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先日会った香港の客人に「この間、見送ってくれたときに、雅は屈託なく笑っていただろう?あれって、子どもが作る笑顔だよ」と電話でいわれた。大人は普通、自分の立場をわきまえて、笑顔を作るものだという。社会的な自分の位置を保ったり、相手に警戒されないための一手段として、笑顔を作る。つまり、ペルソナ(社会的な「仮面」)をつけた状態の“作り笑顔”が多いから、相好はそう崩れないし、整った表情になる。「私は大人らしく笑えていないですか」と問うたら「うん」と即答された。「雅の笑顔は、10歳、いやもっと幼いかも。6歳とか7歳くらいの男の子みたいな笑いかた。珍しいよ」生後3カ月くらいから赤ちゃんは手足をばたつかせて笑う行動をとりはじめる。これを専門分野では「おはしゃぎ反応」と呼ぶ。人間の本能に近いところで「快」を感じていることで起こる表情らしいのだが、私が笑っているときはもしかしたらこれに近いのかもしれない。ちなみに、自分が屈託なく笑っているときは、楽しい時間を過ごした後か、お酒を呑んだ後とか、好きなものを一杯食べた、心行くまで温泉に入った、といった「気持ちいい状態」のことが多い。このように満腹、適温などの安らぎを感じるような快感とつながっていることをやっていると、セロトニンがたくさん分泌される。ストレスが多い生活をするとこのセロトニンが出にくくなり、その作用として「うつ」になるという説が近年有力になっている。だから、こうやって「屈託なく笑うね」と人に言われるうちは「健康」なのかもしれない^^
2010年02月05日
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多重人格の症例が紹介されている本を読んだ。300ページ以上ある本で、今朝から読みはじめたので読みきれるかと思ったが、移動時間にこまめに読んでいたら、何とか読み終えることが出来た。大抵その手の本に登場する多重人格者は「幼児期に育児放棄された」とか「ネグレクト(虐待)」、「親からのDV」など、機能不全家庭で育っている。まぁ、私も親がアルコール依存症だったりするので、似たようなことは抱えてきたのだが、幸い本にかかれているほどは深刻ではなかったので、気丈に暮らせている。とはいえ、こういう症例が詰まった本を読んでいるときに、不意に涙が止まらなくなることがある。それはたとえば、親に首をしめられたとか、階段から突き落とされたとか、親が突然自分の頭を浴槽につけて呼吸ができなくなったとか、レイプされる、などなど……そういうケースが綴られている部分で、呼吸が乱れるのだ。今日もそうだった。小さい頃にものすごく親に殴られたこととか、他の忘れていた記憶が蘇ってきて、手が震えて、こわばってしまった。しばらくハンドタオルを顔に押し当てて、涙を拭いていた。過去の嫌な記憶をただ抑圧し、心の底へ追いやって押し込んでしまう(=忘れたことにする)と、まれに多重人格になるのではないかと思う。私の過去は、多重人格になるほどではなかったけれど、覚えている辛い記憶は、他人に話そうとすると今でも声が震えたり、自律神経が乱れるのを自覚する。社会人になるまでは、「幼少期は自分が悪いから親に気絶するまで殴られたり、身体にあざができたんだ」と思っていたから、それを人に言うことはとても恥ずかしいことだと思っていた。だが、経験を少しずつ冗談ぽく他人に話すことを重ねて、随分その症状は軽くはなってきた。けれど、やっぱり心に「しこり」みたいなものはまだ残っている。自分が完全に忘れていた嫌な記憶がフラッシュバックするときは、身体の奥のあちこちがズキズキと痛みを感じて「これは何事か」と思う。それはまるで賽の河原で積み上げてきた石の塔を壊され、そのまま鬼に金棒で打たれたかのような痛さなのだ。昨年だったか、自分の幼少期の話をとある人に求められてした。その人は、自分の所得から毎年たくさんのお金を寄付し、社会貢献していることを自負していた。端から見れば素晴らしい人だろうし、世間ではそう見られている。だが、ひとしきり話をした後、「子どもの痛みを感じて、共感して、骨を折ってくれるカウンセラーって世の中には滅多にいないと思う。少なくとも私は会ったことがない」と私がいったら、その人は突然「私の友人のカウンセラーは、ちゃんと親身になって仕事をしている。今君の言ったことは私の友人のカウンセラーをバカにしている発言だ。謝れ」と強い口調でいい、私は「失礼しました」と謝った。そのとき、手はこわばり、身体の筋肉が小刻みに震えていた。少しずつ塞ごうとして頑張っていた心の傷が、また再度大きく開いた瞬間だった。「この人がネグレクトやACの人と相対(あいたい)したら、きっと私よりも傷つくだろう。自分の残酷さに鈍感なんだなぁ」とも思った。私は「謝れ」の一言を聞いて、腰の力がすっかり抜けていたけれど、横にあった木の幹にかろうじて寄りかかり、それを相手に気づかれないようにしていた。まだ自分の足で立てていることが不思議だったけれど「それは少しずつ克服できた証だよ」と心の中で己を諌めた。幼少期の記憶や過去はしんどいけれども、自分で克服しないとダメだよな、って気持ちを強くした出来事だった。やっぱり、残念ながら辛い記憶を抱えてくれる他人は滅多に居ないし、他人に頼ること自体、(よっぽど受容してくれる人でない限り)相手にとって迷惑なことなのだと、自分の場合には思う。ましてや人のせいにしたり、物や人に当たるのは論外だ。ただ、今書いたこととは矛盾するけれど、多重人格などの症状をお持ちの方は、絶対自分だけで抱え込まないほうがいいと思っている。仕事柄、いろんな本を読むのだけれど、この手の本を読むのが一番メンタル的にはへヴィですね。<お酒メモ>3日水曜日アサヒスーパードライ 中瓶 2本くらい
2010年02月04日
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明日2月3日は節分です。この週末の外出で、量はそんなに多くないのですが70円で節分用の豆を買ってみました。もともと節分は立春・立夏・立秋・立冬の前日のことを指し、年4回あったのですが、最近は主に立春前の2月3日を節分としています。豆を投げて鬼を祓う、という行事ですが、正直言って自分は、鬼を追い出したくはありません。なぜかというと、人間誰しも自分の中には鬼が住んでいるものだと思うし、悪い心を持たないことはないのだと感じているからです。自分や誰かの中の嫌な部分、出来ていない部分を追い出すのではなく、「どうして嫌なのか」とか、「何が嫌悪する部分なのか」をまず抽出して、豆を食べながらいろいろ考えてみるといいのではないでしょうか。なぜなら、節分豆を食べるということは、自分の身体の中に「豆を投げ」て省みる仕分けの作業になるからです。つまり、もういちど己の中にある鬼と向き合う「メタファ」になると私は思うのです。誰かを嫌だと思ったり、自分を卑下することは「鬼」の心だと感じています。そういうことを少しでも感じるのならば、節分は「区切り」の機会ですから、己を少し反省してみるのもいいかもしれません。人は大なり小なり、心に鬼を飼っているのだと思います。普段は避けている己の「鬼」と向き合い、対話をして、自分の心の揺れとか動きを再認識する。少なくとも自分は節分をそうやって過ごす行事だと思っています。<お酒メモ>ソアヴェクラシコ 2/3本サンタクリスティーナ 2/3本いただきもののフランスワイン 赤 グラスで2つ
2010年02月02日
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「あ、この人は魅力的な人だな」と感じる瞬間がある。ときには、引力というか、何か磁石のようなものに引き寄せられるように、引っ張られる感覚すらすることがある。私はそれは「気のせい」ではなくて、本当に何かを「感じて」いるんじゃないかと思っている。そもそも人間の身体には磁性があって、微弱な電磁波を感じたりするという。だから、自分の身体のなかにある「感じる磁石」と、相手の「磁石」が近しいものならば、話さなくても惹かれる部分というのはあるのではないか。極論を言えば、道でただすれ違っても、その磁石の磁界の強さが非常に似ているなら、お互いに気になって「出会う」こともあるのだと思う。一方で「あの人とは気が合わない。話を聴いていると頭痛がする」というケースに遭遇したら、それはその人の話すことがイヤとか、そういうことではなく、もしかしたらお互い反発しあう「磁性」を持っているのかもしれない。ただ、現在は自然の磁界だけではなく、PCとか、携帯とか、いろんな電磁波に囲まれて私たちは生きている。いろんなガジェットやOAに自分の心が影響されるのが日常になっているのかもしれない。だから、そういう社会に適応するために、ひとの身体にある磁石は、少しずつ鈍ってきているのかもしれない。もしそうなら、事前に「合う合わない」を察知できるセンサーが弱くなっているわけだ。そうなるとあまり長くお話してはいけない人、気の合わない人に無防備にぶつかる可能性も高くなる。「人付き合い」に疲れてしまう現代人が増えているのは、こういうことも原因なのかも。ふと、そんなことを考えた。<お酒メモ>月曜日生ビール グラスで1つ鳳凰美田 無濾過限定酒 1合八海山 雪の中の酒 半合
2010年01月26日
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「おうちで寝てなさいね」医者にそう命じられて強い薬を処方されたので、身体のあちこちがきしきしと痛むのだが、仕事が終わらないので今日も出社。咳で二夜ばかり眠れなかったので、なんだか頭もボーっとしている。平日のどこかで一日休みたいのだが、本当のことを上司に言うと今週は全て休まなければならないが、そうもいかない仕事が多すぎる。こういうときに「えいや!」と仕事を任せられる人が、「本当に仕事のできる人」なのだと思う雅であった。
2010年01月20日
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変だといわれるかもしれないが、端から見たらツイてない状態でも(自分自身がそれで)落ち込むことがとみに減っている。この数日風邪を引いていて、昨日は食欲がなかったので夕食を摂らなかった。翌日も仕事の納期がいくつか重なっていたので、淡々と仕事をしていた。気が付くと夕刻で、取引先と会う約束の時間になってお邪魔したところ、呑み屋に連れて行かれて食べ物と酒を口にした。メニューがいくつか出てきて、「これ、おいしいですね」と私が言うと、相手は「安い店だからそんなにうまくないよ」という。「それじゃぁ、私、お腹減ってるんですかね…あ、そうだ、しばらくご飯食べてなかったの忘れてた」と思わず言ったら、相手は苦笑していた。「具合悪いのにそんなに長時間、ご飯食べられてないんだ、可哀想だね」とも言われたのだけれど、そのとき思ったのは「咳が出て、風邪で食欲がなくて、それでも仕事しなきゃいけない状況のおかげで随分やせて、よかったかも。最近身体に肉がついていたから、簡単にダイエットできた。ラッキー(*^^*)」なんてことだった。帰りも終電には間に合う時間だったのだが、夜風に当たると咳がおさまらなくなるので、贅沢をしてタクシーで帰った。通常電車でかかるところの1/3の時間で帰宅し、なんだか仕事をした割には、家でゆっくりする時間が増えて嬉しい気持ちになった。思うのだけれど、目の前のことは、気の持ちようで天国にも地獄にもなるのだと思う。たとえば、仕事で結構な数字をノルマで課されたときに「何で俺だけノルマがきついんだ」と思うか、「自分は期待されているからこれだけの数字を負かされているんだ」と思うかで、俄然自分の認識する「立ち位置」は変わってくる。端から見て「嫌なこと、ついていないこと」だったとしても、そういう状況のなかで「自分にとってこのピンチやトラブルは、あとでどんなプラスをもたらしてくれるのか」を考えて動く習慣を身につければ、自分自身の精神的なものも、行動も、よい方向に変わってくるのではないかと考えている。手持ちの株がガクンと下がったら「買い増しできるチャンスが来た」と考えればいいし、大きく上がったら「株が頑張っているのだから、自分も仕事で頑張るぞ」と思えばいい。強がりとか、やせ我慢でなくそう思えるようになったら、「『生産性の高いサラリーマン投資家』になれるかもしれないなぁ」なんて妄想するのは、ちょっとポジティブすぎますかね。やっぱり、熱で少しやられてるのかなぁ…(^-^;<お酒メモ>アサヒスーパードライ 中瓶 1/2本
