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485系:特急「日向」特急「日向」は、大阪~宮崎間を結んでいた関西~九州間の連絡列車です。昭和43年10月改正からそれまでの「いそかぜ」を改めて誕生し、特急「なは」を併結した82系気動車による運転となっていました。昭和49年4月、日豊本線の南宮崎電化により485系を使用した電車特急となり、この際に単独編成によって同区間を運転するようになっています。昭和49年8月 大阪駅にて 特急「日向」写真は大阪駅にて出発を待つ特急「日向」。隣に停車中の12系臨時急行「但馬ビーチ」も懐かしいですね。せっかく電車特急としての地位を獲得した「日向」でしたが、昭和50年3月の新幹線博多開業によるダイヤ改正により、僅か1年にも満たない電車特急時代に終止符を打つことになりました。その後、平成12年に特急「ひゅうが」が誕生していますが、この沿革とは全く別の列車と言って良いでしょう。
2022.05.31
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旧型国電 クモハ12:鶴見線 大川支線(武蔵白石駅)鶴見線大川支線は、武蔵白石駅から分岐し大川駅へ至る1区間のみの支線となっていますが、現在はすべての列車が鶴見駅を起点として直通運転を行っており、205系3両編成が使用されています。かつての武蔵白石駅は、1両分のホーム(3・4番線)が分岐のカーブ上に設置されていましたが、平成8年3月に使用が停止され、すぐに撤去されました。これにより、同駅には大川支線の電車が停車することができなくなり、運用上は一つ鶴見寄りの安善から分岐していることになっています。昭和53年2月19日 武蔵白石駅にて当時はクモハ12が限定で運用されていました。ご覧のとおり、17m車でもきついカーブのホームとなっており、とても20m車が停車・通過できるような構造ではありません。このお陰で、鶴見線が101系化された際においても、この大川支線ではクモハ12を使用せざる得ず、その後も活躍できたわけですね。もしこの状況がなかったら、クモハ12は即刻廃車・解体されていたかもしれません。
2022.05.30
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キハ813(交通科学館時代)日本初の特急形気動車として登場したキハ80系。先頭車は、先に登場した151系特急形電車に通ずるデザインのボンネット形のキハ81として、6両が誕生しています。東北特急「はつかり」に使用され、電化やキハ181系の登場により「つばさ」「いなほ」へと活躍の場を移します。「いなほ」の時代は間合い運用で「ひたち」にも使用されました。羽越本線の全線電化により東北地方から撤退することになり、紀勢本線の「くろしお」が最期の活躍の場となりました。そして、紀勢本線の新宮電化においてキハ81は全廃となり、解体を免れた1両が交通科学館に保存されていました。平成14年3月31日 交通科学館にて キハ81-3 交通科学館にて義従姉妹の結婚式で奈良にお呼ばれした帰路、大阪に一泊し初めて交通科学館を訪問しました。1度だけキハ81「くろしお」を撮るチャンスがあったのですが、その日に限って両先頭ともキハ82であったため、結局は記録に残すことができず。昭和47年頃に地元で良く見ていた「いなほ」以来の再会でした。ヘッドマークが本物じゃないのでちょっとカッコ悪いですね。鉄道科学館では屋外展示なので劣化の進みが早く、この後屋根が設置されたようです。そして、平成26年から京都鉄道博物館に展示されています。キハ82系:特急「くろしお」国鉄 381系:特急「くろしお」
2022.05.29
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国鉄 氷見線:気動車&客車のサボ氷見線は、北陸本線高岡駅から分岐し、終点氷見駅までを結ぶ路線。一度だけ乗り鉄をしたことがあります。※撮影は、昭和57年8月8日です。富山港線の旧型電車などを撮りに行った際に立ち寄った、国鉄氷見線のサボの写真です。この時は生憎の雨で、あまり撮影などする気も無く、城端線と同様に乗り鉄してました。当時は当たり前の気動車だったので、列車写真は全く撮影していなかったのですが、今から考えればキハ26やキハ35系、キハ45系といった旧型車ばかりだった筈で、かなり勿体無いことをしました。写真は窓桟の間隔が狭いので、おそらくキハ35系の車両ではないかと思われます。こちらは客車編成のサボを撮影したもので、オハ352877となっています。当時は朝のラッシュ時に客車列車が運転されており、ローカル線に良くありがちなダイヤ設定となっていました。既に客車の1往復は終った時間であり、構内に留置してあった車両を撮ったものと思われますが、天気が良ければ雨晴など風光明媚な場所で撮影していれば、大変記念になったのではないかと思います。
2022.05.28
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2012 ワム貨物(ワム380000)終焉※2012/3/17投稿の記事で、当時の表現になっています。平成22年2月18日 EF651077牽引 5789レ貨物のダイヤ等に詳しくなかったので知るのが遅かった焼島行きの製紙輸送。平成22年7月26日 EF641019牽引 6789レ平成22年3月のダイヤ改正で季節列車化。しかし、運転頻度は殆ど変わらず、運用もEF64に移行。重連運用となって注目の的に。平成20年12月20日 DE101725 吉原駅にて最後の生き残りとなった富士・吉原地区の製紙輸送。平成21年12月30日 5789レ平成22年8月18日 6789レ平成22年8月24日 6789レ平成22年9月30日 6789レ連結位置が後部となっていたので、ちょっと撮りづらい列車でした。平成24年2月11日 新座~東所沢間にて EF210-164牽引 3461レ平成24年3月ダイヤ改正において、吉原行きの最後のワム列車が廃止となり、終焉を迎えました。
2022.05.27
