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ここ数年来相撲界の不振は目に余るものがあった。昨年は外国人力士が麻薬問題を起こし、八百長が有ったとか無かったとか、礼儀に始まり礼儀に終わる相撲が、しごきと云う暴力で、新弟子の命まで奪う事件など発生し、相撲愛好者の私は切歯扼腕(せっしやくわん)した。何と日本の国技といわれた大相撲はこれで駄目になるのかと思っていた。しかしそれらの不祥事が糸口となって改革が行なわれた。やはり相撲道は死んでいなかった。今までに見られなかった立会い、礼儀、闘魂が充実し、単なる勝ち負けのスポーツとは一段違ったものを感じさせてくれた。それを一番盛り上げさせてくれたのは朝青龍と白鵬との対決であった。朝青龍の復活がなるものかどうか、本番前の稽古総見では、白鵬6勝に対し、朝青龍1という結果であった。白鵬の優勝は間違いないものと思われたが、調子のいいと思われた白鵬が3ケ日目に一敗し、危ない相撲を取っていた朝青龍が3ケ日目を過ぎると調子を取り戻し、そのまま千秋楽を迎えることになった。しかも本割で白鵬が勝って同列となったので満場騒然、何年間も見たことの無い横綱同士の対決戦である。このときの視聴率は37%という空前のものであったという。二度勝つということは難事中の難事と思っていたが、やはり朝青龍の気迫が勝って彼が優勝を手にした。あの気迫は何とも物凄いものであった。彼には色々不祥事があったがそれらを乗り越え、日本人の中に溶け込んだ。素直に評価してあげたい。まだまだ横綱として日本の相撲道の求むべきものは沢山ある。しかし人種を乗り越え白鵬ともども真の相撲の醍醐味を世界に輝かしてもらえることを期待したい。
2009.01.27
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オバマ氏の就任式典の映像がテレビで映し出された。あの群集は200万とも240万とも言われたが、全く言葉を絶した。零下4度という寒い中、遠方から感激にあふれ、端から端まで人、人、の渦であった。彼らの感激が波動となって私達にも伝わってくる。今の日本ではとても見られない光景であろう。彼らが団結したならばアメリカは怖ろしい強い国になるに違いない。アメリカ合衆国結成以来、虐げられ、差別を受け、日の目を見られなかった黒人の彼らが、自分達の仲間から国家の代表者を選出できたことは、リンカーン以来、名誉と栄光を与えられたわけである。彼の大統領就任演説が今日の新聞に掲載されていた。演説に説かれている価値観は、日本精神と同じ理念であり、誠実、勇気、公正、寛容、好奇心、忠誠と愛国心という事であった。これにはまさしく驚きである。そして米国民にむかって、今われわれに求められているものは義務と責任の時代である。このことを認識し、嫌々でなく喜んで米国民は引き受ける機会を捉えるべきだ、と獅子吼された。今アメリカでも日本に求めているものは何か、ヒラリークリントンでさえもも、日本がもっと指導的役割、世界での責任感を示すようありたいと発言されている。日本に痛い言葉である。オバマ氏は、日米関係を重視するといわれている。麻生首相はオバマ氏就任により、この関係を一層強いものとなれるように、自民が一体となって日本のおかれている現状に取り組んで欲しいものと思う。
2009.01.25
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思いがけない連絡富士市の高齢者生き甲斐支援教室から思いがけない連絡があった。内容は大正十年四月二日から大正十一年四月一日生まれの方に肖像画を書いて下さるというものである。平成二十一年一月十日現在で八十八才になられ、富士市に住民登録のされている方に米寿記念品としてということであった。あ~もうそんな年になるまで活かして頂いたのか、嬉しい反面、思わず自分を見つめなおした。虎は死しても皮を残す。人間は恥を残さないようにしろと、教わったが、肖像画に値するような特別な事は何もしていない。ごく当たり前に生きてきた積りである。よく生前に自分の彫像を作られる方があったが、どういう気持ちなのであろう。尊敬に値する方であるならば、遺影を残すことにも意義があろうが、…或いは子孫におじいちゃんはどんな顔をしていたか、想い出になるように、ということならばそれはそれで結構なことであろう。そういう意味に受け取らせて頂いた。ついこの間まで社会に粗大ゴミという言葉が残されていたが、高齢者福祉が見直される時代になったのは世の中が平和になった徴(しるし)なのであろう。介護保険、高齢者支援センターとか、デア~サービスとか、むしろ老人の方が不況の時代に恩典に浴し過ぎて申し訳ない気もする。が、反面今まで欠落していた部分に光が当てられる時代になったのであろう。
2009.01.19
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1月11日は私の誕生日であった。色々暗いニュースの中に思い掛けなく孫からお祝いの手紙を貰った。個人的なことをブログに載せる事も心がひけるが、清涼剤の一服として同志の方々にも読んで頂ければと敢えて掲載させて頂く。(原文のまま) じいじいへ おたん生日おめでとう。何才になったんだっけ? 綾乃は11才です。そして今年で12才になるんだよ。早いなー 今日綾乃は ごちそうを楽しみにしていま~す。 じいじのおかげで食べれるから感謝しないとね、 そして、お年玉ありがとう。もったいなくて、まだ使っていません。 いつかは使わせてもらいます。 今日どんどん焼きがあって、しゅう字を燃やして、神様へとわたしました。 これで綾乃の字がきれいになるかな~ おだんごおいしかったよ! 杏ちゃんは1人で3個全部食べちゃったんだよ。食いしんぼうだからね。 じいじ これからも元気で長生きしてね。 あやのより 次に6才になった妹の杏果(きょうか)からも同じ様に たどたどしいお祝いの手紙がそえ てあった。今年の4月で小学1年生にあがる。いつの間にか字が書けるようになっていた。 じいじ おたんじょうびおめでとう きょうかは6さいだよ かんじで杏果とかけるよ、 私は孫にも特別な教育を望んでいない。この純粋な心がすくすくと伸びて行ければと願って いる。
2009.01.16
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民主党の小沢党首は国連中心主義で、国連を中心としてそれに従うことを唯一の選択肢としている。日本の外交防衛問題も、日本の国家観、国益よりも国連という言葉の麻酔にかけられているように感じる。今日1月7日(水)産経新聞朝刊12ページに、元文化庁長官三浦朱門氏が正論として「国際的にも立派な国・日本」と題して素晴らしい投稿をされている。是非ご覧になって頂きたい。若しお持ちで無い方や、お読みになりたい方には、私宛て「住所氏名」のメールをお知らせくださればコピーを撮り郵送いたします。戦後世界の世界平和建設について日本も漸く常任理事国の仲間に入り、国際貢献をというときになったが、日本という国のアイデンティティをしっかりと持っていなければ何の役に立つことが出来ようか。先ず麻生氏に現在の政局を任期一杯持ちこたえ、その後に起こる解散総選挙において、日本はどういう方向が問われるのであろうか、天命に任せるほか道は無いのであろうか。
2009.01.07
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何と美しい日の出と富士山であろうか。朝方テレビをつけると伊豆半島沖に海中から真紅な太陽が昇るところであった。また田貫湖方面から眺めた富士山からダイヤモンドをかざしたような太陽がキラキラと、空を茜色に染めて現われた姿も写し出された。思わず万歳と声を上げた。こんな美しい姿を大自然は、私達に見せてくれている。大自然の神秘畏怖を感じる。経済不況や暗いニュースばかりで、日本人の心を不安に掻き立てているが、お互いは麻生丸という舟に乗り合わせた乗員である。自分達の乗っている舟に傷をつけたり、中でとっ組み合いの喧嘩をしていては海水が浸入して舟は沈没してしまう。国会で議決されたことは、任された期間は一致して目的に進むように協力すべきであろう。お正月、三が日の天候は、今まで何年間にも無かったような晴天と穏やかさは何と称えていいのであろうか。ピラミッドの神秘な歴史は、二日間11時までひきつけられた。箱根駅伝も若人の目的に向かって全力投入には感動が与えられた。篤姫は終わりになったが、4日からNHK大河ドラマ「天地人」が始まる。「直江兼続」が舞台の主役になるが、彼は上杉謙信の養子になった景勝の家来となった武将である。小姓でいた時代、謙信から「自分は弓矢で闘うことはしても、塩で戦おうとは思はない。それで困るのは百姓町民ではないか」という義の精神を学び、自分の兜の前立てに「愛」の字を飾り戦場に立ったという武将である。こういう「義」の物語は人間性を心豊かにしてくれる。現代人に知って欲しい歴史教育である。是非ご覧願いたくご紹介する。
2009.01.03
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新年を迎えるにあったって大東亜戦争終了後63年、学徒出陣後64年(理科の学生のため1年延期)、月日は夢のように過ぎ去って行った。 私達大正に生まれた者達は、国の為を思い青春の凡てを戦争に捧げた世代でした。ご家族から喪中欠礼の挨拶状を受けるたびに目頭が熱くなる。 あの悲惨な戦争後、立派な日本を再建しなければならないという思いで、とにもかくにも血の滲む様な努力で、それぞれが道を求めてやってきた積もりでした。 今、平成の時代を迎え、平和と繁栄の中、とかく忘れがちな苦難の道のりを振り返り、現在をしみじみと感謝します。 社会に役立つとか、役立たないとか関係なく、それぞれが置かれた環境の中で自己実現に生きるとき誰にでも平等に倖せと喜びが与えられていることを実感します。 (古歌)この秋の風か雨かは知らねども 己が務めに田草取るなり皆様のご厚誼を感謝申し上げ、余生今日一日の思いでこれからの日々も過ごして行きたいと思います。
2008.12.27
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素っ気無く自分の言葉が出せる人は尊い先日ある会合で麻生氏が「医師は社会的常識がかなり欠落している人が多い」と、いうことを発言したら、早速医師会の逆鱗に触れたのか、参議院で陳謝させられた。医師全体を誹謗したものであるという言いがかりのようである。彼らはいつも自分達は聖職者であると錯覚しているのであろう。その自覚は大切であるが、麻生氏の言葉には一部の人達を対象として言った言葉かもしれないが、われ吾が巷に聞く医師の声にも常識を欠落したと思われるものを多々見聞している。先生先生といわれ生殺与奪の権を握っている立場にあると、とかく人間は特別な存在と錯覚し常識を失いがちなことを、自戒してもらいたいという麻生氏の諌言であると思っが、そう素直に受け取れないのはむしろ医師会の傲慢さを現しているものと思われる。また財政諮問会議で、麻生氏が「たらたら飲んで、食べて何もしない人の(病気の)金を私達が払うんだ、病気になるのは本人の不衛生の為にもある、」と発言したことも、その真偽について、例を挙げて、「学生時代は元気だったが、よぼよぼしている人が多い。今になると私の方がはるかに医療費がかかっていない。それは毎朝歩いたり何かしているからだ。」健康を維持している人の税金が、努力しない人で病気になった人の医療に廻っているのだ。と、(如是我聞)言葉足らずのところもあるが、批判の対象にされている内容は、かみ締めて聞くと、うなづけるように思える。こういうことをズケズケいえない今の社会情勢の方をむしろ暗いもののように感じる。