2010年01月19日
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今シーズンの新型インフルエンザの罹患数は既にピークを超え、最近では普通の感冒にかかる人が増えているそうだ。私もご多聞に漏れず、どこかで風邪をいただいたようで、今朝方から38度の熱が出ている。声も出ない。1日寝ていれば治る感じだったが、休めるわけもない。取引先が休むことを許してくれないからだ。というわけで一年近く服用せずにすんでいた抗生物質をなくなく服用する羽目になった。医者によると今年は●喉の炎症+咳+発熱●お腹の痛み+下痢+吐き気の2種類のタイプの感冒が同時流行しているという。両方の風邪に、いっぺんにかかる人もいるそうなので、注意したほうがいいかもしれない。ちなみに雅は「喉系」の風邪である。明日は尊敬する経営者に久方ぶりにお会いする機会なのだが、ご挨拶できるかな…。過去の経験から察するに、この分だと明日は完全に声が出なくなりそうである(ーー;といいつつ<お酒メモ>(←断れなかったんです!ホントだってば!)。<お酒メモ>サッポロ黒ラベル 缶 コップで1つ
2010年01月13日
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あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。これは、2010年の1月1日に撮影した初日の出。実は、日本の初日の出を見るのは人生ではじめてだったりする(^^;(はじめて見たのは2000年にアイルランドのディングル半島で、だった)もともと、3度の飯も大好きだが、寝るのも大好きな私。今の仕事についてからは睡眠もなかなかままならない。だから正月に時間ができた年はすぐに「寝正月」を決め込んでしまう。けれども今年は例年に比べて気温が暖かかったし、うまく晴れるような気がした。何よりも2010年ということで、キリの良い数字。ゲンかつぎに、初日の出を見に行こうと思い、よさげなところまで足を運んでみたわけである。ついでに、近くの一の酉(神社)でおみくじをひく。出てきたのは小吉だったけれども、不思議といいことが書いてあったような気がする。気分一新、今年もよいことがたくさんあるといいな、なんて思いながら先程髪の手入れをしていたら、髪に白いものを発見。ひっぱったら、自分の頭からひょっこり生えてきた「白髪」だった…。_| ̄|○もう若くないのね(つд⊂)エーン
2010年01月01日
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年末年始に出てくる「お餅」。食べると太るというイメージがあり、敬遠される向きが多いが、実は四角い切り餅1個のカロリーはだいたい127kcal。普通のご飯茶碗1膳分(140g)が235kcalなので、摂取カロリー量は約半分なのである(ちなみに雑煮は餅2つ入りでだいたい352kcal弱。太巻き1個は70kcalくらい)。だから、餅一つだけにしたお雑煮は、お腹の持ちもよく、摂取カロリーも低くなるので、逆にヘルシーな料理なのだ。正月太りは、餅を3つも4つも食べたり、「ながら食い」をしなければ、防げるのである。餅よりもむしろ危ないのは「いなり寿司」。1個が124kcalだが、だいたい3~4つ平気でつまんでしまうので、これが「でぶの素」になる危険が高い。正月のご馳走は、気をつけて食べましょう^^
2009年12月30日
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この数日、お誕生日会を延々とやっていた。歳をとると、誕生日が来るのが嫌になるというけれど、近年は誕生日にたくさん「おめでとう」メールをいただいたり、誕生日にかこつけてみんなでワイワイ騒いでもらえるのが嬉しくて、なんだかとても楽しみなのである。本当は「おめでとう」と声をかけてもらうだけで十分なのに、今年は、プレゼントもたくさんいただいた。分不相応なほどのもてなして受けて、胸が一杯になった。もう売っていない、幻の「蝶々のワイン」。1999年ヴィンテージのドンペリ。他にもきれいな花束や、普段の私の不養生を気遣ってくれる小物をたくさんいただいて、家に帰る頃には両手で抱えきれないほどになって帰宅した。自分の想像をはるかに越えたものをいろいろいただいて、泣きそうになるのをぐっとこらえて、ありがとうを言うのが精一杯だった。おまけに手持ち株も(一瞬ですが)ものすごい評価益が出て、幸せです(^^)でも、本当に一番嬉しいのは、いいお友達に温かい言葉をもらうのがことですよね^^<お酒メモ>月曜日黒龍 火いら寿 2合裏雅山流 半合火曜日キュヴェ ドンペリニヨン 1999年 グラスで2つソアベクラシコ グラスで3つディアブロ グラスで2つ黒龍八十八号 3合くらいレザマン・デュ・シャトー・モンペラ グラスで2つ
2009年12月29日
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電力会社が強力に売り込んで徐々にシェアがアップしている「オール電化」。既にご存知だとは思うが「オール電化」は家庭内のコンロや暖房器具など、従来ガスを用いていたものを全て電気に変えようという試みだ。掃除がラク、火事の危険も減る、ということで、特にコンロについてはIH化が著しい。ただ、ちょっと心配なのはIHは電磁波が強力に出る点。コンロ周りは女性が立つことが(今現在)多いため、妊娠中の女性の場合、胎児に影響が出るという議論がある。そのためヨーロッパの一部地域では妊婦がIH器具を使うときに電磁波をシャットアウトする洋服(エプロン)を身に着けるようにしているところもある。電磁波と人間の身体への影響については、ここ10年以上専門家の間で侃侃諤々やっているが、一応「現在の使用の範囲では影響がない」ということになっている。しかし、人間には微弱な電磁波を関知する能力があるし、影響がないと言い切れるわけではない。音がしないのに、誰かがいるような気がして振り返ったら人がいた、あるいは壁の向こうに誰かがいて、それが誰なのか何となく察しが付くという経験はないだろうか?これは、身体が人間の体内に流れている微弱な磁力を関知する作用によるものだと言われている。IH器具の他にも、ホットカーペットなどもまた、身体に密着しやすい「電磁波を出す器具」である。「電磁波=妊娠関連に悪影響」と即座には言えないが、妊婦さんや妊娠を考えているご夫婦は、これら器具の使用の際は、ちょっと気をつけたほうがいいかもしれない。<お酒メモ>ヱビス 超長期熟成 コップで1つ高千穂 前割り コップ1/3くらい
2009年12月27日
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私事ですが、この1週間で5kg太りました(ーー;お腹が一杯でも忘年会に出るたびに、ついつい誰かから「呑むでしょ」「食べるでしょ」といわれて、皿を出されると全部食べられてしまう自分が恨めしい。だから今日はお酒のお誘いは「早めの1件」だけ請け、他の3つはお断りし、自炊をしている。そそくさと仕事を終えようとすると、会社の人がニヤニヤしながら「イヴだから予定があるのねー」と言われたが、そんなのはありません(ーー;サンタさんからのプレゼントはいらないから、腹の肉を持っていって欲しい!というのが正直なところである(^^;というわけで本日は玄米を炊いた。あとはおでん、ゆず白菜、梅じその海苔巻、緑茶というメニュー。ターキーもケーキもなし、である。「低カロリー食」が自分への一番のクリスマスプレゼントかな。やはり普段からこまめに自炊をして節制に努めないと、年だからすぐ身体の線が崩れますね。「気をつけないとなー」と気を引き締めなおしたイヴでした。<お酒メモ>ギネス 小瓶 1つSCAPA 14y そのままで1つアンカーエール クリスマスエール2009 今ひとくち呑んだところ。
2009年12月25日
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少し前に歌舞伎役者の市川海老蔵が、キャスターの小林麻央と交際、婚約したことが話題になった。数々の女優と浮名を流した市川海老蔵が、交際発覚後は、あちこちの会見場やテレビ収録でことごとくノロケまくっているが、このノロケかたといえば、プレイボーイと本当に呼ばれていたのかと思うくらい、激しい。海老蔵ファンは彼が「こんなにツンデレだったなんて」と驚くに違いない。そのノロケ語録の中で(運命の赤い糸が)「会った瞬間に見えました」や(麻央さんを)「見た瞬間に光ってた」というものがある。実にロマンチックな表現だと思うかもしれないが、個人的にはロマンチック云々よりも歌舞伎役者らしい発言だな、と感じる。能や歌舞伎は不思議な芸能文化で、「呼吸」で演じる芸術だといわれている。面をかぶってずっと同じ表情であるはずの能や、独自の隈どりを施して素の顔を隠し、へその下にある「臍下丹田」を意識しながら独自の発声法と節回しで喋る歌舞伎。これらは人間の表情や身振り手振り、あるいは「喋った内容」で判断するのではなく、役者の呼吸や、かすかな筋肉の動きから醸しされるす雰囲気で、その人の心の動きを悟り、理解して楽しむという“静的”な芸能なのである。海老蔵は普段から自分の芸事のキモである、これらのことを意識して人と付き合っていたからこういう発言が出てくるのではないか。海老蔵は多分ノロケというより、小林真央を見たときに本当にそう見えたんだろう。同じ呼吸のリズムで喋っている彼女を感覚的に好ましく思い、それがイメージとして赤い糸とやまぶしい光として感知されたのだと思う。彼はこれから(もっと)いい役者になるんじゃないのかな。<お酒メモ>日曜日生ビール グラス半分鳳凰美田 純米吟醸 1合
2009年12月21日
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先日友人が美味しそうな黄ゆずを持っていたので、ゆず大根の漬物を作って、さしあげたところ、そのお礼に大きなゆずをひとついただいた。というわけで今度は家でゆず白菜を作った。ゆずを刻むと柑橘系のさわやかな香りがする。舐めてみるとわかるように、ビタミンCやクエン酸が豊富な食べ物だ。酸度が高いので、ゆずを料理した後はゆずの持つ油と、柑橘類特有のピーリング効果で肌がすべすべになるのである。また、カロチンやカリウムも多く含まれている。カリウムは腎臓の老廃物を排出を促進させる効果があるので、忘年会などでたくさん食べる時期には、進んで摂取したほうがよいのだ^^
2009年12月11日
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誰かと話をしているときに、相手が何かを思い出そうと視線を動かした時、どこを見ているか観察してみると面白い。心理学的には●右を見ている...未来のことを含めて考えている。妄想も含む。●左を見ている...過去の記憶を反復している。だから、相手と話して「うーん」と視線だけ右や左にそれたとき、左を見てから話し始めたら、そこに出てくる話は過去の自身の経験則の可能性が大きいんだそうです^^
2009年12月07日