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DE10牽引:石巻線貨物列車(H15)※2017/7/2投稿の記事で、当時の記述になっています。JR貨物では、都市部における入換機の新旧交代が進みましたが、本線運用に残るDE10についてもこの度後継機の導入が発表され、平成29年6月29日、DD200-901が川崎重工業より出場しました。DD200は電気式ディーゼル機関車であり、最高運転速度が110km/hとDE10やDE11とは違って本線における高速貨物けん引の性能をも有しているため、この新旧交代によりDE10や11はここ数年で全廃になってしまうことになりそうです。個人的に、効率の良くない地方線の貨物列車撮影というのは殆どなかったのですが、仙台出張があった際、帰りに寄り道した石巻線における貨物列車の記録がちょっとだけありました。※撮影は、平成15年9月19日、石巻線 佳景山~鹿又間にて。DE10牽引 空コキ単機かと思ったのですが、良く見たら空コキが連なっていました。DE101693牽引 ワム80000(ワム380000)+コキ当時は製紙輸送がワムからコキに切り替わっている最中で、コキ+ワムの貨物列車が見られました。石巻線では時間の都合で1往復しか撮ることが出来ませんでした。時期的には良い季節だったのですが、撮影に入ったときは時折り小雨の降る生憎の天気でした。地図もわからずに1人で1駅間歩くのは非常に心細いものでした。残念ながらのたった2枚ですが、初めて行った石巻線。大切な記録です。
2022.05.26
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485系ボンネット型:特急「ひばり」(その2)上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。今回は、地元で撮影したボンネット型の写真のうち昭和56年頃の撮影分を(その2)としてご紹介いたします。撮影日不詳 西川口~蕨間にて撮影日不詳 西川口~蕨間にて撮影日不詳 蕨駅にて撮影日不詳 白坂駅にて2月頃 蕨~西川口間にて5月頃 蕨~西川口間にて5月頃 蕨~南浦和間にて翌年の東北新幹線大宮暫定開業を控え、地元での撮影頻度が多くなっていたようです。特にボンネット型が好きだったので、仙台方の写真が多かったように思います。485系ボンネット型:特急「ひばり」(その1)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その3)485系 貫通型:特急「ひばり」485系 非貫通型:特急「ひばり」485系1500番台:特急「ひばり」
2022.05.25
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EF6019牽引:快速「EL&SLみなかみ」上越線のSL列車が「SL奥利根」から「SLみなかみ」に改称されたことに伴ない、延長運転で上野まで運転されていた快速「EL&SL奥利根」も快速「EL&SLみなかみ」に改称されました。ただし、SL列車の名称が「みなかみ」となった平成20年8月後半以降についても、平成20年中においては何故か「奥利根」の名称を引き続き使用しており、この辺りの理由は良く分かりません。牽引機や12系客車を使用するスタイルは全く変わりませんが、改称に伴うPRのためか、EL区間においてもヘッドマークが取り付けられました。今回は、地元を走った快速「EL&SLみなかみ」のうち、EF6019が牽引した列車写真を集めました。平成23年9月11日平成24年8月4日 9767レ平成24年8月4日 9767レこのシーズンまではEF6019の牽引しかキャッチできませんでした。最後の8月4日はEF65501が予告されていましたが、何故か牽引機が入れ替わってしまい、非常にガッカリしたものです。ヘッドマーク付きは良いのですが、なんかごちゃごちゃしている感じ。ちょっと見づらいですね。
2022.05.24
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EF57牽引:急行「津軽」「津軽」は、上野~青森を奥羽線経由で結んでいた急行列車です。その昔、普通列車で上京し、仕事をしてお金を稼ぎ、この急行列車で帰って来るということから「出世列車」とも呼ばれていたのは有名です。私としても写真だけですがこの列車との付き合いは古く、写真を撮り始めて間もない頃からの記録が残っています。昭和48年 蕨~西川口間にて 上り急行「津軽1号」番号は判りませんが、EF57のスノープラウ台座を装備していない形態です。多分ですが、次位がオユ10で、オハフ、オハ、スハネ、スロ、オロネ、スハネと続いているようです。1~3号車は秋田回転車となっており、資料を見るとこの時代は3両ともハザの筈ですが、写真では3号車が寝台車になっているのが判ります。昭和51年 蕨~西川口間にて 上り急行「津軽2号」こちらもEF57が牽引する上りの2号です。2号は秋田回転車が連結されていませんので、マニ36の次はいきなりグリーン車(4号車)となる編成が特徴でした。昭和51年頃 蕨~西川口間にて 上り急行「津軽2号」こちらも同じシチュエーションです。とにかくEF57だったら何でも良かった頃。妻板から足回りまで雪まみれになっていますので、おそらく1月から2月頃に撮った写真でしょう。もしかしたら、昭和52年かもしれません。完全な順光となっていますので、いくらか遅延して上って来たのかもしれませんね。当時の写真としては比較的綺麗に写っていますので、編成の様子が判ります。ここまでの時代はEF58とEF57は共通運用となっており、どちらが牽いて来るかは運次第でした。しかし、この写真を撮った頃がEF57活躍の末期となっており、この年以降の記録は残っていません。
2022.05.23
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キハ58系:急行「おが」「おが」は、上野~秋田間を奥羽本線経由で結んでいた急行列車です。東北の昼行急行は、奥羽本線の全線電化開業後も気動車急行として存置され、他の急行「いいで」「ざおう」や「出羽」とも複雑な共通運用を組んでいました。昭和52年1月 大宮駅にて 急行「おが1号」こちらはキハ28800番台を先頭にした秋田行き急行「おが1号」です。まだ国鉄の塗装合理化が始まる前でしたので、修学旅行指定の解除後、一般運用に共通使用されていた頃もしばらくは修学旅行色のままでした。昭和52年というと、運用から外れたEF57を追って宇都宮運転所へ何度か出掛けたことがありましたので、電車待ちで偶然撮ったものと思いますが、運が良いと先頭に修学旅行色を見ることが出来ました。新幹線などまったく想像も付かなかった時代で、広々とした空を見ることができました。昭和55年7月23日 蕨~南浦和間にて 秋田行「おが1号」ブレちゃってます・・・。既に塗装合理化後であり、グリーン車の帯は消え、修学旅行色も消滅しています。こちらは冷房準備車となった後期のキハ58と思われますが、東北急行はグリーン車を除き、晩年まで非冷房車で大勢あったことも特筆されます。昭和57年1月4日 豊原~白坂間にて 秋田行「おが1号」東北・上越新幹線開業に伴う57・11改正を迎える晩年の頃の写真です。東北の気動車も多少の冷房化が進んできたのか、先頭車のキハ58冷房車となっています。中間にも2両並んで冷房車が連結されていますが、1両はグリーン車でしょうね。下りの「おが1号」は上野発が7時過ぎでしたので、撮影の時間帯は良かったのですが、夜行群の到着が終わった後の上り通勤時間帯となっていたため、撮影する機会が非常に少なかったですね。ヘッドマークが付いていれば、格段に撮影回数も上がっていたと思います。昭和51年11月に奥羽本線全線が電化したにも拘わらず、昭和57年11月のダイヤ改正前日までディーゼルのまま走っていた、架線の下の気動車急行の代表格であった列車と言えると思います。
