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十条には、明らかに酒場の密集した呑み屋街というのが形成されておらず、それが物足りなさの原因である一方で、あてどもなく町を彷徨っていると唐突に見知らぬ酒場に遭遇することがあるのが楽しみなのです。例えば住宅街の暗い路地をくねくねと歩いていて、不意打ちのように出現する酒場というのはその酒場の良し悪しはともかくとして、強烈な印象を植え付けてくれるものです。この夜もO氏と闇雲に十条界隈を歩き回っていて、さすがにもう呑まぬわけにはいくまいけれど、この近隣に呑み屋などなかろうと思い始めた頃になって不意に酒場の明かりを目にして、この店の構えなどを物色することもなく飛び込むことを決めたのでした。 線路にへばりつくように細長い長屋が建っていて、雨ざらしの階段などとても魅力的な物件であります。しかしそれも遠目に見た限りのことでありまして、この暗さだと実際の物件というよりは周囲の暗さというオブラートを通して眺めることになるためか、実物とは別個の怪しさがプラスαされてしまうようです。近くに寄って「とりこ屋」をしかと目前にすると、怪しさとは対極のモダンなカフェバーみたくて、店の方には失礼ながらも失望感に苛まれたことを告白しておくべきでしょう。でも呑むとなれば気を取り直すことにします。ここは鶏の半身揚げがウリの商品のようで、手頃な呑兵衛セットもあるようですが、余りお得に思えなかったので、素直に半身揚げにホッピーを頂くことにしました。半身揚げというのは普通の鶏の唐揚げよりもむしろさっぱりとしていて好きなのですが、ここのも間違いのない旨さです。しかしまあ、この旨いというのは他店との比較に基づく旨さというよりは安定定番の旨さという具合でこの店で食べるだけの特筆すべきところはありません。そういう意味では、揚げ上りに時間を要する点に難があるのでしょうが、きっちり揚げれば食中毒とも無縁であり、しかも手間という点ではさほどのものでもないというメリットがデメリットを上回ると思うからぜひ他店でも取り入れればいいのにと思うのです。梅水晶は近頃何だかとても人気なようだけど、これなどどっかで買ってきたのをそのまま出していると思われるから、やはり少しでも手の入った品がお得だと考えるのはけち臭いだろうか。 お決まりのように「齋藤酒場」に来ると、ぼくだっていっぱしの酒呑みになった気分に浸れるから、やはり十条で呑むと立ち寄ってしまうのであります。O氏もぼくもいつだってどうしようかねえ、なんて行く前にはボヤき気味になるのでありますが、行ってみるとその居心地の良さにすっかり参ってしまうのは分かっているのです。この夜は、久しぶりにとても混み合っていたけれど、閉店時間が近付くにつれ、いい具合に空き始めてきてこのところお決まりになりつつあるけれど、われわれが最後の客ということになります。卓上には、小鉢に白と緑のうどと何か得体のしれぬ肴があるだけですが、コップ酒さえあったなら他に何がいるだろうかと思ってしまうのです。そして近頃は言葉少なになりつつわれわれはしみじみと大人の会話を交わしてしまったりするのでした。
2019/06/26
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東十条という町に熱に浮かされたようになって通い詰めたのも今となっては昔の話。どんなに好きな町だって一通り歩き尽くすとウンザリしてしまいます。ぼくが今住んでいる町は、子供時分から何度も引越して回ったけれど、そのどこよりも気に入っています。気に入ってはいるけれど、それでもやはり飽きるものは飽きるのです。好き嫌いという意味では人に対して抱く感情の方が明らかに鮮明であるようですが、飽きるか飽きぬかといった意味においてはむしろ人というのは飽きないと思うのです。町というものを生んで、育むのは人であるのでしょうが、その町自体は飽きが来るのが案外早かったりするのは、あまりに多くの人の意思が反映してしまうと地域性などを越えて平均化してしまうのかもしれません。通うにつれ、かつてはどことも違って感じられた東十条が徐々に何処とも変わらぬような平板な印象をもたらすというのは何だか残念なことです。 まあ、そんなかつての蜜月時代を過ぎ去ってもじんわりとした良好な関係は継続できるようです。東十条駅北口の駅前というには余りにも貧弱でとても都心の駅前とは思えぬようなしょぼくれた路地には得も言われぬ郷愁を嗅ぎ取れるのです。その駅前酒場群の一軒が「くば」という酒場でした。正直この酒場の連なりでどこに入ったかという明確な記憶など持ち合わせぬのであってどこも入っているようでもあり、見過ごしているようでもあります。ただ、この店舗が外観の魅力では最も劣るというそれだけが立ち寄ることにした理由なのです。魅力がないからこそ立ち寄っていないという理屈なのですが、以前も同じ理屈をもって行動しなかったとは断言できぬから再訪の疑念はやはり付きまとうのです。しかし、その疑念は心地よく裏切られ、まさしく初訪である事をまもなく知るに至るのです。なんて大袈裟に語っているけれど、単純に言えばここのとある肴はぼくは頼まずにいられぬ品だったから、これを食べたことがないということはここに来たことがないということの証しなのです。これとかあれとかそりゃいったいなんなんだという疑問には今お答えします。それは牛スジ大根なのでありました。ぼくは実のところぷるんぷるんした食感というのが結構苦手としているのです。だからやたらとコラーゲンの塊みたいなぷるんぷるんした牛スジ煮込みは大いに嫌悪の対象となり得るのですが、その割によく頼むのは手頃な価格が多いからなのでした。ここのも手頃な価格であるという唯一無二の理由でオーダーしたのですが、これが当たりでした。ぷるんぷるんより筋肉らしいがっしりとした噛み応えのしっかりした繊維肉が存在感があって楽しいのです。しかも味は塩煮込みであるのも大変結構なのです。ぼくは煮込みなら塩派だから歓迎すべき味わいであります。と次の予定があって肴はこれっきりでしたが、大根も食感を残して煮崩れぬ程度に存在感があって大いに結構でした。次又来る機会があればきっと寄っちゃうんだろうなあ。
2019/06/25
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都電の荒川線沿線は以前はしょっちゅう呑み歩いていたものです。しょっちゅうという割には、しょっちゅう呑み歩く程には酒場はないではないか、と沿線の住民や地縁のある方ならお思いになる事だろう。そうなのですね、まさにそれが理由で近頃はこの沿線での酒場巡りには見切りを付けていたのであります。実のところ、かつて並行して喫茶巡りを行っていたのですが、その道中に気になる酒場を散見していて、その何軒にはお邪魔しているけれど、先般放映された滝野川一丁目電停に程近いこの酒場の存在はすっかり失念していました。きっとそんな取り零した酒場がまだ少なからずあるのだろうなあ、という反省から、最近になってまた荒川線の沿線を再訪していたりするのだけれど、それはまだ先の報告に譲ります。ともかくも今語られるべきは滝野川一丁目電停から程近いおかしな外観の酒場のことなのです。 というか、実際の店の雰囲気は番組の方が臨場感を持って直接的に見て取ることが出来るからここでは、実際にお邪魔したぼくの経験との差異を語るのが良さそうです。番組でも目立っていた寄れった文字がユーモラスでありながら赤味が妙にエロチックな袖看板やもつ焼の文字が鮮明に記される暖簾に目が奪われます。もつ焼をなのってはいますが、今では「季節料理 よだ」を前面に押し出しているようです。カウンター席と奥には座敷もあるようですが、ぼくの見る限りではそこが使われることは稀に行われる常連たちの会合くらいではなかろうか。だって最初から最後までぼく以外には一人の客しかいはしなかったからです。まさにその事を店の女将は語っていました。番組放映後に混み合って常連さんが離れたらどうしようかという杞憂をお持ちのようで、実際この酒場をまだ訪れてもいないのに、次週―この酒場の撮影前に他所の酒場に立ち寄っていたらしいから順番が逆転しているのですね―放映される酒場はどこなのかをしつこく尋ねる女性からの電話が掛かってきたらしく、いくら知らぬと答えてもしつこく問い詰めてくるのだと、放映前に既にして後悔しておられました。すっかりへろへろになって現れた吉田類氏にも思うところがおありのようでしたが、それは伏せることにします。直接お話を伺ってみてください。そうそうこの店の特徴的な丸窓について、ここが元は飲食店ではなくなんかの向上とかクリーニング店だったとか伺ったのですがうっかり失念してしまいました。お聞きになられた方がいらっしゃったら教えてください。まあ自分でまた行けばいいだけの事か。ホッピーを頼むと、おやおやなんとすごい焼酎の量だと少し怯みますが、呑んでみると氷の量も多いのできっちりナカを2回追加してしまいます。自慢のもつ焼は女将さんが担当。これがいやはや抜群に美味しいのだ。タンにはお酢をまぶしてくれてこれが案外さっぱりとして脂を流してくれるのです。うど酢味噌はオヤジさんが調理してくれます。陽気そうに見えるけれど案外寡黙で、お喋り役は専ら奥さんがおつとめのようです。さてそろそろと思って立ち上がろうとすると野草茶割お呑みにならないと誘われて断るようには生まれついていません。しからばとお願いすると冷蔵庫にはサントリー角がズラリと並んでいて、その1本を置かれると、どうしてもなるべくたくさん呑んであげたくなるけれど、焼酎の量がねえ、いくら呑みやすいと言ってもそうガンガン呑んではヘロヘロどころかベロベロになってしまう。ということで、サントリー角の中身はあまり減らずに勿体ないなあと思ったら、帰宅時にドレッシングの容器にびっちりとそのお茶を詰めてお持ち帰りにさせてくれたのでした。しっかりお茶は一本分のお値段を支払うことになるみたいだけどね。当然、自宅で美味しく頂きました。
2019/06/21
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土曜日にちょいと野暮用があり田端にやって来ました。それを済ませるとまっすぐ帰宅しても良いのですが、やはり少し位は呑みたいかもとなるわけでいつもの立呑み屋に向かうのであります。そして到着してみて己の迂闊さに気付かされるのであります。ここは土曜は基本休みだったのです。いや、昔は土曜もやっていたはずと曖昧な記憶を振り絞ってみたところでどうにもならぬ。休みは休みなのだから、いくら引き戸に隙間が空いていようがまてど営業開始となることは期待できなさそうなのであります。さて、困った。ここまで来る過程で気持ちはすっかり一杯やっていくモードに移行しているし、かと言ってあまり愚図愚図して遅くなりたくはないのです。ぼくは案外、家好きなのであります。普段の行動がそれを裏切っているかに思えるかもしれませんが、実際のぼくはひどいぐうたら者でありまして、出掛けない日には徹底して出歩きたくないのです。出掛けるなら出掛けるで朝早くから行動を開始したい方です。なので、この日のように昼下がりに用件があったりするのが本当に嫌で嫌でたまらないので、だからそれを終えた後の愉しみを残しておかないと精神的に参ってしまうのでした。ぼくは本当に弱い人間なのです。 なので、以前もお邪魔しているしさして感心しなかったはずなのに、期間限定で17~19時までドリンクがすごいお得になるサービスがやっていると聞くと、「八天将 東田端店」に立ち寄ることに躊躇はないのでした。すごいお得と書いたのは具体的な金額を失念したからに他ならないわけで、しかしケチなぼくが安いというのだから結構安いということです。大体こういうサービスには裏があるものです。その一番の回収策がお通しでボルというパターンで、こちらもちゃちなお通しでいい値段を取るので覚悟が必要であります。店内は表から丸見えで何の驚きもないのですが、やはり店内に入ると表からの景色とは大分違って見えます。ちょっとムーディーなファミレスという感じでけして褒めているわけではないので悪しからず。でもまあそんなに混んでいないからゆったりとできるのは間違いありません。しかし、店の反対側だったから良かったのですが、ものすごい声のデカい馬鹿な客がいて、まあ喧しいこと、せっかくのリラックスモードがぶち壊しになることしばしでした。しかもその声が馬鹿でかいからそのくそつまらん内容までが筒抜けてしまって、それでも耳に入るから聞かざるを得なくなってますます不愉快になるのでした。さて、ボリ策の2つ目がタイムアップが近付くとなかなかオーダーを取りに来ないというものです。いかにも注文取りのペースが落ちたから、ぼくはそれを察して卓上のボタンに頼らず、大きな声で店の方を呼びつけるのでした。無論一気に2杯は注文をすることになります。ところで、特筆すべきはカレーのルーが100円と近頃ブームとなりつつあるのか。これが丼蜂一杯に盛られて出されるのであります。これはなかなかのボリュームで良いのでありますが、しかし残念なことに余り旨くないのであります。カレーが旨くないというのは稀有な事態でちょっと驚かされたのです。
2019/06/01
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東十条にめっきり疎遠になってしまいましたが、東十条は今でも好きな町です。好きな理由はあれこれと理屈を捏ねられそうだけれども、的確な答えを提示するだけの準備はできていないし、いかにももっともらしい言葉を綴ってみたとしてもそれが正解とは思えぬだろうなあ。好きとか嫌いとは分析の対象とはなし得ぬ素材なのかもしれません。例えばぼくが酒を好きなのはまあ間違いなさそうだけれど、じゃあどの酒が好きなんだとか、どういうシチュエーションが好みかなどと具体的な事を聞かれても口淀んでしまうはずです。酒そのものもまあ旨いけれど、酒を呑むという行為を巡る諸々が好きなのですね。だから仮にある酒場で作為もしくは不作為でも構わぬけれど、アルコールなしのドリンクを提供されたとしても何だか薄いなあ程度の事は感じても知らずに呑んでしまう可能性すらありそうです。プラシーボ効果のようなもので、知らずに健康体へと移行するんなら騙されるのも悪い事ばかりではなさそうです。話が逸れて何の話をしているのか分からなくなりました。そう、ぼくは東十条が好きという話をしていたのでした。近頃めっきり足を運ばなくなったのには未訪の酒場が思い当たらぬというばかりでなく、再訪したいと思える酒場も減っているのです。例えば「三兼酒場」もそんな一軒で、田端の立ち呑み屋で遭遇するご夫婦には遠く及ばぬライトユーザーではありましたが、ここの事は大いに気に入っていたのです。そこの空き店舗にいつの間にやら居抜きで焼鳥屋が出来ています。ならば試してみたくもなるのです。果たしてかつての開放感は留めておられるだろうか。 どちらが頭でどちらがお尻かはともかくとして、出入口の両側にある造りは以前を踏襲しています。ご夫婦二人のお店ではこれは不用心な気もするけれどこの入口を多くしてこの酒場はあらゆる客に遍く開かれているよと語りかけるようなとかろを活かしたのは、誠に正しい選択なのです。煙避けのアクリル板が店の方と店内の見晴らしを阻害しているのは至極残念なことでありますが、煙臭い身なりで帰宅できない方も居られるだろうからそれはそれで仕方ない気もするけれどやはり、ぼくには残念に思えるのであります。「炭火串焼 まるよし」の第一印象はそんな感じだったので必ずしも積極的に肯定したくなるという事はありませんでした。しかし、結局、こちらの手頃ながら丁寧に焼かれる鶏の処理などを眺めていると、こちらの店主が手をぬかぬ実直な方であることが感じ取れます。そのせいか随分遅い時刻になってからの女性一人客が少なくないのです。これからご出勤風の方もいるけれど、わざわざ予約して訪れる仕事帰りの方も少なくないのです。そして、ここは客が独り好きなように時間を過ごせるよう店の方もほとんど干渉してこないという方針を徹底して貫いているようで、そこもまた女性達の支持を獲得している由縁なのかもしれません。ぼくのような酒呑みは、今時は時代遅れなのかもしれません。焼鳥をある程度腹に入れると後はもう塩辛とかで良い。温めに付けてもらった燗酒を何度もお代りして結局終電まで呑んでしまうのだから案外ぼくもここを気に入ったのかもしれません。
2019/05/23
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田端のお馴染みの立呑みで呑んでいると、以前はまず目にすることはなかったけれど、最近は時折見掛けることもある若い女性客がこの夜もいて、大概はカップルなのであまりまじまじと眺めることは遠慮差し上げるけれど、この夜にお見掛けした方は独りで現れたものだから、はじめは常連たちの好奇のこもった視線を一身に浴びることになったのでした。最初は若干おどついていた彼女ですが、常連のお一人が声を掛けると堰を切ったように猛烈なトークを繰り広げ、われわれを鼻白ませるに十分な程であったのですが、その話題の中に田端新町に立ち呑み店がオープンしているという話があって、勢いに辟易しつつあったぼくですがそれだけは聞き逃さなかったのでした。 正直言うともう今後は「タバタバー」にお邪魔することはないだろうということを告白しておくべきだろうか。こう書くととてもひどい店であるかのような印象をこれを読む方に与えかねぬけれど、けしてそうではないらしい。実際この酒場のご近所に住むお二方がこちらで遭遇し、意気投合している現場に行き合わせたのだし、それぞれこれまですれ違いを続けながらも通い続けていたこの二人が出会い頭にこの夜に対面を遂げるのはなかなか羨むべき事態であるといってもよいかもしれません。でもそれにしても、酒場に来て金の話をするのは無粋と言われることもあるけれど、酒呑みなどという人種は概ねけち臭い根性の持ち主がほとんどなのであって、なるべき手頃にたくさんの量を呑みたいと思っているものなのです。そうじゃない希少人種が行けばいい店なのであります。大体、店を客観的に評価するなんて酒場が人で成り立っていることを考えるまでもなく、人それぞれに好みは違うのであって、ここがたまたまぼくの嗜好に合わなかったからといって文句を言うのは筋違いなのである。とはいえ、北区の田端が経済的に恵まれた町であるかというとどうもそうは思えぬのであります。だからということではないけれど価格の見直しを検討するが急務と愚考するのです。なんて事を書いてみたけれど、実はコチラにはとてもキレイな看板娘さんがおられるらしい事を漏れ聞いてしまった以上は見過ごす訳には参るまいなあ。
2019/05/11
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志茂といっても地元の方でなければ知る由もないかもしれません。だから地元でもないほくもやはり知らぬわけなのだけれど、それでも何度かは訪れているのであります。というのもこの界隈は歩く気にさえなれば案外とアクセスは悪くないし、休日の散歩コースとしても至極適当であると思うのです。でも日中であればともかく休日に歩こうという気持ちにはなりにくいのです。半分抜け殻のようになった商店街も陽の出ている時間なら興趣もあろうものですが、暗くなるとそれを拝む事すらままならぬ程に見通しができぬのです。ならば陽の長くなった今時分こそこの町に出向くに適した季節ではなかろうか。 といったような事を思ったわけではないけれど、久々に志茂にやって来ました。一緒に訪れたのは京浜東北線住民でもあるT氏なのでありますが、この男、日本各地を呑み歩いており、特に大阪や名古屋などは東京人―生まれも育ちも地方都市のぼくが東京人を称するのはちゃんちゃらおかしいのではありますが―などが足を伸ばす事のまずなさそうな場所にも出向く癖に自分の足元の事にはやけに冷淡なところがあるのです。志茂にいこうと誘いを掛けても余り良い顔はしなかったものだ。いや、実際に顔を突き合わせて話した訳ではなくてSNS経由で相談したのでありますが、とにかく不信そうな気持ちを隠しもしないのです。でも現地に行くと案外と楽しんでいた事をぼくは確信しています。おや「大衆割烹 茶釜 赤羽店」があります。堀切菖蒲園などにも同系列のお店があったと思うけれど、その記憶は定かではありません。入ってみるとこれがびっくりする程に広いのであります。手前がカウンター席がズラリと伸びていて、うんこれなら独り散歩の後に立ち寄るのも他人の肩との衝突に気にせずゆったりと過ごせそうです。奥は広い座敷になっています。フェリーの二等船室程の広さがありそうです。そのゆったりと出来るところを気に入ってか、地元の隠居老人達が群れをなして自分ちのように気ままに過ごしています。その様子は呑み屋のそれというよりは、村の集会場とか公民館のようです。呑んでる時間よりしゃべくってる時間がずっと長い、そんな優雅な時間をぼくも過ごしてみたいと思わなくもありません。立派なお通しを出してくれるのですが、彼らはそれだけで十分粘れるのだろうなあ。まあ我々にしたところで似たり寄ったりの控えめ注文でありますが、それでも居酒屋の肴を存分に楽しめました。 この界隈には洋食店も魅力的なお店が多いのですが、「レストラン ワールド」もそんな一軒。店内に入ると思ったよりはワビサビとは縁遠い感じではありますが、こういうごちゃごちゃとした感じは嫌いではない。というかむしろぼくは自分の家ではモノの少ないガランとした殺風景な方を好むのでありまして、散らかっているお店を好むのはその反動に近いのかもしれません。お隣の男性グループは肉に次ぐ肉のコースメニューを頼んでいるようで、肉、ビール、肉…と無限ループのようにオーダーし続け、それを眺めているだけで満腹になりそうです。女性グループも負けていないようで、食事風景を見ていなければ淑女風にお澄ましなさっているけれど、いやはやトンデモない喰いっぷりであります。食に自信のない方や慢性膨満感の持ち主は、目の毒に違いないので注意して訪れていただきたいのです。我々の頼んだソーセージ盛合せやオニオンフライにしても安価でボリューミーという喜ばしいけれど、しかし調子に乗って食べると後から激しい胃もたれに苦しみそうな品にも警戒心が求められるのであります。
2019/05/10
