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かつて伊予の介と呼んでいた者は、故・桐壺院が御隠れあそばされた翌年に
常陸の介となりましたので、あの「帚木」と詠んだ空蝉も一緒に任国に下りました。
源氏の君が須磨に退去なさったことをはるか常陸で耳にして、
人知れず心を痛めないこともなかったのですが、
その気持ちをお伝えする手段がありません。
「筑波根の山を吹きこす風」に便りを託すのも不安で、
ちょっとした伝言さえもできないまま年月が過ぎてしまいました。
源氏の君が帰京なさった翌年に、常陸の介は任を終えて上京しました。
一行が逢坂の関を通るちょうどその日、
源氏の君は近江の石山寺に御願成就のお礼に参詣なさいます。
都からお迎えの人々の中には常陸の介の子・紀伊の守もいて、
「殿が御参詣なさいます」
と知らせましたので、
『道の途中で出会ったら、さぞかし混雑するだろう』
と気遣い、夜明け前に出立したのですが、女車が多く
道いっぱいになってゆらりゆらりとやってくるうち日が高くなってしまいました。
一行が打出の浜にさしかかると、「源氏の殿は、粟田山を越えなさいました」と言って、
源氏の君一行の前駆の人々が避けきれぬほど大勢やって来ましたので、
常陸の介一行はみな関山で車から下りて、道を譲ることにしました。
牛から車をはずし、あちらこちらの杉の木の下に隠して、
かしこまってお通し申し上げます。
常陸の介一行の車は、一部は遅らせ、あるいは先に立てなどしたのですが、
それでもやはり一族は大勢のようです。
車は十ばかりあって、女たちの衣の袖口や襲の色合いなども
下簾からこぼれ出ています。
それが田舎びていず趣味が良いので、
源氏の君は斎宮が伊勢にお下りになった折の物見車をお思い出しになります。
源氏の君に付き従ってきた大勢の前駆の者たちもみな、この女車に目を留めるのでした。