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八重咲きの紅梅かな、と思えるこなし。 茶巾で絞って皺をつくり、花弁の重なりを表している。 茶巾で絞ってある点では、宝珠(スライム)型(花橘 萩の露 など)のヴァリエーションともいえる。絞った頂点を尖らせないで凹ませ、きんとん状のシベを置いている。 皺だけでなく、形もアバウトなところが、ほわほわとした八重咲きの雰囲気をよく醸し出している感じ。 種は黒漉餡。 シベは手芒。 こなしと餡はとてもやわらかく、例の如く、一体感。 ややねっとり、コシがある感じのこなしには、もちっぽいニュアンスも。 口に含むと、餡がとろけ、つづいてこなしもとろけ、梅花の香が口中に広がり、胡蝶が舞うよう。 ・・・・心ありて 八重山吹も隔てぬ梅の花に 飛び交ふ胡蝶の舞の 袂も匂ふ気色かな 能『胡蝶』 *** 原材料 小豆 砂糖 水飴 手芒豆 小麦粉 餅粉 食塩 トレハロース 着色料(赤3 赤106 黄4)
2008/01/31
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節分の上生。 ういろうに、豆まきの枡の焼き印と豆を象徴する小豆。 単純な意匠だし、この「マス」は昔の看板などでよく見かけもするけど、なんとはなしに味があり、ひょうげていて、面白い。 見る角度によって、「エイリアン」の顔に見えたり? 種は手芒製の白漉餡。 上に載っている炊いた小豆は、みずみずしく、澄んだ味わい。 ういろう地は、とろり感があり、噛んでいるとじわりと甘みがしみ出してくる。また、冬のういろうは結構冷たくなっているのが多いが、あまりひんやりしていない。 餡は控えめの風味で、ういろうを引き立てている。 この上生食べて、一足お先に、パラパラ、豆まきの音でも聞いてみる? いやいや、それとも、鬼に想いを馳せてみるか。。。 *** 鬼といえば、色々あるけど、最近ハマってるのが、能の『鉄輪』(DVD。シテ観世喜正)。 かなわ と読んで、何のことかというと、五徳。でも、ただの五徳じゃなくて、女が裏切った夫への恨みを晴らすために鬼となる、そのために頭に戴く五徳。五徳には蝋燭を立て、灯をともす。顔には丹を塗り、赤い衣を着て、怒りの心を持てば、鬼になれるとの貴船明神のお告げに従ったその姿。 ・・・・ 恋の身の浮かむ事なき賀茂川に 沈みしは水の青き鬼 我は貴船の川瀬の蛍火 頭に戴く鉄輪の足の焔の赤き鬼となって 臥たる男の枕に寄り添い いかに殿御よ めずらしや ・・・・ でも、この男は、実は生身の本人ではなく、安部晴明が用意した等身大のわら人形。 最後は、晴明の呼んだ式神の力に、神通通力自在の勢い絶えて・・・・ この度は帰るべしと言ふ声ばかりはさだかに聞こえて 姿は目に見えぬ鬼とぞなりにける 目に見えぬ鬼とぞなりにけり ほんとの鬼になってしまう・・・(もともと鬼はあの角が生えたのではなくて、妖気のような形のないものだった) それにしてもこの終わり方。なんか、男と女の間に横たわるふか~い亀裂というか、溝というか、理解し合えないさがというか、そんなものを感じてしまう。。。 面は、橋姫。この面は、怒り、というよりも、泣き顔に見える。顔がくしゃくしゃになってしまうほどの悲憤の泣き顔。 能には、男鬼と女鬼があって、般若など角のあるのは女鬼なのだそうだ。 泥眼(でいがん 不気味)→橋姫(はしひめ 角なし)→生成(なまなり 角が生えかけ)→般若(赤 白あり)→真蛇(しんじゃ 人と言うよりはもう、動物っぽい) 顰(しかみ 男鬼) *** 原材料 手芒豆 砂糖 水飴 米粉 小麦粉 餅粉 小豆 寒天 トレハロース 着色料(黄4)
2008/01/30
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鬼は~外、福は~内。 の、福のお多福の顔をかたどった薯蕷。 髪、おちょぼ口が焼き印で押してある。 ほんのり赤く染まっているのは、このお多福は恥じらいのある少女? だからだろうか? お多福じゃないけど、「入門道しるべ 能とはどんなものか」と一緒に収録されている「鑑賞のみちしるべ 能 『井筒』」の里女/有常の娘の面がものすごくかわいい。釘付けになってしまう。 里女/有常の娘は、若女、深井、あるいは、小面と言うことだが、これは小面のよう。十歳以下、八歳くらいにも見える。そんな少女の愛嬌のある無邪気な、みずみずしい面。 シテは、片山慶次郎。 若女、深井をかければ後年の夫婦生活に重点が置かれることになるが、小面をかけることで、少女時代の思い出に重点が置かれる。要するに、有常の娘は、幼い少女の気持ちのまま業平を待ちわびている、ということだ。 ただ、この「井筒」、ものすごくなまめかしい。 後場、自分の前からいなくなった業平を慕って、恥じらいもなく(むろん、ここで恥じらいなどあってはいけないし、あるはずもない。そんな感情はもうとっくに乗り越えられている。というか、恥などという対他的な感情など彼女には無意味だから)、その狩衣を着て出てくる姿には、目を背けたくなる。醜いとかいうのではなく、見てはいけないなにか、清々しかった少女だった女がもっている深く、強烈な情念、また、人の心の弱さを目の当たりにさせられるようで。 幽霊なのに、恋しい男を慕ってその衣裳を身につける・・・まるで、まだ、肉体があるかのような、そんな姿も、なんともエロティックで生々しい。情念そのものが肉体となった女の姿。 また、あの、クライマックスの、井戸をのぞき見るシーン。ここも、目を背けたくなる。 ・・・・さながら見みえし昔男の冠直衣(かんむりのうし)は女とも見えず、男なりけり、業平の面影見ればなつかしや、我ながら懐かしや・・・・ 彼女の気持ちは痛いほどわかるとはいえ・・・ここまで情念の深い女に思われたら・・・正直、逃げ出したくなる・・・?^_^; (業平がいなくなったから、こうなったのか?) とはいえ、この薯蕷のお多福さんはそんな情念や弱さなどとは無関係だろう^^ 明るく、ひょうげてさえいる。 種は黒漉餡。 目の詰まった薯蕷となめらかな漉餡。 薯蕷の切れのある澄んだ甘み、そのなかに餡のふくよかさがほの漂う。 *** 原材料 小豆 砂糖 水飴 米粉 山芋 トレハロース 着色料(赤3 赤106) *** 能の面が観る者の心を映す鏡なら、この「井筒」の井戸をのぞき見るシーンは、能の極北。 有常の娘は井戸の底に何を見たのか? そして、見るものはその面に何を観るのか?