2008.11.27
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思わぬ事件が次から次へ発生する。私は政治家ではないので政治の仕組みは解からないが、与党も野党も景気対策、お金の事ばかり。折角景気浮上対策に一人12000円、老人には更に8000円の上乗せをしてくれるといったら、野党さんいわく、選挙対策の売名行為である。高額所得者にも同額では可笑しい、財政のばら撒きではないかと悶着を付け、どうなることやら何とご立派なご意見であろうか。国民はドジョウをつかみそこなった感じである。安全保障の問題、洋上給油の問題、無差別殺人事件の伝播、拉致の問題、世界的異常気象のためか地震風水害の問題、まだまだ思わぬことが出てくるであろう。そっちの方はいかがお考えであろう。政治は国家の為にある。今の政治には権力はあっても国家が無い。国民のためといいながら、何時解散するのかどうかと、言葉尻を取り上げては、国家無視の党利党略に走っている。しかしスポーツ面では気分を爽やかにしてくれた。今場所の大相撲は暫くぶりで見ごたえがあった。朝青龍の休場、不祥事の連続でどうなることかと思ったが、最後の白鵬と安馬の決勝戦は手に汗を握った。石川遼君の快挙、横峯の活躍、駅伝などなど、新人がどんどん育ってきてくれている。最近NHKもポストが変わり、いい番組を見せてくれるようになった。篤姫は間もなく終わりになる。次はどんなドラマを見せてくれるのか楽しみである。
2008.11.25
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昨日は日曜日で各地で色々の催しが行われた。蒲原の農協祭の帰り富士山メッセに立ち寄った。物凄い人出、果たして駐車出来るかどうかと思ったが、何とか場内に入れ、まだ続々と続いた車は凡てOK。整理員の手際のよさなのであろう。不景気だといいながらこんなに買い物に集まる日本、そんなに不景気なのであろうかと思われる。会場内だけでなく野外の催し場も、人だかりであった。私は別に買う心算は無く、案内状を貰ったのでパソコンの新機種やガスレンジなどを参考に見たいと云うことで、申し訳ないがお土産を貰って直ぐに退場した。昼間のスポーツは女子の駅伝があり、大相撲があり、夜は日本シリーズの決勝があった。駅伝は中学生の活躍が目立ち頼もしい。大相撲は白鳳が思わぬ黒星、一寸した立ち合いの不用意ではなかろうか。新聞には白鳳の慢心と書いてあったが、厳しい批評である。それよりも巨人と西武との決勝、今日こそ巨人に勝って貰いたいと思ったが、原監督の選手起用の不手際で折角の勝ち試合も落としてしまった。原こそ反省してもらいたいことがる。世界の模範になるべき大監督が試合の終了するまでチューインガムをかじり通しであった。見苦しい。(チューインガムをかじっていなければリラックスできないとは何たる意気地の無いこと、一般の選手とは立場が違う)選手は死に物狂いの真剣勝負をしている。西武の選手には息づまるような雰囲気が伺えた。ピッチャーの心情を読み取れないようでは大監督とはいえない。負けたからどうこう言うのではない。あ~よく頑張ってくれたと、われ吾に伝わる泪の勝負であって欲しいと思った。
2008.11.10
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11月8日の産経新聞に、花田かずよし氏が、この件について、歴史見解が(村山談話)と違ったからクビとはおかしな話だと書かれてあった。内容は、『朝日新聞では社説で「ぞっとする自衛官の暴走」とまで書いたが、ならば国立大学の教授が文化省の政策と違った意見を発表してはいけないのか、しかも新聞各紙は、定年退職となった空幕長の退職金の金額を書きたて「国民感情としていかがなものかと」とまで煽っている。』40年近く任務に精励し、国の為に尽くした空幕長にそれなりに退職金が払われるのは当然ではないか。収賄罪に問われた守屋次官とはわけが違うとは、「WILL編集長」花田氏の意見である。大正時代に生まれ、今次の大戦を経験した私にはよくぞ過去の呪縛を解く問題提起の論文を掲げてくれたと感謝した。過去の歴史認識を巡る発言では、昭和61年に藤尾正行文相が「日韓併合は韓国側にもいくらかの責任がある」と発言し更迭。63年には奥野誠亮国土長官が「第2次大戦は日本の安全の為の戦いであり、侵略ではなかった」と発言して辞任した。平成6年永野茂門法相が「南京大虐殺はでっちあげだと思う」と発言、桜井新環境庁長官も「日本は侵略戦争をしようと思って戦ったのではないと」発言し共に辞任。平成7年江藤隆美総務長官がオフレコ懇談で、「植民地時代には日本が韓国にいいこともした」と発言したことが、韓国の東亜日報に報道され辞任に追い込まれた、ことなどが過去の記録に残されている。こういう言葉狩りのような更迭劇が繰り返され自虐思想から脱却出来ないのが自尊心を失った日本の現状である。それらの根拠となされているものが村山談話であり、河野談話であり、東京裁判史観にもとづいている。政府の公式見解や判断が綿密な検証や議論によって作られているとは思えないし、次々新事実や証拠なども出てきている。真の日本の歴史認識国家観は重大な問題である。田母神氏の投じられた一石はこのままでは終わらせたくはないし、日本の戦後歴史再確認の手がかりになってほしいものと思う。
2008.11.08
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航空幕僚長田母神(たのがみ)氏の更迭について「真の近現代史史観」という民間の懸賞論文で2300通の応募者の中から、審査の結果最優秀藤誠志賞というのが、航空幕僚長田母神俊雄氏に決定して、懸賞金300万円と全国アパホテル巡り招待券が与えられることになった。この審査のあり方について、235点の中から産経新聞の社内審査で20数点が選ばれ、この際には凡ての応募者の氏名は削除されて、第2次審査に入り最終段階で初めて氏名が明らかにされたということであった。公平に素直な審査員の声を反映していたものではなかろうか。私も読ませていただき何ともいえない爽やかな気持ちになった。これに対し朝日新聞では社説で自衛官の暴走であると怒りをあらわに大々的に取り上げていた。防衛大臣浜田氏や、麻生総理も現在の国会の状況から火種を大きくさせたくないという、本心かどうかわからないが、更迭か退職かという処置をとられた。現在の政治情勢から止むを得ない処置であるもしれないが、今や日本は自由な言論の国だとは云えなくなってしまった。中山文部大臣の発言にしても、田母神氏の発言にしても、自由に言えない国に成り下がってしまったのは残念である。政府は、こういう問題が出て来ると、壇上から「この紋所が解からぬか」式の封印のあり方である。この問題の根源は、日本の国家観が、戦後の自虐史観、東京裁判史観に基づいているという根本問題から来ている。今、日本は、経済、教育、生活的問題に喘ぐだけでなく、世界に生き抜いてゆくためにはどうしても越えて行かなければならない峠にさしかかったのであろう。田母神氏の論文はその糸口をつかんだものであると思う。田母神氏よ堂々と処分を受け国民の前に発表しその信念を貫いて欲しい。
2008.11.04
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明治維新140年と御社殿復興50年式典11月1日同上の招待を受け昇殿参拝をさせて頂く。現在の明治神宮御社殿は昭和20年3月14日、15日の大空襲に見舞われ本殿、拝殿は瞬く間に灰燼に帰し、更に5月に入ってからも空襲は激しく、同月24日には旧御殿、25日には貴賓館、26日には勅使殿、社務所など一切猛火の被災を受けた。その生き残りの大きな楠木は現在数本すくすくと天空に聳え立ち、何処にそんなことがあったのか当時のすざましさは浮かんでこない。空襲で永らえたものは、東、西、南、北の神門、回廊の一部、宝物殿、そして森林ということである。崇敬者等の努力により終戦後21年5月にはささやかな本殿と拝殿を備えた仮社殿を建設しここで礼拝をさせていただいていた。焼け跡から13年という年月を経て瑞々しく再生した明治神宮~和33年に遷座祭を行うことが出来てから、本年は御社殿復興50年目になり、更に明治維新140年の節目にもなるということで、今日は記念すべき祭典が行われた。第一部では、本殿での祭事の後、会場を明治神宮会館に移し、約1000名の参会者でぎっしりであった。木遣り(きやり)から幕が開かれ、「明治節」の歌斉唱、中嶋宮司により、今日までの神宮径過の式辞が述べられ、続いて各界代表の方々からは祝辞が述べられた。麻生内閣総理大臣からも祝電が披露された。崇敬者会員の明日への誓いの後、前名誉宮司外山氏による乾杯の音頭で式典は終了し、美味しい折りづめのお弁当による直会に入った。第2部の奉祝演奏は、「飛天遊」という林英哲という世界的有名な太鼓演奏者の披露と、作曲指揮者松下功氏指揮による東京芸大の小集団のアンサンブル発表の紹介で、夢遊の世界が繰り広げられた。これで凡ての式典は終了したが、参道途中にある文化会館方宝物展示室にも立ち寄り、明治天皇と維新の群像の特別展も拝観し、本を求めて帰途に着いた。新幹線は連休利用のためか物凄い混雑、熱海まで立ち詰め、家に着くとバタンキューという状態になった。
2008.11.02
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美術作品鑑賞に愈々秋たけなわ、青山迎賓館で娘がビーズアートジャパン大賞の入賞作品展があるのでるので見に来て欲しいという案内があった。それだけに出かけるのも親ばか三厘、蕎麦屋の風鈴と思われ気も引けたが、丁度東京国立博物館に大琳派展も開催されており、丁度かね合わせ鑑賞出来れば幸いなことと家内と出かけた。彼女の作品は、楽修フォーラム奨励賞という努力賞で、なかなかの出来映えと思われたが、写真撮影は一切厳禁なのでこのブログには載せられず残念である。686点出品中入選作品117点、佳作7点、フォーラム奨励賞7点、文部大臣大賞1点、金、銀、銅賞各1点ということなので、彼女の賞もかなりの名誉賞であったと思う。会場は次から次へと愛好者であふれ、これからの余暇利用学修の一環としてビーズ作品趣味は益々普及されてくるのではなかろうか。次の琳派展会場の上野はここから地下鉄銀座線で30分程で行ける。昼食にはインターネットで博物館敷地内の東洋館1階にレストランのあることを調べ、ラセールセット 2100円という、フランス式料理を戴いた。満腹充分、是非上野に行かれたとき田舎者には無駄なお金を使わずご利用あれ。琳派展は祝日、休日でもないのに続ぞくと入場者が列をなした。本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、乾山、酒井抱一などの展示目録を渡されたが説明書などはなく、受付でイヤホンの借用をした。イヤホンは飛び飛びの作品しか説明がなく、しかも解説の作品の前では人が群がり、身動きも出来ず、むしろイヤホンなしで作品を見たほうが、やっと画面がのぞかれる程度であった。まーこれだけのものを一堂に集め陳列できたということに感謝すべきことなのか、…文句を言っても仕方が無い。ただ日本にはこんな素晴らしい「琳派」というものがあったかと知っただけでも良いと思った。あの風神雷神の屏風絵の全体像を一つ見ただけで、ここで無ければ見られないものと満足して、後はどうでもよいと人ごみをぬぐい会場を廻り、出口に向かった。風神雷神はとにもかくにも圧倒する作品だった。実物を見なければその感動はわからないであろう。今回の琳派展はここで作品を味わうというか、鑑賞するどころではない。作品展のあり方運営については当局者に考えて欲しい大きな課題だと思う。しかしあの風神雷神などの大作は何処でも陳列できるものでなく、ここでしか見られない価値のあるもので、それ以上のことは望めない事に感謝して会場を去った。
