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安土城 天守台から 北を見下ろすと 肥沃な干拓地 が広がります。
信長さんの頃は南側だけが開けた地形で、
この辺りは琵琶湖の内湖に囲まれていたそうで。
かすんでいるけど、 向こうには琵琶湖 が広がります。
~天主石垣で腰をおろして~
1582年6月焼失した後の城跡は、訪れる者もなく 永い間ガレキと草木の下 に埋もれていた。
S15年(1940)初めて調査の手がはいり、 厚い堆積を取り除くと 往時そのままの礎石が現れた。
この時に石垣の崩壊を防ぐため若干の補強がされたが、それ以外は当時のまま今に至っている。
見えない側の石垣はこんな感じ、コケや草で覆われています^^;
整備の手が入る前は もっともっと埋もれていたのでしょうね。
~1/20 ひながた模型~
天主は東西・南北それぞれ28mの台地で 背丈ほどの石垣に囲まれている。
今は礎石が1.2mおきに並ぶだけだが、記録から地上6階・地下1階、当時では異例の高層大建築だった。
この後 全国に建てられる高層天主のスタート点が安土城だ。
城郭資料館に細部まで再現された城のひな型があるけれど、
こんな ごっついもん が 山のてっぺんに ほんとにあったのかなぁ・・・
城を半分に開いたひな型の右側、 上から目線の小さい人形 見える?
殿 、信長さんです^^
~天主に残る礎石(地下部分)~
地下1階部分の広さと比べると 天守台の広さは2.5倍ほどあり、高さ33mの木造建築だった。
今は石垣上部の崩壊が激しく、まぼろしの城は想像するしかない。
てっぺん の石垣まで登れるので、そこで おにぎり♪タイム 。
狭くて足場はわるいけど、田園風景がパッチワークみたいで 空気が爽やか~
~天主 西下の本廟(ほんびょう) ~
羽柴秀吉は1583年2月安土城二の丸跡に、信長公の 太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬 して本廟 とした。(ほんびょう、読めなかった^^*)
6月2日の一周忌には織田一族・家臣を集めて盛大に法要を行った。
さて、くだりますか。
本丸跡で あの おじい様とすれ違いました@@; 相変わらず黙々と登る姿を見守ります。
・・・おじい様、早い。 結構やるね~ すごいじゃん・・・
80余歳です。
~そう見寺本堂 跡~
織田信長 創建。
天主と城下町を結ぶ 百々橋口道 の途中にあるため、城を訪れる者の多くはこの境内を横切って信長のところに参上した。
本能寺の後の火災では類焼をまぬがれたが、1854年(江戸末期) 伽藍などほとんどを焼失 。
その後 寺地を 伝・徳川家康邸跡に移して、今に至る。
道は大手道とは反対、右に折れ 山の西側をくだります。
本堂跡、三重塔、仁王門と続きます。
階段はくだりがつらいぃ^^;
おじい様はどうやっておりてくるんだろう・・・気になる。
~三重塔~
室町時代の三間三重の塔 重要文化財。 屋根は本瓦葺。
棟柱に享徳3年(1454)建立、天文24年(1555)修理の墨書きがある。
信長公が甲賀の 長寿寺から移建 したものとされている。1604年秀吉の次男・秀頼が一部修理している。
~仁王門 (楼門)~
元亀2年(1571)7月 甲賀武士 山中俊好 建立 と棟木にある。
屋根は入母屋造り、本瓦葺き。 仁王門、金剛力士像とも重要文化材。
~百々橋口~
仁王門を下るとかつては石部神社の前を抜けて、百々橋口へ通じる道を進めた。
今は通行止め になっていて、新たに整備された道を通って秀吉邸跡を抜けて
受付にもどる。
神仏分離のため? 観光客の管理上、出入り口を一つにしたのかな?
受付のおばさんに聞くと、閉門は18時。 いくら おじい様でも4時間あればくだってこれるよね。
・・・陽がくれても戻ってこなかったら、山道を見に行ってください・・・
ペコリ。
受付の人たちも大変気にしていて、登ったみんなも気にしていたけど、
下向き加減のおじい様は、その様子に気が付かないで、
自分のぺ~スで歩いている 信念 みたいなものがありました。感服。
お土産は お寺さんに並んでいた 渋くて素敵 な木曽ヒノキのお守り。
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