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赤羽はもういいかと思うのは早過ぎるようです。ぼくはけしてにわか酒場ファンを否定する者ではない。たまの休日に、雑誌の酒場特集なんかで目にした、そう赤羽特集の記事を見て、あすことかあちらとか、まあともかくそうしたメジャー級の酒場を訪ね歩くとしても文句など言うつもりはサラサラない。確かにかつてはそうした酒場を主戦場に夜な夜な、赤羽だと朝方に呑み歩く人達がいたとて仕方のないことです。かつての常連たちにとっては甚だ迷惑極まりなかった事とその心中をお察しはするけれど、その取材を受け入れたのだから仕方ないことなのです。何て事を連休前には書いていたようですが、すっかり休みボケしてしまって少しも気合が出てこないのです。まあ、このブログのどこを探しても気迫や根性とかいうものとは縁遠いのだから、このボケっぷりを存分に発揮してみせれば良いのです。とか言いながら徹底してボケるにはぼくは真面目に過ぎるし羞恥の感情も相変わらずなのです。やはり元号が変わった程度では何ら劇的な変化が及ぶはずもないのです。これから向かうのは、いや通りがかりにたまたま目に止まった一軒の酒場は、昭和の時代に店の歴史を始めたのだろうけれど、平成もそして今度の令和なら時代もどこ吹く風とばかりにしゃあしゃあと乗り越えていくのだと思うのです。 さて、かつての呑み屋街では普通に目にしたおにぎり屋さんがここ赤羽にも残っていたのですね。駅前なんかは観光名所のようになってしまってぼくのような酒場に立ち寄るのに少なからずの後ろめたい感情を伴わねばちょっと違うんじゃないかと思うような少々面倒な性格の持ち主には「おにぎり割烹 ひろ美」のような闇夜にポツンと身を潜めるような酒場こそが安心感をもたらすのです。いつか赤羽駅前の酒場たちも飽きられて見向きされなくなった頃に足を向けてみたいと思うけれど、それは当分先のことになりそうで、むしろそれまで自らの身体が保つかどうかを心配せねばならないのです。さて、期待通りの店内は結構な数のお客さんが入っていて、といってももともとが定員十名程度のお店だからほぼ我々が腰を下ろすと一杯になるのであります。皆さん揃ってコチラのベテラン勢のようで、まるで我が家のようにリラックス仕切った表情でだらしなくも楽しげに酒を呑みます。さて、こちらはおにぎり屋を標榜していますが、肴の種類がとても豊富でしかも余所ではあまり目にしないユニークな品も多数品書きに忍び込んでいます。アボカドの料理などはぼくなんぞの想像をまったく裏切るようなシロモノで、しかし味もいいししかも濃厚なので酒の肴にもぴったりでした。それがどういうものなのかという詳述は避けますが、気になる方はぜひ実地に体験してみてください。酒が止まらなくなること必至です。ここにはいつものT氏と訪れたのですが、居酒屋に関しては相当に辛口な批評を放つ彼でありますが、近くまた来ると語っていました。その言葉を信用するかしないかはこれをお読みになる方の自己判断に委ねますが、ぼくもいずれまた訪れる気がしています。
2019/05/09
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王子神谷駅の界隈に行くには、東京メトロ南北線を利用するのが一般的です。でもこの駅の日常的な利用者ならざるぼくにとっては、いちいち南北線に乗り継ぐのはかったるいことなので、少々歩きはするけれど東十条駅や王子駅を利用するのが常でありました。それにしてもこの界隈は東京メトロのこの駅ができるまでは、鉄道利用者には不便極まりない町だったのでしょうね。どこかに行くにはバスを利用するしかなさそうだし。って実際行って歩いてみると、池袋行きや北千住行きなど多くの経路があって、案外便利なのです。というか老後の事を想定して、多方面に路線を有するバス停の側に住むのもいいものかもしれぬと思うのです。無論、バスの路線にしたところで住民の数や動線次第でいかようにも変化するのだろうから、いずれにせよ将来を見通す予見力を培う必要がありそうです。 でもバス頼みの町が鉄道の駅が中心に据えられた町へと変貌した余波を受けたからだろうか、頑なに戸を閉ざす「やきとん やなぎ」、漫画喫茶の看板のみ留める閉業喫茶が多く見られ、定食屋の「ミヨシ」こそ営業しているものの覗き込んだ店内からは、店の女将さんの深い井戸の底から送られるようなどんよりした視線が放たれているのでした。それに怖気をなした訳ではないけれど、この日は、ここをスルーしてしまったのでありました。 行くならより不便な方に立ち寄りたくなるのは人情であります。「キッチン カワセ」は、人通りの少ない商店街のそのまたかなり裏手の通りでひっそりと営業していました。くすみ切ったオレンジの店内はセピア色ともまた異なるどんよりとしたノスタルジーが沈殿し切ったようで、それが気分をも重くさせるのであります。82歳になりますます矍鑠たる様子の客の老女に倣ってカラシ焼にビールを注文します。しばらくは店主は黙って調理の手を振るっておりますが、中華鍋に刻んだ豆腐を放り込み煮込みに入ると俄然助平話に花を咲かせ始めるのです。いやいや、別にハナから猥談に耽るなんてことはなくて、パチンコなんかのギャンブル話や封筒包みを配った頃の選挙の話など話題は多方面に及んではいたけれど、老女が私はギャンブルはやらないね、お金もないからというとオ×××見せればいいじゃないとか、とにかくそっちの単語が好きで好きだ堪らないらしい。GWはどうするのと老女が尋ねれば、日曜日以外は毎日やってるよ、旅行に行く相手もいないし、いてもオ×××させてくれるわけじゃないからね。子供がチ×チ×を連呼するかのごとくにオ×××を連呼するのでした。嫌いな人は嫌いだろうけど、うん、ぼくは楽しかったです。それにしても独りでカラシ焼を食べきるのは難儀に思えるほどの量でしたが、老女はペロリと召し上がっていました。
2019/05/07
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志茂と書いても知ってる方は少ないかもしれません。いや、地元の方や鉄道マニアなどなどぼくがかつて知らなかったからといって他の人々も知らぬと決め付けるのはあらぬ反感を招く事にもなりかねぬので、可能な限り正確に言うと、ぼくは数年前までは志茂という土地があることや鉄道の駅があることすらすらずにいたのです。正直、普通に生活している限りは知らずとも全く支障なく生活を送ることが出来るだろうし、普通に生きていなくても敢えて足を運ぶような所ではなさそうです。無論そうは言っても独立国家でもないのだから、この町の学校や企業、役所に通う人達もいるようだから、都内と隔絶などしていない事も分かるけれど、そうした役割や用事を与えられぬ者が好き好んで訪れるような場所ではなさそうに思えるのです。しかし、こうした土地に敢えて好んで赴く人達がいるようです。それは例えば映画などのロケハンを担当する助監督とかだったりするのであって、彼らもまた役目を背負って訪れるのであるのは先の人々と同様ではあるけれど、それは目的地として訪れているのではなく、結果としてここに目当ての場所があったという原因と結果が逆転しているという事が重要なのです。そうした意味ではロケハン担当者の仕事は、ぼくが酒場を訪ね歩くというのを趣味として行っているのを職業となし得た幸運な人達かもしれぬと思ってみたりもするのです。それが誤解に過ぎぬ事は分かってはいるのですが、でも時々、彼らと同じ様な場所に遭遇する事があるのです。 志茂駅からすぐの「幸楽」は、他の町ではなかなか目にすることの叶わなくなった絶妙な孤独感を放っています。いや、この店はずっとこの町で地域に馴染んで地元の方たちの食欲を満たしてきたのでありましょうが、余所者の目には明かりが灯っていないともはや営業しているとは思えないだろうし、やっていたとしても明日にも二度と店の暖簾が下げられることがなくても不思議でなく思えるのであります。外観もそうだけれど、狭くてゴチャついた店内はもう何年も片付けという作業とは無縁でいるかに見えます。しかし、壁に貼られた一枚の映画チラシを見ると確実に外界と接続している事が分かり安堵するのです。この店をロケ地として使いたいと感じた人達に共感してしまいそうになります。おや、アド街なんかも取材に来ているようですね。ここは時が止まっているかのような見掛けであるけれど、案外と世の中と深く結び付いているみたいなのです。酒の品書はなさそうですが、先客がビールを呑んでいます。それに倣い玉子焼きや野菜の旨煮などを頼みます。世代に開きのある女性ばかり3名でやっておられますが、かつてはご高齢の女性の旦那さんも一緒にやっておられたのだろうか。すっごく美味しいわけじゃない。でもそんなことはこの際どうだっていいのであります。東京メトロの南北線が通らぬ、所謂ところの陸の孤島と呼ばれた頃からずっと変わらず、一つ所に留まって地元の方たちのためだけに安くて普通に美味しい中華料理を提供し続けてきたその姿勢にこそ感動するのです。そして、その優しさは余所者にも向けてもらえて本当に感激なのです。
2019/05/03
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ようやくこの頃は蕎麦屋で独り呑むことにも慣れてきました。若い頃にはたまに職場の上司やらに連れられ、例えば淡路町なんかのあの老舗蕎麦屋にランチなんて行ったこともありますが、混み合うランチ時である事を意にも介さず堂々たる、いや違うなあむしろ彼は他人の迷惑とか嫉妬心などハナから視界に入らぬかのように泰然自若たる態度で蕎麦味噌など舐めつつ熱燗を小さな盃に注いでは、やはりこちらも舐めるようにゆるゆると干すのでありました。その表情からは彼が一体何を物思うのかなど全く汲み取れぬのであります。何も考えてなどいないのではないかをいやいや、それも相当なる修行を要する所業であります。昼間から酒を呑むようなジイさんがそんなに高潔で立派な人物とは考え難い。案外、どうだ昼間から悠々自適に過ごせる俺のこと羨ましいだろうと弛緩しきった表情筋の裏で思っていたのかもしれないし、蕎麦味噌と清酒の併走に、あら今は味噌を舐めすぎたとかつい勢いで酒を含み過ぎたとか思っていたのかも知れぬ。中身は違っても大方そんなようなことであったように思うのです。土台、酒呑みが呑みながら思う事などいくら深刻ぶった様子でも大概大したものではありえぬのだと思うのです。どんどん話しが逸れていくので話しの軌道を引き戻すと、つまり、蕎麦屋で呑むのは己が馴染んできたと思う一方で様になって見えるにはさらに遥かに経験を積まねばならぬという事です。 見目ままならず生を授かったのは仕方無しとして、せめて仕草振舞いだけでもカッコよくキメたいところでありますが、それもなかなかに難儀な事であります。というか、蕎麦好きよりも蕎麦屋呑みを好んでしまうだらしなさをなんとかせぬ限りいつ迄経ってもナイスミドルには達し得ないのであります。この夜も蕎麦屋にわざわざ足を運びながら結局は呑みに徹して蕎麦を食わず終いとは何ともはや情けのないことであります。それがために師匠として還暦をとうに過ぎた熟年オヤジを伴って出向いたのですが、少しも効果はなかったようです。お邪魔したのは「田端 玄庵 昌」で、蕎麦屋で蕎麦も食わぬのに感想を述べるというのもどうかと思うのですが、比較的お手頃に蕎麦前―われわれには蕎麦無となってしまいましたが―を頂けてまあ便利です。小奇麗で蕎麦屋らしくない店内はぼくの好みではないけれど、大家族連れをはじめとしてすごい賑わっています。地元の人気店のようですね。田端にはこうしたモダン和風な内装の蕎麦屋が多い気がします。 蕎麦は食わねど鰻は食らうのです。無論鰻は本身は当然に旨いけれど、タレの染み込んだ白飯の旨さは殊更に強調するまでもなかろうと思うのです。という事でいつもの立呑店に御案内、ひと仕切り呑んだ後にさり気なく鰻屋へ連れを誘ったのであります。蕎麦屋を出た後に後で〆に鰻でも何でも腹に溜まるものを食べようと漏らした事を忘れるはずもないのでした。まさかすぐ近所に鰻屋があろうとは思ってもみなかったに違いないのです。「うなぎ 登喜川 田端店」は、町のありふれた気取らぬ構えのお店で、日頃は縁の薄い鰻屋を記憶に留めることは稀有なことなのですが、さすがにこの辺は幾度となく通っているし、他に記憶に留めるべき何かがあることもないので、鰻の言葉が出た際は、瞬時にここを想起し得たのです。たまの鰻を逃す程にボケてはいませんよ、ぼくは。てなことで店に足を踏み入れると何たる事か大盛況ではないか。二人席は空いているけれど、果たしてわれわれが口に入れる分が残っているか不安になります。が、高齢の女将さんが奥に確認すると大丈夫だとの事。ホッとしたらまた酒が呑みたくなりました。お新香で酒をちびりちびりとやりつつ、鰻を待つ時の多幸感たるや筆舌に尽くせぬのです。そのお待ちかねの鰻でありますが、名店じゃないかもしれないけれどたしかに重箱まで舐め尽くしたい味わいなのでした。すっかりご馳走になったのに、お連れの人から、酒間さんともっと早く知り合えていたらなあ、などという有り難い言葉を頂戴したのです。こちらこそであります、なんて書くとこれまでもずっとご馳走になりたかつたなんて思われかねないかしら。
2019/05/02
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王子方面で団地というとつい豊島団地を想起しがちなのはそこを経由する都バスに乗車する機会が多いからなんだろう。そことは駅を挟んで逆側にも団地があったなんてちっとも知らなかった。団地は好きだけれどどうしてもノスタルジーの対象としてしまいがちで、それが嫌だからなるべく調べたりして嗜好の対象とはせぬよう心掛けてきたけれど、やはり世間には団地に対して興味を抱く人は少なくないようで、しかもその趣味をまとめた書籍やDVDがある事を知るとつい手を出してしまうのであります。この王子の団地などは幸いにも建替えが進行中なのか郷愁を喚起する要素は希薄だからまだしも己の弱さを露呈せずに済ませるかもしれぬ。いやいや、けして単純に郷愁などの過去に向かう感情が必ずしも負のものであると喝破するつもりなどないけれど、何よりそうした感情は悪酔いを伴走するものと相場が決まっているのです。とにかくその団地―今、調べたら都営滝野川3丁目アパートでした―に引っ付くように営業している一軒の酒場というか集会場にお邪魔したのでありました。 その店名は、「一生」と書いて「いっき」と読むらしい。「いっしょう」と読ませるとするとそれはそれで重苦しくはあるけれど、「いっき」というのも気取っているというか立原あゆみ的硬派っぽくてどうもねえ。とか思いはするけれど、当然戸を開け放つのです。そこに待ち受けていたのは、店名からは予測がつかぬけれど、場所柄、当然のように予期していた緩い空間なのでありました。見た目には目を引くほどのボロさは感じられず、ボロというよりは失礼だけれど安普請な印象でありました。店内に入って、ここはそう昔の事でなく、団地同様に改装されているのだと思いました。なんていっても客層がかなりの高年齢で占められているからです。そしてそんな客よりも女将がずっと年長に思われるのであります。さて、ここでは多分、いや間違いなく団地の住民であろう老人たちが日がな一日を過ごしているのであろう。とにかく酒の肴からおやつになりそうな品やちゃんとした食事メニューまでありとあらゆる品が揃っていて、それを女将さんがゆるゆると調理するのであります。かなりのゆるゆるとした動作なので、あまり時間を要する品を頼むのは禁物であります。おそらくここは昼夜のぶっ通し営業だからそういう面倒な品は閑散期にして通常期には控えるのがマナーというものであります。昼間からこの顔触れはほとんど変化しないのだろうけれど、夕暮れ時にはさすがに仕事帰りの客もやってくる。そうした人で常連だったりすると話の種が尽きたのか当然の如くに彼らが群がって、あれこれと話題を要求するのが面倒だけれど、それを愉しめるようになればここに通うのが嬉しくてたまらなくなるのでしょうね。さすがにぼくにはまだ早過ぎるかな、多分。。。
2019/03/29
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王子という町には期待を抱いているのだ。抱くとか抱かぬとか好き勝手なことを抜かしやがってという誹りは甘んじて受け入れるけれど、受け入れだからといって何かぼくの気持ちに変化をもたらすかというとそんな事は少しもないのであります。で、ここまで目的語を省いているけれどそれは断るまでもないのはこのブログの主旨から自明なのでこれも語るには及ぶまい。とにかく王子には何処かぼくの尽きぬ欲望を満たしてくれるような酒場があるはずだし、そう思いながら何度となく肩透かしを食らって後にも変わらぬ感想なのであります。地方出身者に言われると腹立たしいかもしれぬけれど、北区はやはりどうしようもなく地方都市っぽいのであります。東北本線でとろとろと東北から鈍行列車に揺られて東京に至った人ならお分かりいただけるかもしれぬけれど、地方から上京、いやむしろ夏休みとか正月に帰省して実家などで過ごした後に再び上京した時に帰宅を通り抜ける車窓からの緩く田舎臭い風景にどれだけ心癒されたことか。本当の田舎はぼくには耐え難いけれど、田舎臭い町は好きとは、やはり自分にとっての原風景というものは記憶の奥深くに抗い難く刻み込まれているもののようです。好きな町に期待通りであってほしいと望むのは身勝手なことは弁えているし、それを望むことは庶民の夢としては大き過ぎるのだろうと思うのです。王子は箱庭のように意のままに都市計画を策定してみたくなるような程良いサイズ感があります。言うまでもない事ですが仮にぼくがそれに手を染める事が許されたとしても、今のこの町のような魅力は構築し得ぬに違いありません。しかし、訪れる度に魅力を削がれていくこの町の個性を眺めやるとそうした野心を叶えてみたいという誘惑とは無縁ではおられぬのです。 駅からは些かに離れているし、呑むためだけにここまで来るのは少しばかり物好きと言えるかもしれぬ。しかし、王子への期待を抱く者にとってはこれしきの距離に音を上げてはおられぬのです。今回お邪魔したのは「竹林亭」という中華飯店でありました。ここ、王子には以前目にしていて是非とも訪れたいと思っている中華飯店が2軒あって、当然そちらを眺めやってからこちらに回り込んだのです。こんな場所にこんな大きな団地があったとは知らなかったなあ。この中華のお店はその団地の方達が通われているのでしょうか。判断を付けかねなかったのは、他にお客さんの姿を見かけなかったからでありまして、沈鬱な気配が店内を満たしています。堪らなくいいムードではありますが、その気配に独りだと押し潰される、いや呑み込まれてしまいそうな気持ちになります。それはまあ言い過ぎかもしれぬけれど、まあそれ位に外界との違和を覚えたのであります。それには店の方が必要なとき以外に姿を見せぬということも起因しているようで、この夜はT氏と一緒だったから辛うじて冷静を保ちましたが、独りだとそわそわした気分に陥り、傍目には食い逃げでもしそうな素振りに映ったかもしれません。さて、こういう古いお店では無難な品に逃れがちなのが己の冒険心の欠如であります。このところとみに胃腸の弱まりを意識せずにおられぬので、しっかり火の入った料理を求めるのであります。餃子は時に火の入りが弱くてタネに火か通っているか心配な場合もありますが、焼きそばは間違いはなさそうです。味はまあねえ、こんなもんだろうけれどこの独特な孤独を感じられたのだから不満などもってのほかなのであります。 続いてのお店もまた中華料理のお店になるとは、想定していませんでした。中華は好きだからまあそれでもいいのだけれど、勝手に居酒屋だとばかり思い込んでいたので、「多多屋」には少し失敗したなあという気分にさせられました。店に入ると女将さんが独り卓席上で伝票の整理中です。われわれが入って慌ててクッキーかなんかの缶にしまいこんでいたので、せっかくの整理がおじゃんになってしまったのではなかろうか。もうさほど腹も減っておらぬけれど、大好物の麻婆豆腐がお勧めらしいから頼まずにはおられぬのでした。この料理の魅力とカレーと違って味の良し悪しの落差の大なることには、大いに述べたいところでありますが、今はその準備がないので今後の課題とします。うっかりピータンを頼んだのでありますが、まあ悪くない。というかピータンは自家製でもない限りは買ってきたのを剥くだけのお手軽料理だから、これはもはや外で食べるのは無駄なのであります。むかしむかしのピータンの作り方というのは庭のぬかるみにアヒルの卵を埋めて、色男のおしっこをびしゃびしゃ流しかけていたと聞く。というか漫画で見たことがあります。だからなんだということでもなくて、単に知ったかぶりをしたかっただけなのです。女将さんは無口で、店も普通だけれどたまにはこういうのも悪くありません。近頃口の重くなったわれわれですが、久々に愉快に語らいあうことができました。
2019/03/27
