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くまんパパ 「短歌人」4月号のためのうたのおけいこ 6(未推敲)よもすがラヂオA&Mレコード ハーブアルパート&ティファナブラス カメ&アンコーBittersweet Sambaほろにがきサンバのリズム場違いにAM1:00すぎの華やぎ土居まさる亀渕昭信両雄の並び立たざるよもすがラヂオその局舎有楽町の片隅にひつそりとあり煌きてあり山椒は小粒なれどもラヂオ局フジの高嶺に降る雪なりき力量を勘違いせしホリエモンなる若者におびやかされて貧弱な音質なれど何事か心揺さぶる振幅変調AMラヂオ時代とは固有名詞の羅列だと言ひし人あり我も羅列す *流れ来し遠くで汽笛を聞きながら聞いてゐたのは二十歳はたちの原点伝説のDJ奥様お嬢様が泣いて喜ぶ高崎一郎往時から寝ないで喋る奴だつたみのみのもんたみのもんたかな* 藤原龍一郎「世界とは時代とは数限りなき固有名詞の羅列にすぎぬ」(歌集「夢みる頃を過ぎても」1989年)【マニアック警報発令中】この思いつき連作は、特定の世代の特定の時代への思い入れを背景にしてますので、分かる人しか分からないかも知れません。・・・すいません著作権を有します(リンクはフリー)。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月30日
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くまんパパ 「短歌人」4月号のためのうたのおけいこ 5 わたくしはもう帰ります子と妻とリアルな愛がそこにあるから*1今カラデモ遅クナイカラ妻ト子ノ待ツ原隊ニ復帰スルベシ*2桜桃忌さくらももこの筆名の由来であるといふはまことか平凡な言葉だけれどとこしへに愛しているといつか言ひたい永遠に裏切らないよある意味で非文学的台詞を吐きつ況まいて冬思ひ出さるるサンダルの際立たせたる汝なが脚の光かげ事実上デファクトの初期設定デフォルトである僕たちも運命デスティニーから出口求めてこの父は馬鹿になれない馬鹿だなあアンパンマンと遊ぶ子を見つ*1 山上憶良「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむそ」(万葉集337)/ジョン・レノン「リアル・ラヴ」(ザ・ビートルズ)*2 「2・26事件」反乱軍への陸軍発行(朝日新聞社印刷)ビラより。著作権を有します(リンクはフリー)。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月29日
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山上憶良(やまのうえのおくら)山上憶良の臣おみの宴うたげを罷まかるの歌一首憶良らは今は罷まからむ子泣くらむ それその母も吾あを待つらむそ万葉集 337憶良はもう退出いたしましょう。子が泣いているでしょう。そう、その母も私を待っていましょうぞ。註人名、それも自分の名前を詠みこんだ和歌は、まず類例が思いつかない。人名の入った歌としてかろうじて思いつくのは、大伴家持「石麻呂いはまろに吾われ物申まをす夏痩せに良しといふものぞ鰻むなぎ取り食めせ」(万葉集3853)があるが、これもユーモアの歌(戯咲歌)である。それその母:「その彼(か)の母」と読む説もある(国文学者・中西進氏)。この方が正しいかも知れない。作者の母親でなく子の母(作者の妻)であることを明示する言い回し。【原文(万葉仮名)】憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽
2008年01月28日
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俵万智男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命おこす歌集「チョコレート革命」(1997年)「特殊歌人」枡野浩一による俵万智への「添削指導!?」チョコレート革命おこすふんべつのスーツを脱いでくれない君に枡野浩一「君の鳥は歌を歌える」(1999年)くまんパパ行司軍配:確かに、小結・枡野龍の「身の程知らずの添削指導」によって、本歌の破調(字余り)は直されてすっきりし、意味的にも分かりやすくなったが、やはり言葉本来のプリミティヴなエロスや衝撃力、ひいてはオリジナリティのもたらすある種のぎごちないみずみずしさやリアルさみたいなものが落ちてると思われるので、横綱相撲で俵山の勝ち~っ!!!
