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旅行貯金という趣味の世界がある。私が考える旅行貯金の定義について旅行貯金考にまとめているが、その世界は実に懐が深い。【参考】「旅行貯金の楽しみ」(外部リンク)↑いい雰囲気漂う横浜中原郵便局2005年2月14日に遠軽郵便局をスタートしてから12年。ついぞ、私の訪局数も450局を突破してしまった。その記録は、旅行貯金の記録にまとめているが、実は、ブログをさぼっている間もひそかに更新し続けてきたページである。しかしながら、年数の経過と訪問局の増加により、同じ郵便局を訪れてしまうというアクシデントも起こりうる。(実際、一回そういうアクシデントが発生した。)これを回避するために何かうまい方法はないものか・・・・★ジオメモ - 自分だけの地図が作れるを App Storeで(外部リンク)10年前と比べると、科学技術の進歩も著しく、ガジェットやアプリも進化しつつある。Google Map等で容易に郵便局を検索することができるようになった。昔は秋田県道路地図に書き込みながら回ったもんだが・・・笑iphoneにこのアプリを入れているのだが、自分が訪局した郵便局を地図に落とす事ができ、外出先でも非常に重宝する。↑懐かしき秋田市内周辺の訪局をプロットもうこれはかなり昔の話だが、秋田市内周辺をチャリで回ってた頃の局を落とし込んだものだ。なんだかんだでこの頃が一番熱心に回っていたような・・・↑瀬戸内の島々にまたがるプロット旅行貯金のよいところは日付と地名から記憶をフラッシュバックさせることができる点だ。あ、そういやあのとき周防大島行ったな・・・とか、あのときの展示会で福岡だったなぁ・・・とか、いままでの自分の軌跡を追える。この趣味が終わることがないが、やっとこさ今までの訪局をジオメモに同期させた。ここは人力になってしまうのはしょうがないが、以前から比べると格段の進化である。
2017/03/19
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気が付いたら30万アクセスを超えており衝撃を受けました。2017年も細々と更新できたらしてゆきます・・・本年もよろしくお願いいたします。先日、仕事の道すがら、有馬温泉に行ってきました。3ヶ月ぶりくらいにまったりしました。↑切手文化博物館↑吸い込まれそうな竹林↑噂の炭酸泉↑太閤殿下の居有馬は実ははじめて。神戸から少しばかり距離があるので・・・特に秀吉と有馬との繋がりという視点は、これまであまりもっておりませんでしたので、感じるところが大いにありました。
2017/01/29
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遥か昔の記憶を辿る。2010年。もはや6年が過ぎた。大叔母が亡くなったという報せを受け、私は四国から関東へ下ったが、このとき何の交通機関で向かったかは、まったく思い出せない。高崎駅から遠く神流川を上流へ。その帰途、八ッ場ダムに沈むという川原湯温泉へ向かったのだが、この時、笹湯という素晴らしい公衆浴場に出会えたのだった。2010年4月23日の日記さて、吾妻線で新しい川原湯温泉駅を過ぎたので、昔の記憶をがふとよぎった。今日は18きっぷの消化作業。草津へ。近頃は、得体の知れないものに身体も心も蝕まれ、温泉に入ることさえもあまりなかったが、久々にこういうリアルな温泉に入る事と相成った。↑高崎駅西口、栄寿亭のかつ丼↑湯畑↑湧き出す湯畑↑西の川原公園西の川原の露天風呂と大滝の湯に入れたものの、湯もみは時間不足で見れず。草津白根山同様、次回の課題。
2016/09/03
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屹度誰にでも、どこにいても片時も忘れることのないふるさとというものがあるだろう。もしそういうものがあるとしたら、わたしのふるさとは湾曲した駿河湾の先に富嶽を望める、あの鄙びた海村「西伊豆・土肥」である。というわけで、ゴールデンウイークは6年ぶりに土肥へ帰ってきました。変わっていくもの、変わらないもの・・・今まで以上に伊豆がぐーんと近くなりましたので、行く機会も増えるでしょうけど。西伊豆は遠い・・・いい原点回帰になりました。(・。・)追伸楽天写真館が廃止になるとは・・・
2015/06/07
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☆3月6日(木)松山で所用を終えて、自宅へとんぼ帰り。青春18きっぷを使おうと思ったのが、寝過ごしてしまい、しおかぜ+新幹線でおのぼりさん。無駄な出費がかさむ。↑はとむぎげんまいぷーあーる、そーけんびちゃこのパッケージ懐かしいね…爽健美茶よりは綾鷹派だけど、昔コカコーラから販売されていたまろ茶が好きだったりする。6日のうちに東京へ帰り、北へ向かう準備を開始。寒波が襲来する模様で、長靴が必要と判断。北海道にミツウマという長靴メーカーがあるそうで、東京販売部に電話をかけると、東京近郊では、築地の伊藤ウロコでのみ取り扱っているとのこと。これは買うしかあるまい。☆3月7日(金)始発で築地へ。ミツウマの長靴を買いに築地の伊藤ウロコさんへ。ほしかったグリーンフィールドという長靴の在庫が無かったので、違う商品を調達。朝食を吉野家築地1号店で食す。↑吉野家あたまの大盛おかげさまで110周年の吉野家は、まだ日本橋に魚河岸があった時代から市場関係者の腹を満たしてきた。今や全国区の早い、安い、うまいのルーツは、吉野家が市場との関わりの中で育まれてきた長い歴史にあるのだろう。幾度もの困難に立ち向かいながらも不死鳥の如く蘇ってきた吉野家が、この先何百年もあまたの人々の空腹を満たしてくれる事を願ってやまない。一時帰宅する途中、三ノ輪で道を間違える。あってはならない事だ。笑そして上野へ。快晴の雪のない東京で長靴をはくとは滑稽だが、北へ向かう者なのでしょうがない。秋田新幹線で秋田へ。トランヴェールが北条五代特集で黒田基樹さんが執筆しておられた。↑雪だぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁとまぁ、久々に雪を見たわけだが、鑓見内あたりでホワイトアウト。笑こんな場所で12年も暮らしていたのね…もはや雪とも無縁なものである。☆3月8日(土)~9日(日)↑3月やというんに…。寒波襲来。↑真冬の墓まいり秋田では墓参りに行くという目的を達成し、親戚のお宅と高校時代の山岳部顧問の先生のお宅に厄介になった。積もる話と秋田の酒に囲まれて幸せな滞在期間でした。本当にありがとうございました。また帰りますので、その節はよろしくお願いいたします。秋田空港まで送迎して頂き、セスナ機で新千歳へ。いよいよ10年ぶりの北海道の東の方へ!!※画像のサイズを従来のサイズに戻しましたー
2014/03/27
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東京の住人となりおよそ一週間。 ほぼ新生活の準備と引越の荷物整理に明け暮れていたが、東京の街に出歩いたり、それなりに楽しい生活を満喫していた。 いよいよ、今年はいよいよ26歳となるわけだが、このブログを開いたのが15歳の時。 今思えば、あの頃何を考えていたが分からないしょうもない少年であったが、その結果、私は高校に不合格となり、一年間無職となり予備校に通う羽目になった。これがら16歳の時である。 この頃は、焼きおにぎりを販売したり肉屋につとめたり等、勉強以外の活動に没頭した事は言うまでもないが、勉強そのものに純粋に取り組めた一年となり、何よりも同じような境遇の仲間と出会えた事で、無職という現実を軽減する何かがあったような気がする。 また、後になって分かった事だが、この私にとっての「空白の16歳」は、自身にとって極めて重要な時間であった。両親と予備校への入学を率先してくれた先生方には本当に感謝せねばなるまい。 ターニングポイントというものがあるとしたら、間違いなくこの時を指すのだろう。なぜならこの年度の2月に私は、北方を旅する機会を得て、北の大学への進学というものをおぼろげながら意識したのである。 しかし世の中とは全く面白く不思議なもので、高校を卒業した後、私は1000キロ以上西に離れた大学に進学し、同地の大学院まで行くというモラトリアム三昧な日々を過ごす事になる。 ターニングポイントとなる北方を目指した旅の名前を「北出羽の国から」と名付けた。お察しの通りだが、その由縁は、あの有名なテレビドラマから来ている。また、単純に北出羽(秋田)から北を目指すという、16歳の少年が考える精一杯の思考でもあった。 私は、肉屋につとめた大金をみどりの窓口に持って北海道行きの切符を買った。これ以降、私は10年間親の脛かじりとなったため、現時点で一番かっこよいお金の使い方をしたのは、この時だけであろう。 と、前置きが長くなったが、北出羽の国から10年たった今、北出羽の国へ帰る旅をしたい。 私にとっての北出羽の国とは、何だったのか……この回答が果たしてでるかは分からないが、多くのものを失い、それ以上の多くのものを得たこの頃、久しぶりに原点に帰りたいと思ったのであった。 ☆2月28日 ↑新宿御苑 私は、とある人物に会うため新宿にいた。この人物は、「空白の16歳」を共に切磋琢磨した馬鹿野郎であるが、ここ5、6年音信が絶えており昨年久しぶりに会う事ができた人物である。 私の同窓生は、たいてい「空白の16歳」を黒歴史というが、私とこの人物は、ターニングポイントという理解がある点では、共通している。 この人物は、難関私立高校に進学したが、様々な紆余曲折があったが、今は東京で営業マンをしている。 私も四月から営業マンをする事になるので、そういう意味でもまた切磋琢磨する事ができるのだろうか。 新宿では西口の牛タンの店に行った後、高知の郷土料理の店に行き、私の新居に移動して昔の話をして盛り上がった。 この人物から見習うべき事は、闘争心である。私にはないものだが、一番になるという意気込みが大切なのであろう。 ☆2月29日もとい3月1日 朝3時半に叩き起こし、4時半の京浜東北線始発電車で最寄の田端駅を出発。対岸のホームで酔っ払いが線路に落ちたり騒がしかったが、都会は、朝から人がいるのね。 品川で前述の人物を見送り、東海道線始発で西を目指す。 ↑東海道線品川駅 寒さのあまり全然寝付けなかったが、平塚を過ぎたら爆睡しており、気がつくと終点の小田原であった。が、なんとすでに接続の電車を見送ってしまい、次の電車を待つ事に。 ↑小田原城を眺めて(神奈川県小田原市) 小田原は、昨年就活で久しぶりに訪れたが、小峯の大堀切という小田原城の総構は圧巻であった事を思い出す。 ここで後続の沼津行きに乗車。この日は、天気が悪い。根府川あたりの相模灘を見ながら電車は熱海へ。熱海からは丹那トンネルを抜け函南、三島、沼津と続く。 沼津からは静岡行きに乗るも、乗客が多くて座る事ができず。静岡駅では、第五福竜丸デモの集団が大量に乗り込んできて、車内の混雑はピークに。この集団は焼津で下車したので、それ以降、浜松までは着席に成功した。 浜松からは、新快速で名古屋へ。名古屋で彼女と合流し、名鉄で神宮前へ。 ひつまぶしの名店、あつた蓬莱軒へ向かった。前々から行って見たいと思っていたが、中々訪れる事ができなかったが、ついに訪れる事ができた。 なんでも一時間待ちという事ではあるが、その間はどこに行ってもいいとの事。 その間、熱田神宮に参拝。私は、ゼミ旅行以来の熱田である。 ↑信長塀 この塀は、織田信長が桶狭間の戦いの勝利後、寄進したものだそうな。 蓬莱軒に帰るとほどなくして席に通された。 ↑あつた蓬莱軒のひつまぶし 実に3800円。ランチとしては、ここ最近の人生の中でも一番高いのではないだろうか。いやはや、うまかった。 名駅に帰り、喫茶店で休憩し、米原へ移動。米原駅前の平和堂を久々に訪れたが、懐かしかった。 彦根といえば、名物彦根ちゃんぽん。これがうまいんだね。 ↑彦根ちゃんぽん いつも彦根城天守には行けず仕舞いであるが、またいつか機会があれば行きたい。 この日は野洲で一泊。 ☆3月2日 野洲を経ち、新快速で大阪へ。中崎町周辺を訪れ、念願の大阪支所を堪能した。 その後、なんばへ。お好み焼きを食べ、喫茶店に行き、いつものわなかでたこ焼きを食べるというミナミ定番の食い倒れツアーを挙行。 ↑戎橋のグリコ ここで彼女と別れ、松山行きのバスに乗りこんで、大阪を後にする。淡路室津での休憩も忘れしばらく寝ていたが、気がつけば一週間ぶりの松山であった。 ↑松山大街道
2014/03/03
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2月8日、太平洋側を低気圧が通過し、首都圏では40年ぶりに大雪となったようですが、西日本でも雪が降り交通機関が麻痺して、えらい事になりました。(-。-; 元々、北日本の人間とはいえ、瀬戸内でこういう目に遭うとは、想定外。笑 しかも、この日はひと月前から海を渡った尾道で飲む予定があったのです。が、案の定高速が通行止めでバスは運休。なんでこんな日にしたんやろ…と激しく後悔しました。が、天気には逆らえず。 なんとか、しかしさすがの海上交通は安定でした。呉まで船を使い、呉線で三原へ。山陽線は100分くらいダイヤが乱れてましたが、呉線は強かった。 尾道到着。 ⤴︎朱華園で中華そば ⤴︎千光寺へ ⤴︎天寧寺三重塔 ⤴︎千光寺から雪の尾道を眺める。 とまあ、定番の千光寺まで行ったのですが、前日、原因不明の膝の痛みを引き起こしていたので、きつかった。むしろこんな日に山登りなんてするもんじゃない。ヽ(´o`; 夜は久々に友人たちと楽しい飲みとなりました。いや、ほんとに楽しかったね。
2014/02/09
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☆2011年4月17日~18日月1で関西に行ってるような気がするし、予算もバカにならない。破産寸前(いや、破産してるし!!)ですけど、まぁやるべきことなのでしょうがない。ちなみに今回の旅は移動でありまったく観光ではないので悪しからず。↑東海道新幹線から見る京都駅いや、京都に新幹線で来るとは我ながらvipになったもんだね。(^^♪東海道線に乗り換えて安土へ。↑安土駅前の織田信長銅像っていうか、安土はもう30回以上通ってるけど降りるのは初めて。農道を歩いて目的地へ。↑安土城跡しかし、安土城を目の前にして今回はスルー。(笑)また、そのうち来たいですね。↑滋賀県立安土城考古博物館菜の花と桜がイイネっ。(゜o゜)ここで箱詰め。いろんな人がいろんなこと言うてはる。近江八幡で懇親会、急いで京都へバック。↑定番の塩小路たかばしの新福菜館やっぱ新福は最高だね。なんだか、秋田の末廣を思い出しちまった…そりゃそうだがね。wwwあぁ、いいねこの味は。第一旭とはしごしたかったのだが、金もないので、お宿へ。東海道線で大阪へ。御堂筋線でなんばへ。↑南海なんば駅、夜の町に繰り出さず寝る。おやすみなサイ。翌日…↑阪和線の大和川橋梁大阪市の一番南で半日くらい箱詰め。有意義な一日だった。↑大阪駅はリニューアルして東京駅みたく立派になってる。あぁ昔の大阪駅の面影が・・・・まだあるけどね。急いで、東海道山陽本線を西へ。姫路でえきそばタイム。↑関西と中国の中間として著名な相生駅(兵庫県相生市)相生マジック♪…の舞台。(相生→岡山を新幹線に乗ることによって、岡山から先の特急券を半額にするというマジカルなお話を体験できます。)ここでわざわざ一駅だけ新幹線に乗るのです。↑300系ひかり新幹線はステキですね。やっぱりこれだけ所要時間が短縮されると、飛行機いらず。日本の技術は素晴らしい。↑淡路屋の弁当で一杯そしてイマにいたる。明日はバイトだ。寝よう。疲れた。
2011/04/18
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ご無沙汰です。なんとか生きております。(゜o゜)とはいえ、最近まったくブログを書いていなかったので、ちょっと振り返ってみましょう。2月…紀州和歌山へ。久々の和歌山訪問。というか、和歌山に行ったことすらブログに書いていなかったのか…。3月…東北関東大震災発生。未曾有の大惨事。イマまで日本人が当たり前にやってきたことが大幅に見直されなくてはならないだろう。大きな変革元年である。これだけの悲しみは決して無駄にはしない。残された者はやるべきことをやらなくてはならないと思う。4月…いい日旅立ち、西へ。九州横断。 ↑五高の桜(熊本県熊本市黒髪・熊本大学黒髪キャンパス)↑日豊本線から桜島を眺める(鹿児島県鹿児島市) ↑肥薩線をゆく(鹿児島、宮崎、熊本県境)鹿児島まで行ってきたけど、さすがに遠かった。熊本でも遠いのに。最近は所用の為、県外を訪れる機会が多いような気がする。いよいよ卒業の年であり、そして分岐点。早いものだ。。。。ではでは、またそのうち日記を書きますので、それでは。
2011/04/16
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★2011年1月3日 前日まで寝込んでいた。今日は帰る日でしたね。7時の羽越線で秋田を出る。秋田→酒田→村上→新潟→直江津という電車の接続は体に染み付いてしまった。(゜o゜) 最近はホームの何処にいれば座れるとか、何両目に乗ればダッシュが出来るとかいうことまで把握しているのである。 慣れというのは怖いものだね。というか、これがもしかして「乗り鉄」っていう奴なのか・・・・・(笑) ↑そんなに荒れ狂ってない日本海(新潟県・笹川流れ附近) 穏やかに南下する。新潟で豪勢に駅弁を買って、快速くびき野に乗って直江津へ。いっつもは乗り換えるだけの時間しかないが、この日は時間があったので降りてみた。 実に四年ぶりの直江津駅前。(・。・) ↑継続団子調整元・三野屋(みのや) 久しぶりに継続団子が食いたくなったので、iza。 (すっげぇ気になっていた・・・ - かえりみち - 楽天ブログ(Blog)を参照)以下は放浪記による。 直江津の駅についた。港の駅なり。駅のそばで団子を買った。 「この団子の名前は何と言うんですか?」 「へえ継続だんごです」 「継続だんご……団子が続いているからですか?」 駅の待合所に腰をかけて白い継続だんごを食べる。あんこをなめていると、あんなにも死ぬる為に明るさを感じていた事が馬鹿らしくなって来た…… 死ぬのが馬鹿らしくなる団子。百聞は一見に如かず。皆さんも直江津お立ち寄りの際は是非。 旅を続けよう。直江津からは富山へ向かおうと思ったのだが、冬の長野もいいんじゃないかと信越線を歩むことにする。 信越国境はたいそうな雪。そういえばこのあたりは妙高高原。日本におけるスキー発祥の地だからね・・・・ 長野で乗り換えて、篠ノ井線姨捨駅で途中下車。 そうそう姨捨(おばすて)ね。 ↑善光寺平の夜景が驛からは一望できるのだ。 眼下に広がるは、かつて甲州の武田信玄と越後の上杉謙信が雌雄を決した、川中島八幡原である。 一人、なんにもない山の無人駅でポカリスエットを飲みながら、胃の痛みとともに、長野盆地の夜景を見るというのもまたオツなものである。 この日は松本で一泊。★1月4日 翌朝になっても胃の痛みが収束することをしらず。 とりあえず朝マック。気持ち悪いまま、朝マックをした。 そのまま、篠ノ井線を南下。塩尻からは中央線。 もし一つだけ好きな路線をあげろといわれたらこの長野から東京に向かっていく路線が候補にあがるだろう。 理由なんかない。なんというのか、やっぱ中央線だね!! 何よりも景色がいい。そして都会と田舎の共存。人が少ないようで多い。 そして何よりも、長野。長野がいいんだよ。 下諏訪で途中下車。早速、信濃國一之宮、諏訪大社に初詣。 「諏訪(すわ)」 諏訪は私にとって思い出深いところである。武田信玄が好きだった頃、家族と共に訪れた。信州のど真ん中に位置する諏訪は中山道と甲州街道の分岐点。江戸・京都・北国の文化が一同に會するところである。また諏訪湖をはじめ諏訪大社が存在している。 ↑諏訪大社下社・秋宮 諏訪大社は4つの社で構成されている。その社格は高く、延喜式内社の一つでもある。また名神に指定されている。東国においては、鹿島・香取・諏訪のみが名神大社である。 ↑中山道六十九次・下諏訪宿 下諏訪は雰囲気のよい町である。↑矢除石 武田信玄はとある僧に戦いにかつ秘訣を教わったそうだ。僧はこの石の上に立って、「私を矢で射てみよ」と信玄に言った。信玄は近距離から、僧に向かって弓を討つが、なぜか弓は僧に当らず石に当たり跳ね返った。 僧は一言こう言った。 「この石には矢除けの力がある。」 でもこの石、どことなく武田家の家紋「武田菱」のように見えないだろうか。 ↑諏訪盆地と遠く諏訪湖 ↑諏訪大社下社・春宮の御柱 ↑諏訪大社下社・春宮 そして・・・・ こ、これは。これを見て何を思うだろうか。 これは万治の石仏という。その昔、諏訪大社下社・春宮に石の大鳥居を作ることになったという。そこでよい石材を求めてこの石材にノミを入れたところ、なんと血が出てきたという。職人たちは恐れ逃げた。 その夜、職人の夢の中に「上原山によい石材がある。」という夢のお告げがあり、鳥居を完成させることができた。 職人たちは、血が出てきたこの石がきっとよいお告げをくれたのだろうと、この石材で阿弥陀如来を作り祀ったという。 というのが万治の石仏における伝承である。あの「芸術は爆発だ!」で知られる岡本太郎氏も・・・ 「こんなに面白いものがあるか!」 と大絶賛したという。たしかに顔がおもしろい。そしてこの体と顔のアンバランスさ。また最近は毎年首が伸びているということで話題になった。 ↑下馬橋・・・室町時代の創建 ↑下諏訪駅を後にする。 塩尻でワインを買って、中央西線を中津川へ。中津川からは快速で名古屋へ。 ↑素直な気持ちできしめん!! 今日もきしめんはおいしゅうございました。 おわり
