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旧型国電 飯田線:クモニ13026飯田線沿線は昔から道路整備がままならず、古くは私鉄の時代から荷物輸送を鉄道に依存していました。新性能化され、全国の荷物輸送が廃止されるまで、荷物車或いは郵便荷物合造車が活躍していました。飯田線の全室荷物車は、湘南形クモユニ81改造のクモニ83100番台と、このクモニ13が配置されていました。昭和56年7月22日 飯田線 撮影場所不詳 クモニ13026クモニ83100番台が3両に対し、クモニ13は2両の配置で、確率的にはクモニ13の方が希少価値がありましたが、やはりそのスタイリングからクモニ83ばかりに目が行ってしまい、飯田線最後の17m国電となったクモニ13の写真はあまり撮っていませんでした。編成写真的には数枚の記録が残っていますが、形式写真的にまともに撮ったのはこの1枚だけ。彼らに対する扱いがかなり雑になってしまったのは勿体無かったです。
2022.12.31
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583系:特急「ふるさと」昭和57年6月、東北新幹線が大宮始発の暫定開業となりました。この際、在来線「やまびこ」は全廃、「はつかり」は盛岡~青森のアクセス特急に変わってしまいましたが、乗換え不便の救済策として、上野~青森間の直通臨時特急「ふるさと」が設定されました。昭和58年8月17日 大宮駅にて大宮駅にて出発を待つ下り臨時特急「ふるさと」。当時としては珍しく、専用のイラストマークがセッティングされました。東北新幹線開業により583系の運行範囲が変わるため、行き先表示の整備にあわせてヘッドマークも用意されたのではないかと推測します。昭和58年8月17日 大宮駅にて上の写真と同日、上り「ふるさと」も撮影していました。上り到着はかなり遅い時間で、上野まで行かずに大宮止まりとなっていました。これは、夜行列車として折り返す間合いが確保できなかったための措置だったようです。上り臨時特急「ふるさと」は、3番線に到着後、東大宮操へと引き上げとなっており、上野方の先頭には既にテールランプが点灯しています。昭和60年1月5日 栗橋~古河間にて唯一撮ってあった走行中の下り臨時特急「ふるさと」。編成は583系ですが、まだ食堂車サシ込みの13両という堂々とした編成でした。昭和60年3月、東北新幹線の上野開業によりこのような臨発措置も解消となり、何も無かったように設定が無くなってしまいました。上野開業が春休み前でしたので、この写真がひょっとすると運転最終日であったかもしれません。
2022.12.30
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キハ56+キハ22:急行「大雪」石北本線といえば、当時日本で唯一のカタカナ特急「オホーツク」と長躯函館~網走間を往復していた「おおとり」が花形であった訳ですが、両列車とも1往復のみの設定で、庶民としてはやはり急行「大雪」がメジャーな優等列車であったと思います。昭和55年の時刻表を見ると、1日5往復の「大雪」が設定されており、4往復が昼行のディーゼル、1往復が寝台車を連結した夜行急行でした。テツとしては昼間のディーゼル急行よりも夜行列車を多用した、と言いますか、夜行しか乗ったことがない方も多いのではないでしょうか?急行「大雪」は、その多彩な運用面からも大変興味深い列車です。1往復は釧網本線経由で釧路~網走~旭川~札幌を走破し、下りでは名寄本線の興部行き、さらに驚くことは、上りの名寄発~名寄本線~遠軽~札幌なんてとんでもないコースを走破する列車もありました。さすがに好んで乗るような列車ではありませんが、ちょうど9時間も掛かるこの列車は通しで乗る人なんてまず居なかったのではないでしょうか。昭和56年3月 遠軽駅にて 急行「大雪4号」右側のキハ56とキハ27の2両編成を組んだ急行ですが、あまりにもショボイ編成ですので、『うさぴょんのマル鉄回顧録』でアップしたときは急行「天都」かもしれない、としていました。しかし、昭和56年の時刻表を確認したところ、この時点で既に急行「天都」は廃止されていました。そこでさらに時刻表を追ったところ、渚滑線の乗りつぶしから遠軽へ戻ってくるのが9:40。特急「おおとり」と特急「オホーツク」が10:50を前後として交換が行われるのでこれを撮影。駅へ戻ってから列車に乗ろうとすると、網走方面、旭川方面とも12時を過ぎるまで列車が無い。網走発の558Dが遠軽12:11着。折り返し12:42の網走行き559D。名寄発の1623Dが12:02着、そのまま12:38に旭川行き514D「大雪4号」となります。そのときの私の行動と時刻表上の時間の相関がピタリと一致しました。つまり、写真で言うところの左側が558D~559D、右側が急行「大雪4号」。さらに、昼行の急行「大雪」はほとんどがグリーン車連結であるのに対し、この旭川行き「大雪4号」のみグリーン車は連結されていません。以上のことから、全ての状況が一致し、写真のローカルな急行列車が「大雪4号」であることが判明いたしました。ヘッドマークの無い気動車急行と言うのは、私的には撮影対象外だった筈ですが、北海道と雪景色、極寒の風景は、普通の気動車ですら魅力的に感じさせてしまうんですね。ですので、本州ではあまり撮影実績の無い一般型車両たちも、沢山記録に残すことができたのだと思います。
2022.12.29
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485系「リゾートやまどり」:特急「リゾート草津」令和4年12月27日、485系「リゾートやまどり」が最後のイベント仕事を終え、郡山へ向けて廃車回送されたそうです。平成23年の登場時に目撃したリゾートやまどりについては『ジョイフルトレイン:485系「リゾートやまどり」登場の時』で既にご紹介していますが、その後華々しくデビューしたときの記録があります。平成23年、ジョイフルトレインの485系「やまなみ」と「せせらぎ」を合体させてリニューアルされた「リゾートやまどり」が誕生しました。485系「リゾートやまどり」は、早速臨時特急「リゾート草津」として新宿発貨物線経由で設定されました。登場したばかりで未知の部分ばかりだったのですが、どうもジョイフルトレインにはあるまじきヘッドマークが付いているということで注目を集めました。平成23年7月16日 送込み回送回送なので何も表示されていませんが、ヘッドマークステーのようなものが運転席に見えました。平成23年7月16日 下り 臨時特急「リゾート草津」本運転では小さいながらも専用のヘッドマークが装着されました。平成23年8月13日 送込み回送この日は回送にもヘッドマークがセットされていました。本運転は逆光になってしまいますので、これは嬉しいサービスとなりました。平成23年8月30日 送込み回送この日の送込みはヘッドマークが取り付けられませんしたが、運転席を見ると・・・ステーの傍にヘッドマークが置いてありました。上から撮ったものが、結果、面白いものとなりました。平成23年8月30日 下り 臨時特急「リゾート草津」本運転も上から。安心してください、入ってますよ!平成23年12月24日 臨時特急「リゾート草津51号」新宿発着の「リゾート草津」は何故かたった1シーズンのみで終わってしまい、同年の冬臨では上野発着に変わってしまいました。列車名も「51号」が付くようになりましたが、ヘッドマークは新宿発着時と同じものが用意されました。平成24年11月4日 下り 臨時特急「リゾート草津」1年ほど記録していなかったのですが、ヘッドマークステーが撤去され、なんと電光式に変わってしまいました。なにやら表示が出ているようで、特急何とかって表示されているようですが、歪んでしまって分かりません。そしてこれまた何故か、「51号」がなくなっています。平成25年7月20日 下り 臨時特急「リゾート草津」その後も時折りアルバイトの様に「やまどり」の運用が設定されますが、ヘッドマークが「臨時」だったり「沼田」だったりと精彩の無い表示しかなくなってしまったため、殆ど撮ることが無くなってしまいました。写真の表示は「特急」のようです。新宿発着の臨時特急「草津」もこの時以来設定されなくなってしまったようですが、その後、ほぼ4年振りに651系にて帰ってくることになりました。