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田端の住民は、疲れて帰宅して冷蔵庫を開けてみてもそこに腹を満たす食材がまるでなかったとしたらどうするのだろうか。近所には確かに中華料理店は少なからず見受けられますので、それらに食べに出れば用は足せるだろうと思います。でも外が大雨だったり酷く冷え込んでいたりしたら一旦家の温もりを知ると表に出る気力など萎えてしまうかもしれません。準備万端にコンビニで食料品を買い込む人も多いのでしょうがそれはいかにも味気ない。仕方ないのかもしれませんが、ぼくには一日をコンビニ弁当やおでんで済ましたいとはどうしても思えません。中華にしても疲弊して胃腸も弱っていると喉を通らぬ気がする。そんな時に熱々の天ぷらそばを肴に麺が伸びることなど気にせずにゆるゆるやるのなんて、実に良さそうではないですか。良さそうと書いたけれど、そうぼくは外呑み派なのでテンヤ物を頼んだことが無いのであります。いや、全くないと書くと嘘になります。子供時分に中華飯店から取る味噌ラーメンは大いに気に入っていたし、たまに取る並の寿司も胸が高鳴ったものです。しかし、酒を嗜むようになってからは一度たりとて出前を頼んだことはありません。足腰が弱って外出もままならぬご老体といった方たちなどにとって出前はとても重宝であるばかりでなくそこから取る食事は、身体の何分の一かはそれで出来上がっているのかもしれません。出前には他に鰻なども定番ですが、やりもっとも馴染みのあるのが蕎麦屋になるのではないか。そんな昔からやっている蕎麦屋の一軒が今月を持って閉業するというのです。 そこは「瀧乃家」という北区界隈で何軒か店舗を構える一軒です。東尾久と西日暮里の店舗には以前お邪魔しています。かつてはもっとそこら中に点在したのではないでしょうか。お聞きした訳ではありませんが、きっと発祥となった一軒で修行した方たちが暖簾分けのような形で緩く深く縁を繋いでここまでやってこられたんではないだろうか。店主同士の繋がりは今はどうなっているのだろうかなど気になりますが、そこには特別なドラマなど有りはしないのかもしれません。ドラマなど何処にだって誰にだってあるものだし、しかしそのドラマを語ろうと口を開くと途端に凡庸に思えてくるのが常です。その凡庸を辞さぬ覚悟を持つ者だけが私小説作家足り得る条件なんじゃないか。おっといかん、話が脱線してしまいました。それにしても近頃、カレーライス酒にハマりまくっています。カレーってルーだけで肴になるし、メシも塩だけでもいいけれどちょっとでも味があれば十分に肴になる。これを同時に摂取するのだからまあ太ること太ること。さすがにこのままでは着られる服もなくなるし、肝心の呑みの方も控えねばならなくなっては元も子もない。少しは節制に努めねばなるまいなと思いつつ、カレーの誘惑はぼくの薄弱な意思などで振り払えるか心もとないのでありました。ちなみに肉じゃがはお通し。当然カレーにトッピングして楽しみました。そうそう、貼紙によるとこちらの営業はこの3月末までとのこと。特にこれまでごひいきになさった方にはぜひお出掛けいただきたいところです。
2019/03/21
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ここ数年で山手線でも少しも垢抜けぬいくつかの駅舎や駅前の様子が一新しました。田端駅もそんな変化に見舞われた一つでありますが、その駅ビルの最上階はお決まり通りの飲食店街となっていて、それらの各テナント店舗では酒場使いも可能でありまして、その一軒ではお得に呑む事もできましたので、初訪ではないけれど簡単にレポートしておこうと思います。 駅の改札を抜けてすぐ、右手のアトレのエスカレーターを4階まで上がると暖簾で仕切られているけれどオープンな「あぶりゃんせ 百干 アトレヴィ田端店」というお店があります。こういう開放的な店舗は駅前酒場や駅前地下街に多く見受けられた構えで、これだけのアイデアでぼくのような凡庸なムード上位主義者などは、いとも容易く吸い寄せられるのだからこれは真似してみても良さそうに思えます。まあ、そういう外套を羽織ったまんまで背中を丸めて熱燗を啜るという風情までは駅ビルに求めては求め過ぎであります。ちゃっと呑んでさっと帰路に着くというのが本来の駅ナカ酒場の有り様だと思うのです。しかしガッチリ暖房の効いた駅ビルだとそうもいかぬ。忙しなくも帰宅前のひと時の自由と開放感を謳歌するにはここは些かに快適過ぎます。さて、早速呑むことにしようか。酒も肴も何だっていい。近頃は特に温奴が気に入っています。適当にオーダーを済ませ退屈しのぎに店内を見渡すと、オヤジと若い娘との取り合わせが目立ちます。部下を連れ立ってなんでしょうが、手近のホステスとでも思っているのでしょうか。社内恋愛や不倫関係を一概に批判するつもりはありませんし、というかむしろ勝手にしろという考えでおりますが、しかし、居酒屋を主戦場とするのは如何にもみっともなく思えるのです。そんな客の観察はともかくとしてカウンターのチラシを見るとどうやらここはニュートーキョーの系列らしく、スマホでQRコードを読み込んで店員に見せると初回のみドリンクが一杯無料となるらしい。以前はこうしたサービスなど面倒で放棄していたけれど、ようやくスマホ操作の勝手を知ると退屈凌ぎに手を出してしまいます。店員に声を掛けると銘酒などでも構わぬという。銘柄酒の2番目に高額の酔鯨特別純米酒700円を頂くことにしました。並々と注いでたっぷり零してくれるのは有り難い。ぐるなびとかホットペッパーなどで事前にクーポンを印刷して持参するのは気恥ずかしいけれど、これなら気兼ねなくサービスを受けることが出来ていいものだ。しかしまあ、こんな小癪な仕掛けで客寄せするような酒場はやはりぼくには似つかわしくないとも感じてそっと赤面を隠したくなるのです。
2019/01/18
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田端の駅前というか駅舎の一部になるらしいのだけれど、どうやら酒場がオープンしたらしいのです。特別ぼくに鉄道趣味があるとも思えず、単に若い頃は列車にただボンヤリ揺られて過ごすのが好きだったのです。列車から見える光景はどこの土地を行ってもその土地土地の個性があるようで、結局は何処も似たりよったりな気もしたのでした。自分は窓側の席に腰を下ろして漫然と車窓から見える光景を眺めている間にも、列車は常に留まることなく何処かへと導いてくれるのが、漠然とした焦りと不安にふとすると落ち込みそうになる自分を押しやってくれている気分にさせてくれたものです。しかし、帰宅するとその僅かに高揚した気分は途端に消え失せ、徒労感と虚しさに苛まれることになるのでした。そうした気分の落ち込みには今でも解放されてはおらず、いやそれはむしろ亢進されたかの印象もあります。そんな旅の過程で確か下関駅だったと思うけれど、鈍行列車で一挙に下関までやって来て座っているだけなのにクタクタになった身体を伸ばすために改札を抜けると、その駅舎のど真ん中にぐるりと囲みのカウンターがあって、そこで酒を呑ませていたのです。今はもうそんなものはないかもしれないけれど、ただひたすら辛いだけの身体と朦朧とした精神が酒の力で活力が漲って来るように思いました。三島や沼津なんかにはホームで立呑みさせる掘っ立て小屋もあったと思う。まあ、きっと酔客が酔い潰れたり、ホームから転げ落ちたりといったことがあって無くなってしまったのだろうけれど、そんな事情を汲んだとてとても残念と思わざるを得ません。 ということで、喜び勇んで「飯と酒屋」なるなかなかに勇ましい店名を付けられたお店を求めて田端駅にやって来ました。馴染みのある改札を抜けて、さて当のお店はどこかいなと振り返ると券売機の脇にそれはありました。何かイメージしてたのと違っているなあ、いやそれどころではない、全くぼくのおセンチさを刺激しないのであります。これなら改札の中のうどん屋でビールを呑んだ時のほうが余程味がある。どこがどうとは上手く言えぬけれどこの食事処と呑み屋の両取りを目論んだらしいお店はどうも想像とかけ離れ過ぎていて、早くも気持ちは萎え萎えなのでありました。窮屈な店内、無論窮屈なのは仕方ないけれど、それでもいくら何でも自分たちがスムーズに動ける程度の動線は確保しておくべきではなかろうか。客の方に身を縮こまらせるような造りでは、やがて恐縮してくれる客すらなく動線のみが充実した店になるかもしれない。既に不愉快になっているのでこれ以上書くのもどうかと思うのだけれど、あえて書かせて頂く。自慢料理らしき手羽先揚げ、このうま味調味料まみれの味はどうなのだ。いやまあハッピーターンみたいなのが好きな人ならもしかすると旨いと感じることもないとは言えぬけれど、少なくともぼくにはとてもじゃないがそのままでは食えぬのです。食えぬなら食わねばいいと言われてもねえ、こんなんでもお金を払っているんだし、可能な限り粉を払って食べましたとも。利に聡い美人OL二人はすぐさまそれを察知し席を立ったのです。気の毒なのは食事客で老女と青年がそれぞれ食事を注文したのだけれど、ぼくは店の人々が交わした言葉を聞き逃しはしなかったのだよ。それがなければここまで悪く言うつもりはなかったけれど、それは接客業をやっている以上は消して述べてはならぬ言葉であろうと思う。以前秋葉原の立呑屋でぼくもボロクソに言われた事があるけれど、それは店主に直接言われたからまだいい。ここでは客に聞こえよがしにやられるのたから溜まったものではない。でもまあ顔馴染みにはとても愛想が良くて、ちょっとそれも言いっぷりが店側と客との関係性を逸脱して感じられたけれど、まあそれ程気分の悪い光景には思えなかった。とにかくいくら注文がセコくてもそれを表に出さないで欲しい。でなけりゃ、店先に一人千円以上の注文を貼り紙するとか、ワンドリンクオーダー制にでもしたらいいと思う。客は必ずしもその店の販売戦略を理解して訪れるわけじゃないのだから。
2019/01/11
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別に特別肩入れしている店でもないし、今後も同じように繰り返し訪れるかというと甚だ心許無いのだけれど、ある特定の目的を持って訪れるならそこは相当に使えそうなお店なのであります。ところで、日頃、こき下ろしてばかりいるコレクターではありますが、ぼくの事をコレクターみたいだと評する不愉快極まりない口の悪い連中が少なからずいるのであります。確かにぼくは毎夜飽きもせず未訪の酒場を訪ね求め彷徨っている。彷徨うなどと書くと気取っているが、実態はもっとガツガツと猟色しているというべきか。でもそれはコレクションを増やすといった所業などでは少しもないのであります。だって酒場、休みの日には喫茶店も加えても良いかもしれませんが、数を増やしてみせたところでどうにかなるものではないし、酒場やら喫茶店について語ってみせたところで世間がぼくの願うような方向に舵を切ってくれるとも思えぬのです。繰り返し述べるように単にぼくは日々の退屈をこうした未知なるものを探索することで埋めたいと思うだけなのです。どんなに仕事と家庭で嫌なことがあったとしても退屈には勝ると思うのです。だから立て続けに同じ酒場を訪れることはぼくには極めて稀なことなのです。 しからば何故に「家庭料理 美味しい餃子」という間の抜けた中華料理店をわずか一ヶ月に満たぬ間に三度訪れることになったのか。それは安い旨い早いの三拍子に感じの良さも付け加えても良さそうな四拍子で迎え入れてくれたからかもしれません。いや、訪れたのが初回は独りだったのが、回を重ねて二人、三人となり受け止める印象に変化が及んだ可能性もあります。そこが独りで訪れるより、グループなりカップルで立ち寄るのが相応しい店もあれば、逆に何人かで行って感心しなかったけれど、とある事情で独りでやって来てみてその真価に気付かされるという事もあったりする。酒場の三要素に人を加える人がいたりして、ぼくはそれを胡散臭いと思っていたりもするのだけれど、腹の底では首肯を余儀なくされる場合もあるのだ。ここはとにかく若くて素敵な接客の女性が良いのです。恐らくは中国の方なのだろうけれど、かつての日本人旅行客が海外、とりわけ欧州の国で非難と失笑の対象となったものですが、個々人は極めて善良だったりするのと同じなのだと思うのです。そのうち日本に限らぬのかもしれませんが、スマホ依存の若者が非難だったり嘲笑を浴びたりするのでしょう。ここの奥さんはそんなみっともない事とは無縁であると思うのです。旅の恥はかき捨て、なんていう諺がありますがこの言葉の本意が聞くは一時の恥に通じるのであって、旅先でも出稼ぎ先でもどちらでも構わぬのだけれどほんの一時の滞在先で何を為しても構わぬという事ではないのであります。ってこの文章も出鱈目な諺の解釈を記しているのだから、やはりぼくもまた失笑をこの身に引き受けなければならぬのでしょうか。ともかくここの千円のセットが素晴らしい。ドリンク2杯に餃子と小皿料理が2つ付いてくるのです。肴は正直これで十分満足なのであります。奥さんは焼餃子を勧めてくれるけれど、ここは本場風に水餃子にすることを勧めたいところです。このモチモチプリプリの厚めの皮はやはり水餃子で頂くに限ります。羽根でビッシリの焼きもけして悪くないし、それがそのままセンベイ代わりのおツマミにも充てられる位で、中国人のお客さんも焼餃子を頼んでいる光景も認めましたが、そこは誘惑に流されぬことを願いたいのです。とにかく一度来たらすぐに誰かに推奨したくなり、その連鎖にハマるかもしれないのでご使用には注意が必要です。
2018/12/01
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田端って町をご存知の方は逆に意外と感じるかもしれませんが、実はいわゆるところの町中華、ぼくはその言葉にどうも馴染めず中華飯店とか大衆中華とか呼んでみたりしている、まあ中国人のいうところの和式中華ですか、そういうお店が案外に少ないように思うのですね。というか、田端は北区と文京区、駒込に寄ると豊島区もあるのかな、まあ、とにかくこの辺って古いお店がかなり少ない気がします。戦後のどさくさに便乗して店を始めた世代が跡継ぎを得ぬままにリタイアを余儀なくされたというところでしょうか。そういう意味では具体的な地名な誤っているとカッコ悪いから書かなけれど、戦後に宅地化が進んだ町などのほうがこうした古い店がまだしも残っているのかもしれません。それでもまあ田端にも多少なりとは昔ながらのお店もあるのでその報告をしておきたいと思います。 田端駅の北口改札口を抜けてJR東日本東京支社ビルに沿って少し進むと田端駅下仲通というまっすぐ、東北本線などの走る踏切を渡るともうすぐ明治通りに至るのでありますが、その手前に「中華料理 幸来軒」はあります。黄色い看板が目印の町の小さな中華屋さんです。実はここには随分以前お邪魔していて、いつものごとくに鮮明な記憶などありはしないのですが、不思議といい印象だけは残っています。何かがとりわけ旨かったとか、お値段が手頃だったというようなことはないけれど、ファミリーなどが楽しい気分で食事したり呑んだりできるとにかく雰囲気の良いお店だったということだけは今でも断言できます。それにしてももう少し見栄えのする料理を頼んでおけば良かったかな。これじゃあ、とても旨そうには見えませんね。 次なる店は、数か月前に伺った時には、店のご主人が体調不良とかで休業期間に入っており、残念な思いをしました。しかし、その後、店の再開を確認しようとネットを調べたらなんとまあ引っ掛かるは引っ掛かるは。それは『ワカコ酒』というマンガがあり、ぼくも何冊か読んだことがあります。ワカコさんなる寡黙なOLが仕事帰りなどに呑み屋に立ち寄っては、一品だけ肴を注文し、2杯ほど酒を呑むという格段お話らしいものもない他愛ないものです。パブーだかブフーだか忘れましたが、口に含んだ酒が嚥下した後にゲップとも独り言とも知れぬ謎めいた文字が口元から放たれるのですが、これは一体何を意味するのだろうか。なんて憎まれ口を叩くのもいい加減にしておくこととして、このマンガがドラマ化されていたらしいのです。そして、どういうわけだかこれから訪れようとしている「中華料理 新三陽」をロケーション先として選択することになったらしいのです。原作では特段モデルとなる店を定めてはいないようですが、ドラマ版は『孤独のグルメ』なんかにあやかってか実在の店舗を舞台としているようです。それは後者の原作ではなく作画担当の故谷口ジローの繊細で緻密なタッチがあってこそ価値があるわけで、のほほんと気の抜けた前者のタッチでは架空の店を舞台とするのが無難というもの。さて、ビールと春巻、焼売を注文します。すっごい旨いわけじゃないけれど、良も適量でその分値段もお手頃で悪くないのです。そして、窓際には食事のみのお客さんが並ぶ一方で奥に伸びるカウンター席は皆さん一杯召し上がっています。どうしたものかウーロンハイを皆さんオーダーしています。というわけで2杯目からはぼくもそれにあやかって切り替えてみました。なるほど、結構な濃い目で呑み応えがあります。ここの呑みの方のお客さんは少しもあくせくしておらず、のんびりマンガを眺めながらゆっくり時間を掛けておられるのが印象的でした。少しばかり窮屈な席間でしたがそれもまた慣れるといいものなのかもしれません。
2018/11/24
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田端で下車することが習慣化して久しいのであります。自宅への帰路を辿るがごとくに田端駅の改札を抜けて、ここだけは立派な架線橋を渡り、奈落に下るかのような急な階段を降りる。決まって西日暮里方面に舵を切って、こっぱずかしい店名を持つ有名酒場を素通りし、遠目にはやってるかやっておらぬか判然とせぬ立呑み酒場の縄のれんをくぐるのです。しかし、さすがにこの頃少しばかり飽き気味だ。ということで、階段を下った後に、左に折れてみたのです。こっち方面ももう残らず散策を終えているはずなので、何某かの発見などあるはずもないのは分かっているけれど、とにかくどうしても一杯ひっ掛けずにはおられぬという切羽詰まった気分に陥ってしまったのです。そうなると目当てなどなくともめくら滅法に歩くしかない。 ところが、あっさりと見知らぬ店に遭遇したのでした。そこは過去のメモを見ると以前まで「美好」というお店だったようです。一度だけお邪魔していて、自宅の延長のようなとにかく家庭的過ぎて逆に落ち着かぬお店だったという印象ですが、座席の配置をひと工夫して以前よりは店らしい内観になっているように思われます。店の名は、「家庭料理 美味しい餃子」に変わったようです。席に着くなり店先で見ていた税抜き千円の晩酌セットを頼むことは決めていました。これがかなり攻めています。ドリンク2杯、小皿2品、餃子一皿でこの値段はかなり頑張っている。ドリンクは紹興酒もあるし―グラスにたっぷり―、小皿の選択肢も多い。もともとが108円の一品も数多いし、ドリンクもオールド300円。税抜きと税込み表記の混合など取るに足りぬのだ。餃子には、500円の魚餃子や420円のピーマンイカ餃子などがあり、ぼくは420円のアサリ餃子を頼みました。この餃子が自身のあるだけあって皮がむちむちでなかなかいいのだ。本格的というか現地風の餃子はやはり水餃子がいいようです。気になるのが要予約の北京ダックコース2,500円で、写真を見る分にはかなりお手頃っぽい。店を出る際に驚愕の貼り紙を目撃。なんと餃子食べ放題が20回分で11,000円というのだ。つまり一回分が550円ということです。ここのヴァラエティー豊かでしかも旨い餃子なら、ぼくでも最低三皿はいけるだろうと思うのです。ちなみに勘定を済ませると千円の晩酌セットは、税込でありました。なかなか奥の深い店であります。1円を重視するなら事前に確認を怠らぬが宜しかろうと思うのです。これはきっとまた訪れることになりそうです。
2018/10/24
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田端駅は、鉄道ファンには楽しい町ではあるらしいけれど、ぼくのような酒場好きには余り面白くはない町であります。それなのに通い続けるのには理由があるのであって、その理由というのが馴染みの酒場に立ち寄るためというのも少しも意外性がなくて、このままの流れで話を進めても何の展開も期待できぬのであります。だったらさっさと本論に入れば良いではないかという指摘はごもっともなのてありますが、これから報告せんとするお店がさほど話題を広げようもないのだから、致し方ないのであります。田端駅の周辺には商店や飲食店もさほど多くないけれど、少し歩けば実は商店街もあったりするのです。駒込駅との間にある田端銀座商店街は良く知られているけれど、こちらは名こそ田端を冠しているけれど明らかに最寄りは駒込駅だと思われる。一方で駅の逆側、北方向に明治通りを目指して進んで行くと、田端駅下中通り商店会と名からしてもどうも冴えない通りがあります。じっくり眺めると古い洋菓子店があったり、一応それなりに雰囲気のある喫茶店などもあったりするけれど、酒場には事欠いている。そりゃまあ、何軒かは悪くないお店もあるけれど、なかなか再訪には至らぬというのが現状であります。しかしその一軒には覚えているだけでも3回は訪れているのです。それも行く度に気付かぬ程度の微修正が施されていて、その差異は定かに記憶していないけれど明らかな変化についてはメモがあるのでお示しする事ができます。 そこは今は、「日乃本食堂」という店名で商売されています。浴場は併設されていませんがどこかしらスーパー銭湯に併設された食事処の趣きが感じられます。つまりは、ファミレスにも通じる機能性重視の至って面白味のない造りなのであります。ここが来る度に店名が変化しているのです。知る限りでは最初は「たま膳」だったのが、やがて「ごはん処 千五九家」に変化して、現在に至るという次第で、かつての店名時代の訪問記録は過去の記事を掘り起こしていだければ出てくると思います。しかしまあそれを振り返ってみるまでもないはずです。なぜなら店名以外にこれというような変化はほとんどなさそうなのであって、この変化の微小さは店主なのかオーナーなのか知らぬけれど、その方は変わっていないと思われ、さらには経営方針にも明確な変化は確認できぬのであります。これは過去の記事を遡りさえせぬ曖昧な記憶のみで書いているから、実は大きな変革がもたらされているのかも知れぬけれど、単なるごく稀に訪れる1ユーザとしてはそう感じられるのであります。酒も肴も値段は手頃で、少しも旨くはないけれどそこそこに食べられる肴を出すのだから、夏場でもエアコンのない近くの立呑み店―つまりは疲れていようが立ちっぱなしなのに引き換えこちらはそれなりにクッションの効いた席が用意されている―より余程使い勝手が良さそうなものであるけれど、どうしたものか快適さよりも勝る何かしらの要素が通い続ける酒場にはあるようです。それは多くの人にとっても同様な認識であるらしく、やはり店名を変えても客の入りは今ひとつよろしくない。一つにはキャパシティが店のコンセプトに合致しないため供給過多となっていることが、客を落ち着かなくさせる要因に繋がっているのだと思われます。だったらいっそのこと定期期、いやそれじゃ効果もすぐに減衰するだろうから不定期に店名を変えてみてはどうだろうか。いちいち看板を取り替えるのが大変ならかつての看板をランダムに織り交ぜてみてもいいし、店名箇所を自在に差し替えられるような造りの看板にするのも良いかもしれぬ。そしたら少なくともぼくのようなおっちょこちょいが、おっ店が変わってるからちょっと寄ってみるか、なんてことになるかもしれぬと思うのですがいかがなものでしょう。