2011/01/15
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★2010年12月27日前日のうちに、岐阜から高山本線で北上。高山驛に着いたのは23時10分。宿を取って早朝出発。久々に雪を見た。 ↑飛騨国分寺のさるぼぼ棚さるぼぼとは、飛騨の言葉で「猿の赤ん坊」という意味です。赤い顔が猿の赤ん坊に似ていることから、そう呼ばれるようになりました。昔、飛騨地方では、母親が娘の縁結び・安産・夫婦円満を願い、また、子供達が健やかに育つことを願い、このさるぼぼを作り与えたと言われています。(高山市HPより) ↑飛騨国分寺三重塔 ↑宮川を眺める宮川という川は北へ流れ、富山湾に注いでいる。富山では神通川という名称で呼ばれているが、こちらの名前の方が有名であろう。 ↑高山陣屋高山陣屋は全国で唯一現存する代官所である。御蔵の展示内容が素晴らしかった。きっと、こういう展示は学芸員がきちんと仕事してるんだろうね。 ↑元祖・飛騨牛串焼き ↑三之町・古い町並飛騨は山国である。律令国家での格式は下国で、93%が山林という貧しい土地であった。飛騨の人々は、庸や調を免除される代わりに「飛騨工(ひだのたくみ)」として都で建物の建築を行った。飛騨が現在でも家具作りの匠が多く盛んなのは、これによるそうだ。飛騨が大きく変わったのは近世に入ってからである。織田信長死去後、飛騨の豪族である姉小路頼綱は江馬氏などの土豪を討って飛騨を掌握した。その後、頼綱は越中の佐々成政と結んで、羽柴秀吉と敵対したため、秀吉は金森長近をもってして飛騨を攻撃した。その後、飛騨の主となった金森長近は松倉から高山に本拠を移して、ここに京都を真似た町を作った。これこそが今の高山の町の原形となったものである。 ↑飛騨中華・やよいそば ↑飛騨牛のにぎり・金亀館(驛辨調整元)食ってばっかしだけど・・・・www ↑さらば高山!!電車で一驛。飛騨一ノ宮驛へ。 ↑飛騨一ノ宮水無神社↑高山本線飛騨一ノ宮駅↑18きっぷ旅をしていると特急に乗りたくなるよね!!↑春になると桜をつける臥龍桜樹齢1100年といえば平安時代からあるんやね。長い冬が過ぎると屹度桜を咲かせるんだろうね。また春になったらやってこよう!!↑あの有名な美濃太田驛美濃太田の木曽川沿いの音羽浴場という風呂で湯に使って、岐阜へ戻る。ここで函館へ向かうという先輩と合流してムーンライトながらで東京へ。上野からはひたすら東北線で小牛田へ。↑これです。きのこうどんが食いたかったのだ!!久々に鳴子へ向かって、駅前の「えがお食堂」できのこうどん。懐かしかったね。おわり
2010/12/30
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★2010年11月27日~28日先日、友人たちと高知へドライブへ行ってきました。いまだに運転免許がないのは自分だけ。そろそろ取りたいもんですなぁ。(あ、ちなみに先日、小型特殊免許を取りました。いらねー。ww)↑足摺岬 ↑明神丸ひろめ市場店で鰹のたたき ↑土佐の英雄、長宗我部元親廟所 ↑桂浜 竜馬はひとり短艇をおりた。渚の水で袴を濡らしながら砂浜にあがると風が西南に吹きわたって、遠近の松が鳴った。 砂浜が長く、白い。 長い渚のむこうに竜王岬が海にむかって伸び、岬の脚の岩に波が間断なくくだけているのが見える。 (桂浜じゃな) 竜馬は一歩一歩、足あとを印するのを楽しむようにして歩いた。歩くにつれ、こみあげてくる感傷に耐えきれなかった。 この國にうまれた者にとって、この浜ほど故郷を象徴するものはないであろう。 のち、この浜に竜馬の像が立つ。 「スエズ以東最大の銅像」といわれるこの像の建設は、大正十五年、数人の青年によって運動がおこされた。 当時、早稲田大学の学生だった入交好保氏、京都大学在学中の信清浩男、土居清美、朝田盛の諸氏である。 彼らは全国の青年組織からわずかずつの寄付を集め、途中、岩崎弥太郎がおこした岩崎男爵家から五千円の寄付申し出があったが、零細な寄付をあつめてくるという建前から、かれらはこれをことわり、ついに資金をつくり、彫刻家本山白雲氏に製作を依頼した。 銅像は昭和三年の春にできた。 その台座の背面に建設者の名前を書くのが普通だが、かれらはいっさい名を出さず、 「高知県青年建立」 とのみ刻んだ。 五月二十七日の除幕式の日、当時の日本海軍は駆逐艦浜風を派遣し、その礼砲とともに幕を切り落とした。 が、このときの竜馬は、まさか自分がこの浜で銅像になって残るとは夢にも思わなかったであろう。 司馬遼太郎『竜馬がゆく・八巻』より 打ち寄せる波は、はるかなる太平洋からやってくる。 島影もない大洋。 どこまでも続く海の向こうに、土佐の人々は何を思ったのであろうか。 19世紀、武士の世に終わりを告げた「大政奉還」という号砲は、この國から生まれたものであることは言うまでもない。 追伸・ちなみにこの日は龍馬伝最終回でした。(見てないけど・・・)
2010/12/14
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日記の更新が気まぐれすぎるのは、仕方がない。(・。・)自分は暇なようで忙しくもあり、実体は暇なんだろうけど、やっぱり忙しい人間である。ところで、今はSNSとかtwitterとかが流行となっていて、こういう日記サイトを書く人も少なくなったような気がする。寂しい限りであるが、時代の流れというものは、時に残酷なものである。博物館実習で、ファミリーコンピューター(ファミコン)が民俗資料になっていたときは尚更、それを感じてしまった。★2010年10月7日時は平成二十二年十月七日、私は上洛した。講義を自主休講して木曜日から京都に行くなど、よほどのことではあるが、それなりの事情があってのことである。↑高瀬川(三条木屋町)京の季節は移ろってゆく。朝から新福菜館でラーメンを食いながら、ガイドマップを見ながら、思いつきで鞍馬に行くことにした。↑鞍馬寺京阪電車と叡山電車を乗り継いで着いた鞍馬は洛北の山中にある。もはや、ここは京都ではないような気がする。修学旅行生ですらも訪れないし、けっこう観光客の少ない穴場なのかなぁ。と、思いきや昨今のパワースポットブームで、木曜日にも関わらずそれなりの観光客で賑わっていた。歩いて90分くらいで貴船神社へ。↑貴船神社貴船神社は鴨川の源流部に鎮座する。そういや、和泉式部が夫の不倫に心を痛め通い詰めた社であることを思い出した。そうした由縁から、ここは縁結びのご利益があるとされる。たしかに周りを見ると女性ばかりである。男二人で来るようなところではない。笑まだまだ京都もいい場所がいっぱいあるなぁと。貴船神社は最高にいいとこなので是非、ご参拝あれ。↑詩仙堂京都へ戻り、途中、一乗寺というところで途中下車をしたが、ここはなんともいい町であった。恵文社という粋な書店があったり、何よりも詩仙堂がちょこんと座っている。そうだ京都いこうというJR東海のCMがあるが、それを見て、詩仙堂に行きたいと思い、はじめての訪問であったが、いいところであった。↑時計台京大で用事をすませ、木屋町でもう一人の友人と合流して3人で飲んで、夜行バスで帰ってきたまま、直行でバイトに向かった。が、強行軍は辛いね。★2010年10月9日~11日四国といえども、高所は寒い。石鎚山は四国随一の高嶺でもあるけれど、独特な山容は魅力的な山域でもある。ひょんなことから、この頂でバイトをすることになってからは、尚更行く機会が増した。↑松山の夜景↑ご来光↑天狗岳★2010年10月16日~17日京に続いて、今度は山陰である。題して出雲そばツアー。(そば食えないけど)四国から山陰への地図を見て分かる通り道は長い。少なくとも新潟から東京へ出るくらいはかかるかもしれない。↑出雲の大社(いずものおおやしろ)『古事記』によると、出雲大社は大国主命が天照大神に國を譲る際の見返りとして、立派な建物を建てるように求めたものである。ちゃっかり二回目の訪問ではあるが、現在は平成の大修理中で、全貌を見ることができるのは平成二十五年とのことである。↑西十九社(出雲大社内)旧暦十月の異名は「神無月」であるが、出雲地方では「神在月(かみありづき)」である。ここ西十九社には全国の神々が集う宿所になるとのこと。ちなみに出雲では「ぜんざい」の店が多くあり、ぜんざい発祥地を称している。これは神在祭の際に振舞われた神在餅(じんざいもち)がぜんざいになまって広まったという説が根拠であるそうだ。↑松江城松江城は現存十二天守の一つであり山陰地方で唯一の現存天守である。松江市内は初めての訪問ではあるが、趣のある街であった。↑八重垣神社翌日は境港へ。↑廻る目玉親父水木しげるの出生地、鳥取県境港市。鬼太郎もそうであるが、今年の朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」の影響であろうか、凄まじい観光客の数である。↑鳥取砂丘鳥取といえば砂丘である。が、境港から鳥取は遠かった。私は免許がないので運転したわけではないが、先輩方はご苦労なことだったと思う。また、山陰もゆっくりほっこり訪れたいものである。
2010/10/21
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ご無沙汰です。このブログの維持費に月額100円かかっているっていうね。(゜o゜)★2010年9月27日どうも東國(とうごく)へ向かうと、北國(ほっこく)に近くなるような気がするが、意外と西國(さいごく)から東へ向かって帰ってくる機会というのはないようであるものである。何も実家へ帰るのだけが、一つの道ではない。今回は学校の授業で東國を訪問する機会を得たので、つらつらと書き留める所存である。↑藤沢山遊行寺(神奈川県藤沢市)またの名を清浄光寺ともいう、時宗(じしゅう)の総本山である。時宗というのは鎌倉時代に一遍と呼ばれる僧がはじめたもので、特徴として「踊り念仏」が挙げられる。一遍は、あまり知られてはいないかもしれないが、伊予道後の生まれである。伊予國守護、河野氏の出身であり、主家が承久の乱で上皇側についたため、勢いを失ったため、自身を信仰の道へと歩ませた。一遍は全国を練り歩き、踊念仏を広めた。その足跡は偉大なるものである。その様子を綴った一遍上人聖絵は国宝としても有名である。その時宗の総本山は、藤沢にある。↑敵味方供養塔(遊行寺境内)1416年(応永二十三年)前の関東管領、上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻し、両軍相当数の死者が出た。この時、遊行寺の太空上人は敵味方の傷ついた人を収容して治療し、死者の場合は、和気隔てなく平等に供養したという。この碑は、國指定史跡に指定されている。↑放生池それにしても、この日の関東は15度。なんという寒さだ。江ノ電で鎌倉に向かおう。↑雨の鎌倉高校前駅(江ノ島電鉄鎌倉高校前駅)鎌倉高校前驛は相模灘が迫る、湘南きっての風光明媚な驛である。が、降りるのは初めてである。↑崎陽軒のシウマイ弁当こんな寒い日に外で弁当を食うなど、あってはならないことである。↑円覚寺にて北鎌倉は何度もブログで取り上げているので説明の必要もないだろう。↑雨が降り注ぐ建長寺月曜日に加えこの寒さ、そして雨。人のまばらな建長寺を見たのは初めてである。↑鶴岡八幡宮↑昔は通行できたようだが・・・・今回の鎌倉は是非行って見たいとこがあったので、一人抜け駆けした。その場所は壽福寺。鎌倉五山第三位である。↑鎌倉五山第三位・壽福寺(神奈川県鎌倉市)静かな境内に、己一人とは風情があるものである。密かではあるが、鎌倉五山をコンプリートしたことはちょっとした鎌倉通である。(笑)★2010年9月28日翌日、神奈川県内は大雨洪水警報である。俗に言うバケツをひっくりかえしたような雨。↑早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本)湯本にあるのがご存知、早雲寺。(ご存知なわけないか)早雲寺は典型的な戦国大名、北条早雲に始まる小田原北条五代の墓所がある。また連歌師の宗祇の墓所も当地にある。また北条幻庵作庭園も存在する。幻庵先生の庭園は素晴らしかった。そういや箱根もなんだかんだで、15年ぶり。相変わらず、国道1号線の東海道は相変わらず。↑箱根関所資料館(神奈川県足柄下郡箱根町元箱根)↑小田原城常盤木門(神奈川県小田原市)小田原城も久しぶりだね。↑ここに来て天気も回復。↑横浜中華街朝陽門夜は中華街へ。横浜中華街も8年ぶりくらいだね。みなとみらい線とか当時はなかったよね。↑横浜夜景開国から一世紀半ちょい。この國はどこへ向かっていくのだろうか。と昔の私だったら書いたであろう。(笑)ハプニングしかない旅行であったが、こんなに悲惨な旅行も久しぶりである。ま、小田原で晴れたのはキセキとしかいいようがない。おわり
2010/10/05
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夏ですね。奥羽は、涼しいこと限りなし。夜が25℃から下がらない夜を過ごしてきたので、この涼しさは最高です。(・。・)というわけで実家へ帰ってきましたが、スケジュールはつまりっぱなしです。★8月15日 旅のスタートは早い。岡山驛で同行者と合流し、東へ。姫路からは敦賀へ向かい「庄兵衛さんの鯖寿司」を購入。敦賀からは北陸線で福井へ。福井からは越美北線に乗換えて足羽川沿いに上ると・・・。 越前一乗谷である。 一乗谷は戦国時代、越前朝倉氏の居館があった所である。義景の時に織田信長に滅ぼされるまで越前の拠点であった。 そうそう!!最近はソフトバンクのCMに雪景色の一乗谷が出ましたね♪ ↑一乗谷武家屋敷地復元(福井県福井市) 典型的な中世の城郭です。それにしても城郭の範囲は広いのなんのって。一乗谷駅から徒歩40分・・・・体から変なにおいが出てきました。 福井に戻って駅前に銭湯発見。地獄に仏とはこのことか・・・・福井はいいとこだね。これで一応、北陸三県の県庁所在地はみんな訪れたよ。。 北陸線を南下。米原から東海道線で岐阜へ。 ↑ぎふー 岐阜からはムーンライトながらで東京へ。 ★8月16日 東京駅のコインロッカーに荷物をぶちこもうとすると、知らぬ人に「両替してくれませんか?」と言われた。あの私はそんなに小銭持ってるように見えるんですか???ww (分かる人には分かるネタですが・・・) 江ノ島の9月末に泊まる予定の民宿のおばちゃんに会いにいってきました。なかなか、いい感じのおばちゃんでした。これは9月末が楽しみです。 ↑稲村ガ崎(神奈川県鎌倉市) おおっ、3年ぶりの稲村ガ崎です。稲村ガ崎の今日は晴れ~♪ (前回は雨でしたからね) サザンでも聞こうかと思ったけど、ウォークマンのバッテリーがない・・・・ort ↑極楽寺(神奈川県鎌倉市) 極楽寺は3年ぶり4度目の訪問。何度来てもいいお寺である。鎌倉は京都にはない、ちょっとした雰囲気ってのがあっていいよね。格式が高くないからね・・・・禪宗の寺院が多いせいだろうか。そしてあじさい寺で有名な成就院へ。 ↑成就院・不動明王 なんでもこの不動明王はあるパワースポットなんだとか。気になる人はググってね♪(・。・) ↑由比ガ浜(神奈川県鎌倉市) おおっ、由比ガ浜も海水浴客でにぎわってるねぇ。材木座から逗子の方まで見えるよ。。。 ↑鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市) そういへば銀杏が倒れちまいましたね。 この後、半日歩きっぱなしで体から異臭が発生。(この日の関東は38度) 急遽、予定を切り上げて大船へ戻って、SEIYUで600円のズボンとシャツを買って、銭湯へ直行した。 あぁ、地獄に仏とはこのことか。(・。・) 東京へ戻って神田で飲んで、上野でも飲んで、他愛もない話をしながら解散。同行者は、ここで四国へ帰還。私は新宿へ向かって23時10分発のムーンライトえちごで新潟へ。 ★8月17日 朝、新潟。何か昔懐かしい、そんな気分である。新潟からは磐越西線で一路、会津喜多方へ。 今回、会津最大の目的は・・・・ ↑坂内食堂の肉そば!! そうです。喜多方ラーメンです。喜多方は人口あたりのラーメン屋の数、日本一。札幌、博多と並んで日本三大ラーメンに数えられるラーメンなのである。 とくに坂内食堂は喜多方の名店。一坏のラーメンに感動する予定だったが、ラーメンよりも水のうまさに感動した。喜多方は北に飯豊山脈がある。飯豊の水がうまいラーメンを作るんだろうね。 肝心のラーメンは、語ることなしの逸品。 坂内食堂、皆さんも死ぬ前に一度は行くことをオススメします!! ★坂内食堂 (ばんないしょくどう) TEL 0241-22-0351 住所 福島県喜多方市字細田7230 営業時間 7:00~19:00 朝食営業、ランチ営業、日曜営業 定休日 木曜日(祝日の場合営業) 水がウマいんだから、酒がウマいという発想のもと・・・酒藏へ。 ↑みずー(注意:酒ではありません) 喜多方駅にリターン。会津若松でも行こうかと思ったけど時間の都合上、新潟へ戻りました。 (これが最悪の判断になろうとは・・・) そして、松山を出ること1500キロ。 旅も終わりを迎えようとした、秋田手前45キロでの出来事である。 ↑羽越線、大雨により運休・・・・(・。・) おーなんてこったい。羽後本荘駅で強制下車させられ、2時間も駅で止められました。そしてJR東日本が準備したTAXIに乗せられ、秋田へゴー。 まさか40キロもタクシーで帰省するとは思いもよらなんだ・・・おわり
2010/08/20
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ご無沙汰しております。なんとも、夏真っ盛りですね。今年の夏は暑すぎて死にそうです。(・。・)七月中旬に所要があって、久々に実家に帰りました。そのまま帰るんも味気ないので、姫路から特急はまかぜに乗って、但馬へ向かいました。↑城崎温泉城崎はいいところでしたね。是非とも今度は泊まりたいもんです。が、予算や時間がそうさしてくれない・・・ortそして実家から戻ってくるなり久々の石鎚山。↑西日本最高峰「石鎚山」山はいいもんですね。あまり山は好きじゃないですけど。(高所恐怖症ですから)そして今日まで、高校時代の山岳部の先輩が松山にいらっしゃいました。ようこそおいでんした、松山へ。そしてかなりのマニアックな場所でしたが、野忽那島へ行ってきました。↑皿山展望台から見る野忽那島↑ヌマバ海水浴場(野忽那島)さ、今年も忙しい夏になりそうだ。。
2010/08/05