2022.12.28
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485系リゾートやまどり:快速「ググっとぐんまやまどり」本記事は、2013/10/05に投稿したもので、当時の表現になっています。平成25年10月5日、485系リゾートやまどりを使用した快速「ググっとぐんまやまどり」が運転されました。遡っての記憶はありませんが、上野発の快速で桐生行という設定は珍しいように思います。天気が悪いにもかかわらず、車内を見ると結構な乗車率であり、浦和・大宮からの乗車を考えると満員御礼だったかもしれません。9833M 臨時快速「ググっとぐんまやまどり」かなり天気が悪いので、画質も荒れてしまいました。リゾートやまどりもヘッドマークがLED化されて以来、手を抜いた表示しかしなくなりましたね。せっかく気の利いた愛称を付けているにもかかわらず、どこにも出てこないのは非常に残念です。
2022.12.27
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キハ183系900番台:特急「おおぞら」試作車誕生~試用運転北海道の過酷な仕業に耐えてきたキハ82系も故障が多くなり、次世代の気動車特急の登場が待たれました。ここにキハ183系が誕生することになります。昭和54年の秋のことでした。昭和54年秋 富士重工業敷地内にて キハ183-903未だ当時の国鉄に引き渡し前のキハ183系900番台の落成直後の姿です。友人の友人のお父さんがこの富士重工に勤務していて、新しく完成した気動車を立会いで見せてくれるとの連絡が入ったのです。興味深々でもあり宇都宮までの旅程に慣れていた私は、もちろん喜んでいきました。撮影にあたっては、そのお父さんから「まだ引渡しはおろかプレス発表もしていないので、絶対にマスコミ関係への情報は流さないと約束しなさい。」と言われました。当時高1であった私からすれば、雑誌等に記事を投稿するなんて大それたことは考えたことも無い時代でしたので、特には問題なかったんですけどね。とにかく、初めて見たキハ183系のあまりにも奇抜なデザインに開いた口が塞がらないと言うか、呆然と眺めるように写真を撮りました。当時の気動車特急には全く無かったデザインでしたから。といった貴重な体験から、本線を走行する前のキハ183系の産声を聞くことが出来たわけです。ちなみに、富士重工ではキハ183-903とキハ183-904を先頭とする編成が落成しましたが、同時進行でキハ183-901とキハ183-902を先頭とする編成が新潟鉄工から完成しています。昭和56年3月 日付不明 札幌駅にてキハ183系900番台は、先行試作と言うことで、結構長い期間の試運転が行われ、さらに試行営業と言えるような暫定営業が永らく行われました。おそらく、北海道向けとして初めての機軸を盛り込んだ新性能気動車だけに、各種データの集積やトラブルの把握など各種テストが行われたのでしょう。技術的な内容は良く知りませんが、直ぐには量産車が誕生していない点で想像が付きます。私が初めて北海道に行った昭和55年3月時点では逢えなかったのですが、翌年の昭和56年には営業運転に就いていました。ただし、編成予備が無かったために、毎日片道の運転という設定でした。(当時の「おおぞら」は、函館~釧路間というロングランのため、片道走行が限度だったのです。)昭和56年3月 日付不明 札幌駅にて量産車が製造されていない頃なので、この時点では編成の全てが900番代で組成されています。外観での最大の特徴は、空調装置の不具合に備えて、各車両にスウィング式で開閉できる窓が付いていたことです。これは781系900番台特急型電車にも共通した構造ですが、いずれも量産車では採用されずに密閉式となり、試作車も量産車に合わせて共通化改造され、最大の特徴を失ってしまいました。その点では登場初期の貴重な写真となります。昭和56年3月17日 根室本線 新得~落合間にて 「おおぞら4号」こちらは狩勝峠の入口辺りで撮った写真です。1日のうち片道しか運用に入れないキハ183系900番台ですので、撮れるか撮れないかは運次第でした。まあ、せっかく来たのにピントがあっていない、構図もメチャクチャな写真で終わってしまったのが非常に残念です。逆光だったのも災いしました。それでも、特徴のあるキロ182-900番台(キロ182の中で、唯一デッキが車端にある構造。)が判るのが救いでしょうか。昭和56年3月20日 函館本線 姫川~森間にて 「おおぞら5号」こちらは帰り掛けに撮った函館本線内での写真です。なんとも上の写真と同じような構図、しかも逆光で冴えない写真になってしまいました。しかし、キロ182-900番台に加え、キハ184(中間電源車→後のキロ184-901)まで判別できるのが救われる構図でした。一つの特定の編成にこれだけ逢うことができながら、キレイな写真を残せなかったのは非常に残念でした。しかし、その後量産車と混結されるためにバラバラになってしまい、外観上も区別が付きにくくなってしまったため、逢ったことさえ分からない状況となったしまったことを考えれば、北海道への遠征を有意義にしてくれた立役者でもありました。この度全廃が発表されたキハ183系。北海道の鉄道の高速化に貢献した形式であり、その功績は非常に大きかったものと言えると思います。
2022.12.26
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キハ82系:特急「オホーツク」2023年ダイヤ改正において、特急「オホーツク」からキハ183系が撤退し、キハ283系化されるそうです。これにて、最後まで残っていたキハ183系も全廃されるようです。特急「オホーツク」は、元々準急列車として登場した名称ですが、昭和47年10月の改正から札幌~網走間を走るキハ82系特急として誕生しています。北海道では、本州からの接続により函館起点の特急列車が整備されておりましたが、この「オホーツク」の誕生により、初めて函館に乗り入れない特急列車が設定されたことになります。また、北海道ではアイヌ語に由来する駅名や地域名が多いため、これらを使用した急行列車は多く存在しましたが、ロシア語を使用した列車としては唯一のものとなっています。私がキハ82系の「オホーツク」を捉えるタイミングとしては、高校時代にたった2回のチャンスでした。よって、枚数は少ないですし、駅撮りシーンばかりとなりますが、昔の札幌駅と合わせて光景を楽しんでもらえたらと思います。昭和55年3月 札幌駅にて初めて出逢った「オホーツク」。当時は日本で唯一のカタカナ特急でしたので、憧れも強かったです。有効時間帯としては下り朝発の1本だけでしたから、絶対に逃すことはできない存在でした。昭和56年3月 札幌駅にて翌年にまたまた札幌駅で捉えた写真。1枚目と殆ど変わらない光景。地平駅時代の風景も懐かしいです。昭和56年3月 新旭川~東旭川間にて「オホーツク」で唯一走行写真を捉えたものです。札幌駅での出発時間が比較的早いため、非常に撮りづらい列車でした。多分、旭川駅で駅寝したときだと思います。写真は、偶然にもキロ(グリーン車)を2両連結した珍しい編成です。昭和56年3月 旭川駅にて「オホーツク」が撮りづらかったのは、上り列車の時間設定の問題が大きかったですね。写真は旭川駅での上り列車ですが、真っ暗で殆ど見えない状態でした。その後、急行「大雪」の撤退が進むに連れ特急「オホーツク」は増発され、石北本線での重要な交通手段となっています。キハ82系時代の最後の頃はヘッドマークがイラスト化されたようですが、その頃は就職して道央まで足を伸ばす時間がなくなってしまい、残念ながら記録することはできませんでした。昭和57年、「オホーツク」からキハ82系が撤退し、新鋭キハ183系へと引き継がれることになります。