2008.10.31
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静岡空港が来年3月に開港予定されていたのが、思わぬ「立ち木問題」が浮上して5月以降に変更されるばかりでなく、それの変更には更に1億円の費用も加算されることになったと云うのである。県は地権者の言い分との折り合いがつかず、滑走路を300メートルを短縮して、航空法に抵触しないように方針を変更して5月開港に間に合わせたいと石川知事は発表された。何としたことであろう。同様の事件が大阪府でも起きた。幼稚園が道路拡張の為に、幼稚園の園児が楽しみに作っていた野菜芋畑が強制撤去されて、父兄園児が取り壊せまいと乱闘する様子がテレビで映し出された。この場面だけを見ると、いかにも行政の暴力のように見える。が、既に前々から道路拡張の為にここは、立ち退きを命じられていた場所であって、橋本知事は1週間遅れただけでも12億の支出になり、止むを得ない処置であると園側に説明されていた。園長は泪ながらに園児の楽しみを奪う暴挙である。収穫が済むまで待てないのかと泪をためて裁判に訴えてもと権利を主張されていた。園長には幼児に最も大切な公的な教育を教えるべきよき機会を逸して残念なことである。幼児教育とは野菜を作ったり花を育てることも大事な一環ではあるが、道徳という基本的な心を教えることはより大事な使命だと思う。戦後は公より個ということに主眼を奪われ、国家国益よりも、民意を尊重し、権利を優先されるという考え方に傾いてしまった。それが民主主義の考え方のように受け止められているのではなかろうか。民主主義とは国家の基本であっても根底には天地の公道に基づく精神が流れていなくては理想とする民主主義にはならない筈である。国の庇護があって国民は生活の利便を受けている。自分達の都合ばかりを追求していてはどうなるのであろう。今日までの日本は多くの先人達の犠牲の上にたって現在の幸福が築かれて来たのである。行政も非道なことを求めている訳でも無い、多数の受益者の為に和解を優先させることがどうして素直に受け止められないのであろうか。戦後の強いい日本は「公」と「私」ということをわきまえなければ生まれてこない。
2008.10.24
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春秋に土用という言葉のあることを知らなかった。この歳になるまで知らなかったとは我ながら愚かしい、恥ずかしいことである。夏の「土用」、冬の「土用」という言葉は、夏、冬の最も暑い、最も寒い、季節なのだということで、日常生活に繋がっているし、直ぐに鰻、大寒という言葉さえ浮かびでてくるが、秋の土用、春の土用はお彼岸でもないし、余り意識することなく過ぎさってしまう為であろうか。調べてみると冬の土用は一月十七日、春の土用は四月十七日、夏の土用は七月十九日、秋の土用は十月二十日という事を今回初めて知った。今年の秋は三日と続く晴天の日はなかったが、今朝の富士山は裾野の方まで真っ青の美しい姿を全姿見せてくれた。頂に雪化粧をかぶり、和歌に詠まれる姿はこの姿なのであろう。千代に八千代に日本の国のしずめとしていつも大空に仰ぐ富士山のあの気高い姿、私達県民は最高の倖を戴いているのであろう。
2008.10.20
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暗い世相に気分の転換次から次へと思わぬことが出てくる。頭の中も混乱し何から取り上げてよいのか手の着けようも無いが、昨日は孫の保育園の運動会に気分転換、出かけることを楽しみにしていた。が、夜半からあいにく雨になり、あ~とうらめしくも思ったが、総合運動場をお借りすることになっていたので何とかなるさと思っていたところ、急遽電話連絡が入り、開会時間を遅らし、体育館で開催することになったという知らせがあった。午前の部の競技的運動会は出来なくなったが、遊戯を中心とした遊びや、踊り、ゲーム、親子が一緒に楽しむという競技に変更されて始まっていた。体育館では転んでも痛くないし泥になることもなく乳幼児には思い切って活動できる嬉しいことである。職員のチームワーク、保母と子供との溶け合い、更に両親子供が一体となって遊びながら競技を楽しむ様子は、和やかであった。最後は年長さんの組体操や、全員リレーで運動会を終了したが、折角写真を撮りながらも未熟でブログに載せられないのは残念である。翌日富士私立博物館で『映像に残された富士』という題で、昭和10年代の田子浦小学校、富士高等女学校(現吉原高女)、富士中(現富士高校)の9・5ミリの貴重な記録映画(無声)を見させていただいた。「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉があるが、運動会もまさしくこれと同じ、田子浦小学校の運動会に出る子供達の服装、中にはハダシで走る子供もあったり、国旗を持っての行進はその時代を反映したものなのであろう。富士女学校の場合はナギナタの演舞が目を引いた。勇ましく見ごたえのあるものであった。当時の服装は袴のようなモンペのようなもので、ダンスをしたり、バスケットボール、幅跳びなど今と同じ競技が当時も行われていた。富士中では、この頃既に体操の中に軍事教練が取り入れられ、分列行進があったり、小銃(38銃)を担ぎ、軽機関銃も持ち出され、空砲を撃つ射撃なども披露された。私はこの年代に学生生活を送ったので懐かしく当時の思い出が眼前に浮かんできた。この映画の上映は十二月二十一日まで行われ、どういう径過で今日のスポーツに進展してきているのか流れもよく判る。是非ご覧頂きたいと思う。水泳は当時、現在のプールなども無く海の中に綱を張って舟で周りを囲みプールとして試合をされていた。オリンッピク選手の小池礼三などもこの映像に出て来ていた。保育園から小、中、高生までの生活の様子、運動会の時代の流れなど、長生きしたお陰で色々の世界を眺めさせていただいた。歴史は人生を豊かにしてくれた。
2008.10.12
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我が家の庭は100坪チョッとだが、一年に2回ぐらい植木屋さんに入ってもらっていた。年金生活者となると家計にも影響し大変なので、数を減らし私が素人植木屋になった。今までは梯子に登るのも怖く感じなかったが、最近では体のバランスが取れなくなり、怪我でもしてはと思い高いところは本職に頼むことにした。素人の浅ましさ、一昨年松ノ木に毛虫がつき、消毒が強すぎて毛虫どころか、木を殺してしまった。松の葉が枯れ果て見るも無残になり、消毒が強すぎた為だと解かったが、目をつぶって、枯れるだけ枯れろと、ひどいところは枝を落として我慢した。土を生かすしかないと手当てをしたお陰で、根まで死ななかったせいか、今年は新芽が出てくれた。その新芽を伸び放題に伸ばし、その横からでてきた更なる新芽を生かし選定すると、少しは見られるよになってくれた。今年は雨が多いせいか雑草の伸びもひどく、一周する間もなく次から次へと雑草がでて、芝生の間の雑草などは取りきれず、頭から芝刈り機でかって見栄えだけをよくして済ました。お天気の暑いときには天をうらみ、日が翳ったときを見はかり庭に出た。それでも少しは見られる庭になってくれた。やっぱり植木屋さんは暑さ寒さに関係なく大変だったことが思い知らされた。職業となると私には務まる仕事ではない。が、本職でなくてもその都度手入れをすればいつも美しい庭で眺めることが出来るものを、何事も愛情をかけることが大事なんだと反省させられた。植木もその家の隆盛を現す尺度になるといわれている。これからは見苦しくないように気をつけていこう。
2008.10.04
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物言えば唇寒し秋の風自分が正しいと信念をもって思ったことを堂々と、地位名誉に囚われずいえることは真の侍である。今回中山氏の発言に対して私は溜飲が下がった。成田空港の問題を、ゴネドクといったことは正しくその通りであろう。私自身もそう思っていた。1~2の1坪地権者といわれるものが、国がどのように説得し対応を図られても、理屈をこねて物凄い抵抗を示したのは、未だに瞼に浮かんでくる。その時、あ~ 戦後社会の人権、権利とは怖ろしいものだと思った。国家国益というものは彼らには全く関係のないものと受け止められていたようだった。当時教育界にも反国家的あり方が正しいと受け止められていたのであろうか、君が代、国旗掲揚も廃止され、日教組はスローガンの下に、、授業より政治活動に熱心に取り組まれていたように思えた。それらのことを踏まえて今回中山氏が、たまたま日教組の子供は成績が悪くても先生になれるとか、日本は単一民族といった言葉尻が大きく取り上げられた。中山氏の言葉足らずの説明不足もあったと思うが、その趣旨については、穏やかに聞けば理解できる筈である。一部の記者が中山氏の発言を聞けないように押しつぶし、騒ぎ立てるあり方は全く卑怯である。9月29日の偏りの少ない「産経新聞の辞任会見一問一答」を、何処に責めるべき問題があるのかじっくり冷静に読んで欲しいと思った。どの新聞も頭から中山氏つぶしにかかっていた。野党、与党の中でも色々複雑な事情により、そうだとは思っていても、あからさまにいえない弱さがある。その中で、孤軍奮闘立ち向かった彼の一石は日本覚醒に大きな意味を持っ投石だと思う。中山氏よ頑張れ。
2008.09.29
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世の中の動き先日自民党総裁選の結果麻生氏を新総裁と決定し、続いて臨時国会で麻生氏が首相に任命された。麻生氏小沢氏それぞれが自民、民主の総裁選に立候補されたときの所信表明を聞かれてどう思われたであろうか。率直のところ私には麻生氏には、やる気と希望が感じられたが、小沢氏は体調のせいか、声もかすれ、原稿を読みながらも私の理解力の弱いせいか、言っている事が、さっぱり解からなかった。小沢氏は施政の問題点の対応に対し、だだ政権交代によってのみ解決すると云うことに終始されていた。これに対するテレビや、各新聞記者たちの批判は本質について語られることなく、阿部、福田両氏の政権の投げ出しを卑怯と取り上げ、現在の不況、行き詰まりは、自民の政策の無責任にあるという不満の声を多く取り上げて、中立公正を欠く報道のあり方のように感じられた。社会は日常の不満を騒ぎ立てるあり方に組し易く思えて残念である。また新大臣の顔ぶれを見ると世襲議員の多いことをプレジデント内閣だと揶揄していた。家の職業化につながるようなものだとか、お友達内閣だと云うのである。私は家業は受け継がれてこそむしろ前進が見られるのではなかろうか。新人の参入することも大事であるが、両親祖父母等の関心のある意思を受け継ぎ、これを政治の世界にも生かすという世襲は悪いことではないであろう。政治に対して権力の集中化を恐れての批判なのだと思うが、それは本人の道義理念の持ち方である。それは制度の対応で解決出来る問題である。枝を切りすぎて木を殺すという喩もある。元も子も殺しては何にもならない。よき人材は得がたい。アメリカでもマケイン氏とオバマ氏が凌ぎを削り、北朝鮮では金正日が倒れ後継者で内部闘争が行われているという噂がある。天変ばかりでなく世界も今大きく転換している。感じざるを得ないのは、私一人ではなかろう。
2008.09.25