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かつて奥羽に住んでいた者として棚田というのは未知である。田んぼというのは、広大に広がるものであるが・・・棚田は違う。大雨の中、ひとりで松山から南へ50キロ。スーパーカブ50で南下!!愛媛県喜多郡内子町泉谷(とある企画でお邪魔致したのでございます。)↑原付で行くような距離ではない。ww↑これが、棚田です!!生物の多様性。豊富な生態系。棚田は素晴らしい自然の源です。にしてもかなり下まで段々になっとらい!畦(あぜ)を壊さんように、さーて田植えだ!手で植えるっていうのは、実はハジメテ。(゜o゜)腰と肩に負担がかかります。順序よく豪雨の中、田植えをしていきます。↑田植え完了↑おいしい、お米農作業後の飯は格別です。そして棚田のお米はおいしい。みなさんと和気藹々、楽しく頂きました。新参者の私を温かく出迎えてくだすってありがとうござんした。にしても、こんなところで「ササニシキ」を食べることができるとは思ってもみませんでした。wwしかし困ったぞ。この雨の中、家まで50キロの道程を帰らねばならんのじゃ。(苦笑)
2010/05/28
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実家から松山へ帰ってからというもの色々ありました。(・。・)三月下旬には、先日書いたように身内に不幸がありまして、群馬へ向かいました。↑信越本線横川駅(群馬県松井田町)なんという久々の横川。しかも前日の寒気によって雪景色。↑埋もれた轍お金がないので青春18きっぷで向かったのですが、なんとかお通夜には間に合いました。一つの時代が終わったとはいえ、人の死というのは寂しいものです。本当にお疲れ様でした。ありがとう。そして松山に帰る途中、寄り道して川原湯へ向かいました。今、話題の八ツ場ダムに沈んでしまう温泉です。↑川原湯温泉公衆浴場「笹湯」(群馬県長野原町川原湯温泉)この湯の華の量は半端ねぇ。気持ちよすぎて昇天してしまいそうな風呂でござんした。↑笹湯概観↑吾妻渓谷自然的景観、歴史的遺産・・・・・etcこんな素晴らしい光景は、もう二度と見ることが出来ないのか。自分の無力さを痛感しました。↑旅立ちのときなぜか、色々考えてしまいました。そして学校も仕事もスタート。忙しい4月です。時の流れの中で、嫌なことがあって自問自答の日々。少し世間から隠れようと、先日は夜行バスで京都へ行ってきました。↑方広寺の鐘「国家安康 君臣豊楽」大坂の陣の遠因になった事例です。実際見たのはハジメテでしたが・・・↑三十三間堂久々の京都(でもないか・・・)でしたが、気晴らしにはなりました。愁いばかりの毎日に忙しさが加わっております。間違いなく、今が一番人生で勉強しているような気が・・・・やることにおっつかない自分がもどかしい。まぁ、ぼつらぼつら毎日をクリアしていきます。(^^♪
2010/04/23
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★平成二十二年三月十日 ↑秋田驛(秋田県秋田市) 低気圧が日本の南海上を通過。三月だというのに嵐のような天気になったが、やはり私は旅運だけはついているのだ。屹度↑キセキ的に動いてるぞ、羽越線この嵐の中、羽越線が動いているとは。さすがですね。 そのまま政令都市、新潟へ。帰省したルートを逆戻り。 22時50分発、急行きたぐに大阪行きに乗車。1260円の幸せですね。 止まります駅は、 新津、加茂、東三条、長岡、来迎寺、柏崎、柿崎、直江津、糸魚川、魚津、富山、高岡、金沢、小松、福井、武生、敦賀、長浜、米原、彦根、大津、京都、新大阪、大阪です。 爆睡するも、糸魚川で目覚め、高岡で目覚め、武生で目覚め、うとうとを繰り返し気がつけば、大津でした。 「ヤバす、もう大津かよ。」 そして急行は逢坂山を越え東山を越え、鴨川を渡り、停車した。 そう、そこは千二百年の古都、京都にあらしゃいました。(・。・) 「きょーと、きょーとです。」 早朝6時半、私は万感の思いで、京都に降り立った。 実に京都駅に降り立つなんて2年ぶりか。 地下鉄に乗り、北山へ向かう。ひたすら加茂川を歩いた。 ↑流れる加茂川、京の奥座敷は雪をかぶる(京都市北区上賀茂) 京都最古の社、賀茂別雷神社(上賀茂神社)へ。 そうですよ、かもわけいかづちじんじゃと読むのでございます。 山城国一宮にあらしゃいます。 ↑上賀茂社の名物、立砂 鬼門にまく清めの砂の起源にあるそうな。 ↑上賀茂社の摂社、片山御子神社(片岡宮) 紫式部先生も参拝されたそうです。 御朱印をいただき、今度は川を下ります。 途中、土曜ワイド劇場かなんかの撮影で渡瀬恒彦と遭遇しました。 (エキストラとなっていないことを願います。) さてさて、出雲路橋にたどり着きました。 ここは、鞍馬口といって、鞍馬へ通ずる道だそうです。 (京の七口の一つ) 次なる社は賀茂祭で有名な・・・・ 賀茂御祖神社(下鴨神社)へ。 そうですね、かもみおやじんじゃと読むのでございます。 山城国一宮にあらしゃいます。 ↑下鴨神社の紅梅(京都市左京区下鴨) この紅梅、あの紅梅白梅図屏風(尾形光琳作)のモデルになった梅だそうで。↑奈良殿神池(ならどのかみのにわ) ここは、葵祭の解除という神事が行われた場所。 穢れを落とすのでございますね。はい。 小右記が懐かしいですなぁ。 再度、鞍馬口へ。 ↑応仁・文明の乱勃発地(御霊神社) また・・・・けったいな史跡を紹介してはりますなぁと思っとるんちゃいますか??京の都が壊滅した、あの戦・・・・ 「応仁の乱」が起こった場所である。 (ちょっとマニアックでしたねぇ。) さて、ほんなら次いきましょ・・・ ↑櫻と二条城石垣(京都市中京区) 実はハジメテいきました。。。 (実は、銀閣寺や大覚寺、平安神宮、八坂神社、南禅寺、醍醐寺をはじめ京都御所にも行ったことがないのです。) 二条城(Nijyo-Jyo) 外国人にはかなり有名みたいで、修学旅行生と外国人しかいませんでした。 徳川家康はこの城で征夷大将軍に任命され、徳川慶喜はこの城で政権を朝廷に返したのである。 まさに一つの時代のはじまりから終わりまでが見れるのです。(・。・) 地下鉄で蹴上へ。三条を歩いて粟田口へやってきました。 ↑粟田口 あわたぐち。交通の要衝です。近江へ通ずるこの道(東海道)は古来より重要な道筋。中世には馬借なんかもいました。そして、刀鍛治が住み着いたことでも知られています。 ↑青蓮院門跡跡地 ↑大谷本願寺 本願寺の法主、蓮如聖人はここ、大谷本願寺に暮らしていたのだが、法華宗の攻撃を受け、堅田衆の力を得て近江を抜け北陸へ落ち、そこで一向宗が盛んとなり、中世以来100年にもわたる宗教王国を築くことになるのだが、それはまー後の話。↑知恩院 いうまでもないですね。知恩院ですよ。 浄土宗の総本山です。 ↑ねねの道を歩くと・・・ ↑高台寺 北政所ねねはいうまでもなく太閤、豊臣秀吉の正室である。秀吉亡き後、北政所は出家し、高台院となってこの寺で暮らしたわけである。秀吉の死後、高台院の力は大きいもので、徳川家康などは足しげく高台院のもとを訪れ味方にしようとしたのである。 秀吉とねねの間に子はいなかったが、二人は仲むつまじい夫婦であったという。 ねねはずっと卑しい身分の秀吉(藤吉郎)を最初は嫌っていたが、次第に惹かれて結ばれた。まさかこの男が関白太政大臣になるなど結婚当初は想像もしていなかったに違いない。 慶長二十年、徳川の天下になってから久しい。 時の流れというのだろうか、大坂の陣で秀吉の遺産である大坂城は炎上。夢にまで見た天下。秀吉の夢。 大坂城の燃える様は、ここ京は東山、高台寺からも見えたという。ねねはどのような思いでこれを見たのであろうか。 しばし、余談が過ぎましたな。 ↑御陵衛士屯所跡 そうです、いとうかしたろうです!! 新撰組好きには有名ですね。 ↑高瀬川 木屋町蛸薬師の王将で昼飯。 やっぱ王将はいいですね。 餃子サイコーです。 ↑三条大橋 いやはや、京でも遊びすぎましたな。 (歩いていただけですが・・・・) 一人でくれば、なかなか京都というのは歩き辛いものでして。 そうですね。まわりが観光客ばっかしですから。 一人でまったりするとなるとやっぱマニアックなとこばっかしですよ。 今度は銀閣寺にいったついでに大原でも行こうかな。そして比叡山でも登ろうっと。 さてと。。。 最後まで、新快速で帰りたかったんですが・・・ 京都駅から私は妥協して新幹線で帰りました。 (新快速が人身事故というので) さすがに歩き疲れましたね。 新幹線って速いよねー。 岡山までわずか2時間。 爆睡すらできませんでした。 いつもの、しおかぜで松山へ。 ↑菊間で日が沈む 10日ぶりに見た瀬戸内海は懐かしくもありました。 いづうの鯖寿司食いたかったなぁ・・・「しかし困ったぞ、私の財布は底をついてしまったぞ・・・」 おわり
2010/03/26
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★2010年3月5日(金)山形から大学の友人が遊びに来た。(・。・)前日は川反で飲んで、ひっさびっさの秋田県の食に舌鼓。。。この日は早朝から起きて、仙北市田沢湖まで秋田新幹線を使って移動するというVIPぶり。だが田沢湖駅からバスの発着まで時間があったので・・・田沢湖まで7キロばかりの道を歩いたのだ!!歩くこと1時間10分。↑水深日本一、田沢湖↑ダッシュする我観光すること5分。乳頭温泉行きのバスに乗る。↑終点、乳頭バス停にしても相当の積雪。久々に雪を見たような・・・↑大釜温泉今回は夏場に入れんかった、大釜温泉に入った。大釜温泉は小学校の校舎を使用したものだ。これで休暇村以外の乳頭温泉をコンプリートした。(・。・)雪を見ながらの露天風呂とは最高ですねぇ。↑先達川先達川とか懐かしいですね。高校時代を思い出します。水沢尾根とか乳頭キャンプ場とか、大白森とか。(過去のはなし)↑二度目の訪問、妙の湯温泉↑ご自由に、きのこ汁↑稲庭うどん下山して大曲で友人と別れ秋田へ帰還。高校時代の友人と飲んで、最後にスエヒロへ。↑スエヒロの塩おわり
2010/03/08
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さてさて、はじまりました。きせいというなの帰省!!(・。・)まったく四国から奥羽は遠くて、困ったものです。Aha-★2010年2月27日職場の4回生の送別会。三越近くのシャれた店を選びました。サントリープレミアムモルツが出て来るのはいいんですが、ちょっと料理が少なかったかな。けっこう飲んで、そのまま高速バスで梅田へ!!★2010年3月1日大阪も雨。天気悪いね。神戸線に乗って、とりあえず神戸方面へ向かう。途中、六甲道で降りて、前々から行ってみたかった、灘温泉で朝風呂。こんな神戸の灘区の街のど真ん中にこんないい風呂があるなんて。↑灘温泉やばす。地元民と一緒に入る朝風呂。最高です。そのまま二駅。三宮へ。そこからポートライナーで神戸のポートアイランドへ向かおうとしたんやけど、日曜日だというのにありえんくらいのラッシュ。そう、今日は簿記の試験があるのです。私は簿記の試験を受けるために遥々神戸までやってきたのでした。会場は神戸学院大学。私學ですよ!私學。キャンパスの新しさと設備に感動。あぁ、地方国立大は酷いね。(ま、授業料の安さはウリですが)簿記の試験は壊滅。さすがに勉強する時間がなかったしねー。イイワケ。昼に三宮に戻ってきて、関西の友人とDATE。(笑)なんとまぁ神戸初なんやて。↑須磨海岸もはや須磨は定番ですね。写真に見える山は一の谷です。源義経が下ってきた・・・そしてなぜかしら須磨で王将に入ってギョウザ定食。チリ地震の津波警報が出てたから人は、マジでおらんかったけど。再度、神戸に戻り、モザイクからメリケン波止場へ。そして海岸通りを元町へ。神戸はいつきてもシャレた街やねー。(・。・)↑幕末に神戸事件が起きた三宮神社最初はガード下のGREENS Coffee Roasterに行きたかったのだが、休みでした。仕方ないので、元町通りへ。↑いちごのクレープロールおいしゅうございました。甘いものには目がありませんね。相変わらず。ww★パティスリー・サソボン 元町 TEL 078-321-5250 住所 兵庫県神戸市中央区元町通3-4-12 営業時間 10:00~19:00日曜営業定休日 火曜日 そして友人と別れ、今日のメインイベントである、しばじゅんのツアーへ参戦。実はライブとかツアーに行くのは初めてなんです。と、この三宮の雑踏の中で、奇跡的に大学の先輩カップルと遭遇。先輩もしばじゅんの大ファンなのです。ま、私はといえば大学に入ってからしばじゅんを聞き始め、大々ファンになってしまい。今日に至るのです。(神戸で簿記を受けたんもそういうわけです。)JUN SHIBATA CONCERT TOUR 2010 月夜PARTY vol.2~だってピーナッツだもん~(神戸こくさいホール)にしても、じゅんじゅんはもう、可愛くって素敵で本当に行ってよかったっていえるライブでした。どうしてこんなにしみる歌を歌うんでしょう。ライブなのに、あそこまで実力をだせるとは・・・・「君へ」のエピソードを聞いた時不覚にも涙がこぼれました。余韻がさめないままライブが終わって先輩たちとサンキタへお好み焼きを食べにいきました。そして私は大坂へ!!大阪駅から急行きたぐにで一路、北国(ほっこく)を目指す。ふるさとへ向かう最終に乗れる人は急ぎなさいと・・・・・優しい優しい声の駅長が街明かりに叫ぶ振り向けば空色の汽車は今、ドアが閉まりかけて明かり灯る窓の中では帰り人が笑う・・・・・♪『ホームにて(中島みゆき)』★2010年3月1日汽車は新潟へついた。いつもだったら。ここで秋田行きの特急で帰ってくるのだが趣向を変えて途中下車してみることにした。行き先は「新発田」これで「しばた」って読むんだからね。まぁ古きよき城下町なんだけど街中を歩いてみたことはないんだよねぇ。↑裁判所にある布団掛けの松↑堀部安兵衛は新発田出身↑越後新発田藩の居城、新発田城(新潟県新発田市)↑清水園、良寛の筆による↑国の重要文化財、新発田藩の足軽長屋↑新発田の銘酒、王紋の酒蔵↑新発田駅前のながしまにて豆腐のカツ煮御膳昼間っから地酒をよう飲みました。酒蔵まで行ったしね。あぁ、新発田もいいとこだねぇ。↑しばた~新発田からは羽越線で村上まで。村上驛が立派になりすぎてビックリしました。半年前は工事中だったからね。↑特急いなほ村上からは、いなほに乗ったけど、村上以北の羽越線は日本屈指の過疎路線。秋田と新潟を結ぶ特急は一日3往復しかないんですよね。これまた。象潟あたりで吹雪いてきたし。もう、コレは酷い。半年ぶりに秋田へ帰ってきましたが、どうにも寒くて死んでしまいそうである。(・。・)帰省編・おわり
2010/03/03
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さくじーつの早朝、中島から帰還しました。(・。・)目的はもはやこの時期の定番である「初春・中島キャンプ」っていうね♪2泊3日でテントを張ってキャンプをしましたが、この時期は瀬戸内といえども寒い・・・↑スーパーカブと同化したぶぎょう↑みかん四姉妹中島におったときは頭が黄色くなるまでみかんを食い続けたんやけど、やっぱみかんは最高ですね。左から、若者に大人気「はるか」(おばちゃん談) やっぱり定番「はるみ」 これがみかんだね「はれひめ」 そしてすがやの大好きな「天草」 みかんいうてもよーけ品種があるんですな。。。。 勉強になりました。 そしてkiwi。キウイフルーツもたーんと買ってしまいました。 (愛媛はキウイ生産日本一)↑神浦(こうのうら)地区中島は元々、忽那(くつな)島といって、藤原北家の忽那氏が治めていた。南北朝時代は、南朝に属し、細川や河野ら北朝方を脅かし続けた、伊予の海賊であった。中でも忽那義範は後醍醐帝の皇子、懐良親王を三年もの間、島に迎え南朝方の中心人物となったことで知られる。懐良親王がおられた場所がここ「神浦」であるといわれる。↑夕暮れあぁ、日が落ちていく。寒かったけど、サークルの奴らと、いろんなことを語れた週末であった。
2010/02/22
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すっかり関門を旅行したことを書くの忘れてた。ってなわけで順番は前後するが、昨年、4人のファミリーで行った関門旅行記を書こうと思う。★2009年12月6日(日)早朝、小倉港に着く。歩いて小倉駅へ。何気に2009年、小倉は三度目である。ここで買い物組と分かれて、我々は下関へ向かうことにした。(゜o゜)電車に揺られトンネルを抜けると本州。↑個人的に、下関名物といったら「ふく天うどん」ここの細身のうどんはけっこう好きなのです。それにしてもやっぱ気になる黒いかまぼこみたいなの。あれはいったいなんでしょうかね?バスに乗ろうと思うも早朝のため本数少ないため、けっこう待つ。そしてやっと来たバスに乗り換えていざ壇ノ浦へ♪↑早朝の関門海峡(山口県下関市)写真上の橋は高速道路で、下に一般道の関門トンネル(歩行者道も含む)があるが、おりしもトンネルは工事中。↑壇の浦(山口県下関市)壇ノ浦というのは下関中心地から少し北にいったところである。かつてここで源平の戦が行われ平家は滅びた。幕末には長州藩が諸外国から攻められた「下関戦争」の舞台。そして今は日本国内屈指の海上交通の要衝である。↑下関砲台レプリカ↑壇の浦で入水した幼帝、安徳天皇を祀る赤間神宮↑山陽道起点↑現存する郵便局としては最古の建築である下関南部町郵便局と、帰りは駆け足ではあるが、壇の浦から下関駅まで歩いてみることにした。そして、おもしろいバルーンを発見した。↑なんだ、この癒しバルーンは・・・・(工事中だよ)↑高杉晋作銅像高杉晋作(1830~1867)幕末長州藩に生まれた革命家である。その27年という短い生涯の中で日本史上に多大な影響を残す。長州藩に身分によらない奇兵隊を組織し、外国の脅威を通して長州を尊皇攘夷から倒幕へと向けさせた張本人でもある。↑高杉東行終焉の地東行とは高杉の号である。この由来は西行をもじったものであるが、東(江戸)に行くという意味も存在する。高杉は短い生涯をここで終えることになるのである。辞世の句「おもしろきこともなき世をおもしろく」後年、高杉に付き従って幕末維新期を生きた伊藤博文(初代内閣総理大臣)は、高杉のことを以下のように評している。「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし」↑長門国嚴島神社↑嚴島神社にある大太鼓山口県下関市には長門国嚴島神社がある。この境内には高杉晋作が小倉から持ち帰ったという大太鼓がある。第二次長州征伐によって長州藩は幕府諸藩の攻撃を受けるが圧倒的不利な形勢であった長州藩は奇跡的に勝利した。その戦闘の最大の激戦であったのが、晋作が参戦した小倉城の戦いであり、激戦が繰り広げられ、長州方は小倉城を落城させる。その際に小倉城にあったこの大太鼓を奪い、戦勝祈願をした嚴島神社に御礼の奉納をしたのだ。↑奇兵隊結成の地その後、駅に戻りスタバで一服して九州へ。↑小倉城庭園から見る小倉城(福岡県北九州市小倉北区)定番の松本清張記念館と小倉城を見て、買い物組と合流。昼飯へ行くことにした。↑魁龍のとんこつラーメン超こってり系のラーメンであった。今度は一蘭に行ってみたいなぁ。★魁龍本店 小倉魚町店 TEL 093-541-0809 住所 福岡県北九州市小倉北区魚町2-3-12 営業時間 11:00~翌1:00ランチ営業、夜10時以降入店可、日曜営業定休日 年中無休 小倉を後にして門司港へ。レトロな町並みですよ!!↑門司港の風景↑門司港バーガーなんか食ってばっかしだね。(笑)↑夕暮れ↑門司港レトロハイマートから↑冬のイルミネーション♪↑門司港名物焼きカレー門司港では焼きカレーが名物だという。その味は今まで体験したことがない味であったが、御飯の焼き具合がよかった。★伽哩本舗 門司港レトロ店 TEL 093-331-8839 住所 福岡県北九州市門司区港町9-2 阿波屋ビル2F営業時間 11:00~20:00ランチ営業、日曜営業↑夜の門司港駅↑もじこう再度、小倉へ・・・↑紫川沿いのイルミネーションクリスマス前、イルミネーションが冬をいっそう引き立てた。それを見ながら、深夜のフェリーに乗って九州を後にするのだった。(^^♪補足、次の日は朝から仕事っていうね。。。。おわり
2010/01/14