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厚生労働省の調べ(患者調査)て、うつ病になる人がここ10年で2.4倍に増え、100万人を超えた。患者調査によると、「うつ病が大半を占める「気分障害」の患者数は、1996年に43万3000人、99年は44万1000人とほぼ横ばいだったが、2002年調査から71万1000人と急増し、今回の08年調査では、104万1000人に達した」(読売新聞12月4日付)という。これは日本人の「気質」と関係があるのではないだろうか。先日、医大の教授に会ったときに、この「うつ」の話で盛り上がった。その教授曰く「日本人はもともと『うつ』気質」だという。実際、人工的に「不安」を与えてその反応を見るという実験調査をしたところ、日本人はもともとの状態で「不安を強く感じる」という部分が中央値になるという(世界的には中央値は「普通」のところに位置するらしい)。また、日本人の場合、20代以下の若い人のほうが、その中央値がさらに右(=右に行くほど不安をもともと強く感じる)という結果が出たそうだ。もしうつが「心の病気」なら、もともと日本人は国際平均に比べて「心の病気になる素養を抱えているきらいの強い」民族なわけだ。つまりある程度「病気っぽい」ことがニュートラルなのだから、国際的な尺度から見て右に傾いている(=不安を感じて身体に影響が出やすい)としても、すぐに「抗うつ薬」を頓服させる必要はないのでは、と思う。日本は「他人のことが気になる」「どう思われているかを気にする」「空気を読む」「察する」…環境要因として相手のことを慮って行動するという気質が強いお国柄である。つまり、環境要因でうつになる可能性も高いわけだ。だから(環境要因でなった)軽度のうつで薬物を投与すると、かえってその人自身をおかしくさせてしまう危険が強いのではないか、とすら思う。もともと「うつ」の薬は先天的な脳の作用で苦しんでいる人に与えるためもので、環境でなった「うつ」は環境を変えることで治したほうがいい、と主張するお医者さんもいる。「私『うつ』かも」と思ったときに、それがストレスや環境要因によるものなら、「日本人の多くは『軽度のうつ』みたいなものなのだから、自分もなって当たり前」くらいに思ったほうがいいのかもしれない。そう楽観的に考え、すぐに医者にかからずにいたほうが、案外健やかに暮らせるのかもしれない。<お酒メモ>ボジョレー 2007年のものを2種類試飲。計グラス半分くらい
2009年12月05日
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仕事がきっかけで、いつの間にか仕事以外の日常のことをメールでやり取りするようになった人がいる。たまに2日か3日、やりとりをしないでいると、ずいぶん話をしてなかった気がするのだ。海の向こうに住んでいるその人は、運用関係の仕事をしていた。ひと目あったときから「この人はセンスがいいな」と思った。立っている姿を始めてみたとき、体軸がしっかりしているのに、他の部分からは力が抜けていたからだ。武術も運用もそうだけれど、身のこなしがちゃんとしている人は、そういう凄みが身体から感じられるし、仕事のできる人が多い。私は信じた人の話は「ちゃんと」聞く。寸分漏らさず聞く。けれど、相手がしゃべる声だったり、話すことに「乱れ」があったときは、自分の中でチェックを入れておく。心変わりして「信じられない人」になってしまったとか、嘘をついている可能性があるからだ。海の向こうの人のことを私は信頼しているから、いつもちゃんと話を聞くようにしている。ところでその人に先日、「体調を崩した」とメールしたら「小刻みに病気になるのはいいことだ」といわれた。曰く、「小刻みに病気になることで、からだは歪みとか疲れを取る。もしこういう小刻みの休み(病気)がなかったら、将来、ガンとかぎっくり腰とかもっと大きな形で反動が襲ってくると自分は師匠に習った」という。だから私の生活スタイルを知って、よく「ずっと」元気でやっていられるなあ、と感心されてしまったのだ。でも、喜べない。裏返せば「君は気をつけないと危ないよ」と言われているからだ。ここ数日、夢でも仕事をしていて、心臓がどきどきしている。綱渡りでスケジューリングをし、チェックをしている自分。寝ても醒めても同じことをしている。どこかで休まねば、と思っているけれど、身体がついてきてくれるからついつい動いてしまう。赤い靴を履き、踊りがやめられなくなった「赤い靴の女の子」のことが頭をもたげてくる。足元を見るのが怖い、今日この頃である。<お酒メモ>刈穂 お燗 1合山本 生原酒 1合秋鹿 無濾過生原酒純米大吟醸 1合
2009年12月04日
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時刻変わって12月になりました。実は昨晩から関節が痛み、食欲がなく、猛烈に眠いという状態が続いています。多分ちょっと熱があるなーと思って、昨晩寝る前に検温したら38度ありました。本日はお寺で坐禅する予定でしたが、さすがに無茶はいけないなと思ったので欠席。でも普通に働いているので、自分でもちょっと不思議でした(顔は真っ白だけど)。師走なので、休みたくても休めないのです。先日の呑み会で「後ろにいるぞー」といわれた武士さんがいなくなって、体調を崩したのでしょうか。というのは冗談ですが、頭がぼうっとして、ものがよく考えられないので今晩は早めに寝ます。月末にメモを載せている株式パフォーマンスですが、11月の分は元気になったら掲載します。基本的には保有銘柄で下落したものを買い増ししていたので、多分年初来+10%前後まで下がった感じです。ただ、先日友人から「お前のブログは投資ばかり書いているわけじゃない。月末に書いているあれは何だ?」と不評コメントをいただいたので、来年は毎月末に株式のメモを載せるのは止めるかもしれません。ただ、もともと株式メモは自分のための記録なので(=ないのは正直自分が困るので)日記と併記して書こうかなと、考えている最中です。みなさまもどうかご自愛ください!
2009年12月01日
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昨日は友人の忘年会にお邪魔した。いつものように大量に呑んで騒いでいたのだが、そこに来ていたゲストさんに「肩こってませんか?」と突然言われた。ちなみにネット界では経済分野で有名な人だという。私は初対面であった。その人が指摘するように確かに最近原因不明の肩こりに悩まされていた。人間は背中の張りを放置しておくと、次第に波紋のように広がってこっていくことが多い。これが私の場合、腰だけでなく、肩や首、しまいは目にまでくるようになり、視界もかすみがちだった。なので、「ええ、そうなんですよ、特に最近ひどくて」と返答すると、突然その人が言った。「そりゃそうですよ。だって4人だもん」予想もしない返答に目が点になった。何が4人なのかな?と思ったら「武士が4人、あなたの後ろに『あなたが心配だ』って憑いてるから重いんですよ。悪い人たちじゃないんですが、とりましょうか?」酒が入っていたし、驚くよりはそのまま話を進めてみようと思って「はい」と答えると、その人はテーブルにあった塩を突然手のひらにのせて、こちらの肩にパーッと投げてきた。そして右肩を「すっ」と一度撫でた。「はい、これでお終い。3人いなくなりました。寂しかったら3人を戻しましょうか?」信じる信じないはともかくとして、仮に後ろにそういう人たちがいたとして、その人たちはその人たちなりの仕事があるはずだ。ご心配戴いて後ろに居ていただくのは忍びないと思い、「いや、いいです」と返答をして、しばらくの後、忘年会は終わった。祓った人は経済分野の人なのに、思ってみなかったことをしてもらって、さすがにぽかんとしてしまった。そうして普通に帰宅し、いつものように寝て起きたのだが、朝起きると肩が軽い。「??」筋肉がほぐれているのである。お化けとか霊云々の存在の有無についての話は別として、「不思議だなぁ」とただ驚くばかり。仮にだが、そういうのがあるとして、たくさん背負っていると、物理的に肩が重くなるのはなんとも面白い現象だな、と思った。<お酒メモ>生ビール グラスで1つ瓶ビール コップで2つ紹興酒 あたためて 1本くらいベルギービール 3種、計1.5Lくらい
2009年11月29日
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仕事がクラッシュ中で、少し凹んでいる。いつもはトラブルがあっても「負けてなるものか」と気合を入れて頑張るのだが、今回は久しぶりに気が弱っている。数カ月前にも気の弱る事態があって、ブログに弱音を書いたから、「お前が弱るのはしょっちゅうじゃないか」と思われるかもしれないが、今年はトラブルが多いといえば多い年なのだ。私が弱るときのたいていの原因は「信頼関係の崩壊」である。嘘をつかれたり、疑われたり…そういうのは哀しいかな、相手の表情とか、メールの使っているフォントや語彙だとか、そういうちょっとしたもので気づく。それに知らん振りをして、軌道修正しようと思っても、最近の案件は修正が難しくて腐心している。もっと自分の時間を仕事に費やせば回避できるのかな、と思うのだが、ずいぶん自分のための時間は削ってきた。心は、ここ数年でずいぶん痩せた、と思う。どこかで充電しなきゃいけないな。。
2009年11月13日
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現在、プレゼンの草稿を練っている。愛鳥は籠から出て、ノートPCの上で遊んでいるのですが、時々英語の発音をチェックしていると、反応して「ひよ、ひよ」と鳴くのが愛らしいです^^だが、なぜか“hegemony”と発音するときだけ、ジャンプする。なぜだろう。。なごみのひとときです。
2009年11月04日
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「ウツボ食べます?珍味ですよ」と言われて「はい」と即答した私。瞬く間に解体されてしまった。釣り上げられても「なんだ、ウツボか」と言われ、すぐ海に返されてしまう海のギャングである。そのグロデスクな躯体と獰猛さから、釣りをする人の間では嫌われているが、そのお味は意外と「美味」だという。捌いてくれた大将の手つきもさることながら、おろしたその身の美しさは素晴らしいとしかいいようがない。ほのかにピンクの身はコラーゲンたっぷりで、尾の方の細かい骨さえ嫌がらなければ、非常に美味だという。ということで、早速「から揚げ」を食べてみる。アナゴよりも目の細かい、繊細なやわらかさを持つ身は、はかない桜の花びらのようで、その色に違わず上品な味わいだ。東京の人は「ウツボ」を好んで食べるという。もの珍しさもあるのだろうが、外側の「見た目」と裏腹な身の美しさや味に惹かれて注文するリピーターも多いのだろう。もみじおろしやポン酢でいただくスタイルはふぐと同じ。鍋でも美味しいそうである。骨をとるのに手間がかかるため、腕利きの料理人じゃないとなかなか出してもらえないが故に「珍味」になっているようだ。値段はそう高くないそうなので、見かけたときにはオーダーしてみてもいいかもしれない^^
2009年10月27日