2022.05.22
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JR九州 キハ47:香椎線2018/12/24に投稿した記事で、当時の表現になっています。JR九州の香椎線は、西戸崎と宇美を結ぶ路線です。JRになってからはキハ40系の牙城となっていましたが、平成31年3月のダイヤ改正において新鋭の蓄電池車BEC819系が導入され、現在使用中のキハ40系が全て置き換えられるということです。今までまるで縁のない路線でしたが、九州へ1泊で撮影に行き、鹿児島本線の九産大前駅の近くで撮影した際、直ぐ近くを走る香椎線の列車を撮ることが出来ました。※撮影は、平成24年9月23日、香椎線 香椎~和白前間にてキハ478065キハ479051時間の都合で撮影できたのは1本のみ、景色がイマイチでしたので、前後を撮影しておきました。この列車はキハ47×2連を2本合わせたもので、本線の撮影中に聞いた走行音からすると、2連のみの運用もある様でした。未だ非電化区間の多い九州ですが、福岡市を中心とした都市部からエンジン車の追い出しを図る構想のようで、必要車両数もそれほど多くないことから考えると、製造から40年を経過するキハ40系の先行きは、他の路線でもそれほど長くないものと思われます。
2022.05.21
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165系:急行「よねやま」(サハ164)上越線急行としての「よねやま」は、昭和47年10月の改正で誕生しています。運転区間は、上野~上越線経由で直江津までと、それまでの特急「はくたか」とともに、昼行列車としては長岡~直江津へ乗り換え無しで直行する数少ない優等列車でした。編成は、新潟運転所(後の上沼垂運転所)所属の165系13連を使用し、急行「佐渡」と共通運用となっていました。ビュッフェの営業廃止及びサハシの運用離脱により12両編成となり、さらにサハの連結廃止、サロの1両減車により、末期は10両編成とりました。昭和56年頃 蕨駅にて 3602M 上り「よねやま」上越新幹線の大宮暫定開業を控えた前の年で、特急「白山」とのすれ違いシーンです。すれ違い写真なので残念ながら後部編成は写っていませんが、末期の10両編成と思われます。終始ヘッドマークが掲示されませんでしたが、列車番号の札が整備されていたため、列車番号から判別ができました。昭和52年頃 蕨~西川口間にて サハ164-2サボが急行「よねやま」になっていますが、写真から判断すると朝の上り列車のようなので、東大宮から上野への回送列車のようです。サハシではなくサハ164が連結されていました。サハ164は、昭和41年に中央東線急行「アルプス」等の増発に対応するため、ビュフェ車サハシ165に代わる車両として2両のみが誕生した車両。形態的には中間付随車のサハ165に似ていますが、車端に売店を設置し、さらに荷捌き用の扉を設置しているため、165系群の中では唯一の3ドア車となっているのが特徴でした。中央東線の急行列車で活躍しましたが、最後までビュフェを営業していた中央東線では列車の統一性を欠くことなどから新潟区のサハシ165と交換のため転出、「佐渡」「よねやま」などに使用され、さらにサハシ165の運用離脱とともに活躍の場を失うと大垣区へ転属となり、東海道本線の「東海」や間合いの普通列車としても利用されました。上越新幹線の暫定開業時点においては、乗り換えの利便性確保から辛うじて存続した急行「よねやま」でしたが、昭和60年3月の新幹線上野開業により乗り換えの不便が解消されたと判断、これをもって廃止となっています。
2022.05.20
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14系寝台客車:寝台特急「いなば」寝台特急「いなば」は、それまで寝台券が入手困難であった寝台特急「出雲」のを補完するため、東京~大阪を結んでいた寝台急行「銀河1号」を米子まで延長の上、紀伊勝浦行き「紀伊」と共に特急寝台化により昭和50年3月に誕生した列車です。登場当初から14系寝台客車による編成とされ、「紀伊」との分割併結という複合列車に適した設定となっていました。写真は、いずれも昭和53年9月または10月、東京駅にて。この写真は、「いなば」廃止の2~3週間前の日曜日に撮影したものと記憶しています。既に廃止の情報は流れており、この写真にはファンの姿があまり写っていませんが、私の背後、或いは横には結構な数のファンが居ます。※貫通ドア窓に「B寝台」とある表示にも注目!こちらは、廃止前日だったか、数日前だったか記憶が曖昧なのですが、とにかく廃止直前という様子です。「カメラを構えて写真を撮る」なんて状態ではありません。このときは、広角レンズで上に手を伸ばしてシャッターを切っています。いつもは角度調整を多少するのですが、今回は臨場感を出すために加工していません。昭和53年10月改正で出雲市まで延長され、名称を「出雲」に改称したことにより、「いなば」の愛称は消えました。寝台特急「いなば」の場合、発展的解消であったため、ただ単に名前が消えるというだけのことであった訳ですが、当時はこれほどパニックになりました。結局、53・10廃止となったため、最後までイラストマークが入ることもありませんでしたし、寝台特急「紀伊」と併結であったためヘッドマークも付くことはありませんでした。名称的には不運だった「いなば」。その後復活し、今でも残っているのはせめてもの慰めと言えるでしょうか・・・。
2022.05.19
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JR貨物:EF651138(EF652138)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651138(EF652138)です。1138号機は、昭和54年8月22日に落成した川崎重工・富士電気製。関西・九州ブルートレインのEF58置換用として誕生した最終8次車で、宮原機関区に配置された関西っ子です。その後貨物用となったらしく、吹田を経て新鶴見に来たようで、2012年度に廃車後JR貨物へと譲渡されて使用されました。平成23年6月28日 EF651138牽引 3058レ平成23年11月26日 EF651138牽引 4094レこの1138号機は地元でなかなか捉えることができなかったようで、数多く撮ったPFの中でもたった2枚しか残っていませんでした。更新色赤プレートでもあり、インパクトはありませんでした。平成24年7月15日 EF652138牽引 4094レ平成24年7月15日 EF652138牽引 2073レここからは2000番台化されています。同日撮影ですが、4094レのカマは2073レで折り返しになっています。平成25年6月8日 EF652138牽引 2073レこの写真を最後に地元では撮っていませんでした。2138号機は、令和4年4月30日、宇都宮タへ廃車回送されました。