2022.12.25
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651系:新宿行き 特急「あかぎ10号」2023年ダイヤ改正において、JR東日本の651系が全面撤退となってしまうようです。651系の想い出特急シリーズ。※本記事は、2021/3/9に投稿されたもので、当時の表現になっています。令和3年3月のダイヤ改正において、唯一残っていた高崎線からの新宿行き特急である「あかぎ10号」が廃止になってしまうということです。「あかぎ10号」は休日のみの運転であり、平日朝の「スワローあかぎ」は存続するようなので、湘南新宿ライン(貨物線経由)の「あかぎ」という名称は消滅することになります。平成30年9月24日令和2年3月28日時間帯があまり良くないため、撮った枚数が全然ありませんでした。「サフィール踊り子」の回送には近い時間なのですが、まったく無視していた感じでもあります。上野発着はそれなりの乗車率があるようですが、なんで新宿行きはダメなんでしょうね。
2022.12.24
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旧型国電 飯田線:クハ68418※ご指摘により、車号に誤りがありましたので、一部修正させていただきました。セミクロスシート車として量産された51系の制御車であるクハ68。オリジナル車は少数で、戦後にロングシート車であるクハ55から改造されたものが多数あり、これ以外にも2扉車のクハ47やクロハ59の3扉化による改造車もあり、サロハ46→クロハ59→クハ68と複雑な経緯を持つ車両もありました。飯田線では、便所の取付改造を行った400番台車が在籍し、その殆どがオリジナルのク68又はクハ55から編入された半流形となっていましたが、元クハ55の平妻形が3両存在していたようです。このうち、407はクモハ52等と同じ時期に廃車され、晩年は409と418の2両が残っていたようです。当時の知識として、平妻形の400番台偶数車は存在していないという認識であったため、この写真は409だとばかり思っていました。昭和58年6月30日? 三河槙原~湯谷間にてさよならヘッドマークを取り付けた列車。ヘッドマークには1983-6-30と書いてあるようです。どうも最終日だったらしいですね。その辺りの状況を知らずに行っていたかもしれません。ご指摘により同車はクハ68418であることを確認いたしましたが、結果的にこの写真が1枚だけ撮れたのみとなり、クハ68409の記録はなかったということになりました。
2022.12.23
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旧型国電 飯田線:クモハ54110+クハ47069今回も飯田線旧型国電の特定番号編成をご紹介いたします。42系2ドア車のクハ47については、過去ログ『旧型国電 飯田線:32系・42系 クハ47』でご紹介いたしましたが、クモハ54と組むクハ47069写真が3枚ほどありました。クハ47069は、32系サハ48に運転台を取り付けた改造車であり、飯田線でもさよなら運転の最後を務めるまで活躍しました。前面のリベットは改造の運転台のため少なくなっていますが、サイドは運転扉以外がほとんど手付かずであり、リベットが多数残っています。飯田線における晩年は、クモハ54110と長らくペアを組んでいました。昭和56年11月22日 豊橋~下地間にて東海道のブルトレを撮影するために沿線を歩いていたとき。確か初電だったような記憶です。最終電車で豊橋入りし、駅で夜を明かしましたが、めちゃくちゃ寒くて寝ることができず、非常に厳しい出だしとなりました。昭和56年11月23日 伊那松島駅にて朝の通勤時間帯でしょうか、多数のお客さんが写っています。クモハ54110は、モハ41を出力アップの上、セミクロスシートに改造して編入された車両。扉間5枚窓で、戸袋窓はHゴム化されていました。昭和58年2月9日 大沢信号所~七久保にて写真では分かりづらいですが、強風の吹雪にやられ、大変つらい思いをしました。当時は自動車の免許も持っていませんし、5駅間くらいは徒歩で踏破していましたし、今の様にコンビニなんて避難施設もまったくありませんでしたし。良くやっていたものです。
2022.12.22
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183系OM車:臨時特急「四万草津」2022年3月のダイヤ改正において、特急「草津」がE257系化の上、特急「草津・四万」に変わるそうです。かつての臨時特急名称が復活か?と思いましたが、良く確認するとちょっと違いました。本記事は、2016-01-17に投稿したもので、当時の表現になっています。草津温泉方面への臨時列車は昔から多く運転されていますが、殆どの列車は上野発であり、新宿方面からの発着列車が運転されるようになったのは埼京線の新宿乗り入れ開始以降からと思われます。当ブログにおいても、新宿発着の特急列車についてまとめておりますが、まだ地元での撮影を再開する前に設定され、撮り損なった列車があります。平成23年10月22日 川越車両センターにて OM101編成 「四万草津」こんな写真しか無くてすみません。以前からこのヘッドマークが収録されていたのは知っていましたが、撮ったのはこの時が最初で最後となりました。臨時特急「四万草津」は、平成17年秋臨として、新宿~万座・鹿沢口間に設定されました。9003M 新宿07:18 → 万座・鹿沢口10:259004M 万座・鹿沢口15:15 → 新宿18:37運転日は、上下ともに 10/29.30.11/3.5.6.12.13。同列車は名称のとおり、草津温泉と万座、四万温泉への輸送を目論んだものであり、現在の様に臨時列車の殆どが長野原草津口行きとなっていることと様相がかなり違っていたのかもしれません。充当編成は系183系OM車でしたが、このヘッドマークが実際に使用されたものかどうか分かりませんでした。今回、当時のDJ誌から運転状況を調査することができ、実際の運転でもこのマークを掲げていることが確認できましたのでアーカイブに至りました。平成28年3月ダイヤ改正において、現在運転されている定期の特急「草津」でさえ長野原草津口~万座・鹿沢口間が廃止されることになってしまいました。昔は駅旅行会でも四万温泉への企画があったくらいですが、今は列車の乗り入れを打ち切ってしまうほど寂びれてしまったのでしょうか?