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この日記は後編です。前編は「ねんまつ伊豆行(前編)」をご覧になってください。★2010年1月4日(月) スーパドライのウマさがちょっとだけ分かった8日間。でもやっぱ私はサッポロ黒ラベルだねっ。伊東線、東海道線経由で東京駅へ。東京駅から中央線で御茶ノ水へ。そっから総武線に乗り換えて、飯田橋!!早稲田通りを歩いて靖国神社へ。 ↑大村益次郎銅像 大村益次郎(村田蔵六)・・・周防国鋳銭司村(山口県山口市)に村医者の子供として生まれる。広瀬淡窓、緒形洪庵に学ぶ。その後故郷で医者となるが、蘭学を見込まれ伊予宇和島藩に召還される。 その後、明治政府での主要人物となり上野戦争では九段の丘から上野の幕府残党めがけて大砲をぶっ放し、勝利を決定づけた。 ↑2010年、靖国神社(東京都千代田区九段北) おみくじは大吉であったが、新年は大吉しか引いたことがないので、嬉しい感じはあまりしない。今年も何もなきゃいいけどね。 ↑遊就館のゼロ戦 ついでに靖国付随の博物館「遊就館」に行ってきたが、巨大な展示であった。 ↑千鳥ヶ淵から見た首都高速 さらにこの後、神保町まで歩く。あー神保町はいい町だよ。マニアックな店がいっぱいあるしねぇ その後、変わったサテンがあったのでちょっと入ってみた。 ↑コーヒー(420円) 何でもコーヒープレスで入れるコーヒーとか。実はプレスで入れるコーヒーを飲んだんは初めてかもしれん。(゜o゜) ★珈琲 音叉 (コーヒー オンサ) TEL:03-3237-6417 住所:東京都千代田区神田神保町2-46-9 第2十勝ビル 1F さて、腹も減ってきたなぁ。都営新宿線で小川町へ。歩いて秋葉原へ。さらに国道4号を北上して上野御徒町へ。 ↑てんや御徒町店の「野菜天丼」(500円) もはや東京での定番ですね。ただのファーストフードだけど。しっかりワンコインでウマいしね。 春日通りのスタバで暇つぶし。久々に先輩と再会。松山で会ったのが最後だから、一年半だろうか。ほんで、御徒町の飲み屋に入る。 ↑らーめんサラダ またけったいなもんですねぇ。ラーメンサラダって。なんせ東京の名物らしいですよ。(笑)ま、おいしかったからいいけど。色々話して解散。次回はもっと計画的にしますぜ!! ↑山手線御徒町駅(東京都台東区) 山手ラインで東京駅へ。この時間の東京駅にいるということは。もうあれしかない。あれですよ。 「ムーンライトながら」 510円で乗れる現存する東海道線最後の夜行快速である。 ↑数多くの名列車が旅立った東京駅10番線 ↑入線したムーンライトながら ムーンライトながらは臨時列車化されてから相当早くなった。今までは豊橋駅から先はすべての駅に停車してたから格段に効率はよくなったような気がする。サッポロ黒ラベルを買ったが開けることなく爆睡。 ★2010年1月5日(火) 岐阜県垂井。竹中半兵衛のふるさと。早朝六時、垂井駅に降り立つと、雪に覆われていてみぞれ交じりであった。ここで一呼吸入れて、関ヶ原を越えて西日本へ。久々の西国でございます。(^^♪ ↑東海道線米原駅(滋賀県米原市) 米原は寒い。というかこの季節の近江は半端なく寒い。いつもだったらこっから新快速で姫路、網干まで一本だが、ちょいと今日は趣向を変えてみようかね。 米原から北陸線に乗って、長浜へ。 近江長浜。戦国時代、羽柴秀吉が初めて一国一城の主になった地である。 ↑月明かりと、長浜城 ↑太閤井戸跡 寒い、寒すぎる。琵琶湖から吹き付ける風が半端ない。これが比良の風か・・・・(さすがに遠いか) 実際は伊吹山の方から吹いてきたような気がするがね。 ↑琵琶湖を見てると天下がみえるようじゃ!!! ↑従是南長浜領の碑 秀吉は長浜の領民に年貢の免除という特権を与えたそうである。この慣習は江戸時代も続いたという。秀吉はそういう理由もあってか、長浜の人々に愛されていることが街中から感じられる。 ↑石田佐吉と秀吉出会いの銅像 浅井長政を滅ぼした織田信長は秀吉に北近江を、明智光秀に南近江を与えた。浅井の居城であった小谷城は山城で不便であったため秀吉は琵琶湖のほとりに長浜という城下町を築くことになった。 秀吉が長浜城主となって付近の里に鷹狩りに出た際、のどが渇いたので近くの寺に寄った。寺の小坊主は一杯目はぬるめの茶を持ってきたので秀吉はイッキに飲み干し、さらに茶を所望した。 二杯目は小さめのお茶碗の中で、熱めのお茶が淹れてあった。三杯目は高級な茶碗にわずかな熱湯のお茶が入れられていた。 この寺の小坊主の茶の気配りに関心した秀吉はこの小坊主を長浜城に連れ帰った。この小坊主こそ石田佐吉、後に秀吉の官吏として活躍する石田治部少輔三成である ↑長浜城下の北国街道 さらに旅を北へ続けよう。 ↑余呉の湖 余呉は柴田勝家と羽柴秀吉が織田信長の後継を争った「賤ヶ岳の戦い」の舞台である。 雪深くなってきた。いよいよ木の芽川を越えて福井県敦賀市に入った。敦賀(つるが)は、北陸の玄関口であり畿内への入り口でもある。 ↑越前国一宮、気比神宮(福井県敦賀市) 気比神宮は北陸道の総鎮守である。歴史の舞台、敦賀で数多くの歴史を見てきた。大和朝廷の躍進、渤海使節の来航、新田義貞の挙兵、織田信長への抵抗、そして江戸時代になって結城秀康によって、再建される。 ここの宮司に「神社」と「神宮」の違いを聞かれ、答えれなかった。神宮というのは皇族を御祀りしている社なのだそう。 さて、さすがに疲れてきた。新快速で姫路へ。敦賀まで新快速が来るようになってから便利になったよね。えきそばの大盛がタイムサービスだった。姫路で駅弁を買って赤穂線へ。 ↑赤穂線伊部駅(岡山県備前市) 伊部で備前焼でも買おうかと思ったのだが、新年早々空いているわけがない。岡山へ向かいマリンライナーで坂出へ。 坂出ではとんでもない、うどん店に行ってしまうが、まぁここであえて触れることもないだろう。ってなわけで無事に松山に到着。 終わり
2010/01/11
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今年の年末年始は実家に帰らずに、静岡県伊豆高原のペンションワンマイルクルーズで、住み込みでの仕事であった。というわけで前編では松山から伊豆までの道程。後編では伊豆から東京を経由して松山に帰るまでの旅日記を書いてみたいと思う。★2009年12月26日(土) 集中講義が終わった後、すぐ坂出に特急しおかぜで向かい、夜行列車、サンライズ瀬戸に乗車。 ★12月27日(日) ↑熱海駅に着いたサンライズ(静岡県熱海市) 早朝5時40分、熱海に到着。眠いのなんのって半端ない。そして暇すぎる。あまりにも暇だったので、少し東海道線で戻った三島へ向かうことにした。 ↑伊豆国一宮「三島大社」(静岡県三島市) 一応、伊豆半島で一番大きな神社である。私の七五三はここでやったような気がするが、とにもかくにも15年ぶりの参拝である。子供心に三島は大きな町だと思っていたけど、今見ると、そんなんでもないんだよねー。 ↑なんじゃ、この自販機は・・・(笑)自販機マニアとしては唾液ものではあるが、この伊藤園の「おーいお茶」の数は・・・・爆笑もんだよ。そういや、東日本は伊藤園の自販機が多いような気がする。。↑おおっ、フジヤマ!!! 久々に見た富士の頂。やっぱ伊豆はいいとこだねぇ。富士山が毎日、見れるなんて。(西伊豆、中伊豆限定ですが) っていうて、まだ7時半か。13時までペンションにつけばいいから、暇すぎるんだよね。 ↑朝飯の三島駅の立ち食いうどん。濃いつゆが懐かしす。↑みしまーそこで何を思いついたか・・・・ 「ぶぎょうのぶらり途中下車の旅」 (三島からの伊東までのすべての駅に降りてみよう) ●1駅目、東海道線函南駅(静岡県田方郡函南町) 函南(かんなみ)っていう名前、いい名前だと思わん?? 名前の由来は「箱根」の南っていう意味で、東海道線最大の難工事であった丹那トンネルの西出口に位置している。函南駅に行くのも16年ぶり。懐かしいねぇ・・・・でも駅の周辺には何にもないんだけどね。 ●2駅目、東海道線熱海駅 (先下りたからパス) ●3駅目、伊東線来宮駅(静岡県熱海市) こっから伊東線。来宮(きのみや)って読むんだけど、これもまた読めねー駅名だよね。駅から徒歩5分に来宮神社があって境内のクスノキは国の天然記念物なのだ。 ↑来宮神社 ↑来宮神社のクスノキ ●4駅目、伊東線伊豆多賀駅(静岡県熱海市) 伊豆多賀・・・・。降りたことはないんだよね。下道の135号も伊東線も死ぬほど通ったことはあるんだけどね。この長いホームの伊豆多賀駅は思いのほか、高いとこに位置してることが分かった。(初めて降りてみて) ↑長浜海水浴場 駅からまっすぐ海に下りると、長浜海水浴場である。ここは風光明媚なとこで、網代にかけての海岸線をはっきりと見ることができる。 ただ、駅に帰る坂道がしんどかったぁぁぁ・・・・ ↑東海バスのバス停、懐かしい・・・・ってなわけで、もう疲れたので、途中下車の旅をあきらめて、伊豆高原に向かうことにしたのだ。(早っ!!) 電車に揺れること45分。 ↑伊豆急行線伊豆高原駅(静岡県伊東市八幡野) 伊豆高原は東急グループの伊豆急行が、八幡野(やわたの)一帯を開発したリゾート地の俗称であるため、伊豆高原という住所は存在しない。 また、高原という名前の割に標高が低すぎて夏は死ぬほど暑いのは、ここだけの話である。 でもこの季節は、暖かくて過ごしやすい環境なのではないか?? まだオーナーが来るまで時間があるので、ちょっとぶらぶらしに行こうか。 歩くこと30分。 ↑河津祐泰公血塚入り口(静岡県伊東市八幡野) 血塚(ちづか)とはまた物騒な名前であるが、河津祐泰(かわづすけやす)という人物は私の先祖である。(らしい)どうも日本史を学んでから、推定の表現がおおくなったような気がするが、まぁいいか。(゜o゜) 祐泰は、平安時代の伊東の領主、伊東祐親(すけちか)の嫡男である。祐親は平清盛の信頼厚く、平治の乱の首謀者、源義朝の遺児、頼朝(後の鎌倉幕府初代将軍)を伊豆で監視する立場であった。 その祐親は、同族間で所領問題などで、いざこざを抱えており、同族の工藤祐経から恨まれていた。 祐親はたまたま赤沢というところに大人数を引き連れて狩りに出ていた。工藤祐経はコレを好機と、配下に命じて祐親を殺そうと企んだ。 ↑すべてのはじまり、椎木 祐経配下の大見、八幡ら二名は、この椎木のある高台から祐親のいる行列めがけて矢をはなった。 ↑祐親、祐泰親子のいた山中 ところが矢は、祐親ではなく、嫡男である祐泰に当り、祐泰は絶命した。 ↑河津祐泰の血塚(静岡県伊東市赤沢) 祐泰は領民から慕われていた名君であった。また相撲の名手であり、「河津掛(かわづがけ)の考案者であったという。若き後継者を失った祐親の落胆はいうまでもない。そして祐泰の遺児二人は曾我家で育てられ、その後、鎌倉時代になって父の仇である工藤祐経を討つのである。(曾我物語) 詳しくは豆州伊東(北出羽物語)を見てくださいな。(^^♪とまぁ、1000年もたった今では昔の面影のみである。とにもかくにも、私は血塚の前に座って虚空を見上げ、昔の話を思い出したのである。ここで実家へ年賀状を書いた。 ↑血塚の周辺は鬱蒼としているが、旧・下田街道が整備されている。さぁ、舞台は海へ。 山ばっかしじゃおもんない。 ↑相模湾↑城ケ崎自然探求路からの風景いい風景ですねぇ。この後、8日の間、私はペンションで働いて年末年始を過ごした。後編はペンションから松山に帰るまでの旅路としませうか。つづく
2010/01/11
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★2009年8月21日(金) 急に九州に行きたくなる。(笑) この放浪癖はなんとかせんといかんのだが・・・・まー仕方がない。微妙に発熱していたので、木屋町の薬局で葛根湯を購入し、市内電車で松山駅へ。とりあえず予讃線下り最終の八幡浜行きに乗車。そく爆睡。気がついたら下灘。乗客はわずか三名。一人が八多喜で降り、大洲駅で一人が乗り込んだ。結局三名のまま八幡浜に到着。港まで一人とぼとぼ歩いて別府行きのフェリーへ。 ★2009年8月22日(土) 朝起きたら、別府。気がつけば、フェリーで一人ぼっち。 ↑別府駅(大分県別府市) とりあえず南下、大分で久大線に乗り換えて由布院へ。 ↑由布院に到着 ↑由布院駅(大分県由布市) はじめてやってきました。由布院。なんだか、高原の小さな町っていう感じですね。典型的な観光地。 ↑乙丸温泉 とりあえず、風呂へ。街の中心部にあった公衆浴場、乙丸温泉へ。入浴料は200円。安いねー。でも、特別な感じはしない普通の公衆浴場。由布院だしね。そこが評価かなぁ・・・ ↑由布院界隈 由布岳にはガスがかかってて全然見えなかったし・・・・ 再度、久大線にのって、大分市内へ。いっつも駅前の大友宗麟の銅像ではおもしろみがないので・・・・ ↑フランシスコザビエルの銅像 大分といったらザビエル。お菓子にもありますよねー銘菓ザビエル。個人的には『ドン・フランシスコ』の方が好きなのですが・・・ ↑大分府内城跡 久々に府内のお城へ。そのまま商店街を通って、駅へ戻る。やっぱ大分は街だねー そのまま列車に乗って北上。国東半島の付け根にあたる山香へ。↑羽門(うど)の滝 ↑甲尾山の風車(標高223メートル)そういや、この甲尾山は、もともと「蚊尾山(こうのおさん)」と書いて中世は城砦があったそうだ。築城者は前述の大友宗麟の配下、田北鎮周。宗麟が1578年(天正六年)に五万の兵をもって島津軍と戦うため日向国高城へ出兵。その際、鎮周に率いられた2000の兵士は大友軍の先鋒として戦ったと記されている。(マニアックな話ですがねー) ↑山香の里を見下ろす・・・↑温泉・風の郷 ★2009年8月23日(日) 日豊線を北上。豊前中津へ。 ↑豊前中津城(大分県中津市) 1588年(天正十六年)に黒田如水が北九州防衛のために築城。関ヶ原後、黒田家は筑前福岡へ。その後、入部した細川忠興、小笠原氏、奥平氏が治め廃藩置県に至った。 現在、中津城は旧藩主、奥平氏の私有であるが、3億円で中津市に売却したいということで昨今のワイドショーをにぎわせた。(゜o゜) 海水を堀に取り入れた、中津城は讃岐高松城、今治城と並んで日本三大水城の一つである。(何気に全部訪れている・・・・ww) ↑福澤諭吉旧居 そう、あの日本における最高紙幣1万円の人。 諭吉は、豊前中津藩の下級武士の出身であるが、生まれたのは大坂であり、活動拠点は江戸である。少年時代を諭吉はここ中津で過ごしたそうだ。 日豊線を北上。なんと中津以北では電子マネー『SUGOCA(スゴカ)』が使えるのだ。首都圏のSuicaや関西圏のIkocaも使えるとのこと。にしてもなんで、キャラクターがカエルなのか・・・・ww 「豊前小倉」 初めて降り立ったが、さすが北九州市の中心である。デカい街やねー。 ↑松本清張生誕100年 あの昭和の多様性のある名作家、松本清張はここ小倉の生まれである。芥川賞を受賞した「或る小倉日記伝」は森鴎外が小倉に赴任したときの日記がベースになっていることは周知の事実である。 とりあえず松本清張記念館へ。久々にお金を払う価値のある施設でしたね。にしてもあの書庫の蔵書数はパネぇ。(゜o゜) ↑小倉城のお堀(福岡県北九州市小倉北区) ↑小倉城天守閣 小倉城は要害堅固の城である。中津から小倉に城を移した小倉藩主、細川忠興も自慢の城であった。その噂を聞いた、美作津山藩主、森忠政は自身の津山城を築城する際の参考にしようと、大工などを小倉に派遣した。その大工は縄張り図などを書いて津山に戻ろうとしたが、小倉藩に捕まってしまう。 ところが、細川忠興はその大工を咎めるどころか放免してしまう。それだけではない、津山城が完成した際に忠興は津山藩森家へ、朝顔の鐘楼を贈呈したのだ。 津山城は小倉城をモデルにしている。どちらの城も現存はしていないが、素晴らしい城であったのだろう。 ↑豊前小倉の図 さーて小倉を出ようか。 ↑鹿児島本線小倉駅(福岡県北九州市小倉北区) 九州では「とり」のことを「かしわ」と言う。かしわめしやかしわうどんは九州旅行の際の楽しみの一つであることは言うまでもない。 ↑小倉駅のかしわめし 九州三大かしわめし駅弁と言えば、小倉駅・折尾駅・鳥栖駅が挙げられる。鳥栖駅のかしわめしは以前、食したがうまかったね。というわけで、今回は小倉駅のかしわめし。 感想は・・・・。 まぁ、この値段にしてはどうなんだろうかねーっていう感じ。 次回は折尾のかしわめしを食べにいきます!! ↑気がついたら門司港 あーレトロな門司港駅。そういや、この駅舎、どっかで見たことあるね。ww ↑特急、有明 鉄道マニアが群がってるから何かと思ったら、特急有明が停車中。国鉄色の485系とは、こりゃー鉄道マニアにはたまらんよね。 ↑長いホーム 気づいたのだが、門司港駅には自販機がない。昔ながらの姿だよねー。 門司駅にリターンしていよいよ本州へ。 関門海峡を越え、やってきました長州は下関。 ↑下関駅のふく天うどん 人生で初めてふぐを食べたぞい。なんとウマい魚でしょう。関門近辺では、ふぐのことを「ふく」と言うそうで・・・・。 ここから下関発岡山行の普通列車に乗車。 ↑下関駅(山口県下関市) さらば下関。また、ゆっくり関門を旅したいね。 ・・・6時間後、岡山・・・ 4週間連続でおかやまに来てしまった。これより予讃線最終列車、しおかぜで松山へ。 ↑ふく寿司 下関で駅弁を買っていたのだが、しおかぜの中で頂きました。なんだか、土讃線で人身事故があったせいで高知に行く人もみんなしおかぜになだれ込んで尋常じゃない乗客数。 気づいたら、乗務員に起こされて松山。なんということでしょう。その8時間後バイトっていうね・・・・ 北九州旅行・完
2009/09/12
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★2009年8月8日 前日は開店から閉店までバイト。疲れた体のまま、実家へのお土産を買って友人宅へ。朝は4時におきて、大街道からタクシーに乗って松山駅へ。始発の特急しおかぜで岡山へ。 ↑もーもたろさんももたろさん(岡山県岡山市・岡山駅) そこから山陽本線をすっぱ抜け姫路へ。姫路から新快速で米原、大垣といつものルート。名古屋でよりみち。 ↑いわくの味噌カツ定食(愛知県名古屋市・名駅) 疲れた体をさらに東へ。豊橋、浜松で乗り換え気づいたら熱海 そっから伊東線に乗って我がバースプレイス、伊東温泉へ。もはや私の旅にはかかせないね。 ↑東伊豆の楽園「伊東温泉」(静岡県伊東市) だが、ここで終電をミスる。まさかの終点が小田原で。駅前のネットカフェへ。快適に2時間は寝たような。★8月9日 目覚めは最悪。ちくわを食べたら元気100倍。 そのまま東海道線で東京へ。山手線で上野へ。さらに東北線で宇都宮へ。 ↑宇都宮といったらこれだぎゃー?「栃木レモン」(栃木県宇都宮市・宇都宮駅) 那須野は黒磯で寒くなってきてうどんを食べる。冷えた体にしみる黒いつゆ。 『こんなそばつゆにつけこんで!!うどんへの冒涜だ!!』と騒ぐ気力もない。総じて、黒磯の立ち食いうどんうまかったよ。マジで。 はい、ふぐすま県こおりやまへ。 ここで極めつけのスペシャルな列車に乗車。 その名も「臨時 夏休み東北縦貫号」 なんということだろうか。郡山から盛岡まで一本で走る快速なんだと。もう我々の疲れはピーク。何かにとりつかれたように眠る。 ↑気がつけば、北上(岩手県北上市・北上駅) ほんで北上線に乗車。ほっとゆだへ。ほっとゆだで一っ風呂浴びて、横手へ。横手を過ぎたら大曲。2日目にして裏日本の中核市、秋田へ到着。そのままタクシーで我が家へ。就寝。★8月10日 ずーっと家で寝てる。母校の高校に行く。担任不在。かつて住んでた家の跡地に行く。いとくで買い物。 友人秋田散策。私は外旭川村八柳へ。今回の帰省の目的を果たす。そのまま秋田大学手形キャンパスへ。 ↑と、その前に一人で星辻さんへ。(秋田県秋田市通町) ↑秋田はなんにも変わってねーすな。(旭川を眺めて) ↑秋田大学到着 ↑おおっ、これが全国の大学生協で学生に一番評価の高い秋田大学生協の学食か!!!! 同業者として学ぶことは多かったぞ。。。 ↑寿司も扱っております(笑) ★8月12日 家でぶーらぶら。まんが倉庫、我が家の前に出来たラーメン屋、竹本商店、ナガハマコーヒー★8月13日 墓参り、都城商業が初戦突破、さすがに観光してないことに気づいて焦る我々。 ★8月14日 初の観光。いざ乳頭温泉へ。だが、私の体調最悪。もはや秋田駅で吐き気をもよおす。トロピカルカレー忌まわしいね。羽後交通の中で嘔吐。スミマセンなぁ。 ↑秘湯、蟹場温泉(秋田県仙北市田沢湖) ↑露天風呂 なんていい風呂なんだ。生きててよかったよ。マジで。 (体調さえよけれヴァ) ↑孫六温泉 ↑黒湯付近もう温泉、すばらしすぎる。乳頭サイコー (体調さえよけれヴぁ) ちなみに蟹場、孫六、黒湯、妙の湯と4件の温泉をはしご。人生でこんなに風呂に入ったのも初めてかもしれん。 この↑の写真を撮った2分後嘔吐。 吐いても風呂に入り続け憔悴する我。(その証拠にこれ以降の写真なし) ↑帰りのバスから見た田沢湖 また嘔吐。 ★8月15日 さー帰るど。 秋田駅から羽越本線で南下。 ↑なぜか羽後岩谷で濃霧に!!(秋田県由利本荘市岩谷) ↑これは絶品、だだちゃ豆アイスクリーム(山形県酒田市・酒田駅) 陸羽西線で新庄へ。奥羽線で山形へ。山形で友人とチャイツェン!!(・。・) 友人と別れ我々は米沢へ。米沢牛をふんだんに使った駅弁、牛肉どまんなかを購入。板谷峠を越えて福島へ。東北線を南下、気がつけば、大都会東京!! ↑等身大ガンダム ぎょうさん人がおらい!! ムラなが(ムーンライトながら)で東京を脱出。相当、ハショッたけど、岡山へ。疲れきった友人と別れ、私は一人で香川へ!! ↑瀬戸大橋 ぬくいこと、ぬくいこと。東北とは違いすぎるよ。あっついよー ↑高松城大書院(香川県高松市) ↑高松城遠景 うん、でも立派な城だね。高松城。海水を堀に使うとは。 そのまま丸亀へ。 ↑丸亀城跡(香川県丸亀市) ↑石垣の傾きがやばす。 丸亀城。坂がきつかったし。でも城ってこんなもんか・・・・ そのまま鈍行で松山へ。 ↑伊予灘を眺めて(愛媛県松山市) 予讃線は長すぎる。寝て起きたら松山。 かけはしでじゃこ天うどんを食って帰宅。 んー総合して「日本は広い」 ね!!なんだか疲れた旅だったけど、人のぬくもりやゲロ袋の重要性をひしひしと感じました。 完
