、1人が相手に対して何か言ったとしよう。良いことと悪いことの2つのパターンだ。物事を言った本人は良いことを言ったとしても悪いことを言ったとしても、それは相手に対する刹那的な評価であって絶対的なものではない。ただその一瞬で感じたことを口にしたまでだろう。しかし言われた相手はそうではない。人を相手にしている以上、その人の口から出た自分に対する評価のような文言は自分を決定付ける要因になるだろう。重要な場面であれ、何気ない場面であれ、それは変わらない。ましてや相手の意思を汲むことの出来ない相手であれば尚更。そしてその言葉の意味するところが悪いところを指摘するようなこと…しかもただ刹那的に感じた物事を言う場合には、より顕著に相手の心に刻まれる。相手が自分のことをどう思っているのかといったところにまで言及するレベルの話だ。勿論言った本人がそんな意志を持っていなかったなんてこととは無関係だ。そう言われた、そのことだけが人の心に刻まれる。自分の言ったことに責任を持つ、そんなことは仕事をする上では当然のことだ。仕事をする以上、自分の言ったことには責任を持たなければならない。自分の判断ミス故に大きな損害を蒙ることもある。そのような状況に立っているが故に、自分がアウトプットした情報には責任を持つべきだ。私はそう思う。だから私はそのメッセンジャーに返答をしなかった。相手は忘れているだろう、あの日私にぶつけた言葉を。それをもってして私に返答のキーを打つ意志はなかった。刹那の言葉であったかもしれないし、それが本心の言葉だったかもしれない。しかしその言葉は放たれ、そして私のもとへ届いた。それが真理だ。言葉に責任を持つことは大切だ。それは仕事をしていない人でもそうだ。ふとした言葉で人が喜び、或いは傷つき…少なからず変容することを自覚することが大切だと感じた今日この頃だった。
Sep 17, 2011
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今日もまた暑い。もう9月なのだから少しくらいは秋らしい気候になって欲しいものだ。そうは言ってもこれくらいの季節に秋らしくなった試しなんてここ数年はないだろう。いつものことながら、9月とは思えない気候に辟易とするものだ。残暑の厳しいのがデフォルトになってくると文句も出ないものなのだろうか?恐らく答えはノーだろう。暑いことに対する不満はいつだってあがってくるものなのだから(笑)それでも夜になるとそれなりに涼しくなってくる。いつのまにやら秋の虫の鳴き声までするくらいだ。確実に秋の気配は感じられるようになっているのだろう。而して日中の暑さが気になるものだ。このギャップに体調を崩す方もいらっしゃるのではなかろうか?ご自愛頂きたい。さて、本題へ。私は眼鏡をかけている。家の中ではあまりかけないが、外に出る時には必ずと言っていいほど眼鏡をつけている。しかしながら目が悪いわけではない。これは長年の癖とでも言うべきだろうか?何がきっかけだったのか今となっては思い出せないが、それでも気づけば大学生の頃から眼鏡を常用するようになった。恐らくきっかけは本当に些細なことだろうと推察出来る。思い出せないのがいい証拠だ。そんな私なのだが、眼鏡は2つほど持っている。勿論どちらも度が入っていない。お気に入りだったのだが、その2つともある理由で使い続けていた。それは以前の苦い記憶に起因している。まぁ思い出すのも億劫なのだが、つまりはそんな過去に縛られ眼鏡を使い続けていたわけだ。そんな私が新しい眼鏡を買うことにした。今度はしっかりした理由で眼鏡を選びたい、そう思って相談したのはあいだった。あいは目が悪く、眼鏡をかけていない時にはコンタクトを常用していた。そんなあいは眼鏡を選ぶ目もあるだろうと私には感じられた。なので駄目もとであいにお願いしてみることにした。お願いしてみると案外すんなり受け入れてもらえて、しかも一緒に選んでもらえるとのことだった。これは願ってもないチャンスだ。というわけで昨日、あいと一緒に眼鏡を選びに行くことにした。本当の名目は別にあったのだが、私が無理矢理捻じ込んだサブミッションというわけだ。ただのデートよりもそちらの方が楽しそうだと感じたのも事実だ。到着したのは如何にもお洒落そうな眼鏡の専門店だった。こういうお店は基本的に店員のアグレッシブさがそもそも違う。あまり流行っていない店だと、店員もそこはかとないやる気の無さが感じられるものだが、流行っているお店だと店員がしつこいほどに話しかけてくる。私が行ったお店もそんなお店だった。店内にも人は沢山いたし、店員もしつこいほどにアグレッシブだった。これは別の意味で期待出来るかもしれない(笑)しばらく見てまわったのだが、どうにも気になった眼鏡が1つだけあった。それは私が大好きな色で、私を象徴するような…ダークブルーの眼鏡だった。最初に見つけた時から気にはなっていたが、やはり散々見てまわった結果それにすることにした。価格も今までつけていた眼鏡の5倍はするようなかなり高級な眼鏡だった。それでもあいと一緒に選んだという点と、私の好きな色であるということを加味した上で購入することにした。アフターケアもばっちりなようで、調整もいつでもござれとのことだった。やはり出来る店は違うものだ♪というわけで私のニュー眼鏡は決定し、古い眼鏡は処分することにした。もう古い眼鏡をかける理由も意味もない。無用の長物だ。過去のことを考えても、置いておくことにメリットなどないだろう。潔く処分することにした。思い出は深いが、その思い出の殆どは意味のないものだということは、新しいものを手にしてこそわかるといったところか。新しい眼鏡はやはりいい。視界が圧倒的に違う。新しい服を初めて着た時の気持ちよさに似ている。これからはこれが私の新しい眼鏡だ。最近職業柄か顕著に視力が落ちてきたので、もしかしたら度が入っていないこのニュー眼鏡が私の本当の眼鏡になる日も近いかもしれない(笑)
Sep 11, 2011
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休みの日には、覚醒と同時にその日何をしようかと考える。大抵は家のことをするか少し遠くまで買い物でも行くかという程度しか考えなかった私だ。それも晴れの日に限る。雨の日であれば外に出るのも億劫になってしまう。仕事柄休みの日でも眠たいと感じることも多く、少しでも煩わしい点があれば排斥的になってしまう私だ。そういった感じで休みの日はほぼ不毛に終わることが多かった。しかし1ヶ月前からはそうでない。私は1つのパッシングポイントを経験した。あいと付き合い始めたのだ。そこから私の日常は大きく変化していった。まずあいとのことなのだが、付き合い始めてから1ヶ月間、1日たりとも連絡をしない日はなかった。彼女は普通の仕事をしているわけなのだが、私は夜勤があったり日勤があったりと落ち着かないスケジュールで仕事をしている。だがそれでも或いは私から、或いは彼女からと、連絡は欠かさなかった。話す内容そのものには大した意味はないだろう。むしろ連絡を取り合っているという実感が欲しかったと言ったところか。私も夜勤の前に休憩室であいへのメールを打つことがこの1ヶ月でようやく日常となってきた。面倒なことは嫌いな私だが、それでもあいのことに関しては別なのかもしれない。毎回メールを打つこと、文面を考えることを煩わしいと感じたことはなかった。