2008/01/27
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緑色の部分は白餡(手芒餡っぽい)を染めたもの、小豆色っぽいところは小豆、赤い粒はこなし、降りかけてあるのは凍り餅粉。 今年初めての雪が庭に降ったという風情。 小豆色のところは、道なのか、積もった松葉なのか、枯れた木々なのか、その他にもさまざまな想像が膨らむ。 常緑に赤い実。このあたり、千両、藪柑子などを思い起こさせる。 種は黒粒餡。 みずみずしいきんとん。 がつっとくる小豆色の部分の後に軽やかな緑の部分がさっぱりと。 とはいえ、粒餡の濃厚な後味。 ここんところ今年初めてと言っていいほど雪が積もったりしているけど、こんな日に食べたなら、また、格別な趣が味わえたんだろうな。。。 *** 全部を緑にしてこの赤い粒をのせれば、クリスマスにもいけそう。 星形の羊羹なんかより、このこなしの赤い粒の方がよさそうな感じがする。
2008/01/26
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「よのむじょう」と入力して変換を押すと、「世の無常」となる。 まあ、ふつう「よのむじょう」っていうと、「世の中」の無常ということだから。 最近、僕は「余」の無常を感じたりしてる。 もちろん、「余」というほどたいそうな人間じゃなくて、ただの語呂合わせだけど。 うーーーん、なんだか~、なあ~~。 人は自分の気持ちが変わることについては、あんまりとやかく言わない。 時には、「成長」などと思いっきりプラス思考の言葉や評価を与えたりする。 ところが、他人の心変わりについては結構口うるさかったりする。 「世の無常」なら、世の中を捨てればいいが、「余の無常」となると、結構やっかいな気もする。 自分を捨てるわけにもいかない。捨てたところで、木石でもないので、やっぱり、心や感情はいつもついて回る。 だいたい「自分を捨てる」というのは今のあまり好ましくない自分を捨てて新しい自分に生まれ変わるようなときにいう言葉だし。自分の変化を「無常」などと感じるのとはまったく正反対のことだ。 「余の無常」を受け入れ、つきあっていくしかない、とあきらめるくらいがせいぜいだ。 他人の心変わりについてはとやかく言うのは、生き物である人間にとって基本的な反応なのかも知れない。 ホメオスタシス、恒常性。 他人というのは自分を取り巻く「環境」もいえるわけで、その「環境」が変化するということは今までどおり生命を維持することに対して危機をもたらすかも知れない、とも言えるからだ。 一方、自分がかわった場合はどうか。移動すればいい、と軽く考えているかも知れない。要するに「環境」をかえればいいのだ。 同じものを食べても、空腹の時と満腹の時では、おいしかったり、あまりおいしくなかったりする。 この感じ方自体がすでに「余の無常」をほとんど意識していない感じ方だともいえる。 たしかに、「今は満腹だから空腹の時ほどおいしくはない」と頭では一応分析してみるが、実際、感じているのは、「おいしくない」と感じているのだ。この感じていることを否定することはできない。以前食べたときはあんなにおいしかったのに今はどうしておいしくない? そう思うからこんな分析や理屈をつけるだけの話で、あくまでも「おいしくない」。 まあ、そんなことはどうでもいいけど、「余の無常」、あらためてこの言葉を眺めていると、結構滑稽な気もしてくる。 どっかの殿様が、「余は満足じゃ」と同類の言い方で「余は無常じゃ」などと使っていそうな気もするからだ。 あの時はあんなふうに思っていたのに、今はどうしてこんなふうに? べつに、かわったことに倫理的な責任を感じているわけではないが、プラスの評価をしているわけでもない。 「無常」というのはあまりプラスの言葉ではないだろう。 「余の無常」を感じて「出家」した人というのはいるだろうか? 「世の無常」はざらにいる。「世の中」というのは昔は「男女の仲」も意味した。「社会」や「男女の仲」の無常を感じての「出家」というわけだ。 ある女性が「世の中」に無常を感じて出家する。 そんなのを見てると、僕は、生身の男はつかれるので仏というお人形さんに欲望の対象を変えたのか、と思えてしまう。生身の男だと彼女の望みや欲求や欲望をすべて受け入れるということはないだろうが、仏像ならそれも可能だろう。 「出家」できない人は、犬や猫、時には、イグアナなどを仏像の代わりにする。 結局、「出家」しても彼女は何もかわってない。 そういう女性が他の女性に説教する。それを見ていると、ブリューゲルの絵を思い出してしまう。 盲人が盲人の手を引いて導き、今にもドブに落ちようとしている、あの絵だ。 (これはある元女流作家にたいする違和感) 思春期にこんなことが起こると、かなり深刻だったかも知れない。 精神の危機、魂の危機、存在の危機、にまで及ぶかも知れない。 だが、あいにく、というか、幸運にも、というか、僕の思春期はすでにとっくの昔に終わっている。 そして、そのころよりは少し知恵もある。 だから「余の無常」などという言葉を与えて危機を回避している。 というようなたいそうなものでもないような気もするが。 たいてい、人は、自分の気持ちの急激な変化に対して、自分なのかでなにかもっともな理由を与えて、変化後の「今の自分」を正当化し、納得している。そして、普通の変化については別に理由などつけたりもしないでありのまま受け入れている。 「余の無常」などといっている僕は、変化についていけてないんだろうな。。。 常のなきおのが心の常なれば つねづね常に常無きを常
2008/01/25
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昨日、NHK『趣味悠々』で武者小路千家さんの初釜をやっていた。 あいかわらず、NHKらしい、内容のなさ。 ことに、最初に、家元が、「濃い茶を飲むのは一人あたり一分か、二分。とはいえ、そのために、こうしてわざわざみなさん集まってくるのだし、こちらもそれだけのためにこれだけの準備をするのです」と一服の濃い茶の重みを強調。 なのに、家元の点前は、かなりカット。 面倒なので何がカットしてあったのかいちいち書かないけど、あっという間に濃い茶が練り上がってしまった・・・。 これじゃ、一服の重みもありがたみも何も感じられない、という情けない番組の作り方。 能でも、NHKのカメラや編集にはイライラさせられる。「わかっとんのか、おまえら?」と言いたくなる。そら、カメラや機材の扱いはプロでしょう。でも、プロってのは、それだけじゃないでしょう? カメラや編集、さらに番組に携わる責任者クラスなら、対象についての深い理解がないと。NHKの番組って、ほかのドキュメンタリーとかでもそういうものがぜんぜん感じられない。うわべ一辺倒。なのに視聴料はとるは、サイダーとかは抜け目なくするw *** それはそうと僕が言いたいのはそんなことじゃなくて、主菓子の「都の春」(だったか、「春の都」)。 片身替わりのきんとん。左が桜色、右が若い緑色(逆だったかも知れない)。 なにをモチーフにしているかというと、古今の素性法師のこの歌。 