2008年01月28日
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くまんパパ 「短歌人」2月号掲載作品 6首しだり尾のながながし夜はねもころに鸚哥いんこと僕と四人のをんな *「特にない」「別に」と女優剥き出しの孤心晒して半跏思惟像ジョン・レノン暗殺さると渋谷駅二番ホームで知りし遠き日 注文の多い伊太利亜料理店灯ともしごろはほほゑみの森ことごとにそんなの関係ねえと言ふ男を見れば猿にかも似る国民くにたみの浄きよき税みつぎの行き先はおねだり妻のぽつぽだつてさ(旧かなづかひ)* 谷崎潤一郎「猫と庄造と二人のをんな」/作者は妻と3人の娘持ちです。インコも飼ってます著作権を有します(リンクはフリー)。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月26日
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先日、歌人(変人?)斉藤斎藤氏をご紹介して以来、強烈な毒がしだいしだいに全身に回り、かなり斉藤斎藤化してきてます~くまんパパ 「短歌人」4月号のためのうたのおけいこ 4(未推敲)はろばろともう帰らない夏の日を泣いて見てゐる冬の夜の夢わたくしは君が好きだと大声で君の名を呼ぶ夢の中では目が覚めてしまつた未明することもなくぽつねんと水ふふみをりかたかたと人生なんて一巻の僕が作つた8mm映画物語どうでもよくて折々の抒情があれば生きていけるよ恋をするといふことこそ人生の不易であると思つたりして僕なんか同窓会が人生の目的ではと思ふ一人だはからずも声を荒げて悪かつたきのふの夜の深き我が罪けんかして仲直りした翌朝は胸いつぱいの愛で目覚めた幸せな家庭を築きたいといふ夫婦の意志は固いのだつたこんなにも光まばゆき冬の朝鳥の気持ちが少し分かつた自然界サインカーブを描きつつ平均気温底値になりぬ黄昏の東北本線うつくしき貨物列車が北へ向へりいつまでも見てゐたかつた操車場貨物車輌も今はもうない霜枯れて相も変はらず川べりの草に寝そべり空を見てゐた著作権を有します(リンクはフリー)。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月26日
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柿本人麻呂珠衣たまぎぬのさゐさゐしづみ 家の妹いもにもの言はず来て思ひかねつも万葉集 503美しい絹の衣がさやさやとしな垂れるように心が沈み家の妻に言葉をかけずに旅に出て来て思いに堪えかねるよ。註思ひかね:古語動詞「かぬ」は「堪えかねる」の意味。「かなし(哀し、悲し)」と同語幹であるとする説もあるが、不詳。
2008年01月25日
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柿本人麻呂百重ももへにも来及きしかぬかもと思へかも君が使つかひの見れど飽かざらむ万葉集 499百度でも重ねて来てほしいなあと思うからかなあ、あなたの手紙のお使いは見飽きることがないのでしょう。註女の立場になって詠んでいる。百重ももへにも来及きしかぬかもと:来ることが重なって、百度にも及ばないかなあと。思へかも:思うからかなあ。「かも」は疑問、詠嘆のニュアンスを合わせ持つ助詞。参考 「プリーズ・ミスター・ポストマン」歌詞。
2008年01月25日
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柿本人麻呂今のみのわざにはあらず古いにしへの人そまさりて哭ねにさへ泣きし万葉集 498(恋の苦しさは)今だけの出来事ではない。昔の人こそ、これ以上に声に出して泣きさえしたものだ。註哭ねにさへ泣き:慟哭してさえ泣き。声に出してさえ泣き。
2008年01月25日
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柿本人麻呂古いにしへにありけむ人もわがごとか妹いもに恋ひつつ寝いねかてずけり万葉集 497昔いたであろう人々も、私のように妻を恋いつつ眠れなかったのだろうかなあ。註古いにしへ:語源は「往にし辺(へ)」で、「行ってしまった方」の意味から転じて、過ぎ去った昔。わがごとか:「か」が付いているので、全体が疑問形でありながら、「けり」は詠嘆のニュアンスがある。・・・現代語訳、不可能
2008年01月24日
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柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)み熊野の浦の浜木綿はまゆふ百重ももへなす心は思もへど直ただに逢はぬかも万葉集 496み熊野の浦の浜木綿のように幾重にも心に思っていても、じかにお逢いすることは叶わないのだなあ。註浜木綿はまゆふ:ハマオモト。木綿のような花を持ち、繁茂することから、「百重ももへ」は縁語とされる。
2008年01月24日
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くまんパパ 「短歌人」4月号のためのうたのおけいこ 3 ALEX(未推敲)雪降れば車の轍わだちきらきらとハートマークをふたつ描きぬ縄文の裔すゑとも見ゆるウド鈴木その存在が現代いまを責めるよにんげんは旅するために生まれけり寂し侘しと嘯うそぶきながらすくすくと少年アレクサンドロス家庭教師はアリストテレスインダスに至りし時に神の手が押し留めたりアレックスよとユーラシア無辺の陸くがに冬されば夢は枯野を駆けめぐりつつ領土的野望を棄てて愛すべき東の涯の島国である沈丁花紅き蕾の膨らみて野州颪おろしの風に揺れをり無伴奏チェロ組曲のごとくなり明治大正昭和の歌は繋がれり万葉古今新古今明治大正昭和の歌はガソリンか道路特定財源か僕らさつぱり判らないよね著作権を有します(リンクはフリー)。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月23日