それでも流石に近所に住んでいるわけではないので、一緒に遊びに行く機会も限られてくる。私と彼女の家は電車で1時間程離れている。この距離は私には遠いものだとは思わないが、付き合い始めた初々しい今の時期にとっては遠いものだ。加えて上述した仕事時間との兼ね合いで、遊びに行ける日というのは本当に限られてくる。現に1ヶ月の間で一緒にいた日数は10回に満たない。今は多少彼女の方が無理してくれている感じだ。それが私の若干の引け目でもあるのだが…。だが逆に私は今のようなロケーションだからこそこう考える。1回会える時の意義を増やそうと。毎日会えるのと1週間に1度しか会えないのとでは、恐らく感じ方も違ってくるだろう。それぞれに良さがあるのはわかる。私達は現状たまにしか会えないのだから、会える時に目いっぱい楽しもうと決めたのだ。なんとなくやることがなく適当に過ごすのではなく、1回1回を本気で過ごす。そのように決めた。そういう気持ちでいると、必然予定の組み方も変わってくる。現在私達は遊びに行く約束を5個以上ストックしている。そうやって先々何をするかを決めておけば、必然楽しみが沸いてきて会えない時間も我慢が出来るからだ。とまぁ色々ありながらも…付き合い始めて1ヶ月が過ぎた。気持ちは勿論こんな短い期間では変わらない。昨日、あいは付き合って1ヶ月記念というメールを送信してきた。やはり女の子はこういうところを気にするものなのだろうか?まぁちゃんと私も覚えてはいたが、男が1ヶ月記念を気にしているというのも気恥ずかしいものなのだということもわかった(笑)どうやら1ヶ月は結構重要なイベントだったりするようだ。今度2人だけのお祝いでもしようかと思った今日この頃だった。
Sep 8, 2011
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という名前の本があったような気がする。小学校の頃だろうか、そのようなタイトルの話を読んだように思う。著者もディテールも殆ど覚えていないが、風の強い日に鯨が空を飛んでいるシーンだけは鮮明に覚えている。子どもの頃の記憶なんてこんなものかもしれない。強烈なインパクトのある光景は、たとえそれが客観的に見て覚えるようなものではないことでもずっと覚えているものだ。他にも私の頭には20年以上前のとりとめも無いような記憶が残っている。きっとこういうものが本当に綺麗なものなのだろう。大人になると下らなくて醜悪なものばかりが頭の中身に取って代わるのだろう。子どもの頃のような綺麗な感覚は永劫訪れないのかもしれない。覚えないといけないことは覚えないといけないという強迫観念によって記憶する。勿論それが積極性を持つことは稀だ。嫌々ながらに覚えていることと似ている。成長するにつれてこの「覚えなくてはいけないこと」の割合が多くなる。綺麗なものを見てその光景を覚えておこうというような、純粋な感覚の方がむしろ稀だと言える。子どもの頃には積極性をもって覚えておこうというようなことが沢山あっただろう。初めて見た光景に感動したり、今となっては日常的に溢れているものを懸命に自分の中に留めようとする。勿論その行為は自発的に行うものではなく、無意識下で行われているだろう。大人になった今でもふと昔のことを思い出すのはこういった積極性による綺麗な記憶の集まりだ。しかしながら大人になると、覚えなければならないことが増える。その最たるものが仕事だろう。自分の興味のあることを仕事に出来る人なんていうのは一握りもいない。多くの人はやりたいことを仕事にしていない。興味がないのに積極的に覚えられるものなんてあまりない。それでも仕事について記憶していることは誰しもがあるはずだ。だがそれは本当に忙しくて目まぐるしく仕事をしているであるとか、仕事をしていて面白かったことに起因しているはずだ。何でもない毎日を確実に記憶している人はいない。楽しかった、苦労した、そんな心の機微に起因する記憶は幾らでも出てくるだろう。それは心を揺り動かされたということに他ならない。この心を揺り動かすということが子どもの頃の綺麗な記憶と類似している。類似しているが同じではない。決定的な差は、子どもの頃はそのなんでもない日常すら綺麗で記憶に値するものであるということだ。大人になることは綺麗な時間を排斥して生まれたもの…いわば残り粕のようなものに近い。それでもやはり綺麗なものを求めてしまうのが人だと感じる。身の回りに当たり前にあるものであれば求めないが、あったはずのものがなくなってしまうと人は只管にそれを求める。無くして初めてわかる価値とはこのようなもののことを言うのだろう。だから私はいつまでも覚えている強烈な記憶を大切にしたいと思う。多分人に話しても一笑に付されるような出来事だろう。しかし自分自身にとってはこの上なく綺麗なものに感じる。このような綺麗な記憶を留めている数が多い人ほど…人として重厚な価値が生まれるのではないかと感じる今日この頃だ。
Sep 3, 2011
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台風が近づいているようだ。外は生温い風が吹いている。しかし生温いだけで雨を降らせるような匂いはしない。天気予報によれば台風が近づいているとのことで、今日は雨が降るというようなことを言っていたが、今のところそんな気配もない。ということは、明日辺りに大雨になるということなのだろうか?それは是非ともやめて頂きたいものだ。明日は仕事だから、大雨が降ると仕事に差支えが出るからだ。まぁ具体的には出勤時に…だが(苦笑)さて、本題へ。料理は出来た瞬間から不味くなっていくという話がある。概ねその通りだろうと思う。しかし何事にも例外というものはあると私は思う。今回はそんな話。先日、仕事中にふとある話になった。それは誰が言い始めたことなのか今となっては覚えていないが、食べ物に関する話だった。多分何の気なしに言った一言から始まったことなのだろう。テーマは「温かくても美味しいのだが、冷めた方が何故か美味しく感じてしまう食べ物」だった。こうして状況を限定してしまうとなかなか該当するものがないように思えるが、私にはそういう嗜好の食べ物が1つだけある。それはお好み焼きだ。お好み焼きは店で食べる場合、殆どの店が客自身が自分で焼くようなシステムをとっている。焼くという行為を客自身にやらせることによって、焼くことが料理そのものの完成を意味していると同時に、出来立てこそが一番美味であるということを明言しているようなものだ。誰もがお好み焼きについては出来立ての温かいものがいいと言うだろう。しかし私は敢えて冷たくなってしまっている方が結構好きだ。多分それは私の家庭に関係していることだろう。私の実家ではよくお好み焼きを作っていた。多分一般家庭のそれよりも確率は高かったように思う。単純に簡単に作れることや、かなりの量を作ることが出来るというメリットもあっただろう。母はお好み焼きの日はかなりの量の具を用意しており、作ったはいいが余るということもよくあった。そういう場合には次の日のお昼御飯になるのが定番だった。私はそんな家庭で過ごしたからだろうか、冷たくなったお好み焼きを見る機会が凄く多かった。ある日私は冷たくなったお好み焼きを「温めるのが面倒だから」という理由で冷たいままに食べたことがあった。勿論温かい時のそれと同じ味付けで食べるわけだ。するとこれが思いのほか美味しかった。