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数日後に行われる自民党党首総裁選へのテレビ放談を聞き今日から彼岸の入り、昨夜の台風も一時激しい雨音を聞いたが穏やかな朝を迎えた。定刻に目が覚め、土曜日ということで布団の中でじっくりと静岡第一テレビ(4チャンネル)の政見放送に耳を傾けた。5人の候補者、石原、小池、麻生、石破、与謝野氏に対し、コメンテーターの辛坊、岩田氏が主張される各候補者の見解について回答を浴びせるという形で進められた。5人の方々はそれぞれの理念とする事を主張されたが、5人とも一貫して貫いている思想は国家国民ということをベースにおいての政見であり、全員が一致されている。素晴らしいことだと思った。従来の政見放送はいつも野党の、利益誘導の、細かい汚点を鬼の首でも取ったかのように弁舌をまくし立て、筋道の通った論理と、財政の裏づけの無い対策を良しとし、反対意見には民意無視として切捨て、政見交代を唯一の対応として取り上げている。自民党にも制度疲労と思われる点は確かにあり、民主党にも交代してもらいたいと思う気持ちも起こらない訳ではない。が、一部改正は、政権交代でなければ出来ないことではなく、両者の協調により出来ることであり、むしろ小沢さんの一党独裁的理念には従来の理念とは隔たりがあり、安心して国家を任せる気にはなれない。最近では数の論理で、議会は一人でも多くの議員数を獲得しなければならないということか、顔の知れたタレント議員を引っ張り出して選挙に勝うと言う魂胆が見え見えである。候補に上げられる人も売名的行為を利用したいというのであろうか。まさかと思うような人が顔を並べられていた。今日の5人の候補者はどなたが総理になっても可笑しくない人たちである。吾が日本にはこんなにも素晴らしい方々が潜んでおられるかとつくづく将来が頼もしく思われた。明日への日本に自信を持とうではないか。
2008.09.20
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ご立派な人が沢山居られる敬老の日を迎えた。私自身が老人なのに今朝は国旗を出した。皆さんから祝ってもらいたいという魂胆ではない。今日まで来た感謝を国家のお陰という気持ちと、まだ元気でいる明かしを皆さんにも喜んで貰いたいと思ったからである。今朝のNHK百歳万歳に紹介された方は百歳を越えられた方々でありながら、砲丸投げに世界記録を出されたり、女性の方で物凄いタッチで演奏されたり、英語会話を自由にしゃべられたり、若く美しく、それはそれは、こんなお元気な方々が居られようとは驚きの一言で、その方々の生活が偲ばれた。いずれの方も特別な生活ではなく、いきばらず、前向きに希望を持って長く続けられたということがその証(あかし)の言葉であった。簡単な事であっても続けることは素晴らしいことである。しかしそれが出来るのは意思の力を強く持った事であろう。大相撲も昨日から始まった。相撲界の度重なる不祥事は凡て相撲協会の責任であるという新理事長の挨拶に、漸く日本の大相撲の本来の姿が取り戻せる期待が持てるようになった。その手始めは土俵上の手つきからであろう。相手の隙を見て手を突かないで自分の瞬間で立ち上がる。勝っても相撲道に適っていない。相撲は仕切りで腰を下ろし手をついて立ち上がる、というのが基本である。相手と合わせて手をつく、自分だけは手を下ろし相手構わずてさっさと戻るなんていうことは正道ではない。戦前には一つ一つの動作がとても厳しかったが、戦後こういう伝統が大衆化の為か段々崩されてしまった。勝った時飛び上がったりすることも慎みが無いと戒められ、塩をまき、うがいをする事にも厳しい作法が訓練された。そこに相撲道の美しさがあった。今は奇矯な行動で人気を集めることを好ましいとする受け止める方に時代が変わってしまった。大麻を吸って解雇をされた若ノ鵬が言葉で謝罪はしても、解雇は不当だとして脅しにかけるように裁判に訴えたり、露鵬や白露山も検査の結果、普通の10倍も5倍もの麻薬の数値が示されていながら証拠が出なければ吸っていないと言い張る。ロシア人独特の駆け引きの強さ、人好しの日本人はいつも彼らの押しに辟易させられてしまう。正か不当かはむしろ彼らが判定を覆すだけの科学的結果を示されてから云うべき言葉であろう。相撲界にこういう問題のでてきたのも本来の相撲道精神を取り戻すべき神の恩寵と受け止めたい。
2008.09.15
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世の中の動き日々思いがけぬ事件が次から次へと家庭においても社会においても起こっている。日本ではよく挨拶語にお変わりありませんかと、慣用語として使われているが、これなども煎じ詰めればおかしな言葉になる。人間、日々変わってゆくことが肉体にしても当たり前なのに、お変わりありませんかと尋ねることも異常であろう。もっと適当な言葉が無いかと思ってみるが、なかなかいい言葉が浮かんでこない。天候の激変ばかりでなく、福田首相の突然の辞任、続く総裁選が話題を賑わしている今日、金正日総書記の脳梗塞か、脳溢血かという報道が流れてきた。閉塞されたままの拉致問題がどうすれば進展出来るのであろうか、何ともいえぬ歯がゆさを感じていたが、喉のとげが見えるところまで来たような感じがする。世界の動きは遅々として見えるが、地球温暖化だけでなく、経済に、テロ問題に、アメリカの行動に、またロシアの近隣諸国への干渉問題、ヨーロッパ、近東、アフリカ、何処の国にもひそむ理不尽な人間関係の活動を、是正させるべく神の光があてられる時期になってきた現われであろう。地球はまさしく廻っている。ガリレオの言葉。先日(9月4日)の福田総理のインターネットメールマガジンに次の言葉が載せられていた。『有難うございました。』(一部抜粋)日本の故人の言葉に「永遠の今」という表現があります。「過去のものは古いとさげすみ、今のものは新しいと「め」でる。、しかし今の新しさが、真に新しければ、その新しさは必ず時間を貫いて何時までも新しい」一万年前の人類は、今と全く同じ太陽を見ています。海辺に打ち寄せる波は一つとして古いものは無く、常に新しい波です。千数百年前の日本人と、今の日本人は、今も昔も変わることの無い、常に新しい伊勢神宮を見ています。太陽と海と伊勢神宮、この三つは、宇宙、自然、人が創ったもの、この違いはありますが、永遠の今です。』…と取り上げていた。一部の抜粋でもあり、言葉足らずの難しい表現なので何を云いたいのかよく判らないところもあるが、真理は永遠に時間を貫いて変わらない。ということを伝えたい、と云う意味であろうかと、私なりに解釈したが、間違いであればお許し戴きたい。
2008.09.11
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首相とは命を削るに等しい仕事ではなかろうか。福田首相の辞任表明を聞いたとき思わずご苦労であったという言葉が出てきた。野党さんやテレビのキャスター達は「無責任」だという言葉を浴びせかけていた。福田首相は現在の政局のあり方について、何でも、かんでも反対というねじれ国会に、身を削るような思いで取り組み、洞爺湖会議、オリンピックなどの対応には彼なりの全力投球を私は垣間見た思いがする。遅かれ早かれ自身の力の限界を感じ、これからの更なる困難な政治状況、国内だけでなく、外交問題、インド洋給油問題なども控え、いかなる対応をとるべきか熟慮の上、内閣改造による次へのバトンタッチの手続きとり、退陣という道をを選ばれたのではなかろうか。野党側にしてみれば青天の霹靂、政権交代のいいチャンス、無責任な言葉は何とでも言える。首相という国家の大任を任せられた身にはさぞ苦しかったであろう。お慰めしてあげたい。前阿部首相も同じ思いであったことが偲ばれる。日本の将来の展望を開くためにはよき時期を選んで衆院解散の道を選ばざるを得ないであろう。私達は第三者的存在ではなく、この国を本当に動かしているものはむしろ私達の行動なのだという自覚を持って、リーダー達の声に耳を傾けようではないか。
2008.09.03
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家庭における再確認九月1日は県下一斉防災訓練が行われる。地域地域によってそれぞれのあり方が違うと思うが、形式的になっているところが多い。また熱心に行っているところもそれぞれの事情を抱えているところだと思うが…。機材を整えたり、放水訓練をしたり、テントを組み立てたり、炊き出をしたり、看護の包帯巻きや、人工呼吸の指導をされたりしているところが多いようであるが、それらの訓練は、戦後社会当時の訓練様式を、そのまま引きずっている事のように思える。現実にはそういう官僚の机上計画訓練を多くの町内会では訓練だと意義付けされているように思え余り改革が見られない。今瞬間に大地震が起こったときの対応をどうするか、そういう訓練にむしろおもきを置き、対応を指導されるところは少ない。非難場所はこちらですよと、旗を持って行列して歩く訓練を見ると噴出したくなる。火事とか山崩れとか水害の被害のある地域は、日頃避難場所の確認をさせることは大切であるが、多くの家庭は家の廻りとか、安全な場所に一時的に退避させればいいのであろう。耐震建築に出来ている建物にはむしろ外に出るよりよりも、落下物の無いところに身を伏せる、その方が安全であるように思える。盗難の心配もないし、眼目は第一に火災の発生を起こさせない対応の訓練、火消しの処置などは確認させる必要はある。そういう現実的な訓練、飛び出すときの注意などを、指導することの方が町内会での担当者の指導であると思う。この日には備蓄水の入れ替え、確認、保存食、電池、身の回り日用品などの点検ということで家庭での訓練は終わりでいいのでなかろうか。富士市は富士山という火山を抱えている。大地震の崩れ、噴火などや同時に津波など起こったらどういうことになるであろうか。身一つで逃げ惑うということも起こりかねない。世の中何時どういうときにどうあるべきか、折角用意した避難用の物質も役に立たない場合もありうる。そういう運命の日の起こらないことを祈ると共に、人事を尽くして天命を待つ。先ず生きのびることである。命あれば人間は再起できる。治(ち)にいて乱を忘れず、無意識的に体が反応出来るように訓練、自覚を持つことが大切な訓練ではなかろうか。
2008.09.01
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無事にオリンピックの閉会を迎えたことを祝う今回の北京オリンピック大会は開幕前から様々な問題を抱えていたが、最後の男子マラソンの競技を締めくくりとして無事終了できたことは、勝敗の結果は別として、何よりも成功であった事を素直に喜びたい。日本の選手も、色々の課題を善処して努力されてりいる様子は、各分野のメダル獲得にも表われていたように思う。今朝の産経新聞に、日本の野球が負けたことについて、星野氏は「申し訳ない」の一言で多くを語らなかったが、産経新聞ではその経緯を詳しく説明されていた。是非多くの方にこの記事を読んで頂きたいと思う。例えば野球に関することに、日本の審判ならば当然ストライクをとっていたものが、ボールに判定されていることの多さに不思議に思ったが、それは国際試合様式に変更しているためだそうで、ストライクゾーンの違いや、使用球の違いなどが大きく作用されていたことなどを知らされた。選手に罪はない。ミスも含めて凡て私の責任である。日本の古武士を思わせる星野氏の態度にはエールを送りたい。色々問題を持っている五輪大会での野球は2012年ロンドン大会の競技から外されるということのようである。オリンピックは経済発展の起爆剤として、また国威掲揚の場として、各国とも招致活動に死力をかけて活動しているが、スポーツ本来の純粋性を失わずに、公正と、友愛の場、国際平和維持機能の目的をも果たせるような五輪大会であることを願いたい。
2008.08.24