2009/08/20
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★2009年7月26日(日)深夜1時までバイトの先輩らとマック。どういうわけか友人から岡山自由席特急券の回数券をもらう。まさかの展開ではあるが、そのまま朝、5時7分発の特急しおかぜで岡山へ。(なんという無計画ぶり)岡山に着いたんが朝の8時。いくら予讃線が遅いといっても、さすがしおかぜ。しおかぜは速い。速すぎる。(青春18から比べれば)とりあえず行くあてもなかったので、ここから青春18を使って岡山県の北部、津山に向かうことにした。爆睡のまま、気がついたら津山であった。と、デジカメで撮影しようとするとバッテリー残量ゼロ。仕方がないので携帯で撮影。↑吉井川の大氾濫おりしもこの前々日より、中四国・九州に甚大な被害をもたらすほどの悪天候。早く梅雨が明けないかな・・・・とりあえず、津山のランドマーク、津山城跡に行ってみることにした。津山城跡は「鶴山公園」として整備されている。津山の礎を築いたのは初代、津山藩主の森忠政である。忠政は織田信長の家臣、森可成の末子で兄には小牧・長久手の戦いで戦死した森長可や織田信長の小姓として仕え「本能寺の変」で討ち死にした森蘭丸などがいる。忠政は末子にも関わらず、兄がことごとく討ち死にしたため、森家を継いだ。その忠政が12年の歳月をかけて完成したのが、この津山城である。その後、森家は改易され、津山藩は松平氏が治め廃藩置県を迎える。↑森忠政公銅像↑津山の街を一望↑復元された備中櫓津山は国営放送の連続テレビ小説「あぐり」の舞台にもなったところである。また古き町並みが残る城下町である。さておりしも雨風が半端ない。とりあえず時間も残っているのでもっと遠くへ行こう。あてのない旅だったので、適当な行き先に乗った。↑津山駅その行き先は「智頭」もはや因州鳥取である。だけど明日はバイトだしテスト期間。たまるレポートも5枚。もういいや。勢いで乗ってしまえ。そういう感じで因美線に乗り込んでしまった。↑しいたけ弁当忘れていたが、ここ津山には「幻の駅弁」と呼ばれる駅弁が存在した。1時間も待って購入にありつけた。(笑)その名も「しいたけ弁当」現在、この弁当は調整元が火事になったとかで駅構内では販売されていない。だが、2年の空白を経て復活。今は津山観光センターに併設する「よし乃」で買うことができる。650円なり。因美線に乗りながら駅弁を頬張る我。列車はいよいよ鳥取との県境に向かう。と、岡山県最後の駅「美作河井駅」で何を思ったか私は降りてしまった。↑因美線美作河井駅(岡山県津山市)駅に降りると何もない。自販機が遠くに一台見える。そして大量の虫の死骸。↑駅舎何もない駅を一人で降りるとそこは楽園であった。趣のある駅舎。駅ノート。↑駅前にある矢筈城跡標柱ここは矢筈城という天嶮の城があったところだ。矢筈城は標高750メートルに存在する。城主は草苅氏であり出雲の尼子氏の配下であり天文年間に築城された。その後、毛利氏に属し、宇喜多氏や羽柴秀吉の軍勢を防ぎ落城しなかった。毛利輝元が城主、草苅重継が退城するまで難攻不落の城跡であった。↑加茂川↑付近にある矢筈城主・草苅景継の墓所(伝)↑矢筈城跡また河井駅には転車台が残っている。↑転車台跡↑遠く津山方面さて一時間ばかりの美作河井駅の散策も終え、いよいよ松山に戻らなければならない時間だ。急ぎ足で津山に戻り、そのまま津山線で岡山へ。ラストは特急しおかぜで松山へ帰宅した。おしまい
2009/08/01
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★2009年5月22日本日は10時起床。寝坊してしまったもののどっか出かけたい衝動に駆られたので、とりあえず松山駅へ。 ↑かけはしのじゃこ天うどん(440円) 松山駅といったらこれっきゃないがね。もはや芸術の域まで高められたかけはしのじゃこ天うどん。揚げ立てのじゃこてんがたまらんけん。(^^♪ 東予に行こうか、南予に行こうか迷った挙句、南予へ。予讃線の八幡浜行きに飛び乗っていざ内子へ。なんだかんだいって内子に来たんは初めてかもしれん。 内子は和紙や木櫨を生産した大洲街道の宿場町。昔の町並みをよく残した景観が素敵な町である。 ↑芝居小屋・内子座 内子座は大正五年に建てられた芝居小屋。レトロな建物ん中に入る。 ↑奈落 奈落は芝居舞台の真下である。へぇ~こうなっとんやー。とまぁ、舞台の中心が回転するんはこういう仕組みがあるんやな。 ↑内子座舞台 お昼ごはんが食べたくなったので、六日市のりんすけさんへ。 ↑りんすけのたいめし(1050円) ★りんすけ 住所:愛媛県喜多郡内子町大字内子甲1138-1 営業時間:11:30~14:00 17:00~21:30 水曜定休 とまぁ、この形態は南予の鯛めしじゃねー。鯛の刺身がでらうみゃーぜよ。(・。・) 生卵をときほぐしたら、別世界に行ってしまいました。たいそうおいしゅうございました。 ↑大正時代の六日市(復元模型) ↑内子といったら木蝋 いよいよ内子のメイン観光スポット。 【八日市護国の町並み】である。 ↑八日市護国の町並み ↑八日市護国の町並み ↑これが噂の酢卵(内子にしかないらしい) さて、時間がない。11時に松山を出た私が阿呆なのですが。。。。 17時からバイトなのだ。 ↑内子駅 ↑内子駅ホーム このままJRで行ったら100%間に合わんのんで、伊予市の郡中港から伊予鉄で市駅に向かおうと模索。 ↑伊予鉄道郡中港駅(愛媛県伊予市米湊) さすが道後平野は便利よなー。伊予鉄道が張り巡らされているから。明らかに予讃線よりも便がよい。ま、市駅までは順調にたどり着いたんだけど、ここで思わぬミスをしてしまった。 環状線を乗り間違えた。(^^♪ なぜか市駅までわざわざ行ったのにJR松山駅を経由して木屋町へと向かったのだ。気がついたら南堀端。あぼーん。 今日は阿呆のきわみじゃけー。 というわけでバイトに5分ほど遅刻。市駅で環状線さえ乗り間違わなけれヴぁ順調に着いたのに。まー人生そうウマくはいかんのじゃ。 疲労度はマックス。早く家さ帰りてぇ・・・・・。 と思って・・・・ ↑一気に飲み干した。内子いうたら京ひな、千代乃亀。京ひなは辛口でキレがあってうまいんよ。いうても飲んだんは初めてなんやけど、まぁ今日は内子ラブな一日だったとさ。 おしまい。
2009/06/25
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★2009年3月21日結局、今日はカブで遠出。四国遍路はいったんお休み。昨日から1000円で乗れることで話題の西瀬戸自動車道(しまなみ海道)を走ってきました。えーまー原付はもっと安いぞい。 尾道まで行く予定だったんだけど、様々な事件が発生して尾道まで到達することはできませんでした。まー尾道は、また次の機会やね。(゜o゜) まずは国道196を今治へ。なんか3週間連続で今治に行ってるような気がする。ってか原付でこんな遠出するの初めてなんですけど。案の定、大西で原付が動かんなってガソスタへ。初の給油で380円。なんという安さでしょう。(^^♪ ↑宮窪から能島を眺める。 波方、波止浜を通って、いよいよしまなみ。来島海峡を越えて大島へ。真っ先に宮窪の村上水軍博物館へ。そして1000円を払って、船に乗って能島海域へ。↑日本三大潮流「能島の瀬戸」 潮の流れが速いのなんのって。これは航海が大変だろうに。能島村上水軍はこの潮を巧みに操る海賊集団なのである。400年前も今もこの潮の流れは変わっていない。 ↑海上交通の難所「能島」 猛スピードで船が潮に突っ込んでいくもんだからなんとエキサイティングなことか。つまらんアトラクションなんかよりもこっちの方がおもろいぜ。(゜o゜) ↑大島・伯方大橋の下 船で橋の下へ。総工費400億円。凄まじい税金がつぎ込まれているんやなぁ。船を降りて再びカブで先の橋を渡る。 このまま伯方島を突っ切って、大三島へ。さーて今日の旅の目的地である大山祇神社(大三島宮)へやってきた。伊予の鎮守であるだけでなく日本国の総鎮守である。由緒正しきシュラインである。 ↑日本国総鎮守・伊予国一宮・大山祇神社(おおやまずみじんじゃ) 古来より源頼朝、平重盛、護良親王、河野通有、山中鹿之助といった名だたる武将が鎧刀を奉納してきた。中でも源義経が奉納した国宝の緋縅の鎧は凄かった。 ↑大三島宮のクスノキ と、こんなことをしてたらもう3時。本州まで行ったら帰ってこれん。残念だが戻ろうか。船なんか乗ったせいだ。(笑) そして「は・か・た・の塩♪」でおなじみの伯方島へ。伯方の塩が愛媛県で作られていたとは驚愕の事実ですが、まー塩を買ってきました。 ↑伯方の塩ソフトクリーム♪ おおっ、塩気がきいとるぞい。伯方島のビーチでたそがれ、再度四国へ帰還。やっぱ高速1000円の影響で相当な人がおったような気がする。 ↑菊間のやくよけ大師「遍照院」 うーん。今日は完璧ドライブでしたね。原付往復で170キロ。よう走った、走った。 いろいろアクシデントはあったけど、まー楽しかったからよしとしよう。ww
2009/04/02
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長い冬といっても、南北に長いニッポン列島。西国と北国(ほっこく)では様相が違う。そして迎え来る成人式。再び雪の世界へ戻らねば。だが、あえて私は西へ向かったのである。★1月10日(土)早朝6時、松山駅。6時5分発、宇和島行きの予讃線下り出発まであと5分。(・。・)青春18きっぷで改札内へ。列車は静かに南へ向かった。伊予上灘で夜が明けた。だが、海は大荒れ。天気は暴風雨。珍しく瀬戸内が荒れている。乗車すること2時間半。南予地方の良港、八幡浜(やわたはま)に到着した。しかし、天気悪すぎ。あられまで降ってきて泣きなくなるような寒さの中をほとほと港へ。歩くこと30分、八幡浜港へ着いた。乗務員が急かす。急いで乗船手続きをする我。船は大シケの中静かに出航した。さらば四国!!↑八幡浜港を出航船は土曜日ということもあってけっこう人が乗っている。ハーゲンダッツの自販機でハーゲンダッツを買う。船内はあんますることないし、暇すぎる。ま、なんだかんだいいながらも船は大分県臼杵港に上陸した。(゜o゜)↑臼杵城跡(大分県臼杵市)とりあえず、近くに臼杵城があったので登ってみた。『臼杵(うすき)』戦国時代、キリシタン大名の大友宗麟は府内(大分県大分市)から南方の臼杵丹生島に城を築き拠点をここに移した。港にはイスパニアやポルトガルの船が来航し異色の国際都市として栄えたと伝えられる。↑臼杵を発展させた大友宗麟のレリーフ(彫刻家、日名子実三の作品)↑大砲、国崩(臼杵城内)当時、九州は豊後の大友、薩摩の島津、肥前の竜造寺の三者が三つ巴となって争っていた。だが、竜造寺が耳川合戦で島津氏に破れ、島津氏は北九州へ勢力を拡大。豊後の宗麟は次第に勢力を失っていった。そんな中、国府であった豊後府内が島津家久によって陥落。宗麟は四方を海に囲まれた臼杵に籠って篭城を決意。そして臼杵城に装備した大砲、国崩(くにくずし)が島津軍に火を吹いた。島津勢はたじろいだ、宗麟が時間を稼いでる間に豊臣秀吉の九州征伐が開始され、島津義久は九州統一あと一歩のところで退かざるを得なかった。この戦が日本における最初の大砲戦であると言われている。キリスト教を受け入れ、自らも洗礼を受けた大友宗麟は西洋の豊かな物資を多量に得ることができた。国崩も宗麟がポルトガルから買ったものである。↑宗麟が城内の鬼門の方角に祀った卯寅稲荷神社(臼杵城内)↑昔の面影はない・・・・そして臼杵駅へ歩くこと数分。ここで実家までの切符を買った。↑南国チックな臼杵駅(大分県臼杵市)さて、青春18きっぷを使って、杵築行きの列車に乗る。そして大分駅で降りた。東九州、大分。大分市は人口にして46万人。けっこう大きな町である。ここはかつては府内と呼ばれ豊後国の国府がおかれたとこである。↑府内城跡(大分県大分市)そういえば朝から何も食べていない。ま、腹が減っては戦ができぬということで・・・・↑大分名物とり天食べてみちくれば、とり天っち思うけー。うーん、勢いあまって焼酎まで頼んでしもうた。なでしこ麹を使った「杜谷」という焼酎。うまかってん。だが、どうにも具合が悪い。昼から酒を煽ったせいじゃろか??っちいうわけで、大分駅前のふくやっていうとんこつラーメン屋さんにも行ってしもうた。↑ふくやのとんこつラーメンうーん。うまい・・・・やっぱ九州に来たらとんこつやねー。550円でこんなにウマいラーメンが食べれるとは。(・。・)だが、胃の中はとんこつとアルコールでぐーるぐーる。ww大分駅に千鳥足で帰還。気持ち悪くて死にそう・・・・そして運命のときがやってきた。小倉方面に向かう特急列車が過ぎ去った夕方4時半。↑今日のお宿、寝台特急富士(大分駅にて)死ぬほど具合悪かったけど写真は撮ったよ。。。もうこれがお別れだもんな・・・・2009年3月14日をもって九州行きの夜行列車は全廃される。『富士』という列車の愛称は『桜』と並んで日本における最初の鉄道愛称。そして富士は寝台特急として長い歴史を持ってきた優等列車である。東京から西鹿児島間を日豊本線経由で結んだ日本最長の列車であった。そう車や飛行機の社会ができる以前、まだ鉄道が唯一の足であった頃。日本の近代は鉄道が支えた。そして戦争に負けた日本を復興したのも鉄道であった。新幹線などない時代、日本中を移動するには夜行列車しかない。そして夜行列車が張り巡らしていた。長い旅。夢を求め大都会東京へ向かう人。失意のうちにふるさとに戻る人。数多くのドラマを背負ってきたと思われる・・・・・・富士の旅も終わりに近い。言いたいことがまとまらない。とにかく、私はこの列車に乗りたかった。大分を16時40分に出て東京に着くのは10時頃。実に移動時間にして17時間。↑富士号ヘッドマーク↑いよいよ旅立ちのときだ・・・・だが、具合が悪い。ほんとに悪い。とりあえず、気持ち悪かったので、寝台に横になった。気がついたら、門司であった。門司で駅弁を買おうと思ったのだが、もはや出発2分前。あーやらかした。明日の朝まで飯抜きだね。これは。向かえの寝台にはお孫さんを連れたおじさんが乗っていた。どこまで行くんですか?と尋ねると大宮の交通博物館まで行くんだってさ。お孫さんが鉄道が好きだから、だったら富士で東京まで行こうってことになったそうだ。そういうおじさんも昔は東京で働いていたそうだ。『昔はな、急行高千穂って汽車があって、通路にまで雑魚寝してしんどかったな・・・富士が出来たときはもう、うれしくて、うれしくて・・・・・これで寝ていけるってね。(笑)』と懐かしそうに語ってくれた。私も遠い未来。自分の子供くらいの世代に・・・・『昔はな、寝台列車というのがあって、列車ん中にベッドがついていたんだよ。いまでは考えられないけど、10時間以上もかけていたんだよ・・・・』なんて話す日が来るのだろうか。だが、この見知らぬ人同士が語り合うという寝台独特の空気が失われると思うと少し寂しい。★1月11日(日)朝、起きたら岡山の和気であった。はやっ。だからもう一度寝ておきたら名古屋だった。東海道線は長い。↑朝日の駿河湾(静岡県静岡市)そしてこの列車の名前でもある富士山が見えてきた・・・・・↑富士山私は伊豆の生まれである。富士山を見て育った。心の山、富士。この山を見ると帰ってきたと思い、日本に生まれたことを実感させる。そして、17時間の旅を終え富士は東京駅に着いた。もうあえて写真は撮らない・・・・思い出は心の中に。ありがとう富士。ほんとうにありがとう。そして、秋田新幹線でびゅーんと帰省。無事、成人式に参加できた。その後は羽越線が止まっていたので、伊丹へ飛行機で飛んだ。たったの一時間。当たり前っちゃ当たり前なんだけど旅情もへったくれもない。(・。・)そして高速バスで松山へ。鉄道、バス、船、車、飛行機・・・・・すべてを駆使した帰省であった。死ぬほど金はかかったけど、富士に乗れたことはよかったと思う。最期にyoutubeより・・・・・YouTube - 寝台特急 なは あかつき 上りラストラン さよなら放送去年の3月に廃止された寝台特急なは、あかつき号が最終日の京都駅到着アナウンスである。『高度経済成長中は会社員が利用し、集団就職で関西に就職した人にとってあかつきでの帰省は、故郷に錦を飾る誇らしいものであったと聞いています。私事ではありますが、約18年間新大阪西鹿児島間を運転のときよりなは号に常務いたしております。その間ちょうど今時分の頃、春の時期夢と希望に満ち溢れ関西などに就職いたします新社会人またあるいは就学のため故郷を離れる学生さんをホームで見送るご両親の涙を幾度か見たことがあります。また乗り合わせて初めて会った人同士が何時間も語り合うなど新幹線にも飛行機にもない寝台特急ならではの旅の醍醐味またはドラマがあったのではないかと思います。しかしイマの時代の流れによりまして私たちも大変寂しく悲しく思いますが、あと13分ほどで半世紀に渡り一時代を築いてまいりました、また走り続けてまいりました・・・なは、あかつき号は引退のときを迎えようとしております。イマまで、なは、あかつき号を愛してくださいましてありがとうございました。(車掌アナウンスより)』一つの時代が終わろうとしている。その瞬間に立ち会えたことが何よりも嬉しい。去年の五月、終電のなくなった岡山駅に一人ぽつんと残された私のもとへ富士、はやぶさはちゃんとやってきてくれた。この列車が廃止になってしまったら、私は夜遅くに実家に帰れない。今年はどういう一年になるのだろうか。まだまだ私の旅は終わらないと思う。終わり
2009/01/31
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2009年1月6日(火)気がつけば、大垣。大垣ダッシュをして雪降る関が原を米原へ。いったい何度、同じとこを通るのか・・・・ww米原から新快速で姫路へ。えきそばを食べて初の赤穂線に乗って播州赤穂駅へと向かった。↑大石内蔵助公銅像(兵庫県赤穂市)赤穂といえば忠臣蔵。駅前には大石内蔵助の銅像がある。だが、一方でこんなものも・・・・・↑白ポスト懐かしい。なんと久々に見たことか。白ポスト・・・・・・・・・・www駅から歩くこと15分。↑赤穂城跡もはや、赤穂四十七士についての説明はいらんだろう。↑赤穂浅野家菩提寺「花岳寺」東京には泉岳寺があるが、地元赤穂には花岳寺がある。このお寺さんには四十七士の墓をはじめ義士の木像が安置されている。↑鳴らずの鐘鳴らずの鐘であったが、赤穂の人たちは、四十七士が吉良邸に討ち入り切腹することを知るや否やこの鐘を突きまくったという。そして、第二次大戦のときも供出を免れた。さて、赤穂から岡山へ。瀬戸大橋を渡ると坂出駅である。坂出駅の亀城庵でうどんを頂いた。↑ぶっかけうどんうどんに対する価値観が変わった。なんというウマさだろうか。イマまで私が食べていたのはうどんではない。おそらく。そして松山到着。21時。長い旅はひと段落。また一週間後、北の果てに向かうことになるのだが・・・・・・つづく
2009/01/16