確かに温かいものより美味しいということはないが、冷めたからと言って不味いという評価はされず、むしろかなり口にあっていると感じたものだった。それ以来私は冷めたお好み焼きが好きになった。と、そんな話を職場でしていた。そして皆にも同じようなものがないかという話をしたところ…そんなものはないと完全に否定されてしまった。まぁそんなものだろう。私の嗜好はどうやら一般人には理解されないらしい。温かい方が美味しいに決まっているの一点張りだった。まぁそういう話ではないのだが…理解されないならしょうがない。そして選んだ題材のタイミングの悪さ故、最後の方は関西ではお好み焼きをおかずに御飯を食べるのかというような話になってしまった。まぁこれも定番と言えば定番だ。馬鹿にされているのかもしれないが、ここは大人らしくスルーすることにした。この手の文化の違いを揶揄されることは珍しくない。私ももう子どもではないので、こんなことで目くじらを立てるようなことはない。最後の方は定番と言えば定番の流れによってこの話題は終わった。それでもふと思う。本来温かいが冷たい方が好みな食べ物は本当にないのだろうか?これを読んでいる貴方にはそんな食べ物はないだろうか?多分ない確率の方が高いだろうが…もしあったらかなり嬉しいものだ。やはり一般から乖離した嗜好を持っているということに対する何らかの違和感は感じているということだろう。そしてそういう嗜好だからこそ、同志を見つけた時の感動もまたひとしおなのだ(笑)
Sep 2, 2011
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仕事が忙しいと寝る間も惜しくなる。やりたいことがあると他のことが散漫になる。考えないといけないことがあると、それ以外考えられなくなる。何かに夢中になることはその代償として、他のことを集中的に行う権利を剥奪されることだ。何かに一生懸命になるというのはとても素晴らしいことだと皆言う。確かにその通りだ。何かに一生懸命になっているということはとても輝いている証拠だと言えるし、何よりもそんな自分のことがもっと好きになるからだ。周りから見ても、何かに一生懸命な人はとても充実して見えることだろう。後は一生懸命になっている「何か」が正しいものであるかどうかだけ。8月の私はまさにそんな感じだった。ただ1つのことに集中し過ごした。それは以前のブログに書いたことであり…今の私にとって最も比重の大きい出来事だった。その何かに集中している間、このブログはしばらくお休みにさせて頂いた。こう言っては語弊があるかもしれないが、ブログを書いている暇がなかった。ただ只管に私はそれを求めた。今までそれがなかった分を取り返すように。9月に入ってそれなりに落ち着いてきた。相変わらず私のベクトルはそちらに向いたままだ。しかしながら、そんな自分を冷静に観察することが出来るようになった。要するに余裕が出来てきたわけだ。だからこうしてこのブログを書いている。それが成長なのだろう。今の自分がどうあるか、それは結局のところ過去や未来の自分との対比によってしか客観的に判断することは出来ない。特徴的な事由に対して、それよりも勝っているか劣っているかの評価しかつけることは出来ない。8月某日から今日までを過ごした私を、過去の自分と比べてみると、少しだけ大人になったように思われる。今になって思えば、20代前半の私はとてつもなく子どもだったように思う。きっと今の私が見たら悶絶するくらいに子どもであるように思う。周りの大人が自分と対等であると思い込んでいて、それでいてそんな大人に合わせてもらっていることに気づけなかったほどに子どもだった。忙しいとともに色々と考えさせられる8月だった。まぁこんな経験はあまりないことだろう。私自身凄く勉強になった。またこれからはまったりと自分のペースで更新していこうと思う。1つの区切りが見えるまで。
Sep 1, 2011
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今日も今日とて暑い。暑いところと言って真っ先に思い出すのは盆地だ。私自身が盆地の育ちだけあって、そういう暑さには慣れていたつもりだった。しかしながら、気候による慣れというのは徹夜に慣れているかどうかととても似ている。徹夜は慣れるということがあまりない。その時々で絶好調に動けることもあれば、眠たくて仕方ない時もある。私は徹夜の仕事をしているのでよくわかるが、こればっかりはどうしようもない。もう4年やってもなれないのだから(笑)暑さも同様だ。例えば去年の夏に例年稀に見るような暑さを体験したとして…今年もそこまではいかずとも暑かったとしよう。今年の暑さは去年の暑さに比べて劣るとは言っても、やはり暑いものは暑い。涼しげな顔をして過ごせるというものではない。と、書いて思ったのだが…最近暑いということばかり書いているような気がする(笑)さて、本題へ。つい先日私にはビッグニュースが舞い込んだ。世間一般的にはそこまで珍しいことではないのかもしれないが、私としてはかなり大きいニュースだ。何と言っても念願叶ったのだから、感激もひとしおというものだ。そんなことがあって数日過ぎたわけだが…何やら私の中で価値観の総入れ替えが行われたようだ。今回はそんな話。以前の私は、お金の使い道が兎に角なかった。服を買うにしても小物を買うにしても、それを見せる相手がいなかったのだから仕方ない。自分を磨こうにも、磨かんとすべき目標が見えないのであればやる気が出ない。そんなわけで、お金を使うにしてもかなり不毛な使い方をしていたように思う。しかしながら、今の私はその時よりも少しだけ変化したように思う。少なくとも前よりも綺麗好きになったように思う。部屋の掃除という点については以前からあまり変わらず定常的にやっているのだが、一番変化したところは服装だ。1人でいる時には最低限のボーダーさえ守っていれば何の問題もないというように感じていたが、今では積極的にまともに見られる服を選び、そして買っているように感じる。私はあまり服などは買わないのだが、先日かなりの量の服を買ってきた。しかも今までの私が選ぶようなものではなく、もっと街のイケてる人達が選ぶような服を率先して買ってきた。似合う似合わないの問題はあるだろうが、少なくともそういった以前の私にはない「冒険」をするようになったのだ。これもきっと先日のビッグニュースの影響だろう。一緒に歩いていて恥ずかしいと思われるような人では駄目だと最近強く感じるようになってきた。何もなくてもストイックに頑張るのがお洒落だが、私の場合は見てくれる人の存在がその鍵になったようだ。相変わらずそういった即物的なものでないと動けない自分自身には辟易とするが、少なくとも前よりはいい方向にシフトしていっている気がする。あいに見限られることがないよう、私も頑張らなければならない。話は少し変わって…このビッグニュースについて、兄に電話で伝えた。兄は大層喜んでいるように聞こえたのだが、兄が怜さんと付き合いだした経緯ととても似ているということで私ともども笑ってしまったのをよく覚えている。冗談で「今度帰省する時には彼女を連れて帰って来るよ」と言っていた条件を果たしたということで、兄から帰省の許可を直々に得た。まぁそんなものがなくても帰りたくなったら帰るのだが(笑)兄は兄とて怜さんとの結婚の話がかなり現実味を帯びてきているらしい。その報告を聞いて私も嬉しくなってきた。怜さんは本当にいい人だ。よく出来る兄に似たとても可憐な人だ。私の義姉としては最高の人だと思う。今から「義姉さん」と呼ぶ練習をしておかねばならないだろう。今までの私はそのような幸せな話をどこか俯瞰して聞いていた節があった。しかしこれからはある意味兄と同じ土俵に立っていると言える。私達兄弟は本当に仲がいいと思う、そういう意味でお互いにいいアドバイザーになれたら嬉しい。結局何の話なのかいまいちわからなかったが…まぁこんな感じで私の身の回りはいい方向に変化してきている。世間一般であまり珍しいとされない事象でも、私に降りかかればかように良い効果を齎すのかと改めて実感した今日この頃だった。