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「秋の訪れが来た」今年の夏は異常に暑かった。まだ数日この暑さは続くものと思っていたが、カレンダーを見ると「処暑」となっていた。季節の流れには大きな狂いは無い。「処暑」とは日常余り使われていない言葉なのでつい意識していなかったが、八月23日を意味する暦の言葉で、この日を境にして朝夕冷気が加わってくると云われている様に、朝方はいつの間にか布団を肩まで掛けていた。古今和歌集に 藤原敏行の、秋を感じさせる歌が無意識的に浮かんできた。「秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」目には秋が来たようには見えないが、周りの風物にも変化は見えないが、風の音からすると、もう秋なんだな~、という日本人の情感、~高齢者の方々よ、体をという歌だそうで、しみじみとして秋を感じさせられる。北京オリンピックはもう数日で終わりとなる。あっという間に一ヶ月が経ち、なんだか寂しさの余韻が残る。今回のオリンッピクは初めから終わりまで激動のオリンピックであった。勝つべきものが必ずしも勝てず、勝ちを意識していなかったものが金メダルを得たり、様々な人生ドラマが繰り広げられた。昨日、今日と、メダルを逃した野球には残念だったが、敗軍の将、兵を語らず……。星野監督、「申し訳ありません」と、凡ての責任は私にあると、言外に示された態度は立派であった。私達は同様な場面にぶつかることが多々有るかも知れない。他山の石として学んで行きたい。
2008.08.23
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時代は変わった日本のお家芸といわれた柔道がオリンピックに登場するようになってから、日本の柔道らしさが無くなってしまった。姿三四郎や、三船十段のように神業(かみわざ)を思わせるような柔道ではなく、レスリング化してしまっている。組み手ばかりに拘泥(こうでい)して、全く面白くない。審判員は両者の動きが止まると、すぐに「まて」をいい、指導、警告を掛けたりする。これでは、これからという活動や技が生まれてこない。しゃにむに前へ前へという動きがないと警告減点をとる。レスリング式である。柔道には呼吸が大切で呼吸の取り方や間(ま)で技も決まり、立ち技一本が生まれる。今は組み手ばかりを勝負のかけひきとするから試合の大半の時間がそれにとられてしまう。投げ技があり、固め技があって、見るものにもそのよさや楽しさがわかる。今の審判員は直ぐに手をぐるぐる回し、指導、警告である。試合の両者もあっけにとられてしまうであろう。柔道は日本で生まれた格闘技で、基本は日本式のルールを主体に創られた判定基準でなければ柔道とはいえないと思う。それが審判員にはっきりしていないし、国際化の為に西洋式になってしまっている。剣道でも弓道でも武道は形を大切にして、崩せないものがその中にはある。金メタル保持者の谷亮子、日本選手団主将の鈴木啓治氏も緒に(しょ)に就かない中に破れてしまった。一瞬の隙であったのかもしれない。しかし両氏とも苦しい柔道界の判定の中で永年よく頑張ってこられた。今回責任でもとられるような形で自ら柔道界から去られるような発言がが漏らされた。オリンピックの輝かしい舞台の上で彼等の目の覚めるような演武を披露させる機会が無かったことが惜しまれる。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花は花なれ 人は人なれ」これは有名な細川ガラシャ婦人の辞世の句である。花も散るべきときがある。風に誘われて散るときが一番美しい。人も死ぬべき時期を知って自らの運命を捧げる人が同様に美しい。といわれているが………この句を両氏に捧げ今までの並々ならぬご努力にお応えしたいと思う。今のオリンピックで行われている柔道は組み手をいやがり、足を取ったり、襟を取らせないようにしたり、蒙古式の相撲と思わせるやり方で、レスリング式柔道といったほうが相応しいのではなかろうか。今後柔道という名称を存続させるならばむしろ、西洋式柔道と日本式柔道との二本立てにしたらいかがであろう。オリンピックにおける柔道競技のあり方を今後是非改正して欲しいと望むものである。
2008.08.15
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常葉菊川の優勝なるか?北京オリンピック開催と重なって夏の甲子園大会が始まった。地元の高校が出場出来るかどうかはこの大会に寄せる期待が各県共に血を沸かせることであろう。わが静岡県では数年前までは野球王国と云われながら、1回戦で敗退することが多く、なかなかその壁を破ることが出来なかった。が、西部地区が力をつけ、1昨年は常葉菊川が全国大会に優勝出来るまでになり、静岡県民は溜飲を下げさせて貰えた。甲子園での優勝校となるには、バティングもさることながら、ピッチャーに左右され、試合数に対して、投手数を複数持たなければ体力的にも無理であろう。しかしそういう条件に恵まれる高校は少ないであろうし、伝統のある名門校に偏ってしまう。学校の名声を上げるためには、各学校とも選手獲得に色々の問題が発生してしまうことは残念であるが、公立高校でこれまで見事優勝した高校は沢山あった。技術の優れた体力のあるピッチャー、卓越したバッターをそろえてもそのまま優勝には必ずしも結びつくものではない。巨人はそのいい例ではなかろうか。特に高校野球では基本をしっかりと身につけ、監督の下、それぞれが一致団結出来るところにその鍵があると思うし、人間育成が根本目的であることを指導者は忘れないで欲しい。この灼熱の炎天下、死に物狂いで集中する健児、喜びの涙、悔やしみの涙、勝っても、負けても、苦難に耐えて努力してきた姿は、見るものの魂までが感動で揺り動かされる。これこそが高校野球の真骨頂であろう。常葉菊川よ、連勝は至難の業である。全力を尽くされることを祈る。
2008.08.09
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維新史に学ぶ毎週日曜日の夜8時から放映される大河ドラマ篤姫には生きた明治史をを見るような感じがする。私は戦後大学で「河北展生」氏による幕末史を学んだことがあるが、内容が複雑で流れをつかむには大変苦労した。ところが「宮崎あおい」の演技は何と素晴らしいことか、篤姫と幾島とのやり取りは、言葉を交わさなくても表情の中に、言わんとするところが、見るものの気持ちの中に伝わってくる。唸(うな)ってしまう。次の週の土曜日の午後にはその同じ場面が繰り返されるので、一層よく流れがつかみ取れる。間もなく安政の大獄の場面も出てくるであろう。見ものである。大奥の女官の生活、家定を取り巻く政治上の葛藤などは教科書には載ってこないことである。が、こういうテレビでの勉強の仕方であれば日本の歴史は楽しく勉強することが出来るであろう。鎖国の夢を破られて西欧文明を僅か半世紀の間に仲間入りすることが出来た変革の歴史を維新史と呼んでいる。大政奉還、明治政府の成立、日本の近代化など、ここを通って私達の今日に繋がっている。現代史の一番大事な勉強ではないかと思う。この勉強の素材として原作者「宮尾登美子」氏の天璋院篤姫は素晴らしい著書である、上巻、下巻、それぞれ700円足らずの本であるが、是非関心をもたれている方には読んで頂きたいと思う。
2008.08.08
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少年達は何故異常犯行に走るのか。最近の目を引く事件として次々社会を侵害させるような少年犯罪が伝染している。その理由には、学級に不満を持ったとか、友人から阻害されたとか、遊ぶお金が欲しいとか、子供を巡る様々な問題が取り上げられている。その対応追求に、家庭が悪い、社会が悪い、学校教育が悪いと取り沙汰されている。勿論それぞれに問題はあろうが、私はそれらの複合的責任だと思っているが、その中でも一番の元凶は学校教育にあったのではなかろうかと敢えて言いたい。大方の父兄は家庭教育を一番に取り上げられていたが、私は学校教育の是正こそ最重要課題であると思う。何となれば、まともな家庭を作れないような親を、60年間もかかって作りあげてきた現在の教育のあり方をどのように思われているのであろうか。学校教育基本法の第1条には「人格の完成を目指し…国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民」を、教育の目的として取り上げている。にもかかわらず、その大事な点は全く疎かにされ、野球に勝つとか、音楽コンクールに優勝するとか、有名大学に進学するとかばかりを、大きな価値観に置かれ取り上げられている。鶏が先か卵が先かと争う訳ではないが、家庭教育が最も大切であることは言うまでもない。が、戦前には家庭教育というのは養護と、人間として生きて行く基本をしつける教育の場であった。その機能は「安らぎ」の場、「憩いの場」になって人間形成がなされていた。ところが戦後は経済成長利益追従ばかりに心を奪われ、夫婦共働きなどや、小家族構成になり、その機能が果たせなくなってしまった。今の社会の中枢を握っている大人たちは戦後教育に麻酔され、過去の日本を侵略国家という暗いイメージに洗脳された人たちである。学校教育の重大な責任はここにある。学校は教育のための国家の唯一の専門機関で、初等、中等教育は義務化され大きなウエイトと責任が置かれている。ところが、戦後の教育観ではマッカサーの指令により、日本を再起させないようにする為の政策のため、愛国心は潰され、道徳教育や、勤勉努力、競争心などは軍国思想に繋がるものとみなされ阻害されてしまった。善悪の価値観や道徳観さへ強制させてはいけない、これらは子供の自主性や個人の権利を剥奪するものだとゆがめられ教育されていた。講和条約成立後もそのまま修復されること無く今日まできてしまったのが現在までの状況であろう。言い過ぎかもしれないが、学問の進化と西欧化されるところに、日本の繁栄が築かれ、民主主義社会が生まれるという戦後の考え方が、教育界のテーゼになっているのではなかろうか。現在の凶悪犯罪、不登校、ニート、フリーター、これらの問題の何処から解決の糸口を見つければいいのであろうか。小手先の緊急的法整備もドロボーを見つけて縄(なわ)を綯(な)うにも等しいものである。折角出来た新教育改革基本法にもイチャモンばかりをつけて、十分とはいえないまでも、この基本法を教育の現場で取り組むことが出来れば、即効薬とはいえないまでもかなりの成果は期待できるであろう。更に今回の新教育改革法に盛り込むこむことの出来なかった愛国心、教育勅語の導入、宗教教育(特定のものでなく)が取り入れられれば、世界に羽ばたける再生日本の大きな方向転換になれる筈ある。頂門の一針(チョウモンノイッシン)として教育に当たられる方々に受け止めていただければ嬉しいことである。
2008.07.18
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猛暑来るまだ2~3日続くと思われた天候も梅雨明けになったのであろうか?、全く激しい気候の変動で、天候ばかりでなく、ガソリンの値上げや食料の値上げなども不況をあおり、なんだか世の中戦々恐々とした感じがする。特別に何もかもひっくり返ったわけではない。一時的の現象で暫く時間が経てばまた復帰するのが世の中の今までの流れだと私は思っている。真夏と同時に開幕するのが高校野球、五輪大会の各種のスポーツが始まる。われ吾の力ではどうにもならない拉致の進展問題や、暗いニュースから目を転じ、スポーツへの情熱と感動の力を貰いうけ、各自の負い持つ生業に努力して行こうではありませんか。暑中見舞いをかねて。
2008.07.13
