父の意思で学業に専念する道をつけられた鴎外は、上京二か月後には 西周宅に下宿して進文学社でドイツ語を学ぶ日々を過ごし、東京医学校予科(現東京大学医学部)に入学しました。明治九年以後は寄宿舎生活となりましたが、曳舟通りの家には毎週帰り、時おり向島 の依田学海邸を訪れて漢学の指導を受けていました。鴎外の代表作 『渋江抽斎』には「わたくしは幼い頃向島小梅村に住んでいた」と記し、弘福寺や常泉寺などがある周辺の様子や人々についても詳しく書き残しています。また、明治十年代に原稿用紙に用いたという「牽舟居士」 の号は近くを流れていた曳舟川 (現在の曳舟川通り)にちなむものでした。鴎外にとって、向島小梅村周辺での生活は短いものでしたが、思い出深い地として記憶にとどめられてい たようです。
平成二十六年二月
墨田区教育委員会
椙森神社で宝くじ当選祈願を 2024年11月20日 コメント(26)
-両国- 江戸NOREN 2024年11月05日 コメント(24)
秋葉神社は秋葉原駅からは遠かった(その6… 2024年04月26日 コメント(36)
PR
カレンダー
キーワードサーチ
コメント新着
フリーページ