花ざかりに京を見やりてよめる 見わたせば 柳桜をこきまぜて 宮こぞ春の錦なりける 「京の都中、柳は緑にして、桜は花盛り、まさに錦のような春のこの季節、この眺め、ものごっつすばらしい~」みたいな意味なわけだけど、これって、どう考えても新春のイメージにはならない。 床飾りに柳があるとはいえ、やっぱり、新春からはほど遠い。どうしても、春うららな花盛りの歌(詞書きも「花ざかり」だし、古今の配列でも新年あたりにはない)。 で、このきんとん出されたら、ちょい興ざめ~などと思ってしまった。。。 僕だったら(と、ン百年つづく家元さんにたてつく訳じゃないけど・・・^_^;)、このブログで扱ったものでいうなら、たとえば、香梅。 古今の歌が必要なら、たとえば、とものりの 「花の香を 風のたよりにたぐへてぞ 鴬さそうしるべには遣る」とか。 あと、新春の朝。ただしこの銘ではやや面白味に欠けるので、おめでたさをかけてたとえば「千世やちよ」とするとか(この上生は、古今の賀の歌、「わが君は千世にやちよにさざれ石の巌となりて・・・」を連想させることはすでに書いたけど)。 もひとつ、藪柑子。ただ。銘がもうひとつな感じもするので、ちょっと他のものから拝借して、庭小槌 にするとか^^ 古今の歌でも、わざわざ花盛りの頃のものでなくて、新年あたりのものから選んだらいいのに。 そういう歌から、上生をつくればいいのに、って。 まあ、「都の新春」といいたかったのならそれはそれでいいけど、素性のこの歌をモチーフというのはやっぱり、×。 それこそ、「都の新春」をイメージしたものをオリジナルで作ればいいのに。 もっとも、太陰暦で言えば、今の2月が新春だから、まあ、ちょっと気が早い感じもするけど、それでもいいかも。 でも、新暦の現今では、やっぱり、柳と桜は・・・「?」。 新春になって、花盛りの頃に想いを馳せる・・・って言う趣向? 浅黄交趾の桐・菊花紋の皆具と菊花紋の炉縁にも違和感。 いくら新年に長寿を祈念して・・・みたいに言われても、あの皆具はまるで皇室の紋章。おまけに、菊ならば、重陽の節句(9月)で、それこそ長寿を祈ったばかり。 長寿を・・というのでも、せっかく新年なんだから、たとえば、むねゆきの歌、 ときはなる松のみどりも 春くれば 今ひとしほの色まさりけり とかをふまえた意匠とかにしては?・・なんて。 もちろん、感じ方は人それぞれ。 ただ、なんとなく・・・な、かる~い物足りなさ。。。 それとも、このチョイス、NHKの要望でもあったんだろうか? *** 追記 1/24 茶事には、パーソナルなものもある。 本来はそういう、主・客の間にだけわかっている事情があっての初釜だったのだろうけど、そんなことには一切配慮しない、どこかのお寺が観光客相手にしているのに参加するのと同じ感覚で席に望んだ、山口智子=NHK=一般視聴者。 そのちぐはぐさが、この菓子や皆具に表れていたのでは? 知る人ぞ知る、でよくて、何も、反論とか言うことではないような。 あんまり、煽るの止めてくださいね、誰かさん♪
2008/01/23
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愛らしくて、素敵な椿の上生。 赤いぼかしの加減も素敵。このぼかしが、ほのぼのとした雰囲気を醸し出している。 ほのぼの、ほっこり。 赤い斑(ふ)の部分は、実はちょっと手が込んでいる。 白いういろうの下に紅のういろうを入れて馴染ませてある。 種は、白漉餡。ういろうで象った姿そのままの淡い風味。 ういろうはねっとしていて、耳たぶほどの柔らかさ。とても米の風味がくっきりしている。 シベのみじん粉が芳ばしい。 食べるのが勿体ない・・・。 でも、早く食べないと、おいしくなくなる・・・。 *** 牡丹につづいて、今日は椿づくし(侘助なども)。 寒椿 焼皮 鶴屋吉信 わびすけ 求肥 老松 冬椿 ふゆつばき 薯蕷 俵屋吉富 冬椿 ふゆつばき こなし 俵屋吉富 姫椿 ひめつばき ういろう 鶴屋吉信
2008/01/21
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宝珠(スライム)型の上生。雪を表す凍り餅粉がふりかけてある。 このタイプで花の銘がついたものは色々あるが、多くはこなし。 これはういろう。 ういろうの透明感、ひんやり感、こなしに較べたときの軽さなどが冬の上生という雰囲気を醸し出している。 見た目以上に細工は細やかで、あわい緑色のういろうで種をつつみ、紅色のういろうをかぶせ、さらに絞りのつまんであるところは白いういろうを使っている。白いういろうと緑色のういろうの境はぼかしのように自然に色がかわっている。 種は白漉餡。 耳たぶのようにやわらかい、また、種の漉し餡のような食感のういろうは、餡とともに口のなかでとろけるよう。 *** 原材料 手芒豆 砂糖 水飴 米粉 小麦粉 餅粉 寒天 トレハロース 着色料(赤3 赤106 黄4 青1) *** 牡丹、と一口に言っても、上生ではいろいろ。ちょっと並べてみよっかな^^同じ、ういろうで。 牡丹 ぼたん 鶴屋鶴壽庵きんとん 富貴草 ふうきぐさ 鶴屋鶴壽庵こなし 富貴草 ふうきぐさ 俵屋吉富 寒天 というか、ちょっと変わり種。 水牡丹 みずぼたん 亀屋良長
2008/01/20
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17日くらいに雪が積もったかと思ったら、もう、今日はほとんど無くなってしまった。 雪が積もってたら、これを目の前にして春を思い、もっといいのにな、と思いながら食べた上生。 下萌えの上に降り積もった雪がとけ、その間だから黄色い花が顔をのぞかせている風情。 白い細いきんとんが雪を、下萌の中のふとい生成のものは枯れ草か、あるいは、古い雪か。 細いきんとんが着せ綿を連想もさせる。 種は黒粒餡。 雪を表す細いきんとんは山芋。 花、下萌は手芒。 しっとりやや水分が多い下萌と餡、そのなかにねっとり山芋の食感が面白い。 春日野の雪間をわけて生ひいでくる草の はつかにみえし君はも みぶのただみね ただ、雪を分けて生い出てくる草というのではもちろんなく、春日の祭りでふと目にとまった女性への恋心を詠んだ歌。 *** 原材料 小豆 手芒豆 砂糖 水飴 山芋 寒天 トレハロース 着色料(黄4 青1)
2008/01/20
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銘のとおり水仙の花。 大丸京都店限定ではない「迎春セット」に入っていて、その時見てほしくなった。バラで出ないかな・・・と思っていたら出たのでニンマリ。 黄身しぐれで、水仙のような繊細で優美な花をというのは、かなり大胆。黄身しぐれの枯れてざっくりとした感じと水仙の花とはミスマッチのようだが、それがそうでもない雰囲気。 表面は枯れた感じよりも、むしろ、しっとり、ほんわり。 しかも入(ひび)があるからこそ、決して実物にはそんなものないのに、かえってみずみずしさ、清々しさを思わせて不思議。 入の中は、黄色い黄身しぐれのしたに緑色の黄身しぐれが重ねてある。 この入の色重ねが、みずみずしさやすがすがしさを呼び込んでいる感じ。 入の入り方もとても美しい。もちろん、入の入り方はひとつひとつ違っている。 (刃物で切らずに黒文字で切るのでこんな断面) 種は黒漉餡。 ほわほわとした黄身しぐれ、そして、黄身しぐれ・餡ともに、なにか泡立つような、しゅわ~っといった感じの口どけ。 黄身しぐれの風味はあわい。 口の中といわず、喉の奥に水仙が咲いて、ぽわ~んとその香りが口の中や鼻腔を満たすような、とても清々しい余韻が漂ってくる。。。