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よっぽどの大食いでなければ、というより結構大食いの私ですら手を焼く3大料理が・カレー(またはシチュー)・鍋もの・おでんである。これらはいずれも、連続で食べると「口が飽きる」代物。カレーは入れる野菜を替えたり、合わせるものをごはん/うどん/パンなどにしていけばどうにかなる。鍋は野菜中心にして、最初は塩味→醤油→味噌系にしていけば、これもどうにかなる。でも、おでんはなかなかそうも行かない。冬になればどうしても食べたくなるが、なにせ材料が多くて2~3日程度では食べきれない。試行錯誤した結果、以下のように工夫すると、量が少なくてもおいしいおでんを作れることがわかった。今日作った「ひとりおでん」。作るときに工夫するのは次の5点である。●小さい鍋で作る一番おすすめなのは」(A)直径15cm前後の「片手鍋」や「雪平鍋」。それでなければ、(B)自宅でカレーを作るような中サイズの鍋でOK。●鍋に入る量で作るよう材料を切る/買い揃える(A)の鍋の場合は鍋ひたひたくらいまで好きな食材+だし+水を入れる。(B)は食材+だし+水が「鍋の半分まで」を目安にする。こうすると作りすぎない。●おでん種はバラエティパックを利用する少人数で食べる単位の「おでん種まとめパック」は、ちくわやすじなど、たいてい6~8種類くらいのものが入っていて、300円程度で売っている。1パック「1人前」と書いてあっても、自分で大根や人参を加えればだいたい「2食分」に膨らむので、「少ないな」と思う程度の量で充分である。●野菜を切るときは「食べたい量の半分」「サイズも食べたい大きさの半分」に作るときはお腹が空いているのでついつい多く食材を用意しがち。だが、おでん種は腹に溜まるので、野菜は欲しい量の半分の量でだいたい丁度良くなる。大根を例に取ると、輪切りで厚さ2センチのを4つくらい入れたいな、と思ったらその半分の2つにする。そして輪切りではなく半月切りにする。こうすると火が通りやすいし、味が染みやすくなる。●はんぺんや巾着などは毎回「食べる直前」に入れるおでん種はやわらかい練り製品が多いが、特に上に掲げたようなものは、煮込むと延びて美味しくなくなる。そこでベースとなる野菜や昆布をまずだしで煮込み、やわらかい「種」は、毎回食べる直前に鍋に入れて「あたためるだけ」の感覚で入れてやると美味しく食べられる。といってもわかりづらいかもしれないので、以下、「ひとりおでん」2食分の分量(小さい鍋に丁度入るサイズ)である。参考までにどうぞ。<分量>大根 厚さ2cmの半月切り 4個人参 2/3本を厚さ2cmの半月切りに 8個じゃがいも 1個を半分に割り1/2サイズに→2個ゆで卵 2つこんにゃく 1/2枚をお好みに切る。小さいのなら1枚でOKおでん種セット 1つ。市販の一番安いのでOK。300円前後で買える。 昆布 3cm×10cmを4等分にする。※昆布はお湯が沸騰するまで野菜と一緒に煮て、煮立ったところで箸でつまみ、結ぶ。※だしは昆布からとったもの+白だし+塩+酒でOKです。
2009年10月23日
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今日は久々にロックのコンサートへ。大好きなサンプラザ中野くんの歌を聴きに行ったのである。小学生の頃、お年玉でようやくCDアルバム1~2枚を買う。そんな財力しかない私が選びに選んで買った邦楽曲は松任谷(荒井)由実と爆風スランプ、あと工藤静香くらいだった。中学に行くと洋楽にハマってしまって、カーペンターズのような品行方性なもののほかは、フィル・コリンズ(ジェネシス)とか、ロクセット、エリック・クラプトン、あとマイケル・ジャクソンやジャクソン5なんかを聴いていたから、同級生とはあんまり話が合わなかったことを覚えている。それでも、洋楽の合間に松任谷由実と爆風スランプはよく聴いていた。サンプラザ中野くんは文芸誌で小説を発表したりしていて、その作品がまた面白くて、本も買ったくらい彼の頭の中に興味があった。当時の爆風スランプはヒット曲もたくさんあって人気だったけれど、その秘密はメロディーラインのシンプルさにあると思う。ドレミファソラシドのうち、いくつかの音だけでサビをつくったり、コード進行が非常に素直だった。なのに、音楽に喜怒哀楽とエネルギーがものすごくあって、聴くたびにドキドキした。ここ数年で何回かサンプラザさんのライブとかに行っているのだけれど、いつもステージで立っているサンプラザさんの声を聴くと、以前よりも声も伸びているし、表現力が増した気がして、聴くたびに胸がいっぱいになる。前に本人から直接聴いたことがあるのだけれど、ヒット曲が出た後でも、歌をちゃんと歌うようになりたいということで、ボイストレーニングに通っていたという。確かに昔のCDの音よりも、いい声で歌っているのである。体重も落として、健康維持に気を遣うことで、よい声がでるようになったのではないかと思う。ところで、鈴木宗男さんの政治献金パーティではたいてい松山千春さんが前説で話をし、そのあと一曲歌うことがある。千春さんは喋りの上手さもさることながら、ヒット曲もたくさんある。声も朗々としている。だけれど、今日サンプラザさんの歌を聴いて思ったのは「あ、千春さんよりもやっぱりイイ」ということである。50近くになって歌が上手くなるというのはなかなか難しいことらしいのだが、どうも年々進化しているように思えてならないのだ。日々、細かい積み重ねをしていく人が、こうして「進化の継続」をするんだろうな。曲を聴いてそんなことをぼんやりと考えた。私も頑張らなきゃなー。※今日はライブ会場の音響で変な動悸が起こったので、酒はお休みです(^^;
2009年10月22日
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先日、シンクの下からごそごそと蒸し鍋を出して以来、好んで蒸し料理を作っている。もともといろんなものを蒸して食べることが好きだったのだが、蒸し鍋が結構大きいため、いちいち出してしまうのが億劫だと思い、しばらく蒸し料理をしていなかった。煮る・焼くといった調理法に比べ、ビタミンその他の栄養素が残りやすい蒸し料理は、やれるんだったら普段の料理にたびたび取り入れたかった。油を使わず料理ができるので、カロリーも少なめに抑えられる。最近ちょっと油断すると太る私にとってはまさに「一石二鳥」なのだ。このところ野菜や茸も安いので、いろんな蒸し料理をやっている。以下はその一例。●鶏肉+白菜+もやし+しめじ+その他の野菜→鍋料理の延長で入れる食材の組み合わせを考える●豚肉+キャベツ+トマト+その他の野菜→軽くコンソメと塩を振って、洋風の蒸し物に●白身魚(または鮭)+生姜スライス→蒸し魚をして、茗荷やねぎをのせ、梅ソースやポン酢でいただく。ハーブと一緒に魚を蒸せば、洋風仕上げに●手作り、または市販のシューマイや餃子、肉まんなど→いくつかをいっぺんに蒸すことで飲茶数品ができる。鍋の空きスペースにレタスや白菜、海老などをおけば、飲茶のサイドメニュー(海老とクラゲ入りのサラダとか)の下ごしらえをひと手間省ける●さつまいも、とうもろこし→暇なときに蒸かしておいて、小腹がすいたときのおやつに蒸す食材さえ替えれば、いろいろなバリエーションが考えられるので飽きも来ない。肉、魚、野菜のみ…需要に応じていろいろ味も見た目も変えられるので、しばらくは蒸し鍋を使い込もうと思う。<お知らせ>今週土曜日18時より開始予定の「ギネスの会」ですが、参加者の方に明日「当日の会場の住所、待ち合わせ場所」を一斉にメールしますので、宜しくお願いします。ちなみに、会場のスペースの都合もあるのですが、あと1~2人でしたらなんとか入れそうなので、まだ参加しようか迷っている人がいたらご相談ください。参加費は当初予定の7500円より安くなる見込みです。
2009年10月13日
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初対面でいきなり「僕、アル中だから」と言われて、昼間から酒。その呑みっぷりが気に入って、本日、プライベートで一緒に酒を呑みにいった。ネット系のお仕事をしているその人は、ネット社会の夢も、オプティミズムも語らなかった。「ブログをやるやつらはバカだ」とか「twitterなんていいメディアだと思わない」と、“ネットリテラシー”のある人から半ばもの言いがつきそうなことを言っていた。でも、私は腹はたたなかったし、その人がなぜそう思うのかを聴いて逆に「なるほどな」とも思った。聴いていて思ったのは、その人は「偶発的にブログを書き始める」「書きたいから書く」ではなく、ブログを介して「自分を大きく見せる」「意図的にネットワークを作る」「匿名で悪口を書き、リスクを負わずに憎い相手を潰す」と言った使い方をするネットユーザーについて「バカ」だとか「嫌い」だといっているのではないかということだ。そうではないかと思ったときに「もしかしたらそれは自分の思い違いかもしれない、相手を怒らせるかもしれない。でもいいや」と考えながらもいった。「貴方のいうことはもっともだと思うけれど、そんな私は、もうほぼ5年間、毎日ブログを書いているんですよ」と言った。そして、「たまたま楽天でお買い物をするときにアカウントがついていて、ブログサービスがついていた。そのアクセスカウンターが何も書いていないのに勝手に回っていて『何も書かなくてすまないな』と思い、はじめたんですが」と説明した。「それはいいんだけれど」とその人は言った。そのときに、彼が憎んでいるのは、インターネットを以下のような意図で用いているのだと思った。・本名を知らせず、ハンドルネームや匿名で好き勝手、相手が傷つけるために書き込みをする・リアルで同じようなコミュニケーションをとったら相手が怒るのが目に見えているのに確信犯的にそれをやる・見えないことをいいことに、自己像を肥大化させて語るそして、彼がインターネットという道具を愛しているが故に「それをムダに使う人間が多く、だから許せない」という思想を持っていることに気が付いた。マザー・テレサは「愛の反対は無関心である」といったが、まことに「愛と憎しみは表裏一体」で、そして「愛の反対は無関心である」と心底感じたのだった。<お酒メモ>生ビール 中ジョッキで3つ紹興酒 あたためて 4合
2009年10月09日
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「そういえば××さんって会ったことあるんですか?」と、不意にとある人に尋ねた。「うん、あるよ。彼はつきあってた彼女に自殺されてねー」と、いう話を切り出されて、私は思わず素になっていた。ソンナ、タイヘンナコトヲ、イキナリイウモンジャナイヨ。シタシクナイヒトニ、イッチャダメジャナイカ。人生経験の割に、私は「恋人に自殺された」とか「自殺されそうになった」とかという話をよくきく。それは「私(俺)、死んでやるからな!!!」というケンカの延長線上の「脅し」じゃなくて、本当に肉体的に自身を傷つけたり、未遂だったりという話なのである。部屋に入ったら「首を吊っていた」のを間近に見てしまった、というのも、なぜか数回聴いたことがあって。正直、「よくある話」なのか、私がたまたま「よくぶち当たる話」なのかの見当がつかない。でも、そういう話は、自殺しようとした当事者とか、自殺した、あるいはしそうになった人物の親しい人から聞くのが普通であって、それを興味本位で、噂レベルのように話すのははっきり言ってよくないと思う。雅も、かつて付き合ったオトコを(自殺じゃないけれど不慮の事由で)亡くしたことがある。亡くしたときにはしばらく立ちすくんで、しばらくの間ずっと嗚咽していた。頭なんか狂ってしまえ、自分も死んじゃえばいいと思った。そのときはまだ若かったこともあり、持っていた現金を全部おろして、彼の棺に納めようとして、親に殴られた。こうやってブログに書くのも、他人に言うことも、泣かないで普通に言えるまでに片手じゃ足りないくらいの年数を必要とした。よっぽど大切な間柄じゃないと、『事件』から10年も経たずにそんなことを言うのは、なかなかできるもんじゃない、なんて思う。だから、冒頭の「彼女を亡くした人」は、そういう過去があったことを語った相手を信頼して話をしたんじゃないかと思ったけれど、それを聴いた相手は、その人にとってそういうことを聞くに足る関係じゃなかったのかもしれない。「他人に面白おかしく語られるのは審美眼がないからで(彼女を亡くしたことを話した人自身が)悪いんだ」といわれて終わり、なのかもしれないけれど、何だかそれを聞いて、自分のことのようにひどくつらくなってしまったのであった。<お酒メモ>火曜日ローズエール 生1パイントサントリープレミアムモルツ生&ブラックのハーフ&ハーフ 2パイント