2022.12.21
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キハ82系:特急「ひだ」「ひだ」は、昭和43年10月改正により急行列車からの格上げで誕生した気動車特急列車です。運転開始当初は、名古屋から高山本線経由で金沢まで、キハ82系で運転されました。その後は増発や運転区間の変更など、変遷が複雑になっていますので、詳細な記述は割愛いたします。昭和52年3月30日 名古屋駅にて初めて名古屋に行ったときに出逢った「ひだ」。キハ81系「いなほ」の電車化以来、地元では見ることのなかったキハ80系。グリーン車2両+食堂車の「くろしお」と比較すると、7両編成の「ひだ」はミニ特急のイメージがありました。昭和55年8月 木曽川~岐阜間にてこれはEH10や山陰特急を撮りに行った際に立ち寄った時のもので、なんとなし風景が良さそうなので降りてみたのですが・・・。写真は上りの「ひだ」で、構えている方向とは逆から来てしまったため、前頭部も撮ることができずに後追いとなったもの。線形が面白い場所なので、工夫次第でもっとカッコ良く撮れた筈なんですがね。まあ、この頃の写真に対する意識は「写っていれば良い。」くらいだったんですね。当時はキハ82は四国を除く全国で活躍していたので、いつでも撮れると思っていい加減な撮り方をしています。その後はキハ82系「ひだ」に会わないうちキハ85系化されてしまったため、イラストマークも撮ることができず、結果的にこの写真が最後になってしまいました。「ひだ」は、この頃まだ1往復しか設定されておらず、メインは急行「のりくら」でした。それを考えれば、それまで2度しか行っていないところでそれぞれ撮っておけて良かったと思います。
2022.12.20
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485系リゾートやまどり:快速「たんばらラベンダー」過去ログ『485系お座敷車両「宴」「華」:快速「お座敷たんばらラベンダー」』において、群馬県のたんばらラベンダーパークへのアクセス列車をご紹介いたしましたが、485系「リゾートやまどり」の登場によりお座敷列車での運転が終了しました。それから10年近くが経過し、颯爽と登場したリゾートやまどりもこの12月をもって引退となりました。ヘッドマークの掲示が無いために写真に撮る機会も殆どありませんでしたが、ちょっとだけ残った記録をまとめにします。平成25年7月28日 485系やまどり 回9882Ⅿなんか変なヘッドライトが来たと思ったらこれでした。快速「たんばらラベンダー」の送込み回送。当時はその程度の存在。平成25年7月28日 快速「たんばらラベンダー」今では定番化した撮影ポイントも、当時は安定しないアングルだったようで。撮る気の無さが画像に現れているようです。平成26年8月3日 快速「たんばらラベンダー」「電光掲示に改造されてからろくな表示にならないのでつまらん。」とは当時の弁。せっかくのヘッドマーク装置もろくな使い方がされず、宝の持ち腐れでした。
2022.12.19
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651系11連:特急「あかぎ4号」2023年ダイヤ改正において、JR東日本の651系が全面撤退となってしまうようです。651系の想い出特急シリーズ。※本記事は、2020/10/11に投稿されたもので、当時の表現になっています。「あかぎ」は165系による急行列車でしたが、昭和57年、特急化に合わせて185系200番台で運用されるようになり、30余年もの月日が経過しました。平成26年、185系にも老朽化による交代の時期が訪れ、その後継車には交直流型の651系が使用されることになります。高崎線系統に充当された651系は、交流機器を撤去或いは回路を分断して使用することになり、1000番台の区分が与えられます。特急「あかぎ」の185系時代は、一部に7+7の14連運用があり、651系化にあたってはこれを7+4の11連に置き換えました。今回は、この11連で運転されていたものをまとめてみます。※写真は、すべて651系特急「あかぎ4号」です。平成26年3月23日平成26年4月5日平成26年4月29日平成26年6月14日平成26年8月16日平成26年12月7日平成27年1月12日平成27年2月7日平成27年2月11日平成27年3月8日同じような写真ばかりで恐縮です。朝の特急タイムであることから、「カシオペア」や「北斗星」とセットで撮っているため、毎度同じような写真になってしまうのです。前例から651系化後も併結運転が行われましたが、乗車率が振るわなかったようで、併結運転は直ぐに解消されてしまいます。併結運転のために付属編成として3編成が改造された651系1000番台でしたが、1編成が「伊豆クレイル」に再改造されたものの、他の2編成は波動用として使用されることもなく、平成29年度に廃車されてしまいました。そして、最後まで残っていた「伊豆クレイル」も令和2年10月8日に長野へ旅立ち、651系4連は消滅してしまいました。
2022.12.18
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旧型国電 73系:鶴見線TOMIXから旧型国電73形電車が発売になります。TOMIX 国鉄72・73形 南武線・鶴見線 販売首都圏で新性能化が比較的に遅かった鶴見線。全国的にも戦時・戦後型であるモハ73形は最後まで見ることが出来ましたが、鶴見線では可部線や富山港線のようにラインカラーをまとっていませんでしたので、73形らしい茶色のままの好ましい姿で走っていました。昭和53年2月19日 鶴見駅にて 折り返し待機中のクモハ73形多分ですが、初めて鶴見線を訪れたときの写真です。今までアルバムに入れたまま何も気にしていなかったのですが、鶴見線で撮ったクモハ73の写真は、この写真のものを除いて全て更新工事施行車でした。もしかしたら台数的に少なかったのでしょうか。同じ頃まで残っていた南武線や横浜線も同様に更新車ばかりでしたので、ライトが屋根上にある限りなく原形に近いクモハ73の未更新車の写真少ないです。昭和54年12月頃 浅野駅にて 原形3段窓のクハ79450一見更新後のような整ったスタイルをしていますが、3段窓をはじめ、埋め込み式のヘッドライトも登場時からのものです。どうも、クハ79のこの番台区分が、101系の顔の始祖だったようですね。昭和54年12月 浅野駅にて クハ79これも同じ編成のようです。昭和54年12月 浅野駅にて クモハ73更新工事施行車この写真で着目していただきたいのが、2両目に連結されているモハ72形。モハ72系の最終グループである全金属製の920番台です。側板の位置が他車よりも高く、窓にもRがついて滑らかです。101系がモハ90系として登場したときのデザインに、限りなく似ているのが特徴の車両でした。昭和54年12月頃 浅野駅にて クモハ73更新工事施行車これも同じ編成のようです。昭和54年12月 鶴見線 弁天橋電車区にて綺麗に写っており、ネガの再現性も良かったのですが・・・サボ「回送」です。ご意見によれば、「回送」行先札を準備しているケースは旧型国電では稀であり、かえって貴重なのでは?ということです。昭和54年12月頃 武蔵白石駅にて 更新工事施行済みのクモハ73更新済みのタイプで、高窓・ライト埋め・客窓のサッシ化が実施されています。撮影場所は、構内配線の状況から、おそらく武蔵白石ではないかと思われます。この時点においても101系が僅かながらに入線しており、昭和55年くらいが73系の末期ではないかと思われます。