2008/01/16
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久々のメドック、サンテステフ。 しかも、カベルネ・Sが主体。 カベルネ・S主体のワイン、メドックのものとか好きだけど、それなりの生産者、それなりのヴィンテージ、それなりの価格、かつ、それなりの瓶熟、とこの四つの条件がそろわないとなかなか手が出せない。 このモンローズ、04年に購入。 家の冷蔵庫の貯蔵室でゆら~りと・・・・H.ジョンソンの『P.W.B 2008』でいよいよ飲み頃に突入、というわけで、開けてみることに。 午後1時開栓。 色は、全体がうっすらレンガ。ほどよさそうな熟成具合。 香は、凛とした冷気のようなさわやかさ。身も蓋もない言い方だけど、久々、カベルネ・Sの力強い香。 この匂いだけでも、うっとり、懐かしい感じ。 口に含むと、心躍る。ほどよい凝縮感。艶やかな舌触り。じわ~と口の中に沁みてくる甘みと果実味。 爽やかに余韻。 でもまだ閉じてる。 1:15 うきうき浮き立つような、こころをうつアロマ。艶やかなワックスの匂いが目立つ。 ブーケは、まさに、妖艶な大輪の薔薇の香り。そのなかに赤~黒色果実が忍び込んでいる。妖しいけれども、凛としたところはそのまま。 ブーケを裏切らない味。凛としたところと妖艶なところ。 一口飲み込むと、ふわっと頭上に抜けて、大輪の白い花が花開く感じ。まるで『羽衣』の天女みたい^^ 1:30~1:45 開いてくるほどに、逆に、凝縮感が高まってくる。後半でタバコの風味。 ~2:00 厚み、複雑さ、重みが加わる。だが、むしろ、やわらかくしなやかに。 凝縮感はさらに高まり、なにか弾けそうな予感・・・。 風味の花びらが幾重にも折り重なり、さわさわと音を立てて重たい花を花開かせている濃厚で大きな赤い花。大輪の牡丹にも似た・・・。 でも、静かで落ち着きがある。しんと静まりかえった草原。 凛としたしなやかさ、みずみずしさをたたえた、30代前半の貴婦人。みずみずしい肌。 室温13℃。手で温めて飲む。温度が低いと、ワックスの香が蓋をしてしまう。ワックスが人肌で溶けると、顔を出すのは、紅い薔薇。 2:15(ラベル上1センチ) なんとも、飲み物というより食べ物といった口当たり。ぷりんぷりんとした、「触感」。まるで、うちで作るプリン。寒天が入ってない、ミルクと玉子の。 その「食感」が風味と相まって、まるで、口のなかでとろけた紅い薔薇の花。 2:30(室温18℃) 香りはさらに濃厚、まったり。妖艶な紅い薔薇の花。その中に嗅ぎとれる、かすかな腐臭。臓腑に染み渡る香り。妖艶、というより、エロティック。 むっちりエロティックな艶めく肌、ココットの、そんな肌。ただし、その淫らさを孕んだ肌を品のないものにしていないのは、肌に塗られた杉オイルの香気。エロティックな感触を杉の香気がすっかりコーティングしている。 口のなかにふくむと膨らみ、しかし張りのある口当たり。 2:45 濃厚なローズ。その中に見え隠れする、カラント(やや赤い感じ)。スパイシーでホット。上あごに沁みてくる。 カベルネ・Sの尖った果実味がとてもよかった。 ひさびさに過ごした、ワインと戯れた楽しいひととき。 ただ・・・二日目は二日酔い気味で飲まなかった。。。 三日目。 つまり今日。 今・・・・ やや渋みは出たものの、それがまたよい。口当たりが、何ともいえない。とろりととろけているが正体がないわけではない。 艶やかな、とろけて崩れ落ちてしまいそうな危うさを感じさせるのに、崩れ落ちることもなく姿を保っている美しい紅い薔薇の花。
2008/01/15
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お正月の定番生菓子。もとは宮中の「歯固めの儀式」に由来する。 餅の部分、多くの店のものは求肥製。日持ちの関係などがあり、僕にとってはやや甘めのものが多く、食べたいのだけどちょっと躊躇う。 花びら餅、と繊細で優美な銘のわりには、餅の形、肌合い、艶、厚み、へり、桜色のところの色あい、透け具合、ゴボウと餅のバランス、種や具と餅とのバランス・ふくらみ具合など、イメージ通りというのがなかなか見つからない(由来からすると別に繊細であったり優美である必要はないのかも知れないけど、いったん「花びら餅」と言われてしまうと、繊細さや優美さを自然に求めてしまう。何の花びらか、というと、僕の場合、やっぱり桜の花びら)。 また、ばら売りでなくセット売りの店も少なくなく、うちのような小家族には買いにくいという点もある。 今回のものは、俵屋吉富 烏丸店で。 餅の部分はういろう。 透けて見える桜色(紅色)の部分もういろう。 やわらかいゴボウはそれほど甘くなく、ういろうの皮の甘さも控えめ。 種の白みそも上品。 求肥にくらべ、餅の部分は薄く、繊細、歯切れもよく、姿とともに、風味も、名前に違わない繊細さと上品さをそなえている。 これといった凝った細工をするわけでもなく、甘く炊いたゴボウや白味噌、紅色に染めたういろうなどの種をはさんだだけの単純な形なので、そのなかに、花びらという言葉が呼び込む繊細さや優美さなどさまざまなイメージを表すのは、なかなか難しいのだろう。 (とはいえ、もともとは餅バンズのハンバーガー(?)みたいな料理が、時を経て、このような姿になっちゃったんだ・・・という感慨もあったりして。。。) *** 原材料 砂糖 水飴 手芒豆 ゴボウ 米粉 小麦粉 餅粉 白味噌(大豆由来 遺伝子組み換えでない) トレハロース 着色料(赤3 赤106)
2008/01/14
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鹿の子というのは和菓子としては珍しくないのだろうけど、このブログで扱っている菓匠、菓子司でお目にかかるのは、ほんとに珍しい気がする。 個性的な姿だが、それがかえって意匠を制限してしまうために、使いにくいのだろう。 これは、さざれ石に露がおりたか、雪が降りかかったかして、朝日に輝いているといった風情。 鹿の子の個性的な姿をさざれ石(が巌になった姿)に見立てているところが、非常に優れている。 たしかに、さざれ石でなくても、ただの岩や石に露や雪というのでもいいが、それでは「新春」にならない。「新春」だからこそ(巌になった)さざれ石だし、鹿の子という個性的であるがゆえに融通のきかない姿が、ここではかえって生きてきている。 わがきみは 千代に八千代に さざれ石の巌となりて こけのむすまで (「君が代」の本歌。「わがきみ」とは天皇に限ったことではなく、もっと一般的に、長寿を言祝ぎ祈る歌なのだ) 大粒の小豆に、白砂糖をとかしこんだ寒天がかけてある。 種は、餅をくるんだ白小豆餡。 大粒の小豆は、炊き加減、柔らかさ、甘み、小豆本来の風味などどれも塩梅よく仕上がっていて、粒餡に秀でている俵屋吉富の面目躍如たる風味で、とてもおいしい。 餅はとろけるようで、白小豆餡と小豆粒は調和し、ことに、小豆粒の中のあの白いところの風味が引き立つのは、粒小豆好きにはたまらない。 意匠、風味、ともに素晴らしい上生。 さざれ石は悠久の時の流れのなかで再び風化して・・・