Aug 10, 2011
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暑い。もしかしたら今年一番の暑さではないだろうか?太陽から照りつける日差しも、前日やその前に比べてもかなり強いように思う。明らかに照射されている熱量そのものが違うのではないかと疑ってしまうレベルだ。気温は恐ろしいので見てはいないが、少なくとも30度の前半では済まないことになっているのではなかろうか。気温というのは風邪を引いた時の熱と同じで、意識すれば体感されるものへと変化するものの1つだ。知らない方がいいのだが…こうも暑いとどうしても意識してしまうものだ。今日は猛暑日と断言出来るだろう。さて、本題へ。うちの近くに西友がある。西友なんて珍しいものではないが、殊更私が住んでいるような田舎に於いてはかなり重要な意味を持っている。食料品をはじめ、各種生活必需品を購入出来るというメリットがあるからだ。これが都会ならばそこまで苦労することもないのだろうが、田舎は店舗の絶対数がそもそも違いすぎる。その点を差し引いても、都会や田舎を問わずに存在している西友の価値は非常に高いと言えるだろう。まぁ西友の話はいいとして…その西友の向かい側に、コーヒーを売りにしている喫茶店がある。まぁコーヒーをないがしろにしている喫茶店の方が少ないので、その表現方法は些か不毛ではあるが、兎に角コーヒーが美味しいらしい喫茶店らしかった。噂では、名を聞けば誰もが知っているような大手の社長さんもよく来るというお店らしかった。辺鄙なところなのにわざわざ足繁く通うということは、それなりのクオリティは約束されているということだろう。わからないものだ。その喫茶店では季節を大切にしているらしく、季節の変わり目には色々なメニューを展開していた。様々な趣向を凝らしたメニューの追加は、店主のワンマンで適当にやっているわけではなく、反響あってのものだということが、その制度がなくならないことからも窺える。知る人ぞ知るといったところだろうか。今回はそんな喫茶店の新メニューについての話。先日、私はその喫茶店の前を通りかかった。その時に新しいメニューが始まったというような貼り紙が貼ってあったのが目に付いた。また何か始めたのだろうかと思っていたのだが、その貼り紙にはこう書かれていた。「カキラK始めました」カキラK???結構長い間生きてきたつもりだが、そのようなものにお目にかかったことは一度もなかった。場所が喫茶店であることから、それが食べ物であることはなんとなくわかったのだが、そのような貼り紙をすることを考えると、誰も知らない食べ物を急にはじめた感じではなかった。感覚としては、冷やし中華はじめましたというようなニュアンスに近かった。つまりは「カキラK」なる食べ物は、結構な認知度を持っているということになる。しかしながら私は知らない。そこで少し考察してみることにした。1つの可能性としては、カキラKが関東限定の食べ物であるということだ。私は再三ブログにも書いているが、関西の出身だ。関東では当たり前の食べ物でも、関西出身の私が知らない可能性だって大いに考えられる。となると、カキラKは或いはかなり有名なものなのかもしれない。しかしながら、名前に英語のついた食べ物は前例がない。その可能性は薄いように思えた。もう1つの可能性としては、表記ミスだ。しかしながらどこからどう見てもカキラKにしか見えない。まるでそれが正しい表記であるかのような風格すら感じられた。であれば、表記ミスの線は薄いように感じられる。しばらく歩きながら考えていたのだが、家に辿り着く頃には答えがわかった。なるほど、そういうことだったのか。確かにカキラKは冷やし中華と同列の夏の風物詩と言えるものだった。こういう誤謬は気づくと本当にすっきりするものだ。もしかしたら私だけなのかもしれないが(笑)
Aug 9, 2011
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遠雷が聞こえる。今にも降りだしそうな天気の中、それでも彼女は俯き加減に言った。あいに出会ったのはいつの頃だったか。確か2ヶ月程前になるだろう。最初に出会った時に印象は兎に角不思議な感覚の子だった。私とほぼ同じくらいの年齢であるのに、私よりも遥かに落ち着いている雰囲気。私もよく年齢よりも落ち着いて見えるというようなことを言われるが、恐らくはあいの方がそう言われる可能性は高いだろう。連絡を取るようになったのも…やはり同じ頃だったように思う。きっかけは私からだった。どうしてもあいのその雰囲気と謎を残すような感覚がどうにも気になったのだろう。最初の玉を投げたのは間違いなく私だった。辺投は、実に朗らかな社交辞令が含まれた所謂一般的なものだった。まぁこういう感覚は私は慣れたものだ。恐ろしいまでのドライさも、私にかかればいつものこととして片付けられることになる。こういうのを一般に年の功と言うのかもしれない(笑)最初は面倒くさがっていたあいだったが、いつしかしっかりとメールが返って来るようになったのはそれから暫くしてのことだった。心境の変化なのか何なのかはわからない。でも少なからず友好的な印象を受けるには十分な内容だったように思う。それから私とあいの積極的なメールのやりとりが始まったのだった。話している内容は本当にどうでもいいような内容だった。今メールの内容について問われたとしても、半分くらいしか答えられない自信がある。何気ない会話をそのまま文章に起こしたようなものだと感じる。しかし今になって思えば、それが大切だったのかもしれない。気負うこともなく、自然にメールが続く関係、そんな雰囲気だった。一緒に御飯でも行こう!どちらからともなくそんな話が出た。以前に会った時から2ヶ月が過ぎようとしていた頃だった。お互いに仕事が忙しいのでなかなかスケジュールが合わなかったが、なんとか1日だけ時間を作ることが出来た。それが丁度昨日のこと。久し振りに会うということで、私も結構気合が入っていた。まぁ2ヶ月ぶりの食事くらいに相手は考えていることだろう。しかしながら私はそうではない。少なくとも2ヶ月の間で、あいは私の中でかなり気になる存在に変わっていた。話をしているといつも刺激的で面白い。今まで何度となく失敗してきた舵を私は再び取ろうとしていた。さて、当日。待ち合わせをして所謂ベタな散歩コースのようなところを歩いた。結構内面的なところについては話しているところが多かったので、あまり面と向って何か話すということはなかった。それでも私は別に気まずいと思うこともなかった。急いて話す必要のない人であることはもう十分に知っていたからだ。散歩コースを歩いてそのまま夜景が見える場所に辿り着いた。