2022.12.17
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旧型国電 73系:南武線(立川駅)TOMIXから旧型国電73形電車が発売になります。TOMIX 国鉄72・73形 南武線・鶴見線 販売今は銀色一色である南武線ですが、昭和54年くらいまでは旧型国電である73系が走っていました。さらに、初めて南武線に乗った昭和51年頃では、17m級のクモハ11やクハ16といった面々も居たようです。その頃はまだそれほど旧型国電に興味があった訳ではないので、茶色い電車の写真も殆ど残っていないですが、南武線については2カットだけありました。昭和53年2月19日 立川駅にて2枚とも同じ写真で恐縮ですが、字幕式のサボなので、2枚並べることで南武線であることが判ると思います。ここから101系→103系→205系と世代交代したことを考えると、それなりのスピードで時代が流れているのかな?と思わざる得ません。今ではこのホームも駅ビルの下になってしまい、真っ暗な印象でしかありませんが、かつての大宮駅と同じように、立川駅も「空が広く見える」駅だったんだなぁ、と時代の流れを感じます。
2022.12.16
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旧型国電 飯田線:クモハ54002+クハ47104飯田線の旧型国電は2扉車が多く存在しましたが、80系の転入により流電クモハ52やサハ48、クハ47、クモハ42などが大量に整理されてしまい、残った戦前型はクモハ51系が大勢となりました。51系はセミクロス車に充てられた形式となりますが、意外にもオリジナルは少なく、40系からのセミクロス化によるものや、32系・42系の3扉化によるものが多く存在しました。形態的には窓割で出自を見分けることができますが、出力の違いによる形式は外見からの判別が困難です。しかし、旧国末期の飯田線ではペアを殆ど崩さずに組まれていたため、相方によって区別できる編成もありました。今回は、過去ログでご紹介いたしましたクハ47104とコンビを組んでいたクモハ54002の編成が写っている写真を集めてみました。昭和58年1月11日 千代~天竜峡間にて2両編成の区間運用列車。クモハ54002+クハ47104の編成です。クハ47104の便所側から撮った唯一の写真ですが、遠過ぎて特徴が見えませんね。昭和58年6月29日 浜松工場留置線にて一足先に運用を離脱した戦前型国電たちが浜松工場の留置線に送られていました。2両目がクハ47104と判ります。クモハ54はクモハ51の出力増強版です。
2022.12.14
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旧型国電 飯田線:クモハ50008+クハ68403旧型国電モハ42系の流れから、3扉改造のクモハ50をご紹介したいと思います。モハ43として誕生した2扉車は、戦時中に4扉化される計画でしたが、一部のみに施工され、さらに3扉化されるものも現れました。2扉車はすべて改造される計画でしたが、最後まで施工されない車両もあり、晩年までクモハ43やクモハ53としてその生涯を全うしています。3扉化改造された車両のうち、クモハ43はクモハ51200番台に、出力アップされていたクモハ53はクモハ50に整理されることになりました。飯田線にも数両が転入し活躍していましたが、80系が転入した際に大幅に整理され、たった1両のみクモハ50008が最後まで残っています。一方、同様に付随車に関しても同様の3扉化・4扉化改造が施工され、このうちクロハ59を3扉格下げ化したクハ68が存在し、さらに便所を設置して飯田線に残っていたのがクハ68401・403・405です。旧国晩年の飯田線では、クモハ50008とクハ68403がペアを組み、42系の3扉化改造車同士の編成が長く活躍しました。昭和56年11月22日 東上~江島間にて昭和58年1月11日 千代~天竜峡間にて車両を検証するにはとても適さない写真ですが、当時は車両そのものというより、「飯田線の旧型国電」という思いでしたので、このように風景を取り入れた撮り方に偏ってました。クハ68403につきましては、過去ログ『旧型国電 飯田線:クハ68403』にてご紹介しています。
2022.12.13
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旧型国電 飯田線:クハ68403クハ68は、戦前型のセミクロスシートを持つ3扉の旧型国電です。オリジナル車は意外と両数が少なく、ロングシート車であったクハ55からの改造車が多いことも特徴で、さらにはクロハからの改造車なども存在します。飯田線で最後期まで活躍したクハ68403は、元2扉合造車のクロハ59005を3等車へ格下げした上に3ドア化したもので、さらに飯田線用としてトイレを設置し400番台となったものです。昭和58年6月29日 浜松工場留置線にて クハ68403飯田線に165系や119系が進出し、旧型国電の活躍も最晩年となった頃、一足先に浜松工場の留置線に送られたクハ68403です。元々は42系に属する車両であることから、正面は平妻となっており、貫通幌枠も残っていました。前半分は元3等車であるためにクハ47然とした窓配置ですが、後半分は元2等室のために窓配置がまったく異なっており、クロハの改造という出所の違いが大きく読み取れます。戦前型国電はその存在自体が非常に地味でしたが、1台1台に特徴があり、興味深い車両が多く楽しかったのも今となっては思い出です。
2022.12.12
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485系リゾートやまどり:特急「烏山山あげ祭り」近年になって毎年設定されていた快速「烏山山あげ祭」号ですが、新型コロナ感染拡大に伴って2019年を最後に設定されていませんでした。2022年は制限がされなかったため3年振りの設定となりましたが、485系「リゾートやまどり」による特急「烏山山あげ祭」と特急化されての運転となりました。令和4年7月23日 485系リゾートやまどり 特急「烏山山あげ祭」期待はしていませんでしたが、表示は「特急」でした。快速時代にもやまどりが使用されていたようですが、コロナ禍前2年間は253系が使用されていました。2022年は7月22・23日の2日間が設定され、これまで新宿~宝積寺であったものが新宿~宇都宮と運転区間も変更されています。特急化によりこれが今後の定番になるのかと思った矢先のリゾートやまどりが引退となり、来年の設定も気になります。485系リゾートやまどりによる特急「烏山山あげ祭」はたった1年、1シーズンのみの設定で過去帳入りとなりました。懐かしのリゾートやまどり(ツアー)DD51842牽引12系客車:快速「烏山山あげ祭り」