2008/01/11
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八坂さんの奉納能、金剛流「謡初式」の帰りに寄って買ったお土産のひとつ。 干支のネズミを模した薯蕷。 はてなマークのような焼き印が面白い。 写真のものは真ん中が凹んでいて、そのせいか、どことなく怒っているような顔つきになっているが、店にあったものはふっくらしていて、もっと可愛かった。 懐紙、楊枝など一緒に頂いたものに載せて、今日はフル俵屋ヴァージョンって感じで。 種は黒漉餡。コクがあり、風味に厚みがあり、むっくりとした餡は、漉餡ながら、これぞ俵屋吉富の餡って感じ。 薯蕷は、常のもの。特に華やかさや品がいつも以上にあるというわけではない。値段も、鶴屋吉信の福羽根や老松の春慶や左義長(どんど)のように割り増しはなく、通常の値段。 見ていると、思わず懐に入れて、愛玩したくなってくる。 でも、着物を着ているわけでもなく懐もないので、腹に収めちゃったわけだ。 チュウチュウ、暴れ回らないように。。。
2008/01/11
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2008年の歌会始の御題「火」にちなんだきんとん。 とはいえ、ただ「火」ではなく、新春の菓子らしく、小正月の行事である左義長にかけてあるところがなかなかセンスがいい。 左義長という行事は全国に色々なやり方があるみたいで、僕の子供の頃の記憶にあるのは、鏡開きのころ正月の注連飾りや門松やなにかと一緒に鏡餅を焼いて食べ、そうすると一年が息災に暮らせる、というものだった。 ただ、京都の左義長は見たこともないし、今のところに引っ越してきてからも、見たことも参加したこともない。お節は食べても、注連飾りとか門松とかも立てないし、鏡餅も飾らない。と、実はなんともまあ、・・・な暮らし。 これも、山芋のみのきんとん(福羽根 鶴屋吉信)。 種は黒漉餡。 しっとりやわらかく、粘りがあり、山芋の風味は濃厚。ただ、山芋のえぐみなどはまったくなく、コクのある、非常に澄んだ味わい。そして、餡と芋がまざって何故かさつまいものような味がする。 品があり、華やかで、はんなりとした風味は、新年の上生にふさわしい。 ついでに、御題の「火」にちなんで、なにか、一首。 詠人知らず きふねの火 鞍馬のみずや 下燃えて ながれる時ぞ 恋をしもおもう
2008/01/11
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最近、迎春・新年むき上生でちょっと濃いので、このあたりで、素朴系を。 しかも、佃煮屋さんのお菓子。 煮豆用の黒大豆として最高級の品質と評価されている、丹波黒をつかった甘露(甘納豆)。 大粒の黒豆。 (50円硬貨と) 皮は乾燥しているが中身はややねっとり、ムラのない食感。 ほのかな甘さのなかに上品な黒豆の風味がただよい、皮が独特の清涼感をよびこむ。 後味もほのかな黒豆の風味と甘さ、そしてこの清涼感がながく口の中に残る。 素朴系で好きなのは、他に、若菜屋のお多福豆納豆(07のお節にも)。 こちらはさらに大粒で500円硬化よりもおおきい。そのため、火の通りにムラがある。が、そのムラがあるために風味、食感がさまざまに変化し、それがまたなんとも魅惑的。 新年・迎春上生、まだまだつづきます。。。
2008/01/08
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つやつやした薯蕷に、水引のようなこなしの糸がかけてある。 糸は、あわい紅と白小豆そのものの白色。 新春らしい、いかにもお目出度い、上品な雰囲気の薯蕷。 薯蕷の肌はつやつやしていて、口当たりはふっくら、よく目が詰まった感じ。 これも、ここの普段のものより値段は高めだったが、値段を裏切らない品質。 また、ここの上生は店の名前を聞くとなるほどと頷けるような雰囲気、風情を持った味わい、とか以前書いたけど、この薯蕷はまったくそうではなく、なんとも華やぎのある風味。 しかも、食べてびっくり。 黒漉餡だと思っていた種は、鴬色の白小豆餡。 (不覚にも、黒漉餡だと思って一気にぱくっといったので、歯形のついた美しくない断面・・・) 薯蕷のつやつやした肌の白さと風味との華やかさ、そのうえに種餡の色あいが、新春の慶び、華やぎをいっそうひきたててくれる。
2008/01/07
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年越し茶用の菓子を何にしようか。 例年は、花びら餅。ただ、花びら餅もちょっと飽きてきた(花びら餅、各店、長持ちさせるために餅のところが求肥になっている。その求肥のところが、いまいち僕は好きになれない)ので、今年はどうしようと思っていたところに、大丸のHPで目についた 鶴屋吉信の大丸京都店限定迎春上生セット。 向かって左奥から時計回りに、宝ぶくろ、梅襲、福羽根、千両。 年末なので、ややざっくりとした姿になっている。 福羽根 ふくはね きんとん 純白のきんとん。 大丸のHPで見かけたとき、一番インパクトがあったのが、これ。他のものはさておき、このきんとんだけは食べてみたいと思った。 白餡やてぼ餡ではここまで真っ白にならない。さて、材料は何なのか・・・? ねっとりとした口当たり。ミルクのように濃厚なコク。ざっくりとした姿とは反対に、普段鶴屋で食べているものよりは格段に上質な、そう、薯蕷。 薯蕷のきんとん。 その上に、白小豆餡を染めたきんとんで羽根つきの羽根をかたどってある。羽根の実のところは、大粒の小豆(半分)。 種は、こってりとした黒粒餡。 きんとんは濃厚で、種の餡はこってりとしているとくどそうだけど、上品で、後味は不思議とあっさり。 まあ、純白なので薯蕷といえば薯蕷なんだけど、なんとも風味が華やか。純白というだけ、華やかさが演出されるが、風味にも華やかさがある。薯蕷の新しい一面に出逢った感じ。 色といい風味といい、薯蕷には華やかさがある。 また、薯蕷入りのきんとんというと、きんとんの一本一本のカドが立ってなくてちょっととろけてるみたいなものも少なくないが、このきんとんはしっかり立っている。 ちょっと見、とてもざっくりとしたきんとんだが、久しぶりに目を見張った、そんな上生。 年越し茶で食べる前に、食べてしまった。。。 宝ぶくろ たからぶくろ ういろう 口紐はこなし。 お宝は、着色してない白餡。 これも材料は普段のものよりどことなく上質、品がある。 もっちりとしたういろう。 ういろう食べるの久しぶりだったので、これにも満足。 梅襲 うめがさね 焼皮 白っぽい焼皮と紅梅色の焼皮が重ねてある。 十二単の襲の色あいをモチーフにしている(師走、睦月、如月に用いられた「梅襲」のイメージ)。 その花びらの中からわずかにのぞく、黄色い蘂。これは、種餡で、黄色く染めた白餡そのまま。 