2009年10月06日
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日本の食文化に欠かせない「みりん」。和食の料理には欠かせない琥珀色の液体は、砂糖の甘さを持ちながら、上品な味わいに仕上げる魔法の調味料である。特に本みりんは江戸時代、甘いお酒としても飲用されていた。数年寝かせてやっとできるみりんは、そのままで呑むのは「ぜいたく」であった。そこで庶民の間ではみりんを焼酎で割って呑んだという。「呑んでよし、料理にもよし」の万能選手であるみりん。しかしその消費量は平成12年をピークに約2割超減少している(平成12年13.8万L、平成18年10.5万L)。酒類販売免許をもたないところでのみりん風調味料の販売が増えた上、みりん全体の消費量も落ちてきているからだ。調味料の「さしすせそ」から外れるみりんは、若い人ほど「使い方がよくわからない」割合が多いのが現状である。それに追い討ちをかけようとしているのが「酒税法改正」だ。民主党は「健康増進のため、アルコール度数に応じて酒税を段階的にかける」というけれど、料理酒(アルコール度数16%前後)やみりん(同14%前後)にもこれはかかってくる。そうすると、みりんも「なんちゃって」のみりん風と、本物のみりんとの価格差はこれまで以上に激しくなるわけだ。もともとみりんには酒税がかけられているが、その度数からして値上げは「必須」だろう。現在、日本人の食卓はかなり欧風化している。だからこそ「食育」が叫ばれて等しいのに、日本の発酵・醸造文化の代表選手のひとつであるみりんの「値上げ」は非常に残念である。みりんの消費量が落ち、造り手が減っている中、豊かな食文化の担い手である醸造所をいじめるような施策は、よく考えてほしいと思う。また、低価格で人気のうどんだって、つゆには「みりん」が欠かせない。てりやきバーガーにも「みりん」は必須だ。みりんの値上げは、これら「日本発ファストフード」の原材料費値上げにもかかわってくる問題だ。せめて調味料として使うものの酒税だけは現状維持、もしくは例外とならないものか。アルコールは「飲用」だけではないのだ。
2009年10月05日
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ここ数日、昼夜を問わず、良く呑んでいる。取引先との顔合わせで(先方の希望で)、昼からワインやらビールやらをたしなむことは時々あるのだが、それがたまたまだとしても、数日続くのは珍しい。睡眠時間を削って酒を呑み、移動、そしてまた酒。でも仕事の酒だから泥酔できない、なんてことを続けている時には、酒で失われるビタミンBや不足しがちになるC、それに整腸作用を促すサプリメントをとると、割と悪酔いしないし、肌のあれのスピードも鈍くなる。「ウコンの力はどうなのか?」というアドバイスが飛んできそうだが、あれは酔いのリカバリーを早めたり、酔いづらくなるためのドリンクなので、身体そのものの修復を助けてくれるものではないような気がする。なので、雅はビタミン系サプリを主に摂取して、身体の維持に努めている。というわけで、本日も酒を呑みながら移動中。現在は伊豆に到着しております^^<お酒メモ>1日木曜日1軒目アサヒスーパードライ 大瓶 1/2本2軒目SCAPA 12y そのままで1つキルレラン そのままで1つ ※5年前にできた醸造所。おいしくなる予感。3軒目すだち生ビール 中ジョッキ1つ コロナみたいな味だと言われたが、若干酸味足りず。4軒目サントリープレミアムモルツ 缶 350ml 1つ2日金曜日ひるFlying Fish 赤(ピンクのラベルのほう) 1/2本ストラスアイラ 12y そのままで2つ半初亀 ひやおろし 特別本醸造 半合鳳凰美田 ひやおろし 純米吟醸 1合
2009年10月02日
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たくさん酒を呑むし、食欲も人並以上にある私。「もうやめなさい」と他人に言われても、未だにラーメン+ライス+餃子がやめられないし、22時過ぎから酒を呑み、締めにカレーを注文したりする。これで日に何軒か得意先周りをしていれば太りはしないのだが、デスクワークを集中的にしているときや、得意先の人が来社することが積み重なると、途端に体重が増えてしまう。3日で+4kgというのも「よくあること」なのだ(汗)先日もそんなわけで、体重が過去最高値まで行ってしまったので、少しずつダイエットをしている。基本的には「プチダイエット中」は●低いカロリーの食事をおなか一杯食べる●22時以降になるべく食べない(酒はOK。ただし、お腹が空いたら我慢しないで何かをすぐ口にする。それ以降は食べない)●寝る前のストレッチ&腹筋(30回)をサボらないということを心がけるだけである。これで3日で2kg程度は痩せる。よく、「深夜に食べちゃダメ」とダイエットの本に書いてあるけれど、経験則では「お腹が空いたらなるべく早くちょこっとだけ食べる」のが一番良い。だんだんお腹が空きすぎて、結局25時とか26時なんていう真夜中に根負けして食べることになれば、そちらのほうが身体に悪いからだ。消化も悪いから結果的に太る。だから私は24時前だったらちょっとの空腹を感じたらすぐに軽食を摂る。今日も夕飯を食べた後にお腹がすいたので、23時半にりんご1/2個にプレーンヨーグルトをかけて食べているし、そのあとに先日いただいた小さいビーフジャーキーを何枚か食べた。あとは、テレビを点けているときにはCMの度に腹筋をするようにしている。だいたい番組のCMは15秒×6本ないし8本程度だから、この1分~1分半で腹筋を20回くらいやっている。今は番組改変期で特番やビッグタイトルの映画放映も多いだろうから、一つの番組を見終える頃には(やろうと思えば)100回近く腹筋ができている計算になる。増えた4kgを減らすにはこういう「小さな心がけ」を1週間くらいやればOKである。世の中には炭水化物ダイエットをはじめ、にがり、白湯ダイエットなどさまざまなダイエット法があるけれど、普段の生活から少しだけ「引き算」して体重を落としていったほうが、身体への負担もストレスも少ないのではないかと考えている。あとは●階段を下りのときだけ使う(昇りはエスカレータやエレベーターでOK。下りで使う筋肉はエネルギー消費量が大きく、代謝がUPする)●昇りエスカレーターでは歩く側に並んで少しだけ足を使うようにする●タクシーや車を使わず、なるべく交通機関や自転車で移動する●飲みものはお茶か水。できれば「温かいもの」をなるべく摂取して代謝をよくするなんてことをするだけでも随分変わると思う。小さな積み重ねの方が長続きするし、イライラせずに綺麗に痩せられる、というのが持論です^^
2009年09月28日
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メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。 メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。 その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、 「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。 すると漁師は 「そんなに長い時間じゃないよ」 と答えた。旅行者が 「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」 と言うと、 漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。 「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」 と旅行者が聞くと、漁師は、 「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、 女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、 歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」 すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。 「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、 きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、 漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。 お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。 その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。 そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。 自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。 その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、 ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。 きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」 漁師は尋ねた。 「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」 「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」 「それからどうなるの」 「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」 と旅行者はにんまりと笑い、 「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」 「それで?」 「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、 日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、 子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、 歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」 ――作者不詳/ネットに落ちていた小噺夕暮れの港の堤防。まばらに釣りを楽しむ人たちがいた。邪魔にならないように少し距離をとって座り込んで、海を眺めていた。そのうち、小さい女の子がしましまのきれいな鯛を釣り上げた。「これ、なんの魚?」女の子のお父さんは「うーん」と唸っている。「タカノハダイだよ。塩焼きにすると美味しいんだ。ずいぶん立派なの、釣ったね」隣にいた友人が声をかける。釣りを楽しんでいた家族の顔がぱぁっと明るくなる。しばらくして友人は、紙袋に入っていた「百年の孤独」の封を切り、ボトルのキャップに注ぎ、くいっと呑む。その様子がとても満足げで、思わず言った。「私も一杯、呑みたいな」「くっ」と呑んだ後、寝転がって空を見上げる。まだほのかに温かいコンクリートが気持ちいい。もう足は海に投げ出してしまった。曇天の向こうに、かすかにオレンジと紫色が交じり合った空が見える。頬に心地よい風が当たり、いろんなことがどうでもよくなった。幸せだった。