2022.05.18
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JR貨物:EF651117(EF652117)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651117(EF652117)です。1117号機は、昭和53年9月20日に落成した川崎重工・富士電気製。東京口ブルートレインのP形置換用として誕生した7次車ですが、1117号機と1118号機は新鶴見機関区に貨物用として配置されています。同機はそのままJR貨物へと継承され、最後まで貨物用として使用されました。平成20年5月24日 大宮総合車両センターにて EF651117大宮公開で展示されていたもの。これから検査に入るところで、良く見たら3色更新塗装になっており、同機同色の最後の写真になりますね。平成22年4月24日 EF651117牽引 2071レ以来、2色更新のまま最後まで過ごすことになります。平成22年7月10日 EF651117牽引 3074レ平成22年7月17日 西船橋~船橋間にて EF651117牽引 下り貨物平成23年6月11日 EF651117牽引 2082レ平成23年11月26日 EF651117牽引 3075レここまでは1000番台時代の写真です。この1117号機は、新製時には塗装ナンバーだったものが途中からブロック式に変更されたものですが、その際に何故か「7」が1位側と2位側で違ったフォントとなっており、前後で印象の異なるナンバーとなっている異色機でした。平成28年5月28日 大宮総合車両センターにて EF652117こちらも大宮公開で展示されていたものですが、ちょうど2000番台化されていた時期であり、整備が終り、ナンバーも2117になっています。このとき、特徴のあったナンバーは解消され、前後とも同じものになっています。令和元年5月3日 東浦和~東川口間にて EF652117最後に撮影したのは武蔵野線でした。2117号機は、令和4年4月30日、宇都宮タへ廃車回送されました。
2022.05.17
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E653系勝田車:団体列車「リバイバル特急ひばり」号日本の旅、鉄道の旅 JR東日本びゅうツーリズム&セールスによる企画列車「リバイバル特急ひばり」号が運転されました。時代が進み、全国の電化区間を席巻した485系は既になく、その姿を再現することはもはや不可能になってしまいました。今回充当されたのは勝田区に所属する出戻りE653系。国鉄特急色にラッピングされた編成で雰囲気を味わおうという趣旨ですね。今の時代となっては仕方ありません。※撮影は、令和4年5月14日です。E653系勝田車 「リバイバル特急ひばり」号1日しか設定のない中での荒天。現着した時よりも雲が厚みを増し、さらに暗くなってしまったようで、ISO1600まで上げました。485系は全廃となり、全盛時を知る身としては茶番に見えて仕方ない企画ですが、この編成はまだ1度も撮影したことが無く、地元を通る同車を撮影できるきっかけを与えてくれたことには素直に感謝したいと思います。近年ではあらゆる企画列車でも体の良い名称を企画する割りにはヘッドマークを用意することもなく、あまり食指が動くものがなくなりました。JR車両しかなくなり、今後のリバイバル列車というのは興味の面においてももう難しいでしょうね。
2022.05.16
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583系:寝台特急「なは」令和4年5月15日、沖縄が本土復帰してから50年になるそうです。当時小学生でしたが、テレビのニュースで復帰の様子が報道されていたのをうっすらと覚えています。道路が右側通行から左側通行に変わったため、バスの乗車口も反対にしなければならないといった内容は今でも記憶に残っています。特急「なは」は、昭和40年10月、それまで「かもめ」として運転されていた新大阪~西鹿児島間のキハ80系による気動車特急を分離独立して誕生しました。誕生時は新大阪~宮崎を結ぶ気動車特急「日向」を併結しています。昭和48年10月の改正で鹿児島本線電化にやや遅れて電車特急となり、「日向」と分離運転され、昭和50年3月のダイヤ改正(新幹線博多開業)まで昼行電車特急として九州連絡の役目を担いました。同改正により山陽の昼行特急が全廃になり、廃止になると思われた「なは」ですが、その名称を与えられた経緯から存続することになり、改正前まで京都~西鹿児島を結んでいた581・583系寝台特急「きりしま」のスジを引き継ぐことになり、ここに新たな電車寝台特急「なは」が誕生することになります。誕生当初は、583系独特の黄緑色で「なは」の文字マークが使用されていましたが、昭和53年10月のダイヤ改正から他の電車特急と同様にイラストマークが採用され、その後の客車寝台特急化、機関車のヘッドマーク復活時におけるマークデザインの礎となりました。昭和55年8月 京都駅にて クハネ583 特急「なは」昭和55年ですので、既にヘッドマークはイラスト化されたものです。横サボは関西特有の発駅と着駅を一緒に表示するタイプで、東日本の着駅のみの表示とは趣が異なります。私的には「きりしま」という名前の方が好きだったので、「なは」に愛称が決まった時点で『なにも乗っ取らなくても良いのに・・・』なんて思ったものでした。高校2年のとき、EH10やキハ181系「やくも」の撤退を知ったときに強引に撮影を挙行し、夜行乗り継ぎがてら関西の列車も出来る限り撮影してきました。この写真は、そのときの1コマです。その後、客車化を経て「あかつき」との併結。なんとか生き永らえた「なは」ですが、平成19年3月の改正を以ってとうとう廃止となってしまいました。昭和49年8月、初めて大阪に連れて行ってもらった帰途、乗車する急行銀河2号」を待っていた時、西鹿児島から到着した485系ボンネットの「なは」を撮影していましたが、光量不足のためプリントにしてもらえませんでした。その経緯からネガを紛失してしまったのですが、愛称が写っていることはネガからも確認できており、同時に撮影していたキハ82「かもめ」と共にきちんと残しておかなかったことを50年近く経った今でも後悔しています。沖縄の日本復帰の願いを込めて生き長らえてきた特急「なは」。そんな願いをもってしても廃止の運命となってしまった今の時代。切ない、寂しい以外の何モノでもありません。