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吉井勇(明治19年・1886-昭和35年・1950)衣に寄す炉辺ろべにゐて妹いもと語れど珠衣たまぎぬのさゐさゐ沈むこころなるかも吾あを見ても妹袖振らずよしさらば詰むるもよしや妹が長袖わび住みの燈火ともしび暗く古妹ふるいもは袖詰むるべく針をこそ持てもの思へば心うつらに古衣ふるぎぬの肩のよまひも寒しとおもはずわびぬれば橡つるばみ染めの衣きぬを着て炉の辺へに寒くありぬべきかなかたくなの心を持てば人よりも炉に親しみて穢なれごろも着る註珠衣たまぎぬのさゐさゐ沈む心:美しい衣がさやさやとしな垂れるやうに心も沈む。柿本人麻呂「珠衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来て思ひかねつも」(万葉集 503)の本歌取り。妹いも:妻。古妹ふるいも:古女房。よまひ:不詳。大きな辞書にも載ってない言葉である。・・・どうもこれは、「まよひ(まよい)」(糸のほつれ)の誤植ではないかと思われる(岩波文庫「吉井勇歌集」224ページ)くまんパパ、新発見か!?・・・鬼の首でも取ったよう??橡つるばみ:クヌギの実。どんぐり。穢なれごろも:古びて汚れた衣服。
2008年01月22日
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くまんパパ思い切る思いを切るということかさっそく思い切ってみる いま*この歌に、特に深い意味とか、「秘められたドラマ」などはありません
2008年01月21日
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斎藤茂吉(明治15年・1882-昭和28年・1953)とほき世のかりようびんがのわたくし児ご田螺たにしはぬるきみづ恋ひにけり赤光しやくくわうのなかの歩みはひそか夜の細きかほそきこころにか似むしろがねの雪降る山に人かよふ細ほそとして路見ゆるかな赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり自殺せし狂者きやうじゃの棺くわんのうしろより眩暈めまひして行けり道に入日あかくにんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけりいんしんと雪降りし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか死に近き母に添寢そひねのしんしんと遠田とほだのかはづ天に聞ゆる母が目をしまし離かれ来て目守まもりたりあな悲しもよ蚕かふこのねむりのど赤き玄鳥つばくらめふたつ屋梁はりにゐて足乳根たらちねの母は死にたまふなり第一歌集「赤光」(大正2年)註1首目、斎藤茂吉が客観写生(リアリズム)だなんて、誰が言ったのかと思う。かりようびんが:迦陵頻伽。想像上の鳥。雪山(せつせん)または極楽にいて、美しい声で鳴くという。上半身は美女、下半身は鳥の姿をしている。その美声を仏の声の形容とする。わたくし児ご:私生児。非嫡出子。玄鳥つばくらめ:燕。足乳根たらちねの:「母」にかかる枕詞(まくらことば)。 斎藤茂吉歌集
2008年01月21日
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NHK大河ドラマは子供の頃から大好きなのだが、今のところ僕と妻は、幼稚園前の娘たちの子育てに日夜忙殺されており、DVDデッキも幼児向け番組に鉄壁占拠されているため、土曜日昼の再放送を録画して見るという、「ほぼ一週間のご無沙汰」な視聴習慣なのである・・・ま、それはともかくとして、今年の大河「篤姫」は、なかなかいい直弼なすべり出しである。まだ2回目までなので、まとまった感想と言えるほどのものはないが、脚本も演出も俳優も快調と見受けられる。幕末・維新物は、陰々滅々とした権謀術数と凄惨なテロリズムの嵐が渦巻き(早くも「毒殺」を疑われる事件が連発している)、比較的現代に近いこともあってリアルで生々しすぎ、一般的には人気がないといわれるが、今回はホームドラマ風ほのぼのコメディタッチで、視聴率も、初回、2回目と20%超えを確保。今のところさして大きな事件も起こらず、登場人物紹介を兼ねて、桜島を見遥かす薩摩の大自然の中で、喜怒哀楽全開ですくすくと育つ「鹿児島の少女ハイジ」系のお約束な展開ではある。・・・が、脇を固める重厚な演技陣の存在感にも引けを取らない、大河史上最年少主役となった宮崎あおい(22)の軽妙、悲愴とりまぜた緩急自在な芝居の上手さに、改めてびっくり納得なのであった。なにやら、すでにして大女優。野育ちのわがまま勝手なワイルド・チャイルドかと思いきや、武家の娘の矜持はしっかりと持ち、勝気で好奇心旺盛なお転婆娘でありつつ、すっくと背筋を伸ばした立居振舞いに、自らの天命に殉ずる予感と覚悟を色濃くにじませたお姫様の居ずまい、佇まい。ドンピシャリのキャスティングであり、見ていてそこはかとなく胸キュンな今日この頃である・・・けっこう、おぢさんキラーどすついでに言えば、西郷吉之助(隆盛)役の小澤征悦が、「義経」の木曽義仲役以来の大河出演で、早くも貫禄十分。今後の展開が楽しみである。
2008年01月20日
