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Hiro Maryam

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2010年11月18日
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カテゴリ: 私見

坂口安吾の 文学のふるさと を読んだ。
この文章は大学時代によんで心惹かれ、大好きな文章のひとつで
まさに 私の心のふるさと といえるものだ。
非常に短い文章なのでまだ読んだことのない人はぜひどうぞ。
ネットでも検索するとすぐに読めるので。

私は高校時代に臨死体験をして、、、といっても医療ミスというか医療事故によるものだったのだが、
とにかく呼吸がとまり、心臓も止まった。
所謂、昏睡状態とか意識不明でなく、死んだという状態のとき
私ははっきり自分を意識していた。
ラジオの雑音を最大音にしたような音といくら目(心の目?)を凝らしてみても
まったく光のない闇の中に自分だけがいたのを覚えている。
そして、このままここに居たら自分は間違いなく死ぬと自覚して、
その時私は二つのことを願った。
その後どのくらい時間が経っていたのかわからないが、石で殴られ、押し付けられているような激痛
(電気ショックと心臓マッサージのため)で蘇った。
死というものは彼岸にあるのではなく、生と陸続きのもので、表裏一体のものである、、、
というのが私が臨死を通して得た結果である。
母が生前、人は生まれるときも一人、死ぬときも一人
ということを言っていたが、まったくその通りでもあった。

それはともかくこの臨死体験によって死というものの魅力からなかなか逃れられなくなった。
臨死体験をした高校2年の終わりから、大学時代もその後も生きるということが
めんどくさく、煩わしく、大学時代のある時期には
人と関わることに嫌悪を感じ、買い物の際に代金を払うのでさえ苦痛だった。
でもある事情があって私は死ぬわけにはいかなかった。
全く私は生きる意味を見失っていたのだが、この文章は
私に 生きることとは所詮そんなものなんだ ということを教えてくれた。
それを、生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独 という言葉で安吾は表現している。

私は現在、何の不満もなく、何の心配も、問題もない、不自由もない、ありがたい生活を送っている。
それでもやっぱり私にとって、この文章は 心のふるさと であり、
家族がいて、生活があり、喜びがあり、悲しみがあり、信仰があっても、
やはり孤独から逃れることはできないのだと思う。

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Last updated  2012年02月01日 16時51分19秒


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