しばらくお互いになにも喋らなかった。ただ海の音と、風の音と、海鳥の声を聴いていた。漁火が灯った。暗闇の面積が増えるに従って、ぽつぽつと少しずつ、その数が増えていく。おもむろに友人が「漁師とホワイトカラーの小噺」を引き合いに出しながら、人間の営みって何なのかな、と口をひらいた。美味しい食べ物と、自由な時間、インターネットがあればもう充分だよ、という意味合いのことを友人は言ったけれど、私は黙っていた。もっと少なくても幸せを感じることはできるし、むしろもうちょっと欲しいものを減らしたほうが幸せになれるんじゃないかと思った。常に開いたり、充足できる環境、ネットなど最小限の力で大きなことができる道具。そういうものに普段身をやつしたり使いこなすことを私の場合、奨励されているけれど、便利だと思う反面、どこかで心身のバランスが壊れていく気がすることがある。効率化されていること、常に自由でいること。快適を追求すること。それはある種、別の不自由さや依存を生み出しやしていないか。人が生活を営むには過剰な情報や物が生活に忍び込み、傲慢や嫉妬、必要以上の欲を作り出し、それに溺れていやしないか、なんてことを感じるのだ。だからこそ、合歓の木が夜、呼吸をするためにその葉を閉じるように、人間も自分の生活空間を閉じたり開いたりすることが一番幸せなんじゃないかな、って言おうとしたけれど、潮風が心地よすぎて言葉に出来なかった。こういう時間を過ごせただけでも、もう充分だった。そして、幸せというのは、遠くや未来にあるものではなくて、日常にある自然の中に落ちているもののような気がした。みんな、ただ忙しくて、普段下を向いたりよそ見をしたりしない。効率的に生きすぎていて傍にあるものが見えていないだけ、だから幸せ探しをするんだと思う。ありきたりのものこそ「幸せ」なのかもしれない。そういう風に何となく感じたとき、友人に「本当にありがとう」って心から思った。
2009年09月24日
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自分に関するネガティブ情報というのは、なかなか聴きたくないし、正直耳の痛い話である。皆にとって「いい人、優しい人」でありたいとは思うけれど、お仕事をしていると、プロダクトをよりよいものにするために、時には鬼にならなければいけないこともある。目先の厳しい要求やスケジュールだとしても、そうすることでたくさんの利益を得たり、評価されれば、何故私がそうしたのか理解していただけるのではないかと思っている。たとえ理解してもらえなかったとしても、(プロダクトが社会に評価されることで)相手がそれなりの報酬を得たり、社会的評価が向上すれうば、少しは心が和むだろうし、それはそれでよいのだと考えている。話がちょっと脱線してしまったが、基本、私は褒められるよりも、ネガティブ情報に出会ったときにはすごくありがたいなーと感じている。客観的に見て、自分がどう思われているかということを率直に知ることができるらだ。普通、人は面と向かってなかなか批判は言わない。言えないのだ。不満があったとしても、「嫌われたくない」とか、「摩擦を避けたい」と思ってセーブするからだ。よっぽど気心知れていて、相手のためを考えていなければ、直接批判などできないだろう。世の中に小さいことを大きく褒めたり、お世辞をいう人間は多々いるけれど、なかなかネガティブなことを勇気をもっていってくれる人は少ない。だからたまに「批判」に出会うと、一瞬心が苦しくなるけれど、数時間たてば「あー、嬉しいな」という気持ちだけが残る。そして、何が問題なのか、どう改めたらいいのかを考える。アリストテレスは著書『政治学』のなかで「人間はもともと『社会的動物』である」といっている。現代の政治学では、アリストテレスのこの意見を否定することが主流になっている。確かにア・プリオリ(≒同じ)というのはありえないが、共同体(ポリス)の中で生活し、そこで習慣や技術などを学ぶ以上、人間というのはやはり社会的動物(ポリティコン)なのだと思う。だから、共同体の中で評価された自分が、自分が思う自分と食い違ったとき、あるいは批判されているときには、素直に耳を傾けたほうがいいし、それを聴いて修正をかけるべきだと考えている。辛い作業かもしれないが、お互いが気持ちよく社会で生きていくためには必要なことなのだ。共同体の誰かが語る「わたしの姿」はきっと的はずれな意見ではない。そんな風に思っている。<お酒メモ>水曜日生ビール 中ジョッキ1つ白ワイン カリテラのシャルドネ グラスで1つ半お湯割(梅干入) 黒白波(芋)&麦焼酎 1つずつ(計2つ)
2009年09月17日
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私はいつもいろんなところに飛び回っているイメージがあって、その通りいつもあちこちに顔を出したり、新しい人と会っているのだけれど。1週間とか2週間、せめて月に一度は、ぜひ会って話したいな、と思う仲間が何人かいる。それはサロンFUJIYAMAで会う人たちだったり、当日の夜21時くらいにこちらから突然電話をして「会えませんか」という人だったりする。そうやって自ら求める人たちとそうでない人の違いは、自分に何かを与えてくれる人か否か、の差異なんだと思う。別に何かを与えてくれるから会う、というわけではない。一緒に呑んでもワリカンで、時には奢り奢られ、の関係なのだけれど、話すことで、自分の精神の「ささくれ」を埋めてくれたり、当面のつらいことを一時忘れさせてくれたり、助けてくれる。だから何物にも替えがたいし、私にとっては金銭には決して替えられない。たまたま私の場合、両親が自分とはメンタリティや価値観の違う人たちだったため、ずっとその差異が埋められずに苦しんで、成人になった。ティーンエイジャーのときは、親はある程度絶対的な存在だし、そこから抜け出ることは難しかったのだけれど、今は距離ができて、理解してくれる血族以外のコミュニティができて、やっと居場所みたいなものができた気がする。それがある程度のスパンで会ってくれる人たちなのだ。私が好む人は、変に私にrole(役割)を求めない。お姉さんとか、お母さんとか、そういうポジションを求めない。端から見ると、そういうポジションに適性があると思って寄ってくる人が間々いるのだけれど、私は「ピエタ」のマリアじゃない。「時々はあなたを抱きしめるし、あなたに抱きしめられたいと思う」(※精神的に、です)そういうことがわかっている人の前では気楽でいられるし、でも、カミングアウトしてないのに、私の心の襞(ひだ)をどこかしら捉えてる。私の性格を知っているからあえてお母さんを求めたりしないのだ。だから「私のこと、本当によく知ってるんだな」と思う。そういう人には頭が上がらないし、ずっと大切にしたいと心に決めている。<お酒メモ>瓶ビール 小さいグラスで1つ樽平 2合
2009年09月11日
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「俺さ、癌から立ち直ったあとのスティーブ・ジョブスのスピーチ、その場で聞いてたんだ」と、久しぶりに会った懐かしい人が静かに話した。アップルの創業者であるジョブスのスピーチは、数あるなかでも非常に感動的だったということで、ネットでも高く評されている。ベタな感想が飛んでくるのかな、なんて思ったけれど、彼が言ったのは私が予想したことと大きく違った。「でも、彼が死について静かに語りだしたとき、聴衆はひいていた。そこにいた聴衆が持つ『アメリカ的』なメンタリティとは一線を画していたから。偏見かもしれないけれど、死を理解するのはアメリカ人にとって難しい作業だと思う。日本人は比較的、このニュアンスってわかると思うんだ」死について語った“DIAGNOSED WITH CANCER(PART 6)”の部分は、こんな訳になっている。(先ほどのリンクから途中引用) 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。(引用終わり)ジョブスの話をしだした彼は、アフガニスタンの山で登山中に滑落して死にかけた経験があった。その後、倒れていたところを地元の人間に発見され、運よく助かった。そのときに自分がどう生きたいのかが見えたという。そして彼は進路を変えた。そして研究を重ね、ジョブスがスピーチをした大学で教鞭をとるまでになった。「俺は日本人じゃないけれど、ジョブスが言った死のニュアンスって経験したからよくわかる。雅も死にかけているからわかるだろ?」と、彼は続けて言った。「うん、わかると思う。『死』って終わりじゃなくて、『解放』なんだよね。時々死を意識するときは少し物寂しくなるけれど、怖いものじゃない。でも必ず訪れるものだから、それまでに自分がやりたいことは何なのか、そのためには何が必要なのか。それを考えて『準備』して、階段を上るだけ。それだけだと思うよ。でもそれができているときは、ものすごい幸福を感じるんだよ」と私は答えた。彼は笑って「相変わらず雅はイマドキの日本人じゃないな。変な日本人だよ。変わってなくてよかった」といった。だから私も「あなたも変なガイジンだよ」と憎まれ口を叩きながら、楽しい夕餉の時間は過ぎていった。死を酒の肴にしながら話す、って傍から見たら奇妙なことなのかもしれない。でも、「死」は恐れるものではなくて、ひとつの区切りでしかない。そこまではどう生きるか、生き抜くために行動するか。それを考えて実行することが一番ハッピーな生き方だということをお互いになんとなく感じているから、多分心地よく話せたのではないかと思う。お互いの現在を確認して、そうして私たちは、別れた。
2009年08月30日
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人間の三欲は「食欲」「性欲」「睡眠欲」だといわれるが、私の場合「食欲」「酒欲」「睡眠欲」が基本である。けれども、生来の気質がたたってか、人と約束したことをほったらかしにできない。だからビジネスにおいても仕事人間になりがちなのである。忙しいときは「雅の三欲」もほったらかしにして仕事に没頭してしまう。この点、少しいい加減な人を「羨ましいな」と思うことがある。このところ休みナシ、1日18時間労働なんてことを続けていた。少し前から雅の三欲は、食欲→睡眠欲→酒欲の順に喪われていった。酒を呑まなくなったら雅的には「終わっている」状態なのだが、まさにそういうところまで行き着いたわけである。さすがにしばらく酒を呑んでおらず、身体の調子が悪くなったので昨日は久しぶりに呑んだ。フェイスが再び騰がったのでワインを1本抜き、☆猫が騰がったのでもう1本抜き・・・と、2時間もたたないうちにあっという間にぺろりと呑んでしまった(^^;おかげで、本日は調子がいいです^^(誰ですか、「アル中」って言ってる人は!>笑)<お酒メモ>月曜日小布施ブラン VDP白 1/2本Flying Fish 赤1/2本ボウモア グラスで2つ
2009年08月25日
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今日はサミュエル・バーバーの『弦楽のためのアダージョ』を繰り返し、繰り返し聴いている。『プラトーン』やJ・F・ケネディの葬儀で流れたこの曲は、鎮魂の調べに相応しい旋律で進行する。ラテン語の歌詞を載せたものは『アニュス・デイ(Agnus Dei・神の子羊)』というアンサンブル曲として親しまれているのもうなずける。私がこの曲を欲するときも、やはり自分の神経を静めたいときに聴くことが多い。仕事やプライベートで、いろんなことに振り回されて、自分の時間と心を喪いかけているときに聴くことが多いのだ。耳から入ってくる音は良いものも悪いものも「脳の栄養」になる。車のクラクション、電車の走る音、酔っ払いの騒ぎ声といったノイズも、喫茶店のBGM・・・人間は無意識にその音を拾い、脳が認識する。またそれぞれの音の周波数は身体に少なからず影響しているはずだ。普段の会話も同じである。ネガティブなニュースが多ければ、それだけ心が知らないうちに悩んだり、痛んだりするものだと思っている。仕事ではトラブルの処理に追われていて、このところ丸一日食事をとらない、とっても1食ということが続いていた。だから今日は点滴を打った。身体も心も疲弊しているときに欲した『弦楽のためのアダージョ』は私にとって心の点滴なのかもしれない。ところで、どうでもいい話なのだが、数年前に阪神×巨人を東京ドームで見たときに、ジャイアンツの久保投手が出てくるときにかかった曲が『弦楽のためのアダージョ』だった。悲壮感たっぷりな空気が球場を支配し、阪神ファンは阪神ファンで「すわ、巨人はついに諦めたのか」という気持ちになって、余計に盛り上がった。何であんな曲をチョイスしたのか、不思議だなぁと、今でも心に残っている。