2018/08/17
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ぼくは十条の事ならそれなりに隈なく歩いているという自負があったけれど、やはりそれはいつものごとくに過剰な評価であった訳で、近頃はそんな勘違いを予め禁じるためにも立て続けに同じ町を訪れるのは極力避けようと思うようになりました。それも必ずしも確実に実行できているとは言い難いところもあるけれど、自分はこの町を熟知しているのだという思い上がりは、視野を狭めるし視界を曇らせてしまうようです。見知った町でも雑念や思い込みを排して歩いてみると、そこには少なからずの変化を認める事ができるもののようです。すでに変化する事を放棄した残念な町もかなりあるので、そうした町ではまた別な歩き方があるものです。しかし、それこそ十条のような転換期を目の前に控える町では日々刻一刻と姿を変えているはずだから立ち止まる事も厭わずに、初めての町を歩く位の好奇心を持って臨むべきなのであろう。 そんな気持ちが功を奏したのかは入ってみなければ分からぬけれど、「下町酒場 串煮込み 銀次郎」は、普通に歩いていたら見落としていた可能性の高いお店です。別に立地がとんでもなく悪いというような事もないし、常に視線を上げて胸を張って町を行く人ならむしろ容易に見出していたに違いありません。ぼくなどは欲張って視線を忙しく動かしてなるべく多くの情報をキャッチしたいと思っているからビルの2階なんかに店舗があったりするとまず気付きもせずに見過ごしてしまいがちなのです。そもそもビルの二階とかそれよりも上階にあるような店は、古いお店が少ないという思い込みもあります。ここでもまた思い込みが行動を規範することになるのですが、それを悔いてみても仕方のない事。大体たまたま見知らぬ酒場に出逢えたけれど、自ら下町酒場を称するというのは、ぼくにはどうも如何わしく思えてしまうのであります。これが大衆酒場とかであればまあ大衆向きの酒場を目指しているのだろうなあと、腑に落とすこともやぶさかではないのだけれど、下町酒場というのはどういう意味なのか。下町にありそうな酒場何だろうか、下町酒場というならぼくとしては路面の一軒家であってもらいたいと思うのだ。それでは下町風ないしは下町情緒のある酒場を意味しているのか、だとしたらそれは一体何を指すのかぼくにはどうもピンとこないのであります。まあ何となく深く考えずに下町酒場を標榜してみたというのが答えなのだと思うけれど、ぼくにはどうにも気になるのです。そもそも下町という言葉が嫌いなのだから根が深いのであります。それはさておき、なんだかんだと店には入るのだから実際にはそれほど気に食わないということもないのです。「三忠食堂」の脇の階段を上って2階がそのお店です。店内は真新しいのはまあ当然のことか。それなりにお客さんも入っているということは、結構認知されているということか。これらの人たちはどうやってこのお店の存在を知ったのか不思議でならないのでした。さて、こちらは都内では珍しい串の煮込みのお店です。串に刺さっているからといって旨くなるとは思えないのだけれど、ごった煮にしているよりは手間暇かけてる風でぼくには好感が持てます。こうした大衆的なお店であれば、いかに食材に手間を掛けたかで味がきっちり決まってくるようです。同じ食材でも手を抜くとその分しっかり不味くなるのです。そういう意味ではここは串打ちに限らずちゃんと手が掛かった肴を出しているので安心であります。そのせいか高齢の方がゆったりとくつろいで酒場を愉しんでいるのは好印象でした。 でも最後はやはり「斉藤酒場」に行っておきたいところ。いや、「筑波」や「和田屋」など〆に使いたい酒場は他にもあるから断言するのは軽率かもしれぬけれど、やはり平凡な趣味のぼくには「斉藤酒場」が一番しっくりするのです。写真を見てもなんだか手抜き感が露呈しているけれど、ここでは写真など撮る必要すらないくらいに細部が瞼の裏に浮かび上がるのでした。こう書いているとまた行きたくなるような素晴らしい酒場です。
2018/05/30
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十条に日本だったか世界だったかどちらでも構わぬのだけれど、クルド料理店が開店したらしい。らしいと書きはしたけれど実は以前からその存在は知っていて、クルド料理の専門のお店ってそういえば見たことがないなあ、機会があれば一度は行っておきたいなあなんてことをボンヤリと思ってはいたのです。とこらで申し上げるまでもないけれどクルド人はユダヤ人などもそうであるように国家を持たぬ民族で有り続けたのであって、残念ながら未だにそれは継続しています。い、近頃まともに新聞さら読まぬからもしかすると悲願とした国家建設を成し遂げたのかもしれぬ。ところで料理を分類する際に我々は国家レベルでそれを行うのに慣れ過ぎていたようだ。日本にもまだ日本を単一民族国家と解する人たちがいたりするみたいであるけれど、それを語るのは今のぼくには荷が重過ぎます。しかし、例えばマンガ作品の『ゴールデンカムイ』のような野心的でありながらエンターテイメント性の豊穣さはともかくとして、見せ場としてアイヌ民族の現代人のぼくにとっては少しばかりワイルドに過ぎてグロテスクにも思われる一方でゆーもらすでもある各種の料理は、もはや日本という小国おいてさえ日本料理などという大雑把で独善的な括りをすることの鈍感かつ虚しさを強く意識させられるのです。 などということを思いながら訪れたわけではないけれど、十条駅を出てすぐのビルの細い階段を登った先に「クルド家庭料理 手芸カフェ メソポタミア」はあります。クルド人は世界中にいるのであって、だからその料理は世界各地の国家を越えた数多の料理と混じり合ってきたのだろうし、これからも様々なヴァリエーションを生み出し続けるのだと思います。だからクルド料理なんてものはどこにもありはしないのかもしれぬし、世界のどこにでも見られるのかもしない。実際、目の前に運ばれて来る料理は、どれもどこかで食べたような味でありこれぞクルド料理なのかと刮目させられるような事態に陥る方は、都内在住で世界各地の食にそれなりに貪欲な好奇心をお持ちであればむしろ稀であるでしょう。先程国家で食を分類することの限界を語ったばかりで例示するのも酌ではありますが、トルコ料理やエジプト料理、イラン料理などとやはり似ているのであって、それは予想を裏切らぬ結果でありました。さて、内装は確かにどことなくクルド民族の住居をイメージさせるものでありなかなか良いのでありますが、そのイメージというものがいかに適当である事かを予め知っているのです。そういう意味ではこちらのお店は無知なぼくのような人間を納得させるように終始振る舞っているようです。水タバコなんかのサービスもそうですね。ちなみにこちらでは料理教室なども開かれているようですが、恐らくレシピと特別な食材―そんなに特殊な材料は用いられていないと思います―さえ入手できれば、かなりの程度で再現可能と思われます。その点では本格的なフランス料理や和食を家庭で再現するのが困難なのとは事情を異にするようです。なお、こちらのお店はメニューごとに品目が違っていて、この日集まった3名各々がその内容を隈なくチェックしていたところ、セットメニューがあったりなかったりで少しばかり混乱する事態が生じましたのでご注意あれ。特にお酒付きのセットは単品のお酒の高いこのお店では貴重なのでお見逃しなきよう。 さて、いつもなら迷わず「斉藤酒場」に向かうところですが、この夜は実に久し振りになる「和田屋」にお邪魔することにしました。こちらのひとつ残念なのが閉店のお時間が早い所にあります。寄り道し過ぎて出遅れてしまうともう終いよと告げられることが何度もありました。この晩はギリギリ間に合いました。それにしてもこちらのメニューの多様性は相変わらずです。材料はそこらで簡単に手に入るものばかりなのですが、工夫の効いた品の数々は非凡なものばかりで目移りしてしまいます。日本料理(仮)の多様性が広がるようで、ここに一年通ったらぼくの料理のレパートリーも随分増えるだろうなとまた今晩お邪魔したくなるのでした。
2018/05/26
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田端はよく飲みに行く町だけれど、行くといってもいつも決まった例の立ち呑み屋ばかり。だけど近頃のぼくは以前のぼくとはちょっとばかり違っています。何というか若く幼い偏狭な考え方を脱却し、懐の深い柔軟さを身につけるに至ったのであります。つまりは幅のある開かれた人間性に到達し得たのであります。その内面の拡大と同時に己の体躯まで肥大させてしまったのは不徳の致すところではあるけれど、その改善は将来の課題としたい。とにかく以前は酒場らしい酒場以外は呑む店に値せぬと原理主義者的な頑なさをもってしか良しとせず、意固地な殻の内側でのみ閉じこもって独り悦に耽り、つまらぬ酒場に金を落とす馬鹿者共よと他者を貶めることでさらに己の保身に腐心するという態度を固辞したのでした。今となってはそれはまあ端的に子供じみた遊戯に過ぎなかったのであり、己の方ばかりを見て他者の方には目を向けたこともなかったのであります。しかし、田端の立ち呑みに繰り返し飽きもせず通う事で、そこで出逢う人々と語る事で固く閉ざされた殻にもひび割れが生じ、つまりは拘りとか固執とかとは無縁な存在となり得たのです。具体的にはかつては古い酒場にのに執着していたのが古い店全般へと視野が拡大したのであります。何という自由なことよ。 しかし、田端ではそんな自由な身のぼくでさえ、立ち寄る先は限定されるのです。結局いつもの場所に足を向けることになるのですが、それではいかぬとお向かいの小奇麗などうということもない「浅野屋」という蕎麦屋に入ることになったのであります。意外に広い店内は賑わっています。いつも混み合っているということは、ガラス張りなので周知のところでありますが、何故にここまで多くの客は引き寄られるのか、そこがどうにも謎めいているのであります。大きなテーブルの片隅に通されて、頼むは1,250円のちょい呑みセットでありました。マグロ刺身、もつ煮込、あともう一品の三点盛りにせいろと飲物1杯が付いています。三点盛りはなかなかにゴージャスでこれだけで3杯は呑めるということに当然なるわけです。そしてせいろのもりそばも立派な量があるので、これまたあと2、3杯はゆうに呑めるわけで、これはうれしいことではありますがその分だけお金が掛かるのはちょっと厳しいのであります。だからというわけでもなさそうですが、大抵のお客はグループで来られていて、しかもボトルなどで酒を頼んでいるのでした。確かに冬場に焼酎をボトルで入れてそば湯割りなんてなかなかいいかもしれない。でも独りでボトルを入れてキープして、果たして再び独りでここを訪れることなどあるのだろうか。 やはりないだろうなあ。だったらいつものようにこちらに来て、3杯程度呑んで安く上げて翌日の軍資金を蓄えるのが良さそうなのであります。
2018/05/25
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都内にも余程のことがなければ利用することのない駅というものがあるもので、そういう意味では旧古川庭園とちょっと歩けば飛鳥山公園という観光スポットもあるのだから、西ヶ原が不便と言っては語弊があるかもしれません。だけれど、今でこそ東京メトロ南北線が開通して立派になってしまったけれど、以前であれば、上中里駅が最寄りといえば最寄りの誠に寂しい土地であって、今でも夜になると車通りは多いけれど、人通りは少なく夜道を独り歩いていると堪らなく侘しい気分になる町です。でも南北線の開通前―1991年11月29日に開通したようなので、かれこれ30年になろうとしているのですね―は、閑静の度が過ぎて夜道を歩くのが怖いと感じたかもしれません。 見た目には、西ヶ原駅とほぼ同じ位の歴史を辿ったような「居酒屋 よりみち」をどうしてこれまで見逃していたのだろうか。他には中華料理店などがあるばかりで、いかにもな居酒屋は他にないというのにこの店の存在をこれまで知らなかったのは不覚でありました。駒込駅から王子駅方面に向かってみたり、何度もこの本郷通りは歩いているのにどうしたものか認識することはなかったようです。いや、この辺で居酒屋を見掛けたことはあったはずなので、その当時は興味の対象とはならなかったのかもしれません。何はともあれ、このような場所に居酒屋があることは有り難いことです。いそいそと店内に入ることにしました。中に入るとカウンター席も奥へと伸びていて、かなりゆったりとした造りになっているので、周囲に気兼ねせずとも構わぬのは助かります。テーブル席も適度にスペースが分割されていて、使い勝手は良さそうです。今でも場末の酒場といった雰囲気のどこか殺伐とした薄暗いような店が好みですが、こうした住宅街に近い肩から荷を下ろして帰宅までのひと時をはんなりと過ごせるような店も時には混ざっていないと疲れてしまいます。料理は案外揚げ物が主体となっていますが、それでも手の込んだ凝った料理が多くて、迷ってしまいます。記憶に残っているのが写真にもあるみょうがの肉巻で、これに塩を振って頂くのは実によい食べ方です。今の季節ならうどとか竹の子とかも合いそうですね。下手に下味など付けずに自由に味付けできるのが嬉しい。塩から醤油へと味のヴァリエーションを付けることで一品が二品にも三品もなるようです。独り客もいるし、家族連れもいてお客さんも自在にこのお店を使いこなしているようです。年齢を重ねるとこういう居酒屋が安心できるようになるのかもしれません。
2018/04/23
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近頃また十条を呑み歩いています。十条って町は嫌いではないけれど、酒場が少ないと思い込んでいたのです。しかし、それが誤りであったことを最近になってようやく認識しつつあります。いやまあ、町の規模を考えるとさほど多くないというのはそれほど誤りではないと思っているし、昨今、酒場の増加が認められるという印象もあるからそう己のリサーチ力を悲観する必要はないのかもしれません。そして、それ以上に十条という町にはこの町を訪れると避けては通れぬ酒場が厳然として存在するというのも、視界を曇らせる一因となっているのは確かだし、実際、十条ではハシゴの締めにはそこは欠かせぬのであります。 だから「とんとり酒場」は、その欠かせぬ酒場に向かう前に立ち寄るには大変重宝な酒場なのであります。まるで前菜のような酒場であると語っているかのようで甚だ失敬なことかもしれぬけれど、相手は東京を代表する酒場と思って見逃して頂きたいのであります。ぼくにとって、そこを訪れるに前座的な酒場が増える事は歓迎すべきことなのであります。最近、やはり駅の近くにその立ち位置に据えても良いと思える酒場を見出したので、もしかすると十条は今、そうした良心的で前向きな酒場造りを志す方が集結しているのかもしれません。そう考えるとこの町にようやく真の好感を抱くことが出来つつあると言えるかもしれません。それはともかくとしてーこの書き方をするときは大抵酔ってる時ー、十条駅前のなんてことのない酒場が、相当に実力があるとは思わなかったのであります。美味いまずいかと問われれば確かに旨かった。しかも量もあるから、独りでうっかり注文し過ぎるとえらいことになるはずです。特に豚バラ肉のチャーシューだったかしら、1センチ程の厚みの豚バラ肉をトロトロになるまで煮込んだ安直なシロモノですが、これが15センチ位の長さのが3枚近く盛られているのです。これで200円しなかったと思われるから、大したものです。ウッカリ鶏のチャーシューも頼んでいたら残してしまったに違いない。おでんもお手頃だからと頼んでしまいましたが、正直なところこのチャーシューがあればホッピーセットに中身2杯が適量に思えるのではなかろうか。こういう安直だけれどきっちりおいしく仕上がる肴を主役に据えるという戦略は正解かもしれぬと思えるのでした。だって家でこんな危険な品を拵える気にはなかなかなれぬからなあ。今度は鶏を試してみようかな。 さて、お腹の方はかなり膨れてもうさほど摘むものは要らなくなっています。こんな状態で「斉藤酒場」を訪ねるのが粋で大人の振る舞いではなかろうかと考えるのは、自意識過剰も甚だしいのであるがどうしてもそうしたいのです。酒場でゴチャゴチャとツマミを見繕うのは不粋の極みでありますが、いざ例えば塩辛に熱燗という理想的なオーダーで堂々と居座るのはなかなかの勇気をもって臨まねばならぬのです。呑みつつも店の人からケチ臭いやつだとか金がないなら家で呑めばなんて事をニヒルな表情の裏では思っていたりするものなのだ。ちょっと例は違うかもしれぬけれど、一昔前にファミレスで食事をとっていると―あんたがファミレスなんか行くのかよというチャチャを入れるのはお止しいただきたい、ぼくだって数年に一度くらいは行くことがあるのだ―、身なりの良い老夫婦が近くの席に着きました。ウエイトレスさんがやって来るとライス一つを注文して黙り込んでしまった。ウエイトレスさんも思わずライスお一つですかと聞き返すが、老紳士は平然と頷くのであります。すぐにライスは運ばれて来るのですが、そこで老紳士はウエイトレスさんにケチャップを所望するのでした。この先は想像通りの所業に及ぶことになるのですが、ぼくにはその老夫婦の堂々たる態度に強烈な羨望と嫉妬を抱いてしまったのであります。これはいうなれば酒場で酒だけを頼んで、塩を肴にするようなものではなかろうか。そうなると塩辛すら不純物と思えるのであって、先の老夫婦のような傑物を酒場にて目撃し我が範となるべしと機会の到来を心待ちしているがその好機には未だ恵まれぬのである。おっと、誤解を招くと良くないがこれは顔見知りだったり馴染みの酒場であっては少しも面白くない。やはり一見の酒場で斯様に振舞える、そんな達人を叶うなら「斉藤酒場」で見てみたいものです。
2018/04/17
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十条に古い食堂があることは前々から知っていたことでありますし、その前を通るたびに入ってみたいなあと思っていたことも今ではハッキリと思い出すことができます。ところがつい最近になるまでその存在がぼくの記憶からすっぱりと抜け落ちてしまっていたのです。思い出したのは、ネットで古い中華料理店や蕎麦屋なんかがないものかとリサーチしていた際にたまたま見掛けてようやくその存在を記憶の底から引き上げる事ができたのでした。リサーチしての訪問は、偶然に町を歩いていて遭遇できた場合よりは少しばかり―本当はかなり、そして画像と実物とのギャップに愕然とすることも少なからずあるものです―興奮の度合いに差が生じるものですが、そこはまあ、知らずに終えるよりは余程マシと考えることにしています。それはそれとして昼間に見てすぐに同じ夜、すぐさま行っておかねばまたそのままにしかねません。という事で、十条駅に到着するとすぐに改札を抜けてほとんど駆け足に近い速度で、商店街の終点近くにある「玉屋」に向かったのでした。夜の8時が閉店なので、まだ30分以上あるけれどこうした古いお店は高齢の方がやっていると考えるのが自然であります。稀に例外もあるけれどほぼそういうものだ。彼らは律儀で臨時休業など取らない癖に妙に閉店時間にはルーズだったりするのです。今晩はもう来ないから閉めることにしようか、なんていう気安さで仕舞われて甚だ迷惑なのであるけれど、それは致し方ないことでもあります。年取ると夜が早くなるのは、ぼくも日々刻々と感じいるところであります。きっとこの夜は、「玉屋」の方も眠くなったのでしょう。シャッターも瞼みたいに落ちかかっていました。 さて、困った、もう気分は食堂に偏っています。居酒屋とはまた趣が違っているから―どこが違うかを詳らかに書くのは荷が重いけれど、居酒屋よりも方の力が抜ける雰囲気があるとでも言っておこうかな―、そう簡単に気持ちを切り替えようもないのです。急にギヤチェンジできる程には若くないのです。夜道の住宅街を東十条駅方面に足を向けたのは、そちらの方が思いがけぬ発見があるのではないかという経験則に従ったものなのでしょうか。しばらく歩くと「千成亭」といういかにも古そうな中国料理店が見えて来ました。そしてその瞬間にここにしようと心に決心するのは実に早かった。全てに若い頃よりもたつく事が多くなりましたが、決断だけは早くなったようです。ほうらやっぱり枯れたしみじみとするような店内風景じゃないの。初老の女性が独りシナチクの処理を黙々とこなしています。酒の肴にできそうな一品料理もあるけれど、ここはまずは定番のラーメンにしておこうかな。酒はビールだけのようだからそれでいいや。キリンかアサヒかを問われたので咄嗟にアサヒと答えてしまいます。ここ十年ばかりはサッポロを贔屓にしてきたので、それ以外の問いかけにはブレが生じます。まあどれだって構わないのだけどね。お通しにシナチクとチャーシューを細く刻んだ物が出されました。こういうの嬉しいねえ。ラー油は日頃あまり好んでは用いませんが、唐辛子などの材料が形をもって沈んでいるのを見ると、ついこそいで乗っけてしまいます。ラーメンは見た目はいいんだけど―ただ丼は頂けないなあ―、まあそこそこで量は少なめだったかな。ツマミのつもりだからそれで構わぬのだけど。女将さんはシナチクの下拵えを終えると席に着いてテレビを見始めます。そろそろ閉店なのでしょうか。その頃になると一日を終えてホッとされたのか、ようやくのように天候なんかについて語り掛けてきます。ああ、なんだこんなに柔和な笑顔の方だったのか。ほんわかとして暗い住宅街に戻るのでした。 そういえば劇場通りの方にそれなりに客の入のいい食堂があったなあ。と店の前に立つとおやおや今晩はずいぶんと空いているみたいだ。まあ気にせずお邪魔しようかと「じゅん」の戸を開けるとやはり片手に余る程度のお客さんがいるだけです。それにしても思った以上に広いお店で客席数もかなりありそうです。奥は引き戸があってそこは物置になっているのかもしかすると座敷があったりして、ウーン、それはないか。燗酒―出来れば一合づつにしたいところだけどこういう食堂ではちまちま注文するのは気が引けるのです―2合とマカロニサラダ、メンチカツとコロッケの盛合せを単品で一気に注文を終えます。カップル客は盛りが多くて残してしまったらしいと店の方が話しているのを聞きながら、だったらハナから盛りを少なくしろよと心で毒づいてみたり、サラリーマン二人が愚図愚図と呑むか呑むまいか迷っているのを眺めては呆れてみたりと、独り客は結構その心中は攻撃的だなあと思いつつしばらく待ってようやくメインが到着。あらマカロニサラダが被ってしまったなあ。まあいいけど。それにしてもメンチもコロッケもデカイなあ。味はまあ普通だけどボリュームに圧倒されます。これは仮にラーメンを食べていなくてもご飯を食べ切るのは難儀だろうなあとさたきの毒づきなど忘れたかのやうに呟いてみせるのでした。
