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Oct 1, 2005
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カテゴリ: 演劇評論
現在形の批評 #8(演劇時評)

ロクソドンタブラック


ロクソドンタフェスティバルの審査員をして



 フェスティバルのキャッチコピーは「演劇で飯を食う」。しかし、このコピーは名ばかりの印象を拭いきれなかった。最大の原因は「なぜフェスティバルをするのか(しなければならないのか)」の理念の欠如である。「演劇で飯を食う」ことは絶望に近いくらい難しいはずである。にも関わらず飄々と言ってのけてしまえる姿勢に疑問を感じた。次回以降、さらにロクソドンタフェスティバルが発展する様、私からの提言を以下に記そうと思う。


 まず、賞金の五〇万円だが、優勝劇団にすべて渡し、二位以下にはスポンサーから頂いた商品を渡すというのはどうだろうか。「演劇で飯を食う」ことが目的であるはずが、一位劇団でも八万円にも満たない賞金だと、参加費を負担しているため赤字になる。やはり競り合って賞金を貰うからにはそれなりの金額を手に入れないと張り合いはないだろう。加えて、賞金を与える劇団を一つに絞るよって参加団体の士気を高めることにもなる。そうなるとやはり参加団体も八劇団ほどにして厳しく劇場関係者で選考することが必要である。


 また、審査員に関してもお互いに連帯と議論も生まれる。今回、審査員をしていて、何人かの方とは話し合いをしたが、やはり同じくフェスティバルを審査する者同士、批評を交し合うことは重要ではないかと思う。そうでないと、一つの舞台を見に来たそれぞれの観客、ということになってしまう。審査する以上、審査員にもそれなりの責任感を与えても良いのではないだろうか。また、そうでないと何日も時間をかけて一つの舞台を創った劇団の皆様に対してあまりも拠って立つ立場に違いがありすぎる。審査員だけでじっくり時間をかけて劇団個々についての批評をし合う機会を設けることは必須である。


 しかし、ロクソドンタフェスティバルはまだ無名に近い劇団を一般観客である審査員が審査をするからこそ意味があり、他の劇場のフェスティバルとの違いの一因もそこにあるという意見もあるかと思う。しかし、フェスティバルの真の意義は次代の演劇をリードするであろう若い世代に積極的な表現活動の場を与え、支援するためのものだと私は考えている。つまり、企画者先行ではなくあくまでも表現者、および観客先行でなければならない。演劇をする側、観る側にとって最も有益なシステムが求められるのだ。そのことを前提にすれば、例えば他の中規模劇場や公共劇場と提携し、優勝劇団は次のステップとしてそういった劇場で公演を打てるシステムをそこまでやっても良いのではないか。せっかくのフェスティバルである。輪をもっともっと広げて欲しいと思うのである。そういった活動をすることによってロクソドンタフェスティバルの価値も上がるだろうし、本当の意味での劇団のため、観客のため、ひいては関西演劇界自体の新たな風にもなるはずである。今のシステムではあまりにも身内内で決着してしまって発展性がなく、もったいないの一言に尽きる。


 利益・経済と芸術性は一緒に手に入れることができれば最高だがそううまくはいくまい。しかし、演劇を志向する者が途切れることなく出てくるのはそれでも演劇に魅力があるからなのである。資本があるのならばもっと若者劇団に協力をしてもらいたい。ロクソドンタの内実を知らない私は勝手なことを言っているかもしれないが、ロクソドンタフェスティバルが演劇の応援・劇団の応援なら、経営の専門家がまずいない劇団の維持のためにも演劇の将来ためにも手を差し伸べてチャンスを提供して欲しいと思う。そういった活動を続けるならば必ずもっと飛躍できるはずである。ただ、フェスティバルの在り方や同世代の作品の動向を少なからず掴めたのも、半年間審査員として観劇の機会を得たからである。


 最後に、全十六団体の劇団の内、印象に残った劇団劇団を上げることにする。唯一歴史を相対化しようとした「劇団万国トカゲ博覧会」と一見、自由に何でもできると思われる社会が閉塞感で満ち満ちていることをテーマにした「劇団製造迷夢」である。


 また、「劇想 空飛ぶ猫」は近大の劇団であり、[猫組]-「SPOT」作・演出 木村友香-と[空組]-第一の問い「なぜ僕らはここにいるのか」作・演出 萩原宏紀-に分かれ、幻想でしかない現実に生きることの意味ととまどいを共通テーマに作品創りを行った。[猫組]は、顔が見えない関係においてしかコミュニケーションが成立できない人間を、異民族のパフォーマンスとして表現した。(顔を覆った布がそのことを端的に示していた)。審査員の間でも短い時間ながらインパクトを与える内容でおもしろい評価が高かった。日本語をどこかで使ったらば、自分たちのこととして観れ、汚らしい格好と意味の分からない言語が別の意味を持ったろう。町工場を舞台にした[空組]であるが、語られる内容は同年代であれば既に日頃抱いている疑問や寂寞感であったためなかなか内容に入り込めなかったのは残念である。二時間の中に一箇所でも作家が現実をどう捉えているのかが読み取れる部分があればまた違ったはずである。


※注  この原稿は、ロクソドンタフェスティバル講評冊子用に執筆したものに





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Last updated  Jan 13, 2007 10:56:50 PM


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