2022.12.11
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旧型国電 飯田線:32系・42系 クハ47クハ47形は、戦前を代表する近郊型電車で、2扉クロスシートを設備した車両です。2扉間に小窓がズラリと並ぶ壮観さが私好みです。クハ47は大きく分けると3つのグループがあります。1つは、モハ32系制御車として誕生したタイプ。クハ47自体は20m車両なんですが、相棒となる電動車はモハ32(後のクモハ14)で17mの車両です。このクハ47が20m級電車の始祖となります。この部類が0番代となっています。同時に製造されたサロ45、サハ48も勿論20m級です。電動車であるモハ32だけが17mであったのは、モーターを積んだ分、車体重量が重く、剛性に影響があったため(つまり、車体が重さでそってしまう)と言われています。2つ目は、モハ32系サハ48に運転台取付改造を施した50番台。製造の経緯は0番代と同様です。3つ目は、モハ42系20m車を相方とする貫通型で、誕生当初はクハ58を名乗っていたタイプ。その後100番台となっていました。飯田線においては、旧型国電が終焉となる頃までこの3種類が揃っていたことは特筆です。今回は私が撮影したクハ47のうち、飯田線で撮影したものをご紹介いたします。昭和58年4月19日 伊那松島機関区にて クハ470090クハ47の基本番台は、元32系(17m車:後のクモハ14)に属する系列の制御車で、省型初の20m級の電車です。当時の技術ではまだ車体の歪みを抑える技術が乏しく、モーターの付いていない軽い制御車及び中間付随車で初めて20m級を可能としたものです。横須賀線で使用されました。※ただし、011は嘘っぱちの車両なのでご注意。外観はまるで42系のようですが、この車両は32系に属する車両です。私が知っている頃は常にクモハ53008と手を組んでおり、最後となるさよなら列車まで運用された、昭和1ケタ生まれのつわものでした。昭和58年8月6日 伊那松島機関区にて クハ47069クハ47の050番台は、横須賀線の新性能化による地方転出の際、不足する制御車を補うため、中間付随車のサハ48に運転台を取り付けたものです。この手法は今でも行われています。写真は飯田線における最期の最期、旧型国電のラストランです。クハ47069は、飯田線の最後を飾るさよなら列車にも使われました。昭和58年2月23日 伊那松島機関区にて クハ47104こちらは42系の流れをくむ元クハ58を名乗っていた100番台です。細かい話ですが、クハ47100番代の中でも、便所横の窓の有無により、2つの形態が存在しますが、100~114の偶数車で構成される車両の中でも、104だけは便所横の窓を全部埋めてしまった異端車になります。昭和58年1月11日 中部天竜駅? クハ47104走行中の電車の中からで定かではないのですが、風景から中部天竜駅を出発したところだと思います。本当は便所側を撮っていれば良かったのですが、残念ながら当時はそこまで詳細な知識もなく、また、走行写真を多く撮っていたので、あまり形式の細かいところまでの分析写真は撮っていませんんでした。
2022.12.10
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旧型国電 飯田線:42系 クモハ43&クモハ53クモハ42系は戦前を代表する2扉クロスシート車です。モハ32系の電動車が17mにとどまったのに対し、初の20m級2扉車となりました。狭窓の並ぶ2扉が壮観で、中学生のときにGMキットでこの車両の存在を知って以来、旧型国電のファンとなったきっかけの車両でもあります。電動車は両運転台のクモハ42と片運転台のクモハ43からなり、クモハ43の出力アップ版がクモハ53となっています。戦中戦後の混乱で扉の増設工事が実施され、すべての車両が3扉化或いは4扉化されることになりましたが、工事が中断したことにより生き残った車両が晩年に大糸線や飯田線で活躍していました。ちなみに、クモハ42の4扉化車がクモハ32、クモハ43の3扉化車がクモハ51200番台、4扉化車がクモハ31、クモハ53の3扉化車がクモハ50となっています。そんな大好きな車両のクモハ42系でしたが、意外と撮った写真が少なかったです。昭和58年4月17日 豊橋駅にて クモハ43015旧型国電の末期、同系には出力アップしたクモハ53、制御車のクハ47など複数が存在していましたが、オリジナルのクモハ43は015の1両しか残っておらず、なかなか逢う機会がありませんでした。この写真は北陸経由で帰り道に飯田線に寄り、やっと撮影することが出来た写真です。個人的には貫通路に幌枠が付いた形態が好きなのですが、飯田線では撤去されてしまった形態ばかりだったのが残念です。昭和56年11月23日 クモハ53000 車内写真確か辰野駅停車中に撮ったように記憶しています。まだ飯田線を訪れるようになって最初の頃でした。初めて2ドア車への乗車機会を得たため、車内写真まで撮っていたものと記憶しています。肘掛の無い車内は、私的に非常にショックでしたね。キハ10系もそうでしたが、これだと通路側の人は、居眠りしたら通路に倒れこんじゃう人も居そうですね。アコモ的にはやはり後発の51系の方が優れているように思います。昭和58年2月10日 駒ヶ根~伊那福岡間にて撮影区間は移動範囲でしか特定できませんので、駅間よりも広い範囲で捉えています。クモハ53は、42系2ドア車のクモハ43を出力アップして誕生した形式で、モーター以外は特に変更が無いため、外観はクモハ43と区別が付きません。クモハ53000と001は狭窓車であり、クモハ43の原形態を色濃く残していました。※合いの子流電もクモハ53に形式変更されたため、分類上は2形態のクモハ53が存在します。写真は、クモニ83+クモニ13の定期荷電にクモハ54?とクモハ53000の配給回送を連結した、4両オールM車の珍しいシーンです。本当ならば貫通幌枠の残されたクモハ42を撮りたかったですが、私が飯田線を訪れた頃には既に流電クモハ52もろとも廃車になってしまい、その姿を見ることはできませんでした。
2022.12.09