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2009年は始まった。だが、今年は成人式。とりあえず、一旦・・・・四国に帰らねば。★2009年1月4日(日)昼過ぎに秋田駅を出発。横手から北上線に乗車。けっこう雪が降りよるね。↑雪景色(岩手県西和賀町)東北線を南下。仙台に到着。ここで一泊。珍しくホテルに宿泊した。★2009年1月5日(月)仙台で友人を待つ。ここから常磐線に乗って福島方面に向かう。↑常磐線浪江駅(福島県浪江町)ノリで降りてみたものの駅前には・・・なんちゃない。しいて言うなら、散髪屋の激戦区であった。常磐線を南下。お腹も空いてきたところでいわき駅下車。↑いわき駅前「麺や 吉風」のにんにくラーメンまた、ハードなものですね。おいしいラーメンでした。スタミナがついたら消化せにゃー。↑磐城平城跡(福島県いわき市)城跡ウォーキング。そして常磐線を水戸へ。↑控えおろう!こちらにおわすお方をどなたと心得る!!初めて水戸にやってきました。納豆せんべいとか普通に売りよる。(・。・)梅の季節に来たいもんですなぁ。↑水戸の弘道館跡にある徳川慶喜向学の地(茨城県水戸市)そして東京へ。アメ横を歩いて御徒町から神田へ。天丼を食べてぶらぶら。皇居を始めてみました。そして見えるは東京タワー。なんか近くに見えたので歩いてみました。↑日比谷公園には「派遣村」が・・・・↑霞ヶ関駅霞ヶ関って東京駅からこんなに近かったんや!!ww日本をナントカしてくれ!!官庁街のまん前に帰宅困難者収容場所。ある意味抵抗ですね。↑愛宕神社前から東京タワー(東京都港区)歩けども歩けども見えてはいるが近づかない東京タワー。それでも歩き続ける我々。そしてつひに・・・・↑東京タワー!!よく神田からここまで歩いたよ。何時間歩いたでしょう。そして浜松町駅へ。こっから山手線で品川駅へ行って・・・・いつものムーンライトながらに乗り込んだのであった・・・・・・年末帰省(4)に続く
2009/01/16
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★2008年12月27日(土)飯田線の旅は続く。列車は大嵐駅で上り列車の待ち合わせのため停車した。長時間停車だったのでちょいと降りてみた。↑飯田線大嵐駅(おおぞれえき)↑まん前はトンネルやっぱ飯田線の駅は何処も刺激が強いっすね・・・ww↑伝説の秘境駅「小和田駅」(静岡県浜松市天竜区)小和田駅は人気の高い秘境駅。降りてみたかったが、降りたら帰れんわな。(゜o゜)↑田本駅前これまた秘境駅の田本駅。このブルーはなんとも素敵。秘境度マックスである♪そして電車は終点の天竜峡駅へ。だいたいここが飯田線の中継地点。↑天竜峡温泉「龍峡亭」天然のラドンを多く含むという長野県屈指の温泉である。日帰り入浴をしましたが、なんと貸切。もう最高だね。↑天竜峡天竜峡は天竜川によって侵食された地形だそうで、1847年(弘化四年)に岡山の漢学者、阪谷朗盧により天竜峡と命名されたそうである。岩の織り成す景勝は見事である。↑天竜峡駅(長野県飯田市)ここから飯田線は伊那谷に入る。伊那谷最大の都市、飯田に到着した。↑飯田線飯田駅(長野県飯田市)とりあえず駅前にある新京亭という中華料理屋さんに入ってみた。↑ワンタン麺昔なつかしの中華そばである。何よりも水がウマい。(・。・)そして飯田線をさらに北上。爆睡し気がついたら終点に近かった。豊橋を出て10時間。私は岡谷に着いた。↑飯田線の終点で中央線の分岐、岡谷駅(長野県岡谷市)中央線を上り。大月へ。大月から富士急行に乗って都留市へ向かった。今宵は都留の友人宅で一泊。↑山梨の郷土料理ほうとう久々にほうとうを食べましたがおいしかった・・・星がめっちゃ綺麗。そして寒い夜空の中、宴会が始まった。↑あ、昨日寝てないんだっけ。ww★2008年12月28日(日)始発で都留を出て、いざ大月へバック。↑大月駅(山梨県大月市)これより新宿を目指します。中央線は武蔵野を東へ。新宿で友人と合流して、湘南新宿ラインで北上。郡山で喜多方ラーメンを食べおばちゃんと会話・・・その後、二本松で降りられました。↑ふぐすま~ふぐすま~♪(福島県福島市)なんとかここまでやってきたけど・・・・ダイヤが大幅に乱れてる。奥羽線が雪崩で運休。これ、帰れんのかね??↑仙台駅立ち食い(宮城県仙台市)そして仙台へ。この先は東北線も遅延。必然的に仙山線へシフト。その前に懐かしい東北の味を。うどんつゆ黒いねー。仙山線で羽前千歳駅で下車。しかしまさかの一時間遅れ。暇だったんで駅付近のセーブオンへ。もう奥羽線のダイヤ乱れすぎ。やっとこさ乗った列車も大石田駅で停止。芦沢で停止。舟形では一時間も強風のため動かなかった。あと新庄まで一駅じゃん・・・・・・・・そして電車は動いた。もはや秋田駅ゆきの終電は行った後だった。ところが新庄駅。私の目には見たことのある電車が。秋田と行き先の書かれたそれはまさに臨時列車であった。早いのなんのって。3時間ほどの遅れは秋田駅到着のときは1時間ほどに。なんだか特急みたいでしたよ。秋田到着1時15分。(早朝ですよ)なきたくなる寒さ。タクシーもないので徒歩で帰宅。↑深夜の秋田市内(秋田県秋田市)ふー。家に着いたら2時くらい。そして年は暮れたのである。・年末帰省(3)に続く
2009/01/16
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さてさて帰省も差し迫った2008年も師走。いよいよ帰らにゃおえん。(゜o゜)でもお金もないなー。っちいうわけで、アレですね。青春18ですね。あれを使ったわけです。★2008年12月26日(金)仕事終了後、予讃線で松山を経つ。職場から縁起物の弁当を買ってひたすら東へ向かった。途中、伊予西条駅でお乗換えである。↑水都西条(愛媛県西条市)西条は愛媛県東部の町で、市内いたるとことから水が湧いてることから水都と呼ばれる。水不足の四国にあっても西条だけは大丈夫とのこと。ホームでは水を飲むことが出来る。↑伊予西条駅より南方の石鎚山昨夏登った石鎚山は雪化粧である。西日本一の高嶺はゴツゴツした岩山で、見た目も貫禄度ありあり。wwなんとか4時間かけて坂出駅へ。予讃線は遅すぎる。しかも坂出駅内のうどん屋さんが臨時休業で閉まっとる。なんちゅーことでしょうか。↑瀬戸大橋で脱四国何回渡ったろう瀬戸大橋。いよいよ本州は岡山である・・・・んで、岡山駅。相変わらず、岡山駅は人でごった返している。山陰、四国、新幹線で関西、九州。4方向からの人の流れがすべてこの駅に注がれている。なんだか、岡山は政令指定都市になったそうじゃあーりませんか??いや、めでたいことですね。(^.^)そっから帰宅ラッシュの山陽線で姫路へ。乗り換えて新快速で米原へ。ずっーと立ちっぱなし。しかも滋賀県内大雪。(・。・)米原からは大垣ゆきに乗って、途中下車。↑深夜の関ヶ原駅(岐阜県関ヶ原町)ここが東西日本の境。というわけで深夜の関ヶ原に降りてみました。死ぬほど寒い。伊吹山からの風が冷たすぎる。しかも雪も降ってきた・・・。ほんまに、なんちゃない・・・ww駅付近は徳川家康軍の最後の本陣があったところ。そして、そそくさと名古屋へ。↑やっぱ名古屋は巨大都市(愛知県名古屋市)というわけで、名古屋で日付が変わったので、ここで降りる。まー深夜だというのに人の波。ネカフェもカラオケも断られ続け夜の街を蛾のようにさまよい、なんとかネカフェに入った。だが、3時間。寝ることなく、ずっとネットをしよって退店。24時間マックで朝食を頂いたとこまでは記憶にあるんだが、マックの店内で爆睡。店員に何も言われないまま朝の5時を迎えた。★2008年12月27日(土)名古屋を始発で豊橋へ。案外、これが時間を食うんよね。いっつも。熱田神宮でも行こうかと思ったが体力がない。気がつけば爆睡して終点豊橋へ。そしてこっから私は何を思ったか、飯田線に乗り込んだ。ww↑飯田線内で先日岡山で買った、ままかり寿司をいただいてみた。ままかりのおかげか、体力回復。(゜o゜)長篠城駅で途中下車。↑長篠城跡(愛知県新城市)長篠城・・・・ここはご存知、戦国時代に起きた【長篠・設楽原の戦】の舞台である。武田勝頼18000に攻撃された長篠城を救援すべくやってきた、織田信長・徳川家康の連合軍30000が衝突。織田軍、3000丁もの鉄砲が火を吹き武田騎馬軍団は壊滅した歴史に名高い戦いである。↑何を思ったか断崖絶壁の川を下りてみた正直言って気持ち悪いほど鬱蒼としている。写真左斜面上が長篠城である。この川でも激戦が繰り広げられたのだろう。↑馬場信房墓所また付近には武田四名臣の一人で武田信玄を支えた、馬場信房の墓がある。信房は武田勝頼の軍を退却させるべくこの地で殿を務めて討ち死にしたとのこと。最期は壮絶なものであったそうだ。また、駅前には『さかさ桑』が残っている。長篠の落武者が小松という集落で民家の前に枝を差し込んだ。土地の者はその剛力の落武者を只者ではないと思い、枝に手を触れなかった。後で分かったことだが、その落武者は武田の御大将、勝頼であったという。その木からは桑の木が生え、枝を下に伸ばすことから、さかさ桑と呼ばれているそうだ。※残念ながら最近、さかさ桑は枯れてしまったそうだ。さて、長篠城駅で出会ったおばちゃんにホッカイロをもらった。いろんな話をしたが、おばちゃんは芸術家とのことである。日本の将来について熱いトークをした。まーこれも18ならではの魅力だろう。おばちゃんの『友達をいっぱい作りなさいよ。』の一言には重みがあった。えー私もおばちゃんとも友達になれましたぜ。(・。・)一期一会。さて、飯田線は静岡県に入った。↑水窪の集落・年末帰省(2)に続く
2009/01/07
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12月26日に仕事を切り上げ、予讃線に飛び乗った。青春18での鈍行旅行で60時間。↑予讃線大浦駅(愛媛県松山市)坂出から瀬戸大橋を渡り岡山へ。山陽線を上り、洛中をすっ飛ばす。近江八幡は大雪であり、真夜中の関ヶ原に降り立った。なんちゃないが、ここが東日本の入り口である。ほんで、名古屋で一泊。ネットカフェを利用したが、不覚にもマックで爆睡。ご時勢かも知れないが、派遣切りのメッカ、名古屋は失業者らしき人が多数おった。翌日は長篠の戦いの舞台、長篠城に降り立つ。飯田線で信州の伊那に入り、天竜峡温泉で風呂につかる。諏訪湖に着いたときにはあたりは真っ暗。中央線をひたすら東へ。大月から都留に入り、友人の家に一泊。翌々日は中央線で新宿へ。東北線を仙台まで進み、仙山線で羽前千歳駅へ。↑雪深い羽前千歳駅(山形県山形市)この先のダイヤは乱れまくりで75分もの遅れが。大荒れの影響で到着時間は大幅に遅れ、到着は深夜1時15分。(゜o゜)というわけで久々に実家に帰ってきたのだが、やっぱ東北は寒いですね。
2008/12/30
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少し秋めいたが、まだまだ夏の松山を・・・↑白石の鼻↑梅津寺踏切瀬戸内は穏やかで素敵です。特に梅津寺海岸は我が家から30分もチャリこげば着きますから・・・・ww東京ラブストーリーのロケ地やし、頑張っていきまっしょいのロケ地でも・・・・まーなんとも稲村ガ崎みたいな光景です。ww↑チャリで駆ける・・・・↑スリーエフま、ちょっとしたサイクリングでせうか。。。
2008/09/12
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日本縦断(山陰編・2)の続きです。★8月30日(土)↑出雲市駅(島根県出雲市)気のせいだが、ここのホームで呼吸困難になった。5分ほど苦しんで元に戻ったが、やはり蕎麦と関係しているのだろうか・・・・・。いざ、西へ向けて出発。↑波根あたりの海岸線(島根県大田市)車窓の風景は美しい。JR東日本のどっかの支社みたいに海岸線(羽●本線みたく)をロングシートで走ることがないため、ボックスで海を眺める素敵な旅・・・・・。山陰は素敵です。wwちなみに「波根(はね)」という駅舎は、TBSで放送された「砂時計」の舞台にもなった駅です。多くのサーファーがおったね・・・・・。↑大田市駅に長期停車大田市は「おおだし」って読みます。石見三田と呼ばれる地名がここにはあります。大田、浜田、益田・・・・wwちなみに世界遺産になった、大森銀山(石見銀山)への最寄り駅。と、気がついたら寝とった。↑夕暮れも近いです。。。↑浜田駅(島根県浜田市)日も傾いた頃、浜田に到着。駅構内は工事中。あたりは何もない・・・・というか、黙って列車に乗っとるだけなので・・・・・というか乗らないと時間がない。↑周布駅(島根県浜田市)そして、あたりは真っ暗になった18時。益田に着いた。ここでは、1時間くらいの待ち合わせがあったので、晩飯を。↑大阪王将の餃子定食(660円)益田まで来て大阪王将に入ることもなかったのだろうが、貧乏旅行に王将は外せませんね。さて、こっからは山口線で山陽にでないと・・・・山陰線は下関まであるが、ここ益田でお別れ。↑益田駅(島根県益田市)↑ラスト山陰線(益田駅ホーム)どのくらい寝たか分からないが、津和野までは記憶にある。そして気がついたら新山口(小郡)であった。こっからは山陽線で柳井へ上る。↑柳井駅おきたら車内に誰もおらん。23時40分。終電に何とか間に合った。★8月31日(日)↑柳井の町(日付が変わった頃・・・・)柳井は山口県の南部。岩国藩吉川氏の藩港として栄えた。江戸時代の白壁のある趣き深い街。とはいっても日付の変わった頃に、観光しよる不審者は己のみ。。。(観光というか徘徊に分類されるのか・・・・)ものすごい突風に満点の星空。そして白壁。なんというすばらしいギャップ。旅のクライマックスにはもってこいであった。そして4キロ歩いて港へ。(終電は柳井港まで出ていなかったため、歩かざるをおえんっちゅーわけ。)見たことアル風景が見えてきた。セブンイレブン柳井港店やー。実に3ヶ月ぶり。柳井港を朝の2時50分に出る船に乗って2時間半。乗客は一人。ww↑三津浜港(愛媛県松山市)そして伊予鉄で帰宅した。↑というわけでまさしく日本縦断。愛媛をスタートし、大分、熊本、佐賀、福岡、山口、広島、岡山、兵庫、大阪、京都、滋賀、岐阜、愛知、静岡、神奈川、東京、埼玉、群馬、新潟、山形、秋田、青森、北海道・・・・そしてUターンして青森、秋田。フェリーで新潟、福井。鉄路で、滋賀、京都、兵庫、鳥取、島根、山口、愛媛・・・・・・・・と。(1都1道2府23県)ま、人生でここまで日本を歩いたこともないのだが・・・・・ところかわれば、人も文化も言葉も変わる・・・・・・まだまだ日本は広いのう。やっと日本の1割くらいを見たような気がする。ま、これも愛媛と秋田に拠点があるからできること。皆さんも旅にいってみてはどうやろ??おわり
2008/09/03
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日本縦断(山陰編・1)の続きです。★8月30日(土)朝、起きた。ここはどこだ・・・・・鳥取県鳥取市や。そういや、一人旅で一泊5000円の宿に泊まったのは初めてかもしれない。↑日乃丸温泉(鳥取駅北口)鳥取という街は湯が湧いている。そう、しかも市街地の繁華街の中に・・・・。全国的にも珍しい街である。駅から徒歩10分圏内が温泉街・・・・なんとも不思議である。日乃丸温泉は朝6時から開いている。さっそく朝風呂。これで350円とは大満足。かなり塩気があり、内湯は熱い。ww↑スーパーホテル鳥取駅南口の朝食(バイキング)スーパーホテルとはビジネスホテル業界でも、かなり著名な存在になってきた。予約をしなくても、朝食付きで5000円くらいで泊まれるのだ。初めてやってきた町、鳥取。鳥取県 - Wikipediaによると鳥取県は日本一人口の少ない県であるそうな。県全体でも60万人。だいたい愛媛県松山市程度の人口である。かつては因幡国(東部)と伯耆国(西部)の二つからなる。鳥取という名前の由来も妙に気になる。天皇が成人しても皇子が言葉を発せないことを憂えていたが、大空に舞う白鳥を見た皇子は「あれはなんだ?」と発したそうだ。天皇は使者を派遣して鳥の捕獲を命じ、見事この地で鳥を捕獲したそうな。鳥を取る。鳥取。ww ↑大国主命と因幡の白兎(しろうさぎ)鳥取といえば忘れてはならないのが。因幡の白兎。いなばのしろうさぎというアニメーションサイトが出雲大社のホームページに記されている。なかなか分かりやすいのでご参照されたし。 ↑いなばのしろうさぎさん土産を買うのも荷物になるので、ラッキョウ、松葉ガニ、二十世紀梨などに目もくれずに、山陰本線を西へ下る。 ↑鳥取駅(鳥取県鳥取市)↑宝木駅に停車中山陰線はやけに途中停車が長い。ざらに無人駅に10分くらい停車する。列車交換に加え単線、さらには駅間の距離が長いことがあるのだろう。↑乗務員室より↑米子駅米子に着いたときには爆睡していた。乗務員に叩き起こされるまで本当に気がつかなかった。米子は鳥取県東部の中心である。文化的には松江の方に近いのだろうか・・・・ここで名物である高級品、吾左衛門鮓を購入。出雲市行きの電車の乗った。いよいよ島根である。安来を過ぎると車窓右手に宍道湖が見えてきた。そして首邑、松江を通過して出雲市へ。出雲まで来たからにはやはり大社(おほやしろ)に行かにゃーおえんのやろ。バスに乗ること490円。↑出雲大社への参詣道にあたる松並木↑つひにやってきた。。。。出雲大社は「二礼四拍一礼」と変わった参拝方法である。↑大社造八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を(スサノオが読んだ、日本最初の和歌と伝えられる)↑杜が広がる・・・・↑しめなわ↑大国主命一生に一度は参拝したいと思ったが、こんなにも早く当地を訪れれるとは思ってもみんかった・・・・。↑鴨うどん出雲そばの国でうどんしか食べれないとは何と悲しいことであろうか。だが、そばの国であっても、うどんもウマかったことはいうまでもない。(・。・)やはり日本海側とはいえ西国にある山陰は東北とは全く違うということを認識した。日本縦断(山陰編・3) へ続く
2008/09/02
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★8月28日(木)旅には帰る先がある。つまりは、帰らにゃおえんのんじゃ。(・。・)↑秋田港とセリオン(秋田県秋田市土崎港)秋田港は秋田市土崎に位置する秋田の海の玄関口である。室町時代には、土崎湊は三津七湊(さんつしちそう)の一つに数えられ、江戸時代には北前船が停泊する北方貿易の中継地として栄えた。いざ、出航である。翌朝、敦賀港に入港するまでの長い長い船旅である。★8月29日(金)↑敦賀港(福井県敦賀市)予定より30分早い5時に敦賀港へ船は入港した。古代は渤海の使節もやってきた歴史ある港である。この港は金ヶ崎と呼ばれるところにある。「越前金ヶ崎」南北朝時代には、南朝方の新田義貞が恒良親王、尊良親王が当地で挙兵。足利の大軍と戦って敗れた。戦国時代には一乗谷の朝倉義景を討伐しに来た織田信長によって金ヶ崎城は開城。しかしながら、近江小谷の浅井長政の裏切りにより、挟撃された信長が京都へ撤退するという戦国期最大で著名な「金ヶ崎の退き口」が催された。この戦での主人公は羽柴秀吉である。また、織田家の武将である柴田勝家や明智光秀、信長の盟友、徳川家康など後の天下に関係した人物が全員集合したということで、歴史のターニングポイントであると文句にある。とりあえず、登ってみた。(早朝から山登りになろうとは・・・)↑JR貨物の敦賀港駅敦賀港駅の敷地内を無断で横断。ショートカットである。ww↑金崎宮のあたりから敦賀市内を一望。↑尊良親王推定墓地尊良親王(たかよししんのう)は後醍醐天皇の皇子である。新田義貞とともにこの城で戦い、自刃した。墓地は推定であるそうだ。↑金ヶ崎古戦場の碑↑月見御殿より若狭湾を望む。なんとも、儚い城であろうか。早朝のため登城者は己のみ。敦賀は北陸の玄関口。山陰、畿内、東海へ抜ける交通の要衝だけに古来より戦乱に巻き込まれた。歴史に思いを馳せつつ、敦賀駅へ3キロほど歩いたわけである・・・・↑鯖寿司敦賀といえば鯖寿司。塩荘の鯖寿司は絶品でった。とりあえず、京都に行こうと思うとったのだが、米原回りだと時間がようけかかることに気づいたので、近江塩津で下車をした。↑近江塩津駅江北の山間の小さな駅である。湖西線と北陸本線の分岐駅にもかかわらず、静寂であった。ここから湖西線で京都へ。途中、近江今津で乗り換え。よう考えたら滋賀県内で駅から降りたことって一度もないんですなぁ。基本、乗り換えか通過。京都で野暮用をすませた。ここから山陰本線に乗って山陰を目指す。(以下、車窓の風景が多いです)↑保津峡途中、亀岡で途中下車。↑丹波亀山城(京都府亀岡市)明智光秀の居城であった。光秀がここから軍勢を京に反動させ「本能寺の変」を起こしたことはあまりにも有名である。↑標柱↑園部駅↑豊岡駅豊岡は大石内蔵助の妻、りくの実家である。ここのキオスクでランチパックを購入。長い長い、山陰本線の旅はここからが始まりである・・・・↑餘部鉄橋通過そして兵庫県の一番端。浜坂へ着いた。↑浜坂駅あたりはもう真っ暗である。ここは新田次郎著「孤高の人」の主人公、加藤文太郎の故郷である。↑懐かしい気動車さて今宵の宿はいまだ決まらず・・・・・というわけでとりあえず鳥取に向かった。南口のスーパーホテルに泊まったわけだが、風呂に入り、カップラーメンを食べた以外は記憶にない。よほど疲れていたのだろう・・・・。日本縦断(山陰編・2) へ続く