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くまんパパ 「短歌人」4月号のためのうたのおけいこ 2(未推敲)生 物 学 的バイオロジック進化論細胞分裂性分離自然選択突然変異種の起源先カンブリア大深度太古海洋海底火山受精卵着床胚胎卵分割正常分娩適者生存羊水の無機質組成アミノ酸先カンブリア塩分濃度放散と定向進化天飛ぶやプテラノドンとシーラカンサス動物界脊椎亜門哺乳綱ヒト科ヒト属ヒトに生まれてヒトゲノムチンパンジーと大差なくららら螺旋のデオキシリボ核酸カタツムリ軟体動物巻貝類地上適応雌雄同体カブトムシ雌より少し背の高い雄の頭の無意味な突起 *脈翅目薄葉蜉蝣蟻地獄極楽浄土完全変態*aiko「カブトムシ」著作権を有します(リンクはフリー)。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月19日
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斉藤斎藤氏は「短歌人」所属らしいのだが、僕は少なくとも「短歌人」誌上で氏の歌を読んだことはない現在も籍だけは置いているようだが、自由奔放に他誌で活躍しておられるので、僕にとって幻の歌人である。例えば、こちら(「短歌人」2003年4月号、「短歌WAVE」2003年冬号、「原人の海図」歌会発表作品)とか、こちら(「短歌人」2003年3月号)とかを一瞥しても、並々ならぬ才能の持ち主であることは一目瞭然の斉藤斎藤氏である。斉藤斎藤 第一歌集「渡辺のわたし」同書内容一部閲覧(PDFファイル)そのラディカルで「脱臼した」表現は、たぶん現在、一般的には「短歌と、そうでないもの」との分水嶺(「ボーダーライン」といってもよい)をなしていると見なされているが、僕の感じでは、悠々(・・・でもないか、ギリギリ)ストライクゾーンの中、というか塀の中というか、だと思う。「ワケ分からない、難解晦渋」と言われる面も無きにしもあらずだが、そう覚悟して読むと、案外それほどでもない。けっこう分かるし、胸に迫ってくるものがある。・・・確かに、短歌になっている。彼の歌は、短歌とは何か、という問いも惹起させる。思うに、短歌の歴史は、「和歌」からの表現の拡張の歴史であったと言ってもいいだろう。明治期の正岡子規による、それまでの「月並み和歌」からリアリズム(写実)への飛翔に始まり、あらゆる西洋文学思潮の疾風怒涛の波も受けてきた。前川佐美雄によるモダニズム、シュルレアリスムの導入と、その弟子であった塚本邦雄らによる展開も記憶に残る。面倒くさいので、途中のたわわなる実りを全部すっ飛ばして続けると、その後、プリンセス俵万智によるさらなる甘美なる爆破がなされ、いよよ豊穣なる日本語表現の可能性が開かれた。その後はもう、ボーダーラインは広がる一方である。何でもあり、である。現在、短歌を定義するとすれば、「おおむね五七五七七の音節(韻律)に従う現代詩である」としか言えないであろう。むろん、「詩とは何か」ということがまた難題であり、本気で論ずるとしたら、世界最古の詩であり文学の淵源である「ギルガメシュ叙事詩」から筆を起こし、優に一冊の分厚い本が編めるほどの一大テーマであるが、ま、そう堅いことを言わずに、ごくごく雑駁にひと言でこれを覆えば、「研ぎ澄まされた言葉」と言って、当たらずといえども遠からずではないだろうか。・・・「選び抜かれた言葉」とかでもいいけどこれを纏めると、短歌とは「だいたい五七五七七の調子で詠まれた、研ぎ澄まされた言葉」である。ものすごく大雑把な定義(?)だが、とりあえず実作者としては、これぐらいのところを押さえておけばいいんじゃないかと思っている。ちなみに、大きく分けて、「詩は魂の叫びである」系の主張と、「厳粛な言葉遊びである」系の主張があると思うが、おそらくどっちも間違いではないのであり、しかもこれは詩の属性(プロパティ)というか、個々の詩人・歌人の「努力目標」みたいな話であって、本質論とは違うように思う。むしろ、若いうちは(いや、年を取っても)自分であんまり方向性を狭めない方がいいんじゃないかと、個人的には思う。なんでもありの全方位外交でいいんじゃないかな~さらに歌壇では、「客観写生(写実、リアリズム)」の主張も根強く、特にアマチュアに対する指導理念としては現在も消え去ったわけではないが、これは時代的使命を終えつつあり、もっと広大な表現論の中に吸収される運命になるような気がしている。・・・なお、この文章には、とりたてて結論はありません
2008年01月18日
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くまんパパ 「短歌人」4月号のためのうたのおけいこ 1(未推敲)雪の森澄み極まれる黎明あかときにけさきららかに兎のダンスフィレンツェによみがへらむと生まれけむ無月の空にスピカ耀かがよふ犬として雪を喜び猫として炬燵で丸くなる熊であるまた親ちかくなるね斉藤斎藤が分からないねと慰め合つて呟きが焼きつく冬の宇津宮三芳で汁粉君は餡蜜 *我が靴と汝ながハイヒール玄関に並びしときはこみあげてゐたかぎろひの春日待ち侘ぶ牧は君下野草の咲く野辺は僕「・ポチで名を繋いでくれてありがたう」不意に告のられし心まぐはし美うましもの愛は乗り物僕たちを運びて行かむ雛菊の野へドストエフスキー読みつつウヰスキーホットミルクでほくほくと割るiPodただで貰ひぬUSB接続コードだけ買ひ足しき水薦みこも刈る信濃に生あれし歌詠みの窪田空穂にまさりたるなし冬の夜の和気藹々に思ひ出づもう帰らない君がゐた夏逞しく清く正しく美しく図太くずるく育つてほしい*宇津宮:当地・宇都宮の古い表記。三芳:当地の甘味処の名店。著作権を有します(リンクはフリー)。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月18日