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415系800番台:七尾線(新塗装)七尾線一部電化から長年活躍してきた415系800番台が、令和3年3月のダイヤ改正で521系に全て置き換えられることになりました。過去ログ『415系800番台:七尾線(旧塗装)』において導入時の塗装編成をご紹介したところですが、その後、晩年の塗装を1度だけ撮影したことがありますので、最後にまとめとしたいと思います。平成27年1月23日 金沢駅にて平成27年1月23日 金沢駅にて 859M平成27年1月23日 本津端~中津幡間にて 836M久し振りに訪れた北陸。撮影の拠点が散らばりやすく、七尾線の415系を撮る機会もあまりありませんでした。後発の改造415系だけあって重視していませんでしたが、その車籍を辿ると電車の中でも現役最古参に属する貴重な車両たちでした。
2022.12.08
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帝都高速度交通営団 5000系:千代田線・常磐緩行線営団地下鉄(現東京メトロ)5000系は、昭和39年に誕生した20m級の車両です。東西線用に申請されたものですが、千代田線に導入する予定の6000系の開発が間に合わず、一部の車両が千代田線でも活躍していました。ちなみに、千代田線用の5000系は、昭和44年の製造が最初となります。昭和56年5月 常磐緩行線 新松戸駅にて6000系の後期車増備前に千代田線で活躍していた5000系を撮影したもので、私の記録の中でも唯一のものです。昭和56年10月、北綾瀬支線用の3両編成2本を除く5000系は、東西線増強用として転属となったため、千代田線・常磐緩行線からは撤退することになります。そういう意味では、この写真も千代田線における活躍末期の頃ということになります。
2022.12.07
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キハ82系:特急「あさしお」「あさしお」は、昭和47年8月に誕生した臨時気動車特急です。2ヵ月後の同年10月、正式な定期特急として3往復か設定されました。区間は京都発着となりますが、行先が倉吉、城崎、米子などバラバラであり、宮津線経由など大変複雑になっていました。関東在住で土地勘の無いものからすれば、単に「ややこしい列車」というイメージがあったのではないでしょうか?昭和55年8月 京都駅にて特急「あさしお」は誕生当初からキハ82系が使用されています。これは「白鳥」「いなほ」の電化による押し出しであり、設定当初は食堂車も連結されていました。食堂車は昭和50年3月の改正で運用から離脱しています。昭和55年8月 大山口?駅にて京都駅から夜行普通列車の「山陰」に乗って出雲市方面を目指しました。当時の時刻表から察するに、写真の列車は「あさしお2号」で、交換待ちの行われた駅は大山口駅と思われます。右側にチラッと写っているのは、私の乗っていた「山陰」で、当時はまだ旧型客車でした。昭和57年、「やくも」の電車化により押し出されたキハ181系が導入されます。その時期、1度は京都を訪れたことがあったのですが、時間が無くて何も撮らず、結局はこのキハ82系が記録できただけとなってしまいました。そして平成8年3月、京都口~城崎の電化開業により、「あさしお」の名称も気動車特急とともに消滅してしまいました。
2022.12.06
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りんかい線:20周年ヘッドマーク東京臨海高速鉄道(りんかい線)が令和4年12月1日に全線開業から20周年を迎えることになり、70-000形(Z1編成)にステッカー式のヘッドマークを取り付けて運転されているそうです。過去に確か20周年ヘッドマークの記事をアップしたような気がしたのですが、前回は最初の開業から20周年だったようです。今回はその時の記事をアップいたします。※本記事は、2016-07-31に投稿したもので、当時の表現になっています。東京臨海高速鉄道(りんかい線)は、平成28年3月に開業から20周年を迎えることになり、70-000形2編成にステッカー式のヘッドマークを取り付けて運転されました。平成28年4月11日 赤羽駅にて 第7編成朝の通勤時に乗車したりすれ違ったりする機会が多くありましたが、朝の通勤では撮影する余裕なんてありませんので、なかなか撮る機会に恵まれません。これは残業の帰りにたまたま出くわし乗車したもので、一番混む先頭に乗って赤羽での撮影ができました。ステッカーは4種類がデザインされ、側面には各1枚ずつ、先頭車も2編成で前後違いに各1種類ずつ掲示されたようです。平成28年6月29日 戸田公園駅にて 第3編成通院で時間休を取った際、どれか撮れないかと思ったところ、何とも偶然にまた乗車する列車が当該編成でした。撮り終わって確認したところ、残りの第3編成でした。また撮る機会があればと思っていたのですが、見ないと思ったら6月30日が掲示期限だったようで、この写真が終了前日だったんですね。駅撮りでももうちょっとキチっと記録したかったですね。
2022.12.05
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165系:普通列車「夜まつり号」昭和55年代前半くらいまで、国鉄から秩父鉄道への乗り入れが盛んに行われていました。通常は「みつみね」や「ながとろ」といった115系による急行列車が一般的でしたが、日本三大美祭及び日本三大曳山祭とされる秩父夜祭のクライマックスとなる12月3日には、臨時普通列車の「夜まつり号」が運転されたことがありました。新前橋電車区の165系7連が使用されたと記憶しています。昭和54年12月3日 上野駅にて 「夜まつり号」リバーサルで暗いところでの撮影のため、残念ながらブレてしまっております。今は無き165系。しかも、グリーン車のサロ165です。この頃の定番ですが、何故か普通列車であるにも拘わらず、グリーン車込みの165系7連が使用されていました。当時、東北・高崎線における急行形車両で運用する普通列車では、既にグリーン車扱いは廃止されていましたので、ヘッドカバー無しの普通車扱いとなっていました。つまり、フルリクライニングで上野駅から秩父までゆったりと乗ることが出来たわけです。ただ、私の記憶では、殆どお客さんが乗っていなかったような・・・。そして1つの疑問。正式には「秩父夜祭」という祭名のようですが、この列車、「秩父」もついていなきゃ、「まつり」が平仮名なんですよね。「秩父夜祭」号で良いと思いますが。駅の表示看板には「夜祭り」と漢字表記になっており、さらに、サボには「号」まだ入っちゃってます。←普通、列車名表現には「号」は付かない。なんとも不揃いで間の抜けた感じもするわけですが、サボ、サロ165、そして板製の案内板と、どれをとっても昭和の匂いのする、懐かしい写真として残っていました。
2022.12.04