2018/04/03
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実際に足を運んでみるとそうでもない距離だけど、いざ気合いで行ってみると案外それ程遠くないなんてことがしばしばあります。そういう時には人混みが嫌だから空いてる道を通ろうとか、あの道は通ったことがないからそのルートにしておこうなんてプランを予め用意するのは避けるのが懸命らしいのです。要らぬ考えは余計な思念を膨らませてしまい、結果予定が狂ったり道が通行止めだったりして余計に面倒だという思念に取り憑かれるのがオチなのです。こうした場合はなるべく気持ちを別に向けて、駅に降り立つまでは全く別な興味へと関心を逸しておくのが良いようです。つまりはまあこの夜は、タイトル通りに王子駅からしばらく歩かされるような町外れの酒場に行った訳で、その報告を致そうという次第なのです。という事は王子駅まで無心で迎えたのだなという想像は誤りです。先日報告した大衆割烹のいずれかに忘れ物してしまったらしく、面倒だけれど行かねばならなくなったのでした。それならその時見掛けた他の酒場についでに寄ってみようというやむを得ない事情があったのです。逆に考えれば遠目の酒場に行ったらわざと忘れ物してくればやむを得ずに寄り道もできるんじゃなかろうか。 なんて事はまあやる筈もないのでありますが、やって来ました「のんきや」です。先般は満席で辞さるを得なくなったこのお店ですが、今晩はまだ一人もお客さんがおりません。お好きな席にどうぞと優しそうな女将さんが仰ってくれます。テレビの見易い特等席を指し示してくれたので遠慮せず一卓使わせていただきます。店内は長く使われてきたことが壁や天井に染み付いた得も言われぬシミなどに滲み出ています。壁に貼りめぐらされた短冊の品書の種類は思ったほどには多様ではないけれど、それは一向に構わぬのだ。何だって種類ばかりが多くたって仕方がない。こちらは在日コリアンの方がやられているんだろうか、免状の名や品書きにある韓国風の鍋料理からそれは知る事ができます。でもこちらはもつ焼が定番らしいからそちらをお願いしてみました。味を尋ねられたので塩にしようとしたら、タレが良いわねとどうやらタレがオススメのようです。従うに限る。濃い目のチューハイを呑んでいるとお通しの枝豆が出されました。この季節だから冷凍物だろうけど美味しいし、適度に量もあります。これだけで2杯呑める位、ってか呑んでしまった。もつ焼もまた肉が多いばかりでなくしっとりとして肉の味が濃厚なのです。タレもそれだけ舐めてみると甘しょっぱいばかりだけど、合わせて食べるとバランスがとても良い。この店もとてもいなあ。しかし何にしろやはり日常使いで駅から通うには遠すぎるかな。 もう一軒の近場な酒場である「酒処 みずほ」にやって来ました。女将さんは躍起になって否定するかもしれませんが、スナック寄りの店でした。というのはカラオケがあって、品書きらしい物も日替りの小さなホワイトボードだけ、席に着いて酒を頼むと後は適当に有り合わせの肴が提供されるのであります。こう書くとあまり好意的に思っおらぬような誤解を与えてしまいそうですが、実は大いに気に入ったのであります。女将さんの開けっぴろげでお喋りなところなどとても好きです。美人の娘さんたちの話や店を訪れた数多の有名人たちのお話しは尽きることがない。でもそれ以上に粋でカッコいい内装に惚れ惚れとさせられたのです。カウンターの独特な形状や奥の小部屋の怪しさなど書けば尽きぬのでありますが、一見のぼくなんかより余程女将さんがこの店を愛着あるのだ。客として気に入っていたこの店を30年位前に元の店主を半年掛かりで口説き落として跡を継いだというのだから、好きというのを超えています。その辺の話をじっくりとお聞きするのも楽しい過ごし方かもしれない。まあ普段はカラオケで大賑わいな気もします。さて、お通しのマカロニサラダなんかに続いて、南蛮漬けが出され、さらに小鍋がコンロに掛けられるとさすがに、肴はこの程度で構わぬと思うのだけど、なかなか断り辛いものなのですね。お値段はスナック価格なので、ご承知おきを。
2018/02/13
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王子駅は都心からも便利だし、何軒かの忘れ難い酒場もあるのだけれど、しばしば足を伸ばすまでには魅力があるとはちょっと言えないのです。それはひとえに酒場の絶対数が不足しているからで、結局お決まりの酒場に落ち着いてそれで良しということになってしまうのがオチなのです。いや、それで充分ではあるのだけれど、兎に角にもこうしたブログを書き継いでいる以上は、世間に余り知られぬ酒場に日の目を当てることが出来ればというささやかな野心があるのは仕方ないのであります。そして、王子には実はこれまで視界に入らず通り過ぎていた酒場があることを前回訪れた時に知ったはずなのだ。だけどそんな事は忘れたように日々を過ごしてしまったのは失策でありました。 その先達て猛省を促されたのが「松しま」という店の存在を知ったことです。見た目は料亭とは割烹とかのような立派な構えで、それはまあぼくのような小心者は仮にこのような店舗が視界を過ったとしてもそれを自然と排除するような認識機能が出来上がってしまっており、それを今さらのように再調整するのは困難となってしまっているようです。ならなぜに前回は存在を知るに至ったかと問われると酔っ払っていたからだとお答えするしかないのです。 その一棟を挟んだお隣にも似たような構えのお店があります。向かいの寿司屋さんも反対隣りのそば屋も格式が少しばかり高そうですが、とりあえず寿司屋やそば屋は見なかったことにしておいてよかろうね。他にもやはり立派な寿司屋がそばにあるのだけれど、それらに足を踏み入れるのはまだ先のことになりそうです。さて、お隣のお店は、「おいず家」といいます。大衆割烹の冠を掲げていて、やはり王子でなければ見過ごしてしまったかもしれません。が、「松しま」と似通っているので安心ではなかろうか。加えて、ここらの店は品書を掲示していてくれるので、その気になって目を凝らしさえすれば手頃であることが知れたはずです。店内はテーブル4卓分のエリアの照明が灯っていますが、奥は暗いままです。後で手洗いを所望した際に眺めると広いスペースに一枚板らしき大きなテーブルがぐるり囲むスタイルで用いるよう設置されていました。10人は座れそうです。カウンター席もあるにはありますが、常連さんが来た時には荷物をよけてくれるようです。さて、品書きで最初に目に付くのが5時から7時までの100円の肴です。実に豊富でこれを数種見繕えばセンベロも難しくないはずです。そして特筆すべきは豆腐のメニューの豊富さです。定番の湯豆腐を始め各種の豆腐入り鍋が取り揃えられていて、地獄鍋など他にも気になる品があるけれど、カレー豆腐鍋370円を注文。これがそば屋のカレーのような出汁とトロミの利いたもので、豆腐によく合うのでした。この汁を啜るだけでも酒の肴に十分なり得るものです。このカレー豆腐鍋を食べたいなら100円メニューのある時間帯は避けた方がいいかもなあ。とても食べきれなくなりそう。日替わりの品もお手頃だし、牛すき焼鍋590円なんかの豆腐以外の独り鍋なんかもこの季節たまらなく魅力だなあ。 せっかくだから久々に「松しま」にも寄っておくことにしましょう。こちらは大衆という分かったような分からぬような業態を冠していますねえ。相変わらず広々して、入りの具合も多からず少なからずでいい感じだなあ。ここに来るとついつい清酒をもらってしまうことになります。清酒はついつい呑み過ぎてしまうので平日の夜には極力避けたいところですが、酒大400円の誘惑には抗えずつい頼んでしまうのです。先の店は創意に富んだボリュームたっぷりの肴が持ち味だとすると、こちらの酒の肴は極めてオーソドックスな品を安価に提供してくれるのです。だから塩辛などをチビチビ摘まつつ熱燗を傾けるのが抜群に適しているんだよな。隣同士でありながらハシゴを前提に使えるとは互いに肴を調整し合ってるのではなかろうかと勘繰りたくなるほどです。仮にそうでなくとも、今後はこの2軒のハシゴが定番となりそうな予感がします。先に勘定を済ませたグループは「宝泉」にハシゴすると言ってましたね。それもありかもなあ。
2018/02/09
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十条駅に行くときは、いつだって東十条駅が起点となります。それは乗換えの都合で十条駅に直接行くのは、池袋駅から回り込んだり、赤羽駅から引き返すより具合が良いからなのです。でも大抵、十中八九は東十条駅界隈の酒場で軽く引っ掛けてからその勢いで十条駅まで足を伸ばすというコースが多いのでした。でも今回は珍しくはなっから行くべき酒場を十条と決めていたのです。それは、先般コメントでぽきぽきさんから教わった居酒屋を是非訪ねてみたかったからです。本当に行きたい酒場がある時には、ぼくはなるべく早めに現地に着いておくことにしています。それはまあ当たり前の事ですが、もし満席で入れてもらえぬ場合に何度か再戦を挑む余地を残しておきたいからです。なのにこの夜は珍しく仕事が立て込んでしまい到着が8時半を過ぎてしまいそうなのです。呑む約束をしていたT氏も職場を出遅れたらしく、いつもであればちゃっかりと先に店に入ってもらってゆるゆると呑み始めてもらうという段取りを忘れぬようにするのだけれど、生憎慌てふためいてしまい、己の現況を知らせるので目一杯だったのです。どうしてこんなどうでもいい事をくどくどしく書いているのだろうか。そう、好ましい酒場については思いのほか語れないものなのです。嫌いな店の悪口を述べ立てるのは実はものすごく簡単なことであって、いや、これ以上語るのは身の破滅を引き寄せるばかりだからやめておくことにしよう。 ということで、やって来ましたのは「居酒屋 筑波」であります。改めて眺めると間違いなく何度か通り過ぎているのだよなあ。駅に隣接した踏切のある通りの脇道が数本あって、その筋の居酒屋の何軒かにはきっと入っているはずなのであります。しかしその酒場がどこであったかについて、思い起こすことはもはや叶わぬのです。それは潰れたからとかいう理由じゃなくひとえに己の記憶がとうの昔に失われているからです。酒場巡りを意識して始めた頃、いやそれは現在もそう事情は変わらぬのだけれど、一軒ごとの差異にもっと意識的であるべきなのです。確かにこの路地に点在する思いのほかに多く存在する酒場は、一見するところどこも似通っているのです。外観のみで店の良し悪しを判断することなど不可能に近い芸当と思われます。しかし、この日に入った居酒屋二軒のことは忘れずにいることにしよう。そうして意識的に紐付けておかねばこうしたさり気ないけれど、愛すべき酒場のことなど日々の些事などに絡まれて霧散してしまうに違いない。さて、真夏の熱気からようやく解放されつつあるその夜、「居酒屋 筑波」は戸を開け放って気持ちの良い空気を店内に取り入れていました。カウンター席は埋まっていて、さすがに近所の方はここが良店である事をよく知ってらっしゃる。彼らの満ち足りた笑顔を見るだけで、ここが当たりということは瞭然なのです。人懐っこい柔和な表情を浮かべた主人に促されて、われわれは奥の小上がりに通されますがここもしっくり腰が落ち着いて、腰を据えて呑むにもってこいです。他所のどこぞやの店とどこが違うという事もないはずなのに、これはいかなる事なのか。品書を眺めると定番に混じって店主が工夫を凝らしたらしき他所で見られぬ品も並びます。酒は種類こそ少ないけれど、こちらも手頃な値段が嬉しい。切干大根の煮付けのお通しからイワシ刺し、大根ピザだったかななどどれもきっちり旨い。大根はおでん風味の下味が付いているのだな。これをたった一人の店主が配膳までこなして、それほど待たされもしないのだから大したものです。客たちは寡黙だけれど気分のいいこの主人目当てに日夜通われるのだろうなあ。ぼくもすっかり気に入りました。名店とかそんなんじゃないけれど、毎晩通いたくなるのはこういう店なんだろうなあ。 すっかり長くなったので、別の筋にある「季節料理 茶の間」の事を書く余地があまり残されていませんが、こちらも先の店とは全く異なる好ましい酒場でした。このカウンター席が5、6席ばかりの小さな酒場と女将さんの事を知っている気がしてならぬのだけれど、メモには残されていないのです。単にメモをし忘れたんだと思いたいけれど、もしかすると似たような酒場がこの近隣にあるのだろうか。たった一人の客を相手にボソボソと大した中身のないことを喋っいる。これは毎晩繰り返されるのだろうなあ。肴は簡単なものが数品、カレンダーの裏みたいな紙に書かれてはいるが、ほとんど用意できぬらしい。そんな事は委細構わぬのです。ドクダミ茶―これ、以前も確かに呑んだ記憶があるなあ―の焼酎割が健康に良さそうだとグイグイ呑むとお隣りのオヤジさんが純のボトルのまだ半分以上残るそれを、どくどくと注いでくれるのです。それもボトルが空になるまで何度か繰り返すのだから、嬉しいけれど翌朝はドクダミ茶の効果もアルコールに打ち勝てなかったようです。肴は女将さんの夜食のチヂミだけ。全然いいのです。酒に簡単な肴があって、愉快に会話すれば幸せなのです。
2017/09/21
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王子の町では、選択肢が限定されます。それはもうやむを得ないことなのです。これから先の日本の酒場事情を思いやると暗澹たる未来しか思い浮かべることができません。まさに前途多難、お先真っ暗なのであります。もともとが酒場ばかりでなく飲食店なんてのは、料理もしくは肴を準備するのが面倒で、後片付けが手間というような横着者の要望に応えるためにあるはずです。これに関しては、各種惣菜が容易に入手できるようになり、冷凍食品のクオリティもますます向上しているのだからこれで代替すればよいだけのことではないか。人とのコミュニケーションがあるから酒場は楽しいのだという意見もあるのでしょうが、現代のようにSNSが驚くほどの勢いで普及している以上、それも置換えが可能となるように思われます。ヴァーチャルリアリティなんてのがすでに夢物語でなくなった今ではこれまで以上に臨場感のあるネット空間が普遍化されるのもそう遠くない将来に到来するはずです。相手も酒場で隣り合わせた得体の知れぬ奴などではなく、趣味や嗜好、性格まで選択して相性のいい組合せを用意してもらえたりするかもしれません。それより何より自宅で呑み食いし、ネットでコミュニケートするなら時間も問われないし、何より安上がりであります。そうなると酒場の存在理由は、なかなかに形容しがたい雰囲気だけに収斂されてしまうのではないか。その漠然と雰囲気と書いたものがそのいくつかありそうな核心の一つに古さがあるとすれば、近い将来に一掃されることは想像に難くありません。何とも侘しい想像です。 さて、王子の片手に余る程度の選択肢の筆頭は、やはり「山田屋」です。ここの素晴らしさは従前より何度となく語ってきましたし、ぼくに限られず数多の方たちが綴ってこられています。中には臨場感たっぷりな素晴らしい文章を読んだこともあったはずです。そうだ、なぜ前段で書き損ねたのか、それこそ雰囲気すらVRの技術をもってすれば容易に再現できるんじゃないか。それもユーザ自らが酒場空間を設計することもそう難かしいことではないんじゃなかろうか。そうした夢の酒場を他のネット住民たちに開放して、ヴァーチャル空間利用料として1時間100円位を課金する。お客としてお越しいただくなんてことが現実のこととなるのは、近い未来だと思われる。そう考えると将来もけして暗いばかりじゃないななんて思えてくるのです。現存する名酒場を取材して将来のヴァーチャル酒場として保存してくれる方はいないだろうか。そんな時代が来るとすればこの「山田屋」は真っ先に収録して欲しい一軒であります。なんて訳のわからぬ話題を振りまきつつ、でもヴァーチャルではきっとこのムードにはなりえぬであろうと確信をするのでした。 じゃあ「一福」もヴァーチャル酒場の末席に加えてみたくなります。店内の配置のバランスがどこか独特なんですね。ここはまさに店の造作が魅力の店なので、ぜひ無くならぬうちに記録に留めておいてもらいたい。ぼくの適当な写真では材料が足りないのです。きっとヴァーチャルな空間を再現するには高解像のキャメラを使用してCTやMRIのような機械的で厳密な手順で処理しないとダメなんだろうな。有名な寺社仏閣などの文化財としての価値を認められている建物は火事や天災のリスクはあるけれど、まず人為的に破壊されることは少ないだろうけれど、こうした万人の鑑賞に堪えうるわけではない好事家向けの物件はいつ取り壊されるかもしれないのだから、ぜひとも早急に取り掛かるべきだ。などとちっとも店のことを語らぬのは、これまた久しぶりに訪れた「一福」だけれど、やはりいい雰囲気だなあと堪能はしたけれど、結局何を食べたんだか、呑んだのだかまるで覚えてはいないのであります。
2017/09/08
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ぼくは本人としては不本意な言われようだと思っているけれど、網羅主義のコレクタータイプと言われたりする。確かにそんな側面があることを否定しきれぬと思っているわけじゃあないけれど、面と向かってそう告げられるといい気はしないのであります。お前は一件一軒の店をしっかり堪能してもいないくせにさも知ったような態度で、あすこは良いとか悪いとか、面白いとか退屈とか語るけれど、その店の主人ともまともに語り合っていないし、オススメの品を食らうでもない、ただ漫然と安酒と安肴を摘んでみては次々と店を転々するばかりじゃないかと。安酒と安肴に手を抜く店にろくなことはないとか、店主と語ってしまうことで言いたいことも言えなくなるとかそんな言い訳などするつもりはサラサラないのであります。安く上げているとはいえども、しがないサラリーマンでは行ける店にも限りがあるし、使える金額にも限度がある。ぼくが忌み嫌うのは安上がりに呑んだからと言って、小馬鹿にしたり、時には迷惑な素振りを隠しもしない店を激しく嫌悪するのであります。安酒にどうにも納得できぬ利鞘を乗っけておいて、がっかりしたとしか言えぬような応対に終止する酒場をぼくは断じて認めぬ、なんてなんでこんなに熱くなっているのかは、そういう店に行ったばかりだと語るに止めよう。って、せっかく念願の上中里の酒場、じゃなくて、酒の呑める店―ってことにしとかないと、酒場らしい酒場で今でもやってるの北側には2軒だけだから―に行くんだから、せいぜい楽しまないと。 まずは「中華そば ますや」に向かいます。ここはもう何度かトライしているのですが、どうも閉店が7時らしいからなかなか来る機会がないのでした。土日に営業しているかは知らんけれど、あえて休みの日に行くのもどうかなあと迷うところなのです。近頃、宿題にしている店が多くなり過ぎてもう本当に行きたいのがどこなのだか掴みきれなくなっているのです。ここを思い出したのは、近頃夜の散歩が固定化して退屈で仕方なくなったところに、ちょうど山手線ではなく京浜東北線がホームに滑り込んで来たのです。それでつい行き先も決めず乗り込んでしまったのですが、上中里なら行きそびれているラーメン屋があったではないかとここで思い至るのでした。そうと決まると駅に到着すると一目散に跨線橋を渡り高低差のある階段を駆け下りるのです。コンビニの脇にある路地は商店街になっていますが、あまり利用する方はいないようです。そう言えば改札抜けていく降車客の多くの手にはどこかしらのレジ袋が下げられていて、女のコにはトイレットペーパーを抱える者もいたりします。そうそう女のコを結構見かけるのもここら辺が利便性がそれなりに高い割にはきっと賃料が安価なのに違いない。 そんなことを思いながら商店街を小走りに通り抜けたのですが、それには理由があります。どうもこれから向かうラーメン屋は7時には店を閉めてしまうらしいから気が気じゃないのです。しかし、上段の観察で少しも慌てているように思えぬのが描写というのの難しさ。足取りが鈍っているんじゃないかと思われたらそれは誤解です。良かった、暖簾が下がっていました。一人お客さんもおられるようです。慌てて逆の引き戸を開けて早速少し気まずい気分になりますが、素早く席に着きビールとラーメンを注文します。餃子だけじゃなく野菜炒めやら結構単品の品もあり、お手頃です。これは時間があれば案外使い勝手が良いかも。酒はビールしか記されていませんでしたが、清酒と焼酎があれば理想だけどな。でもビールはキリンとサッポロがあります。ビールを二口程呑んだところで早くもラーメンが到着。細い縮れ麺に鶏ガラのシンプルなさっぱりスープは今のぼくには理想的です。チャーシュー、ナルト、シナチクも大定番、細かいネギが沢山ちらしてあるのもいいです。これにほうれん草などの青物に半割のゆで卵があれば完璧なルックスですがそこまでは望み過ぎか。一人きりになった店内はどこまでも静かで、ご主人も身じろぎひとつせぬかのように静寂に包まれている中で一人麺をすすり、スープを嚥下する音がやけに響いている気がするのでした。 せっかくだから田端まで引き返して、いつもの立ち呑みに行こうと思って住宅街を歩いていたら懐かしの酒場に遭遇しました。ここは近頃皆勤賞のごとく田端に姿を見せるご夫婦にかつてこのブログで書いたことをとある事情で感謝いただいております。久しぶりに立ち寄りたいとも思いましたが何となく気後れしました。 迂回を繰り返しながらゆるゆると田端方面に向かっていくと「やまと食堂」なるお店がありました。そう言えば以前も見かけた気がしますが、真新しい店舗を見て敬遠してしまいました。しかしこの夜は好奇心が勝りました。帰宅後調べてみると昭和三十九年の創業だったかな、改装、改築を繰り返したのでしょう。店内は外観ほどには無愛想ではなく、特に奥の広い厨房には店主の意気込みを感じます。メニューを見ると単品があまりなく少しお高めの印象でしたが、黒板にオススメの品が書かれています。しかしぼくの視線が節穴だらけなことをすぐさま知らされるのです。だってお隣のオジさんがビールのツマミにしながら時折つついているのは日替わり弁当550円ではないだろうか。見かけはあまり良くないけれど多様な肴が盛り付けられていて、いかにも酒の肴にピッタンコであります。しかし2品頼んだぼくには後の祭りでしかない。山芋千切りとでっかいいわし団子で良しとしよう。隣のオヤジがテレビで放映されるニュースを眺めながら政治談義を持ちかけてきます。ぼくにはこれぞという意見はありませんが、そう来たならいくらでも乗っかります。議論白熱しましたがすっかり意気投合して、ここはもうホントは店を仕舞う時間なんだ、ボチボチ出ようと田端に向かうぼくを見送ってくれました。 そして、最後はやはりここに来てしまうのですね。