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「新風社」、「文芸社」、「碧天舎」などの経営危機・倒産騒動などで、自費出版・個人出版をめぐる詐欺まがいの商法が改めてクローズアップされています。本は出したいが専門知識のない、しろうとの哀しさにつけ込んだ悪質なものです。自分の本を出版したいとお考えの方は、十分お気を付け下さい。下のバナーは、この問題に一貫して真摯に取り組んでおられる楽天ブロガーの両国の隠居改め、秦野(はだの)の隠居さんのホームページにリンクしています。ご一読を。
2008年01月17日
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山部赤人田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ不尽ふじの高嶺に雪は降りける万葉集318田子の浦にうち出て見れば、真っ白に富士の高嶺に雪は降っていたなあ。田子の浦にうち出でてみれば白妙しろたへの富士の高嶺に雪は降りつつ新古今和歌集 675/小倉百人一首 4田子の浦に出て見れば、白妙のような富士の高嶺に雪は降り続いている。〔リービ英雄・英訳〕Coming out from Tago's nestle cobe,I gazewhite, pure whitethe snow has fallenon Fuji's lofty peak© Translated by Hideo Levy 2004 英語でよむ万葉集
2008年01月17日
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山部赤人(やまべのあかひと) 長歌天地あめつちの 分れし時ゆ 神かむさびて 高く貴き 駿河なる 布士ふじの高嶺を 天の原 振りさけ見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は万葉集 317天と地が初めて分かれた時から神々しく高く貴い駿河の富士の高嶺を天空に向かって振り仰いで見ると、空を渡る日の光も隠れ、夜空に照る月の光も見えず、白雲も滞って行けず、いつの時も雪が降っていたなあ。語り継ぎ、言い伝えていこう、富士の高嶺を。
2008年01月16日
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若山牧水(わかやま・ぼくすい)幾山河越えさり行かば寂しさの終はてなむ国ぞ今日も旅ゆく第一歌集『海の声』(明治41年・1908)どれほどの山河を越えて行けば寂しさが尽き果てる国なのだろう。今日も旅ゆく。註若山牧水の第一歌集に収められた傑作で、人口に膾炙した短歌史上の名歌だが、擬古的な言い回しを駆使しており、意味が分かりづらいという方も意外と少なくないだろう。事実、文法的にもけっこう高度で、仔細に見るとなかなか難解である。・・・もしかすると、すでに発表当時、レトロ(古めかしい)な文体だった?幾山河:幾つかの文献によると、「いくやまかは(やまかわ)」と読むらしい。個人的には、湯桶読みであっても、「いくさんが」の方がいいんじゃないかと思うんだけどね。さり:現代語「去る」の語源だが、古くは「行く」、「来る」、「去る」など、方向を問わず「移動する」意味。古典文学では「来る、訪れる」の意味で使うことが多い。「春されば」は、「春が来れば」の意味である。文脈によっては「遠ざかる」意味にもなる英語 come と一脈相通じるものがある。行かば:「行けば」ではなく、未然形「行かば」になっているのは、「(どれほど流浪してみても)寂しさが果てることはない」という含意を示唆している。また、発想の原点に、「海行かば」の歌(大伴家持)があったかも知れない。終はてなむ:動詞「はつ」に、強意の助動詞「ぬ」の未然形「な」と、推量の助動詞「む」の連体形がついた形。「む」は終止形ではなく、「国」にかかっている。初句の「幾」と合わせて疑問の意味となる。「尽き果てる国なのだろうか」。すっきりした現代語訳は困難。
2008年01月15日
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栃木・宇都宮市から望む日光連山。正面は男体山。(市内簗瀬町で、けさ撮影)このところ寒い朝が続いていますが、当地・宇都宮市街からは澄み渡った冬空に、雪を冠してひときわ神々しい日光連山が毎朝望めます。中央の大きな建物は、宇都宮市役所。どっか高いところに行けば、もっといい写真が撮れると思うんだけどね~筆者多忙につきその暇がないので、悪しからず~
2008年01月15日
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累計70,000アクセスを超えました~地味目なテーマにもかかわらず、いつもご愛読いただきましてありがとうございますこれからもよろしくね~700032008-01-14 13:32:59*.newswatch.co.jp 700022008-01-14 13:25:13モモンガ2006さん 700012008-01-14 13:24:25***.bbtec.net 700002008-01-14 13:20:32*.ucom.ne.jp 699992008-01-14 13:17:45202.131.*.* 699982008-01-14 13:17:20*.tbs.co.jp 699972008-01-14 13:17:04*.yahoo.co.jp *.ucom.ne.jpさん、どこのどなたか存じませんが、いつもご愛読ありがとうございます~(^^)モモンガ2006さん、惜しかった~