時間は夕方ということで、まだ夜景が見えるような頃合ではない。夜景が綺麗だという話は知っていたので、見えるようになる時間までは話をして過ごすことにした。実は話したいことがある。暫くしてふとあいがそんなことを言い出した。そういう文句で始まる言葉の場合、私にとっては都合のいい話だったことなんて一度もない。私の性格や見た目についての駄目出しでも来るのだろうと構えていたが、一向にあいは話し出そうとしない。しかも何やら俯いて言いにくそうにしている。こういう態度をとられる場合、事の重要度が非常に高いことを示している。なにを言われてもちゃんと受け止めて反省しようと私も心の準備をした。遠雷が聞こえる。今にも降りだしそうな天気の中、それでも彼女は俯き加減に言った。心の準備をしていた私はその言葉の意味を理解するまでにかなりの時間がかかった。きっとかなり馬鹿な顔をしていたのだろうと思う。なんという情けない話だろう。言われた内容がショックのあまり、私は男としての大切な何かをなくしたような気持ちになってしまった。頭が空っぽになるというのはきっとあの時の私のことを言うのだろう。今思い出してもここ数年で一番カッコ悪かったと自負出来る。まぁ自負しても仕方ないのだが(苦笑)その後は一緒に御飯を食べに行って喫茶店でコーヒーでも飲みながら話をしていた。実にまったりとしたような空気だった。あいも言いたいことをしっかり伝えた後とあってかなり晴れやかな顔をしていたが、私はと言えば浮き足だったような不思議な感覚だった。今となってもまだ実感が沸かない。夢であってもおかしくないような状況だったと感じる。勿論今も。別れ際、あいは何事もなく電車に乗り帰って行った。特に別れが寂しいという感じはなかった。だが、それが彼女の本質的なところであることを私は知っている。だから私もそうあって欲しいと思うままに彼女を見送ることが出来た。少し不思議で喋ればずばずばものを言う一緒にいて退屈しない子今では私の大切な彼女
Aug 8, 2011
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にわか雨が降って蒸し暑くなる一方だ。この時期の定番と言えばにわか雨だ。定番にも関わらず本当に不意に来たりするので、傘を持っていない時にやられることも少なくない。しかもにわか雨は普通の雨よりも雨粒が大きかったり、降る量もかなり多かったりと、不意にやられた時に困る要素ばかりを兼ね備えているという厄介な存在だ。にわか雨につきものなのが雷なのだが、前にブログにも書いた通り、私は雷が大の苦手だ。克服しようと思ったことも何度もあるが、未だに克服出来そうもない。他のものは全然怖くもないのに、何故か雷だけは苦手意識が消えない。そんな私の苦手な雷を伴うにわか雨はかなり困った存在だ。しかしながら、これがないと夏という気がしないのもまた事実だ。大きな積乱雲が夏の代名詞だと思っているからこそ、それがないと寂しい気持ちになってしまう。ままならないものだ。さて、本題へ。先日、とある看板の誤植を見つけた。普通の人ならば気にするまでもないような小さな誤植だったのだが、その時は不意に気になってしまった。しばらく眺めていたが、どういう経緯でその誤植が発生したのかは容易に想像が出来た。そういう類のものは結構普通にあったりする。それで思い出したのだが…昔私が地元に住んでいた頃の話だ。市内に出る為の道の途中に休憩所のようなものがあった。所謂「道の駅」というやつだ。小さい頃からその道の駅にはよく寄っていたものだった。長い道のりを走る前に少しだけトイレ休憩をしようとか、飲み物を補給しようという場合に大変役に立つ存在の道の駅だった。その道の駅の駐車場へ行く道の途中に看板が立っていた。恐らくは駐車場がこの上にあるというようなニュアンスのことが書かれているだろうと思いながら看板を見たのだが、看板にはこう書かれていた。「ここから ょいってください」ょいる??はじめは見間違いかと思って何度か確認したが、何度見ても書かれている内容は同じだった。しかしながら「ょいる」とはどういう意味なのだろうか?暫く考えてみたが、妙案は浮かんでこなかった。1つの可能性としては「寄る」という言葉の訛りということだ。「寄る」+「入る」で「よいる」といった具合だ。しかしながら曲りなりにも私もその地方で20年は生きてきた人間だ。流石に方言や訛りの類に関しては熟知している。そのような言葉がないことはすぐにわかった。暫く考えて私は結論に至った。なるほど、そういうことかと納得したものだった。その時は確か遠くまで車でドライブに行った時だったように記憶している。その看板を見てから目的地に行くまでにかなり時間があったが、車中その看板の言葉の意味を考えていたものだった。考えてみればかなり単純なことだったように思う。恐らく気づかれた方の方が多いのではなかろうか?驚くべきは…消し去る技術と言ったところか(笑)
Jul 30, 2011
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地上はデジタル放送が終わって2日が過ぎた。私の家は地デジ対応のテレビは置いてない。それは私がテレビを習慣的に見ることがないことに起因している。普通の家庭であれば、テレビは必須の家電製品だと言えるだろう。しかし私の生活習慣の中にテレビが占める割合は日本の消費税よりも低い。もう5年くらいテレビを見ない生活をしている。というのも、高校生の頃、私はテレビのない部屋に住んでいた。そこでの1番の娯楽はラジオだった。なので、テレビかラジオかをとれと言われれば、私は迷うことなくラジオを選ぶだろう。ラジオの方が娯楽としての質が高いからだ。まぁそれはいいとして…そんな生活だからこそ、地デジが終わるとかなんとかという話に敏感に反応するわけがない。使っていないものが終わろうがどうしようが私の生活には一切関係ないからだ。しかしながら、私が興味を持っているいないに関係なく、世間ではこの話題で賑わっている。先日も会社でこの話を振られた。早くテレビを買わないといけないと建前を言いながらも、そんな気は一切しない私だった。がいざ地デジが終わるとなるとなかなかに大きなイベントのような気がしてくるから不思議だ。テレビが始まって何年経つのか明確には知らないが、かなり長い歴史があるだろう。そんな長い歴史に幕が引かれるわけだ。会社の皆はもうとっくに地デジ対応のテレビを購入していたのだが、何故だか会話の中心に私がいることにしばらくして気づいた。どうやら皆の関心は「アナログ放送が終わる瞬間」にあるようだった。確かに地デジ対応のテレビを買うと、アナログ放送の終わりの瞬間は見れない。終わる瞬間がどのようなものなのか、それが興味の対象らしい。そう言われると私も少しだけ興味が沸いてきた。確かアナログ放送の終了は7月24日の0時だった。その時間にテレビを点けてみて、どんな風か確認してみることにした。7月24日23時59分…珍しく私はテレビのリモコンを握った。いざ、テレビを点けてその1分後に映像が途絶える様を見る為に。テレビを点けると普通に何かの番組をやっていた。そして一分後…普通に映ってるんですけど!?会社に行って先輩に聞いてみると、どうやら「デジアナ変換」という機能が働いているらしい。それがあればアナログ放送でもテレビが普通に見られるらしい。しかしその機能がどれほどまで有効なのかはわからないとの事だ。いつ見られなくなるかわからないテレビというのもなかなか新鮮だ。これではまるで昔の公衆電話のようではないか。いつ10円が切れるかわからない緊張感を現代で味わうことになるとは思ってもみなかったが、満更悪い気分でもないと感じた今日この頃だった。