2017/06/13
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近頃どうしたものか十条が活気付いているようです。大きなアーケードの商店街は、手軽さで人気の観光スポットにもなっているのだから、今頃活気づいたとは何事かと食って掛かられても困るのです。ここでいう活気とは居酒屋の新規開業が相次いでいるように思うのは、無知なるぼくの気のせいでしかないのだろうか。いやいや確かにこれまで通り過ぎても気付かないことはあるだろうし、どうもぼくには元来死角が多いらしいのだから、見落としは充分にあり得ます。しかしことが十条とあってはそれだけではないはず。〆の酒場として定番の例の店に向かう前にちょっとどこかで引っ掛けてから向かおうと思ったことが何度となくあって、そしてその度に適当な酒場が見当たらず不首尾にて無念なる思いをすることが常であったのだから。だけれども今ではそうしたことはあまり無くなった。どこかしら適当な居酒屋に遭遇できるのでした。それらの多くが真新しいことからも新興店が増殖していると思うのも無理からぬことかと思うのです。 と長い言い訳をしつつ、こちらはその存在を認知しながら敬遠していたお店に伺うことにしたのです。「馬ござる」という馬肉を看板に掲げるお店です。まずなぜ故に敬遠していたかでありますが、ガラス張りのお洒落風な店内にビッシリと客が詰め掛けているのを見たらやはり気持ちは萎えてしまうでしょう。いや、大抵の方はむしろ好奇心に駆られて空席待ちしてみようとすら思うのかもしれませんが、ぼくはそれはゴメンなのであります。しかしたまたまネットにて馬肉の価格の手頃なのを見た途端に来てしまったのだから、何より値段に惹かれてるんじゃないかと詰問されれば頷いてしまうかもしれません。それはひとまず置いておくとして、近頃馬肉のお店が各地に出没していますねえ。数年前までは馬肉など口にする機会は年に一、二度あれば良いくらいのものだったけれど、今ではそこここで食べられるようになりました。しかもメニューの片隅に書かれていて、滅多に注文も入らず冷凍庫の隅で忘れられたようになっているのが都内の馬肉事情だったはずです。昨夜、お花茶屋でハシゴしたのですが、その両店ともに馬肉を出していました。熊本や会津、岩手なんかではよく馬肉を食べるみたいですが、これだけ都内に馬肉の店ができてそれなりに消費されているのに供給が追いつくのが不思議でならないのです。しかも、こちらの馬刺しのボリュームときたら一人前でも二人で食べきるのがやっとです―T氏と一緒―。なので、追加オーダーは馬肉のチャンジャにしました。小腸とかの内臓を辛く漬け込んだものと信じて頼んだそれが、ユッケのようなすごいボリュームであるので、やはりこれもひいひい言って食べたのでした。ここに来るときはせいぜい腹を空かせて、肉モードにしてからでないとえらいことになりそう。でもなんにせよすごいことであります。でもそれにしても最初は独りだったからといって2度席を移され(2人になることは予め断っていた)、2人になるとまた動かされるというのはあまりにもむごいのではなかろうか。善処を期待したい。 やはり〆には「斎藤酒場」に立ち寄らぬわけにはいきません。先般お邪魔したときにも店内撮影に随分緩くなったなあと思ったものですが、T氏によるとレンズを上向きにしてストロボだとかフラッシュが誰かの視界に入って不愉快な思いをしないのであれば構わないということになったらしいのです。なので、遠慮がちに飲食した品だけを撮影させていただきました。結局最後の二人になる時間までいてから撮ったので、誰かの迷惑になることはなさそうですけどね。でもまあこのお店の素晴らしい佇まいはぼくなどが記録せずとも見事な記録がすでにあるのだから無理して撮影するまでもあるまい。ここではひたすら店の雰囲気を堪能しつつ、酒をゆっくりと傾ければそれで満足満足なのです。
2017/05/09
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東京で生を受け、長く都心で暮らしていながら王子とは全く縁のないままに人生を送ってきた人がいるとする。ろしかするとその人にとって、王子は川口とかと同じ埼玉だと思っていたのかもしれない。確かに城北地域とかいうあまりセンスのいい、というか全くピンとこぬ呼ばれ方をする一帯に馴染みのない者にとって王子など、若干教養のある人が製紙会社があったんだよねという程度の知識しか持ち合わせておらぬとしてもそれ見たことかと叱責する気に離れないのです。だって所謂城北地区なんてやはりその程度の町でしかなく、むしろ江戸川区とかの町のほうがよほどメジャー扱いされるはず。ところが一発屋のさほど才能のあるとも思えぬ漫画家が赤羽をちょっとばかり持ち上げただけで、赤羽人気が跳ね上がるというのは情けないことであります。この漫画家が例えば小岩、いや新小岩にいたら似たような事をできたはずであります。よもやこのさほど漫画の才能が欠如した漫画家がこのまま赤羽だけで食っていけるとは思ってはいないはずで、しかし町を変えるには入念な戦略も要求されるはずで、とにかくもうあんな漫画で当人は恥ずかしくないのかと追求したくもなるけれど、それを好んてま読む読者がいるのだからーまあぼくもちょっとばかし面白がっているーここまで長く因縁つけるのもどうかと思うのです。 さて、王子に来たなら「山田屋」は外すわけには行きませぬ。王子が初というからには当然にここも初めてのはず。改札前で落ち合ったわれわれは、ぼくの馴染み深い誘いに従うままに、一目散に歩みを進めるのです。不変の安定感でぼくにとっての指折りの酒場はあり続けていてくれるのでした。いそいそと引き戸をくぐるとやはり少しも変わらぬ広々した空間と活況が出迎えてくれます。しかしどこかが前回と違っている。その変化にはすぐに気付きました。少しばかり混み過ぎているのです。確かに10年を一昔と呼ぶならその頃は満席で追い返されることも少なくありませんでした。何度となく肩を落として他所でふて呑みーなんて言い方があるのだろうかーしたものです。がここ数年はちょうどよい塩梅に客が入っているのが常でした。無論席に着けぬことなどついぞなかったのです。しかし、この夜ばかりは勝手が違いました。この店が基本的に相席が基本の昔流儀であるのは当選客たちも知っていて、かなり詰め合っているのだけれど、われわれは横並びでやっとのことで席を確保できるような有様だったのです。そんな具合だから注文にも阿吽の呼吸が求められるのです。これがぼくはどうも上手くない。声を掛けようと声を上げたり、視線が交わる刹那に手を振ってみたりしたけれどなかなかタイミングが合わない。これがまあ楽しいんですけどね。ところで、こちらのお楽しみにはお手頃な肴があります。肴など酒場にとっての脇役とか小道具に過ぎぬなどという暴言を日頃呟くような者が語るのは口幅ったい気もしますが値段と量のバランスがおかしくなってきてはいまいか。なんせ小肌の切り身が二枚で300円とか取るのは、「山田屋」たるものの沽券に関わるのではなかろうか。だけどご安心を一口サイズの半熟玉子乗せのそば、そのままズバリの商品名、半熟玉子は以前と少しも変わりないのでご安心あれ。肴は定番にしておくべきのようです。 さて、飛鳥山に繋がる通りを歩いてみます。火災によって瀕死の状態となったさくら新道はわずか2軒のみが辛うじて営業を続けることもあり、深い闇に包まれて見えます。激しく自動車の往来する明治通りの向かいにいつ権の赤ちょうちんが出ていることを時には通りすがりに、時には都バスの車窓から眺めたものですが、その名もズバリの「赤ちょうちん」にお邪魔するのは初めてのことです。なこなか良い風情のお店ですが、店内は案外にこざっぱりとしています。親子でやっているらしく、オヤジは厨房担当、息子はカフェ風の小粋な装いーただしこの店に合っているかは微妙ですーでフロアーを担当します。後はまあ全てがごくごく標準的なお店です。平凡すぎて書くことがないくらいです。でもこの平凡さこそが貴重であることは毎度のフレーズとなりつつあります。それを証明するかのように女性の独り客がいました。テレビを眺めながら、なかなかに健啖かつウワバミ振りを隠そうともせずそれでも静かに淡々と卓上の品を平らげていくのは見ていて気分がいい。そんな彼女がお勘定のときに口を開き語りました。最近転勤になって通勤経路が変わってしまって、馴染みだった呑み屋さんにもそうそう通えなくなりほとほと参っていたけれど、今晩こんな居心地の良い店に出会えてよかったと。また来ますと語る彼女の言葉に嘘は感じられませんでした。
2017/04/14
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本当は全然違う酒場に行くつもりだったんですね。そこがやっていないからやむなく酒場などないと高を括っていた駅の西側、疎らになった呑み屋街の外れに行ったのですが、そちら側を全く知らぬというわけではないけれど思ったよりずっと色んな店がある事を知ることになりました。それらの酒場については追々報告するーその前に呑みに行かねばならないけれどーこととして、とりあえずは母子二人で仲睦まじく焼鳥店を営むとある一軒を訪ねることにします。 と書くとさも予め知っていたかのような書きぶりですが、先述したとおり目当ての酒場に裏切られ、通りすがりに立ち寄ったに過ぎないのです。でもここが良かった。カウンター席が10席にも満たぬためもあってか入口すぐの窮屈な席だけが空いています。「けん助」は馴染みの客で成り立つ典型的な地元密着の酒場です。物静かで二昔前のドラマの中の母子のようなお二人は実直過ぎて苦労してきたけど、この地でようやく安住の店を出したという長閑な幸福感を堪えています。しかし、近頃話題の十条駅前の再開発の波にこの辺りも呑み込まれてしまうのでしょうか。それに抗う事は国策への抵抗として排除されることにでもなるのでしょうか。その時には、是非お二人と彼らを慕うお客さんたちがともに納得いく代替地を用意することが行政の使命であります。でも仮にそうなったとしてもお二人は柔和な笑みを絶やすことなく、それも運命であるとでもいうようにすんなりと受け入れられてしまいそうな気がします。入口付近で寒さに震えるぼくを気遣い、お客さんが少なくなると奥へと誘ってくれた優しさは形だけのものではないはずです。そしてこんな人柄ばかりを書いていると誤解されかねないーそれは単に日頃の己の文章が招いた結果であるのですがーので、ここらで申し上げておきますと、ここの焼鳥はかなり上手いです。見えない事をいいことに山椒をたっぷりとまぶしたつくねや正肉のジューシーさはどこででも頂けるものじゃありません。あと他の方が召し上がったりお土産にしていたそぼろ丼だったかな、あれが凄い美味そうです。焼き台に気を遣いながらもフライパンで注文のたびに丁寧に炒められたそぼろ飯は間違いなく旨いに決まっています。十条に酒場が少ないなんてこれまで書いてきて済まない気持ちになりました。でもこちらのお店はそっとしておいたほうがむしろ賢明なのでしょう。
2017/02/25
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十条のこと消してきらいじゃないんです。というか、住めば間違いなく離れがたくなるであろうことは分かっています。しかし、そこを強いて厳しく難を付けるとすれば答えは簡単、酒場の絶対数が足りていないのです。これは難点として必ずしも決定的な瑕疵になるだろうか。いや、実はそんな事はなさそうです。だって今現在自分の暮らす町がやはり酒場とは無縁であるからで、それでも結構不自由なくやっているし、気に入っていもするのだから。どうも世俗的な諸々の個人的な事情により心が弱まっていたりするときなんかに、独り黙りこくって呑んでいたりすると、己が老境に足を踏み入れたときに、足腰も弱り自由になる小遣い銭もわずかであるという悲観的でリアリティにまみれた夢想に耽ると、どうしても身近な場所にそうした己を救ってくれるような酒場を希求するのであります。田端の酒場には実際それを実践する方もおられて、それは定年までまだ折り返したかどうかのぼくには見果てぬ夢でしかないのかもしれない。十条にも夢想に耐えうる強度を保つ酒場がありますが、そこだっていつまで続けてくれるかなど誰にも知れない。いやいやこんな話は余計なことでしかない。つまりはぼくにとって十条における大事な酒場は一軒だけなのだ。いや、他にも数軒好きな店もあるが、たまに十条に来てつい引き寄せられるのはそこなのです。そんなぼくにとっては変化に乏しいと思っていた十条ですが、この所、次々と新規のお店が開店してるようなのです。当分楽しませてくれるくらいの増殖ぶりなのでしばらくは足繁く通うことになりそうです。 さて、その一軒が好ましい方の路線を進んでいる「加賀屋」の通りの先にあります。「もつ焼 碁ゑん」を遠目に見た時には、何の変哲もない今時の呑み屋が増えただけかと思わず嘆息するばかりなのですが、正面に回ってよくよく見ると端正な白木のカウンターがまっすぐ奥に延びていて店主の意気込みを感じさせる店構えとなっています。これだけゆったりとして開放的なカウンター席はそうはないんじゃないかと感心しきり。ホッピーにもつ焼を何本か注文、煮込みは嫌いじゃないかっていうかおいしいものはとても好きなんですけど―ってなんか当たり前すぎて馬鹿みたいですが―、もつそのものにはさほど興味がなくてむしろ汁を味わえればそれで満足なので胃腸への負荷が少ない煮込み豆腐があればすぐに飛びつくのですが、口に入れた瞬間に普通の煮込みにしておけば良かったと、軽く後悔するような旨さだったのです。だから当然のことにもつ焼も期待通りの旨さです。と絶賛を浴びせてみせますが、実は人によっては些細なことに何をムキになってとお思いになられるかもしれませんが、お隣のおねえさんには出されていた柚子胡椒など3種の薬味がぼくには運ばれてこぬのです。七味を探しているふりをしてみたりお隣の薬味を指さしてみたりとそれなりの素振りでアピールしても、視線はこちらに向いているはずなのに素知らぬふりです。ぼくは偏狭な性癖の持ち主であるし、その常としていじけっぽくもありますので、おぼっちゃまのごとくにすっかり腹を立てて、ブスリとした表情を隠しもせずに手早く勘定を済ませて、店を出たのはちょっとばかり大人げなかったかな。客なんて虫の居所次第でそんなもんです。サービスは等しく均一にお願いします。 というわけで、安心・安全・公平の「齋藤酒場」にハシゴしました。やはりここでないとダメなんだよなあと脳内発声してみたりしてみるのです。こことか山谷の「大林」では電子機器を取り出すのは憚られます。紙の書籍をもっていれば書斎替わりにしてみたいと思うし、実際以前はそうしていたと思うのです。しかし今のぼくの読書習慣はもっぱら電子ブック頼みになっているのであり、こうした古い酒場にこれほど相応しからぬシロモノはない。でもたまに使ったりもしますけど、極力避けたいものです。この酒場では生ビールより瓶ビール、実際にはビールなどほとんど頼むこともなく、清酒ににごりこそが似つかわしい。実際、不思議なことに他所で呑むよりグンと旨く思えるのだから、店の雰囲気は味に影響をもたらすと思わざるを得ないのです。
2017/02/11
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王子と言ったらここと決めている酒場があることは、もう何度となく言っているのでここでは繰り返すのは避けることにします。その店の名もあえて書く必要もないでしょう。それにしたってわざわざ電車賃を使って訪れるのに、ぼくのような吝嗇な人間が2回に1度は、そこに行ってしまうのはやはり特別なことと言えましょう。それだけの魅力は当然あるわけですか、ぼくにはそれを上回るだけの道なる酒場への好奇心が勝るはず。つまりはそれ程に王子には酒場が足りていないのであります。だからまあさほど期待もせずに柳小路なんぞを歩いてみるわけですが、かつてと変わっていないどころか、やってる酒場の数が以前より減ってさえいるように思えるのだ。結局のところ王子という町は、さほど酒場を欲していないのだ。なのでやはりダメ元でさくら新道を歩いてみる。何年前だったかなあ火事で焼き残された痕跡を確かめに向かうのでありますが、そんな興味本位なことやらかしていいものか。でも嫌なことに目をつむる行為こそが悪ではないか。忘れ去るのは容易であるけれど、それではあまりにも人情に欠く振る舞いではないか。などということを考えたわけじゃなく、もしや新規に店が出来たりはしないかとさすがに淡い淡いないに等しい期待で足を向けたのであります。 やはりというべきか、幸いにも被害を回避した三軒だけが営業していました。うち一軒のスナックだけは以前にも増す賑わいが表にまで溢れ出しています。「小料理 愛」には、以前お邪魔した覚えがありますが選択の余地はなかろうものです。戸を開けると暗い店内の小上がりで女将さんがこれ以上ないくらいに沈鬱な表情を浮かべて佇んでおりました。瞬間、無かったことにして後ずさりたい気分になりますが、店内が以前にも増して心揺さぶるのに気を取り直します。もうそんなにお客さんが訪れることもないのでしょう、最低限に抑えた照明はこの店にとって最高の演出なのではないか。かつての煌々たる照明のもとでは本当のこの店の美しさは知れなかったかもしれない。大都会の暗闇を徘徊する街娼を安宿に連れ込んで絶句するー経験ありません、念のためーのと順序が逆になったたいう次第です。女将さんが語るところによると、この自然消滅目前の呑み屋街にさえ容赦のない再開発の無慈悲な手入れが予定されているようで、それもわずか3年先のことであるらしい。そう呟くように語りかける女将の表情は不思議と晴れやかなのです。その心中を察する立場にはありませんし、人の気持ちなど容易に見切れるほどに単純なものではない。恐らくぼくがこの酒場を訪れることはもはやなかろうと思いますが、この店の内装を手掛けた名も知らぬ職人たちの技の素晴らしさの記憶は当分忘れられぬものとして刻まれたはずです。 寂しすぎるので「宝泉」に移りました。でもここも近頃はいつも空席が目立ちます。二つあるカウンターの一つはここんところ開店休業状態となることが多そうです。ここに来たら呑むのは迷わず生ホッピーということになります。ぼくはけして敬虔なホッピー信者ではないのですが、ナカというお替わり焼酎のスタイルを世の中に浸透させた功績はけして小さくはありません。信者でもないのにこのブログの写真にやけにホッピーが写り込んでいるのは間違いなくナカの手頃さが理由になっています。生ホッピーというのはそうしたしがないビンボー呑兵衛のささやかな希望を打ち砕くものであります。生ホッピーと称しながら、店の人が勝手にジョッキに瓶の中身を投入するということもあるから注意が必要です。しかしここの生ホッピーは文句のつけようがない。あえて言うならアルコールが強すぎて、二日酔いしやすいという誠に贅沢な不満だったりするわけです。ここの風情も居酒屋という業態の原点の一端を留めている―ような気がする―という意味で、末永くお付き合いさせていただきたいお店です。個人的には肉じゃがで生ホッピーをお勧めします。
2017/02/04
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またやってしまいました。そば屋でそばをいただかないとはいかなる了見かと、非難される向きもあろうことは百も承知しているのですが、腹が一杯になってしまってもう食えんということになったのだからやむを得ないでしょう。だったら2軒目にそば屋を選択するというのは間違いだったのではというご指摘もあって当然ですが、入ってしまったんだから仕方がないと開き直ることしかないのです。ともあれ、田端駅を出て馴染み深い陸橋を渡り、さらに直進を続けるとしょぼくれた活気の無い商店街があります。やがてサンドイッチが旨いらしい「テラス」という喫茶店に辿り着きますが、今晩は素通りです。ここは呑む気で通り掛かるといつもやってるのに、なぜかコーヒーを飲みに来ると休みだったりする、どうも巡り合わせの悪いお店のようです。明治通りを渡った先にそのそば屋はあるのですが、実は未知なる酒場を求めてしばらく迷いに迷った後に結局収穫なくここまで引き返すことになったのですね。 そして入ったのが「居酒屋 向日葵」でありました。本当のところはお隣の中国人店主のやっていた日本式酒場を目指したのですが、いつの間にやらインド料理店に変貌しています。中華料理店同様にインド料理店も凄まじい勢いで勢力範囲を拡大しており、やがてはこうしたインド酒場をも視野に入れなくてはならないなと思うと嘆かわしい気持ちになるのですが、純和式酒場がある限りは極力避けるようにしたいものです。なんて言いながら南インド料理は贔屓にしてるのね。さて、こちらは外観から受けた印象を裏切らぬ典型的な小料理屋風の酒場であります。カウンター席は8席ほどでほぼ埋まっています。真ん中の席というのは一見にはちょっとキツイのですが、選択の余地はありません。左には仲良し常連トリオ、右には定食を食べるもう若くはない女性がお二人おられます。女将さんはチャキチャキとした喋りの小気味よい賑やかな方です。初めこそ皆さん警戒の視線を隠そうともせずこちらもそんなことには慣れっこだから、知らんぷりを決め込みます。そしてやがてふとしたキッカケから声を掛けてくるのです。これもいつもの事ですが、そういう気さくさは愉快なものです。そうそう甘い赤飯もご馳走になりました。皆さん口に合わなかったようですが、ぼくはどこかで食べたことがあったのでー栃木辺りだったかなあー、違和感なく美味しく頂けました。難点は愉快な気分になってひっきりないお喋りがいつまでも止まぬので席を立つきっかけをうしなうことです。 ちょっとしんみり呑みたい気分になったので、普段なら見向きもしないであろう小奇麗なそば屋「滝乃家」にお邪魔することにしました。店の雰囲気には特に語ることはない、強いて語るとすれば一人でも遣いやすいような客席の設定がなされていることだろうか。ここなら独りでも気兼ねすることなく呑めそうです。ただしそれは他にもそれなりにお客さんがいる場合に限られる。この夜は他にお一人様がいるだけなので、嫌が負うにもーとあえて感じで変換してみるが果たして正しいのかー店の方の視線が集まるのを意識せざるを得ない。呑みの客のゼットも充実しており、悩みに悩んで、焼酎と奴、春巻きのセットを選択するのです。小振りで細身の春巻きだからカリポリとして実に食べやすい。ポテト明太とチーズの二種森がチーズなしだったのは残念だったけれどポテト明太がウマかったから問題なし。しかし、そばを手繰る余裕はもはやない。家に帰り着いたら空腹で気分が悪くなるというのになんとも非合理的であります。それにしても止むなぬ選んだここの奴は旨かったなあ。ヴァリエーションの多いこの店のセットならきっとまた豆腐を選択しちゃうんだろうなあ。