2008年01月14日
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北原白秋おのづから水のながれの寒竹の下ゆくときは声立つるなりいそがしく濡羽ぬればつくろふ雀ゐて夕かげり早し四五本の竹冬の光しんかんたるに真竹原閻魔大王の咳しはぶきのこゑ女犯戒にょぼんかい犯し果てけりこまごまとこの暁あけちかく雪つもる音歌集「雲母集」(大正4年)
2008年01月13日
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与謝野鉄幹同宿あひやどに窪田通治の歌をめでて泣く人みたり浪速江なにはえの秋歌集「紫」(明治44年)註窪田通治:歌人・窪田空穂の本名。くまんパパ水薦みこも刈る信濃生まれの歌詠みの窪田空穂にまさりたるなし
2008年01月13日
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窪田空穂(くぼた・うつぼ、明治10年・1877-昭和42年・1967)湧きいづる泉の水の盛り上がりくづるとすれやなほ盛り上がる冬空の澄み極まりし青きより現はれいでて雪の散り来る我が開く掌たなごころにしさし来たる天あめの光は愛かなしきろかも 巷にと出て行く自分を、妻は子を連れて送って来、暫くを護国寺の側の草原に遊んだ。ここにとて子を坐らする冬の日のさし来て光る枯芝の上に冬空をあふぎし我が眼移し見れば妻もあふげりこの冬空をわれ呼びて追ひ来こし妻はかがまりて裾より取りつ草の枯葉を歌集「泉のほとり」(大正6年・1917)
2008年01月13日
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伊勢冬がれの野べとわが身を思ひせばもえても春を待たましものを古今和歌集 791冬枯れの野べとわが身を思うことができたなら、野火のように燃えてでも、木の芽が萌えるように春を待つでしょうに(でも、人だから、思い焦がれるばかりなのです)。註せば:過去の助動詞「き」の未然形「せ」に助詞「ば」が付いたもので、仮定条件を示す。しばしば助動詞「まし」に対応して、反実仮想(事実に反する推量)の意味となる。英文法の「仮定法過去」に似てるなあと思うのは、僕だけではあるまい。もえて:「(恋の炎に)燃えて」と「(草木の芽が)萌えて」をかけている。技巧派・伊勢の面目躍如。
2008年01月11日
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けさ、自宅にて写す。宮沢賢治(明治29年・1896-昭和8年・1933)霜腐れ青きトマトの実を裂けばさびしきにほひ空に行きたり。霜枯れしトマトの氣根しみじみとうちならびつゝ冬きたるらし。大正5年(1916)
2008年01月10日
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有馬敲 値上げ (歌詞はこちら)(作曲・歌:高田渡)〔著作権保護期間内につき、引用は出来ません。〕「値上げ」という言葉を聞くと、条件反射的に、思春期の頃聞いて抱腹絶倒したこの高田渡の名曲を思い出してしまうのは、僕らの世代のビョ~キだろうか?一種の社会風刺的なコミックソングであろうが、研ぎ澄まされた言葉の見事さと独特のシニカルな味わいがあって、鳥肌が立った。もし、作者が大詩人・谷川俊太郎であると聞いても、「ああやっぱり」と思うかもしれない。すぐれた現代詩であると言えるだろう。
2008年01月10日
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太田水穂(明治9年・1876-昭和30年・1955)ほがらほがら明くるあしたの空の色にたぐひて年も立ちかへるらん歌集「つゆ艸くさ」(明治35年・1902)
2008年01月10日
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石川啄木(明治19年・1886-明治45年・1912)いつしかに正月も過ぎて、わが生活くらしがまたもとの道にはまり来きたれり。歌集「悲しき玩具」(明治45年・1912)
2008年01月10日
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くまんパパ 結社誌「短歌人」3月号 決定稿 15首胸底にロック流れて柊の赤き珠実に雪降りかかる純粋でありたく思ふ俗物でありたく思ふ冬極みゆくトナカイの橇の鈴の音しやんしやんと恋ふる乙女に向かふがにゆくプロポーズ記念日だからクリスマス・イヴはアダムとイヴのぼくたち「蟹挟み」好きな妻なりへらへらと笑ゑみて黙もだして挟まれてゐる寝そべつて子のお喋りを聞いてゐる冬らしからぬ暖かき夜父娘恋人なるかはしやぎつつ語らふごとく囁くごとく間違へて覚えし言葉ヤキヤソバ焼きそばになりつまんないのだ頼もしくあり変だともやや思ふうちの幼をさなは膾なますが好きでシャンプーを嫌がる吾子を抱つこしてなだめすかして洗ふ戦ひシャンプーが怖かりし日日ありありと思ひ出しつつ子の髪洗ふ「オマンチョは痛くないかい?」「痛くない」うつぶせにして陰ほと洗ひをり清らなる吾子の寝顔に降りそそぐ星の光の夜の音楽ナハト・ムジーク除夜更けて鐘の音響く境内の焚火に映ゆるあらたまの顔元旦も大病院の看護師ら白き息吐き出勤し来ぬ*自註「オマンチョ」の歌は、表現者の端くれとして、現代日本語表現の限界に挑戦してみました。・・・ってほどのことでもないか(旧かなづかひ)著作権を有します。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月09日