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EF8181牽引:団体列車「懐かしの急行列車で行く 東京おとな旅」※この記事は2016-12-03に投稿されたもので、当時の表現になっています。普段は脇役に徹している12系客車を主役とした団体列車が運転されました。しかも、運転区間が仙台~上野となっており、かつての急行「まつしま」と同じ区間でした。急行「まつしま」は電車列車でしたが、臨時急行「まつしま」は実際に12系客車をした実績があり、まさしくタイトルどおりの懐かしい大人の旅の設定となりました。※運転日は、平成28年12月3日です。EF8181牽引 団体列車「懐かしの急行列車で行く 東京おとな旅」順光でもっとも撮影条件の良い時間でしたが、結果はご覧のとおりで・・・猛追してきた湘南新宿ラインに眼前で並走されてしまいました。新型客車であるといっても、12系客車はかなりのお歳となってしまいました。酷使すると寿命を縮めかねませんが、地元でも珍しいEF81+12系列車ですから、またこのような企画を期待したいものです。
2022.12.03
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国鉄 釧網本線:普通列車(客車列車)高校時代、試験休みを利用して2年連続で北海道を訪問しています。昭和55年3月に初訪問し、冬の北海道に魅了されたために昭和56年3月にも訪問。この時も釧網本線に乗っています。※撮影は、昭和56年3月18日です。網走駅にてこれから釧網本線を走る普通列車ですが、まだ機関車が連結されていません。本線系統では、殆どの客車列車が緩急車(車掌室:車掌弁を備えた車両)を両端に連結し、非常ブレーキ扱いや列車監視の業務を行うようになっています。しかし、短編成の列車や配置両数の関係で両端に緩急車を連結できない場合もあります。これらは、客車列車を運行する比較的距離の短いローカル線で見ることが出来ましたが、何故かこの釧網本線では良く見られたようです。緩急車を連結しない編成端では後部標識(いわゆるテールランプ:尾灯)を備えていませんので、写真のようなバッテリータイプの標識を引っ掛けて使用していたわけです。関東ではこのようなシーンを見ることはなかなかありませんでしたので、非常に滑稽に感じたものです。実は、周遊券を持っていたので改札開始時間前にホームに入れてもらったんですが、まだ発車まで1時間くらいはあったのではないかと記憶しています。なので、まだ機関車も連結されていないわけですね。しかし、北海道でも3月といえば真冬であり、この時間ですと当然氷点下10℃くらいには下がっていたと思います。暖房装置を持たない客車は冷え切ってしまいますよね。でも、実際に乗ってみて驚きました。真夏のような暑さだったんです。(笑)車内の温度計を見てみると、なんと40℃を指していました。汗だくで列車内にいると、車掌さんが出発前の点検に回っており、「暑いでしょ、まだ発車まで時間があるから、窓を開けていても良いですよ。」って声を掛けられたんです。そんなことで、車両の窓が1箇所だけ開いているんですよね。到着後、折り返しまでに時間があるローカル線では、機関車の交代も含めて、客車を置いて機関区に逃げてしまいます。しかし、北海道の極寒の中で、乗車してくるお客さんに寒い思いをさせないという配慮から、目一杯の暖房を注入してから逃げ帰るわけですね。発車時間まで冷め切らないように、40℃という想像を超えた温度まで上げていくのでしょう。北海道という土地柄、人柄がわかる対応に、小さな感動を覚えました。それは、まだ高校生だった私にも伝わってきました。清里町駅にて網走からの夜行「大雪」に乗る合間、何もやることが無いので、前出の釧網本線に乗って時間つぶしました。途中交換の清里町駅にて、暗くて写るかどうかも分からないのに、無理やりシャッターを切ったのがこの写真。列車がブレてしまって番号すら判読できないのが勿体無いですが、DE10の500番台のようですね。今となっては、DE10が客車が旧型客車を牽くなんて特別に仕立てない限りは無理ですね。この当時はまだ50系客車の配置など無く、旧型客車しかいませんでした。当たり前に良い写真が撮れた筈なのに、見逃していたシーンが多かったかもしれません。この列車に乗っていたとき、原野に沈む大きな夕陽を車窓から見ました。美という感動をあまり知らない年頃でしたが、雄大な自然を目の当たりにして、大人に近づいたような感動を憶えたこと、心が洗われたこと、今でも忘れられません。この時代もまだ混合列車が走っていたという記録を見ますが、残念ながらこの年は1度も出会うことなく、既に廃止されたと思っていました。
2022.12.02
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185系200番台:特急「白根」185系 新幹線リレー号塗装 復活撮影会(ツアー)吾妻線初の特急列車として運転を開始した特急「白根」。157系による臨時特急「白根」に始まり、183系1000番台による「白根」へと進化しますが、あくまでもオンシーズンのみに運転される臨時特急でした。昭和57年11月15日、上越新幹線大宮暫定開業に伴い、急行「草津」の大部分を格上げして定期特急化され、晴れて特急「白根」が誕生しました。車両は「新幹線リレー号」と共通の185系200番台によるものでした。昭和57年12月 西川口~蕨間にて 185系14連による特急「草津」「谷川」登場後間もない頃の特急「白根」。「谷川」と併結され14連で走っていました。「白根」が上野寄り、「谷川」が渋川寄りの連結となっていました。この写真を見る限り、昭和57年いっぱいまでは金網フェンスが張られずに写真が撮れたようです。チラッと写る反対側は既にフェンスが設置されているようなので、この後間もなくこの区間でも撮影が出来なくなったようです。昭和60年2月9日 川原湯駅にて 185系「白根」×2とEF15EF15がサロンエクスプレスを牽いて吾妻線に入線した日、川原湯駅(現:川原湯温泉駅)にて撮影したもの。この日の川原湯駅では、特急「白根」同士の交換に加え、EF15牽引のサロンエクスプレスの退避が重なったため、ローカルな駅で壮観な交換シーンが見られました。昭和60年2月9日 小野上~祖母島間にて 築堤を行く185系下り「白根」同日、中間駅でEF15+サロンエクスプレス東京撮影のために構えたポジションで再び撮影。当日は雨+雪でバッドコンディションでした。ヘッドマークが雪で見づらくなってしまいましたが、雪の地方ならではの走行写真が撮れました。晴れて定期特急となった「白根」ですが、昭和60年3月の新幹線上野開業時において、1往復残っていた急行「草津」が消滅するとともに、新特急に種別が変更された上で「草津」の愛称が使用されるようになりました。長らく吾妻線温泉リゾート特急としての地位を守ってきた「白根」の愛称は、ここに終止符を打つこととなりました。183系1000番台:特急「白根」157系:特急「白根」
2022.12.01
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