しっとり、粘りのある焼皮。 一口口にすると、甘くすがすがしい梅の香りが漂ってきそう。 やはり、これも、普段のものよりは上質、いつも以上の品がある。 千両 せんりょう こなし 千両をモチーフに。 ただ、これを見たとき、なるほど、と。十二月に出ていた 庭小槌。その実が色づいた風情。新年まで、色づくのを我慢していたというわけ。 種は、黒粒餡。 庭小槌など、普段の葉ものに比べると葉脈は一本だけど、やはりかなりざっくり。 ただ、風味は、いつものよりやはり上品、上質。*** 実は、このセット、普段の上生に比べて一個あたり50円アップというお値段。 常のものよりやや大きめとはいえ、なのに姿がざっくりなので果たして大丈夫? と思ったものの、食べてみて納得。というより、非常に満足。 常のものより、どれもより上質であり、より洗練された上品さを感じさせる味わい。 新年早々、年末年始を口実にいつもと同じものを高く売るなんてことはしない、価格が高くなれば高くなっただけの仕事はする、当たり前のことといえば当たり前のことだけど、それをきっちりかたちにしている、風味もさることながら、そのあたりにも、とても満足。
2008/01/06
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八坂さんの「奉納能」と金剛流の「謡初式」の後、烏丸今出川のモス・バーガーで軽く食事して(数年ぶり。ただ、バンズ、具、どれも質が落ちて値段が高くなっていた)、俵屋吉富 烏丸店へ。 烏丸一条の金剛能楽堂からは、烏丸通りを北へ、今出川通りを越え、同志社大の寒梅館を北へ少し行ったところ(俵屋の北隣には、河村能楽堂がある)。 抹茶とお菓子(上生)を。セットで税込み500円(上生が税込み375円。また、ちょっとお茶の道具なども見れるので、かなり、お得)。 部屋は、以前七夕体験菓子教室の時の立礼の部屋。 今回はこのような道具と飾り。 特に面白いと思ったのは、釜と蓋置。 釜は俵屋の俵、摘みは雲龍の龍に由来。 蓋置は、お正月ということで、独楽。どうなっているかと思ったら、心棒に絡まっている紐とで、蓋を支えるようになっている。ただ、最近は、独楽で遊んでる子なんてまったく見かけなくなった・・・。 さて、お菓子。 福寿草 ふくじゅそう 黄身しぐれ 俵屋の黄身しぐれは初めてなので食べてみたくなった。 どことなく、雪の下からほっこりとつぼみをのぞかせて福寿草を思わせる。 中心には大粒の白小豆。 種は、黒粒餡。 どちらかというと鶴屋吉信の方が「黄身しぐれ」というイメージ通りという感じなのに対して、これは、やや異色。餡のような、みっちりと詰まった感じ、重さがある。中の気泡の粒が小さく、また、かなりしっとりしている。黄身の風味も濃厚。 ほろほろしっとりとした口どけ。 黄身の風味の後に餡の風味が口に広がり、その調和は絶妙。 紅梅 こうばい こなし 紅色のこなしを白いこなしで包んでから、ヘラで花びらを入れてある。 種は、黒漉餡。 こなしや餡の風味も、また、このふたつの口どけ、風味の調和もさることながら、食べた後、どことなく口中に紅梅の香りが漂うようなのが、楽しい。 何品かお土産を買って、帰宅。。。
2008/01/05
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かたく が八坂神社で『翁』を演ずるというので、行ってみることに。 朝六時半起きはちょっと辛い。 八坂神社の能舞台 がらがらの東大路通り、八坂さんの境内も出店の用意する人がちらほら、一般の参拝者はぱらぱら・・・。 九時始まりで30分前にはついていたのに、能楽堂の前だけは、もうこんな人。 ゆかしく優美な舞台だと思った。 鏡板の松が遠景。この遠景なのが、広々とした松原で舞っているような風情で、とても良かった。 『翁』 翁 片山九郎右衛門 面箱 茂山逸平 三番三 茂山千五郎 千歳 分林道治 笛 杉市和 小鼓頭取 曽和尚靖 大鼓 石井喜彦 平安神宮の「日吉式」は翁も三番三もずっと直面だったが、今回のは、舞台上で面をつける。 その面をつけるところは、とてもドラマティック。ただの面でしかなく、精霊か魂魄のようなものでしかない神が、目に見える存在として、肉体を得る瞬間。同時に、限りある生を生きる存在でしかない生身の役者が、神を宿すことで、能舞台という神聖な場で、神の時間=永遠の生を得る瞬間。神は肉体を得て現世に姿をあらわし、役者は神を宿し永遠の存在となる瞬間。ふだんの能では、決して客は見ることができない、鏡の間で行われている儀式。 直面で舞台に現れ、面もちは厳しいものの、ただの生身の能役者に過ぎなかったかたくの立ち居振る舞いが、突然変化する。立っているだけで、もう、それは生身の肉体を超越した存在感。蝉丸とも、住吉明神とも違って、神気のようなものがかたくの身体に凝縮し、翁の福々しい笑みとともに舞台を見るもの、さらにはその向こうへと放出されている。 芸術とか芸能とか、そういう枠では捉えきれない、能の持つ始源の深みをかいま見るよう。 以前から、能というのは、芸術や芸能である一面とともに、面に肉体を与えることによって生身の人間が面の持つ永遠性の中に溶けこむことでは、と思っていたが、まさに、そんな瞬間を目の当たりにした感動。面のもつ永遠性の中に溶けこむことを意識的な美によって昇華したものが、いわゆる芸術としての、能。 いや、翁の表情は福々しいというよりも、常に、照り輝いていて、見つめ続けているとこちらが吸い込まれてしまうか、あるいは、自分というものが溶けて壊れてしまうのでは、というぼんやりとした抵抗も感じた。凡百の人間である僕は、そんな光に照らされ続けてはマズい部分も満載している。それらもあわせて「僕」なわけだから、そんな部分まで翁の輝きに照らされれば、「僕」は「僕」ではなくなってしまうのだ。 神気というか霊気というか、そういうものが凝固し、一点の曇りもない澄み渡った青磁のように凛とした気が漲るかたく。それでいて笑みのこぼれる翁にふさわしいおおらかな美がかたくを支配している。 三番三の茂山さんは、平安神宮でも。 かけ声、というよりは叫び声、また、叫ぶときの歯をむき出しにした表情や横っ飛びなどのどこかケモノ的な動作を見ていると、三番三というのは、猿の神か? とか思えてくる。支配王朝に征服された他部族の神。叫び、歯をむき出し、肉体的優位、武力的優位を誇示するために激しい舞を舞って猛威を振るう土着の神を、輝く笑みによって威圧し、制圧し、支配し、ついには統治する、雅な白翁。笑みによって醇化された荒ぶる神は、黒翁となり、鈴を持って舞い(それまでいやがっていたのが、鈴を持たされて嬉々として舞うところも、どこか、まだ、ケモノチック)、ふたたび己と己の領土が荒ぶる神に侵犯されないよう、鈴によって禊ぎと祓いをしてまわる・・・などと、そんな古代の記憶が幻のように折り重なって蘇る・・・。 (ほんとのところは、白翁が何であり、黒翁が何であるか、僕は知らないけど^^。なんか、個人的にそう見えた、ということです) 平安神宮のまるでロック系のビートのようだった囃子とも違って、今回は優美な囃子。 鼓と鼓の響きに、拍というのではなく、旋律を感じる。優美で、なめらかな、春の風のような旋律。