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・・・とか何とか言ってるうちに、ウチのかしまし娘三人の病気「溶連菌感染症」は、だいたい快癒したみたいですこの間、ブロガー仲間や読者の皆様から、ひとかたならぬご心配お心遣いを賜りまして、まことにありがとうございました。感謝の念で涙チョチョ切れております、・・・いや、ホント。一時は、モノを食べては真っ赤な顔でゴホゴホむせて吐いたりして大変心配しましたが、食欲もほぼ完全回復で、昨夜はハンバーグ、膾(なます)、ホットケーキなどをバクバク平らげてました。今日の昼食は「ヤキヤソバ(焼きそば)」を食べる予定です。・・・なお、「ヤキヤソバ」は、「焼きそば」の我が家における正式呼称だったのですが、最近は普通に「ヤキソバ」と言うようになってしまい、・・・ツマンナイ!?間違へて覚えしことばヤキヤソバ焼きそばになりつまんないのだ頼もしくあり変だともやや思ふうちの幼をさなは膾なますが好きで
2008年01月08日
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よみ人知らず芹せり 薺なづな 御形ごぎやう 繁縷はこべら 仏の座 菘すずな 清白すずしろ これぞ七種ななくさ註1362年の「河海抄」という文書が初出か。秋の七種の歌は万葉集に見え、天下の山上憶良というれっきとした作者がいるが、こちらは古い俗謡か。南北朝時代の文人・政治家の四辻義成説もあるが、不明。いずれにせよ、野趣溢れ人口に膾炙した、なかなかの名歌と思う。芹せり:せり科。薺なづな:あぶらな科。ぺんぺん草。花茎の塔(とう、あららぎ)が立ち、三味線の撥(ばち)のような果実を付ける。冬から早春の葉(ロゼット)を食べる。御形ごぎやう:母子草。きく科。繁縷はこべら:ハコベ。なでしこ科。仏の座:コオニタビラコ。きく科。菘すずな:蕪(かぶら)。あぶらな科。清白すずしろ:大根(あぶらな科)の美称。「蘿蔔」とも書く。
2008年01月07日
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赤染衛門(あかぞめえもん)春日野のけふ七草のこれならで君をとふ日はいつぞともなし家集「赤染衛門集」春日野の今日の七草摘みの好機を逃しては、あなたをお尋ねする日は、もういつとも知れないのよ~・・・あたしに明日はないのよ~!!!註なんかシチュエーションが今一つよく分からないのだが、この女性は追い詰められていて、今日がほぼ、アタックするラストチャンスらしい(?)彼女は上級貴族の女房(侍女、女官)であるから、今で言うキャリアウーマンみたいなものだった。恋をする暇も、そうそうなかったのかもしれない。・・・とか何とか言ってますが、これは全てくまんパパの訳出・解釈につき、訳文・解説文に責任は持てません。間違ってたら、すいません
2008年01月07日
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西行卯杖うづゑつき七種ななくさにこそ老いにけれ年を重ねて摘める若菜に山家集(さんがしゅう)卯杖をついて、七草粥を祝っているうちに老いたものだ。年を重ねて、摘んだ若菜で。註卯杖:正月初の卯の日に、魔よけの具として用いた杖。柊(ひいらぎ)、桃、梅、柳などの木を5尺3寸(約1.6メートル)に切り、2、3本ずつ5色の糸で巻いたもの。
2008年01月07日
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2008年01月07日
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くまんパパ 「短歌人」3月号詠草エチュード 9 (未推敲)晴れた日は冬の彼方のファンタシー失はれにし場所を夢見てふたりして見てゐる冬の幻はいづくにかある約束の地かクリントン上院議員苦戦とふニュースに思う不寛容イントレランス蟹挟み好きな妻なりへらへらと笑ゑみて黙もだして挟まれてゐる弦楽器弓とふ武器の凄まじさそこはかとなく宿しつつ鳴る器用とは何なのだらうどちらかといへば器用と言はれつづけて入力インプット出力アウトプットの平衡バランスか器用に生きなきやダメかと問はれ君からのメール届きぬうつせみの親しきものの喪失のあと愛してるそんな言葉をかろがろと言ふわけないか照れもあるしさ著作権を有します。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月06日
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与謝蕪村(よさぶそん) 俳句鴛をしどりに美を尽くしてや冬木立オシドリに彩いろどりを使い果たしてしまったのだろうか、まるで水墨画のようにモノクロームの冬木立。
2008年01月06日
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ウチの“姫君”たちの容態は、強力な薬が効いているお蔭もありまして、きのうきょう現在、割と安定しております。・・・が、ちょっと動くとゴホンゴホンとむせて苦しがったりして、まだ快癒には程遠い状態です皆様の温かいお心遣いに、厚く御礼申し上げます清原元輔(きよはらのもとすけ)姫小松大原山のたねなればちとせはただにまかせてを見む後拾遺和歌集 437お生まれになった常緑樹の松のようなお姫様は大原山のお胤(たね)ですから、千歳の将来は、ただ氏神様のご加護に任せて“let it be”と見守りましょう。註平安時代当時、政界を席巻しつつあった藤原氏一族の姫君の誕生を、めでたい姫小松に喩えて祝うとともに、巧妙にヨイショしている、きわめて技巧的な一首。・・・いつの世も、ゴマすりはつらいよ(?)清原元輔:歌人。清少納言の父。歴史的には、逆七光り?大原山:京・左京区大原野。藤原氏の祖神・春日大明神を祭る大原野神社がある。たね:「(姫小松の)種」と「(血縁の)嫡胤」をかけている。技あり、ザブトン3枚!・・・清少納言の文才も、やはり一日にしては成らなかった