2009年08月24日
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「がんばれよ」って、タクシー降り際に言われて、少し元気になった。言われるまで、自分が疲れていたことに、気がつかなかった。今日はいろんなお酒のお誘いがあったけれど、みんな断って仕事をする予定だった。で、みんな断りきった折に、2時間だけスケジュールが空いて、その時間に「呑まない?」と誘ってきた人と、「2時間限定ごはん」をしたのであった。その人が帰り際に言ったのが、冒頭の言葉だった。夜1時には寝て、朝4時には起きて動く、パワフルな人だ。タクシーで降りたのは、家ではなくて会社。誰もいないオフィスで、これからちょこちょことお仕事をする予定。終わりのない闘いを、不夜城でやる感じになりそうです。がんばります。<お酒メモ>白ワイン 2006年と2002年のフランス白ワインをちょこちょこと。 2/3本くらいマッカラン レジェンド そのままで1つカリラ 12Y そのままで2つ
2009年08月20日
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「吸い続けている人はやめられない理由をつくり過ぎなんですよね。だから、やめる方法を考えるんじゃなくて、やめない理由を自分の中で考えて、武装してるんですよ」和田アキ子さんが禁煙に成功したそうだ。そのときに言ったのが上記の言葉だったらしい。これはタバコだけでなく、全てのことに当てはまると思う。人は、自分の習慣を止めなければいけなくなったときに、「それを止めないもっともらしい理由」や、「自分のやっていることは正しいという理由」を考えがちである。心のどこかでは自分が間違っているかもしれないと思いつつ、そう指摘した相手から逃れるための算段をまず探すのだ。以前の私は多分にそういう部分があった。若かったし、負けず嫌いで意地っ張りだったからだ。だから、昔の私と同じような匂いのする人が、そういう態度をとっていると、「似たもの同士だな」と思う。最近は、自分に対して「異論」や「警告」をしてくれる人の話をよく聴くようになった。相変わらず知らん振りしたり意地をはるそぶりを見せることもあるけれど、家に持ち帰って、言ってくれた人の顔と言葉を何度も思い出して咀嚼するようにしている。どうしてそういう風になったかというと、あるときふと、気づいたからだ。「相手は私のことが心配だから注意をしてくれる」ことに。人間、嫌いな人には無視するだけで、悪い癖や欠点を指摘してくれない。だから注意されることは、それだけ周りに自分のことを心配してくれる人がいる証左だし、「幸せ」の証なのだ。
2009年08月08日
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「今日はサービスしちゃうよ~(はぁと)」「ぎぇぇぇぇ~」と叫ぶ私。今日は鍼を打ってもらった。前回は足一箇所だけだったのだが、本日は両足に手首に腕、首、最後は頭にまで。全身あわせて10カ所以上打たれた勘定。おかげでまだ頭がズキズキするし、身体もグッタリ。鍼を打つのは2回目だが、原因は2年以上下がらない慢性的な微熱の改善のためである。最近は疲労の蓄積もあるせいか37.5~38℃までに至ることもあり、こうなるともう動けない。毎日氷枕を当てて寝ることで、ヒートした頭を冷やしたり、ストレッチをしたりして、全身に血がめぐるように心がけているが、やっぱりそれでもなかなか改善しない。打ってくださった人にひとつ指摘されたのは「足がけっこうむくんでいる」ことだった。これは疲労による熱があることで、腎臓が弱っているサインなんだそうだ。不明熱熱は主に頭脳労働ばかりをしている人に表れるらしい。ましてやほとんど眠らずに疲れが溜まっている人は、上半身にばかりに血を送ろうとするため、上半身で微熱症状が出るものの、下半身が冷えてむくむ。脳は身体の血液の4割を通常使うが、頭脳労働をして身体を動かさないと、このバランスが崩れる。そうして頭ばかりに血が行きがちで、微熱が出がちになるそうだ。鍼師「どれくらい寝てるの?」雅「今週は朝4時か5時くらいまで仕事してます。朝は普通に9時10時には働いてます。それの繰り返し。酒も入れてる」鍼師「だからこんなにひどいんだ。寝なさい。強制的に眠るように打ってやる」おかげでものすごく眠い。「しばらく休みなさい。酒も身体も。なるべく横になって」鍼師のアドバイスが頭の中を駆け巡る。仕事が溜まっているんだけど、今日はもうこときれそう。吐き気もするけど、大丈夫かな。。。
2009年08月07日
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13:00「熱は大丈夫なの、元気なの?」15:00「その日程で予定空けておくね」16:00「鍼打ってやるよ、おいでよ」21:00「気にしないでいいんですよ」22:00「身体をいつも心配しています」目を瞑ると、今日会話をした人たちの声が聴こえる。みんなにいろいろ心配してもらってるし、気遣ってもらってるんだな、と思う。以前は割に合わない仕事をしていたり、精神的にきついことがあると「何で自分だけが」なんてひとりごちていたけれど、ここ数年はどんなに慌しくても「自分だけが大変な目に遭っている」なんて思わなくなった。周りにいる人の声が、ちゃんと聴こえるからだ。「自分だけがなぜ」と悲嘆に暮れていた遠い昔の私。その周りには、いろいろねぎらってくれてくれた人が何人もいたのだと思う。でも、自分のことばかり大切にして、自分のことばかり考えていたから、多分それが聴こえなかったのだと思う。昔よりも、自分のことを考えることが少なくなった。心にいた、肥大した「私」は年々縮んでいる。「私」に気持ちを割く割合が小さくなった分だけ、世の中に落ちている幸せをたくさん感じることが増えたし、幸せになれた気がする。
2009年08月04日
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最近よくコケる。一昨日は焼肉屋で3回コケて、昨日は2回。計5回、いずれも階段のところでやってしまった。最初コケたときは少しお酒を呑んでいたので、一緒にいた人に「酔っ払ったの?」と笑われてたのだけれど、お酒じゃないのは自覚していた。よくわからないのだが、ここ数日、平衡感覚がおかしいのが原因だと思う。眩暈がして視界が揺れたり、段差のところで、目測と実際の高低差が「ずれている」ことが多くて、うまく歩けないのだ。よく「24時間テレビ」で、難病患者を扱った闘病ドラマをやっているが、普段当たり前だった動作が巧くできなくなって、ということが病気の入り口だったりするので、少し怖い気持ちもある。とりあえず、さすがに5回もコケたせいで、足首を軽く捻挫してしまった。湿布も貼ったが、痛みで歩くのがままならないので、今日はタクシーで会社に行った。「財布も多少痛むが、仕方ない」と思って乗ったのだが、その運転手さん、道順をいくら言っても正しく走らないし、しまいには進入禁止のところを突っ込もうとして、どうも運転が危ない。「そこ、一方通行の出口だから入れませんよ」と指摘すると急ブレーキをかけられて、タクシーの助手席に捻挫部分をぶつけて、さらに足を痛めてしまった。あー裏目。こんなことも、あるんですね(ーー;
2009年08月01日
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人間は一見、周辺全ての音を耳で拾っていたとしても、聴きたいことしか聴いてない。同じように視界に入っている全てを見ているわけではなく、見たいものしか見ていない。その人の人生観や経験に裏打ちされたそれぞれの(偏った)フィルターを通して、知覚している存在なのではないかと思う。私は、常に誰かと話をするときには、心の中にカードを持っている。カードには、「仕事」とか「お酒」とか「株」「健康」「哲学」「話題のニュース」「政治」といった、その相手が興味を持つ話題がひとつひとつ書かれている。でも、最近、人と話をしているときに、話している相手が時折「人それぞれ違うから」というような言葉を発するときがある。このセリフが出ると私は心のカードをひとつしまう。それは「拒絶」の合図だからだ。「そんなこと自分の頭に入れたくないよ」「不要だよ」っていうしるしなのだ。だから私はプレイをするための手持ち札を捨ててゆく。捨てたら、その相手とそのテーマで会話をすることを以後避けてゆく。以前、福田前総理が退陣するときに、記者会見で「あなたとは違うんです」と発言して話題になった。あの発言が物議を醸したのは、「上から目線」や傲慢さの匂いを、福田さんから感じ取ったためである。「人それぞれ考え方が違う」ということをわかったうえで議論をしたり、人の話を傾聴したうえで考え方を話しあう、というニュアンスではなかった。だから叩かれたのだ。「人それぞれ違うから」ということを本当にわかっている人は、この言葉自身をおいそれと他人に向けて発しない。繰り返しになるが、それは対話ではなく拒絶のメッセージだからである。そうして、ひとつひとつ手持ちのカードがなくなっていき、みんななくなってしまったとき、私はその人に会うのを止める。カードは、私の存在をあらわす鏡そのもの。相手にとって存在意義がなくなったのなら、姿を消すのみである。だからカードがなくなったら、おしまい。私は手持ちのカードをいつも心の中で数えている。<お酒メモ>ギネス 生 2パイントヒューガルデンホワイト生 750ml山崎12年 そのままで1つ
2009年07月28日
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「久しぶりに会ったからお茶でも飲みません?」昨日、仕事帰りに公私ともどもお世話になっている関西の友人からお誘いを受けた。でも身体の中からざらざらした何かがこみあげるような気分がした。心の中で「ごめん、ごめん。本当に悪気はないの」と思いつつ、丁重にお断りしてまっすぐ帰宅。身体の芯が熱くてどうも視界がフラフラするなーと思って、熱を測ったら38℃を超えていた。炎天下で仕事をしたせいなのか、それとも無理がたたっているのか。食事は喉をとおらない。氷枕と熱い緑茶のコラボがやけに気持ちいい。アイスクリームは胃に届く前に温かい流体になる。身体が、燃えている。「ビール、のみたいなぁ」って思ったけれど、これは暑さのせいなのか、体内の熱さのせいなのかはわからない。朝、電車の中で隣の女性が熱心に読んでいた宗教の新聞の見出しが蘇る。それは信者の手記だった。熱心に働くテレビディレクターが、働きすぎて焦心し、己の存在を見いだすために、夫婦で折伏をはじめた、という旨のことが書かれていた。自分はいっぱいいっぱいなのに「売れっ子」と言われて、どんどん仕事が入り、心が折れていった話が綴られていた。自分はそうなりたくない、ならないぞ、なんて思うけれど、そのディレクターと私は案外紙一重なのかもしれない。と、思いながら意識が堕ちた。
2009年07月27日