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アメリカ依存の悲しさ洞爺湖サミットにおいて、日本は拉致問題解決の糸口を福田首相に期待していたが、中国から横槍が入り、この問題は北朝鮮と日本の二国家間の話合いとして、核問題廃絶が主要議題で、今回の話題から外すことを提案されてきた。ブッシュとしては、拉致を忘れはしないといいながらも、渡りに舟で、六者会議をまとめるには好都合になるであろうし、中国はしてやったりである。どういう方向に進むであろうか、日本は、北朝鮮にどういう対応をとるであろうか。いつもの再調査の繰り返しでは何としてもやりきれない。国連の言われるように平和とか、隣人を愛する仏様のような気持ちでいてもドロボーは何時進入するかも解らないし、テロを防ぐことは出来ない。憲法第9条は自国を自国で守ることが出来ない悲しさがここにある。アフリカの未開発民族といわれる人たちにも、強い同属意識があってお互いが統一意思の下、物が無くても支えあって強く生きている。それが日本では一部の学者、政治家、国民の中にも自分の置かれた立場の利害に主義主張を置いたり、直接自分には関係の無いように思われている人もいる。何のための教育を国家はしてきているのかわからない。その為に日本人が国家観を失ってしまったといいたい。日本人の国家観なるものは、伝統美風、歴史観、道徳観、大きく言えば、日本人に受け継がれてきた武士道精神とか、仏教、儒教、などによって教えられてきた宗教観、それらが渾然となって今日の日本人のアイディンティティとなって創られていたのである。外国に見られるような個人の利益を追求し創られた社会契約の国家理念とか、独裁者の都合によって創られてはいない。日本人の心の中には大自然を愛し、人道を踏まえた哲理が流れている。これが日本人の本質である愛国心であると思う。基本的には家庭内での教育で戦前には育てられてきたものが、戦後家庭は核家族化されてしまった。第二次世界大戦によって日本を恐れたアメリカは戦後において、日本精神を根底から潰すために、左翼的自由主義思想を蔓延させ、敬神愛国の思想を潰し、個人の権利を優先させ、自由を履き違えた悪平等主義や、社会主義を可笑しいと感じさせなくさせてしまった。遅まきながらその過ちに気付いては来たものの、平和ボケ経済生活に酔わされているため良心を失い瀕死の重傷となってきてしまった。憲法改正とか、国家観の確立という事は、真に日本を世界国家の一員たらしめる大使命でもあり、拉致問題解決についても、しっかりした国家観、命をかけて運命を共にする大政治家が出現しなければ解決できない問題ではなかろうか。
2008.07.04
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晴耕雨読「せいこううどく」という言葉があるが、この梅雨時、雨が上がれば体の方がじっとしていられない。庭の雑草採りや細かい雑用が目に付き、読みたい本もテレビにも集中できない。が、今日の日曜日は雨のお陰で一日中テレビに吸いつけられた。フジテレビの7:30分の報道2001を聞き、アメリカの拉致問題に対する緩和対応の変化は気になる。日本は拉致問題解決なくしては絶対にテロ支援国家解除の方向は許せないことをもっと強く主張して貰いたい。この後、桑田眞澄の一代記の放送があった。桑田について、今まで多くは知らなかったが、波乱万丈の彼の生き方、清原との出会い、人生観など、PL教団の信者であるということは聞いていたが、彼は背後に何時も神に守られているという信念、母親を喜ばしてやりたいという気持ちなど、思わず泪が出てきた。彼はこれからの日本の野球界を背負ってリーダーになっていただきたい人であり、同時に彼によって、真の戦後の日本の学生野球が創られるのではないかと力強く思えた。次に開運なんでも鑑定団を見る。中島誠之助さんも何と素晴らしい方であろうか。彼も生きた学問を身につけられ、威張らず、相手を見下さず、知識の豊富さは、鑑定名誉博士、芸術院会員の称号を与えて欲しい方であると思う。あ~現代の日本にはこんなも素晴らしい方たちが次々と誕生していたのであったとは。テレビ等でチラチラした人ばかりしか目立たない中にあって、これからの日本の指導的立場になる人を神は私に見せてくれたのであろうか。2:05分からはプロ野球セパ交流戦、続いて5:30分から世界遺産の再放送を見る。世界遺産の放映も、また素晴らしい記録で普段なかなか見られないのが残念に思えた。続いて女子バレーワールドグランプリ「日本対アメリカ」との対戦、同じ時間帯にワールドサッカー戦、またプロ野球巨人対ソフトバンク戦が行われ、いっぺんに見るわけに行かず、女子バレーを集中して見ることにした。 日本は惜しくもアメリカに敗れたが、私は竹下芳江のプレーには頭が下がった。あの小さな体でどんな玉にも死力を尽して取り組んで行く。淡々としてベストを尽す姿には感激に打たれ思わずこれにも泪がでた。若い方々の中にこんなも素晴らしい方達が、次々と戦後誕生していようとは、日本の未来が輝いてきた。続いて篤姫の放映、バレーも完全に終わりにはならないが、チャンネルを切り返しては見る。篤姫も段々佳境に入ってきた。幕末開港の動乱の激しい時代の動きを、テレビで現すには複雑で理解の難しい場面もあるが、篤姫になられた「宮崎あおい」の演技はなんという名優であろうか、あの純粋さ、挙措動作、応対の言葉、家定の奇矯とも言える行動に対しての取り交わし、現実の場面を髣髴させる思いがする。このドラマは近年にない名作で、NHKも汚名を取り戻した感じがする。ともあれ私には晴耕雨読を満喫した一日であった。
2008.06.23
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なんとしたことであろう自暴自棄的な行動から白昼何の関係も罪も無い人を殺傷するとは、普通の常識では考えられないことである。段々捜査が進められて行くと、インターネットで事件を予告したり、サバイバルナイフを福井県まで買いに行ったりしている。人間には万物の霊長といわれながらも、意馬心猿といって、突発的に暴れ馬や野猿のような一面も持っている。人の一生には個人の上でも社会の上でも思い設けぬことが起きてくるものである。が、これらをかみ合わせ、新聞テレビ、コメンテーターなどは様々な報道が伝えられている。この青年の自己顕示欲の性格、支えてくれる環境や、友人がいなかった、会社に不満があったこと、社会はそれらに対応してくれていないこと等々を取り上げられていたが、確かにその通りのことはあったであろう。だからといって社会全体が悪いんだとはいえないし、彼の行動を正当化することは許せない。まだまだ劣悪な環境の中に育てられても立派な青年達は沢山いる。その結果の違いは何処から生まれて来たのであろう。やはり一番の問題は教育のあり方ではなかろうか。若者の自由権利の主張… 自由とはある制約の中にあって与えられるものである。何でも自由なものではないということが自覚されていない。自分は人生が解らなくなったとか、社会が悪いからだとか、自己を中心として周りを殺してしまえばよくなるんだという短絡的考え方、これが短大卒業程度の考え方とは~。あーなんという幼い考え方であろう。しかも彼の父親は教育者であったという。彼の父にも責任の一端はある。一番基本的な心の教育を忘れて、形骸的な知識の注入、それが高等教育であるというう教育の錯覚。これが戦後の日本の教育界を支配している現状ではなかろうか。今回の事件はそれらがもたらしたひずみであるともいえる。教育者は何を教えるべきであるか、専門的なことを教えることは大事ではある。しかし人間としての人格の形成の上に、知識が生かされ初めてその目的が達成されるものであろう。このことの抜けているのが戦後の日本の教育基本法になっていた。内と外との関係。テロ行為、それを悪と思えない人間性の喪失。悲しいことである。凡てそれらは唯物教育を中心とした戦後の教育の弊害といえるものである。靖国の英霊達は、自分の命を盾にして、育ててくれた両親、祖国、朋友、愛人、後に続く子孫の幸せを願い、惜しむべき寿命を国家に捧げることを潔しとして戦場に散華していった。テロ行為とは違う。一方今回の彼は自愛の為に自己の満足が与えられないために他人の命をもてあそんだ。なんという大きな違いであろうか。彼のようなはみ出した人間には、恐らく人権派、死刑廃止論者の弁護士達は「心身喪失者」というレッテルを貼って無罪の擁護に立つのではなかろうか。教育刑主義という刑法の考え方がむしろ犯罪者を助長している。私はこれらが伝染して後に続く犯罪者が出ないように厳罰を持って処罰して欲しい。今回の事件を契機にして、犯罪者の対応、インターネットによる犯罪者の増発を防ぐための法律を即刻作成すべきだと騒がれているが、それよりもむしろ日本の戦後社会が、経済優先を重視して、物質の多寡によって幸福は作られる、競争社会に優位に立つためには高学歴を身につけなければならない、そういう個人主義的思想が重視された社会層が作られている現状を、小手先の法律作成よりは一刻も早く改正すべき時期に来ていると思う。戦後の道義観(日本の国家愛、まこと、信、義、恥の文化、武士道精神)を失った学校教育、家族制度の破壊などから生まれて来た教育のあり方を、新教育基本法の実現によって達成できる日の一日も早からんことを切に望むものである。
2008.06.10
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食料危機とは 新聞に食料危機が報道された。それにもかかわらず減反をすべきである、と武部元幹事長は弁舌をふるわれている。一方麻生氏は減反すべきでないと主張された。今朝の新聞に、ロシア、中国、ベトナム、インドネシア、ブラジル等々の国々は、いずれも農産物の輸出を規制をされている。日本は食糧自給率40%とと言いながら、米減反を言い出す人があるとは、いかなる理由なのか、私の頭では理解できない。またバイオ燃料増産が食料危機を助長しているともいわれている。一体どういうことであろうか?バイオという言葉そのものも老人にはわからない。ソニーのパソコンにもバイオという言葉が使われている。調べてみると、「バイオ」という言葉は「生き物」という意味で、バイオテクノロジーとは「「生物に関する技術」という意味になるのだそうで、成る程言われてみれば、パソコンは全く生き物と同じ様に、生き物以上に活動してくれている。このような技術を使って人や動物の病気を治したり、美味しい食物を上手に栽培させたりすることをバイオテクノロジーの成果というのだそうである。ではバイオ燃料とは、いかなることを意味するものであろうか?食物は大気中の二酸化炭素を吸収して育つために、燃やしてもCO2の排出量は0とみなされ、地球温暖化の原因とはならない。だからトウモロコシや、サトウキビなどを発酵させて生産させた燃料はガソリンの高騰に対して、救世主にもなれる。既にブラジルではオイルショックを切っ掛けに代替燃料として新車が8割以上も普及されているというのである。しかし反面このようなことが普及されれば一転して世界的食料危機に波及される恐れに繋がるともいわれる。これに対し日本の対応は、食料や飼料にされていた穀物を燃料用にまわされることは避けるべきで、食料の需給バランスを崩し、食料価格高騰の原因を作ることになる。食料を対象にしないで、稲藁とかトウモロコシの芯などの開発によって対応できないものかどうかというのが識者達の見解のようである。
2008.06.04