Jul 25, 2011
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体調が芳しくない。多分夏だから夏ばての影響なのだろうと思う。夏は冬以上に体調を崩しやすい私だ。必然的にそうならないように色々と気を遣っているのだが、結果的に上手くいかないことが多い。きっと上手くいかないデータを上手く活用出来ていないのだろうと思う。去年はここが駄目だったから、今年はこうやって体調管理をしていこうというような指針があればいいのだが、どうにも同じことを繰り返しているような気がしてならない。私の計画性の無さと意志の弱さも起因していることだろう。こればかりは…一度痛い目を見ないと治らないのかもしれない(苦笑)さて、本題へ。ユニッシュとは何か?広義的に使われる言葉ではないように思う。勿論辞書を引いても私が意味するところとは違うだろう。それも当然だ、これは商標名なのだから。パイ〇ユニッシュという商品がある。女性ならいざ知らず、男性で使ったことがあるという人はそんなに多くないのではなかろうか。使用用途は、主に水道周りの髪の毛や汚れの詰まりを溶かして水の流れを円滑にするという商品だ。水道周りの手入れに気をつけていても、パイプの中まではなかなか手入れがやりにくいものだ。そういう時にこの商品は役に立つ。役に立つのだが…この商品について少しばかり思うところがある。今回はそんな話。例えば、窓などのガラス製品の汚れを綺麗に落とす洗剤があったとしよう。それを実際に使ってみて、本当に窓がピカピカになれば、その商品の効力は非常に大きいと感じることだろう。期待値に見合うだけの結果が出れば買った甲斐があるというものだ。もしかすると次に窓が汚れた時には同じようにその洗剤を使うことになるかもしれない。それは「綺麗になった窓」という結果における「綺麗さ」という指針に基づいている。一方、この水道のパイプの詰まりを除去するパイ〇ユニッシュなのだが、このものの場合は上述の場合とは少し異なる。もし仮に使ってみた場合を考えて欲しいのだが、この商品を使う状況とは、少し水の流れが遅く感じるというような場合であり、間違っても水道が詰まってしまったからという時ではない。まぁその状況でも使用理由としては間違ってはいないのだが、そこまで放置していることが問題だと考えられる。兎に角水道のパイプの不調に起因して使用されることになるわけだ。だが水道の不調はバロメータとして非常に不明瞭だ。上述の窓の例から考えてみると、窓が曇ったり汚れたりしているのは目に見えてわかりやすい。使用前使用後の違いがはっきりわかる。だが水道パイプの場合はそうではない。不調「ぽい」ので使ってみたら、水の流れが正常になった「ぽい」というような判断しか下されない。それは即物的な現代においては非常に曖昧な判断基準ではないだろうか。少なくとも同様のことは医療関係においても散見される。中の状態が見えないので仕方ないとは思うが、こういう商品の場合は口コミの評判であったり評価を受けるという点において非常にハンディキャップがあるように感じて仕方ない。また、同業他社との差別化が難しいという問題もある。よく落ちる、よく効く、そういうふれこみを作ることは簡単だが、消費者が果たして商品毎の洗浄レベルの違いを見分けられるほどの慧眼を持ち合わせているかということもある。A社とB社の商品を実際に使って良い方を選択するならまだいいが、使ったことがない場合には非常に選ばれにくい性質を持っている。結局その場合は価格によって線引きが行われることになるだろう。安いもの=いいものという図式が必ずしも成り立たない昨今、価格のみで選択されることは良質のものを扱っている会社にとっては不利益を蒙るリスクになり兼ねないというわけだ。まぁそれでも…実際にお店に行ってこのような類の商品を見てみると、結構沢山あることに気づく。つまりは私の考えは机上の空論に過ぎないというわけだ。こういう世界で生き残っていくことは、きっと即物的に観察されるものを扱う業界よりも難しいのではないか。そのようなことを考えながら水道にパイ〇ユニッシュを流し込んでいた今日この頃だった。
Jul 24, 2011
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数日前とは打って変わって夏らしい天気となった。気温にするとおおよそ28℃くらいだったように思われる。多分これくらいの温度が今の季節の通常運転の時くらいなのだろう。通常なのは通常なのだが、今までが少し冷え込んでいたせいもあってか、なんだか気温以上に暑く感じたものだった。夏はまだまだこれからなのだから、少しくらいの気温の変化には適応できるようにしたいものだ。体調管理をしっかりするのも1人暮らしの王道的基本だからだ。さて、本題へ。先日会社での事。仕事もひと段落してお昼でも食べに行こうと、建物備え付けの食堂に行くことにした。私の職場では、食堂は別の会社から派遣されてきた社員によって営まれている。つまりは、私が属している会社と食堂の会社は別ということになる。以前からそうだったのだが、今の会社に配属になってから、その食堂を請け負っている会社は1度交代している。それが契約満了によるものなのか、それとも別の理由なのかは判然としない。そういう情報は意図して隠されるものだ。今は給食シェア国内7割の会社が食堂に詰めているといった具合だ。この食堂なのだが、このブログでも何度かネタにしたことがあるような所謂「面白い」食堂だ。この「面白い」という意味が、良いベクトルでのものならまだいいが、はっきり言えばネタにはなるが対面した本人にとっては笑えないものであることが多い。最初は私だけが不幸を蒙っているのかと思っていたが、どうやら同じく働いている人の中でも同じような現象は起きているらしい。つまりはそれがスタンダードであって…本質的にも同様だということだ。まぁその食堂の紹介はこれくらいにして…その食堂でその日も昼食をとることにした。注文したのは、その日イチオシのメニューらしい「醤油風味の鳥の唐揚げ丼」だった。名前からしてかなり美味しそうなのはわかったので、迷わずにそれを注文することにした。今思えばそれが大きな間違いだった。出てきたメニューは確かに鳥の唐揚げが御飯の上に乗った丼だったのだが、食べ始める前にあることに気づいてしまった。それは鳥の唐揚げが本当に御飯の上に「乗っている」ということだ。乗っているだけなのだ。丼とはどういうものなのか、その定義についてはあまり知らないので、参考文献に以下の記述を載せる。丼とは…おかずと御飯が一緒としたもので、簡便な食事として食事に時間をかけられない階層に好まれている。具にかかる汁やタレをご飯が吸収する事から、ご飯に味が付くことになる。 -Wikipedia引用-ここで重要なのは「具にかかるタレ」という点だ。上述のように私の目の前にあった丼と呼ばれるものには、タレのようなものは何もなかった。本当にただ唐揚げが乗っているだけだった。果たしてこれを丼と定義してよいものなのだろうか?否、いいはずがない。これは文句を言わなければならないレベルだろう。が…こういう小さいことで怒るのも少々大人気ない。なので私は大人になってから得た処世術を行使することにした。それは…こういうものだと思えば食べられるよね♪何事も諦めは肝要だ。思い通りにいかないことこそ人生の醍醐味とはよく言ったものだ(笑)
