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あるプロテスタント教会のA先生について、書きたいと思います。
今はもうご高齢でいらっしゃいますが、A先生は私が小さい頃通っていた日曜学校の先生でした。先生のご主人は、脳卒中の後遺症のため口が利けず、最近では身体的な衰弱も甚だしいそうです。
何年か前のことです。
「いろいろ考えて眠れない夜なんか、傍で眠っているお父ちゃんの顔をね、死んだ時の顔、納棺する時の顔と思い重ねて、泣く時もあるんだよ。」
しばらくすると、
「(お父ちゃんの)お葬式の礼拝のオルガンは、私が弾かなくちゃ、と思っているの。」
また、最近では、
「子どもたちはみんな、私のこととってもかわいがってくれるのよ。でもね、お父ちゃんが死んだら、老人ホームに入ろうと思っているの。だって、いつまでもかわいいおばあちゃんでいたいんですもの。」
子や孫に囲まれての老後が何よりの理想と考えている人には、先生の言葉が強がりとしか聞こえないかもしれませんが、私はその時決意と明るさを感じました。
先生の4人のお子さんたちはみな、それぞれに独立して、今はご長男一家と同居なさっています。しかしご長男夫婦は新興宗教に入信し、先生とは宗教観、人生観、価値観のことごとくが違ってしまいます。そんな中で、ご長男夫婦も、ご自分も大切にしたいからこそ、ここで一歩退いたのだ、と私は感じました。
子や孫を愛するゆえに、その中に浸って甘えようとしない強さ、その甘えの中で自分を見失うまいとする意思、人間は常に一人なのだという孤独をしっかりと見据えた目の高さには、みごととしか言いようのない「個」の意識を、この時私は感じました。