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一家の団欒6月2日は三男の孫2人の誕生日である。女の子の双子で今度小学3年生になった。6月1日が日曜日なので一日早いが、両親は共働き、放課後は学童保育にお願いし、普段余り手をかけることが出来ない孫達に、私達と一緒に、団欒の機会を持つてあげたいと、一番いい方法として、レストラン・ロゼで食事会を開くことにした。子供の目は輝いた。ロゼのバイキングは、安くて手ごろで、珍しいものが一杯、何回も何回もお皿を運んだ。 祖父母、両親、子供、今日の運動会の様子など、状況が浮かび上がるように語ってくれる。あ~なんと幸せなことであろうか。保育とは命を守ること、教育とは心を育てること、人間には潜在的に素晴らしい生命力を持っている。色々な刺激を与えて引き出してやれば、その生命力が発露してくる。そこから本人の自力の道が生まれ人生が拓かれて来る。今の学校教育は、知識を注ぐことに主力を注いで心を育てることを疎かにしている。犯罪の根源はそこから生まれてきているのであろう。お互いは家庭においてささやかなことであっても出来ることから努力して行こうではないか。
2008.06.02
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論壇 伊藤元重氏(東大教授)の意見に同感今朝の静岡新聞に掲載された伊藤氏の論説には暫くぶりで清々しい気分になった。私もかねてテレビの人気キャスターの発言には胸につかええるものがあった。世の中の先導的立場にある彼らがむしろ害毒を撒き散らしているように思えることが多々感じられる。一般大衆は人気タレントであるが故に、見過ごされているのかもしれないが、今日の記事にはあからさまに、それらについて取り上げてくれ、私達に解りやすく説明をされてくれた。一例として、たまたま東北地方を襲ったリンゴ農家の被害をキャスターは取り上げ、住専救済の為に取り上げた公的資金投入と、リンゴ救済資金の多寡とを、感情的に比較され、結果的に住専への公的資金の投入の遅れなどをつくり、日本の不良債権処理の対応の拙さが被害数十兆円にも達したことになってしまった。また中国の毒入りギョウザの問題について、政府が「日本の食糧自給率は40%を切っている。中国からの食料輸入は増えている。これを契機に食料自給率を考える必要がある」と報道されたことに対し、日本の自給率が下がっているのは中国のギョウザが問題ではない。アメリカや、豪州などから大量の穀物や畜産物を輸入しているからだと、農薬混入のギョウザ問題の本質には置きざれにされるようなキャスターの言説の取り上げ方であった。高齢者医療制度の問題にしても、改善の余地のあることは事実であるが、「年寄りに死ねというのか」という絶叫の声だけが繰り返し流されている。高齢者が増えれば医療費が急増するのは誰にでもわかる。それを社会全体でどう支えて行くのかが問題で、消費税を大幅に引き上げて行くのか、現役世代の負担を増やすのか、高齢者でも豊かな人には多少負担をお願いするのか、この重要な問題について、テレビでは、老人イジメの声ばかりが大きく流されているのは、視聴率に縛られているためであろうか、建設的な論議が求めるのは無理というものかと嘆かれていた。
2008.05.31
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相撲道の復活を期待する 千秋楽の日、朝青龍と白鵬とのにらみ合いについて、両者に品格の反省を求めたことは至極当然であるが、北の富士理事長の対応は一歩後手であったように思う。相撲の人気回復について、私と同じ様に感じられた方もあった。次のように投稿されていた。1つには「待った」の多様が多すぎる。毎場所言われながら改善されていない。ならば「罰金制度」の復活は止むを得ない。2、待ったを立会いの駆け引きに利用している力士がいる。3、立会いの変化技は禁じ手にはなっていないが、観客は唖然としてしまう。堂々と死力を尽して闘うところに相撲の醍醐味がありそれを観客は求めているものだ。と、かって大横綱双葉山は、自分が立ち遅れても、不利でも、決して待ったをしなかった。そこに彼は大横綱といわれる金字塔を立てた。立会いに手をつかないことを、千代の富士は厳しく言われていたが、今の力士はポンつきで、正しい立会いとは言えない。修正する方法として罰金を沢山に科することも止むを得ないであろう。伝統を重んじてきた大相撲も時代の変化に伴い改正すべき点も確かにあるが、色々のしきたり、美しさ、日本にのみ流れている伝統美などこれは誇るべきものとして残して行きたい。単なるスポーツ化した勝負になって格闘技と同じでつまらないものになってしまう。日本の国技といわれる所以は、礼で始まり礼に終わるという価値観が見えるところに、美しさや誇りがあり、大相撲の存在感があると思う。
2008.05.28
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篤姫を楽しみに 篤姫のテレビドラマは歴史の勉強としてとても為になる。本を読むことも、それなりの感動はあっても、あの場面に出てくる情景は、ストリーを超えて迫ってくるものがある。両親、乳母の愛情、心に秘めた男友達とのほのかな愛、武家社会の伝統など、配する役者が真に迫ってその状況を演出されている。大奥は噂には聞いたが、江戸城内を現出された場面や、奥女中達の物々しさ、きらびやかさ、しきたりなど、目の前に状況が浮かびあがる。篤姫、家定、斉彬、水戸家などとのかかわりなどから始まり、幕末の動乱の中に、日本が開国に進む様子などががよく語られている。是非お勧めしたい番組である。戦後余り語られなかった近代史を勉強するには、よい機会ではなかろうか。
2008.05.25
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心を休めるもの最近のテレビは面白くないものが多すぎる。いやなニュースばっかりで、その中で篤姫と瞳がやっと見たいと思うドラマになった。憂さ晴らしに野球を見ているが、最近の巨人の弱さにはどうなっているのかと、かんぐりたくなる。原監督の差配も名監督とはいえない。ピッチャーの起用の仕方も拙いし、優秀な選手を集めても彼らの力を充分発揮させているとはいえない。選手が故障だとかなんだとか、そういう不遇もあるが、かっての様な日本一の巨人になってもらいたいものである。 野村さんは私は嫌いな監督だったが、やっぱり一枚も二枚も監督としての能力は上のような感じがする。 バレーも一時より素晴らしく強くなった。勝つには勝ったが冷や冷やする場面と運に助けられている場面が多い。 組織バレーの強さが一応勝利をものにしたものの、まずい面が沢山見えている。安定したバレーにするには、体格の劣る日本人は、力よりスピードと移動攻撃を研究すべきだと思う。また選手に注文をつけるのは悪いが、ドミニカ共和国の選手の態度は立派であった。国家国旗に対し全員が歌唱し、胸に手をあて忠誠を誓う姿は美しかった。日本の選手には国歌が満足に歌えないものがいるし、手の置き方もしまりが無い。日本人の誇りと美しさを示すオリンピック代表の選手であってほしい。
2008.05.22
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日本の緊急救助隊の派遣 このたびの中国四川省大地震は、中国には思いもかけない事であったであろう。が、今回オリンピックの成功を期して日本を訪問した胡錦濤の政策が、今までの中国の偏狭な民族主義の対応ならば考えられない様な対策を日本に要請してきた。胡錦濤主席の訪問の成果にあったことを取り上げたい。これからの日本対中国に対する、大きな道を開かれることを期待する。チベット開放や国際社会の普遍的価値感の共有に対して一石を投じてくれた今回の災害は、神の恩寵につながるものとも受け止めていいのではなかろうか。日本は人道主義の国柄である。目の前に苦しんでいる人々を救済することにやぶさかでなくても手の下す手立てがなかったが、これを機会に中国も一党独裁政治を見直し、共存共栄という方向に進んで行って欲しいものである。
2008.05.16
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「相手の嫌がることは言わない福田外交」今度の胡錦濤さんの言われる「戦略的互恵関係」という抽象的言葉に包まれて、目の先がぼかされている感じがしないではなかろうか。日本は秩序礼儀の正しい国柄である。国賓としての対応は立派であったと思うが、これに対して胡錦濤さんも友好的ムードは感じられた。今後対話の窓口をつけられたのは一つの成果だと思うが、中国ギョウザ事件、東シナ海ガス伝問題、環境問題、人権に対するチベットとの対応、台湾問題など、どのような行動を示されるか見ものである。日本の政治家で安倍首相のみが、堂々と「北京五輪を前に、チベットの人権を憂慮している」と発言されたことや、弱腰の福田さんが、北京五輪大会への開会式への出席に対して、事情が許せば前向きに検討すると確約されなかったことは評価できる。上野のパンダをプレゼントしてくれるのかと思ったら、高額のレンタル料を払うことだという。中国のしたたかさの微笑外交には幻惑されないことが大切である。
2008.05.10
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目的は何か中国は北京五輪大会を何とか成功に漕ぎ着け、自国の威信を世界にアッピールしたい魂胆が見え見栄のご機嫌伺いではなかろうか。何時も日本は中国との会談では足元をすくわれ、出鼻をくじかれ、言いたいことも言えず、「相手の嫌がることはしないという」外交姿勢が福田首相の基本方針のようであるが、日本はへつらうものはなにものも無い。毅然とした態度で、日本の国益に関わる問題を主張して欲しい。毒入り餃子にしても責任の曖昧さ、異常な環境汚染、尖閣諸島の領有権、脅威的軍拡、反日教育、チベット弾圧に対する人権の侵害など堂々と取り上げて欲しい。福田首相にはお茶を濁すような会談であって欲しくない。国民に確固たる信念の見えないのは残念である。経済問題を餌にされて安易な取引材料とすることはくれぐれも謹んで欲しい。
2008.05.06
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昭和天皇誕生日を偲ぶ 平成17年5月13日に戦後60余年にして漸く4月29日が昭和の日として改称されようになったことは、私達世代のものにはとても嬉しいことである。ただお休みが増えたという意識しか持っていない方も多いようであるが、日本の国家愛というものが失われて行った原因にも、こういう伝統的意義の灯が消されて行ったことに関係していることではなかろうか。昭和天皇誕生日を、崩御の後にも、そのまま残すことは、軍国主義天皇制存続に繋がるものであるという一部の反対者の声に左右され、国会審議が二度も否決され廃案にされた。そのために存続に繋がる方法として時の政府は、昭和天皇が緑を愛されたことを考え「みどりの日」と呼称を変え祝日と残された訳であるが、何故堂々と日本の歴史を刻んだ昭和天皇の想い出を次世代に繋げる「昭和の日」として成立できなかったのであろうかと、当時臍をかむ思いであった。「国民の祝日に関する法律」というものが、日本人の精神的武装解除の一方法として、GHQ(連合軍総司令部)からは強制され制定されたのである。このとき1月3日の元始祭(げんしさい)、10月17日の神嘗祭(かんなめさい)は完全に廃止され、 2月11日の「紀元節」も廃止を余儀なくさせられたが、国際社会の中にあって建国記念日のない日本では可笑しいのではないか、という国際世論のお陰で、昭和41年「建国記念日」が復活出来た。戦前には天皇誕生日を「天長節」、11月3日の明治天皇誕生日には明治節と呼ばれた。今では「文化の日」とか、11月23日は「勤労感謝の日」と改称されているが、占領政策の呪縛(じゅばく)が未だ残っているようなしっくりしないものを感じる。青葉薫るこの緑の日、自然の恵みに感謝し木々の緑から発するイオンを体一杯に浴びながら日本の伝統文化の恩恵に感謝し散策したいものである。昭和天皇御製 身はいかになるとも いくさとどめけり たおれゆく民をおもいて 国がらを ただ守らんといばら道 進み行くともいくさとめけり 思わざる病となりぬ沖縄を 訪ねて はたさむ つとめありしを敗戦後マッカーサーに会見を申しこまれた陛下は「私は今次の戦争遂行に当たり、政治、軍事の面で行った全決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決にゆだねる」「戦争の全責任は私にある。だからどのようにでもせられたい」。今国民は飢えている。今日私の持ってきた私財は処分して、貴国の食料援助の足しにして頂きたいと。マッカーサーは命乞いに来たのではないかと思われた陛下の言葉に、感動の坩堝に叩き込まれたと、奥村勝蔵氏の回想に述べられている。マッカーサーは、天皇に帰すべきでない責任まで引き受けられようとされているその勇気態度に一瞬電撃に打たれ、眼前にいらっしゃる天皇が個人の資格だとしても神に見え、日本の最高の紳士であると思われたと書かれている。陛下の在りしの一端を昭和の日を知らない方々にお伝えしたいと思う。