2022.05.15
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485系ボンネット型:特急「ひばり」(その1)上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。今回は、地元で撮影したボンネット型の写真のうち昭和52~55年くらいまでのものを(その1)としてご紹介いたします。昭和51年 赤羽駅にて昭和51年 大宮駅にて昭和51年 大宮駅にて昭和51年 尾久駅にて昭和52年 西川口~蕨間にて昭和53年3月頃 西川口~蕨間にて昭和54年頃 西川口~蕨間にて昭和54年頃 西川口~蕨間にて昭和54年頃 上野駅にて昭和55年4月27日 蕨駅にて中学~高校初期の頃。まあ、ろくな写真はありません。母親の実家が東北本線の須賀川駅最寄ということで、「ひばり」自体にも大変馴染みがあり、当時ほとんど特急列車に乗ることはできませんでしたが、一番親近感のある特急列車でした。その他のも枚数が沢山ありますので、追ってご紹介することにいたします。485系ボンネット型:特急「ひばり」(その2)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その3)485系 貫通型:特急「ひばり」485系 非貫通型:特急「ひばり」485系1500番台:特急「ひばり」
2022.05.14
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国鉄・JR貨物:EF651057(EF652057)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651057(EF652057)です。1057号機は、昭和51年度に久し振りに生産が再開された後期型PF(PS22Bパンタグラフを搭載)です。昭和51年12月22日に落成した川崎重工・東洋電機製造製で、首都圏の旧型電機の置換え用として新鶴見機関区に配置され、終始新鶴見機関区で活躍したようです。平成21年11月14日 EF651057牽引 2082レ平成21年11月15日 EF651057牽引 2071レ平成22年1月31日 EF651057牽引 2082レ平成22年4月25日 EF651057牽引 2071レこの辺りの番号は遅くまで3色更新塗装が残っており、特に1057号機は多く撮っていました。平成23年2月19日 EF651057牽引 2082レ上の写真と1年はなれていませんが、この間に全般検査を受けたようで、2色更新に塗装が変更されました。ここまでが1000番台時代で、以降は2000番台化されてたため、この塗装の1057はこの1枚だけでした。平成24年11月30日 新秋津駅にて EF652057牽引 4074レ平成25年5月5日 東京タにて EF652057展示2057号機となったカマも、これ以降は地元でのPF運用が無くなってしまい、撮影はできなかったようです。昭和60年1月5日 栗橋~東鷲宮間にて最後に、唯一撮っていた国鉄時代の姿です。後ろが切れてしまっていますが、緩急車連結廃止の直前の姿です。2057号機は、令和4年4月30日、宇都宮タへ廃車回送されました。
2022.05.13
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団体列車 東北新幹線開業35周年:185系「新幹線リレー号」鉄道150周年と東北新幹線開業40周年が重なる2022年。E2系新幹線にリバイバルカラーを施すらしく、久し振りにそれらしい話題が上がった新幹線。E2系200系カラー車両など 東北新幹線40周年記念号(ツアー)さらに、7月には185系 新幹線リレー号(ツアー)が設定されるそうで、こちらも久し振りに地元が湧きそうです。遡ること5年前、やはりリバイバルで新幹線リレー号が走りました。ブログ引っ越しで記事が無くなってしまうので、こちらでも復活記事を掲載しておきます。※記事は2017/6/24投稿のもので、当時の記述になっています。東北新幹線が開業してから35年経ちました。昭和57年6月、私が国鉄に入社した年であり、大宮を発車した200系試運転列車を3機のヘリが追いかける様子を、関東鉄道学園の窓から見ていた記憶が鮮明に甦ってきます。クラブツーリズムでは35年を記念した企画を打ち出し、団体列車を仕立てました。企画名は『昭和の名車両「リレー号」(上野~大宮間)と「東北新幹線開業35周年記念号」で行く!旅情が誘うみちのくノスタルジー2日間』だそうです・・・企画名が長過ぎます。※撮影は、平成29年6月24日です。185系B4+B7編成 回9572M 送り込み回送―――を期待しましたが、残念ながら///でした。185系B7+B4編成 9535M事前の情報で185系10連となっていましたので、グリーン車込みでA編成を使用するものとばかり思っていましたが、6+4の10連でした。ヘッドマークは既に消滅しているため、ステッカー式が前後に用意されました。「臨時」や「団体」だったらスルーしていたかもしれません。
2022.05.12
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東京メトロ 7000系:黄帯車終焉(Y編成)帝都高速度交通営団(現東京メトロ)の有楽町線用として誕生した7000系。登場以来、路線の延長及び需要増で増備を重ね、副都心線の開業により私鉄各線編も乗り入れる活躍を続けてきましたが、老朽化による車種更新のため数を減らし、令和4年4月、残っていた最後の1編成が廃車になり、形式消滅になったようです。4回目最終回は、登場時から纏っていた黄色帯の7000系で、その姿が終焉となりつつあった最後の頃の写真で締めくくりたいと思います。営団地下鉄7000系は昭和49年に登場、平成元年まで増備が続けられましたが、東京メトロ副都心線の開業に伴い、8両編成化及び塗色の変更が行われることになりました。編成替えにおいては廃車になったものがあり、また海外に譲渡された車両も存在します。平成20年10月26日 月島駅にて辰巳の国際水泳場に行く際、偶然にも更新前の黄帯7000系に乗ることができました。途中の月島駅で対向する7000系とすれ違いました。窓を開ける時間も無かったのでガラス越しに撮ったのですが、メッチャ汚い窓ガラスだったので、ソフトンを掛けたような写りになってしまいました。平成20年10月26日 辰巳駅にて 第22編成私たちの乗った編成。ホームが狭く窮屈なので、こんな構図でしか撮れませんでした。上の写真は保険として停車中のものを撮っておきました。下の写真は後部を後追いで撮影したもの。1/15秒じゃブレてしまうので流したのですが、奥行き方向に流すって、距離が変わってしまうので難しいですね。平成21年5月3日 東武東上線 朝霞台駅付近にて 第2編成終焉迫る黄帯車Y編成撮影のために訪れました。意外と早く姿を現してくれました。しかも、未更新車最若番の7002編成でした。平成21年5月3日 東武東上線 朝霞台駅付近にて 第17編成下りの7017編成が来ました。約30分の間に2本の未更新車を撮ることができました。その後は撮影の機会がないまま副都心線が開業となり、黄帯の7000系を見ることはありませんでした。そして、あれから10数年が経過し、いよいよ形式消滅となってしまいました。