2008/09/01
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日本縦断(北海道編・1)の続きです。★8月9日(土)↑富良野の大地 さだまさしの声が聞こえる。(ような気がする)↑富良野線富良野駅(北海道富良野市) ラベンダーはなかったが力強い大地に感動。そして滝川経由で札幌へ。↑北海道開拓使(旧・北海道道庁) ↑時計台 そして大通。すすきのへ。1円も使わずにただ歩いただけ。 函館本線で小樽へ。銭函の海が素晴らしい。 ↑小樽駅(北海道小樽市) 函館本線銀山駅のホームには大量のマイマイガの死骸が・・・・・気持ち悪い。 マイちゃんなんか大っ嫌いだー。(・。・) この日は倶知安の旭ヶ丘公園でテントを張った。風呂に入れず不機嫌になったが、まぁ寝た。 ★8月10日(日) ↑後方羊蹄山 なんと素晴らしい山だろうか。ようていざんである。またの名をしりべしやま。 多分、蛾がようけおるんやろなー。w 長万部(おしゃまんべ)へ。長万部温泉に浸かって、大名行列みたいなのを見た。 ↑長万部かなやのかにめし 北海道三大驛弁の一つである。個人的には遠軽のかにめしの方が好みであるが、まぁ一度食す価値はあるだろう。 ↑噴火湾そして、我々は銚子口に着いた。 北海道亀田郡七飯町銚子口。ここでテントを張ってひなたぼっこ。気持ちのいい日差しである。 蛾もおらん・・・・・本当に素晴らしい場所である。 東大沼キャンプ場。やっぱ、ここはふるさとなんだなーって。一時間かけて函館へ出動。 ↑五島軒のカレー 「ゴトウケン」というのは、函館では知られている洋食屋である。武蔵鴻巣出身の若山惣太郎という人物がいた。彼は明治11年に、米相場に失敗して北海道に落ちた。 一方、宋近治という人物がいた。彼は長崎県五島列島の福江の出身であった。福江藩に仕えており長崎通詞をやっていた人物であったが、戊辰戦争に伴い函館まで落ち延びた。そして、榎本武揚や土方歳三らと箱館戦争を戦ったが、薩長の軍勢に敗れ、ハリストス正教会に匿ってもらったそうである。そして10年もの長きに渡りロシア料理の修業をした。 この若山と宗という人物が出遇い、ゴトウケンは作られた。宗は五島列島の出身だったため、五島英吉と名乗り、五島軒の初代料理長となったのである。創業百二十年。 港町・箱館で洋食というのもまた粋である。(・。・) ↑五稜郭公園 今年もまた、ここにやってきてしまった。箱館戦争から来年で140年。榎本、土方・・・・・・。旧、幕府軍最後の戦いである。北方政権樹立を夢見た男たちの足跡はまだここに残っている。 ↑中島三郎助父子最後の地碑 中島三郎助とは、幕末に浦賀奉行であった。勝海舟とは仲が悪かったらしい。吉田松陰や桂小五郎に海防や造船を教授したこともあった。そして、戊辰戦争が始まると榎本武揚とともに北方に落ち延び、供に戦った。だが、榎本降伏後も薩長と戦い続け、戦死を遂げた。この地は現在・・・函館市中島町と呼ばれている。 辞世の句がある。 「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」 付近には、一本木関門跡もあり、土方歳三最後の地碑が立っている。五稜郭タワーの中には土方ブロンズ像が立っている。 そして銚子口に帰宅。おやすみ・・・・ ★8月11日(月) 早朝、銚子口を出て木古内へ。木古内と言えば咸臨丸が沈没した地である。 ↑咸臨丸が沈没した木古内湾 咸臨丸と言えば、日本人が正規に乗って初めて太平洋を横断した船である。幕府の軍艦であったが、榎本武揚に從って品川を脱出。だが、暴風により伊豆沖へ流されて、清水港で薩長と戦い敗北。新政府方の船となった。港に散乱する旧・幕府軍の遺体を清水の侠客、次郎長が埋葬した。その後、北海道に向け航海を進める中途、木古内において暴風雨に遭い沈没した。 ↑道道 当たり前の話だが、県道ならぬ、「道道」というのはおもしろい。 青函隧道を抜けて津軽へ。 ↑陸奥湾(青森県外ヶ浜町蟹田) ここには太宰治の文学碑がある、観覧山という山があった。 陸奥湾が綺麗であった。 そして、リゾートしらかみで五能線で帰宅した。 ☆まとめ 四国を出て、九州、山陽、畿内、東海、関東、東北、北海道と日本を縦断してみた。これは初の試みであったが、なかなか疲労のたまるものであった。 日本は狭いようで広い。 広いようで狭い。あんなに遠いと思われた、熊本も旭川も、まーそう考えれば近いものなんだなーって。 道中、様々な人と出会った。 旅は人との出会いを通して成り立つものであると私は考える。 距離を計算した。3847,5キロ。 普通であれば交通費のみで10万以上かかる旅行であるが、今回は宿泊費、食費も込みで6万以内におさめた。 ウマいものを食べまくった。そして、ホテルには一泊もしていない。 まさしく強行な旅であった。 全て鈍行を使った。普通列車と快速のみ。まさに青春18であった・・・・だが、まだ旅は終わってないのだ。日本縦断(山陰編・1) へ続く
2008/08/22
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日本縦断(九州・伊豆編)の続きです。せっかく九州から秋田まで来たのでもっと北まで行ってみようって話。★8月8日(金) 北京オリンピックの開催日となった、8月8日。我々(うぃずIke氏)は旅に出た。奥羽線を下り弘前へ。わざわざ歩いて弘前城へ。私は3回目。↑弘前城天守閣(青森県弘前市) 関東以北で現存する唯一の天守閣である。ちなみに近くの文化センターには津軽為信公銅像が建っている。 そして青森へ下り、津軽線で海峡越え。デッキに立っていったため青函トンネルの爆音で聴力がおかしくなったような気がする。いっそう耳の聞こえが悪くなった。 ↑大沼公園 新日本三景の一つである。函館の北方にありロケーションは抜群である。ちなみに私の北海道におけるふるさとである。かつて私はここにテントを張って函館に通った経験があります。車窓からの風景は美しい。 ↑森のいかめし 北海道三大驛弁の一つ、いかめしです。ま、これはあまりにも有名です。470円という破格とシンプルさ。そういや、予備校時代の16歳の真冬にいかめしを求めて2時間以上も「森界隈」の中をさまよったっけ・・・・・w そして函館本線は、長万部へ向けてひた走る。右に噴火湾を長め左に渡島山地。↑室蘭本線 窓がオープンしますが、間違って首を特急にはねられないようにしなくては。カミソリで切ったと違って真面目に洒落にならんからねー。 ↑室蘭本線小幌駅(北海道豊浦町) ところで皆様は秘境駅というサイトをご存知だろうか。人家も道路もない無人駅。そう、この廃屋のような列車も滅多にとまらぬ駅に魅力を感じるのである。私は鉄道マニアではないが「秘境駅マニア」なんだなと最近痛感する。 小幌駅は↑サイトで一位に選ばれた日本一の秘境駅である。道などない。通ずるものは海のみ。私のドーパミン分泌率はあっという間にメータを振り切った。 なんという刺激の強さでしょう。(・。・) ↑小幌駅ホーム 詳しくは秘境駅サイト・小幌駅を見てください。 ↑東室蘭駅にて・・・ そして東室蘭で赤飯と「サッポロクラシック」を買った。ま、クラシックは北海道限定やけど、渋みがあります。深い味わい。 にしても、北海道は寒い。ぶるぶる振るえが止まらない。 そして、今宵の宿、追分駅へ。秋田の追分ではない。 夕張郡安平村追分である。 追分に降りると異様な光景が・・・・・・大量の蛾が・・・・・セイコーマートの明かりに何千匹もの蛾が!!!(-。-) 「マイマイガ大発生」(北海道新聞・2008年8月8日朝刊より) 森林害虫として知られるマイマイガが道内で大発生し、自治体職員らが駆除に追われている。人体への害はほとんどないが、電灯や建物の壁に群がる樣子を見た住民から「気持ち悪い」との苦情が相次いでいる。 そんなこととはつゆとも知らず・・・・ 「やけに北海道は蛾が多いとこだなーって。」 ま、よく考えたら異常なんですが・・・・。駅寝(Station Travel Beveak)しようとしたのだがしめだされたので、追分鹿公園にテントを張った。蛾におびえながら・・・・ ★8月9日(土) ↑蛾が大量発生した追分駅(北海道安平町) 誰よりも遅くテントを張り(深夜一時半)、誰よりも早く鹿公園を後にした。ただのゲリラキャンプ集団。ww 岩見沢から函館本線を北上。上川盆地の中心、忠別川のたもと北海道第二の都市、旭川へ。その昔は陸軍の町として栄えた。 昔は「あさひがわ」といったが、今は「あさひかわ」である。巷で話題の旭山動物園の最寄駅である。 ここは思いいれの深い町である。あの真冬もここに降り立った・・・・ま、それはいいとして。接続がないのでラーメン屋を探す。 たまたまパンフレットに営業時間が9時より・・・とあったので「青葉」という店に行くことにした。 ↑旅の思いで69号 青葉という店は旭川ラーメンの名店である。そういや有名な店だった。(思い出した・・・・) ここは多くの大学生が集う旅のスクエアである。こんなによくしてもらったラーメン屋は始めてかなー。 ぬわーんと、親父さんは道後温泉のタオルを首に巻いていた。昔、マツチカに店を出していたことがあったんだと・・・w ↑青葉のラーメン(750円) しばれる心をほぐしてくれる太ちぢれ麺。この味は忘れられない。一坏、一坏がしったげ重い。このような重厚なラーメンは一年に一回くらいが丁度いい。 もはや、私は何もいうことはない。 そして思いで69号に私はいろいろ書いてきた。もし、皆様も旭川に行かれることがあったら青葉のラーメンを食べていただきたい。中曽根総理から相武紗季まで日本中の有名人がごまんと食べたラーメンをご賞味あれ。 んで、必ず69号の帳面に私がいることを忘れないでほしい。ありがとう、青葉。 富良野線にエクスチェンジする・・・・・・北海道編2につづく
2008/08/22
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そういえば、旅行をしていたので、楽天にもその記録をしてみよっか・・・。☆8月4日(月) ↑別府港の夜景 何を思ったかこの早朝、まさに3時17分頃に私は九州は大分県別府市に上陸した。なんとまぁ、急な旅立ちだったことか。 ↑別府駅前高等温泉 別府といえば温泉。この温泉は24時間営業しております。入浴料は300円。別府駅前なので、交通の弁はいいですよ。風呂の中は下のような感じ。 ↑あつめの方 ま、狭いですが、十分に別府を堪能できますよ。 ↑油屋熊八銅像 油屋熊八は伊予宇和島ん人である。米相場への投資で全財産を失いアメリカへ。そして別府に移住して「亀の井旅館」を創設。バスガイドを日本で最初に導入するなど「観光地」という日本における最初の概念を作り出した人物である。というわけで、別府の発展に相当な尽力をなされた。 『山は富士、海は瀬戸内、湯は別府』 別府を世界一にしよう。別府の挑戦は續く・・・・・。 しかし、この銅像は少し怖いぞーw ↑大友宗麟公銅像 そして始発で大分へ日豊線を下る。どこの店もやっていないので、西へ向かう。 ↑豊肥本線豊後竹田駅(大分県竹田市) つひにこの土地にやってきた。ここは岡城と呼ばれる風光明媚な山城があるのだ。かつて島津義弘も落とせなかった・・・・そしてここは童謡にもなった「荒城の月」の舞台にもなった地である。そして荷物を背負ったまんま、40分の登山へ。 ↑日本でここからが最も有名な景色だろうか。↑岡城の全貌を見る。 春高楼の花の宴 巡る盃影さして 千代の松が枝分け出でし 昔の光今いづこ ご存知、滝廉太郎作曲、土井晩翠作詞の名曲である。滝廉太郎は幼少時代、竹田で暮らしていたらしい。ちなみに晩翠は会津の鶴ヶ城を思い描いたらしい。この曲は九州と東北の融合なんやなーと。(自己完結) 竹田の山本酒店でここでしか買えない麦焼酎「愛染堂」を購入。にしても荷物ヤバいですなー。コインロッカーにも入らんぞな。 豊肥本線を西へ。熊本に入って宮地で途中下車。阿蘇山が雄大の聳え立つ。 ↑宮地駅↑阿蘇山肥後大津の手前でスコール。でも熊本に着く頃には霽れていた。熊本では米焼酎「白岳」を買って鹿児島本線を北上。松本清張の「ゼロの焦点」を読みきる。面白すぎるね。筑後川を渡り、鳥栖へ。かしわうどんとかしわめしを食べる。そして九州最大の町、博多へ。とんこつラーメンを頂き、八女茶を買って、明太子せんべいを購入。旅の中継地ですね。 ↑鹿児島本線博多駅 さてムーンライト九州でいざ新大阪へ。 ☆8月5日(火) なんだかあんま眠れんかったが、須磨の海がめっちゃ綺麗。山陽線の醍醐味ですねー。 ↑ムーンライト九州(新大阪駅にて) そして、東海道をただひたすら東へ。豊橋で「うなぎ飯」を購入してスタミナ補給。清水で降りて、しばし船旅へ。13年ぶりのふるさとへ。 ↑清水港 駿河湾フェリーに乗っていざ土肥港へ。船内の案内はキートン山田。w さすが清水といえば「ちびまるこちゃん」やねー。 清水といえば次郎長とお茶ですねぇ。↑じゅうさんねんぶりのこうけいですねぇ・・・・ 土肥港。西伊豆に位置する金山と温泉の町である。補則しておくが私自身が幼稚園から小1の夏までを過ごした地である。 懐かしさに震えがとまりません。頭では記憶にないものの、体がどうやら覚えておる。 ↑世界一の花時計 土肥の名物ですね。ギネスにも載っています。また足ツボも鍛えられますー♪ ↑土肥温泉 ↑土肥海水浴場 ↑大藪の丸ポスト ↑わずかな母校「土肥小学校」 なんだか狭い町ですからね。けっこういろんな情報が入りますねー。やっぱいいとこです。私のふるさとはここなんだと・・・・・。 だが、時が流れるのは早すぎる。そして血をたらたら流し、私は土肥を後にする。大きな忘れ物もしてしまい・・・・。 また、八月末に土肥に行きますよ。忘れ物を保管してくれてるそうなのでー。 そして修善寺へ。血まみれのタオルで患部を隱しつつ・・・駅前の薬局で・・・・・。 「ばんそうこう下さい。」 いずっぱこで三島へ行き、熱海で鯵の押し寿司を食べてわざわざグリーン車で東京へ。巨大なザックは品川では白い目で見られたが、とりあえず上越線へ。☆8月6日(水)爆睡したら、新津だった。新潟から日本海側を北上。酒田について、庄内絵蝋燭と、だだちゃ豆を買うて、秋田へ。ここで一日帰省ではなく休暇(中継)をとった。日本縦断(北海道編・1) へ続く
2008/08/22
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やっとこさ、ネット開通。さすがはBフレッツ。。。速いような気がする。さらにノーパソはヒューレットパッカーのビスタ搭載。ビスタは凄い。こんなハイテクなパソコンは見たことがない。とにもかくにも、松山のおける私の命綱である。さて、この前(2008年4月2日)の南予旅日記を更新しようか・・・・★4月2日総裁という人から一枚だけ青春18きっぷを買ったワケではあるが、使い道がない。まーせっかくだから南予(愛媛県南部)に行こうか・・・というわけで、日帰り旅行のはじまりである。まず始発に間に合わなかった。仕方がないので3本遅いやつで向かう。予讃本線は長大な幹線ではあるが、松山より先は単線のローカルといった感じである。行きは内子経由で。↑予讃本線伊予大洲駅(愛媛県大洲市)大洲のフジグランで秋田銘酒「北鹿」を発見。なんでこんなところで。。。。大洲で乗り換えて、ぐだぐだ宇和島へ向かう。伊予吉田の付近で海が見えた。↑辰野川の桜(愛媛県宇和島市)宇和島。人口8万人規模の愛媛県南予地方の中心都市である。江戸時代には宇和島藩が置かれた。仙台藩伊達家の伊達秀宗が入部した。秀宗は政宗の庶長にあたる。↑宇和島城石垣↑宇和島城天守閣↑遠く宇和海幕末の宇和島藩主は伊達宗城(だてむねなり)であった。宗城は殖産興業や専売制など、藩政改革を行った。奥州水沢の蘭学者、高野長英をかくまい、長州からは村田蔵六(後の大村益次郎)を招いて軍政の近代化を推し進めた。また越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬とともに「幕末の四賢候」と呼ばれ小藩でありながらも雄藩としての地位を確立した。しかしながら、宇和島藩の維新に対する功績は大きさの割には、宇和島藩は冷遇されたようである。本家が会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟の中心藩「仙台藩」であったためとも言われているが、伊達宗城という人物の思想が薩長を中心とする新政府ではなく、朝廷と幕府主導による「公武合体」政権の樹立を目指したためとも言われている。↑高野長英居住地跡高野長英はモリソン号事件の幕府の対応を批判した「戊戌夢物語」を著したことにより幕府から捕縛された。(蛮社の獄)しかし、その後、脱獄。宇和島藩に庇護され、宇和島藩の近代化に大きく貢献した。その後、江戸に戻り、再び捕らえられ護送中に死亡した。↑児島惟謙先生銅像また、宇和島は大津事件で「司法権の独立」を守った児島惟謙の出身地でもある。「民法典論争」を起こした穂積八束。さらには現行の民法を成立させた、八束の兄にあたる穂積陳重も宇和島出身である。そして、穂積陳重に関しては次のようなエピソードがある。↑穂積橋穂積陳重の死後、宇和島で銅像を作るという話が持ち上がったが、遺族がこれを承諾しなかった。生前、穂積陳重は次のように語っていたそうだ。「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」そして穂積隆重は「橋」になった。現在、辰野川に架かるこの橋は「穂積橋」と呼ばれている。↑穂積橋の上から・・・辰野川さて宇和島脱出。お土産に「鯛のさつま汁」を買う。↑八幡浜駅
2008/04/14
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さて、というわけで本日、5時30分に秋田到着。お出口は左側というわけで、帰宅に成功した。ま、今回は、7日間の旅であったわけだが、うちの母が同行したため、あまり、管理人的な強行スケジュールはなかった。☆3月11日母の仕事終了後、秋田駅からこまちで東京へ向かう。駅内の天ぷら屋で天丼を頂く。そのまま、いつもの大垣夜行23時10分発に乗り込む。と、ここで。3月14日に廃止になる急行「銀河」を発見。最後の雄姿を一目見ようと連日黒やまの人だかり。平成の今まで、東海道に『急行』と呼べるものが存在したことは奇跡かもしれない。ま、米原以西だったら「きたぐに」も走るけどね・・・・wしっかし、この人の数は尋常じゃない。撮影をしようとする人や、わざわざ高額な料金を払い、一ヶ月前からみどりの窓口に並び最後の銀河に乗車しようとする人など・・・etcこれらの人々は、銀河が平常運転しているときに、果たして急行銀河というものに興味を持っていたのだろうか?最後の銀河だから、見る。乗る。少し的が外れていると思うのだが・・・・・兎に角、急行銀河は永遠のスターである。50年間。お疲れ様。そして、ありがとう・・・・・というわけで大垣夜行で西へ下る。沼津で急病人が出たらしいが、ま、ぼんやりしながらも珍しく熟睡した。☆3月12日名古屋で降りて、新幹線ホームへ。予定にはなかったのだが、旅のカンとでもいうのだろうか。↑新幹線ホーム「きしめん」紀州の人が作ったとも、雉子(きじ)麺が由来とも言われている、名古屋名物の一つである。新幹線ホームのきしめんは格別である。そこでダシを調合しているのである。そして、東海道山陽新幹線で岡山へ。しおかぜで松山へ。物凄いスピードで家が決まり、大学生協の凄さを知る。今宵は道後の某高級旅館。☆3月13日思いのほか用事が早く終わったので松山観光へ。↑松山城↑「坂の上の雲」は真っ白大街道、銀天街でぶーらぶら。フジグランでお買い物。で、また道後へ。☆3月14日この旅、最大の目的を終了。宇和島ではスコールとなった。↑予土線沿線↑日本最後の清流「四万十川」もう萎えて、何もできない。せっかくの予土線なのに・・・・↑終点「窪川」↑土讚線窪川駅「南風」で高知へ。途中、須崎で太平洋を見る。高知駅はくじらドームが完成。↑はりまや橋土佐の高知の・・・・はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい・・・・♪↑立志社跡自由民権の志は土佐から出た。↑高知駅旧ホーム高知駅は四国で初めての自動改札が投入された。高架駅になり、下の旧線ホームは解体作業真っ最中であった。☆3月15日高知から大歩危を越えて、岡山へ。「南風」のトイレ混みすぎ。岡山城にまた訪問。後楽園は相変わらず素通り。↑姫路名物「えきそば」↑姫路城そして、姫路へ。修学旅行の時は曇っていたが今日は快晴であった。国宝&世界遺産。☆3月16日↑勝海舟の声がする・・・新快速で神戸へ。湊川神社、メリケンパーク、フラワロード、神戸そごう、三宮、サンキタ、生田神社、元町。んで、神戸駅へ。(はしょりすぎ・・・)↑山陽本線神戸駅ってか神戸線とか使うなっての。ここは東海道と山陽の分岐点であって。神戸線の中間駅じゃないんや!!!(・。・)んで、梅田(キタ)へ。阪急・阪神をうろつき、551蓬莱の豚饅を買う。この世のモノとは思えない旨さである。↑北陸線特急「雷鳥」さて、あと5年後、この特急は存在するのだろうか・・・・・。2014年問題。世の中はますます暮らしにくいものになっていく・・・・。日本海で秋田へ。なんだか、あまりにも濃い毎日で頭ん中がすっからぽんとしている。しかし、旅は終わりではない。不思議なことに、この旅は旅の始まりの一端でしかない。自分の決めた道とはいえ、十二年もの間住んだ、北奥羽を離れると言うのは、なんともいえない心持である。つづく