2008年01月05日
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佐佐木信綱春ここに生るる朝の日をうけて山河草木さんかさうもくみな光あり最終歌集「山と水と」(昭和27年)註明治、大正、昭和の三代を生き抜いた歌人のこの歌の「生るる」の読みは、「うまるる」とするのが普通であろうが、孫で歌人の佐佐木幸綱早大教授は、字足らずであっても、「あるる」もありだと主張している。なるほど、「生む」の受動態である「生(う)まる」に比べ、「在り」と語源的関係もあると言われる「生(あ)る」の方が、より根源的で古拙(アルカイック)な響きを持っており、ふさわしいかも知れない。
2008年01月04日
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抗生物質の強力内服薬のお蔭で、娘3人の容態は小康状態を保ってまずまず落ち着いてきており、熱も38℃台から37℃台後半ぐらいにまで下がっていますが、やはり普段に比べると元気がなく顔色も悪く、おしゃべりしていても何となくボ~っとしている感じで、まだまだ予断は許されません。皆様にまでご心配をおかけしまして申し訳ありません。さんざんな年末年始だったとも言えますが、僕と妻の気持ちは、意外と爽やかで晴れ晴れとしてます。・・・子供のためなら火の中水の中。これが親心(母性愛、父性愛)ってものかも知れませんねくまんパパ 新春詠 (推敲の可能性あり)胸底むなぞこにロック流れて柊の赤き珠実にはつか雪降る重病に罹りし娘火のごとき熱に魘うなされ寝込みたり、ああ年の瀬の瀬とは瀬戸際ならむかとわけの分からぬことを思ひつ父娘ちちむすめ恋人なるかはしやぎつつ囁くごとく語らふごとく除夜更けて鐘の音響く境内の焚火に映ゆるあらたまの顔我が家のは古色蒼然すぎるかと毎年思ふ年賀状かな元旦もいつに変はらず看護師ら大病院に出勤し来ぬ元旦も大病院の看護師ら白き息吐き出勤し来ぬ初日の出看護師たちの凛乎たる面差し照らし祝ふがに見ゆたはむれに僕を師匠と呼ぶ人の中に広ごる緑なす野見ゆキュアミント「みどりのひとはやさしいね」密かに君を思ひ浮かべつ明るくて派手な姉さん地味な君この世はかくも不思議なりけり野良猫に餌をやりつつピュアとプア似て非なりけり非なるも似たり著作権を有します。© Nosho‘Daddy Bear’Sakamoto 2008 All rights reserved.
2008年01月03日
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与謝野鉄幹二十九にじふくのこの朝なにをさとりたるわが門松のさてもさびしき歌集「紫」(明治34年)(30代を目前にした)29歳になったこの元旦、俺はこれまで、いったい何をモノにしたと言えるだろうか。ウチの門松の、何とも寂しいことだ。註普通、当たり障りのない表現に終始する新春詠に、主観と実感を詠みこんだ、当時衝撃的だった一首。また、門松という縁起物に、およそ似つかわしくない「さびし」という形容詞を組み合わせて、象徴的表現を試みている。糸井重里のコピーの代表作「おいしい生活」より数段スゴイ!?合理的・数学的な「満年齢」が普及したのは、つい最近のこととも言える。僕の子供の頃は、こちとら田舎の年配の人々の間では、まだ「数え年」が普通だった。数え年は、生まれた時点で1歳、正月元旦ごとに1歳を加えたので、1月~2月生まれの人など、満年齢と比べると最大2歳近い誤差があった。大雑把というか、ある種の宗教的なニュアンスも感じられる。明治時代の男の29歳は、今なら39歳という感じだろうか。そう考えると、すごくよく分かって身に迫る名歌だと思う。僕も、40を前にした39歳ごろは、「あ、やべっ!人生半ばを越えてしまった!!俺はいったい、何をやってるんだ!?!」と焦りまくった記憶がある。短歌には若い頃から興味はあったが、本格的に詠みだしたのもその頃、そうした焦燥感の中だったと思う。それにしても、与謝野鉄幹って人は偉い。破天荒な天才歌人であった妻・晶子の暴走を時にそそのかし、時になだめすかしつ、インテリ正岡子規の近代的リアリズムの主張に対抗し、「明星」という砦に拠ってロマンティシズムの灯をともし続けた。日本男児の、国を憂い民の心を思い恋に身を焦がす赤裸々な魂を、激しく美しく表現し得た、希少なる歌人であり、傑物であった。・・・誤解を恐れずに言えば、「明治のサザン桑田佳祐」ってな感じかな~?!?ちなみに、与謝野馨・前官房長官は、この夫婦の孫である。
2008年01月02日
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あけましておめでとうございます今年もよろしくお願い申し上げます大伴家持新あらたしき年のはじめの初春の今日降る雪のいや重しけ吉事よごと万葉集 4516新しい年の初めの初春の今日降りしきる雪のように、ますます重なれ、吉(よ)き事よ。註巨大かつ偉大な万葉集全巻の掉尾を飾る、編者・大伴家持による記念碑的名歌。新あらたし:「新しい」の語源。「あらたし」が、いつの間にか「あたらしい」に変わってしまった、日本語では珍しい転訛の例。なお、明治以前は旧暦(太陰暦)であり、元日は現在の太陽暦の2月上旬頃に当たる(今年で言えば、2月7日)。
2008年01月01日
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