2022.05.11
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489系:特急「つばめ」(幕回し)「つばめ」と言えば、特急列車としてあまりにも有名で、その歴史が古いことから、世代によってその想像する姿の多様さも別格と言えるものではないでしょうか。現在は九州新幹線の愛称となっていますが、その前は787系として久し振りの復活となったのも、既に過去のことになってしまいました。私が生まれた頃は東海道新幹線の開業まで1年を切った頃、既に151系による東京発着が終盤となっており、東海道新幹線の開業にあたり、名古屋~九州間の運転に移行されています。この頃から581系で運転されていたと思いますが、もちろん記憶になどある筈がありません。私が鉄道に興味を持った頃は、新幹線が岡山開業を果たした頃で、運転区間も岡山~九州間とさらに西へシフトしています。名コンビであった「はと」も、本州内特急として岡山~下関間の運転となっていました。よって、自分にとって特急「つばめ」とは、この頃の使用車両である583系や485系が当たり前の憧れの姿でした。昭和49年、どうしても関西特急の写真が撮りたくて、じいさんとともに大阪に行ったことがあります。今では夢のような世界でした。しかし、「つばめ」や「はと」はすべてが岡山発着であったため、憧れのままその姿を見ることはできませんでした。そして、昭和50年3月、新幹線博多開業により、「つばめ」「はと」は他の対九州特急と共に消滅してしまい、その姿を写真に収めることはできませんでした。しかし、そんな憧れの特急「つばめ」を、1度だけ関東の、しかも上野駅で目撃しました。昭和52年頃? 上野駅にて本来は上野駅で「つばめ」を見られることはありませんが、金沢運転所の489系はその運用の関係から関西の特急列車愛称幕が網羅されており、「白山」から「回送」か「そよかぜ」に変更する際、「つばめ」「みどり」「しおじ」「北越」の幕が出現しました。この写真も、たまたま回転が始まる時に列車の写真を撮っていたもので、そのうちの1枚に「つばめ」があったのを収めることができたものです。残念ながら実物の姿を捉えることはできませんでしたが、子供の頃写真を撮ることが出来なくて悲しかった思いが、わずが3年後くらいにGETできたことに喜んだものです。昭和53年10月改正においてヘッドマークはイラスト化され、その際廃止されて久しい「つばめ」はデザインされることは無く、その後もセッティングされることはありませんでした。なお、実際の「つばめ」は岡山発着であり、金沢運転所限定配置の489系が運用されたという話は見聞きしたことはないように思います。
2022.05.10
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EF6019牽引:一般貨物列車(国鉄時代)国鉄時代末期に運用から撤退して以来、永きにわたって高崎で動態保存されてきたEF6019でしたが、令和元年7月3日付をもって除籍されてしまいました。EF6019は、昭和37年東洋電機・汽車製造製で、同年8月3日付で新鶴見機関区に配置となり、主に東海道本線の貨物列車牽引に活躍しました。後に浜松機関区に配置換えされ、国鉄末期の昭和56年7月に高崎第二機関区に転属、首都圏の貨物列車牽引に当たっていました。昭和57年5月頃 蕨~西川口間にて 上り貨物列車高崎にやってきて間もない頃のEF6019。原形で手付かずのオリジナルな姿。川口←→田端間の貨物列車は、蕨駅にてカマを入れ換えます。”テール消し忘れてますぜ!”と言いたくなってしまうシーン。昭和60年11月4日 岡部~深谷間にて 上り貨物列車国鉄末期、高崎線を行く上り貨物列車を牽引するEF6019。わずかな期間に前照灯がシールドビーム2灯に改造されてしまいました。車扱いが殆ど消滅してしまったため、トラばかりの構成ですが、おそらくは専用貨物でしょう。シートが大きく、何を積んでいたのか気になります。最後尾はコキが連結されているようで、既に緩急車はありません。最後まで残ったEF6015とEF6019の2両のEF60。15号機はイベントで展示後に廃車となり、19号機はここから30年以上も生き延びることとなりました。
2022.05.09
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415系(ローズピンク):常磐線既に鋼製電車がいなくなってしまった常磐線。都心に最も近い交流区間は、ある特殊な事情から。無煙化にあたってどうしても必要になったのが交直流型の近郊型電車。そのために開発されたのが初の新性能近郊型401系電車です。カラーリングはローズピンクを採用し、その後に誕生した交直流型のカラーのベースとなります。時代が進み、全国的な移動に備えるため、50Hz及び60Hzが使用できる性能を要した車両が誕生するのは特急形や急行形と同様であり、近郊型に415系が誕生します。導入当初は403系と同性能の非冷房車でしたが、増備にあったっては普通列車でも冷房化の供給が要求されるようになったため、新製時から冷房装置を搭載し、ヘッドライトもシールドビーム化されました。昭和53年頃 上野駅にて 415系と115系の並び今は無き上野駅19番線・20番線の並び写真です。20番線115系初期車は、おそらく東北本線の列車です。昭和57年頃までは、高崎線の列車が高架ホーム、東北本線の列車が地平ホームと、比較的うまく区別されていました。115系は非冷房車ですが、415系はもちろん冷房車です。モノクロなのが残念ですが、古き良き時代の上野駅の雰囲気が伝わると思います。昭和57年10月12日 常磐線 荒川沖~土浦間にて 415系8連の普通列車初めて本格的に常磐線の撮影ヘ行ったときの写真です。当時の目的は、「ゆうづる」「みちのく」「ひたち」などの特急とEF80牽引の普通列車や貨物列車でしたし、この塗装の時代は401系や403系がバリバリに活躍していましたので、新車の415系など撮影の対象になっていませんでした。長らく常磐線で「赤電」と呼ばれ、415系まで採用されていた塗装ですが、昭和60年のつくば万博開催に合わせてアイボリーに濃いブルーの塗装に変更され、特徴のあったカラーリングも消滅することになります。