Jul 23, 2011
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ここ数日やたらと寒い。最初は私が風邪を引いただけかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。私の部屋の時計には温度と湿度が計測出来る機能がついているのだが、その時計が気温の低下を如実に示してくれた。どうやら部屋の中の温度が数日前に比べて6度以上下がっているようだ。過ごしやすいと言えば過ごしやすいのだが、どうにも突然の気温の変化は体調管理にとってかなり厄介な存在だ。そのせいか少しだけ身体の調子がおかしい。やはり暑い時は暑いと、気温の差はあまり発生しない方が身体にとってもいいらしい。冷え込みで思い出したのだが…冷房をつけて設定温度を18度にすると、実際の18度よりもかなり寒く感じるのは私だけだろうか?外気が18度程度になる時期と言えば、丁度9月の終わりくらいから10月のはじめだろう。勿論それは本州での平均的な時期の話だ。海を越えた向こう側の都道府県の話ではない。兎に角、10月のはじめくらいが大体それくらいの温度になることが多い。その時の気温と冷房によって作られた気温とではどう考えても体感的に差があるように感じてならない。勿論それは時期による服装の差という点を差し引いてもだ。冷房を比較的よく使う時期は、殆どの人が半袖であったり短めのズボンを履いていることだろう。女性であれば…わからないが、兎に角薄めの服装をしているはずだ。そして10月のはじめ頃と言えば、シャツに1枚羽織るくらいの格好をしていることが多い。その服装の差による体感的な差は確実に存在する。それを度外視しても尚、温度差はあるように思える。考えられる理由としては、風の有無によるところだろう。18度に設定された冷房は、部屋を18度に保とうとする為に冷たい風を出さないといけなくなる。冷房から出る風に直に当たる人はあまりいないとは思うが、それでもその風を受けないで部屋にいることはかなり難しい。18度程度の風を薄手の状態で受けるとかなり体感的に寒いと感じることだろう。同様に、10月のはじめ頃でも、少しの風が吹くような日では18度で適当な格好であっても肌寒く感じることもあるだろう。風の影響というのは思っているほど小さいものではない。故に体感的により寒く感じるのではないだろうか?まぁこの考えを言ったところで、賛同してくれる人は少ないだろう。それは風による体感的な気温の低下についてではない。節電ブームの今、冷房を18度にして点けている人がいないからその感覚がわからないという意味で…だ(笑)
Jul 22, 2011
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暑い時こそ暑いコーヒー。これこそ至高♪暑い時に冷たいものが食べたくなる気持ちはよくわかるが、だからこそ敢えて熱くて濃いコーヒーが美味しいと私は思う。熱くて濃いコーヒーは特別な力を持っているように思う。他の飲み物にはない不思議な力だ。しかもコーヒーはブラックに限る。砂糖やミルクを入れるのであれば濃く淹れる必要なんてない。そのままの味を楽しむ。それこそが私なりの楽しみ方だ。他に何もこだわりはないが、これだけはこだわりを持っている妙な私だ。さて、本題へ。毎年これくらいの時期になると外を賑やかにしてくれる存在が日本にはいる。それはある時は迷惑であったりするが、夏の風物詩であるとも言える。それは蝉の鳴き声だ。蝉の鳴き声に夏を感じる人は多いのではなかろうか?かく言う私もそう思っている。暑くて過ごしにくい夏を彩ってくれる蝉の鳴き声は、季節感のある日本の夏にとってかけがえのない存在だと言えるだろう。が今年は今日をもってまだ蝉の鳴き声が聞こえない。例年ならばこれくらいの時期ならばもう煩いくらいに鳴いているものだ。なのに今年はまだ一度も蝉の鳴き声を聞いていない。これはどういうことだろうか?蝉だけではないが、動物には危機察知能力があると聞く。大地震の前には動物が妙な行動をとるという話は珍しいものではない。或いはその類のことなのだろうか?考えたくはないが、今の時期に蝉が鳴いていないということが不自然に感じられて仕方ない。4ヶ月前の地震のこともある、一笑に付するには楽観的だと思える。何もなければいいが。あるとあるで喧しくて仕方ないが、なければないで寂しく思ってしまうのが人間の勝手なところだ。共にあれば姦しくとも、その存在がなくてはならないものになる。蝉もいいかもしれないが、そんな伴侶も見つけたいと少しだけ思った今日この頃だった。
Jul 17, 2011
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天気予報の晴れのマークがなにやらおかしい。いつも見慣れた天気予報なのだが、何故かその時だけ違和感を覚えた。私が慣れ親しんだ天気予報というのは、マークで天気を示すものだった。晴れならば晴れのマーク、雨ならば雨のマークといった具合だ。丁度NHKの天気予報に近いものがある。もう20年以上も見てきた天気予報なのだが、つい先日見たものは私が今まで見たことがないものだった。確かにマークは晴れなのだが、どうみても所謂「晴れ」のマークよりも太陽が活発になっている。しかも通常晴れのマークの色はオレンジ色なのだが、その晴れのマークは紅色だった。刹那、答えがわかった、このマークは夏限定のものだということが。猛暑日を示すものがそのマークが使われるらしい。そのマークがついている日の予想最高気温は35℃と記載されていた。なるほど、盛るほどに燃える太陽ということか。今年の夏はなるだけこの天気予報のマークを見ずに過ごしたいものだ。さて、本題へ。昨日のことになるが、突然部屋の電球が切れた。こういうことはもっと前もって言っておいて欲しいものだ。しかしながら、人もまたいつ風邪を引くのかわからない。恐らくは似たようなものだろう。知りたいと思う情報ほど、直前になって突発的に開示されるものだ。先手を打ちたい情報ほど公開されない、何でもそういうものだ。とは言え、電球の寿命については何かしらの「兆候」があるものだ。例えば明かりが少し暗めになってきているだとか、明滅するだとか。そういう兆候を受けて事前に電球を買っておくのが通常の流れだろう。しかしながら、これがまた難しい。電球は毎日使うものなので、少々の明かりの不足があっても気づきにくいものだ。そこを見極めて買う必要があるのだが…そこのところの観察眼は私にはなかったようだ。そうして電球を買いに行くわけなのだが、次に問題となるのがワット数だ。適正なワット数の電球を使わないと発熱が過剰になってしまうという話を聞いたことがある。しかしながら、明かりを買う時にはその明かりにつける電球のワット数を覚えているのに、買いに行く時…つまり電球交換の時には忘れてしまっている。これが問題だ。大体こういうポカは買いに行ってから気づくものだ。そして電球コーナーを前に必死に思い出そうとする。今回の私もまさにそうだった。まぁこんなに苦労するのも私のこだわりのせいだ。巷では今長持ちする電球が売られていて、一度交換すればかなり長い時間持続するらしい。しかしそれらの商品に対応しているのは全て白熱灯だったりする。私は白い明かりが嫌いだ。何か落ち着かない気分になってしまうからだ。なので私の部屋のメインの照明及び間接照明群は全て昔ながらの電球の色に統一してある。白い明かりが苦手ではない方が何かと過ごしやすいとは思うが、どうしてもあの色が好きになれない。そんなこだわりがあるからこそ、巷で有名な長持ちのものが買えずにいる。探せばあるのかもしれないが、少なくとも私の周りには白熱灯ではない長持ち電球は見たことがない。結局このこだわりを捨てきれない故に上記のような「不条理」な悩みに翻弄されるわけだ。そんなこんなあって買ってきた電球を嵌めてみると…部屋の雰囲気が一気に変わったことに気づく。部屋の照明1つで雰囲気というのは大きく変わるのだということを再認識した。ただ明るくなっただけで少し気分が良くなってしまった私は単純な性格かもしれない(笑)
