真理探究と歴史探訪

真理探究と歴史探訪

2013年12月03日
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館内では事務員の方が各種の展示物を懇切丁寧に解説してくださった。人物や動物などを模した石製の大きな「石人石馬」など、あまり近畿方面の古墳では見られない珍しい出土物に目を瞠った。

同古墳は北部九州最大の前方後円墳で、6世紀後半に筑後地方を拠点に勢力を誇った豪族、「筑紫君 磐井」が生前に築いたと伝えられ、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳とされている。

「磐井」は527年、大和朝廷の朝鮮半島施策に異を唱え、九州の他の豪族と手を組んで朝廷の大軍を迎え撃ち、1年余りの戦いの末に敗れた「磐井の乱」で知られる。

しかし、勝った朝廷側の視点で描かれた「記・紀」では、朝廷の施策を阻む「反逆者」とされた「磐井」だが、地方の歴史などを記した「筑後国風土記」逸文からは、違う磐井像が浮かぶとのことである。

つまり九州支配を強めて、地元民に過大な負担を強いる朝廷に反旗を翻し、地元民を救おうとした人物として、現在も「磐井」は郷土の「伝説的英雄」として親しまれているそうだ。


実は私自身、この「磐井の乱」については殆ど調べたことがなく、今回初めて「磐井」の築造した「岩戸山古墳」を訪れたことで、その隠された北部九州の歴史に踏み込むことになった。

この「磐井の乱」については、多くの歴史研究家が論考を述べており、興味深く各論を読んでいるところだが、今の私なりの捉え方は、近畿王朝(大和国)の「継体」率いる軍隊による、九州王朝(倭国)の「簒奪」という構図ではないかということである。

つまり当時の日本において、本家本元の王朝であった「九州王朝」を奪うことで、当時はまだ地方王朝の国王であった「継体」が、その王権を拡大強化しようとしたのでは・・・ということだ。




なお、ウィキペディアには「磐井の乱」に関する異説として、「磐井」を九州王朝(倭国)の王と見る「九州王朝説」があることを取り上げ、日本書紀の内容は九州王朝の記録からの盗用であるとしており、参考記事として以下の2点を挙げている。

◎百済本紀には『531年に日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨せぬ』という記事がある。「磐井の乱」について百済では、日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していた。

◎福岡県八女郡の「筑紫君磐井」の墳墓(岩戸山古墳)には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは九州に律令があったことを示すもので、九州に王朝があった証拠である。

つづく





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最終更新日  2013年12月03日 21時09分24秒


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