2022.05.08
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183系OM車:臨時快速「足利藤まつり」あしかがフラワーパークの大藤まつりに合わせ、毎年GWを中心に運転されるJR東日本の臨時快速列車。まだ大宮総合車両センターに183系が配置されていた頃、臨時快速「足利藤まつり」が2往復設定され、活躍していました。183系OMで運転された年数が長いため、枚数としてはかなり撮っていますが、地元ばかりということもあるため、アングル違いを中心に記録しておきたいと思います。平成19年5月4日 「足利藤まつり1号」平成19年5月4日 「足利藤まつり3号」平成20年5月5日 「足利藤まつり3号」平成21年5月2日 「足利藤まつり3号」平成21年5月5日 「足利藤まつり3号」平成21年5月9日 「足利藤まつり3号」平成22年4月29日 「足利藤まつり2号」平成23年4月24日 「足利藤まつり2号」平成23年5月1日 「足利藤まつり2号」平成23年5月7日 「足利藤まつり2号」平成24年4月29日 「足利藤まつり3号」平成25年4月27日 「足利藤まつり1号」平成25年4月27日 「足利藤まつり3号」平成25年5月12日 「足利藤まつり2号」専用のヘッドマークが常備されていましたが、ご覧のようにちょっとはずれの日があるようです。ゴールデンウイークの風物詩で、しかも見栄えの良いヘッドマークも掲出されたため、頻繁に撮影していました。183系OM車の引退で185系もヘッドマーク組み込みを期待しましたが、その後は写欲をそそられることはありませんでした。同列車にとっては一番良い時代であったと思います。
2022.05.07
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413系 新北陸色:北陸本線時代北陸新幹線の開業延伸に伴い、直江津~金沢間の在来線は経営分離されました。その際、車両の一部はそのまま第3セクターに譲渡され、特にあいの風とやま鉄道では413系が使用されていました。これらの413系は、青1色といわゆる新北陸色が計5編成譲渡され、このうち最後まで残っていた新北陸色編成が2022年3月ダイヤ改正で離脱し、この5月5日にラストランを行ったそうです。北陸新幹線の延伸後は同区間を訪れたことがありませんので、北陸本線時代に撮影した413系新北陸色の写真をまとめといたします。平成20年4月22日 金沢駅にて平成27年1月23日 黒部駅にて 546M平成27年1月23日 津幡~倶利伽羅間にて 459M
2022.05.06
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185系C7編成:快速「GOGO NIKKO」平成27年GW(ゴールデンウィーク)、宇都宮~日光間に臨時快速「GOGO NIKKO」が走りました。185系4連のコンパクトな編成を使用した臨時快速も、東日本管内では稀な存在です。(651系やE653系による設定は実績があります。)また、列車名がすべてアルファベットというのもなかなか見られ無いタイプの列車でした。残念ながら日光線を走る列車を撮影することはできませんでしたが、撮影のついで、帰区回送のみ撮影することが出来ました。※撮影は、平成27年5月6日、蓮田~東大宮間にて。185系C7編成 回9582M 快速「GOGO NIKKO」帰区回送久し振りにヒガハスに行きましたが、4両編成の構図はちょっと迷いましたね。こちらはヘッドマークを切り取ったものです。183系OM編成の撤退以来、一般の臨時列車にはまずヘッドマークを用意することがなくなってしまいました。どのようなPRなのか謎ですが、宇都宮~日光間という極めて短い営業区間でありながらヘッドマークが用意されるとは思ってもみませんでした。運転記録運転日平成27年5月2日~6日経路回9580M 東大宮操7:58~大宮8:04-05~大宮操8:09回9581M 大宮操8:24~宇都宮9:569881M 宇都宮10:06~日光10:43回9882M 日光11:11~宇都宮12:00回9582M 宇都宮12:15~大宮13:26回9583M 大宮13:32~東大宮13:38設定はご覧のとおりとなりますが、回送で大宮操折り返しとなるのも珍しいですね。それにしても、わずかな区間の片道営業だけのためにこれだけの回送区間を組むのもかなり不合理に思います。しかも、入出区は毎日であり、完全な赤字運用です。おそらく、東武鉄道との乗り入れ協定で大宮からの営業は難しいものと考えられますが、せめて日光~宇都宮の帰路を営業しても良かったのではないかと思われます。205系「いろは」:快速「GOGOいろは日光」
2022.05.05
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キハ183系(新国鉄色):特急「オホーツク」JR北海道において、特急「オホーツク」に使用している最後のキハ183系を新国鉄色に復刻塗装を施し、運用が始まったようです。私は平成5年を最後に渡道していませんので、現状の「オホーツク」には会ったことがありません。私がキハ183系「オホーツク」を撮影した頃は、まだ国鉄時代のスタイルをそのまま使用していた頃でした。よって、その塗装から「新国鉄色」としての編集となります。※撮影は、全て平成3年7月8日、場所は石北本線ですが、詳細は不明です。キハ183-500を先頭とする編成の「オホーツク」JR塗装車が発生する前で、既に国鉄色も無く、「スーパーとかち」の準備車両以外はこの塗装で統一されていました。ヘッドマークも国鉄以来使用されているデザインで、現在のものとは大幅に趣きが異なります。先頭車の脇にちょこっと見えるキロ182は、まだ形態がオリジナルで、キロハ改造が行われるなんて夢にも思っていない時代ですね。0番台を先頭に走る「オホーツク」この頃は、片側が0番台、もう片側が500番台の編成が多かったようです。35mm判の300mm×2で撮ったため、画質が非常に悪くなってしまいました。ただ、600mmの圧縮感、電線・電柱などの障害物が無い、北海道の幹線ならではの風景ですね。じゃがいも畑と特急「オホーツク」このときは内地からクルマをフェリーで持ち込んでの強行軍でした。原生花園から深名線へ向かう途中、石北本線沿いに走り、この一面花畑に感動し、せっかくだからと「オホーツク」が来るまで待って撮ったものです。後で気が付いたのですが、キハ184が連結されていること、グリーン車がキロ182-901(客扉が車端に寄っている)という希少車輌であったことから、私的には貴重な写真となりました。