2017/01/18
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田端駅の北口改札を抜けるといつもなら迷うこともなくいつもの酒場に直行するのですが、この夜はちょっと歩いてみたい気分でした。とは言えせいぜい日暮里舎人ライナーの赤土小学校前位までにしておこうかな。歩き出して貨物線の踏切を超えたところで何だか違和感を感じたのです。周囲を観察してみるにどうやら真新しいビルの一階の店舗に変化が生じているようです。なぜそういう疑念を浮かべることができたのか、分かりきったことですが以前の店舗に来たことがあるからなのです。でも入ってみるまでは確信は持てずにいました。 店に入ってネットで調べるとこちらのお店、かつては「たま膳」という店名だったようです。そう言われればそんな店名だったような気がしなくもないのですが、ほとんど印象に残らぬくらいに薄い個性のお店だったのです。なら今度のお店にどうして入ったのか。それは店先の看板にハッピーアワー限定ではありますが、サワーを50円で提供するという記載があったからです。精算時に外税であることが判明しますが、それでもここまで安いのは驚いて良いのではないか。「ごはん処 千五九家」という食堂風の店名になっていますが、さらなる驚きが潜んでいました。何たることか、ここのメインの料理はカニ料理らしいのであります。確かに他のお客たちは大量のカニの殻が積み上げられています。ただ目先の50円サワーに釣られたぼくには、カニ料理は完全に予算オーバーであります。いや、実はカニはもとより眼中になかったのでハッキリと値段を確認しなかったのですね。値段もあるけど何より酒を呑むのにカニってどうなのかって疑問が常々ありました。けして嫌いってわけじゃないけれど、むしろカニ味噌舐めながら呑むほうがずっと好きです。何より面倒がないから。金沢行ってもカニ面を食わぬ男だけど、正直あれは一度食べてみたい、値段はさておき味噌も入ってるみたいだし、殻を剥く手間もいらないから。ともあれカニ以外にもこちらは200円くらいからの肴がそれなりに揃っているから、それで十分。うっかりスペアリブと串カツという豚肉をぶつけてしまったけど、どちらも大振りで味もまあ悪くないからこれにサワーな千ペロも十分可能です。以前の店もそうだったのですが、なぜか外国人のお客さんが混じっています。それも西洋人からアジア系まで多彩な顔ぶれが利用していました。日本語学校でもあるんですかね。
2017/01/11
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東十条にへの復帰を宣言したばかりですが、またもや来てしまいました。今回もまた目指すべき酒場は定まっているので、散策とか探訪なんていう未開の場所に向かうわけではないのがちっとばかり残念なのですが、駅からもそれなりに歩かねばならないので、これまで一度しか足を踏み入れていない土地なのでまあまずまずワクワクもさせてくれるから良しとしましょう。これから目指そうとする酒場を目にしたのは環七通りを歩いて隅田川を渡り新田という川に閉じ込められたような町をください彷徨ったときです。と言っても橋のずっと手前の環七通りの向こう側にその酒場はあります。しかも二軒の候補があるので、万が一片っぽが残念なことになっていてもどうにかなりそうです。あわよくばハシゴできるとなお嬉しい。そしてどちらもつぶれていた問事になりそうですが、それは回避できたのは喜ぶべきことかもしれません。もつ焼きの「みっちゃん」はどうやら店はやめてしまったようです。ならば未練たらしくウロウロしても残念さが増すばかり。すぐさま踵を返して後の一軒に急ぐのでした。 というのは嘘で、もつ焼屋に向かう前に通り過ぎていて、やっているのは分かっていたし、磨りガラスのサッシ戸越しに席にまだ余裕がある事はハナから分かっていたのです。置看板には「すし居酒屋 かみや」とあります。すしとなると覿面に拒絶反応を示さずにはおられぬ小心でケチなぼくでありますが、この夜は、ぼくを凌駕するセコい一面のあるO氏が一緒ですが、気にする風もありません。いつもなら傍目にもはっきり分かるくらいの難色を示すのですが、珍しく特別嫌がる感じはありません。きっと看板の記載に気付かなかったんだろうな。ってか、さり気なく身体で隠したような気もする。店内は5人程度の収まるカウンターと奥に小上がりがある程度のこぢんまりしたお店です。小上がりでは早めの忘年会でしょうか、関係の判然とせぬ老若男女が品よく盛り上がっています。こういうお客さんは好ましいですね。黒板にはさまざまな魚介の品書きがあるので、すかさず安価な小肌と〆鯖を提案します。いずれも400円とぼくには少々贅沢ですが、ここで魚介を食べぬわけにはいきますまい。恐らくはO氏は、珍しいことがあるものだと思ったはずですが、ぼくはすし居酒屋であることを知ってますからね。出されたその量と盛付けの美しさに惚れ惚れすると同時に、これはきっと二人前なんだなと観念、いやこれなら間違いなく納得です。しかもこれが想像を遥かに上回る品質なのだから興奮を隠すのが憚られる。喜びを目一杯表現して見せても高齢の店主は至って冷静であります。でもそれをきっかけに店主は饒舌になり、人柄の素晴らしさをたっぷり認識させていただきました。他にもいろいろ書きたいけれど書けば書くほど誇張めいてしまう。なので、ここまでにしよう。あっ、肝心なことを忘れていました。小肌と〆鯖はあれが一人前です。勘定が異様に安く感じられたからまず間違いありません。
2016/12/16
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ここんところ東十条にくるの怠けてました。別に東十条に悪い思い出が出来たなんてことはなく、むしろどうしても行きたいという気分を醸成するための猶予期間だと思っていただくのがよろしいかと思うのです。金銭的に支障がなくて、いざとなれば飛んで帰れる位の距離感などいくつかの条件はあれど、そんな単身赴任に恵まれた知人がいてそれもうもがれた羽が復活したかのように気ままにかつ羽を伸ばし過ぎなくらいに自由を謳歌しているのです。話がボヤケてしまいましたが、何を言いたいかというと、いくら惚れた相手であってもいつも一緒はとても苦しくて辛いものであるようでーこの言い回しの何たるこ狡いことよー、それは町にしたって似たようなもの。好きな音楽も聴き込みすぎるともう一生涯耳に入れたくなくなったりするものだから、対象が何であれ適当な距離感を保つのが長く付き合う秘訣のような気がします。って何だか恐ろしく凡庸な結論に行き着いてるな。長く書いたけれど、結局は東十条とは、イクラちゃんのママが実家に帰らせてもらいます程度の別離に過ぎぬのでした。 最初に訪れたのは、繁盛店「飛葉」です。これまで2度程振られています。理由は言うまでもなく満席だったからですが、今回も当たって砕けろの勢いだけで向かいました。ところが少しの間だけ目を離した隙に以前の混雑はどこへやら、カウンター席が大体埋まっている程度です。若干の不安を感じながら恰幅のいい男性客二人に挟まれていささか窮屈な姿勢で呑み始めます。そして焼物を適当に見繕います。客はみな顔馴染みのようですが右隣のおぢさんは常に押し黙っているらしい。まあこういう呑み方もありだからそれは一向に構わぬのだけれど、手羽先にムシャぶりついてはペチャペチャと気分の萎える音でのみ存在を顕示するのには参ったなあ。育ちとか癖なのだろうから仕様がないといえばそれまでだけれど、公共の空間なのだからある程度のマナーは守ってもらいたい。幸いにも手羽先が好物らしくそれを平らげると帰られたから安心してぼくは自分の焼物を堪能できそうです。さて、豚は100円から鶏は150円からのそれは大振りで何より味がとても良い。正直、激戦地、東十条で早くも雌雄が決しての客の少なさかと誤解していたけれどもこれは東十条でも上位に入る旨さではなかろうか。こう書いていると思い出したくもない某有名もつ焼店が脳裏に去来するものだから、慌てて他店と比較するのは取り止めるのでした。この夜はきっとたまたま空いていたのでありましょう。店の人たちも感じがとてもいいし、客たちもそんな店のことをとても好きなのが感じます。今度はゆっくり過ごして、他の豊富な品々も味わいたいと思うのでした。 そこから少しだけ駅に近づいた路地裏に「酒処 山ぼうし」があるのは以前から知っていました。次はそこにお邪魔することにしました。ここからT氏と合流。カラオケをこよなく憎む彼ではありますが、この店のことは忘れているように思われます。確か以前ここに足を向けた際は扉を開けようとするまさにその瞬間にカラオケが鳴り響いたはずです。でもこの夜はとても静かです。女将さんが一人でやっている広くもなく狭くはないまあごく普通のお店でした。あまりにも普通過ぎてほとんど印象がないくらいです。覚えているのは、女将さんが明るくてお喋り好きの良い方で、ついつい長居してしまいます。記憶がボンヤリしているのは実のところは呑みすぎたからかもしれません。あえてこの店に電車を乗り継いでくる理由は見い出せませんが、地元住民だったらこんな店が憂鬱な気分のときに来れると気が紛れて助かるんでしょう。ぼくも存分に楽しくなりました。
2016/12/10
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JR京浜東北線の東十条駅は、このブログでもかなり頻繁に登場していてー東の堀切菖蒲園に匹敵するのではないかー、もうウンザリと思われている方も少なからずおられると思うのですが、ご勘弁ください、どうにもこの町が性に合っているようなので。実はこうして書いている今でも行きそびれている3軒のことが気になって、すぐにも行きたいと思うくらいなのですが、夏の熱気に脳を侵されたのか何かに憑かれたかのようにせっせとぼくにとって遠隔の土地を訪ね歩いてしまったものだから、ちょっとした運賃にすら神経を尖らせないとならぬ有様なのです。ともあれ東十条ではつい駅北口に足を向けてしまいます。当然そちらに呑み屋が多いからでありますが、いつも決まった道を歩いていてもこの町ならそれなりの出会いを与えてくれそうですが、せっかくなら思い切って南口改札を抜けてみることにしました。こちらには、何軒かの有名店もあるし、当然それなりに呑み歩いてもいるのですが、まだまだ見落としていたーというより見てみぬふりをしていたー酒場がきっとあるに違いありません。 武蔵野台地の階段を下って、線路に沿って北上することにしました。と歩くほどもなく「炭火焼肉(ホルモン焼) 七厘」というお店が見えてきました。ホルモン焼のお店は匂いがまとわりついてしまうし、第一自分で焼くのは面倒臭い。とか言っておきながもこの夏は思いがけずホルモン焼きのお店で呑んだのでありますが、それは夏という季節が気持ちを昂ぶらせるからであることが作用しているらしいのはまあ否定できないかもしれません。とまあいくらホルモン焼だとつい食べ過ぎて呑めなくなるという問題があるとしてもこれだけ渋くて枯れた店を無視し続けてきたとは、迂闊でありました。この機能一辺倒で飾り気のない佇まいは都内には珍しくて、郊外やそうそう、むしろ大阪辺りのお店のような潔いカッコよさがあるのです。店内もカウンターが主流なのは、都内ではかなり珍しいのではないでしょうか。最近立食いの焼肉店なんかがあちこちにできて、今では内装に凝らないのがその店のスタイルみたいなところが感じられますが、そこに年季がなければ単にわびしいだけなのに。女将さんが一人でやっていたのはちょっと意外です。他には客はおらずけして繁盛してはいないようです。店にとっては死活問題で笑い事にはできませんが、こういう空いたホルモン焼屋であれば、躊躇せずに顔を出せるのになあ。と、つい先日に熊谷のホルモン焼で騒々しい中で呑むのがいいというような事を書いておいて全くいい加減なものです。ともあれ値段も味も特別どうこういうものではなかったけれど、焼き物の店でつい感じずにはおられぬ慌ただしさと無縁の好みの店でした。 次は久しぶりに南口改札を出てすぐ右に折れたところにある「大衆割烹 鉄平」にお邪魔することにしました。ここは先の店が関西を思わせるお店だったとしたら、こちらはいかにも関東風の純和風の構えのお店です。この和風という方は恐らく適当ではなくて木造の木の風合いを店に取り込んでいるのは当然ですが、そこに店主がどこぞやの観光地で買い集めたような提灯やらテナントなんかが飾られてみせたり、やたらと瓢箪とか達磨なんかが飾られていたりするとどことなくそれらしくなってくるのですが、何より大事なのはタバコの脂なのか焼鳥の煙なのか、とにかく長年のオリの堆積が織り成す汚な美しさがなければ話にならないのであります。そしてそれがこの店にはあるのです。出される品は通常の居酒屋を越えるものではありませんがそれで十分なのです。やはりいい店だということを確認できたのは、やはりたまにはいつもと違う行動をしてみるものです。
2016/09/13
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田端で呑むとなるといつも決まって馴染みの立ち呑みに向かってしまうのであって、たまにはそのそばの魚介の居酒屋や角打ちなんかにも行ったりしますが、まあ極めて稀なことです。そこで知人に合うこともたまにはあって、さて、どこに行こうとハタと困ることになるのです。この夜もさあもう一軒行こうかということになって、取りあえず駅の方に歩きだしたはいいもののこれといった店がないのは分かってはいるけどつまらない。つまらないけどどこかに入らねばならぬのでーそんなに呑みたいなら電車に飛び乗ればいいんではないかー、いずれ行くことになるだろうと思っていた中華料理店に行くことにしました。 駅を出てすぐの並びにある「スタミナラーメン 蔵王 田端店」に向かったのですが、酒場の不足する駅前の中華料理店というのは、どこも大抵酒場化しているものです。こちらも店内はサラリーマンで一杯になっています。この「蔵王」という店、たまに見掛けることはありますが実際入るのは初めてです。全国的に夥しいまでに拡大を続ける幾つかのラーメンチェーンなどと比べると、町中華らしい風情を幾分かは留めていて、しかも客の半数以上が酒呑みを目当てに来ていることもあって、ぼくなどのような者にとっても居心地がけして悪くないのは嬉しいことです。ところで少しも知らなかったのですが、こちらのお店、凄まじくバイオレンスな事件に遭遇しているようです。こんなことを書いて商売の邪魔をするつもりなど毛頭ないので、興味のある方はネットで調べていただければ、すぐに行き当たるのでここでは詳らかにしません。とにかくそんな不幸な出来事などなかったかのように人々は大いに食べて大いに呑むというぼくにとっては好ましい雰囲気がここにはありました。残念なのが肴の品揃えが少ないことで、どうしても肴は肴というよりも飯物、麺類になつてしまうのです。いや、もちろんチャーハンだろうがお粥であろうが、ぼくには充分に肴となり得るのですが、いかんせんすぐに満腹してしまうので、どうしても食いも呑みも控えめになります。まあこうした本来は食事をする店でベロンベロンになるまで呑むのは愚かしいことなので、たまに軽く呑みたくなったまた来ることもありそうです。
2016/07/27
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尾久駅の退屈さをあまりしつこく書くとお住まいの方はいい気分がしないだろうし、ましてやそこで商売している方は実質的な損害を受けたと訴えるかもしれません。てもこれはけして悪口ではないのです。それはぼくの住居もまた似たような退屈さに覆われた町に相違ないからです。どこがどう退屈かといえば端的に呑み屋がほとんどないという点に尽きるのであって、ぼくなども自宅がなければまず持ってうちの近所に呑みに来ようなんてことは考えないはずです。だけどぼくが自宅の近隣のことを気に入っていないかといえばそんなことは全くないのであって、逆にここであれば一生暮らしても構わないというくらいに愛着があるのだから身勝手なものです。住んで生活を送る町とほんのひととき遊びに立ち寄るだけの町とは評価の基準が根本から違っているに過ぎないのだから、尾久駅の近くに住んでいたら退屈だなんてことは言わぬはず、いや多分きっと。 さてやって来たのは駅の改札を出て横断歩道を渡るとすぐにある「尾久そば」です。先日尾久に来た際に通り過ぎると店内で多くのおっちゃんたちが酒を呑んでいるのでした。こういう立ち食いそば屋で一杯っていうのは、大抵の場合において忙しなさが先行してその風情を愉しむ余裕などないのであって、天ぷらなんかを肴にして束の間をノルマをこなすかのように利用することになるのです。ところがこのお店は当然実用的にさっと食べて席を立つ客もおりますが、半数は腰を据えて酒を呑んでいるのでした。これは一度試してみないわけにはいかぬのでありまして、訪れることにしたのでありました。食券をどうぞというので品書きを眺めるとおやおや酒がない、伺うと酒は別精算とのこと。適当に肴を見繕い、カウンターだけの席に着くとその雰囲気は表から眺めたのとさほど印象が変わるはずもないのでありました。でもそれでも陽気なママさんと常連の掛け合いや他の人の注文する品々を眺めていると何だか楽しくて、特に隣でカレーそばの大盛を猛然と食べ進めるお兄さんを見ていると、その表情には食事を楽しんでいる様子など微塵も感じられぬものの、間違いなく堪能しているのがわかる食べっぷりに思われついつられて注文してしまうのでした。 続いては「よしみ食堂」という店にお邪魔したのでした。さしみ・とんかつの美味しい店と看板には記されています。さしみととんかつの味に自負があるとは思い切って強気に出たものです。このお店の付近には、しばしば足を運んでいたはずなのにどうしたものか見逃していました。これだとうちの近所よりずっと店は充実しているんじゃないか。路地裏のしんみりとした佇まいはしんみりと呑むのにお誂え向きであります。思いの外に店内は広くて、けして効率的とはいえぬ無用にゆとりのある卓席の配置が田舎の食堂のようで愉快です。さて、食堂とはいうものの店の様子は紛れもなく酒場そのものなのだからそれはそれで言うことなし。もやっとした気分のぼくでも暖かく迎え入れてくれるのだから文句の付け所など無し。正直どこかいいところがあるかというとそんなことはけしてなく、あぐまで平凡な酒と肴が供されるだけなのでそこらへんに評価の価値基準を設定している方は立ち寄らぬが得策です。でももやっとした感触を楽しめる方にとっては案外居心地が良いはずです。
2016/06/10