Jul 16, 2011
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猛暑続く。こうも暑いと何もする気がおきない。朝起きると汗びっしょりなことが少なくなくなってきている。暑いと頭が働かなくなってしまうのは私だけではないはずだ。正常な判断がつきにくくなってきて、今日もコンビニで意味もない買い物をしてしまった。きっとこれはこの猛暑のせいだ。と言い訳しながらも、何故か買ってしまったパンを目の前に溜息をつく今日この頃だ。さて、本題へ。〇〇賞というのはどこの業界にもあるようだ。有名なのは文学作品に与えられる「芥川賞」といったところか。歴史も深いこの賞は受賞するだけで大変名誉なこととされているだろう。実際にこの賞を受賞した人の作品が飛ぶように売れるのは目に見えている。つまりは文学の世界における最も良い賞の1つだと言えるだろう。だからだろうか、この賞のネーミングセンスに疑問を感じるのは。芥川賞の由来は勿論文豪芥川龍之介に起因しているものだ。賞の名前として残っているくらいに、この先人の偉業は大きい。故に賞の名前となるくらいだ。しかしながら、この芥川賞というネーミングを見る度にいつも思う。別に芥川氏が選考しているのではないということを。選んでいるのは勿論現代を生きる審査員のような人物の集まりだろう。そしてその結果芥川賞を受賞した作品並びに作者が選出される。受賞者の選出をしては申し分ないだろう。しかしそこに芥川氏の意志は介在しない。つまりは傀儡、賞の大きさを計る器でしかない。それなのにこのネーミングに決定し、しかも現代まで長い時間脈々と受け継がれてきたのは、そのネーミングについて誰も疑問に思わなかったからだろう。不思議なものだ。偉業を成しえた先人の名前を冠した賞というのはえてして何か微妙なずれを感じるのは私だけだろうか?ならば最優秀賞とかそういう名前にすればいい。そうすれば特に違和感もなく受け入れられることだろう。どのような大会でどのような位置づけになったか、それが一目瞭然だからだ。まぁしかし…このような無粋なことを言っている時点で、私にはそのような賞の持つ大きな意味を理解できるはずもないだろう。まぁそうだ。私は多分芥川賞から凄まじい絶対距離を持つほどに、文才がないということを自覚しているのだから(笑)
Jul 15, 2011
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夏と言えばアイスクリームが美味しい時期だ。冷たいものは暑い時に食べるに限る。時々寒い時にこそ食べるのが美味いという意見もあるが、おおよそ大多数の意見は前者に偏ることになるだろう。暑いのだから冷たいものを食べてクールダウンを図ろうということだ。私は基本的に甘いものはそこまで好みではないが、夏のアイスに関しては別だ。これは最早一種の薬のようなものだ。暑い時に食べるアイスほど美味しいものはない。味云々よりも体温が低下するような感覚がたまらないからだ。暑い時に冷たいものばかり食べていると胃が草臥れるというような話があるが、そうは言っても暑い中に食べる冷たいものはやはり格別の美味さがあるように思える。先日、会社の先輩がアイスについて話をしていた。聞けば、関東には伝統のアイスなるものがあるらしい。私はまだこちらに越してきて日が浅いので知らなかったのだが、それは関東から東北にかけてかなりメジャなアイスのようだった。私が知らないことを先輩は残念に思ったのか、そのアイスの美味しさについて懇々と語ってくれた。そして同じようにそのアイスを食べたことがある人を探していたのだが、関東出身の人に聞いても東北出身の人に聞いてもそのようなアイスは知らないと言われてしまっていた。こういうことはよくあることだ。自分の中ではメジャなものでも、他人にしてみれば特にメジャでもないというようなことだ。私が好きなヴィレッジヴァンガードのようなものだろう。私は大好きでメジャだと思っていても、他の人にしてみればそうでもない。他の人が知らないと口を揃えたことに対してその先輩は気に入らなかったのだろう、余計にそのアイスの美味しさについて語ることになってしまった。世の中の動向について詳しい先輩なのだが、そういう身近なことについてはあまり常識と似通った感性を持っていないのだと感じた出来事だった。そんな話を聞いていると、私の地元にある地元名物のアイスについて思い出した。私の地元にあるアイスは一風変わっている。味がどうとかというような意味ではない。味はただ1種類、バニラしかない。まぁある意味それしかないことは変わっているのかもしれない。でもバニラ味のアイスなんてありふれているだろう。そのアイスが変わっているのは形だ。通常アイスと言えば、棒に刺さっているタイプとカップに入っているタイプの2つにわけられる。私の地元のアイスは前者なのだが、その棒に刺さっているという形が変わっている。というのも、棒の角度が1つとして同じものがないのだ。子どもの頃にそのアイスを作っているところを見たことがあった。そのアイスは1つ1つ手作りで作られているものだった。型の中に入っているアイスの原液の中に店主が1つ1つ棒を差し入れていく。型の中で固まりつつある原液は、固まり方に統一性がない為、棒を差し入れたところで、どこで凝固するのかわからない。故に1つ1つの棒の角度が違うという結果になるわけだ。私の地元の人は夏になればそのアイスを食べていた。大袈裟な話ではなく、夏になればどこの家庭の冷凍庫にも必ずここのアイスが入っていたものだった。私はと言えば、そのアイスは卵の味が利きすぎているのであまり好きではなかったが、私の家族は皆好きだった。安くて歪なそのアイスは私好みではなかったが、地元の夏の風物詩としてはなかなかの知名度を誇っていたわけだ。要するにそういう類のものなのだろうと、先輩の話を聞いていて思ったものだった。多分そのアイスについて先輩もかなりの思い入れがあるだろう。私も地元のアイスの話をする時はきっとテンションが上がってしまうに違いない。どんなに年齢を重ねようとも…否、年齢を重ねたからこそ、そういう懐かしい話には熱が篭ってしまうのだろう。そんな風に感じた今日この頃だった。
Jul 14, 2011
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