しかも、音と音とのあいだ、鼓の残響ではなく、実際は音がしていない空白にも、その旋律、春風は充ち満ちている。 能面にやどる業や性、精霊や魂魄を目に見えるものにする能役者の肉体、同時に、能面の持つそれらのものと一体になることで永遠という時間性と美を獲得する能役者。しかも、能面は、謡によって吹き込まれもし形づくられもする見るものの魂魄や情動をも吸いとり、刹那の汀のように映し出す。能を観るとは、僕にとって、面と役者と謡と囃子と見ている自分がつくりだす汀にただよう刹那の夢、刹那の幻と戯れること・・・。 *** 金剛流「謡初式」。 八坂さんの奉納が終わって、烏丸一条の金剛能楽堂へ。 八坂さんで、きんえいさんが『高砂』の仕舞。ラストの数節。あっさり。 いいなと思ったのは、仕舞『岩船』の種田道一さん。 謡の詞章は、これといったドラマもなく、叙情的でもなく、叙事的な、ある意味退屈なもの。それなのに、道一さんの舞には魅せるものがあった。短かったのでどこがどうしてなのかわからないけど、よかった。 もう一人、仕舞『竹生島』の廣田泰能さん。 そう、平安神宮で、『八島』の義経の仕舞をした人。 キレのある身のこなしで、凛々しい。というか、オペラのテノールのリリコといった舞。カルーソーの高音、または、若かりしドミンゴの高音。「太陽神アポロのような」パヴァロッティではないけど。要するに、水も滴るいい男、恋する若い男、という感じの役柄の声。そんな声を感じさせる舞。 水も滴る凛々しい若者の龍神、そして、義経。龍神の、神としての超越性やスケールの大きさ、恐ろしさなどは裡に秘めて、凛々しい若い男に変じた龍神が目に浮かぶようでよかった。 義経は、実際は、猫背で、出っ歯、源氏の大将としては恥であると本人も思っていたような、小柄な体格。でも、それはさておき、『八島』では、修羅に落ちてなお戦に明け暮れる業をもった恐ろしげな、おどろおどろしげな、かつ、猛々しいような義経だが、そうではない、美しく凛々しい義経、それもいいな~と。舟戦をしてる義経なんだから、錦の鎧直垂からは水も滴ることだろう? から・・・(とは言いつつ、実際に見たことはないけど、義経の平太という面は、なんか、貧相で、どこかものに憑かれているようなところがある。とても、水も滴る、恋するいい男、ではない。まあ、死んでもなお戦してるんだから、それはそうかも知れないけど・・・) あと、金剛能舞台の照明について。 舞台の上から照明を照らしているというのは真下で舞っている時はいいけど、舞台の端に来たとき、顔が翳ってしまう。屋外の八坂さんの場合舞台の端に来ると顔が明るくなり、それが自然、と思える。イマサン、くらい。 でも、鏡板の松はなかなか、好み。 *** もののついで。 鏡板に松、切り戸の壁に、竹。 とくると梅を探したくなるけど、どうして梅がないのだろう?(鏡板に松竹梅のもあるらしいけど、一般には、梅は見つからない) ずっと不思議に思っていた。 「秘すれば花」の「花」とは、梅のことなのだろうか? 古今集も含めて、「花」といえば「梅」のこともあった。 シテが「花」を秘めてはじめて、能舞台に「松竹梅」が揃い、めでたしめでたし、と能的世界が円満に完結する? ならば、能を観ることを、「探梅」とでも言ってみようか(なんて・・・気取っちゃって・・・) *** 金剛能楽堂正面にましましたお人形 草臥れたので、俵屋は後日・・・・
2008/01/03
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昨日のつづき。ざっと思ったことを。 かたくについては、まだまだ言い尽くせたと思っていないが、まずは昨日のようなところで。 ○京都観世会「謡初式」 『羽衣』 舞囃子で、舞ったのは、林喜右衛門。 線の細い舞だった。優美、というにはまだ何か足りない。ただ、歩き方ひとつについても、天女のようには見えなかった。かたくは、立て膝から立ち上がったとたん、舞台に入ってくる時の歩き方とは何かが違っている、人格が入れ替わっているとでもいうか。そこが、どうも、林さんはそういう風には見えなかった。舞は上手なのかも知れないが、天女にはなれてないような。 『猩々』 舞囃子、舞ったのは、井上裕久。 僕は、きびきびとしたいい舞だと思ったが、奥さんは、声が出ていなくて辛いということ。まだ40才前くらいのような感じなので、今後もちょっと気にしてみよう。 梅田邦久 観世会で仕舞の『鶴亀』、平安神宮で『翁』の翁。 仕舞が、どことなく味のある舞だと思って『翁』に期待したが、『翁』はドラマのあるいわゆる能ではないので、「味」の正体がよく突き止められなかった。ただ、膝の調子があまりよくないご様子なのが、気がかり。 今後も、機会があれば、注目していきたい。 ○平安神宮「京都能楽会新年奉納」 茂山千五郎 『翁』の三番三。凄い迫力があった。 金剛永謹(ひさのり) 現(26世)金剛流宗家。 観世のかたくと同じ『高砂』の住吉明神。対照的、とでもいうか。なんか、とても、現世的、地上的な神。金剛流だけに、そうだというわけではないが、たとえば、金剛力士像のような、ああいった肉体的な「力」が漲る神。かたくの方は、神威とでもいうか、肉体的な「力」ではなく、やっぱり神の「力」としか言いようがないような、そんな「力」が漲る神だった。比べると、かたくの舞は静かな舞だったが、その静かさの中にそんな力が漲り、秘められていた。きんながさんの方は、見た感じも結構激しいというか、躍動感があり、そこに肉体的な「力」が漲っていた。 この肉体的、地上的な舞は、かたくの弟さんの慶ちゃんの舞いに似ている。ただ、慶ちゃんの方は、ものやわらかでふっくらしていて、中性的。逆髪も女性と言うより、もの狂って女性を捨てた、忘れた、というような感じがした。観世で『田村』の童子を舞ったが、ふっくらした、大柄な童子を思わせた。 言ってみれば、このふたりは、パリオペラ座バレエ、って感じ。 かたくは、前にも言ったけど、マリインスキーのロパートキナとあいつうじる。 パリが『白鳥』を踊ると、アプロンがしっかりしていないから、どうも、超越性や天上指向性が表現できない。現世的で、肉体的。ということを考えると、もしかすると、姿勢の制御に関係するかも知れない。姿勢の垂直性。次からちょっと注意してみよう。そういえば、かたくの姿勢には、ブレのようなものがほとんど無いように見える。 橋本礒道 舞い囃子『嵐山』の蔵王権現。 こわいお顔をしていらっしゃいました。力強い舞だったけど、なんか、修羅もののような感じを受けた。 *** 前回、『蝉丸』を観たときは、仕舞の善し悪しというのがよくわからなかったけど、今回はなんとなく、自分の観方ができたような。要するに、オペラのアリアと同じ。ただ、上手に歌えばいい、ってもんじゃない。 なんとなく、お年を召した演者の方が、舞い以上のなにかを感じさせてくれる。 バレエで、ジャンプが高いとか回転が凄い、というのも確かにそれはそれでいいけど、でも、それだったら、床運動とか、鉄棒とか、フィギュアスケートとか、中国雑伎団とかを観てればいいわけだ(雑伎団はもっとアクロバティック)。もちろん、バレエはそういうものとは違う。 能だって同じだ。舞いもしかり。ある意味、若いと、身体任せでびゅんびゅん飛ばしちゃうのかも知れないけど、びゅんびゅん飛ばせなくなってからが、ほんとに「何か」を表せるのだろう。 仕舞とか舞い囃子は、面や衣裳でのごまかしが利かない。「馬子にも衣装」が通用しない。舞いも含めて、演者の力量、表現力というのが、あからさまに見える気がする。 こちらが観る目をもっと養えば、仕舞や舞い囃子って、一曲に匹敵するくらい面白くなるかも。