2008.04.30
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聖火とは世界から注目された長野市の北京五輪の聖火リレーは、チベット暴動抑圧対応を巡り、中国政府に抗議するデモ隊などが、市内を通過する聖火を消そうとする暴動があってはと、日本では物々しい警察官の警備体制の表れは功を奏し、その儀礼を果たすことが出来た。中国も対面を潰されず、さぞ喜んだことではなかろうか、…が聖火をかかげて走る日本人代表の選手の顔を一目見たい、声援を送りたい、という祭典に、日本人は端に置かれ、中国の紅旗に埋められているのはなんとも異様で残念であった。日本の街道である。聖火とは平和を願う神聖な火を意味し、善光寺でも、延暦寺でも1000年も法灯が続けられている。法灯を絶やさぬとは神仏の光を伝えるという意味が持たれているが、人権蹂躙の中国のあり方に善光寺は汚されたくないということからか、ここを避けられたのであろう。オリンピックの歴史を調べてみると、紀元前776年に第1回が古代ギリシャ時代に開催された記録が残されている。古代ギリシャという国は、アテネとか、スパルタ、とかというポリスの集合体がギリシャと呼ばれ、お互いに喧嘩ばかりしていた。ある時、戦争を無くそうということで、ゼウスの神の前で強さと美しさを競ったことがオリンピックの始まりになったといわれている。従って祭典中には一切の戦争を中止し、この休戦協定を破ったものには厳しい罰則が与えられることになった。即ち最高神ゼウスの加護が受けられないことになる、ということであった。本来それがオリンピック発祥の精神であり、政治的なものは一切持ち込まないということから出発されている。現在のオリンピックは1894年(明治28年)にクーベルタン男爵によって復活された。今年でまだ約100年位、回数にして28回にしかならないが、これから先何年、どういう形で続けられて行くであろうか。これからのオリンピックに期待したい。
2008.04.27
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貴重な人材先日産経新聞(4月17日)の第一面に『よく聞いて下さい』という題名で、塩川正十郎氏の論文が掲載されていた。既にお読みになられた方もあろうかと思うが、余りにも素晴らしいというか、私どもには当然とも思える見解でも、多くの方々の共感を頂きたいと、切り抜いてお見せしたり、また一部抜粋してここに掲載させていただいた。彼と私とは同年齢、同じ大学を卒業出来たといっても、人間の生き方には出会いというものに支配され、彼の広い視野と体験を積み重ねての今日と、比べることは出来ないが、私には、言葉に言い現わせないもどかしさをにべなく彼は堂々と述べられている。それは、日本の政治からぬくもりが消えたことについて、彼の自宅に「後期高齢者医療制度」の通知が役所から郵送されてきたことについて書かれた。「私は昭和21年復員後から60余年、86歳の今日まで無我夢中で働き、懸命に人生を歩んできた積りだ。しかし、その紙切れは私の人生を否定するものでしかなかった。世間や社会の「別枠」「邪魔者」になってしまったのか…。たとえないような寂しさ、悲しさに襲われた。新制度の対象とされた75歳以上の誰もがそうであろう。新幹線の中で見知らぬ高齢の男性から「わしらはもう死ねということですか」と涙目で訴えかけられた。私は「国が間違つとる」と、返すのがやっとだった。福田首相は「長寿社会の実現」を唱えてはいるが、今の政治家や官僚は本当に庶民の生活の実態を見ているのだろうか。後期高齢者医療制度は老人の医療負担を増やすだけではない。高齢の親を扶養するという伝統的な家族のきずなを壊すばかりか、夫婦の間にも水臭さを持ち込みかねない。昔の政治を凡て了とする気はないが、今の政治は四角四面そのものだ。銀行や金融機関の窓口に行けば、「本人の証明書を出せや、あの書類を出せや、面倒くさいことばかり、消費者保護の美名の下に、不利益をこうむりかねない人を救済したり、悪いことをたくむやからの行為を阻止したり、一部の人間のために大部分の人が窮屈な統制を強いられている。…略」全くその通り。役人は責任逃れに憂き身をやつし、政治家はおんぶにだっこ、マスコミは過剰報道に走り公平であるべき裁判官までが、変な理屈を捏ね回し、一体どうなっていってしまうのであろう。塩川氏のような政治家には高齢者といっても頑張って、われ吾老齢庶民代表の声として、ぜひとも、制度改正につなげて欲しいものである。
2008.04.21
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日本だけではない暫くブログをお休みにしていた間に、なんと世の中に様々な事件が起きてきたのであろうか。政局は、年金問題から発生してガソリン税の廃止とか、日銀総裁後継者選びの問題で、小沢さんは、これが原則論だと政界改変を振りかざし、福田さんはねじれ国会からニッチもサッチも行かず、日時は経過して行く。チベット問題は世界的に飛び火して、イギリス、フランス、サンフランシスコまで聖火が中国非難の抗議活動に揺さぶられ、台湾問題も火種を残して新政権に隠されたものの、ダライラマ問題で何時再燃してくるのか判らない状況下にある。ノムヒョン大統領は完全に命脈が絶たれ、ハンナラ党は日本に明るい希望を持たせてくれたが、拉致問題について、ブッシュ政権は6ケ国協議にもたつき、むしろこの際、この問題を切り離して手を引きたいような、方向にさえ見える。アメリカ大統領改選ではクリントンの敗北は見えてきたようだし、これに対するオバマ氏は中国経済との提携を重視しているようにも見えるし、日本に対しての外交姿勢は未知数である。世界は一つという言葉があるが、一軒の家の中に風が吹きすさべば、お勝手にも、居間にも家中が嵐を受けると同じ理なのであろう。われ吾は、外に対しての対応と、内にあっては家族が団結して家を守るというシンプルな原則こそ、家族の生命と安全が守られるのだということを忘れてはならない。それには如何にすべきであるか、難しいことは出来ないけれども、泥棒を捕まえて縄を綯うわけではないが、冷静な判断をもって世論をつくり、自分のこととして一人ひとりが受け止めることが大事なのではなかろうかと思う。
2008.04.10
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心の憂さを晴らしてくれるもの テレビをつけると最近入ってくるニュースは暗いことばかり。政治にしてもガソリン税をなくすとか、なくさないとか、私達の頭では混線してしまう。言葉の言い回しばっかりで、物の道理に基づいての判断が出来ない政治家が、何かというと国家国民のためと、私達を引き合いに出すが、いい迷惑である。 チベットに対する中国の軋轢にしても、公害問題、台湾問題にしても、福田首相は事なかれ主義というのか、正論をいえず、日本の弱さを悲しく思う。 国内においては今まで見たことの無い、凶悪な殺人、しかも罪の意識が自覚出来ないとは、こんな人間が増えてきては堪らない。道義教育の欠如がもたらした被害…、制度を手直しただけでは真の解決にはならない。 今回は、たまたまスポーツ面で高校野球が心を癒してくれたが、それも地元の高校が負けて出場出来なくなると、身びいきのせいか興味は半減してしまった。 常葉菊川は順調に決勝に進むと思われていたが、そこに難しさがあった。しかし全力投球、チーム一丸、爽やかさは、負けても心の鬱積を飛ばしてくれた。職業野球では面白さはあっても外人選手が、ガムをかみながら投球をしたり、つばを吐いたり、なんとも汚い。リラックスのためというが、真剣さがあるといえるであろうか? 高校野球は単に娯楽のためのスポーツではない。人間育成である。職業野球のようにチューインガムをかみながらするスポーツは、是非反省してもらいたいものである。
2008.03.30
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陛下への拝謁長い事ブログ日記をお休みにしていた。二月初旬から三月にかけ、思わぬ出来事に遭い、一段落ついたところ、かねて申し込んであった皇居勤労奉仕団に参加し、その感動に打たれての痺れから、なかなか普段の自分に戻れなかった。この勤労ご奉仕中なんといっても天皇、皇后両陛下と皇太子殿下に拝謁できたことである。1~2mという至近の距離で、陛下の穏やかなお言葉、皇后様の優しい眼差し、私は奉仕団の最高齢者ということで最前列に位置し、陛下のぬくもりが光となってひしひしと伝わって来るのが感じられた。陛下のつくろいの無い穏やかな挙措動作、慈愛のお言葉など、まさしく憲法にうたわれている日本国民の象徴とはまさしく陛下のお姿を現した言葉であろう。今回は丁度外国大使が新受任報告を、言上の送迎用の馬車行列にも偶然出会い、正装した皇宮騎馬警察官の勇壮な凛々しい姿を見させて頂くことも出来た。宮中のシンボルである賢所が、工事中でテントで覆われていたが、その合間を縫って宮中三殿の御殿(みあらか)を垣間見せていただいた。正殿には天照大神、左側には歴代の天皇陛下、右側には八百万の神々様がお祭りになられ、これの祭祀が天皇の最も大切なご使命であるとお話を戴いた。日常お住まいの吹上御所や、近くには天皇がおつくりになられている田んぼ、皇后様の養蚕の桑畑なども見学し、ここで摘まれた繭で手作りの織物を、外国の貴賓客などにお土産としてお上げになられているなどのお話も伺った。このほか陛下の研究室、植物園、宮中雅楽室など、見どころ一杯で頭の中を通りすぎて行った。奉仕作業現場に到着の間には、江戸城の名残や、武蔵野の面影を残して明治天皇が作られた日本庭園など拝観し、素晴らしいというほか私には表現の言葉がなかった。この場所は一般拝観も出来るということで、是非機会を作って皆様にもご覧戴ける機会があればと思う。少し離れた東宮御所の方にもお連れて頂き、ここは昔赤坂御所といわれ、陛下がお住まいになられていたところ、現在では皇太子殿下他宮様方がお住まいになられている。この近くには園遊会場に使われる広場などもあり一巡し、その後皇太子殿下にもお目にかかれ感激にしびれながら拝観を終わらせていただいた。日本の三千年の伝統文化の遺産をこの目でしっかりと見させていただけたことは、何よりのお土産として日本人の誇りとして、この感激の喜びをお分けさせていただきたく、このブログに取り上げさせて頂いた。(文中誤記、聞き違いも多々あることと思いますが、大要をお汲み取り頂き、私の不明の致すところ何卒お許しを頂きたくお詫びいたします。)
2008.03.19
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