2022.05.04
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185系OM車:臨時快速「足利藤まつり」あしかがフラワーパークの大藤まつりに合わせ、毎年GWを中心に運転されるJR東日本の臨時快速列車。永らく183系OM車による臨時快速「足利藤まつり」として運転されてきましたが、183系の引退により、平成26年度からは185系による「足利藤まつり」が設定されました。平成26年4月29日 185系B5編成 「足利藤まつり3号」田町車両センターからの185系が運用されるようになり、湘南塗装のB編成による「足利藤まつり」が見られるようになりましたが、やはりヘッドマークは「臨時快速」でした。平成29年5月1日 鶯谷駅にて 185系OM03編成 「足利藤まつり2号」この間、まったく興味が無かったので撮影することも無くなってしまったのですが、185系そのものが引退ではないかとの危機感があり、仕事に帰りにギリギリ間に合いそうな上りを狙ってみました。塗装は///ばかりになりました。しかし、近年のJRは合理的というか準備が良いというか、終点到着前にヘッドマークをひっくり返してしまうことが多くなり、ご覧のように最悪の「回送」マークでの到着となってしまいました。平成29年5月4日 185系OM03 快速「足利藤まつり2号」「TRAIN SUITE 四季島」の初運転・初帰還の撮影を兼ね、上り2号を撮影しておきました。やはり「回送」マークが悔しかったのでリベンジです。平成30年5月5日 東鷲宮~栗橋間にて 185系OM04編成 「足利藤まつり1号」翌年も185系による運用が残り、他の臨時列車撮影を兼ねてプチ遠征してきました。最後まで専用のヘッドマークが用意されなかったこともあり、183系時代と比較して大幅に足を運ぶ回数が減りました。令和2年度も185系による「あしかが大藤まつり」が設定されましたが、新型コロナによる緊急事態宣言の発令により運転取り止めとなりました。令和3年度には運転再開となりましたが、名称が「あしかが大藤まつり」に変更されることになります。
2022.05.03
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国鉄 EF60500番台(特急色)EF60型電気機関車は、先に誕生していた新性能機関車であるED60型を基に、6軸のF型としてEH10と同等の性能を発揮させるものとして、昭和35年に誕生しています。F級新性能車の元祖として誕生したEF60は、10‰の勾配で1200tの貨物列車を引き出せる性能を備え、最高速85km/hを超える高速性能を備えました。昭和38~39年にかけて、それまでEF58がメインで牽引してきた東海道ブルートレインの任務を負うべく登場したのが、ブルトレ仕様の500番台でした。500番代は、ブルトレの牽引を目的としていたものであるため、登場時からブルトレ塗装が施されました。EF60500番台は20系客車との連結に対応するため、運転台に客車との連絡用電話を設置したほか、架線異常時にカニ22形のパンタグラフを降下させMGを停止するスイッチも搭載していました。しかし、EF60は元々牽引力に重点を置いて設計されていたため、高速連続運転には不向きであったっようで、ブルトレ牽引にあたっては故障も続発したようです。そこで、牽引力+高速性能に優れたEF65が開発され、ブルトレ牽引機の代名詞ともなったEF65500番代に道を譲り、本来の得意分野である貨物機としての道を歩むこととなりました。そのため、ブルトレ牽引機としての活躍は、わずか4年程度しかなかったようです。もちろん、その時代の同車は見たことありません。昭和60年3月30日 高崎第二機関区にて EF60501高崎第二機関区で一般公開が行われました。私は既に国鉄に入社し、与野駅に勤務していた頃です。私が注目したのは、復活前のEF551と、この特急塗装を施したEF60501でした。確か、この時点では既に車籍は外されていたと思ったのですが・・・。それまで雑誌の記事でしか見たことの無い姿。それは驚きとともに感動でした。初期車の1つ目でありながら特急塗装という組み合わせ。今すぐにでも20系を牽かせてやりたいと思ったのは私だけではないでしょう。この時点でも二度と本線を走ることはない。そう思っていました。しかし、そんな想いは見事に打ち砕かれることになります。なんと、12系の団臨を牽いて、上野まで走ってきたことがあったのです。もちろん、そんなことは夢にも思っていなかったので、情報も知りませんでしたし、撮ることも見ることも出来ませんでした。この事実を知ったときは悔しかったですね。平成28年11月12日 碓氷峠鉄道文化むらにて EF60501後に、EF60501は2度目の廃車を迎え、現在は碓氷峠鉄道文化むらに保存されています。平成25年5月25日 おおみや鉄道ふれあいフェア2013にて EF6051030年の歳月が経過し、新たなサプライズがありました。平成24年度に実施された「おおみや鉄道ふれあいフェア2013」において、EF60510が特急色となって姿を現しました。この車両が保存されていることをまったく知らなかったので、ただ驚くばかりでした。保存機とは言え、イベント時にかつて牽引をしたブルトレのヘッドマークを掲げる姿は感動モノです。しかし、同機も2016年に解体されてしまったようで、展示だけでも良かったのですが、また一つの夢が消えてしまいました。
2022.05.02
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EF6019牽引:快速「EL&SL奥利根」D51498の車籍が復活したのは昭和63年12月、翌平成元年にはD51を使用した快速「SL奥利根」が運転されるようになりました。運転区間は上越線内の高崎~水上間となっていましたが、電気機関車の保存活動が活発な高崎区ではこの機関車たちを活用し、運転区間を上野~水上間として直通する快速「EL&SL奥利根」が運転されるようになりました。今回は、地元を走った快速「EL&SL奥利根」のうち、今般解体されてしまったEF6019が牽引した列車写真を集めました。平成14年8月17日 くつろぎ塗装時代平成19年10月7日 原色復帰後平成20年8月2日 神保原駅にて平成20年8月17日平成20年8月23日平成20年10月25日こうして並べて見ると、くつろぎカラー時代は変な意味でインパクトがありましたが、原色の戻された途端に地味でインパクトの無いカマになってしまいました。SL区間ではヘッドマークが取り付けられた実績がありますが、快速「EL&SL奥利根」としては地元でヘッドマーク付きをみることはありませんでした。
2022.05.01
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