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子曰く、 「学びて時にこれを習ふ、亦説ばしからずや。 朋有り遠方より来る、亦楽しからずや。 人知らずしていきどおらず、亦君子ならずや」 ――『論語』より学而第一 誰もが知っている、『論語』のあまりにも有名な一節である。この現代語訳についての解釈についてお話を伺っているときに、ふと涙が出そうになった。その方は静かに、張りのある声で仰った。「目を瞑ってみてください。悩みごとを話せる友人の顔を思い出してみてください。自分の考えを話せる友人の顔を思い出してみてください。支えてくれる友人の顔を思い出してみてください。今、誰かの顔を思い浮かべられたのなら、あなたはとても幸せです。そういう人がいるのなら、今度はあなたが、自分で考えたことを決断し、実行できる人間になりなさい。それは人間の『理想の姿』です。それに近づけるように努力しなさい」上記の話は別に宗教的セミナーなどではなくて、冒頭の論語の解釈なのである。こうして口語で意訳し、話しかけられるようにして論語と向き合うと、学生時代とは違った味わいと驚きがある。もういちど目を瞑って、論語の言葉を暗誦しながら、私が思い浮かべた顔を思い出す。朋の顔が浮かぶ、って幸せだな。心が満たされ、不思議な気分が訪れた瞬間だった。
2009年07月23日
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昨日電車に乗っていたら、猛烈に眠くなって、眠りこけてしまった。乗り過ごさなかったものの、乗り換えてまた寝て、目的地で乗り換えてまた寝て・・・を繰り返し、自宅に到着しても寝室でそのまま倒れこむように眠ってしまった。で、ようやく目覚める。起きたのは朝8時。食事もトイレもお風呂にも入らずで、のべ17時間も寝ていたことになる(^^;睡眠というのは不思議なもので、「寝だめ」(=貯金)はできないが、「あとから補う」ことはできるという。ここのところ結構無理を承知で動いていたところがあったので、どうやら身体が勝手に睡眠を要求したんじゃないかと思う。それにしても「体力がないとたくさん寝られない」と言うけれど、体力がなくても眠れるんですね~。
2009年07月21日
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仕事と喧騒から逃れたくて、この3連休にお出かけをすることにした。私は必要以上のものは普段持ち歩かないし、忘れ物もあんまりしないのだが、前日の深夜にぼーっと荷物を詰めたせいか、スタイリング剤をはじめ、必要な物をたくさん忘れる一方、靴下とか、シャツは必要以上の数が詰っていて、柄にもなく鞄の中身がぐしゃぐしゃだった。確固たる日程も決めず、ふらふらと気の向くままに移動する。しばらくして、海岸に出た。目の前の浜辺は、色とりどりのパラソルと水着を着た海水浴客であふれ返っている。「あ、そうか、夏休みだったっけ」スニーカーを履いて、普通の服を着ている自分は、明らかに場違いだった。ずっと仕事ばかりして、四季の移ろいも見えてない自分の有り様を、服装が静かに語っているような気がした。そのときはじめて、前夜、荷物を詰めている時に、ノースリーブの白いワンピースとサンダルを持っていこうと思っていたことを、思い出した。「あぁ・・・」ものすごく泳ぎたい気分だったので、ひどく残念な気持ちになった。宿についてもそのことが頭をもたげてくる。だから、夕方、人影がいなくなった浜辺にそのままの格好で出た。温泉に浸かった後で、浴衣に下駄というスタイルだったけれど、そのまま砂浜に向かった。そうして、途中で下駄を脱いで裸足になり、裾を少しだけ持ち上げて海に入る。海岸沿いの岩場の上にバッグを置き、波と遊び始めた。波の音と海鳥の啼き声と風の音。あとは私がバシャバシャと立てる水音と嬌声だけ。夏の割には少しだけ冷たい水温と、陽が落ちかけてぬるくなった空気の中、浴衣のまま海にいる女の姿は変なのかもしれないけれど、人の目はどうでもよかった。そういう行動をとる自分が人からどう見られているか。そんなことばかり考えていたらアタマガヘンニナッチャウヨ。キニスルナヨ。耳の奥で誰かがそうやって言ったような気がしたから、何も考えずに波を追いかけたり、時に波を被って浴衣を濡らしたりしつつ、海としばし戯れていた。ココロトカラダノ、センタク。海から出たあとも、ふくらはぎにずっと波が打ち寄せては返すような感覚は抜けなかった。深夜、目覚めてもまだその感覚は続いていた。そして、布団の上なのに、ふと潮騒が聴こえたような気がした。<お酒メモ>土曜日アサヒスーパードライ 中瓶ビール 1本小布施日本酒「積」生酒 2合ラフロイグ 10y そのままで2つ 日曜日日本酒鳳凰美田 1合半越の寒梅 半合八海山 特別純米吟醸 原酒 半合ラフロイグ 10y そのままで2つ
2009年07月19日
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キリバスのクリスマス島の塩がセールだったので、先日購入した。100gで190円。通常価格の7割引くらいだが普通の塩に比べたらはるかに高い。それでも買ったのには理由がある。赤道直下にあるクリスマス島は、世界で一番美しい海と言われているところ。ごみがないのだ。そこの海水を数カ月かけて天日で乾かして、手作業で仕上げたお塩だけあって、手触りはパウダーみたいにさらさらしている。ミネラルも普通の塩より多いといわれていて、なるほど、酒の肴にかけてやると、その味の違いがわかる。あとはサラダのドレッシング代わりにそのままふりかけたり、グリルやスープなどの仕上げにさっと遣いするのに適した塩である。我が家にはいつも複数のお塩がおいてある。今メインで使っているのはチベット産の塩。ざらざらしているけれど、水分を結構含んでいて、しっとりしている。そのわりには粒の溶けが早いし、料理の味にものすごく深みが出る。煮物や漬物を作るときに特に重宝している。あとはイスラエルの死海塩も常備品の一つ。これは煮物やスープなどに使う。チベット産ほど濃くはないが、ミネラルがしっかりしていて、仕上がりがさっぱりした味わいになる。あとはシチリア産とかロックソルト、クレイジーソルトなんかが家の常連さんたちである。今回、クリスマス島のお塩以外に「新顔」もいくつか購入した。インドネシアのバリ島産海塩とオーストラリアのデボラ湖塩である。デボラ湖の塩はインド洋から飛んできた海の泡沫でできている、というお話があるくらい、粒が細かくてさらさらしている。クリスマス島のには負けるけれど、非常に使いやすそう。バリ島の塩はロックソルト系で、四角い大きな結晶が特徴。これは砕いてグリルする際にまぶしたりするのにいいのかな、と思っている。ちなみに塩は一般的に大きな固形のものは焼きものや肉に、粒の細かいものは煮込みやスープに適している。人間は水と塩があれば10日は生きていける、という。塩は食物よりも、人間が必要とする大切な要素なのである。実家にいたときは親が精製塩を買って普通に調理していたが、家を離れて自分で料理するようになってからは、ずっとミネラルの多い塩を選んでは買い求めるようにしている。ミネラル塩は、舌を突き刺すような辛さではなく、どこかあたりが「丸い」。そして塩自体「おいしい」と感じる。人間、死ぬまでにする食事の回数が決まっているのならば、できるだけベースとなる調味料は自然のよいものを使いたい。そんな風な心がけからやっているのだが、親に言わせると「あんた、よくやるわねー」と呆れ顔なのである(^^;<お酒メモ>プレミアムモルツ 生中 1つ
2009年07月15日
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少し前に九頭龍神社を訪れた。実はここ4カ月で3回ほど訪れているが、何かの願掛けにいっているわけではない。それよりも、一緒に訪れた人たちにその神社の雰囲気を楽しんでもらったり、知る人ぞ知る場所だということで、お得感を味わってもらえたらな、と思って案内しているだけなのだ。先日行ったときは4人で行った。たまたまその前週に、黒龍の「火いら寿」というお酒を購入したので、それを持って九頭龍神社を訪れた。というのも、この「黒龍」というお酒、福井の蔵が作っているのだが、酒の仕込み水は付近を流れる「九頭龍川」から採取しているのだ。「黒龍」という名前は、一説にはこの「九頭龍川」の「くずりゅう」が訛って「黒龍」になったという。名前の音が近しく、また同じ名前の川から摂られたということで、「黒龍」は「九頭龍神社」に献杯するのによいお酒なのではないかと思ったのだ。いつものように、芦ノ湖の九頭龍神の鳥居に向かって御供をまいたあと、小さなコップに黒龍の「火いら寿」を入れ、湖にぱーっとまく。そうして手を合わせて感謝を述べると、湖面が一瞬「きらり」と光ったような気がした。残ったお酒は、神社横でみんなでシェアして呑む。「九頭龍神社で黒龍呑むなんて、粋でしょ^^」と悦に入っていたのだが、結構みんなは普通のリアクションで、ちと悲しかった。まぁでも、一緒にいったみんなに、幸せが訪れるといいな。<お酒メモ>ソアベクラシコ ハーフボトル家で。サンタクリスティーナ ハーフボトル
2009年07月14日
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私は何でも率直にものを言ってしまう悪いクセがある。ある程度距離のある人になら一応空気を読んで、それなりに振舞うのだけれど、近しい人であればあるほど、正直に話してしまう。人は話しあっても究極的には分かり合えない。だからお互いに話をすることで、なるべくわかってもらえるように努力するいきものなのだと思っている。なのに、距離が近くなると「これくらいなら受け入れてもらえる」とか「あえてきついことを言うけれど、わかってもらえる」ってどこかで思ってしまう。相手に甘えているんだろうな。私が近しい人に率直にものを言って、時に相手を傷つけることがある。そのときは傷つくかもしれないが、相手にとって知っておいて欲しい事柄だから言う。自分が相手の立場だったら、知りたいことだから。けれど相手がその情報を欲しがっているかどうかは別だ。相手にしたら「それは真実かもしれないけれど、決して聴きたくない」、耐えがたいことかもしれない。先日もそういうことがあった。そういう空気を読めなかった自分が、ちょっと嫌になっている。珍しくそう悩んでクヨクヨして、食欲がない。仕事が忙しいのを理由に自分を誤魔化して、ご飯を抜いていたら足だけ痩せてしまった。ひどく格好悪い。今の体型も私の生き様も。
2009年07月12日
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Let us endeavor to live that when we come to die even the undertaker will be sorry.(死んだら葬儀屋も悲しんでくれるくらいに一所懸命生きよう) ――マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』や、『ハックルベリー・フィンの冒険』の著書で知られるマーク・トウェインは、新聞記者でもあり、また相場を自分でやっていたことから、シニカルで印象的な格言を多く残している。多くは彼の残した小説の印象とは異なり、ペシミスティックなものが目立つ。それはあまり幸福ではなかった彼の人生観に根ざしているからなのかもしれない。しかし、冒頭の言葉は逆接的だけれども、何か元気をくれるような格言だ。私の好きな言葉の一つである。今晩寝て、明日目覚めると七夕。お天気の予想は曇りだそうだが、晴れるといいな。明日は死んだら葬儀屋も悲しんでくれるくらいに、一所懸命生きよう。<お酒メモ>サントリーモルツ 瓶 コップで1つ半赤ワイン(イタリア) グラスで3つ缶ビール ちゃんぽんで 500mlくらい
2009年07月07日
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