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2022年05月13日
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カテゴリ: 仏教、神話、哲学
真言密教は果分可説(真理を言葉で説くことができる)であるという。しかし常識的には不可能だ。顕教の果分不可説が正しいとするのもうなずける。
そして教の扱う言葉では真理の言語化は不可能、ということは現代哲学で扱う言葉でも不可能ということだ。

しかし、密教で扱う言葉は常識の範囲で扱う言葉とは異なると思われる。
現代哲学ならびに常識的な言葉というものは「分節」が行われる。言葉で「あるもの」を指し示すとき、他のものではないことを示しているのだ。

「松」という言葉があったとき、「松」以外のものと分別される。「まつ」という言葉は恣意的に名づけられたもので「まつ」という言葉でなければならない必然性があったわけではない。その為に松以外のものでないこと示す必要があった。恣意的に名付けられるということは「松自体を示す真名」ではないということなのだ。
なので通常の言葉は否定の論理で構築されている。
「松」は竹でもないし、水でもないし山でもない。
ということだ。

これが「分節」である。




しかし密教で扱う言葉は分節を用いない。あらゆるものを含み、多義である。「他ではない」ことを示さない。世界観そのものを示し、より大なるものである。そして聖なるものでもある。我を超えてた如義言説。それが真言です。

「松」という真言が仮にあったと考えてみよう。
松は竹であり水であり山でもある。世界観そのものを示すことになるであろう。

「聖なる」とは何なのか。それは個人の遊戯玩具に堕さない存在ということだ。我を超えた存在。つまり自分の理解を超えた大いなるもの。それを表すときは「象徴」という形態をとるしかないだろう。

「聖」の対義語は「俗」である。
こうして並べてみると聖と俗は互いに対等な関係のように見えてしまうが、「分節」を超えているので両者は対等ではない。「聖」は言葉を超えた存在であるところを仮に「聖」の字を当てて分節に落とし込んだだけである。言語に落とし込んだときはじめて対等の言葉として扱われるが、本来「聖」は分節を超えた大なるものである。(般若波羅蜜多に同じ無分別智)

そして真言なり陀羅尼というものは何を表すのか。
それは心の実相である。そして仏の内証智でもある。「総持」と訳されるが、これは全てを保持している言葉、と解釈できる。「記憶力」と解釈されることもある。


つまりこれらの言葉は瞑想に於いて用いられる言葉なのだ。そして即身成仏にいたる。
心の実相の言葉であるなら行者と一体化することができる。そこには対立が無いからだ。
もしこれが「分節」された言葉あったなら対立を生み自心について用いられなかっただろう。真理の前で分別は「空」化されていたであろう。分節された言葉は外境の言葉である。故に相対的存在であり、般若心経に見る様に「空」化されてしまう。



ちなみに般若心経の真言陀羅尼部分を分節すると、「スートラ(お経)」(通常用いる言葉)の部分となる。この部分が「空」を説き、果分不可説を説く。果分可説を説く密教の教説と異なるのである。
そして密教は果分可説であり、瞑想に於いて文字と一体化する。


大雑把ではありますが、顕教は空を説き、密教は心の実相、内証智を説くのであります。
これが私の今現在の解釈です。





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最終更新日  2022年05月13日 09時39分19秒
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