2008/01/02
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例年の如く、寄せ集めお節。塗りの板に並べるのは、それぞれの姿があって、見ていると楽しくなるから。 奥左の塗り大皿 子持ち鮎姿煮 魚善 琵琶湖の鮎。今年は、鯛の子や数の子をやめて、これに。味が以前より、上品になっていて、good。 手前塗り板 左一列から 鰊昆布巻 錦味 昆布が特においしい。 穴子八幡巻 錦味 ゴボウに穴子の旨みがしっかり沁みていて、しかもやわらかい。ゴボウを食べないと。 チーズ蒲鉾 茨木屋 たかが「チーカマ」と侮るなかれ、だ。 蕗煮 錦・平野 今年の蕗は色が渋い。 左二列 くわい煮 錦・平野 今年のくわいは、どこか、ペサックの若い白のような爽やかさがある。 鹿子真丈 錦味 これと「日の出唐墨」楽しみにしてたのに、「日の出」は今年も販売しないということ。 あかめ芋煮 錦・平野 エビ芋がなかった。 酢蓮根 錦味 奥さんのお気に入り。 中央 黒豆煮 錦・平野 いつものことながら、とてもおいしい。丹波黒豆。 金柑甘露煮 錦・平野 〆のデザート替わり。何ともいえない、あまみと柑橘の果実味の調和。 右二列 田作り 錦・平野 今年のたつくりはやや品にかける。おいしいが、どうしたのだろう? 蒲鉾 月しろ 茨木屋 ぷりぷりした食感。しかも、実際の魚以上に魚を食べたという満足感。 鱈旨煮 錦味 無いと寂しい。 右一列 手長海老煮 魚善 これも、鮎同様、上品になっていた。 飯蛸煮 錦・平野 いつみても、楽しい。 鯖姿寿司 いづう いうことなし。 小鉢 麩炊きあわせ 半兵衛麩 湯葉弥の「湯葉けんちん巻」の代わり。生麩(飾り、粟麩、蓬麩、胡麻麩)と湯葉の炊きあわせ。生麩がとても好きなので、たまらん。 右奥 大鉢 筑前炊き 自家製。奥さん鶏が好きなので、鶏、大きめ、多め。 シャンパーニュ ピエール・ジモネ ブリュット スペシャル・クラブ 1999 開栓すぐは、後味にべったりと濃厚なバター風味が残り、また、やや重め。時間がたつにつれて、バター風味もやわらぎ、軽やかに。線の太い、肉付きのよいシャンパーニュ。 ぜんざい 鳴海餅 白・蓬・豆(写真は、白) 餅米の品種に「羽二重」(お菓子の「羽二重餅」じゃなくて)ってあるが、白・豆の口当たりは、ほんとに絹のよう。ヘルシオで焼くと表面こんがり。ただし、グリルで、余熱に12分って・・・。 実は、繰り上げで、2007/12/31日から食べ始めてしまった。。。 今年は特に、1/1はかたくの予定にしていたし。
2008/01/02
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先月22日に観た『蝉丸』の かたく(片山九郎右衛門さん。かってに、うちでは「かたく」と呼んでいる) が凄かったので、また観にいくことに。 「謡初式」というのは、オペラでいえば、名場面集、というか、名アリアコンサート、ガラ・コンサートって感じ。 観世会館入り口横の坪庭 京都観世会「謡初式」。午前十時半始まり。 かたく は初っぱなの、舞囃子『高砂』。 少年(あるいは、青年)で、澄んでいて、みずみずしくはんなり、しかし、盲目のか弱さを感じた蝉丸とはうってかわって、力が漲る、矍鑠とした住吉明神に感動。 歩き方からがちがう。というか、舞が始まって立て膝から立ち上がり、歩き始めた瞬間から、背筋がぞくぞく。なにかが違う。ただ歩いているだけなのに、すでに何かが始まっている。 もともと小柄な方なのに、舞っているときは、今回は、偉大に見える。ただおおきく見えるだけではなく、なにか精神的な力、神威といったものまでが漲っている雰囲気。 舞囃子は、衣裳ではなく、紋付き袴。もちろん、面もなし。素晴らしい。 (舞台は撮影禁止なので写真はありません) 最後に、今回の「謡初式」に出演した人全員の『四海波』が終わった後、ふと思いついたみたいに階まで来て、小さな声で、ぜんぜん格式張らず、「今日はみなさん、ありがとうございました。みんな頑張っているので今後もよろしくお願いします」のような挨拶をされたが、その時は、ふつうの、ちょっと恥ずかしがりな感じの、人のよさそうなお爺さんに見えたのが、また、印象的。 全部で、舞囃子3本、仕舞8本、狂言小舞1本、祝言1本。 この中で、観てみたいと思った曲は、『吉野天人』、『小鍛治』『羽衣』。 『羽衣』はことに名手のを。これは、激しい動きがない分、それこそ歩くだけでも「天女」でなければならなくて、難しい曲だと思った。 能を観てみたいと思った人、または、気になる人は、梅田邦久、大江又三郎、片山慶次郎、杉浦元三郎、井上裕久。 片山慶次郎さんは、『蝉丸』で逆髪を。わなわな歩いていたのは、やっぱり、演出だとわかった。今回は『田村』で官人の童子を舞った。 終わったのは、午前十一時四十五分頃。 退館時に玄関ホールで振舞酒があって、その後、近いので、続けて平安神宮へ。 平安神宮「京都能楽会新年奉納」では、京都観世会「謡初式」で、『鶴亀』の仕舞をした梅田邦久さんが、『翁』を。 名古屋能楽堂を中心に活動されている人らしいが、どういう人かぜんぜん知らなかったのが、仕舞を観て何かみたいなと思ったところに、『翁』。これは、ラッキー。 平安神宮神楽殿 平安神宮神楽殿。12時半始まり。 初っぱなは、『翁』。 それにしても、『翁』という曲は、いわゆる能というものより古く、能であって能でない、とも言われているのだが、鼓のビートが、なんだか結構、今っぽい。 翁 梅田邦久さん 千歳 片山伸吾さん 三番三(さんばそう)茂山千五郎さん 全部で、能1本、舞囃子2本、仕舞4本、狂言小舞1本。 観てみたいと思った曲は、『八島』。謡が明瞭だったせいもあり、舞の所作の意味もよくわかった。舞ったのは、金剛流廣田泰能(やすよし)さん。死してなお、戦をする義経の霊。敵将平教経と「・・・打ち合ひ刺し違ふる・・・」うち、「・・・春の夜の浪より明けて、敵と見えしは群れゐる鴎、鬨の声と聞こえしは浦風なりけり。高松の浦風なりけり。高松の朝嵐とぞなりにける」。この終わり、すごくいい。 打ち合ひ刺し違ふる・・・(だったと思う。。。)
2008/01/01
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あけましておめでとうございます ということで、うちでは、年越し蕎麦の代わりに、年越し茶(茶好きもここまでくると・・・)。 夫婦ふたりむかいあって、まずは菓子を食べながら、今年のことを振り返る・・・。 ここかしこから聞こえてくる除夜の鐘の音。 鉄瓶の松籟もしみじみと。 年が明けて、「今年もよろしく」。 そして、心静かに、お茶を。。。 除夜の鐘がやむころ、今年の年越し茶もお開きになる。。。
2008/01/01
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