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東十条の酒場のことなら何だって聞いてくださいと言い切るくらいには、ガツガツと貪欲に呑み歩いたはずですが、いやはやこんな場末めいたしょぼくれ気味の町にこれほどに酒場があるのだから驚きです。と言い続けてはいますが、さすがにそろそろ弾切れ間近です。二軒ほど隠し玉があって、そこにいつ出向くか思案中であるのですがもう少し先のことになりそうです。ともかくこの日訪れたのはこれまでまったくもってぼくの視野に収まることがなかったのであって、今回O氏と一緒だったことが幸いしてーあくまでも気付かずにいた存在を認識できたことが幸いなのであって、当の店が幸いに値するという意味ではないー、一軒の酒場を発見したのであります。O氏とは歩調も近いし、興味となる対象も似通っているのですが、それでも一人で歩くのとはどこかで微妙にリズムの違いがあるらしく、だからこそこういう出会いが起こりうるのでしょう。 そのお店はビルと呼ぶほどでもない小さな建物の2階にありました。それも視界からそれてしまっていた一因で、ぼくは地下は好んでも高層の建物にはほとんど興味を惹かれぬのだから、目線より上の視界が狭くなるのは至極当然のことなのであります。「居酒屋 北洋」は、加えて遠目からは見通せないさり気ない装いの店であるため、遠近の調整により遠方の2階より上が不意に視界に入るという奇遇が到来したのは、いつもと違うペースと進路取りがもたらした賜物だと思われます。町歩きもたまにはシチュエーションにヴァリエーションを付けるのが良さそうです。軽く民芸調の内装で、特に珍しいものではありませんが間違いなく居心地が良いのがこのスタイルのメリットです。これが行き過ぎると重苦しくて息苦しい雰囲気となり、概ね値段も高めになるのは経験則から分かっています。そう、「養老乃瀧」なども巣鴨店などのように旧態然とした内装を保ったお店は軽い民芸調であり、そもそもかつてのチェーン系居酒屋はほぼこうだったわけです。恐らくは炉端焼のお店を起源としたこのスタイルは今では時代遅れと見なされたのか、現状の一途を辿りとどまることがないのですが、そんな居酒屋が定番であった頃に個人営業店としてこの「居酒屋 北洋」は、むしろチェーン系の店舗造りを踏襲して開店したのだと思われます。チェーンの組織力の恩恵を期待できぬこちらは恐らくは古臭いと見向きもされない時期があったのではないかと想像されますが、なんとか踏み止まって不遇の時期を乗り切ったことで、今ではこうした時代遅れな店に安息の地を見出した若い客、それもとりわけ女性に支持されているのでした。などと見てきたかのようなことを書いていますが全くの当てずっぽうなので誤りがあったとしてもそこはご容赦いただきますようお断りしておきます。酒も肴も昔の居酒屋のままで全然大したことはないのですが手頃に気持ちよく呑める店です。女子率が高いのもおっさんはそれだけでウキウキした気分になれるのです。 随分ご無沙汰していましたが「よりみち」に行ってみることにしました。住宅街に足を踏み入れても酒場が絶えないのが東十条の良さです。相変わらず店の構えと内装は感動的なまでの素晴らしさ。でもここねえ、女将さんがあまりにも手際が今ひとつなんですよね。あれから何年か経っているからいくらか良くなったかしら。その女将さんのそばには以前はいなかった猫たちがうろちょろしていました。代替わりして以前来た際にはガラガラだった店内も今はかなりの入りとなっています。確かに女将さんも以前はおどきょどしていたのが、今では堂々としていてちょっと図太くなられたみたいです。肴は特に品数が増えたわけでもないし、味か良くなったとか言うのでもないですが、いつまでも待たされることもなく明らかに手際も良くなっています。こういう店で美味い肴をどうのこうの言うのは無粋とはいつも言ってることですが、以前はこれは金の取れたものではないなというのであってはさすがに話になりませんからこの点でも喜ばしいといって良いと思われます。これならまた近いうちに来たくなるかもしれません。
2016/05/27
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どこから近いかと問われれば、ひとまずは王子神谷駅という事になりそうだとお答えしますが、いやはやかなりの距離ーきっと2km近くは歩くことになるでしょうーを歩いてみると意外にもそれなりに栄えたらしい商店街が残されていました。荒川と隅田川の中洲、こういう地続きとなっている土地はなんと呼ぶのが正式なのか今それに応える準備がありませんが、北千住から両河川を引き裂くようにしてズルリと引き伸ばしたような土地は途中、小台や江北の辺りでプツンと途切れそうになりながらも、臓器のような柔軟さで踏みとどまっています。当然人の手が加わって治水工事が施されているのでしょうから、ことさらに面白がるのも滑稽なのかもしれませんが、どうしてもこうした不便そうな土地というのが気になってならないのです。この中洲風の場所に到達するには幾通りかの手段と道筋がありますが、それは容易に調べられるはずなのでここでは記しません。最寄りの王子神谷駅からではなく、東十条駅から向かったといえばおおよそ経路はお察し頂けるはず。 そうして東十条駅を後にとぼとぼ歩いていくとやがて新田商店街の案内板が電信柱に掲示されているのが見えてきます。その外れに「福満食堂」と「居酒屋 いだてん」がありました。どちらも営業こそしていますがかなりのオンボロ具合で迷いに迷うところでいっそのこと両方行ってしまいたくなるのですがまだにも高いのでここで呑み過ぎる訳にはいきません。こういう時はA氏に全権を移譲することにしています。選んだのが後者でした。何とも暗い店内はやはりわれわれ同様に一杯呑んでるお客さんがいます。われわれのような一見ではなさそうですが、常連ということでもないみたいです。手頃な惣菜もそれなりにあります。これを肴に軽く呑むのはなんとも楽しいぞ。こちらは両親とその息子さんらしき方でやっておられるようですが、こういう家族経営の繁華街とは程遠い飲食店に多いのが、店内を茶の間化していることです。いやいや誤解のなきよう付け加えておきますが、それを否定しているのではなくて実態をお伝えしているまでで、時としてそれが微笑ましいワンシーンとなることもあるのです。こちらでは親父さんがシーズーだかの愛玩犬を可愛がっていて、これまた飲食店で動物を飼うなんていかがなものかと眉をひそめる方もおられそうですが、ぼくは犬猫を愛でるタイプの性格は持ち合わせていませんが、こういう店でひと時触れ合ったり眺めていたりするのを嫌うほどには可愛いを解さぬ者ではありません。夜のこのお店がどういった雰囲気になるのか改めて来てみて確認してみたい気もしますが、どうだろう日中に休憩がてらに呑むのがちょうど良いくらいかもしれません。 しばらく歩くとより本格的な商店街が現れてきました。鉄道の通わぬ町の商店街というのはそれが不意に姿を見せると驚きだけでなくつい町の成り立ちを史実の考証などとは無関係に好き勝手に想像を膨らましてみたりして、独特の感慨があります。おや、「ニコニコ 喜久乃家」がありますね、松戸や月島ではまだ現役でやっていて、つい先だっても東武伊勢崎線のどこかの駅で見かけたような気がしますが、どこだったでしょう。この系列店の出自なんかも調べてみたい気がします。おっ、こちらには良さそうな大衆酒場があります。お向かいの住人の方が洗濯物を干していただので伺ってみたところ「大衆酒場 まるや」はすでに閉店されたようです。あと唯一の喫茶店は見るからにやってなさそう。 そんな役目を終えようとしているように思われる商店街の端っこの間もなく隅田川を渡す橋のそばに「あらいや食堂」はありました。しんと鎮まりきっており、やってるかどうかは戸を開けるまで分からない感じです。無事にやっていましたがこれがまあ実に渋い。早くも真夏のような暑さの東京ではありますが、この薄暗く静まり返った店内に入るとすっと熱気が去るような気さえします。テーブル3卓にカウンターに数席あったでしょうか。思ったより狭いお店でした。意外にも20代に見える若いアベックが食事がてらに昼酒と洒落込んでいます。いい若いもんが昼日中からホッピーとは嘆かわしいなどと我が身を顧みずに勝手なことを思ったりします。インゲンの胡麻和えを詰まりつつビールをグイッと喉に運ぶとインゲンの青臭さがすっと鼻を抜けて夏を感じさせてくれます。今やオマーン産とかのものが年中出回っていますが、新モノはやはり違う。スロースターターの主人は先客の注文をおっとりとした動きで下ごしらえしていたので、彼らも心配になってどの位掛かりそうか聞いていましたが、われわれの注文を受けると先程までのスローモーさはどこへやら、あっという間にわれわれの注文分まで作ってしまいました。やがて二階から女将さんが降りてきてもやることといえば酒のお代わりを配膳する位しかやることがありません。独特の見た目と味の麻婆豆腐を摘みながら、ああこんな場所にも素晴らしい食堂が残されていたと感慨に耽るのです。
2016/05/25
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尾久駅の所在はこのブログをしばらくご覧いただけている方であればよくご存知かと思います。我ながら飽きもせずあのような暗くて、呑み屋さえほとんどない町を好んで訪ねるのかと思わぬでもないのですが、人通りも少なく歩きやすいところが気に入っています。都心に住んでいるのに人混みが嫌いだなんて、全く持って度し難い出鱈目さなのでありますが、実際そうなのだから誤魔化しようもない。暗い夜道を歩くなんてあまり高級な趣味とは言えませんが、もともとちっともぼくなどは高級感とは無縁なので構いはしません。 なんて卑屈なことを思いながらブラブラと歩いていると明治通りの裏通りに「中華料理 餃子ハウス 北珍」なんてお店がありました。いやいや、さも初めて見かけたかのような言いざまですが当然何度となくこの道を通り過ぎているぼくには目新しくはない風景だったのですが、なんで今までここに入っていなかったのかは未だに謎として残されたままです。今までは不義理してしまいましたが、今晩いよいよお邪魔するので勘弁していただきたい。入った瞬間は何だか味があるんだか、単に散らかっているばかりなのか何とも言えぬ杜撰な維持管理をされている印象を受けて、つまりはまああまり好意的にはなれませんでしたが、慣れっていうのはいかなる環境や状況をも受容させる効果があるようです。実際に今思い出してみてもどうして店に入った瞬間、嫌な印象を受けたのか思い出せないのです。ともあれ、まずは餃子からいただきましょう。商売っ気の感じられぬ飄々とした店主は、人見知りなんて言葉がない世界で生きてきたんでしょうね。餃子など目もくれず好みのラーメン類を食べる仲良しおじさん3人組の会話の中にぼくをいつの間にか引き込んでいたのです。こうした交流が面倒な方にはお勧めできませんが、誰かと喋りたいけど相手がいないならここにくれば困らぬはず。そんなことを普通においしい餃子を摘みながら思うのでした。 暗い明治通りの裏手の道をなおも進み、尾久駅も越えてさらに歩きます。やがて2軒のお店が見えてきます。一方は中華料理店、もう一軒が「食事処 大雅」です。先にお邪魔したのが中華なので次は食堂にしておきましよう。この二軒のお店は先般見掛けていて、本当ならこの二軒をハシゴするつもりだったのですが、まああと1軒はまた今度にすればいいことです。なかなか年季の有りそうな店ですが店内は案外こざっぱりしていて、何となく落ち着かない。それは店の造りが思った以上に広くて、加えて他に一人のお客さんもいない事も理由にあるようです。女将さんも見たことのない不審な独り客をチラチラと監視しているようで、注文を終えても警戒するように時折鋭い視線を浴びせるのは、ほとんどぼくの気のせいであるに違いないのですが、こちらご視線を送っては逸らされることを繰り返すうちに、段々食い逃げを警戒されているのだろうかという気分になるのです。しばらくして二人組が入って来て、ようやく落ち着いて呑むことができたのでした。さて、こちらのお店の酒場利用の感想はどうかと言えば、まあ悪くないけれど値段が幾らかお高めであると思い、素直に食堂として利用するのが良さそうに思いました。
2016/05/17
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お馴染みの東十条てすが、まだまだお邪魔していない酒場がいくらでもあります。そう書いてみたところで、実際に目星が付いているわけではありません。不審がられるのも気にせずに路地の裏までさんざん歩き回ったこれまての散策経験がこの町の酒場が際限のなくあることを予感させるのです。言うまでもなくこの狭小なエリアに無限に酒場があるわけもなく、そろそろ行き尽くしつつあるかと思わぬでもないのですが、まあとにかく飽きさせない町です。 北口の改札を出ると東側の商店街を進みます。この裏手にお宝店が埋もれているという予感を実際に確認するまでは、東十条詣では終わることはない。でもこの夜の一軒目は、商店街のメインの通りにある「天ぷら 川源」にしました。大衆食堂風の気軽な雰囲気の気張った感じのない良さそうなお店です。たまには天ぷらで一杯も良さそうです。店内が表から見通せるのは少なくとも安全という面ではメリットがありますが、客が入っておらぬとなるとそれはそれでなんか問題でもありそうで別な意味で不安になります。加えて扉を開くあの気分の高揚に欠けるきらいがある。でもそれらの懸念は店に入ると吹き飛びます。安全で感じがいいのは表から伺えたとおりだし、値段も手頃で店の方の感じも悪くない。しかも店のムードも大変よろしいとあれば、問題は唯一つ、味に難があるか盛りがちょっぴりかという懸念も湧いてきようものですがそれもないんだからここは安価に天ぷらをお好みでいただけるチェーンでないお店として利用価値あり。酒は幾分お高めですが、大丈夫、チューハイと一緒に焼酎の2杯でももらっておけば、一軒目として程よい良いが心残りをいい具合に解してくれるのです。 実は次の店は、以前通り掛かって覗いていたのです。ところが大入り満員の大盛況で残念ながら断られてしまったのです。暖簾がいい味だしてるその酒場は、メインの通りの裏手の暗い路地にある「チャンコ鍋 ホルモン焼 大龍」でした。前回とは打って変わって人の気配はなく、実際遅い口開けの客となったのです。もつ焼はさり気なく短冊にありますが、ちゃんこはないことを確認して席につきます。女将さんは物静かで、店は静寂に包まれています。ぼくはつい静けさを嫌い女将さんに語りかけます。そこで興味深いお話を伺いました。4年前に他界されたご主人は元力士で、その四股名が大龍だったそうです。どうりで店内には星取表などの相撲関連のあれこれが飾られていたわけです。ちゃんこ鍋と看板や暖簾に記されているのも納得です。物語はさらに時代を遡りそのご主人の生家が漁師をやっていて、持ち船の名が大龍丸だったのです。その船やご主人などの写真は大事に飾られています。創業57年というこのお店は、特別な何かがいただけるわけでもないし―ホルモン焼はシロとレバーのごく普通のもつ焼です―、酒もごくありふれた品しかない。それでも旦那さんをなくされた時に辞めておけば良かったという女将さんを引き止めるためにもまた訪れなくては。あっと肝心なこと、こうしたお店、意外と値段が高かったりしますが、こちらは大変お手頃なのでよろしければ一度お訪ねください。
2016/04/01
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飛鳥山も間もなく花見客でごった返す季節となりますが、シーズンオフのこの時期は、西ケ原駅という都心からも近いけれどほとんど地元の方以外は乗降どころか駅名すら知らぬ東京人も多いであろうそんな駅に続く道路には、人通りもほとんどなく呑み屋どころか店舗すらほとんど見当たらぬのです。そんな寂しい通りだから路地の先に赤提灯が灯るのを見るとついフラフラと誘き寄せられるのも仕方のないことのはず。ぼくも極めて容易に誘惑に身を任してしまうので、居酒屋タイプの人間ホイホイがあったら当然瞬く間に囚われの身となってしまうでしょうが、そこで酒が呑めるならそれも悪くはないと思うのです。ここ飛鳥山にもまだそんな酒場が残されていました。 「大衆料理 能登」は路地の先にぼんやりと赤提灯の灯るまさに先程妄想した通りのお店でした。大衆料理というのがちょっと聞き慣れないのですが、もちろん躊躇するはずもありません。能登という屋号からは、青森出身の未だ訛りの抜け切らぬ老女がひっそりと今夜も滅多なことでは訪れることのないわずかな客を虚ろな表情を浮かべながら、それでも我慢強く待っているなんていう様が浮かぶのであります。ところがそうした予想はあたった時のことだけはよく覚えているものですが、全く想像と違っていた場合には都合よく忘れてしまうようです。扉を開けると古ぼけた店内ながらそれより先に視界に入ったのは、ぼくよりも歳下と思しき男女の客と店主なのでした。お通しはチャーシューをバーナーで炙ったものというのも何だか店の雰囲気からは思いもできませんでした。さて、この店主大変気さくな人でこの酒場が界隈では最古参で二代目という。店を初めて早40年とのこと。まあそう聞くと案外古いというほどでもないなと思わないでもないのですが、この店の開店する前はさぞかし暗くて夜など怖いほどだったんだろうなあ。そして春の桜の季節だけは飛鳥山から深夜までざわめきが聞こえる、そんな過去を思うとその頃にタイムスリップしてみたくなります。若干お値段はお高めですが何だかホッとできる良いお店でした。
2016/03/29
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この夜、向かうべき店も思い付かず、これは困ったと思案疲れで途方に暮れてしまったのです。途方に暮れてしまうともうどうでもいいやと投げやりになってしまい、素直に田端のいつもの立ち呑みに行けばいいんですがこの夜は歩きたい気分だったらしくそうもできず、さてどうしたかというと駒込で電車を飛び降りてしまったんです。こうなると覚悟は決まったようなものですが、覚悟が決まったところで行きたい店が決まったわけではない。ここまて追い詰められると即座に対応を決めることができるぼくは偉いなんて思ってみるのですが、とどのつまりまるで見通しの立たぬ上中里駅方面を目指そうというのだからこれは実に無謀かつ愚かな決定に過ぎなかったのかもしれません。でも一度決めたことは愚直に実行してしまうという頑固さがぼくにはあるのてす。この誇るようなものではさらさらない性癖でこれまでどれほど損をしてきたことか。 とにかく上中里駅に向けて歩き出しました。やがて「河童軒」なる中華料理店を見つけますがこのような中華料理店で酒場欲求を満たしてなるまいか、満たしてしまいました。ガラスに貼られたウーロンハイ250円にいともあっさりと釣られてしまったのでした。そんなに広くないお店ですが、さすがに他に一人もお客がいないのはさすがに不安になるのはまだまだ修行が足りぬのか。静まり返った店に料理人の男性と二人切りで多少気づまりです。でもそれもわずかのことでした。女性が入ってこられました。お二人のやり取りを漏れ聞いているとどうやら女性がオーナー的な立場らしい。テイクアウトのお客さんも入って来られましたね。さて、運ばれたウーロンハイに口を付けるとオーナー(仮)さんから鮭のマリネをどうぞとお勧めいただきました。これならもう一品頼めば十分3杯は頂けちゃいます。野菜炒めを注文します。近頃呑み始めには極力野菜を食べるようにしているなんて、健康に留意するならもっと簡単で効果的な手段があるだろうと思うのですが、こんな食生活しながら実は野菜好きなんですね。実はってことはないか、結構あちこちでサラダで酒呑んでますからね。こちら別に味は悪くないな、でもちょっとばかししょっぱいかな、酒が進みすぎちゃうじゃないか。と静かな店なので声に出さずに呟くのに飽きた頃にきっちり3杯を呑み終えたのでした。 さて、せっかくなので上中里駅まで行ってみようかな。もしかしたら見知らぬ酒場があるかもしれぬ。ありませんでした。まあしょうがないです。上中里駅の駅前にはモダンな建物の焼鳥店―ここはどうしても入る気にならない―、その奥にも居酒屋があるみたい、そして小洒落た居酒屋―ホントはここを目当てに来たのですが、どうもイメージじゃない―、そのお隣が「百亀桜」という中華料理店です。道を挟んで向かいには喫茶店があったんですね。見落としていました。今度来てみることにしよう。で入ったのがやっぱり中華料理店だったのです。ガラス越しに背広族が呑んでる様子が見えています。ここら辺のサラリーマンは中華料理店で呑むのが定番となっているようです。店に入り様子を見ているとどうもここは単なる町中華ではないらしいのです。日本酒の銘柄酒の品揃えが良いらしく、次々に種類を変えて、あっ、全然味か違うなどと小学生かと言いたくなるような感想を述べあっています。ぼくは控え目にトリスハイボールです。サービスのようですが、こんな立派なお新香を付けてくれるなんてありがたい事です。ナルホド、おぢさんたちが好んで通うわけです。肴は定番の餃子にします。400円で若干高めですがこれが大振りで具がぎっしり、6個もあるので大満足てす。しかも皮ももっちりと肉厚で焼き加減も絶妙でした。お隣のお兄さん、100kg位ありそうな巨漢ですが、なんとかいう定食の単品を注文しています。それが凄まじいボリュームです。どうも親子丼の具だけという感じですが一人だと持て余すほどの量がありそうです。グループがお薦めです。
2016/03/22
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あまり長々ともったいぶっていたら、折角の旬のお店を取りこぼしてしまうことになりかねない。旬の店って言っても開店ホヤホヤとか話題の店とかいうことは少しもなくて、あくまでぼく個人とダラダラ引っ張ってきた王子ネタの記憶が新しいうちにご報告しておこうというまでのことです。三顧の礼―とちょっとだけ教養を見せつける、教養と言っても横山光輝由来―をもってようよう入店が叶ったのであります―ってウソ嘘、2度目は途中で放棄したからね―。いやいや、それにしてもここはとにかく遠いなあ。荒川線に揺られてくるとしても荒川車庫前の電停で不安にかられつつ下車して、そこからシャッターが閉じ切っている商店街が尽きるまで歩き―そうそう「山の音」なんていう川端康成、いや成瀬巳喜男の名画に由来するらしい―と、ここでも教養をひけらかす―、喫茶店を横目に住宅街など気にせず歩くと巨大などこだかの新聞社の印刷所だか何だかに行き当たるはず。その向かいに間口一間―ってどのくらいだっけしょうがない教養のなさをひけらかす―程度の細っそいみせがあるのです。 そう、「駒八」です。いいでしょうって、そこらの酔っ払いをとっ捕まえて同意を得たいくらいの素晴らしい構えの店です。嬉しいなあ、ちゃんとやっててくれたんだ。3度の苦労が―だから嘘だって―一気に報われるような幸福感に包まれます。だから実際の感想など無視をして苦労した分を加味して褒め称えることにします。というのは全く嘘で、実際こちらのお店、まごうことなき良いお店でありました。さて、狭い間口の引き戸を開くと予想通りのカウンターだけの店でありまして、先客で埋まっているので、脇道にあるサッシの引き戸を開けてみると奥は数席空いていました。お客さんはしばらく会話を聞くと皆さん年金生活を送られらているようです。羨みながらもこの店を贔屓にしてくれてありがとうという気持ちです。お通しはちゃんとタラの切身入りのしっかり一品になっている湯豆腐でした。こういうお通しなら大歓迎です。女将さんは女将さんと言うにはちょっと若いのですが、話題にあがるのは病院のことばかりとすれば案外お年なのかも。肴は充実していて、おすすめ料理もどれも頼みたくなるし実際それが美味しいのだから大したもの。量は控え目ですが下手に多くてケチ臭く平らげようなんて気にならないのがまた良し。良い酒場です。
2016/03/04
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