2008/03/17
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★2月24日松山東映ホテル。朝六時二十五分。もさっと起きた。「行かなきゃ・・・・・」働かない頭を傾けたまま、宮田町から伊予鉄に乗って、上一万へ。乗換えて道後温泉へ。↑坊ちゃん列車道後温泉の商店街を進んで、いよいよ道後温泉本館へ。↑千と千尋の神隱しの舞台になった「道後温泉本館」いや、趣き深いね。朝も早いというのに、けっこうな入浴客。思い切って1500円で個室を占拠。昭和天皇が入浴した、又新殿(ゆうしんでん)を見学。天皇様がご使用なさった、トイレもまた趣き深かった。神代の昔、大国主命と少彦名命(すくなひなのみこと)の二神が国造りのため、伊予に来られたところ。折悪しく少彦名命が重病に倒れました。これを見た大国主命は掌の上に少彦名命をのせ、湧き湯にひたされたところ、さしもの重病もたちまちなおりました。身をもって湯治を体験された二神が浴地を整えられたのが、この道後温泉のはじまりと伝えられております。との説明もあったように、文献上の日本最古の湯である。また鷺(さぎ)が道後温泉を発見したという話もある。最初、二階の霊の湯へ。大浴場を一人で占領。あぁ、ええ風呂や。本当に生きててよかった。そう思える瞬間である。そして、下の階の神の湯へ。東と西があり・・・・「坊ちゃん泳ぐべからず」というあの名セリフも浴場内に立てかけられている。↑入浴後は「坊ちゃん団子」とお茶で一服。さすがは個室である。そして、あの夏目漱石が滞在した、坊ちゃんの間へ。↑漱石先生赤シャツとかって実際におったのかね?もし、おったとすれば、いつの時代にも厄介なヤツはいるものである。マドンナのモデルとなった女性の写真を見たが・・・・「あぁ、これがマドンナなんや・・・・」という感想。↑則天去私あぁ、倫理でやったな・・・用語集には以下のようにある。★則天去私(そくてんきょし)夏目漱石が晩年になってとなえたもので、小さな私を去って、普遍的な大我の命ずるままに自分をまかせるという東洋的・宗教的な心境である。近代的自我の確立の末に到達した境地で、運命に甘んじて、静かにいっさいを受け入れる態度。(山川出版社・倫理用語集より引用)その帰り道、みかん売りのおじいさんと遭遇した。「このサニー○○(品種名を忘れてしまった)は温州の中では一番甘いでー。昔、巨人に西本いうピッチャーがおったんやけどな、そこの生まれた島のみかんや。甘いでー。味は保証するで、買うていかんかい?」とおっしゃる。「甘いでー」というおじいさんの言葉にはとてつもない魅力があったので、500円もしたが購入した。後日譚であるが、このサニーなんちゃらいう温州みかんは本当に本当においしかった。こんな甘いみかんは生まれて初めてであったことは言うまでもない。そうそう、野球のことは詳しくないのだが、西本いうピッチャーとは西本聖のことであるらしい。愛媛県興居島の出身である。(詳しくは・・・・西本聖 - Wikipediaを御覧ください。)さて、その後は道後公園へ。実はココなんと・・・・湯築城跡なのである。↑道後公園(湯築城跡)信長の野望で昔は城防御度をマックスにしたものだった。何気に国指定史跡というから驚きである。↑頂上から松山方面↑頂上から道後方面見晴らしはサイコー。ただ湯冷めしそう。頂上からは松山市内を一望。↑湯築城模型↑河野通直自筆の国分寺安堵状河野氏といえば水軍だが、戦国期まではかなりの実力をもっていたようであるということが、この城を見る限り窺えた。伊予国史もおもしろそうである。というわけで、伊予鉄で大街道へ。まぁ、ココが最もな繁華街なのであるが、秋山兄弟の生家へ。高校生すれすれだったので、入館料は無料。ボランティアの方々がたいそう丁寧に、秋山兄弟について語ってくれた。まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。(司馬遼太郎「坂の上の雲」冒頭)司馬先生の小説「坂の上の雲」は秋山兄弟と、正岡子規を中心に日本の近代という時代が松山という町を中心に展開されたという設定である。坂の上の雲とは、まさしく西洋近代そのものである。↑秋山真之銅像この弟、真之さんの銅像、ローマで造られんだとさ。本物は海上自衛隊にあって、それのレプリカだそうである。マリオっていう人が作ったらしいんだが、写真一枚だけだったため、この銅像の背後はヨーロッパ人のように造られている。と、ボランティアのおじいさんは熱心に私に語りかけた。まるで、あの日露戦争が起きたのが昨日のことのように。松山の人は、すべての遺産を観光にする。商売のためだけではない。本当に自分たちの土地の先人に敬意を抱いている。バルチック艦隊やコサック騎兵隊を昨日のことのように話し、正岡子規が親友であるかのように私たちに語りかける。テレビ朝日で、數週間前に坂の上の雲ミュージアムが道路税で作られていると、叩かれていたが・・・歴史を残し、伝えるということは、お金では変えることのできない、偉大なことではないだろうか?テレ朝さん・・・・?松山人の歴史への執着に、私は尊大な敬意を払う。初めてである、このような素晴らしい土地を旅できたことは・・・マジで誇らしく思う。本当に住んでみたい。そう思えた。ボランティアのおねえ様は、私が秋田から来たというと、こうおっしゃった。「秋田の佐竹公のお姫さんが宇和島に来ているからね。」まさか、松山で秋田藩公のお名前を聞くとは思ってもみなかった。私はそんなこと何も知らない。自分の無知を悟った。↑秋山好古銅像好古は教育者でもあったという。これから、日本の近代を追いかけてみるのもまた、おもしろいと思った。↑鍋燒きうどん実は、松山の名物と言うたら「鍋燒きうどん」なんやて。銀天街を裏に入ったコアの場所に「アサヒ」という店がある。もう一つ「ことり」という店もあったのだが、今回はアサヒに入ることにした。昭和の香りがする店内に運ばれてきたアルミ鍋。歴史を感じるじゃ、あーりませんか。本当にウマい。蒲鉾と牛肉がええ感じや。心の底からあったまった。次は、あの映画「がんばっていきまっしょい」で田中麗奈が食したという「ことり」の鍋燒きうどんを食べよ。ここは、穴場だね。本当に。↑城山の 浮かみ上るや 青嵐 (子規)↑春や昔 十五万石の 城下かな (子規)松山には句碑が多い。近代の日本語を造った、正岡子規は松山の出身である。ちなみに子規は秋田を訪れている。ご記憶されたし。こうしてフジグランドで買いだし。もう地元の主婦だわね。そして、ホテルに帰って勉強を始めたのである。遊んでいたように見えるが、実は遊んでいたのかもしれない。いや、ちゃんと勉強は、した。多分。★2月25日実はこの日は試験だった。そして試験は国語一教科であった。というわけで早く終わった。↑東雲神社の梅↑松山城↑じゃこ天うどん松山駅名物、じゃこ天うどんである。私はこの旅行中、じゃこ天にべた惚れした。黒ほんぺんみたい。ほんとにウマい。うどんも最高。多分、これがこの旅における最後のうどんになるだろう。そして、松山空港から、私は機上の人となった。伊豆半島上空がくっきり見えて、羽田に向かった。羽田からは京浜急行で品川。山手線で田町へ。(暇人は暇なことしかしない。)↑西郷、勝の江戸開城談判の地えぇ、三田の三菱ビル本社にある。この歴史的な会談はこの地で行われた。↑スターバックスで一服皮肉なことに、ここ三田の薩摩藩屋敷にはシアトルのスターバックスの店舖がある。ここで私はトールラテとシナモンロールを頼んで、夕食を済ませた。↑さらば東京多分、人生で一番短い東京滞在だろう。いったい何しにここまで来たんだろうか。やはり私の居場所は関東なのかもしれない。エスカレーターは左が落ち着くんじゃい。というわけである。その後、浜松町から東京モノレールで羽田へ。そして私は、その日のうちに北奥羽へと帰還した。完
2008/02/28
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★2月23日ぎゃ、逆光が・・・・。岡山の朝はゆっくりとやってきた。ホテルの朝食は絶品だったなー。生憎様、必携の書にラテをこぼした。チェックアウトして、重いボストンを左肩に、岡山城にやってきた。岡山ってば、私の感覚からすると宇喜多直家って感覚なんだが、皆さんはどーだろうか?別名、烏城。黒色の立派な城郭である。東国とは違い、西国の城郭は幕末の戦火にさらされていないため、素晴らしい城郭が残っている。会津若松の鶴ヶ城など戊辰戦争後の写真を見ると涙が出てくる。立派な岡山城ではあったが、実は・・・岡山大空襲で消失しているという。再建にしては、物凄い立派。とても後世の造りモノとは思えない。↑旭川は流れる岡山にも「旭川(あさひがわ)」ってのがあるんだね。児島湾に注ぐ雄大な川だった。そういや、秋田市内にも「旭川(あさひかわ)」ってのが存在する。清流でごぜーます。ご記憶されたし。勿論、北海道の旭川もいいとこ。(・。・)後に北越戊辰戦争を起こし、西軍に対してガトリング砲をぶっ放した、幕末の長岡藩総督、河井継之助は江戸より遥か備中松山(現在の岡山県高梁市)の山田方谷(松山藩板倉家家老)を訪れる中途、岡山のことを自身の日記「塵壺」にて次のように記している。岡山はさすが国主、大なる者なり。町へ入りて、小橋・中橋の二川は、皆上り川にて、京橋は右云城の外堀なる川にて京橋に尤も自国の船も四国高松の船、數艘あり。一六二八是非大坂へ船出る、四国へは毎日便船ある由なれども、如何にも盆十五日の事なり。弥出るとも不定、讃仕へ渡らんため暫見合すれとも、思いきりて本道を不行、(後略)★参考引用「塵壺」(長岡市立中央図書館・塵壺)岡山は江戸の頃より、四国へ行く中継地だったのである。河井は、四国行きを諦め、備中に向かった。後述として、コロリの病(コレラ)が大坂、神戸、岡山で流行り死人も出ていたということが「塵壺」には記されている。今は便利な時代である。岡山からは本四備讃線(瀬戸大橋線)があり、備前と讃岐は快速マリンライナーであっという間に往来できる。↑岡山駅しおかぜ亭「かきあげうどん」(400円)うーん。岡山のうどんもまたウマい。なんか、毎日うどんばっか食ってるような・・・↑特急しおかぜ特急しおかぜは、な・ん・と♪アンパンマン列車である。これは子供が喜びそう。別に、ジャムおじさんを撮影したのは狙ったわけではない。(内輪)これに乗って松山まで一直線。茶屋町から本四備讃線に入る。そしていよいよ海外へ。瀬戸内のしまなみが美しい。瀬戸大橋は今年開業20周年。↑瀬戸大橋線何気に私と同い年です。そして、宇多津へ。初、四国上陸。(降りたわけではないが。)しこたま長い予讃線を特急しおかぜは猛スピードで西へ向かう。三好野の穴子飯を食す。この行程ではじめて魚食ったぞ。今治を出たあたりで、なんか後ろの方で車掌と客のじーさんが揉めている。どうやら途中下車のことらしい。客は予讃線の松山以遠の切符を買ったのだが、天気があんまりにもいいので松山で降りたいという。だが、100キロないらしいから降りれない。JRの規則上無理である。押し問答が續いた後にじーさんの放った言葉がおもしろい。「100年も前から、こんな制度があったんか?」車内は大爆笑。車掌もたじたじ。そんな勢いで、松山に到着。駅前のネットカフェで時間を潰す。うぅ、穴子が・・・食べ過ぎたようである。さすがに朝食にホテルの洋食とうどんと穴子食べれば腹も壊すって。ホテルにチェックインした後、はじめての伊予鉄で道後温泉へ。だが、土曜日の昼時である。道後温泉本館は人の山。仕方ないので、お隣の椿の湯に入浴。↑道後温泉「椿の湯」いや、飛んでもなくえぇ風呂だ。300円でこの街中にこれだけの風呂があるとは、さすがは伊豫の国である。「さて、本館は明日来るとしようか。」というわけで、松山の長い夜はふけていった・・・・
2008/02/27
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★2月22日1995年(平成七年)1月17日。あれは忘れもしない冬の朝。ここ、神戸を中心に死者六千名を越える「阪神・淡路大震災」が勃発した。ここ、メリケン波止場には、この記憶を後世に残すためのメモリアルパークとなっている。震災当時の状況が、そのまんまの形で保存されている。↑神戸海軍操練所記念碑と陸奧宗光顕彰碑1864年(元治元年)5月、幕臣である勝海舟の建議で、当時は閑散の神戸村という漁村に海軍仕官養成所が出来た。それが、神戸海軍操練所である。師範に勝海舟、塾頭に坂本龍馬、そして陸奧宗光。維新の原動力となった、大物たちが神戸に結集し、西洋近代を追いかけたのである。↑国道2号「海岸通り」三宮では、通勤ラッシュと重なり、スタバに退避。一服後、ネットカフェで時間を潰す。そして、元町まで神戸線で移動して、EARTH元町店で髪を切って頂いた。話は盛り上がって、神戸ネタから様々に拡大した。神戸では、大阪と違って「何しとる?」とは言わずに・・・・「何しとぉーん?」とこう語尾が上がるんだとさ。なるほどね。そういや、そんな感じだね。あと、近くにウマい立ち食いうどんの店があるっていうので行ってみることにした。南京町を横切って、元町駅の神戸よりの方(JRAのあるとこ)の道路傍に、大豊という店があった。↑かけうどん(200円)早い、安い、ウマいという観点から見れば、三拍子そろっている。そうね・・・また食べたくなる味やね。忙しい時でも改札出てすぐだし。いやーうまかった。↑元町駅えぇ、荷物は神戸駅のコインロッカーにぶち込んで来たので、また、神戸に戻る。で、いつもの神戸駅内のスーパーKOHYOで買い出しして、淡路屋の牛めしを買って、神戸線を西に向かった。青い早春の瀬戸内の海が見たくて、須磨で降りた。↑須磨の浦(兵庫県神戸市須磨区)ご存知、歌枕の地である。また、源平の争乱の激戦地「一の谷」でもある。近くを国道2号が走っているが、やけに静かな海岸線である。ま、有名な句は百人一首のこれだろうか?淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守須磨駅南口はモロ海。駅を降りるとすぐ砂浜です。とても神戸線(山陽本線)の駅とは思えない・・・・感動だね、こうして神戸で砂浜を歩けるなんて。コンバースに砂が侵入してくる。(いつぞやの稲村ガ崎のように・・・・)ここで旅行貯金をしていたら、たいそう親切な局員の方が・・・・「このあたり、まわられますか?」と聞いてきた。おもわず・・・・「まわられます。(・。・)」素で言ってしまうとこだった。やっぱ、上方はまだ慣れとらんな。↑平重衡捕われの松跡(山陽電鉄須磨寺駅付近)↑敦盛塚(山陽電鉄須磨浦公園駅付近)平家の遺跡が多い。平重衡の話は・・・・古文上達だっけか?奧さんとの再会で、髪を切ったというエピソードを聞いたことがある。平敦盛は熊谷直実に討たれたという平家物語の名場面で登場する。↑山陽電鉄須磨浦公園駅須磨駅まで歩くのが面倒臭かったので、山陽電鉄で須磨浦公園駅へ。そこで海岸を見ながら二月の寒空に牛めしを食べた。まことに、おいしかった。そしてもう一駅、山陽塩屋へと向かった。塩屋の町は、勿論初めて。なんで降りたかって?ただ、山陽電鉄とJRが繋がっていたから。ってか、須磨も初めて訪問やからね。そして、細っこい坂のある街で「塩屋」は、とても趨きのある街だ。塩屋の生協さんでジンジャーエールを購入。そしてJRの塩屋へ向かった。↑山陽本線塩屋駅(兵庫県神戸市垂水区)山陽本線は今日も快調だ。舞子からは明石海峡大橋と淡路島が見渡せた。西明石で終点だったのでお乗換え。だが、播州赤穂行きの新快速が15分遲れているという。理由は東海道線の瀬田のあたりでどうやら線路内に人が立ち入ったというのだ。ま、厄介な話だ。しかもこの遅延している列車・・・播州赤穂で岡山行きに接続してないんだとさ。岡山行はすでに発車してるらしい。仕方がないので相生でおりて、新幹線で岡山に向かうことにした。↑相生駅在来線相生は寒かった。なんか、山の中って感じ。そして、東海道山陽新幹線が時速500キロのスピードで何本も通過。まだ山陽新幹線は0系が現役なんだね。弾丸列車。やっぱ、新幹線はコレっしょ?さて、30分位で岡山到着。なんか、物凄い人だぞ。今日のチェックインは岡山ビューホテル。↑晩飯のカキフライ弁当本当にウマかった。今日は疲れた。もう寝ようか・・・・。
2008/02/26
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先ほど、秋田空港に到着しました・・・・少しづつですが、忘れないうちに長ーい道の出来事をアップしていきませう。★2月21日直感がはたらいた。「羽越線で行こう。」予約してあった、ゴロントシート東京往復16000円をキャンセルして、秋田→下灘までの乗車券と新潟→大阪の急行券をゲット。↑雄物川二月にしては順調。羽越線特急いなほ14号は、定刻通り秋田駅を出発。酒田手前で鶏めしを食し、村上手前で爆睡してしまい、デッドセクションでビックリして目を覚ました。新潟についたのは二十時過ぎ。まだ急行きたぐにまで時間があるので、万代シティのスタバで一服。古文上達を二題終わらす。その後、イオンの地下でいろいろ買出しをして。新潟駅に戻った。ちょうど、この日は満月。東横インの上に輝いておりました。おーつきさんが。 ↑急行きたぐに現存する唯一の583系使用の定期列車である。誰もごっぱーさん(583)なんていっても知らないか・・・・。ま、国鉄の遺物ですな。 ↑輝かしい「急行 大阪行」お金がないので座席で寝て行くことにした。まーB寝台でもよかったんですが、その分、食につぎ込みたかったんで。 ↑自由席1260円(急行券)は破格えぇ、単純に安いです。急行券だけで乗れます。でも、足つるし、寝れないし、モーター音はうるさいし、あまりいいことはない。長岡まで起きていたのだが、その後の記憶はあんまない。高岡でばっちり目を覚まして、小松を過ぎたあたりで姿勢を変えてオヤスミタイムと相成った。★2月22日朝起きたら、長浜だった。まだ真っ暗。 ↑早朝の米原駅その後、瀬田、逢坂山、鴨川を越え京都へ。天王山の大山崎を過ぎて梅田に定刻通り着いた。こっから新快速で神戸へと向かった。 ↑神戸港 ↑メリケン波止場あーダメだ。眠い。續きはまたいつか。
2008/02/25
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さて、人生で初めてネットカフェというところにおる。ここは神戸の三宮。只今、ケータイを充電中。今宵の宿は岡山市内。十五時くらいまで着けばいいので三宮でカットしてもらい、須磨の歌枕でも見ながら、日生あたりをぶらぶらして、伊部で備前焼でも見ていこうか。さて、遊びではないことは百も承知。ま、ホンジーツは、ゆっくり岡山に向かっていきませうか。
2008/02/22
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